255 | | | 新羅を攻撃 百済の肖古即位(-朝鮮半島-朝鮮、新羅、百済)--漢直轄支配 | |
255 | | | 辰韓:秦韓、百済の侵攻するも防御する(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)-- | |
258 | | | 百済、靺鞨が使者(-朝鮮半島-朝鮮、百済、靺鞨)--漢直轄支配 | |
259 | | | 第3代加羅王麻品王[259~291](-朝鮮半島-朝鮮、加羅)--漢直轄支配 | |
259 | | | 高句麗:高句驪、魏が攻めてきたが、梁貊の谷で大いに破り、首級八千をあげた(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
260 | | | 官位を制定官人の服飾は紫、緋色、青の順と定める 百済(古爾王),十六官等と公服制定(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配 | |
260 | | | 百済(古爾王)、一六官等と公服制定(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-国史年表-漢直轄支配 | |
261 | | | 百済、新羅と和親を求めるも得られず(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配 | |
262 | | | 第13代新羅王味鄒尼師今[262~284](-朝鮮半島-朝鮮、加羅)--漢直轄支配 | |
262 | | | 辰韓:秦韓、《味鄒尼師今[13代金氏 262~284]》(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)-- | |
265 | 265年~313年:晋(植民地) | |
265 | | | 265年~313年:晋(植民地)(-朝鮮半島-朝鮮、晋)--漢直轄支配 | |
266 | | | 辰韓:秦韓、百済が烽山城を攻めるが敗走する(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)-- | |
266 | | | 新羅を攻めるも敗退(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配 | |
270 | | | 第13代高句麗王西川王[270~292](-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--漢直轄支配 | |
270 | | | 高句麗:高句驪、《西川王[270~292]》(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
278 | | | 辰韓:秦韓、百済が侵入してきて槐谷城を包囲したが、撃退した(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)-- | |
279 | | | 百済の仇首即位(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配 | |
280 | | | 高句麗:高句驪、粛慎が侵攻してきて辺境の住民を殺害したので、討伐(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
283 | | | 辰韓:秦韓、百済が攻め入り、槐谷城を包囲したが、防御する(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)-- | |
284 | | | 辰韓:秦韓、《儒礼尼師今[284~298]》(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)-- | |
286 | | | 辰韓:秦韓、百済が講和を求めて使者を送ってくる(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)-- | |
286 | | | 第8代百済王責稽王[286~298] 新羅と和親を求める 責稽王即位セキケイ(青稽、古尓王の子)帯方の王妃を妃とする 高句麗の帯方攻撃に対して援軍(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配 | |
287 | | | 新羅、夏四月に倭人が一礼部を襲う。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅、倭)--漢直轄支配 | |
287 | | | 辰韓:秦韓、倭人が一礼部に来たり、集落に放火して周り、1千人を捕虜にして立ち去った(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)-- | |
289 | | | 新羅、夏五月に、倭兵が攻めてくるということを聞いて、戦船を修理し、鎧と武器を修理した。 百済の古爾即位 百済の沙伴即位(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配 | |
291 | | | 第4代加羅王居叱弥王[291~346](-朝鮮半島-朝鮮、加羅)--漢直轄支配 | |
292 | | | 第14代高句麗王烽上王[292~300] 新羅、夏六月に倭兵が沙道城を攻め落とす。(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--漢直轄支配 | |
292 | | | 高句麗:高句驪、《烽上王[292~300]》(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
292 | | | 辰韓:秦韓、倭兵が沙道城を陥落させようとしたので一吉?の大谷に命じて救援させた(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)-- | |
293 | | | 高句麗:高句驪、鮮卑の侵攻を受けるも打ち負かす(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
294 | | | 新羅、夏倭兵が長峯城を攻めて来た。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅、倭)--漢直轄支配 | |
294 | | | 辰韓:秦韓、倭兵が長峯城を攻めたが、勝てなかった(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)-- | |
295 | | | 新羅、春王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」ときいた。これに対して、舒弗邯、弘権が「われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。いわんや百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配 | |
296 | | | 高句麗:高句驪、鮮卑再び侵攻するも退却(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
297 | | | 辰韓:秦韓、伊西国に攻められ首都金城を包囲されるが、竹葉軍の助力を得てこれを退却させる(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)-- | |
298 | | | 辰韓:秦韓、《基臨尼師今[298~310]》(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)-- | |
298 | | | 第15代新羅王基臨尼師今[298~310] 第9代百済王汾西王[298~304] 漢が貊人とともに侵入責稽王戦死 汾西王即位フンセイ(責稽王の長男)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配 | |
300 | | | :3世紀頃三国時代-1世紀中頃には漢の支配が弱まり、-37年に中国の遼寧省付近に伝説の人物朱蒙(しゅもう)が高句麗(こうくり、こま)を建国した。高句麗は次第に四方に勢力を延ばし、楽浪郡や帯方郡を滅ぼした。391年に即位した広開土王(好太王)は遼東に勢力を伸ばし、満州南部から朝鮮半島の大半を領土とした。半島南部では、3世紀頃に三韓(馬韓、辰韓、弁韓)と呼ばれる国が分立し、楽浪郡の支配を受けていた。4世紀中には馬韓を百済(くだら)が、辰韓を新羅(しらぎ)が統一して、朝鮮半島の三国時代が始まった。三国は激しく争い、新羅は他の二国に圧迫されていた。4世紀中頃には日本が弁韓に進出し、任那(みまな:伽耶(かや)とも言う)を支配した。中国を統一した隋は、4度の高句麗遠征に失敗して滅び、次の唐も高句麗遠征に失敗した。新羅は唐との関係を強化し、唐・新羅連合軍は660年に百済を滅し、663年には百済の遺臣とそれを支援する倭国軍(指導者は後の天智天皇の中大兄皇子)を白村江で破った。そして668年には、残った高句麗を滅し、新羅が朝鮮半島を統一した。新羅は仏教を保護し、民衆の生活も豊かになった。(-朝鮮半島-三韓、朝鮮)--朝鮮三国時代 | |
300 | | | 第15代高句麗王美川王[300~331] 新羅、春正月に、倭国と使者を派遣し合った。(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--漢直轄支配 | |
300 | | | 高句麗:高句驪、《美川王[300~331]》(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
300 | | | 辰韓:秦韓、倭国と使者を交わし、楽浪・帯方の2国が帰服してくる(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)-- | |
302 | | | 高句麗:高句驪、三万の軍隊を率いて玄菟郡に侵入し、捕虜八千人を得て平壌に移住させた(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
304 | | | 第10代百済王比流王[304~344] 楽浪を攻撃するも楽浪の刺客により汾西王殺される 比流王即位ヒリュウ(仇首王の第2子)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配 | |
307 | | | 辰韓:秦韓、国号を新羅に戻す(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)-- | |
308 | | | 百済、日食(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配 | |
310 | | | 辰韓:秦韓、《訖解尼師今[310~356]》(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)-- | |
311 | | | 高句麗:高句驪、遼東郡の西安平を襲撃して奪い取る(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
312 | | | 新羅、春三月に、倭国の国王が使臣をつかわして、息子のために求婚したので、王は阿?の急利の娘を倭国に送った。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--漢直轄支配 | |
312 | | | 辰韓:秦韓、倭国王に通婚のための急利の娘を嫁として送る(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)-- | |
313 | | | 高句麗,楽浪郡滅亡させる 漢が、半島北部に設置して支配下においた楽浪など4郡が、高句麗によって、滅ぼされる。これにより、漢からの支配を追放することになる。
高句麗による楽浪郡の滅亡 紀元前108年に衛氏朝鮮が魏に滅ぼされると朝鮮半島の大部分は長きに渡る中国勢力からの支配を受けることになります。前漢→後漢→魏→晋へと。そんな中、北から朝鮮半島へと勢力拡大を狙う国がありました。中国東北地方から出たツングース系貊族が建てた高句麗です。この高句麗により313年、中国勢力の拠点であった楽浪郡が滅ぼされます。この頃は、中国の晋が滅亡する前後のことですね。さらに、帯方郡も滅ぼされ(高句麗によって滅ぼされたとする書と朝鮮の土着の勢力によって併合されたとする書がある)、これにより朝鮮半島から中国勢力が駆逐されることになります。さぁ、中国勢力を追い出した高句麗は、どんどん南へと勢力拡大を狙います。この頃の朝鮮半島南部は小さな国々が集まり、馬韓(ばかん)、辰韓(しんかん)、弁韓(べんかん)といういわゆる三韓が小国国家郡をつくっていましたが、高句麗の脅威もあり統一の機運が高まります。そして、馬韓が統一され建てられた国家が百済に。辰韓が統一されてできた国が新羅となりました。ちなみに、弁韓の地は統合がうまく進まず、加羅諸国となりますが、後に百済、新羅に統合されます。これで、高句麗も簡単には朝鮮統一とはいかなくなります。そう朝鮮史上に残る「三国時代」の始まりです。(-朝鮮半島-高句麗、前漢:楽浪郡、朝鮮)--漢直轄支配→朝鮮三国時代 | |
313 | 漢直轄支配→三国時代[313-676] | |
313 | | | 高句麗、楽浪郡を滅亡させる(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-国史年表-漢直轄支配→朝鮮三国時代 | |
313 | | | 三国時代 高句麗・百済・新羅が戦争を繰り返した。(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--漢直轄支配→朝鮮三国時代 | |
313 | | | 高句麗、楽浪郡を滅ぼす。新羅、百済の建国(高句麗-朝鮮半島-朝鮮、高句麗、新羅、百済)--漢直轄支配→朝鮮三国時代 | |
313 | | | 高句麗:高句驪、楽浪郡に侵入してこれを滅ぼす(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗、百済)-総合年表(北・東・東南アジア)- | |
313 | | | 中国の漢が、半島北部に設置して支配下においた楽浪など4郡が、高句麗によって、滅ぼされる。これにより、中国からの支配を追放することになる。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--漢直轄支配→朝鮮三国時代 | |
314 | | | 高句麗,帯方郡を亡ぼす(中国の郡県支配終わる)(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代 | |
314 | 314年~676年:晋宋梁陳隋唐(属国) | |
315 | | | 高句麗:高句驪、玄菟城を攻め、勝利する(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
315 | | | 百済の責稽即位(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
320 | | | 高句麗:高句驪、遼東に侵略を試み、慕容仁に撃ち破られる(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
321 | | | 百済の汾西即位(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
324 | | | 百済の比流即位(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
330 | | | 高句麗:高句驪、後趙のもとに朝貢(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
331 | | | 高句麗、《故国原王[331~371]》(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
331 | | | 第16代高句麗王故国原王[331~371] 百済、大飢饉、人を殺して食べる(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
334 | | | 高句麗、鮮卑への備えとして平壌城を増築(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
334 | | | 百済、契王即位ケイ(汾西王の長男)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
335 | | | 高句麗、国の北部に新城を築く(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
335 | | | 百済、日食(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
337 | | | 新羅の使者(-朝鮮半島-朝鮮、新羅、百済)--朝鮮三国時代 | |
337 | | | 辰韓:秦韓、国交を開くため百済に使者を送る(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)-- | |
339 | | | 高句麗、前燕の慕容?に攻め入られて和睦を乞い、翌年より前燕に対して朝貢する(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
342 | | | 高句麗、丸都城(山城)を修復し、国内城(平城)を築城し、居所を平壌から移して鮮卑の侵攻に備えた 前燕の慕容?は大挙して高句麗に攻め入り、故国原王は単身で東方に逃れる(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
343 | | | 高句麗、前燕の臣下となることを誓う(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
344 | | | 第11代百済王契王[344~346] 新羅、倭国が使者をつかわして、婚姻を請うたが、すでに以前に女子を嫁がせたことがあるので断った。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅、百済)--朝鮮三国時代 | |
345 | | | 辰韓:秦韓、倭国と国交断絶(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)-- | |
345 | | | 新羅、二月に倭王が、書を送って国交を断ってきた。 百済の契即位(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
346 | | | 「百済」建国朝鮮半島に百済興る。(-朝鮮半島-、朝鮮)-- | |
346 | | | 倭兵・新羅の風島を襲い、進んで王城を囲む(三国志記)(古墳時代-朝鮮半島-朝鮮、新羅、日本)--朝鮮三国時代 | |
346 | | | 辰韓:秦韓、倭国が風島を襲撃してくるが倭軍を追撃して敗走させた(-朝鮮半島-朝鮮、辰韓)-- | |
346 | '■前期漢城時期(?475年) 中国が五胡十六国の時代' | |
346 | | 百済の建国(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
346 | | | 朝鮮半島南部に百済建国(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
346 | | | 第12代百済王近肖古王[346~375] 第5代加羅王伊尸品王[346~407] 近肖古王の即位。(注:ただし、近肖古王は、第13代の王とされている。)近肖古王の代に、博士高興が文字の記録を始めた。(百済)(百済) 近肖古王即位キンショウコ(句、比流王の第2子) 新羅、倭兵が風島に来て、進んで金城を包囲して攻めて来た。 中国が五胡十六国の時代 百済,近肖古王即位 百済の照古即位 ■前期漢城時期(?475年) ソウル夢村土城跡 夢村土城の土塁跡(ソウル)中国の史料の上でも「百済」の存在が明確になるのは、第13代の近肖古王[346年即位)から。この頃の百済の都「漢城」は、ソウルの南、風納土城、夢村土城(現在のオリンピック公園)と考えられています。 近肖古王の時、拡大を続ける高句麗に対抗、百済は平壌まで攻め入り、故国原王を討ち取るものの、のちの高句麗の広開土王に反撃され、そのため、新羅、日本(倭国)と同盟を結ぶようにもなりました。 しかし、475年、高句麗・長寿王に攻め入られ、ついに首都・漢城は落城、時の第21代蓋鹵王は捕らえられ、討死しました。 346年、近肖古王の即位。 近肖古王の代に、博士高興が文字の記録を始めた。 百済の建国 346年ころ百済の建国朝鮮半島の南西部にあった馬韓の一小国であった伯済(はくさい・ペクジェ)が、周囲の小国を統合して支配下に置き、慰礼城(いれいじょう・現在の京畿道広州郡・後に漢山城へ移る)を都として、百済(くだら・ペクジェ)に発展した。伯済の国名は「魏志」韓伝に見え、百済の国名がはじめて現れるのは「晋書」の帝紀咸安二年[372年)正月の条で、このとき百済の近肖古王が東晋に朝貢している。346年は、近肖古王の即位の年である。(注:ただし、近肖古王は、第13代の王とされている。)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
346 | | | 百済、建国。 百済(346ー660]百済は三国時代の古代国家のひとつで、-18年からAD660年まで国を守りました。高句麗の王族である温祚が韓半島の西南部に建国しました。洗練された発展した文化が花開き、特に日本に多くの影響を与えました。AD660年に新羅と唐の連合軍により滅ぼされました。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
346 | | | 346年ころ百済の建国 朝鮮半島の南西部にあった馬韓の一小国であった伯済(はくさい・ペクジェ)が、周囲の小国を統合して支配下に置き、慰礼城(いれいじょう・現在の京畿道広州郡・後に漢山城へ移る)を都として、百済(くだら・ペクジェ)に発展した。 伯済の国名は「魏志」韓伝に見え、百済の国名がはじめて現れるのは「晋書」の帝紀咸安二年(372年)正月の条で、このとき百済の近肖古王が東晋に朝貢している。 346年は、近肖古王の即位の年である。(注:ただし、近肖古王は、第13代の王とされている。)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
346 | | | ■前期 漢城時期( ? 475年)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-- | |
346 | | | 中国が五胡十六国の時代(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
346 | | | 百済の照古即位(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
346 | | | 百済、近肖古王即位キンショウコ(句、比流王の第2子)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-- | |
346 | | | 346年、近肖古王の即位。 近肖古王の代に、博士高興が文字の記録を始めた。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
346 | | | 百済、《近肖古王即位》 百済のもとは、馬韓の伯済国で漢江下流域(現、ソウルの江南地区)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-- | |
| | | ■前期 漢城時期( ? 475年) ソウル 夢村土城跡 夢村土城の土塁跡(ソウル) 中国の史料の上でも「百済」の存在が明確になるのは、第13代の近肖古王(346年即位)から。この頃の百済の都「漢城」は、ソウルの南、風納土城、夢村土城(現在のオリンピック公園)と考えられています。 近肖古王の時、拡大を続ける高句麗に対抗、百済は平壌まで攻め入り、故国原王を討ち取るものの、のちの高句麗の広開土王に反撃され、そのため、新羅、日本(倭国)と同盟を結ぶようにもなりました。 しかし、475年、高句麗・長寿王に攻め入られ、ついに首都・漢城は落城、時の第21代蓋鹵王は捕らえられ、討死しました。 | |
350 | | 朝鮮に高句麗・百済・新羅の三国が成立(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗・百済・新羅)--朝鮮三国時代 | |
356 | | | 「新羅」、建国朝鮮半島で新羅が建国。(-朝鮮半島-、朝鮮)-- | |
356 | | | 新羅、第17代新羅王奈勿尼師今[356~402](-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
356 | | 新羅の建国(新羅-朝鮮半島-朝鮮、新羅、百済)--朝鮮三国時代 | |
356 | | | 朝鮮半島南部に新羅建国(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
364 | | | 新羅、倭の侵入に不意討ちをかけて敗走させる(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
364 | | | 百済再建(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
364 | | | 百済再建 漢江付近はこの当時倭国の領域であった。しかしながら、大和朝廷の施政権はほとんど及んでおらず、ほとんど未開地のような情勢であったと思われる。百済としては、まだどこにも所属していないと思い、新しい国として百済再建を諮った。 周辺がほとんど未開の地であるために、少しずつ領土を拡張していった。その中でこの地が倭国領であることを知ったと思われる。 百済王としては、倭国が巨大な領域を占めており、かなりの強国であるという噂を知り、このままこの地を領有していると、何れ倭国と交戦しなければならなくなり、存亡の危機にかかわることになりかねないので、倭国王との接触を図ろうとしたと思われる。 その関連記事が神功皇后44年及び46年の記事であろうと思われる。 神功44年百済王は、卓淳旱岐のもとへ、日本へ渡る道を知っているか三人の使者を送った。 神功46年斯摩宿禰を卓淳國に遣す。百済との交流が始まる。 神功44年は364年である。百済が建国後200年も倭国の存在を知らないなど考えにくいことであり、この記事は神功皇后ではなく卑弥呼の時代のものと考える。神功44年は中国干支で甲子である。この干支がこの当時の半年一年干支の間違いであるとすれば、同じ甲子となるのはAD204年後半である。よって、卓淳國で使者を送ったのは204年、百済との交流が始まったのは205年となる。 新羅、倭人は多数をたのんで、そのまま直進して来る所を伏兵が起ってその不意を討つと、倭人は大いに敗れて逃走した。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
366 | | | 百済、新羅に使者(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
367 | | | 百済と新羅がともに初めて日本に朝貢した。(「日本書紀」の神功皇后47年の条)(注:もっと後代とする説もある。)(百済)(-朝鮮半島-朝鮮、百済、新羅)--朝鮮三国時代 | |
368 | | | 百済、日食 新羅に使者(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
369 | | | 高句麗、2万の軍隊を率いて百済を攻めたが、雉壌の地で大敗する(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
369 | | | 百済、高句麗が侵入 百済軍の軍旗に黄色を用いる(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
369 | | | 百済、高句麗、百済を攻め雉壌の戦いで敗北する(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-- | |
369 | | | 倭、朝鮮に出兵し、加耶諸国(任那)(半島南部)を支配下に置く(古墳時代-朝鮮半島-倭国(漢書)、日本、朝鮮)-- | |
371 | | | 高句麗、百済の近肖古王が兵3万を率いて高句麗に攻め込み、流れ矢に当たり戦死 《小獣林王[371~384]》 小獣林王はひたすらに国力の回復に努めた(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
371 | | | 第17代高句麗王小獣林王[371~384] 近肖古王,高句麗の平壌城を攻撃.故国原王戦死 高句麗が侵入百済軍は平壌城を攻撃、高句麗王が戦死 高句麗の平壌城をせめて占拠した。このとき、高句麗の古国原王は流れ矢にあたって戦死した。(注:高句麗が百済を攻めてきて、これを撃破したとする文献もある。)(百済)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
371 | | | 百済、高句麗が侵入 百済軍は平壌城を攻撃、高句麗王が戦死(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
371 | | | 371年、高句麗の平壌城をせめて占拠した。このとき、高句麗の古国原王は流れ矢にあたって戦死した。(注:高句麗が百済を攻めてきて、これを撃破したとする文献もある。)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-- | |
371 | | | 百済、高句麗の平壌城を攻め、高句麗故国原王戦死(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-- | |
371 | | | このころ朝鮮で百済が漢山を都とし、国家体制を整える(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-総合年表(北・東・東南アジア)- | |
372 | | | 高句麗、仏教伝来、大学設置(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-国史年表-朝鮮三国時代 | |
372 | | | 高句麗、前秦の苻堅から派遣された仏僧順道を受け入れる 太学をたてて儒教による教育を推し進める(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
372 | | | 仏教が高句麗に伝わる(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-総合年表(北・東・東南アジア)- | |
372 | | | 慰礼城から漢山城(現在の京畿道広州郡・慰礼城と約6.5kmしか離れていない)へ遷都した。 高句麗,仏教伝来,太学設置.漢学を教える 高句麗、仏教の伝来。 晋に朝貢(晋書に為鎮東将軍領楽浪太守とあり) 東晋へ朝貢。百済王余句(近肖古王)が鎮東将軍領楽浪太守の号を授けられる。 百済王と世子(太子)が日本へ使節を送り「七支刀(しちしとう)」を倭王に贈った。(「日本書紀」の神功皇后52年の条)(石神神社七支刀369製作) 百済,東晋に使節を送る(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
372 | | | 百済、晋に朝貢(晋書に為鎮東将軍領楽浪太守とあり)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
372 | | | 372年、東晋へ朝貢。百済王余句(近肖古王)が鎮東将軍領楽浪太守の号を授けられる。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
372 | | | 慰礼城から漢山城(現在の京畿道広州郡・慰礼城と約6.5kmしか離れていない)へ遷都した。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
372 | | | 百済、東晋、百済王余句(近肖古王)を鎮東将軍領楽浪太守にする(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-- | |
372 | | | 百済、東晋に使節を送る(-朝鮮半島-朝鮮、百済、東晋)-国史年表-朝鮮三国時代 | |
372 | | | 372年、日本へ使節を送り「七支刀(しちしとう)」を贈った。(「日本書紀」の神功皇后52年の条)(-朝鮮半島-朝鮮、百済、倭国)--朝鮮三国時代 | |
372 | | | 七支刀百済王が倭国に七支刀を送った。 百済王世子から七支刀が贈られる(-朝鮮半島-朝鮮、百済、倭国)-- | |
372 | | | 百済の肖古王、倭国に七枝刀1口、七子鏡1面おくる。「泰和4年」(369年)の紀年銘を持つ奈良県天理市の石上神宮の七支刀がこれにあたる。(-朝鮮半島-朝鮮、百済、倭国)-- | |
373 | | | 高句麗、律令をはじめて頒布(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
375 | | | 高句麗、肖門寺を創建してこれを置き、後れて高句麗に入った仏僧阿道のためには伊弗蘭寺を創建した(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
375 | | | 第13代百済王近仇首王[375~384] 近仇首王即位キンキュウシュ(須、近肖古王の子) 百済、高句麗侵入 (注記にこの時代に文字を得て事を記すようになったとある) 百済の貴須即位(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
377 | | | 高句麗、前秦へ朝貢(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
377 | | | 新羅、高句麗に随伴して前秦に初めて新羅が朝貢した(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
377 | | | 高句麗の平壌城を攻撃北朝の前秦へも朝貢。(百済) 晋に朝貢 仏僧が晋から渡来(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
378 | | | 高句麗、契丹の侵略を受けて8部落を奪われる(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
382 | | | 新羅、前秦に新羅王楼寒の朝貢(新羅の前身が辰韓の斯盧国であることを前秦に述べた)(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
382 | | | 新羅の奈勿王、前秦に遣使(-朝鮮半島-朝鮮、新羅、前秦)-総合年表(北・東・東南アジア)- | |
384 | | | 高句麗、《故国壌王[384~392]》 教書を出して仏教信仰の拡大を後押しした(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
384 | | | 百済、仏教の伝来。 第14代百済王枕流王[384~385] 第18代高句麗王故国壌王[384~392] 西域の僧侶摩羅難?(まらなんだ)が東晋を経て百済に渡り仏教を伝える。 百済,仏教伝来(東晋の僧・摩羅難陀).中央集権化の手段として公認 百済の枕流即位 枕流王即位チンリュウ(近仇首王の子) 晋に朝貢仏僧が晋から渡来(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
384 | | | 百済、仏教伝来(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-国史年表-朝鮮三国時代 | |
384 | | | 百済の枕流即位(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
384 | | | 枕流王即位チンリュウ(近仇首王の子) 晋に朝貢 仏僧が晋から渡来(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
384 | | | 384年、西域の僧侶摩羅難?(まらなんだ)が東晋を経て百済に渡り仏教を伝える。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-- | |
384 | | | 百済、晋から百済に仏教伝来(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-- | |
385 | | | 第15代百済王辰斯王[385~392] 辰斯王即位シンシ(枕流王の弟) 百済の辰斯即位 仏寺を創建(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
385 | | | 百済の辰斯即位(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
385 | | | 百済、仏寺を創建(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
386 | | | 百済、高句麗が侵入(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
387 | | | 東晋から、百済の太子余暉が使持節都督鎮東将軍百済王の号を授けられる。 百済、靺鞨が侵入(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
389 | | | 高句麗を攻撃(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
390 | | | 高句麗、百済の侵攻により、都押城(平壌市中和郡)を破られるなど、劣勢に陥いる(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
391 | | | 高句麗の広開土王(好太王)即位(~412)(高句麗-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-総合年表(北・東・東南アジア)-朝鮮三国時代 | |
391 | | | 高句麗、《広開土王(好太王:391~412]》(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
391 | | | 高句麗、広開土王即位。 高句麗、そもそも新羅・百残(百済の蔑称か?)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が■を渡り百残・■■・新羅を破り、臣民となしてしまった。 高句麗の広開土王(好太王)即位(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
391 | | | 倭が海を渡り百済などを打ち破って臣下とした。(広開土王碑の碑文から)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
391 | | | 百済、靺鞨が侵入(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
391 | | | 倭軍、百済・新羅を破り、臣民とする。(「高句麗広開土王碑」)(-朝鮮半島-朝鮮、百済・新羅、倭)-- | |
391 | | | 倭兵、朝鮮半島に出兵し、百済・新羅を破り高句麗と交戦(~404]したが朝鮮半島から撤退(古墳時代-朝鮮半島-朝鮮、百済、日本:倭)--朝鮮三国時代 | |
391 | | | 倭が朝鮮半島(南部)の百済(くだら)、加羅(から)、新羅(しんら)を臣民とする(好太王碑-こうたいおうひ)(古墳時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)-- | |
391 | | | 倭国朝鮮出兵 倭国が朝鮮に出兵する 【好太王の碑文より】この後、15代応神天皇が即位したいう説もあります。(394)(-朝鮮半島-日本、朝鮮)-- | |
391 | | | 倭兵、海を渡り百済・新羅を破って臣民とする(好太王碑文)(古墳時代-朝鮮半島-百済、朝鮮、新羅、日本:倭)--朝鮮三国時代 | |
391 | | | 倭の朝鮮出兵(古墳時代-朝鮮半島-倭国(漢書)、日本、朝鮮)-- | |
392 | | | 第19代高句麗王廣開土王[392~413](-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代 | |
392 | | | 高句麗、新羅と友好関係をむすぶ 百済の石硯城を含めた10城を奪取し、関彌城を陥落させる 北方の契丹を征伐し、男女500人を捕らえ捕虜となっていた高句麗人1万人を連れ戻す(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
392 | | | 新羅、高句麗から王族である実聖を人質として送ってくる(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
392 | | | 第16代百済王阿芳王[392~405](-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
392 | | | 百済、阿シン王即位アシン(草冠+辛、阿芳、枕流王の子)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
392 | | | 百済、日食 高句麗の広開土王が侵入多くの領土を奪われる(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
392 | | | 百済の阿辛(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
392 | | | 百済、高句麗、百済北部を攻め、十余城を落とす(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-- | |
393 | | | 高句麗、平壌に9寺を創建して、仏教を奨励(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
393 | | | 新羅、倭軍を大敗(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
393 | | | 新羅、倭人が来て金城を包囲し、5日も解かなかった。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅、倭)--朝鮮三国時代 | |
394 | | | 高句麗、水谷城を築く(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
395 | | | 高句麗、侵攻して来た百済軍を撃破して、百済との接境に7城を築いて防備を強化した(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
395 | | | 高句麗の広開土王と戦うも大敗する(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
396 | | | 高句麗、漢江を越えて進撃して百済の58城700村を攻略し、百済王に隷属することを誓わせる(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
396 | | | 高句麗,百済を服従させる 高句麗の広開土王が、平壌城を奪い返す。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
396 | | | 高句麗の広開土王が、平壌城を奪い返す。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
396 | | | 百済、高句麗、百済を撃ち、58城を奪い、百済王弟を人質とする(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-- | |
397 | | | 高句麗、[倭が新羅の王都を攻める](-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
397 | | | 倭と結んで高句麗と戦うため、百済の太子腆支を倭国へ送る。 倭国と国交を結び王子の腆支を人質とする(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
397 | | | 百済、倭国と通好し、太子を人質とする(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-- | |
399 | | | 高句麗、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平譲にでむいた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。 高句麗攻撃のための徴発により人々が新羅に逃げる(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
399 | | | 高句麗攻撃のための徴発により人々が新羅に逃げる(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
399 | | | 百済、倭と結び、倭兵、新羅国境に満ちる。(好太王碑文)(古墳時代-朝鮮半島-朝鮮、百済、日本:倭)--朝鮮三国時代 | |
400 | | | 高句麗、南部に出兵して倭を討つ。(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代 | |
400 | | | 高句麗、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代 | |
400 | | | 高句麗、歩騎五万を新羅に派遣して倭軍を撃破し、任那加羅(金官加羅・駕洛国)まで追撃する 後燕が侵攻してくると、遼東城(遼寧省遼陽地級市)を含めた遼河東岸地域を占領(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
400 | | | 倭軍、帯方郡で高句羅…古代朝鮮三国の一つに敗北[404](古墳時代-朝鮮半島-朝鮮、高句麗、日本:倭)--朝鮮三国時代 | |
400 | | | 高句麗、倭軍を撃退する。(「高句麗広開土王碑」)(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗、倭)-- | |
400 | | | 倭の五王(讃、珍、済、興、武)、南朝の宋に使いを送る(古墳時代-朝鮮半島-朝鮮、日本:倭)--朝鮮三国時代 | |
400 | | | 百済、日食(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
400 | | 百済 4世紀前半頃 - 660年(-朝鮮半島-百済、朝鮮)-消滅した政権一覧- | |
400 | | | 倭が朝鮮半島(北部)の高句麗(こうくり)、新羅(しらぎ)と戦う[400頃](古墳時代-朝鮮半島-倭国(漢書)、日本、朝鮮)-- | |
402 | | | 倭兵、新羅、任那で高句麗と戦う。(好太王碑文)(古墳時代-朝鮮半島-朝鮮、高句麗、日本:倭)--朝鮮三国時代 | |
402 | | | 新羅、《実聖尼師今[402~417]》 倭国と国交を結び、先王の第3子の未斯欣を人質として送った(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
402 | | | 新羅、三月に倭国と通好して、奈勿王の子、未斯欣を人質として倭に送った。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅、倭)--朝鮮三国時代 | |
402 | | | 百済から倭国へ使者を送る。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
402 | | | 百済、倭国に使者を送り大珠を求む(大珠の意不明)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
402 | | | 402年、百済から倭国へ使者を送る。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
403 | | | 新羅、百済からも侵入を受ける(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
403 | | | 倭国から百済へ使者を送る。 百済、倭国の使者を特に手厚くねぎらう 人質となっていたとき枕流王が死去、弟を殺した末弟が王となったために乞うて 倭国の護衛により海中の島にて待機してのち王となる(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
404 | | | 高句麗、倭軍の水軍が帯方界に侵入するも、撃退(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
404 | | | 高句麗、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。 倭軍が帯方界(現在の黄海道)まで進出する。(広開土王碑の碑文から)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
404 | | | 404年、倭軍が帯方界(現在の黄海道)まで進出する。(広開土王碑の碑文から)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-- | |
405 | | | 新羅、倭国に明活城に攻め入られが、退却しようとする倭軍を撃破(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
405 | | | 新羅、倭兵が明活城を攻める。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅、倭)--朝鮮三国時代 | |
405 | | | 百済,阿直岐・博士王仁など日本に渡り漢学伝える(-朝鮮半島-朝鮮、新羅、倭)--朝鮮三国時代 | |
405 | | | 百済、日本に漢学伝える(-朝鮮半島-朝鮮、朝鮮:百済)-国史年表-朝鮮三国時代 | |
405 | | | 第17代百済王腆支王[405~420](-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
405 | | | 百済の阿?王が死去したので、倭国へ送られていた太子腆支が帰国を許され倭人を伴って国境まで来ると、都の解注という者が報告して言うには、「太子の弟の訓解(くんかい)が摂政をして太子の帰りを待つ間に、末弟の?礼(せつれい)が訓解を殺して王となっている。太子は軽々しく入国しないでください。」という。そこで、太子は倭人とともに島にたてこもり、その間に貴族たちが?礼を殺し、太子を迎え入れて腆支王となった。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
405 | | | 百済の直支(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
405 | | | 百済阿花王が薨る。天皇は直支王を召して国に帰り王位を嗣ぐようにいい、東韓の地を賜った。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
405 | | | 百済、腆支王即位テンシ(直支、映、枕流王の子) 人質となっていたとき枕流王が死去、弟を殺した末弟が王となったために乞うて 倭国の護衛により海中の島にて待機してのち王となる(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
405 | | | 405年、百済の阿?王が死去したので、倭国へ送られていた太子腆支が帰国を許され倭人を伴って国境まで来ると、都の解注という者が報告して言うには、「太子の弟の訓解(くんかい)が摂政をして太子の帰りを待つ間に、末弟の?礼(せつれい)が訓解を殺して王となっている。太子は軽々しく入国しないでください。」という。そこで、太子は倭人とともに島にたてこもり、その間に貴族たちが?礼を殺し、太子を迎え入れて腆支王となった。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-- | |
406 | | | 百済、晋に朝貢(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
407 | | | 第6代加羅王坐知王[407~421](-朝鮮半島-朝鮮、加羅)--朝鮮三国時代 | |
407 | | | 高句麗、百済を攻撃して6城を攻略する(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
407 | | | 新羅、倭国の侵入を受ける(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
407 | | | 新羅、春三月倭人が東辺を侵し、夏六月にまた南辺を攻める。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅、倭)--朝鮮三国時代 | |
408 | | | 新羅、春二月、王は、倭人が対馬島に軍営を設置し、兵器・武具・資財・食糧を貯え、我が国を襲撃することを企てているとの情報を手に入れた。倭兵が出動する前に、精兵を選んで兵站をしようと考えたが、舒弗邯の未斯品曰く「兵は凶器であり戦は危険な事です。ましてや大海を渡って他国を討伐し、万が一に勝つことができなければ、後で悔やんでも仕方ありません」王はこの意見に従った。(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、新羅、倭)-対馬-朝鮮三国時代 | |
409 | | | 倭国の使者が夜明珠を送る厚く礼遇する(夜明珠の意不明)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
410 | | | 高句麗、東扶余を屈服させる(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
412 | | | 新羅、高句麗に対して先王の第2子の卜好を人質として送る(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
413 | | | 第20代高句麗王長寿王[413~491](-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代 | |
413 | | | 高句麗、《長寿王[413~491]》(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
413 | | | 倭の五王の時代
中国の史書に266年から倭国の関係記事が見えなかったが、約1世紀半もたって、5世紀の初めの413年(東晋・義熙9]に倭国が貢ぎ物を献じたことが『晋書』安帝紀に記されている。421年(宋・永初2年)に『宋書』倭国伝に「倭王の讃」の記事が見える。これ以後、倭王に関する記事が中国史書に散見されるようになり、讃以下、珍・済・興・武と続いている。これが「倭の五王」である。倭の五王は、日本書紀に見える天皇に比定されており、必ずしも比定は定まっていないが、例えば倭王武は雄略天皇と見られている。武が中国皇帝に上表した文書には、先祖代々から苦労して倭の国土を統一した事績が記されている。埼玉県行田市稲荷山古墳から出土した鉄剣銘や熊本県玉名市江田船山古墳から出土した大刀銘から雄略天皇の治世の一端が分かる。「杖刀人(じょうとうじん)」「典曹人(てんそうじん)」とあることから、まだ「部(べ)」の制度が5世紀末には成立していなかった。島根県松江市岡田山古墳から出土の鉄刀銘「額田部臣(ぬかたべのおみ)」からは、6世紀の中頃には部民制の施行を知ることが出来る。また、大臣・大連の制度ができ、大臣には平群(へぐり)氏、大連には大伴氏・物部氏が選ばれた。氏と姓の制度がある程度成立していたとされている。
4世紀後半から5世紀にかけて、倭軍が朝鮮半島の百済・新羅や高句麗と戦ったことが「高句麗広開土王碑(こうかいどおうひ)」文にみえる。この時、筑紫の国造磐井が新羅と通じ、周辺諸国を動員して倭軍の侵攻を阻もうとしたと日本書紀にみえ、磐井の乱[527年)として扱っている。これは、度重なる朝鮮半島への出兵の軍事的・経済的負担が重くのしかかって反乱となったと考えられる。(-朝鮮半島-日本、朝鮮)-- | |
414 | | | 高句麗、首都の国内城(現在の中国吉林省集安市東郊)に父の事績を記した碑文(広開土王碑)を建造(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
414 | | | 高句麗、広開土王牌(好太王)碑建立。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
414 | | | 高句麗の広開土王(好太王)碑たつ。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-- | |
414 | | | 広開土王碑(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-- | |
415 | | | 新羅、倭軍と風島(未詳)で戦って、倭軍を退けた(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
416 | | | 東晋から、百済王余映(腆支王)が同様に鎮東将軍百済王の号を授けられる。 東晋の使者が王を鎮東将軍百済王とする(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
417 | | | 第19代新羅王訥祇麻立干[417~458](-朝鮮半島-朝鮮、加羅)--朝鮮三国時代 | |
417 | | | 新羅、《訥祇麻立干[417~458]》(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
418 | | | 新羅、高句麗と倭国への人質が逃げ帰った。(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代 | |
418 | | | 百済、倭国に白綿を送る(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
419 | | | 百済、日食(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-- | |
420 | | | 第18代百済王久尓王[420~427](-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
420 | | | 百済、久尓辛王即位クニシン(腆支王の長男)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
420 | | | 宋から、百済王余映が使持節都督百済諸軍事鎮東大将軍百済王の号を授けられる。 「宋書」東夷百済国伝に、高句麗がほぼ遼東郡を支配し、百済が遼西郡をほぼ支配した、との記述がある。一見不自然であるが、百済は海上交通の技術に優れ、一時的に遼西郡を侵略したのではないかという。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
420 | | | 420年、宋から、百済王余映が使持節都督百済諸軍事鎮東大将軍百済王の号を授けられる。 「宋書」東夷百済国伝に、高句麗がほぼ遼東郡を支配し、百済が遼西郡をほぼ支配した、との記述がある。一見不自然であるが、百済は海上交通の技術に優れ、一時的に遼西郡を侵略したのではないかという。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-- | |
421 | | | 第7代加羅王吹希王[421~451](-朝鮮半島-朝鮮、加羅)--朝鮮三国時代 | |
427 | | | 高句麗、平壌遷都。(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代 | |
427 | | | 高句麗、平壤遷都(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-国史年表-朝鮮三国時代 | |
427 | | | 高句麗、首都を国内城から平壌に移す(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
427 | | | 第19代百済王毘有王[427~455](-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
427 | | | 百済、ヒ有王即位ヒユウ(田+比、久尓辛王の長男あるいは腆支王の養子)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
428 | | | 倭国の使者(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
429 | | | 百済、宋に朝貢(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
431 | | | 新羅、倭人の侵入を受けて交戦[440](-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
431 | | | 新羅、倭兵が、東の辺境に攻めて来て、明活城を包囲したが、功なくして退いた。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅、倭)--朝鮮三国時代 | |
433 | | | 百済と新羅、高句麗に対して同盟を結ぶ 高句麗の南進政策で首都(慰礼城:漢江流域)が陥落されて非常に苦しんだ百済は、首都を熊津(忠清南道の公州)と泗 (忠清南道の扶餘)に移しながら体制を整備して復興を図った。 高句麗の南進は韓国の南東部で成長していた新羅にも大きな脅威をあたえた。そこで、新羅と百済は高句麗の攻撃を受けた場合、互いに助け合うという羅済同盟を結んだ。結婚同盟まで発展した百済と新羅の同盟関係は高句麗の度重なる攻撃を防ぐのに大きく役立った。 百済と新羅は高句麗の南進政策をある程度防ぎながら国の秩序を立て直すことができた。そのようにして体制を整備して国力を強化した両国は6世紀に入ると高句麗と対抗できる実力を持つようになった。(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代 | |
433 | | | 新羅、百済同盟成立(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-国史年表-朝鮮三国時代 | |
433 | | | 新羅、百済の同盟成立。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅、百済)--朝鮮三国時代 | |
433 | | | 百済、新羅に使者を送り和親を求む(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
433 | | | 百済、新羅と同盟(羅済同盟)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-- | |
434 | | | 新羅の使者が答礼(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
438 | | | 羅済同盟成立。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
440 | | | 新羅、倭人が、南の辺境に侵入。夏六月にまた東の辺境を攻める。 日食(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
440 | | | 百済、日食(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-- | |
442 | | | 伽耶、倭が大伽耶に侵攻するも、百済に救援を求め、これを排除する(-朝鮮半島-朝鮮、伽耶)-- | |
443 | | | 倭国王、済が宋に朝貢。安東将軍倭国王の称号を得る(-朝鮮半島-朝鮮、倭)--朝鮮三国時代 | |
444 | | | 新羅、倭人の侵入を受けて、首都金城(慶州市)を10日余りも包囲される(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
444 | | | 新羅、夏四月に、倭兵が金城を十日包囲して、食料が尽きて帰った。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅、新羅)--朝鮮三国時代 | |
447 | | | 百済、干ばつ 新羅への避難民(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
450 | | | 新羅、高句麗の辺境の首長が狩猟時に殺害し、長寿王は新羅の北西部国境に軍を派遣してきたが謝罪を行う(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
451 | | | 第8代加羅王金至知王[451~492](-朝鮮半島-朝鮮、加羅)--朝鮮三国時代 | |
451 | | | 倭国王、済使持節都督倭新羅任那加羅慕韓六国諸軍事を加号される(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--朝鮮三国時代 | |
451 | | | 倭王済「安東大将軍倭国王」に任命される(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
454 | | | 新羅、高句麗が新羅北部辺境に侵入(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
455 | | | 新羅、高句麗が百済に侵入した際には、救援兵を発した(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
455 | | | 第20代百済王蓋鹵王[455~475](-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
455 | | | 百済、蓋鹵王即位ガイロ(近蓋婁、ヒ有王の長男)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
455 | | | 百済、高句麗、百済を撃ち、新羅が百済を救う(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-- | |
458 | | | 新羅、《慈悲麻立干[458~479]》(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
458 | | | 百済、百済余慶(蓋鹵王)、宋に使者を送り、臣下の叙授を求める(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-- | |
459 | | | 新羅、夏四月に、倭人が兵船百余隻を以って東辺を襲い、月城を囲んで進撃したが、追撃してこれを破る。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--朝鮮三国時代 | |
462 | | | 新羅、夏五月に、倭人が活開城を襲い破り、一千名を捕らえて連れ去った。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--朝鮮三国時代 | |
463 | | | 新羅、倭人が歃良城(梁山)を攻めるも勝てずして去った。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--朝鮮三国時代 | |
468 | | | 百済、日食(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-- | |
469 | | | 百済、高句麗に侵入 魏に高句麗の罪悪を並べ救援を乞う上表文と応答があるが 魏が百済を支援しなかったために朝貢をやめる 新羅の援軍をつれて帰国(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
470 | | | 新羅、三年山城を築き、以後朝鮮半島中央部への領域拡大が進む(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
472 | | | 百済、魏に朝貢 魏に高句麗の罪悪を並べ救援を乞う上表文と応答があるが 魏が百済を支援しなかったために朝貢をやめる(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
472 | | | 百済、百済王余慶、北魏に使者を送り、高句麗出兵を求める(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-- | |
475 | | | 高句麗の南進により,百済漢城から熊津(公州)に遷都(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代 | |
475 | | | 高句麗、百済の漢城(ソウル)を陥落させて蓋鹵王を殺害(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
475 | | | 新羅、高句麗が百済に攻め入り援軍を送るも都漢城は陥落・蓋鹵王も殺害される(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
475 | '■中期熊津(公州)時代[475年?538年)' | |
475 | | | 熊津の公山城跡(公州)長寿王の攻撃から逃れた蓋鹵王の子、文周王は都を熊津(今の忠清南道公州)に遷すものの、大臣に刺客を送られ、暗殺。しばらく混乱期が続きます。 第24代東城王は、新羅、倭との関係を密にし、南へ領土を広げ、百済王権と国力の回復に成果を挙げるものの、晩年は飢饉の際にも贅沢浪費をし、臣下によって暗殺されます。 高句麗、百済の漢山城を攻略。百済、熊津へ都を遷す。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
475 | | | 第21代百済王文周王[475~477](-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
475 | | | 百済、高句麗が侵入し蓋鹵王を殺す 子の文周等は南へ逃げる(木劦満致らを伴う)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
475 | | | 高句麗の長寿王が3万の兵で百済の王都漢城を包囲し猛攻した。百済の蓋鹵(がいろ)王は脱出しようとして捕らえられた。攻められる前に子の文周らを南に逃した。文周らは熊津(ゆうしん・現在の忠清南道公州邑)に都を置いた。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
475 | | | 百済、文周王即位ブンシュウ(ブン洲サンズイ+文、蓋鹵王の子) 新羅の援軍をつれて帰国(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
475 | | | 高句麗の長寿王が3万の兵で百済の王都漢城を包囲し猛攻した。百済の蓋鹵(がいろ)王は脱出しようとして捕らえられた。攻められる前に子の文周らを南に逃した。文周らは熊津(ゆうしん・現在の忠清南道公州邑)に都を置いた。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-- | |
475 | | | 百済、高句麗長寿王、百済の漢城を陥落させ、百済蓋鹵王を殺す(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-- | |
475 | | | 百済、百済文周王即位し、熊津(現・忠清南道公州市)に遷都(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-- | |
476 | | | 耽羅:耽牟羅:屯羅、百済の文周王に朝貢した(-朝鮮半島-朝鮮、耽羅:耽牟羅:屯羅)-- | |
476 | | | 新羅、倭人が東辺を攻める。 耽羅国(済州島)が朝貢(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
477 | | | 新羅、倭人が兵をあげて五道に侵入したが、ついに何の功もなく帰った。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅、日本)--朝鮮三国時代 | |
477 | | | 第22代百済王三斤王[477~479]即位サンキン(壬乞、文周王の長男幼年につき解仇が実権)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
477 | | | 百済、百済兵官佐平解仇、文周王を殺し、三斤王を立てる(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-- | |
478 | | | 解仇が謀反(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
478 | | | 大臣の解仇が刺客を放って文周王を殺し、13歳の三斤が王となる。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
478 | | | 478年、大臣の解仇が刺客を放って文周王を殺し、13歳の三斤が王となる。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-- | |
479 | | | 伽耶、南朝の南斉に使者を送り、冊封をうける(-朝鮮半島-朝鮮、伽耶)-- | |
479 | | | 新羅、《?知麻立干[479~500]》(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
479 | | | 第23代百済王東城王[479~501]即位トウジョウ(牟大、摩牟、文周王の弟の子)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
479 | | | 解仇らが反乱を起こし、三斤王は真一族の援けを受けて解仇らを討ち取った。 次の東城王は、新羅との関係を緊密にし、南へ領土を広げた。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
479 | | | 百済、東城王即位トウジョウ(牟大、摩牟、文周王の弟の子)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-- | |
479 | | | 479年、解仇らが反乱を起こし、三斤王は真一族の援けを受けて解仇らを討ち取った。 次の東城王は、新羅との関係を緊密にし、南へ領土を広げた。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-- | |
479 | | | 百済、《百済東城王即位》(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-- | |
481 | | | 新羅、高句麗・靺鞨が攻めてきたとき、百済・伽耶の援軍を得て追撃(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
482 | | | 新羅、五月に倭人が辺境を攻める。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--朝鮮三国時代 | |
482 | | | 百済、靺鞨が侵入(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
484 | | | 新羅、高句麗が侵入し、百済と協力して追撃(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
484 | | | 百済、南斉に朝貢するも高句麗がこれを妨害(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
485 | | | 百済、新羅に使者(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
486 | | | 新羅、夏四月に倭人が辺境を攻める。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--朝鮮三国時代 | |
488 | | | 新羅、居城を明活城(慶州市普門里)から月城に戻した (月城:慶州盆地南よりの南川に沿った独立丘陵)(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
488 | | | 百済に魏の討伐軍侵入(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
489 | | | 新羅、高句麗が侵入し、狐山城を陥落(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
490 | | | 百済、北魏、数十万騎百済を攻める(南斉書)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-- | |
491 | | | 第21代高句麗王文咨明王[491~519](-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代 | |
491 | | | 飢饉で新羅への避難民(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
492 | | | 第9代加羅王鉗知王[492~521](-朝鮮半島-朝鮮、加羅)--朝鮮三国時代 | |
492 | | | 高句麗、《文咨明王[492~519]》(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
493 | | | 新羅に妃を求める(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
494 | | | 高句麗、扶余王が妻子とともに降伏してくる 新羅と戦って薩水の原で犬牙城に追い詰めたが、百済の援軍のため断念する(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
494 | | | 新羅、薩水の河原戦いで百済の東城王が3千の兵とともに救援し、高句麗兵を退却させた(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
494 | | | 新羅に侵入した高句麗軍に対し援軍(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
495 | | | 高句麗、百済の雉壌城を包囲したが、新羅の援軍のため断念する(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
495 | | | 新羅、高句麗が百済に攻め入りが、援軍し高句麗兵を壊滅(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
495 | | | 百済、日食 高句麗の侵入に新羅が援軍(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
495 | | | 百済、高句麗、百済の雉壌城を攻め、新羅が百済を救援する(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-- | |
496 | | | 高句麗、新羅の牛山城を攻めたが勝てず、翌年にようやく攻め落とす(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
496 | | | 新羅、高句麗が侵入して牛山城を攻められ、陥落(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
498 | | | 高句麗、平壌に金剛寺を創建(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
498 | | | 耽羅:耽牟羅:屯羅、百済の東城王に服属した(-朝鮮半島-朝鮮、耽羅:耽牟羅:屯羅)-- | |
499 | | | 百済、干ばつ(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
500 | | | 新羅、春三月倭人が長峯鎮を攻め陥した。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--朝鮮三国時代 | |
500 | | | 新羅、長嶺鎮を倭軍に陥落 《智証麻立干[500~514]》(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
500 | | | 家臣が王の浪費をいさめるも聞かれず(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
501 | | | 第24代百済王武寧王[501~523]即位ブネイ(斯摩、隆、東城王の第2子) 東城王が、加林城主に任じられたことを不満とした臣下に殺されると、武寧王が立ってこれを討った。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
501 | | | 百済、武寧王即位ブネイ(斯摩、隆、東城王の第2子)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
501 | | | 501年、東城王が、加林城主に任じられたことを不満とした臣下に殺されると、武寧王が立ってこれを討った。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-- | |
501 | | | 百済、《東城王暗殺され、武寧王即位》(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-- | |
502 | | | 新羅、牛耕実施(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-国史年表-朝鮮三国時代 | |
502 | | | 新羅、殉葬を禁止(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
502 | | | 百済、飢饉と疫病 高句麗を攻撃 新羅,牛による耕田を始めて実施(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
503 | | | 高句麗、百済に攻め入られ、水谷城を落とされる(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
503 | | | 新羅、国号と王号を定める。(アジア-新羅)(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--朝鮮三国時代 | |
503 | | | 新羅、国号と王号を定める(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-国史年表-朝鮮三国時代 | |
503 | | | 新羅、斯羅・斯盧・新羅などと称していた国号を新羅に定める(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
503 | | | 百済、百済武寧王、倭国に遣使(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-- | |
506 | | | 百済、靺鞨が侵入(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
507 | | | 高句麗、靺鞨と共同で百済の漢城(ソウル)を攻めようとしたが、百済軍に迎撃される(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
507 | | | 高句麗侵入(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
508 | | | 耽羅:耽牟羅:屯羅、南海中の耽羅人が初めて百済国と通じた(-朝鮮半島-朝鮮、耽羅:耽牟羅:屯羅)-- | |
512 | | | 高句麗、百済に攻め入り、加弗城・円山城を陥落させ、男女一千人余りの捕虜を得た(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
512 | | | 百済が日本へ使節を送り、任那4県の割譲を要請し、認められる。(「日本書紀」の継体天皇6年の条) 百済、梁に朝貢 高句麗侵入(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
512 | | | 大伴金村(日本)が任那4県を百済に割譲する(-朝鮮半島-朝鮮、百済、日本:倭)--朝鮮三国時代 | |
513 | | | 百済の将軍らと五経博士(儒教の博士)を日本に派遣し、判跛国(はへこく(はひこく)・現在の慶尚北道星州郡)が百済の己?(こもむ・現在の全羅北道南原郡と任実郡および全羅南道谷城郡)地方を奪ったので審判のうえ返還してほしいと申し出た。判跛国も珍宝を日本に献じて、己?の地を与えてくれるよう願い出たが、日本は己?と帯沙(たさ・現在の慶尚南道河東郡)を百済の領有と認めた。(「日本書紀」の継体天皇7年の条)(-朝鮮半島-日本、朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
513 | | | 百済、五経博士を貢上(-朝鮮半島-日本、朝鮮、百済)-飛鳥時代(年表)- | |
514 | | | 新羅、《法興王[514~540]》 (これまでは高句麗従属型外交であったが、自立型外交に変化してゆく)(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
514 | | | 第23代新羅王法興王[514~540] 判跛国は帯沙と子呑(ことむ・位置不明)に城を築き、各地にのろし台を作って日本にそなえた。また、新羅にも侵入して被害を与えている。(「日本書紀」の継体天皇8年の条)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
514 | | | 514年、判跛国は帯沙と子呑(ことむ・位置不明)に城を築き、各地にのろし台を作って日本にそなえた。また、新羅にも侵入して被害を与えている。(「日本書紀」の継体天皇8年の条)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-- | |
515 | | | 百済から日本への使節であった将軍らが帰国を願い出たので、物部連を伴って帰国させると、判跛国が軍備を増強しているとの情報を聞き、使節の将軍らは新羅を通って帰国させ、物部連は500人の海軍を率いて帯沙江へ行ったが判跛国軍の襲撃を受け命からがら逃げ延びた。(「日本書紀」の継体天皇9年の条)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
516 | | | 日食 百済は物部連らを己?で迎え入れ、多くのねぎらい物を与えた。帰国の際には、新たな五経博士を送って先の博士と交代させた。また、これとは別に百済の使節が高句麗の使節を連れて日本へ行った。(「日本書紀」の継体天皇10年の条)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
517 | | | 新羅、「兵部」を設置(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
519 | | | 第22代高句麗王安蔵王[519~531](-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代 | |
519 | | | 高句麗、《安臧王[519~531]》(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
520 | | | 新羅,律令領布,百官の公服制定(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--朝鮮三国時代 | |
520 | | | 新羅、律令領布、百官の公服を制定(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-国史年表-朝鮮三国時代 | |
521 | | | 第10代加羅王仇衝王[521~562](-朝鮮半島-朝鮮、加羅)--朝鮮三国時代 | |
521 | | | 新羅、百済に伴われて梁に対して朝貢(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
521 | | | 使者を梁に送り寧東大将軍を授かる(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
522 | | | 新羅、伽耶国王との通婚友好をはかる(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
522 | | | 司馬達等、仏教を伝来〔扶桑略記〕(-朝鮮半島-日本、朝鮮、百済)-飛鳥時代(年表)- | |
523 | | | 高句麗、百済に侵攻する(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
523 | | | 第25代百済王聖王[523~554](-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
523 | | | 百済、聖王即位セイ(メイジョウ、明+のぎへん+農、武寧王の子) 高句麗が侵入(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
523 | | | 百済、《百済聖王(聖明王)即位》(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-- | |
524 | | | 伽耶、新羅の侵攻が始まる(-朝鮮半島-朝鮮、伽耶)-- | |
524 | | | 梁から綏東将軍百済王を受ける(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
525 | | | 百済、武寧王陵を築造する。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
525 | | | 新羅と国交を結ぶ(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
527 | | | 新羅、仏教を公認(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-国史年表-朝鮮三国時代 | |
527 | | | 磐井の乱、筑紫国造磐井の乱(朝鮮半島南部へ出兵を巡っての国内反乱)を、物部あらかびが鎮圧。(-朝鮮半島-日本、朝鮮)-飛鳥時代(年表)-朝鮮三国時代 | |
528 | | | 新羅、貴族層の反対を押し切って仏教の公認(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
529 | | | 高句麗、再び百済に攻め入り五谷(黄海道瑞興郡)で大勝し、首級二千余をあげた(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
529 | | | 百済、高句麗が侵入(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
531 | | | 第23代高句麗王安原王[531~545](-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代 | |
531 | | | 高句麗、《安原王[531~545]》(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
532 | | | 伽耶国滅亡朝鮮半島の伽耶国が滅亡。(-朝鮮半島-、朝鮮)-- | |
532 | | | 新羅、南伽耶の金宮国を併合。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--朝鮮三国時代 | |
532 | | | 新羅,金海の金官伽耶を併合(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--朝鮮三国時代 | |
532 | | | 新羅、金官国を滅ぼし、準王族的に優遇した(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
532 | | | 任那日本府(-朝鮮半島-朝鮮、日本)--朝鮮三国時代 | |
534 | | | 新羅、興輪寺の建立を開始し、仏教を広めること(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
536 | | | 新羅,年号を使用(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--朝鮮三国時代 | |
536 | | | 新羅、年号使用(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-国史年表-朝鮮三国時代 | |
538 | '■後期泗 (扶余)時代[538年?660年) 三国時代の百済 南扶余' | |
538 | | | 百済、王都を泗 城(扶余)に遷す。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
538 | | | 三国時代の百済 三国時代の地図、5世紀終わり頃 ByEvawen?,Gzhao[GFDLorCCBY3.0] 第25代武寧王の時代になって、ようやく百済王権の回復を見せます。しかし、次第に新羅が勢力を伸ばし、高句麗の南部(百済の北側)へと領土を拡大させていきます。 武寧王の亡き後即位した、第26代聖王(日本書紀での「聖明王」)は、高句麗からの攻撃を受けたこともあり、538年、都を熊津から、南の泗 (サビ)、今の扶余へ遷都しました。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
538 | | | 都を熊津から泗 (しひ・現在の忠清南道扶余郡扶余邑)に遷した。錦江によって25kmくだったところで、要害の地から平野を見下ろす丘陵に移った。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
538 | | | 百済、都を泗ヒ(さんずい+比)に遷都し国名を南扶餘とする (所夫里とも呼び現在の忠清南道の扶餘市)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
538 | | | 百済,泗 城(扶余)に遷都(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
538 | | | 百済、都を泗 城に移す(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-国史年表-朝鮮三国時代 | |
538 | | | ■後期 泗 (扶余)時代[538年 ? 660年)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-- | |
538 | | | 南扶余(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
538 | | | 538年、都を熊津から泗 (しひ・現在の忠清南道扶余郡扶余邑)に遷した。錦江によって25kmくだったところで、要害の地から平野を見下ろす丘陵に移った。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
538 | | | 百済、百済聖王、泗?(現・忠清南道扶余市)に遷都し、国号を南扶余と号す(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-- | |
538 | | | 百済の聖明王,倭に仏像・経論を送る(-朝鮮半島-朝鮮、百済、倭)--朝鮮三国時代 | |
538 | | | 泗 に遷都した聖王(「聖明王」)は、国号も「南扶余」と変えましたが、その名は定着しなかったようです。 扶余定林寺五重塔 滅亡の傷跡を残す定林寺・五重塔551年、聖王は、新羅・加羅諸国と連合して高句麗と戦い、旧都の漢城地方を取り戻しますが、翌年、高句麗と連合した新羅に奪われ、同盟関係にあった新羅と対立が生じます。そのため聖王は、倭国に援軍を要請、仏像・経典などを送ったのもこの時期です。聖王は、積極的に仏寺の造営をすすめ、王興寺・定林寺などの寺址が扶余で発見されています。しかし、聖王は、554年に新羅との戦いで戦死します。その後、百済は次第に、かつての宿敵・高句麗と同盟を結ぶようになり、百済最後の王となる第31代義慈王は、執拗に新羅に攻め入ります。国際的にも孤立することとなった新羅は、善徳女王をはじめとして、唐に救援を求めるようになります。 はじめは新羅と百済の和平を求めていた唐ですが、百済義慈王に和平の意思はなく、唐の3度にわたる高句麗制圧も失敗に終わると、唐は新羅と同盟を結び、百済を攻撃する方針に切り替えていきます。 こうして半島情勢は、「百済-高句麗」VS「新羅-唐」の対立構造となり、日本(倭国)ががどちらに着くかが外交の焦点となりました。 百済、泗 (しび)遷都。(-朝鮮半島-百済、朝鮮、南扶余)--朝鮮三国時代 | |
538 | | | 10.12 日本に百済から仏教が伝わる[552年とする説もある)(古墳時代-朝鮮半島-日本、朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
539 | | | 聖徳太子(厩戸皇子)摂政539年(-朝鮮半島-朝鮮、日本)--朝鮮三国時代 | |
540 | | | 高句麗、百済が侵攻して来もこれを撃退する(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
540 | | | 新羅、《真興王[540~576]》 花朗集団の発足をみる 花朗集団: 花朗が率いる朗徒集団であり、貴族の子弟を複数の集団に分け互いに鍛錬しあうもので、その集団の中心人物を花朗と云う その後、統一戦争においても華々しい活躍をみせる(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
541 | | | 新羅、百済との同盟 高句麗領に入り、百済と共同して漢江流域に進出した第一歩の「丹陽赤城碑」を設置(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
541 | | | 梁に使者を送り博士、仏典、匠を求めて得る(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
545 | | | 第24代高句麗王陽原王[545~559](-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代 | |
545 | | | 高句麗、《陽原王[545~559]》(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
545 | | | 新羅,「国史」編纂(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--朝鮮三国時代 | |
545 | | | 新羅、国史編纂(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-国史年表-朝鮮三国時代 | |
547 | | | 百済、日食(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
548 | | | 高句麗、?の兵を用いて百済の独山城に侵攻するも、新羅の応援により退却(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
548 | | | 新羅、高句麗が百済に攻め込んだときには百済を助けた(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
548 | | | 高句麗がワイ(さんずい+歳)と共に侵入、新羅援軍を得て撃退(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
549 | | | 新羅、梁から使者、僧覚徳と仏舎利(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
550 | | | 高句麗、百済に道薩城を陥落させられ、百済の金?城を攻撃しているあいだに二城とも新羅に奪われる(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
550 | | | 新羅、高句麗と百済との交戦の時には係争地である道薩城及び金?城を奪い取った(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
550 | | | 高句麗を攻撃(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
551 | | | 高句麗、突厥の侵攻に防戦しているときに新羅に十城を奪われる(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
551 | | | 新羅、高句麗領に侵入し、竹嶺付近の10郡を奪った 高句麗から僧恵亮(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
551 | | | 百済の聖王は、新羅・加羅諸国と連合して高句麗と戦い、旧王都の漢城地方を取り戻した。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
552 | | | 高句麗、長安城(平壌市)の造成を開始(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
552 | | | 新羅は一転して高句麗と連合し、漢城地方を新羅に奪われた。百済と加羅(ここでは大加羅国の意)・安羅は日本に救援軍の派遣を依頼した。 百済聖王30年,達率恕利斯致契が日本に仏教伝える(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
552 | | | 百済、日本に仏教を伝える 『日本書紀』によると、日本に仏教が伝来したのは飛鳥時代、552年(欽明十三年)に百済の聖明王から釈迦仏の金銅像と経論他が贈られた時だとされている。しかし、現在では『上宮聖徳法王帝説』(聖徳太子の伝記)や『元興寺伽藍縁起』(元興寺の成り立ち・変遷を記述したもの)を根拠に538年(宣化三年)に仏教が伝えられたと考えられ、歴史の教科書にも538年が掲載されている(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
552 | | | 百済、日本に仏教を伝える(-朝鮮半島-朝鮮、百済、日本)-国史年表-朝鮮三国時代 | |
553 | | | 新羅、百済が高句麗から取り戻したばかりの漢山城を含む一帯を奪い、漢江流域に新州を設置(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
553 | | | 百済、新羅が百済北部を占有する 百済王女が新羅へ嫁する(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
554 | | | 新羅、百済・伽耶と連合して管山城に攻め入ったが、連合軍2万9千600を殲滅した(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
554 | | | 第26代百済王威徳王[554~598](-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
554 | | | 百済、威徳王即位イトク(昌、聖王の子) 高句麗が侵入(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
554 | | | 王自ら新羅を攻めるも敗死(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
554 | | | 百済の王子の余昌(よしょう・のちの威徳王)は、函山城(かんざんじょう・現在の忠清北道沃川郡沃川邑)の戦いで新羅郡を破り、勢いに乗じて新羅国内へ進撃したが、逆に新羅軍に函山城を奪われて退路を断たれて孤立した。これを救うため父の聖王が函山城を攻めたが、かえって聖王は殺されてしまった。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
554 | | | 554年、百済の王子の余昌(よしょう・のちの威徳王)は、函山城(かんざんじょう・現在の忠清北道沃川郡沃川邑)の戦いで新羅郡を破り、勢いに乗じて新羅国内へ進撃したが、逆に新羅軍に函山城を奪われて退路を断たれて孤立した。これを救うため父の聖王が函山城を攻めたが、かえって聖王は殺されてしまった。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
554 | | | 百済、百済聖王、新羅の管山城を撃ち敗死。百済威徳王即位(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-- | |
559 | | | 第25代高句麗王平原王[559~590](-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代 | |
559 | | | 高句麗、《平原王[559~590]》(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
559 | | | 百済、日食(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
561 | | | 百済、新羅を攻撃(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
562 | | | 新羅が任那を併合滅亡、朝鮮への影響力を失う(古墳時代-朝鮮半島-新羅、朝鮮、伽耶、日本)-- | |
562 | | | 新羅、朝鮮南部の加羅を征服。(-朝鮮半島-、朝鮮)-- | |
562 | | | 新羅、大伽耶(高霊伽耶)を滅ぼす。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--朝鮮三国時代 | |
562 | | | 新羅,大伽耶などの加羅諸国を併合(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--朝鮮三国時代 | |
562 | | | 新羅、任那日本府を滅ぼす(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
562 | | | 新羅、伽耶(大伽耶)を滅ぼして吸収(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
562 | | | 加羅諸国が新羅に占領される。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
562 | | | 百済、高句麗、百済の熊川城を攻撃(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-- | |
562 | | | 任那が滅亡、朝鮮への影響力を失なう(-朝鮮半島-日本、朝鮮)-- | |
564 | | | 新羅、北斉に朝貢して翌年に冊封を受け、571年まで毎年朝貢(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
565 | | | 新羅、陳から僧明観と仏典1700巻(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
567 | | | 陳へ朝貢(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
568 | | | 新羅、南朝の陳にも朝貢(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
570 | | | 高斉(北斉)に使者、車騎大将軍帯方郡公百済王を得る(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
572 | | | 百済、北斉に朝貢(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
574 | | | 新羅、皇龍寺に丈六仏を鋳造して収め、新羅仏教の中心とす(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
576 | | | 新羅、《真智王[576~579]即位》 中国に求法留学していた安弘法師が胡僧の摩羅を伴って帰国、百座講会と八関会とを催す(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
577 | | | 新羅、百済の侵攻を受けるが、撃破する(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
577 | | | 百済、陳に朝貢(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
578 | | | 新羅、百済に対して閼也山城を割譲する(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
578 | | | 百済、北周に朝貢(-朝鮮半島-北周、朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
579 | | | 新羅、《真平王[579~632]即位》(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
581 | '中国が隋の時代' | |
581 | | | 581年に隋が成立すると、高句麗と百済はすぐに朝貢した。百済は、隋が成立すると、しきりに高句麗を討つよう要請している。 隋に朝貢(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
581 | | | 百済、隋に朝貢(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
584 | | | 百済、隋に朝貢(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
584 | | | 百済、陳に朝貢(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-- | |
584 | | | 百済、高句麗、百済を攻撃し、新羅が百済を救援する(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-- | |
586 | | | 高句麗、長安城に都を遷す(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代 | |
586 | | | 高句麗、長安城(平壌市)に遷都(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
589 | | | 隋が陳を併合 隋の戦船が済州島に漂着し船は百済を経て帰還(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
590 | | | 第26代高句麗王嬰陽王[590~618](-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代 | |
590 | | | 高句麗、《嬰陽王[590~618]》(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
595 | | | 高句麗の僧慧慈日本へ、聖徳太子の仏教の師となる(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代 | |
597 | | | 百済の王子阿佐を日本に派遣する。(「日本書紀」推古天皇5年の条)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
598 | | | 高句麗、靺鞨の人々を率いて遼西に進入したが、隋の高句麗遠征(第一次遠征)を引き起こす(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
598 | | | 第27代百済王恵王(季、聖王の第2子)[598~599](-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
598 | | | 百済、恵王即位ケイ(季、聖王の第2子)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
598 | | | 百済、隋に朝貢し高句麗討伐の許諾を得る
高句麗が侵入(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
599 | | | 第28代百済王法王[599~600](-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
599 | | | 百済、法王即位ホウ(宣、孝順、恵王の子あるいは威徳王の子) 殺生令をだし漁猟の道具を焼く(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
600 | | | 新羅征討計画。計3回の討伐で第一次は新羅の降伏。残りの2回は失敗におわる-603(-朝鮮半島-朝鮮、新羅、日本)--朝鮮三国時代 | |
600 | | | 第29代百済王武王(璋、法王の子)[600~641](-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
600 | | | 百済、武王即位ブ(璋、法王の子)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
600 | | | 百済、仏寺を創建 隋の使者が倭国へゆくために百済の南路を通る(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
600 | | | 百済、《百済武王[600~641]即位》(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-- | |
602 | | | 新羅、百済との阿莫城での会戦では大勝する(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
602 | | | 百済、新羅を攻撃(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
602 | | | 百済僧の観勒、暦・天文地理・遁甲方術の書をもたらす(-朝鮮半島-朝鮮、百済、日本)-飛鳥時代(年表)-朝鮮三国時代 | |
603 | | | 新羅、高句麗が北漢山城に侵入するも撃退する(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
605 | | | 百済、新羅が侵入(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
607 | | | 高句麗、東突厥に使者を派遣(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
607 | | | 法隆寺建立(-朝鮮半島-朝鮮、日本)-日本科学史(年表)-朝鮮三国時代 | |
607 | | | 百済、隋に朝貢 隋の使者が倭国へゆくために百済の南路を通る(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
608 | | | 新羅、高句麗の侵入により牛鳴山城を陥落させられる(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
611 | | | 新羅、隋に高句麗討伐を求める(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
611 | | | 隋に朝貢(このとき隋は高句麗討伐の準備中で歓待される) 新羅を攻撃(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
612 | | | 高句麗、薩水大捷。(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代 | |
612 | | | 薩水大捷.高句麗の乙支文徳将軍,薩水で隋軍を撃破(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代 | |
612 | | | 高句麗、薩水大捷(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-国史年表-朝鮮三国時代 | |
612 | | | 高句麗、隋の第二次高句麗遠征[100万)では隋軍を壊滅させる(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
612 | | | 新羅、隋の高句麗遠征 百済とは?岑城・母山城付近で激しく戦うが敗戦する(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
612 | | | 隋の煬帝、高句麗を攻撃(薩水の戦い)(-朝鮮半島-隋、朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代 | |
613 | | | 高句麗、第三次遠征でも隋軍を退ける(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
614 | | | 高句麗、第四次遠征でも隋軍を退け、隋の衰亡を早めさせるきっかけをつくる 百済からは石頭城で捕虜三千人、新羅からは捕虜八千人と牛鳴山城を得る(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
616 | | | 百済、新羅を攻撃(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
616 | | | 百済、新羅の母山城を攻撃(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-- | |
618 | | | 第27代高句麗王栄留王[618~642] 百済、新羅が侵入 唐が成立する。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅、百済、高句麗)--朝鮮三国時代 | |
618 | | | 高句麗、《栄留王[618~642]》(-朝鮮半島-朝鮮、新羅、百済、高句麗)-- | |
618 | '中国が唐の時代' | |
618 | | | 618年、唐が成立する。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
618 | | | 618-隋滅亡し、唐建国 李淵(りえん)を初代皇帝として、一時武則天(則天武后)による簒奪を受けましたが(周:684~705 )、基本的には李氏20代、約300年続きました。特に2代太宗の治世を「貞観の治」、6代玄宗の治世前半を「開元の治」といい、唐の最盛期です。 皇帝を頂点とする中央集権型の国家体制を確立し、その政治体制は朝鮮や日本などの周辺国家にも広く影響を与えました。外戚をはじめとする貴族・権臣勢力や、安史の乱以降は藩鎮勢力、晩期になると宦官達にも悩まされ、皇帝は権限を失い国家は衰退します。王仙芝、黄巣の乱などの混乱の末、哀帝(李祝)が朱全忠(後梁の太祖)に位を譲り、滅亡しました。(-朝鮮半島-唐、隋、朝鮮)-- | |
| | 618~907とう唐李唐とも呼ぶ。隋末の乱に李淵(高祖)・李世民(太宗)父子が挙兵して、煬帝の孫恭帝の禅譲を受け、618年に建国。 628年に天下統一、均田制・租庸調・府兵制に基礎を置く律令政治を整えると同時に、その子高宗とともに突厥(とっけつ)(*7]・鉄勒(てつろく)(*8]・西域諸国・朝鮮などを討って版図を広げた。 | |
621 | | | 百済、唐に朝貢(-朝鮮半島-朝鮮、百済、唐)--朝鮮三国時代 | |
622 | | | 高句麗、唐に対して、捕虜の交換を互いにおこなう(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
623 | | | 百済、新羅を攻撃(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
624 | | | 高句麗へ,唐より道教伝来(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗、唐)--朝鮮三国時代 | |
624 | | | 高句麗、唐から高句麗に道士が派遣され、王は国人とともに『老子』の講義を受ける(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗、唐)-- | |
624 | | | 高句麗、唐から道教伝来(-朝鮮半島-朝鮮、唐、高句麗)-国史年表-朝鮮三国時代 | |
624 | | | 百済、高句麗、新羅があいついで唐に朝貢した。(-朝鮮半島-朝鮮、百済、高句麗、新羅、唐)--朝鮮三国時代 | |
624 | | | 唐に朝貢し帯方郡主百済王を得る 新羅を攻撃(-朝鮮半島-朝鮮、百済、新羅、唐)--朝鮮三国時代 | |
625 | | | 高句麗、唐に仏教・道教の学生僧を送る(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗、唐)-- | |
625 | | | 百済、唐に朝貢(-朝鮮半島-百済、朝鮮半島、唐)--朝鮮三国時代 | |
626 | | | 新羅、高句麗と百済とが和解してともに新羅に当たる状況となる(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
626 | | | 百済、唐への使者を高句麗が妨害(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
627 | | | 百済、新羅へ旧領奪回を目すも、新羅の唐への使者で中止する
唐の太宗が百済新羅両国へ和平の命を下す
百済は陳謝の使者を送る(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
628 | | | 百済、新羅を攻撃(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
629 | | | 新羅、高句麗と娘臂城で戦い、勝利を得る(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
630 | | | 高句麗、[唐、東突厥を一旦滅ぼす](-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
631 | | | 高句麗、扶余城から東南の渤海湾に至るおよそ千里の長城を築き、唐の侵略に備える(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
631 | | | 百済、唐に朝貢(-朝鮮半島-百済、朝鮮半島、唐)--朝鮮三国時代 | |
632 | | | 新羅、《善徳女王[632~647]即位》(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
632 | | | 百済、新羅攻撃 唐に朝貢(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
633 | | | 新羅、西武国境地帯に百済の侵入(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
633 | | | 百済、新羅攻撃(-朝鮮半島-朝鮮、百済、新羅)--朝鮮三国時代 | |
635 | | | 新羅、唐から《柱国・楽浪郡公・新羅王》の爵号を継承する(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
636 | | | 新羅、百済が独山城を襲撃しようとして潜んでいたところを、殲滅(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
636 | | | 漢江流域の孤立をねらって、新羅の独山城(どくさんじょう・現在の忠清北道槐山郡)を襲う。(百済)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
636 | | | 百済、唐に朝貢(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
638 | | | 新羅、高句麗が七重城に攻め入が、撃退(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
638 | | | 百済、新羅の独山城を攻撃(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-- | |
640 | | | 唐が高昌国を服属させる(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
640 | | | 新羅、唐の国子監に数多く留学生を派遣(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
640 | | | 百済、王子を唐に派遣し国学を学ぶを求める(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
641 | | | 第30代百済王義慈王[641~660](-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
641 | | | 百済、義慈王即位ギジ(武王の子) 唐の使者が帯方郡主百済王を与える(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
641 | | | 百済、《百済義慈王[641~660]即位》(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-- | |
642 | | | 高句麗、淵蓋蘇文が権力掌握(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代 | |
642 | | | 第28代高句麗王宝蔵王[642~648](-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代 | |
642 | | | 高句麗,淵蓋蘇文が宝蔵王を擁し権力掌握(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代 | |
642 | | | 高句麗、《第28代宝蔵王[642~668]》(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
642 | | | 新羅、百済に西部40余城・大耶城も陥落し、高句麗に援軍求めるが得られず(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
642 | | | 642-644 唐の使者が帯方郡主百済王を与える(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
642 | | | 百済、唐に朝貢 新羅を攻撃(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
642 | | | 百済は、新羅の国西四十余城(秋風嶺以東、洛東江中流以西の地域か)を奪い、さらに新羅の唐への要衝路である党項城(とうこうじょう・現在の京畿道華城郡)を高句麗とともに襲い、南部の中心地である大耶城(だいやじょう・現在の慶尚南道陜川郡)を奪って、大耶州の都督(長官)品釈(ひんしゃく)夫妻を殺した。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
643 | | | 新羅、善徳女王が唐に救援を求めたが、唐の皇族を新羅王に据えることを求めてきた(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
643 | | | 百済、高句麗と和睦し新羅を攻撃新羅は唐に救援を求める(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
643 | | | 百済、高句麗と同盟(麗済同盟)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-- | |
644 | | | 唐、高句麗の攻撃を宣布(?648年)(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代 | |
644 | | | 唐の太宗,高句麗を攻撃[~648](-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代 | |
644 | | | 高句麗、唐、高句麗に侵攻[647,648](-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
644 | | | 百済、唐に朝貢 太宗は両国を諭す(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
645 | | | 高句麗、安市城の戦いで唐に勝利(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代 | |
645 | | | 高句麗,安市城の戦いで唐軍に勝利(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代 | |
645 | | | 高句麗、安市城の戦いに勝利(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-国史年表-朝鮮三国時代 | |
645 | | | 新羅、唐から帰国した慈蔵法師の発願で皇龍寺の九重塔を創建(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
645 | | | 唐が高句麗に出兵すると、新羅が呼応して出兵したが、失敗に終わり、その間に百済は新羅の西部と加羅地方を侵略した。(百済)(-朝鮮半島-朝鮮、新羅、高句麗、唐、百済)--朝鮮三国時代 | |
645 | | | 大化の改新645年(-朝鮮半島-朝鮮、日本)--朝鮮三国時代 | |
645 | | | 百済、唐が高句麗を攻めるを知って新羅を攻撃(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
647 | | | 新羅,世界最古の天文台,瞻星台建造(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--朝鮮三国時代 | |
647 | | | 新羅、瞻星台建立(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-国史年表-朝鮮三国時代 | |
647 | | | 新羅、女王の廃位を求めて内乱 《真徳女王[647~654]即位》 唐から真徳女王に対する<柱国・楽浪郡王>の冊封が行なわれる(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
647 | | | 百済、新羅を攻めるも敗北(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
648 | | | 新羅、百済に侵攻されるが金?信の活躍で撃退に成功 唐に百済討伐の援軍を願い出、了承を得る(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
648 | | | 百済、新羅を攻めるも再び敗北(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
649 | | | 新羅、唐の衣冠礼服の制度をとりいれる(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
650 | | | 新羅、唐の年号を用いるようにする(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
651 | | | 新羅、唐制にならった大幅な官制改革を実施(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
651 | | | 百済、唐に朝貢 太宗再び諭す (新羅の使者もあり太宗はその言上の理を認める)(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
652 | | | 新羅、理方府(立法)を新設(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
653 | | | 百済、倭国と国交を結ぶ 高句麗、靺鞨とともに新羅を攻撃(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
654 | | | 新羅、《武烈王[654~661]即位》 理法府格60余条を制定し、新羅における律令制度の基盤を整備 官位の低い貴族を能力本位で要職につけることで王権の強化にも努めた(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
| | | 新羅,武烈王即位 理法府格60余条を制定し、新羅における律令制度の基盤を整備官位の低い貴族を能力本位で要職につけることで王権の強化にも努めた | |
655 | | | 新羅、高句麗・靺鞨・百済の連合軍が攻め入って北部辺境の33城が奪われ、唐に救援を求めた 唐、高句麗を攻撃(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
655 | | | 新羅、百済の刀比川城を攻撃(-朝鮮半島-朝鮮、新羅、百済)-- | |
655 | | | 高句麗と百済の連合軍が、新羅の北部の33城を奪い、新羅は唐に救援軍を要請した。唐は遼東郡に出兵したが、大きな効果はなかった。(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
655 | | | 新羅は危急を唐に知らせる(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
657 | | | 百済、王の庶子41人を佐平の官に任命(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-- | |
658 | | | 高句麗、唐、高句麗に侵攻[658,659,661~662](-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
658 | | | 658~659年の唐による第3回の高句麗への出兵が行なわれるが、これが失敗に終わると、唐は百済を攻撃することにした。(-朝鮮半島-朝鮮、百済、高句麗、唐)--朝鮮三国時代 | |
659 | | | 新羅、百済、侵攻してくる(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
660 | | | 660年、唐は水陸13万人の大軍を動員し、山東半島から出発し、新羅軍も5万人の兵で出陣した。新羅軍は黄山之原(現在の忠清南道論山郡)で勝利し、唐軍は白江(現在の錦江の中流扶余邑付近の別称)の伎伐浦(ぎばつぽ)で百済軍を破り、王都の泗 城(しひじょう・錦江の下流域)を攻めた。百済王はいったん旧都の熊津城(錦江の中流域)にのがれたが、皇太子らとともに降伏し、百済は滅亡した。百済の滅亡後、664年まで、王族の福信・僧道?(どうちん)・日本へおくられていた王子豊璋などが、高句麗や日本の大和朝廷の支援を受けて執拗に唐・新羅連合軍と戦っている。日本からは3万7千人余りの軍を送り(百済)660百済が、新羅と唐によって滅ぼされる。(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代 | |
■百済滅亡と白村江の戦[660-663年) 扶余扶蘇山城より眺める白馬江 扶蘇山城より白馬江を望む660年、ついに唐は13万人の大軍を動員、新羅の5万の兵と連合して、百済に攻め入ります。 百済軍は、黄山之原(現在の忠清南道論山)において決戦に挑み、善戦するも新羅軍に大敗してしまいます。 一方、唐軍を白江(現在の白馬江。錦江の中流扶余付近)に引き込む作戦に出ますが、唐軍に泗 城(扶余・扶蘇山城)を包囲されてしまいます。一時義慈王は旧都の熊津城(錦江の中流域)に脱れますが降伏し、ついに百済は滅亡したのでした。 | |
660 | | | 耽羅:耽牟羅:屯羅、(百済滅亡)(-朝鮮半島-朝鮮、耽羅:耽牟羅:屯羅)-- | |
660 | | | 百済滅亡(-朝鮮半島-朝鮮、百済)-国史年表-朝鮮三国時代 | |
661 | | | 新羅、唐・新羅連合軍による高句麗侵攻の途上で病死 《文武王[661~681]即位》(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
661 | | | 耽羅:耽牟羅:屯羅、王子の阿波伎らを派遣して日本に対して初めて朝貢を行った(-朝鮮半島-朝鮮、耽羅:耽牟羅:屯羅)-- | |
661 | | | 斉明天皇・中大兄、百済再興のため出発(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
661 | | | 第31代百済王豊璋王[661~663](-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
661 | | | 百済、義慈王は籠城戦と白江で迎え撃つの2案を議する 百済軍敗北(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
662 | | | 百済、扶餘豊(王)が残兵を率いて戦う 唐新羅連合軍は救援の倭軍の軍船400艘を白江に焼く 百済軍と倭軍は唐に降伏し、扶餘豊は行方不明となる 唐の高宗は扶餘隆を都督とする(-朝鮮半島-朝鮮、新羅、唐、百済、倭)--朝鮮三国時代 | |
662 | | | 耽羅:耽牟羅:屯羅、新羅の文武王に来降し、これ以後は新羅の属国となった(-朝鮮半島-朝鮮、耽羅:耽牟羅:屯羅)-- | |
662 | | | 阿曇比羅夫、百済再興に向かう(-朝鮮半島-朝鮮、日本、百済)--朝鮮三国時代 | |
| | | 阿曇比羅夫 飛鳥時代の武将。滅亡直前の百済(くだら)の救援に赴き活躍したが、白村江(はくすきのえ)で唐の水軍に敗れた。生没年未詳。 | |
663 | | | 白村江の戦い錦江河口付近 白村江?錦江河口付近(群山)百済の滅亡後も、百済の遺臣たちは百済復興を願い、各地で抵抗を続け、人質として日本へおくられていた百済の王子豊璋も、高句麗や日本(斉明天皇、中大兄皇子ら)の支援を受けて、唐・新羅連合軍と戦いますが、内部分裂を起こしてしまいます。 日本(倭国)からも、3万7千人余りの軍が送られ、豊璋らとともに、663年、「白村江」(今の錦江?)の河口付近で、唐・新羅の連合軍と戦いますが、結果、大敗に終わりました。日本史上の「白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦い」です。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅、唐、百済、日本、倭)--朝鮮三国時代 | |
663 | | | 663年,日本が唐に敗れた海戦。白村江(〈はくすきのえ〉とも)は朝鮮南西部の錦江(きんこう)河口付近の古名。かねてから百済(くだら)と争っていた新羅(しらぎ)は,高句麗(こうくり)と戦っていた唐と結び660年,ついに百済の都を占領,王らを捕虜としたので,百済の遺臣は日本に救援を求めた。大和朝廷は朝鮮南部の日本の権益を守るため,これに応じて大軍を派遣,斉明(さいめい)天皇・中大兄(なかのおおえ)皇子らも北九州に本営を置いて指揮したが,天皇は病死。水軍は663年8月27・28両日の海戦で唐の水軍に挟撃(きょうげき)されて大打撃を受けたので,朝鮮からすべての兵を引き揚げ,内政に専心することになった。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅、唐、百済、日本、倭)-- | |
663 | | | 百済が唐に滅ぼされる(-朝鮮半島-朝鮮、新羅、唐、百済、倭)--朝鮮三国時代 | |
663 | | | 錦江河口で2日間にわたって、唐・新羅の連合軍と百済・倭国の連合との戦いで倭国の水軍を壊滅させ、唐の勝利。古名をとって、「白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦い」と呼ばれる。倭は敗戦の影響で西日本各地に山城を築き防人を配備して大宰府を設置した。更に都を近江大津宮に遷都する。百済の再興の望みを断ち切る。以後日本は朝鮮から撤退。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅、唐、百済、倭)--朝鮮三国時代 | |
663 | | | 新羅、倭国の水軍が来て百済を助ける。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅、唐、百済、倭)--朝鮮三国時代 | |
664 | | | 百済の滅亡後、664年まで、王族の福信・僧道?(どうちん)・日本へおくられていた王子豊璋などが、高句麗や日本の大和朝廷の支援を受けて執拗に唐・新羅連合軍と戦っている。日本からは3万7千人余りの軍を送り、663年に、錦江河口で2日間にわたって唐・新羅の連合軍と戦ったが大敗した。古名をとって、「白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦い」と呼ばれる。(-朝鮮半島-新羅、朝鮮、倭、唐、百済)--朝鮮三国時代 | |
665 | | | 耽羅:耽牟羅:屯羅、日本へ使者を送って来朝した(-朝鮮半島-朝鮮、耽羅:耽牟羅:屯羅)-- | |
665 | | | 唐使来日、入京百済人400人余を近江国神(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
665 | | | 百済、扶餘隆が新羅と盟誓を結ぶ(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
666 | | | 新羅、唐に対して高句麗討伐の出兵を求め、唐の高句麗への攻撃が開始(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
666 | | | 耽羅:耽牟羅:屯羅、王子の始如らを日本に派遣して朝貢した(-朝鮮半島-朝鮮、耽羅:耽牟羅:屯羅)-- | |
666 | | | 百済人2000人を東国に移す(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
667 | | | 耽羅:耽牟羅:屯羅、佐平の椽磨らを日本に派遣して朝貢した(-朝鮮半島-朝鮮、耽羅:耽牟羅:屯羅)-- | |
| | | 百済滅亡についで、唐・新羅連合軍は、668年に高句麗を滅ぼし、これによって三国時代は終わり、統一新羅の時代がはじまりました。 | |
668 | | | 高句麗、唐・新羅連合軍が高句麗を滅ぼす(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
668 | | | 高句麗が、新羅と唐によって滅ぼされる。(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗、新羅、唐)--朝鮮三国時代 | |
668 | | | 新羅、唐と連合して高句麗を滅ぼす(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗、新羅、唐)--朝鮮三国時代 | |
668 | | | 高句麗が、新羅と唐によって滅ぼされる。(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗、新羅、唐)--朝鮮三国時代 | |
668 | | | 高句麗滅亡(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗、新羅、唐)-国史年表-朝鮮三国時代 | |
668 | | | 新羅、新羅も唐軍に合流して平壌の長安城を攻め、高句麗を滅ぼす(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
668 | | | 唐が新羅と共に高句麗を滅ぼし、、平壌に安東都護府を設置 高句麗遺民は満洲の営州(遼寧省朝陽)に強制連行される(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-飛鳥時代(年表)- | |
669 | | | 高句麗、唐、安東都護府を設置(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)-- | |
669 | | | 耽羅:耽牟羅:屯羅、王子の久麻伎らを送って日本に朝貢した 日本は耽羅王に五穀の種を賜い、その上で耽羅の王子らは帰国した(-朝鮮半島-朝鮮、耽羅:耽牟羅:屯羅)-- | |
669 | | | 百済人700余人を近江 国蒲生郡におく(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代 | |
670 | | | 新羅、唐と争い、百済故地を収める(~676](-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
670 | | | 新羅、十二月倭国が国号を日本と改めた。自ら言うところでは、日の出る所に近いから、これをもって名としたとの事である。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅、倭:日本)--朝鮮三国時代 | |
671 | | | 渤海、唐・新羅戦争始まる(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
673 | | | 耽羅:耽牟羅:屯羅、王子の久麻藝や都羅宇麻らを送って日本に朝貢した(-朝鮮半島-朝鮮、耽羅:耽牟羅:屯羅)-- | |
674 | | | 新羅、高句麗王(安勝を報徳王として)、新羅に亡命してきたのを金馬渚に冊封した(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
676 | | | 朝鮮半島、三国時代~新羅による朝鮮統一~ 紀元前108年より長きに渡る中国勢力からの支配を受けていた朝鮮。しかし、それも中国東北地方から出た民族が建てた国、高句麗により中国勢力の拠点、楽浪郡が滅ぼされると[313年)朝鮮半島内における激しい争いの幕開けとなります。朝鮮半島の南にある小国は、まとまり始め百済、新羅が誕生。朝鮮半島の三国時代の始まりです。&ref(): File not found: "image1201.jpg" at page "aaaaa";さぁ、上の図を見れば圧倒的に有利なのは高句麗ですね。4世紀後半、高句麗は中国の東北地方から朝鮮半島の北の大半を領土とし全盛期を迎えます。しかし、これは中国にとってはやっかいです。これ以上、高句麗には力をつけて欲しくはないところ・・・。6世紀後半から7世紀前半に高句麗は、中国(隋・ずい)から再三に渡って攻撃を受けることになります。ですが、この頃の高句麗は超つよく、その攻撃をすべて跳ね返す!ですが、その頃、南で着実に勢力を伸ばしている国がありました。新羅です。新羅は、地図を見ればわかるように朝鮮半島の東側だから中国からは遠い。ということは、中国にとって新羅は直接の脅威ではなかったわけです。新羅は、中国との良好な関係を保ちながら、百済、高句麗の領土を削っていきます。この新羅の勢力拡大に脅威を抱いた高句麗は百済と同盟を結ぶことになります。6世紀後半のことです。高句麗は、隋からの攻撃を受けながら、新羅の動きにも目を光らせていなければならなかった訳ですね。そして、中国でも大きな動きが起こります。隋が滅び、かわり唐が中国を支配しました。この唐と新羅は同盟を結ぶことになります。660年のことです。唐と手を組んだ新羅はさっそく連合軍を率いて百済を滅亡[660年8月)。この戦いは、日本も大きく関わっています。白村江の戦い(はくすきのえ・はくそんこうのたたかい)です。日本は百済を助ける為に大軍を送り込みますが、残念ながら敗退します。:668年そして、新羅は高句麗も滅ぼしました。(-朝鮮半島-高句麗、朝鮮)--朝鮮三国時代→南北国時代 | |
676 | | | 朝鮮半島、三国時代~新羅による朝鮮統一~紀元前108年より長きに渡る中国勢力からの支配を受けていた朝鮮。しかし、それも中国東北地方から出た民族が建てた国、高句麗により中国勢力の拠点、楽浪郡が滅ぼされると[313年)朝鮮半島内における激しい争いの幕開けとなります。朝鮮半島の南にある小国は、まとまり始め百済、新羅が誕生。朝鮮半島の三国時代の始まりです。圧倒的に有利なのは高句麗ですね。4世紀後半、高句麗は中国の東北地方から朝鮮半島の北の大半を領土とし全盛期を迎えます。しかし、これは中国にとってはやっかいです。これ以上、高句麗には力をつけて欲しくはないところ・・・。6世紀後半から7世紀前半に高句麗は、中国(隋・ずい)から再三に渡って攻撃を受けることになります。ですが、この頃の高句麗は超つよく、その攻撃をすべて跳ね返す!ですが、その頃、南で着実に勢力を伸ばしている国がありました。新羅です。新羅は、地図を見ればわかるように朝鮮半島の東側だから中国からは遠い。ということは、中国にとって新羅は直接の脅威ではなかったわけです。新羅は、中国との良好な関係を保ちながら、百済、高句麗の領土を削っていきます。この新羅の勢力拡大に脅威を抱いた高句麗は百済と同盟を結ぶことになります。6世紀後半のことです。高句麗は、隋からの攻撃を受けながら、新羅の動きにも目を光らせていなければならなかった訳ですね。そして、中国でも大きな動きが起こります。隋が滅び、かわり唐が中国を支配しました。この唐と新羅は同盟を結ぶことになります。660年のことです。唐と手を組んだ新羅はさっそく連合軍を率いて百済を滅亡[660年8月)。この戦いは、日本も大きく関わっています。白村江の戦い(はくすきのえ・はくそんこうのたたかい)です。日本は百済を助ける為に大軍を送り込みますが、残念ながら敗退します。:668年そして、新羅は高句麗も滅ぼしました。676統一新羅時代[676ー935]統一後の新羅は文化・芸術の興隆に努め、特に仏教文化はこの時期に黄金期を迎えます。しかし、貴族層の間での覇権争いにより次第に国力が衰退していき、結局935年に高麗に併合されてしまいました。しか~し!百済、高句麗を滅ぼした新羅。この新羅が今度は唐にとっては目障りです。なんと、共に戦った新羅と唐が戦争状態になります。670年のことです。この争いは6年続きます。(-朝鮮半島-高句麗、朝鮮)-- | |
676 | | | 平壌(ぴょんやん)に設置されていた唐の安東都護府(あんとうとごふ)が遼陽(りょうよう)まで撤退すると新羅による朝鮮半島の統一が達成されました。当時の国王は文武王(ぶんぶほう)です。(-朝鮮半島-、朝鮮)-- | |
676 | 三国時代→統一新羅時代 | |
676 | | | 統一新羅時代[676ー935] 統一後の新羅は文化・芸術の興隆に努め、特に仏教文化はこの時期に黄金期を迎えます。しかし、貴族層の間での覇権争いにより次第に国力が衰退していき、結局935年に高麗に併合されてしまいました。しか~し!百済、高句麗を滅ぼした新羅。この新羅が今度は唐にとっては目障りです。なんと、共に戦った新羅と唐が戦争状態になります。670年のことです。この争いは6年続きます。(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代→南北国時代 | |
676 | | | 新羅,三国統一.高句麗の北半分唐の領土となる(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--朝鮮三国時代→南北国時代 | |
676 | | | 新羅の朝鮮半島統一 (-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-飛鳥時代(年表)- | |
676 | | | 新羅が、唐を追い出し、三国を統一することになる。ここに統一新羅が誕生する。統一新羅時代(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--朝鮮三国時代→南北国時代 | |
676 | | | 統一新羅と後三国時代[676~918年] 新羅は骨品制〔こっぴんせい〕という貴族制度を通して王権を強化した。華やかな文化が花開いた。手工業や商業が活発になり、絹織物、金銀細工、螺鈿漆器、人参などを唐や日本に輸出して富を得た。末期には、王権が弱くなり地方では豪族勢力が成長して、後高句麗、後百済などという国をたて、ふたたび三国が鼎立することになった。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--朝鮮三国時代→南北国時代 | |
676 | | | 平壌(ぴょんやん)に設置されていた唐の安東都護府(あんとうとごふ)が遼陽(りょうよう)まで撤退すると新羅による朝鮮半島の統一が達成されました。当時の国王は文武王(ぶんぶほう)です。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--朝鮮三国時代→南北国時代 | |
676 | | | 新羅、三国統一(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-国史年表-朝鮮三国時代→南北国時代 | |
676 | | | 新羅、高僧の義湘に浮石寺を創建させる 唐、熊津都護府・安東都護府を撤収する(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
676 | | | 渤海、新羅が朝鮮半島を統一(首都は慶州)(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
676 | | | 百済、扶餘隆高句麗にて死去 唐の則天武后はその孫に高句麗(百済)王を名乗らせるが領土なく絶える(-朝鮮半島-朝鮮、百済)--朝鮮三国時代→南北国時代 | |
676 | | 新羅が朝鮮半島をほぼ統一(-朝鮮半島-唐、新羅、朝鮮)-総合年表(北・東・東南アジア)- | |
682 | | | 新羅,国学を設立.博士と助教を決め儒学を教える(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--南北国時代 | |
682 | | | 新羅、国学を建てる(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-国史年表-南北国時代 | |
682 | | | 渤海、礼部の配下に国学を創立(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
684 | | | 渤海、安勝の一族の反乱、報徳国を滅ぼす(統一の完了)(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
685 | | | 九州五小京設置.中央集権的地方統治制度を作り,地方を支配(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--南北国時代 | |
685 | | | 新羅、九州五小京設置(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-国史年表-南北国時代 | |
686 | | | 渤海、高句麗、滅亡(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
687 | | | 新羅、九州五京の郡県制を確率(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--南北国時代 | |
687 | | | 渤海、祖廟を祭る五廟の制度を整備し、儒教理念の明確化、郡県制の確立(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
689 | | | 渤海、租米による俸禄制を始める(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
690 | 690年~900年:渤海(属国)&deco(silver,white,9]{よいこの正しい半島歴史年表}; | |
692 | | | 渤海、《孝昭王[692~702]即位》(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
696 | | | 高句麗の将軍出身の大祚栄が出て、高句麗を復興させるとして、696年に遼東地方に震国を建てた。(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
697 | | | 渤海、契丹・李尽忠の乱 靺鞨の乞乞仲象、乞四比羽らが東走 唐、契丹族の反乱により安東都護府を廃して、都護府とする(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
698 | | 渤海 698年 - 926年(-朝鮮半島-古朝鮮)-消滅した政権一覧- | |
| | | 高句麗の将軍出身の大祚栄,震国(後の渤海)建国[698中国の唐の内政混乱に乗じて、営州に強制移住させられていた高句麗の遺民たちが、大祚栄(テジョヨン)の指揮の下、旧高句麗の地に帰還し、震国を建国する。幾たびか唐の討伐を凌ぎつつ勢力を拡大し、ついに、713年、唐に独立を認めさせ、渤海(パレ)が誕生した。渤海は、926年の滅亡まで、200年余り続いた。[698渤海[698年-926年]-高句麗の滅亡後、遺民らが建国した国家:698年高句麗、大祚栄、渤海国を建国:698年中国の唐の内政混乱に乗じて、営州に強制移住させられていた高句麗の遺民たちが、大祚栄(テジョヨン)の指揮の下、旧高句麗の地に帰還し、震国を建国する。幾たびか唐の討伐を凌ぎつつ勢力を拡大し、ついに、渤海の建国[698震国[696ー)渤海[713ー926]渤海は高句麗が滅びる頃に誕生しました。渤海は、高句麗の将軍である大祚栄が高句麗の難民たちからなる兵士たちと共に建国した国です。一時期は、中国の北東地域までを占める領土を有するほどの国力を保持していました。その当時、中国の唐は渤海を「海の東に隆盛した国(海東盛国)」と呼ぶほどでした。渤海は高句麗のかつての領土を回復し、高句麗を継承した国であるという点で歴史的に重要な意味を持っています。[698新羅、三月に日本国から使臣が来たので、王は崇礼殿で引見した。 | |
698 | | | 南北国時代[698ー918] 南北国時代[698ー918](南北国時代-朝鮮半島-朝鮮)--南北国時代 | |
698 | | | 中国の唐の内政混乱に乗じて、営州に強制移住させられていた高句麗の遺民たちが、大祚栄(テジョヨン)の指揮の下、旧高句麗の地に帰還し、震国を建国する。幾たびか唐の討伐を凌ぎつつ勢力を拡大し、ついに、713年、唐に独立を認めさせ、渤海(パレ)が誕生した。渤海は、926年の滅亡まで、200年余り続いた。(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗、震国(渤海))--南北国時代 | |
698 | | | 渤海[698年-926年]-高句麗の滅亡後、遺民らが建国した国家 :698年高句麗、大祚栄、渤海国を建国:698年中国の唐の内政混乱に乗じて、営州に強制移住させられていた高句麗の遺民たちが、大祚栄(テジョヨン)の指揮の下、旧高句麗の地に帰還し、震国を建国する。幾たびか唐の討伐を凌ぎつつ勢力を拡大し、ついに、渤海の建国(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗、震国(渤海))--南北国時代 | |
698 | | | 震国[696ー) 渤海[713ー926] 渤海は高句麗が滅びる頃に誕生しました。渤海は、高句麗の将軍である大祚栄が高句麗の難民たちからなる兵士たちと共に建国した国です。一時期は、中国の北東地域までを占める領土を有するほどの国力を保持していました。その当時、中国の唐は渤海を「海の東に隆盛した国(海東盛国)」と呼ぶほどでした。渤海は高句麗のかつての領土を回復し、高句麗を継承した国であるという点で歴史的に重要な意味を持っています。(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗、震国(渤海))--南北国時代 | |
698 | | | 新羅、三月に日本国から使臣が来たので、王は崇礼殿で引見した。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--南北国時代 | |
| | 震国(のちの渤海)[698年-926年]- 高句麗の滅亡後、高句麗の将軍出身の大祚栄,遺民らが建国した国家。中国の唐の内政混乱に乗じて、営州に強制移住させられていた高句麗の遺民たちが、大祚栄(テジョヨン)の指揮の下、旧高句麗の地に帰還し、震国を建国する。幾たびか唐の討伐を凌ぎつつ勢力を拡大し、ついに、713年、唐に独立を認めさせ、渤海(パレ)が誕生した。渤海は、926年の滅亡まで、200年余り続いた。 | |
698 | | | 渤海の建国(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-国史年表-南北国時代 | |
698 | | | 渤海、日本国からきた使者を崇礼殿で引見 大祚栄、震国の建国(吉林省敦化付近:東牟山)(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
| | | 渤海[698年-926年]-高句麗の滅亡後、遺民らが建国した国家 :698年高句麗、大祚栄、渤海国を建国:698年中国の唐の内政混乱に乗じて、営州に強制移住させられていた高句麗の遺民たちが、大祚栄(テジョヨン)の指揮の下、旧高句麗の地に帰還し、震国を建国する。幾たびか唐の討伐を凌ぎつつ勢力を拡大し、ついに、渤海の建国
渤海は高句麗が滅びる頃に誕生しました。渤海は、高句麗の将軍である大祚栄が高句麗の難民たちからなる兵士たちと共に建国した国です。一時期は、中国の北東地域までを占める領土を有するほどの国力を保持していました。その当時、中国の唐は渤海を「海の東に隆盛した国(海東盛国)」と呼ぶほどでした。渤海は高句麗のかつての領土を回復し、高句麗を継承した国であるという点で歴史的に重要な意味を持っています。 渤海、日本国からきた使者を崇礼殿で引見 大祚栄、震国の建国(吉林省敦化付近:東牟山) | |
699 | | | 渤海、唐への朝貢を再開(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
702 | | | 渤海、《聖徳王[702~737]即位》(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
703 | | | 新羅、日本国から使臣が来たが、みんなで二百四名であった。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--南北国時代 | |
704 | | | 渤海、『最勝王経』(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
705 | | | 渤海、大門芸が唐に入侍 唐による侍御史を震国に派遣 安東都督府復活(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
705 | | | 渤海、大飢饉~706(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
713 | | | 大祚栄は713年に唐から渤海国王に冊封され、それ以後震国は渤海国を国号とした。渤海(パレ)は、926年の滅亡まで、200年余り続いた。(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗、震国(渤海))--南北国時代 | |
| | 震国の大祚栄は713年に国号を震国から渤海国と改める、渤海の成立 | |
713 | | | 渤海、唐、大祚栄に渤海郡王に冊封(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
717 | | | 渤海、「十哲七十二弟子図」などがもたらされる 医博士・算博士を創設(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
718 | | | 漏刻(水時計)製作(奈良時代-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--南北国時代 | |
719 | | | 大祚栄死去(奈良時代-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--南北国時代 | |
719 | | | 渤海、大祚栄卒し、大武芸即位 周辺の靺鞨諸部族を編入する(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
721 | | | 渤海、渤海への対策として北辺の国境地帯に長城を築く 新羅による東北国境での長城建設(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
722 | | | 新羅,農民に丁田支給.官吏に官僚田支給し税を納めさせる(奈良時代-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--南北国時代 | |
722 | | | 新羅、日本の賊の路を遮断した。(奈良時代-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--南北国時代 | |
722 | | | 新羅、丁田支給(奈良時代-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-国史年表-南北国時代 | |
722 | | | 渤海、毛伐郡城を築いて日本の賊の侵入を防ぐ 黒水靺鞨が渤海領を通過して唐に遣使(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
725 | | | 渤海、唐により黒水靺鞨に黒水府が設置される(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
726 | | | 渤海、大武芸の弟・大門芸、唐に亡命(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
727 | | | 渤海、渤海、高仁義らを日本に派遣 蝦夷地に漂着したため高仁義等多数が殺害され、残った者が高斉徳に率いられ入京(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
727 | | | 9. 渤海使、出羽国にくる(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗、震国(渤海))-奈良時代(年表)-南北国時代 | |
728 | | | 渤海、日本、送渤海使を派遣(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
731 | | | 新羅、日本国の兵船三百隻が海を越えて、東辺を襲う。(奈良時代-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--南北国時代 | |
731 | | | 渤海、日本の戦船300艘が東部海岸に攻め寄せて辺境を襲ったがこれを撃破(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
732 | | | 渤海、渤海の将・張文休、水軍を率いて山東の蓬莱港を占領(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
733 | | | 渤海、渤海が山東半島に攻め込んだとき、唐の要請により渤海南部を攻めたが、失敗退却する 唐、大門芸に命じて渤海を攻撃させるが、大雪のため失敗(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
735 | | | 渤海、新羅、唐より大同江以南の領有を認められる(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
737 | | | 渤海、《孝成王[737~742]即位》(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
738 | | | 渤海、唐から『道徳経』を下賜 大武芸卒、大欽茂即位 唐との関係を修復する(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
739 | | | 渤海、遣唐判官・平群広成、渤海使とともに帰国(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
742 | | | 新羅、日本の国使が来たが、これを受け付けなかった。(奈良時代-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--南北国時代 | |
742 | | | 渤海、《景徳王[742~765]即位》(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
743 | | | 渤海、玄宗自らが注釈をつけた『孝経』を下賜(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
746 | | | 渤海、渤海人及び鉄利人1100人出羽国に漂着(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
749 | | | 渤海、この頃、旧国より中京顕徳府(吉林省和龍県西古城)に遷都(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
751 | | | 仏国寺と石窟庵を建立(奈良時代-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--南北国時代 | |
751 | | | 仏国寺と石窟庵を建てるの再建始まる(奈良時代-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-国史年表-南北国時代 | |
751 | | | 渤海、仏国寺・石窟庵、築造開始(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
753 | | | 新羅、秋八月に日本国使が来た。高慢無礼と判断し、王は接見しなかった。(奈良時代-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--南北国時代 | |
755 | | | 渤海、この頃、中京顕徳府から上京龍泉府(黒龍江省寧安県東京城)に遷都(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
757 | | 朝鮮で、新羅が全国を9州に分け郡県の名称を唐風に変える(-朝鮮半島-新羅、朝鮮)-総合年表(北・東・東南アジア)- | |
757 | | | 渤海、全国各地の地名を唐風に改称 官僚制度も行き詰まりとその矛盾により、官僚への俸給制度を廃止して禄邑制度を復活(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
759 | | | 渤海、中央官庁とそれに属する官職名についても唐風のものへの改称(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
762 | | | 渤海、六城を築いて渤海への備えとした 唐により大欽茂を渤海国王に冊封(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
765 | | | 渤海、《恵恭王[765~780]即位》 この頃より新羅国の動揺・衰退がはじまる(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
768 | | | 渤海、律令体制の推進派と旧来の貴族連合的体制への復帰派との間の対立(~780](-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
774 | | | 渤海、大興から宝暦に改元(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
777 | | | 渤海、日本の舞女11人を唐に献上(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
779 | | | 渤海、渤海人通事、日本の朝廷で鉄利人と席を争う(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
780 | | | 渤海、恵恭王、殺害される 《宣徳王[780~785]即位》(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
785 | | | 渤海、宣徳王、病にて没す 上京龍泉府から東京龍原府(吉林省琿春県八連城)に遷都 《元聖王[785~798]即位》(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
788 | | | 新羅、読書三品科を設ける(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗、渤海)--南北国時代 | |
788 | | | 新羅,学問の成績により官吏を任命する読書三品科設置.(奈良時代-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--南北国時代 | |
788 | | | 新羅、読書三品科設置(奈良時代-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-国史年表-南北国時代 | |
788 | | | 渤海、官吏登用の制度として、科挙に類似する「読書三品」を定める 国の西部で盗賊が現われる(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
790 | | | 渤海、新羅、伯魚を渤海に派遣(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
793 | | | 渤海、大欽茂卒 弟・元義が即位するが廃位され、嫡孫が即位 都を東京龍原府から上京龍泉府に戻す 中央集権的な官僚制度を整備(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
794 | | | 渤海、奉恩寺を建て、王宮の西には望恩楼を築く(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
798 | | | 渤海、唐により大嵩?を渤海国王に冊封(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
799 | | | 渤海、《昭聖王[799~800]即位》(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
800 | | | 渤海、《哀荘王[800~809]即位》(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
801 | | | 渤海、耽羅国(済州島)からの朝貢(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
802 | | | 新羅、冬十二月、均貞に大阿?の官を授けて、仮の王子にして、日本国への人質にしようとしたが、均貞がこれを断った。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--南北国時代 | |
802 | | | 入唐僧の順応と理貞により慶尚南道に海印寺創立(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--南北国時代 | |
802 | | | 渤海、伽耶山に海印寺を創建(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
803 | | | 渤海、日本とも国交が再開(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
804 | | | 新羅、夏五月日本国が使臣を派遣して、黄金三百両を進上した。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--南北国時代 | |
804 | | | 渤海、日本から黄金三百両が進上された(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
804 | | | 3.28 平安仏教の黎明、遣唐使、藤原葛野麻呂に空海(くうかい・最澄(さいちょう)らが同行唐へ渡る(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗、渤海、日本)-唐の時代(年表)-南北国時代 | |
805 | | | 渤海、律令体制の没落が始まる(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
806 | | | 新羅、春三月日本国使臣が来たので、王は朝元殿で引見した。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--南北国時代 | |
806 | | | 渤海、日本からの使者を朝元殿で引見した(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
808 | | | 新羅、春二月に日本国の使臣が来た。王は厚い礼で、これを待遇した。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--南北国時代 | |
808 | | | 渤海、日本国の使者を厚くもてなした(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
809 | | | 渤海、摂政の反乱で、哀荘王は王弟とともに殺害される 唐により大元瑜を渤海国王に冊封 《憲徳王[809~826]即位》(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
810 | | | 渤海、唐に王子金憲章、金銀製の仏像などを献上 日本からの最後の第15次遣渤海使(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
812 | | | 渤海、渤海へ使者を派遣して動向をうかがう 新羅が崇正を派遣(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
813 | | | 渤海、唐により大言義を渤海国王に冊封(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
816 | | | 渤海、飢饉のため、唐の浙江省東部[170人)・日本へ[200人)の難民発生する(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
818 | | | 渤海、唐により大仁秀を渤海国王に冊封(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
819 | | | 渤海、唐の?州で反乱が起こると3万の兵を派遣する 各地の賊徒がいっせいに蜂起、鎮圧(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
821 | | | 渤海、王文矩を日本に派遣(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
822 | | | 渤海、都督職を歴任した金憲昌が反乱、鎮圧(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
825 | | | 渤海、金憲昌の子の金梵文が反乱、鎮圧(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
826 | | | 渤海、大同江沿いにに300里の長城を築いて、渤海の南下の備えとした 新羅、渤海との国境に長城を築く 《興徳王[826~836]即位》(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
827 | | | 渤海、旧高句麗系の僧丘徳が経典を持ち帰る(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
828 | | | 張保皐、清海鎮設置(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗、渤海)--南北国時代 | |
828 | | | 新羅の張保皐,清海鎮設置.南海と黄海の海上交通を支配.貿易独占(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--南北国時代 | |
828 | | | 張保皐、青海鎮設置(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-国史年表-南北国時代 | |
828 | | | 渤海、金大廉が持ち帰った茶の種子を地理山に植える(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
830 | | | 渤海、大仁秀卒、大彜震が即位 咸和と改元(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
832 | | | 渤海、春夏の旱魃、7月の大雨で凶作(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
833 | | | 渤海、凶作で民が飢餓に苦しみ流行り病で多くの死者 賀守謙を幽州盧龍節度使に派遣 唐により張建章の渤海遣使(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
834 | | | 百官の服色制度公布.冠帽や服装の型,色,形によって官位を見分ける(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--南北国時代 | |
834 | | | 百宮の服色制度の公布(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-国史年表-南北国時代 | |
834 | | | 渤海、奢侈を禁じるとともに王都の住民に対する身分序列を明確化「頭品制度」(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
836 | | | 渤海、《僖康王[836~838]即位》(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
838 | | | 渤海、金明・利弘らが軍を起こして王の側近の貴族を殺害する反乱、僖康王自殺 《閔哀王[838~839]即位》(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
839 | | | 渤海、張保皐のもとに集結した祐徴らの一派、祐徴派の金陽軍により閔哀王殺害される 《神武王[839]即位》病に倒れ没する 《文聖王[839~857]即位》(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
840 | | | 渤海、新羅からの人質や学生あわせて105名の帰国(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
846 | | | 渤海、張保皐(弓福)の乱起こる(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
853 | | | 渤海、張建章が幽州に戻り『渤海記』を著す(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
857 | | | 渤海、《憲安王[857~861]即位》(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
858 | | | 渤海、晩霜、干害(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
859 | | | 渤海、穀物が高騰し、国民が餓える(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
860 | | | 渤海、憲安王、病にて没す(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
861 | | | 渤海、《景文王[861~875]即位》(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
864 | | | 新羅、夏四月に日本国の使臣が来た。(平安時代-朝鮮半島-朝鮮、新羅、日本)--南北国時代 | |
864 | | | 渤海、日本からも国使を迎える(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
867 | | | 渤海、王都金城で疫病が流行り、洪水が起こる(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
869 | | | 渤海、唐に王子の金胤らを派遣し、馬二匹・砂金百両・銀二百両ほか、様々の進奉を行なう(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
870 | | | 渤海、王都が地震・洪水、冬には疫病が流行る(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
873 | | | 渤海、飢餓と疫病が起こる(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
875 | | | 渤海、《憲康王[875~886]即位》(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
876 | | | 渤海、皇龍寺で百高座を設けて講義・討論を行なう(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
878 | | | 渤海、日本からの使者を朝元殿で引見する(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
879 | | | 新羅、八月に日本国の使臣が来た。王はこれを朝元殿で引見した。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--南北国時代 | |
882 | | | 新羅、夏四月に日本国王が使臣を派遣して、黄金三百両と明珠十箇を進上した。(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--南北国時代 | |
882 | | | 渤海、日本国王が黄金300両と明珠10個とを進上する(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
886 | | | 渤海、《定康王[886~887]即位》(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
887 | | | 新羅、《真聖女王[887~897]即位》 国内で反乱が続発し、後三国時代の幕開けとなる(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
887 | | | 渤海、定康王、病死 《真聖女王[887~897]即位》 国内で反乱が続発し、後三国時代の幕開けとなる(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
888 | | | 新羅,歴代の郷歌を集めた「三代目」編纂(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--南北国時代 | |
888 | | | 新羅、「三代目」編纂(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-国史年表-南北国時代 | |
892 | | 後百済 892年 - 936年(-朝鮮半島-後百済、朝鮮)--南北国時代→後三国時代 | |
892 | | | 後百済、甄萱が完山に後百済を興す(-朝鮮半島-後百済、朝鮮)-- | |
892 | 後三国時代[892年-936年] | |
892 | | 新羅が衰退(後三国時代へ)(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)--南北国時代→後三国時代 | |
894 | | | 後高句麗[894年-918年]→高麗 9~10世紀頃繁栄を誇った新羅であるが、8世紀末頃から王都内で反乱や内紛が相次ぎ、加えて農民たちの蜂起もあって、新羅朝廷の統治能力は、弱体化していた。9世紀地方の豪族達も反乱を起こし、新羅の政権から離脱していった。中でも、甄萱(キョオヌウォン)、梁吉(ヤンキル)、弓裔(クンイェ)らが有力な勢力であった。そして、これらの勢力によって、新羅は、3つに分裂することになる。900年即ち、甄萱がに後百済を建国し、弓裔は898年に後高句麗を建国したのである。(-朝鮮半島-朝鮮、後高句麗)--後三国時代 | |
894 | | | 後高句麗[894年-918年]→高麗(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--後三国時代 | |
896 | | | 王建,弓裔に帰服しその部将となる(-朝鮮半島-朝鮮)--後三国時代 | |
896 | | | 赤袴の乱.真聖女王10年,王都西部で民乱起こる(-朝鮮半島-朝鮮)--後三国時代 | |
896 | | | 甄萱が後百済を建国(-朝鮮半島-朝鮮、後百済)--後三国時代 | |
897 | | | 新羅、《孝恭王[897~912]即位:酒色におぼれる》 大規模な内乱(後三国時代)に突入しており、後百済の甄萱や後高句麗の弓裔などの勢力が急激に領土を侵食していた (赤袴賊と呼ばれる集団による反乱をみる)(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
900 | | | 朝鮮で、甄萱が後百済王と称する,後百済建国.現在の全羅道と忠清道を支配(-朝鮮半島-朝鮮、後百済)-総合年表(北・東・東南アジア)-後三国時代 | |
900 | | | 甄萱、後百済建国(-朝鮮半島-朝鮮、後百済)-国史年表-後三国時代 | |
900 | | | 9~10世紀頃繁栄を誇った新羅であるが、8世紀末頃から王都内で反乱や内紛が相次ぎ、加えて農民たちの蜂起もあって、新羅朝廷の統治能力は、弱体化していた。9世紀になると地方の豪族達も反乱を起こし、新羅の政権から離脱していった。中でも、甄萱(キョオヌウォン)、梁吉(ヤンキル)、弓裔(クンイェ)らが有力な勢力であった。そして、これらの勢力によって、新羅は、3つに分裂することになる。即ち、甄萱が900年に後百済を建国し、弓裔は898年に後高句麗を建国したのである。(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗、後百済)--後三国時代 | |
901 | 10世紀:長白山が過去2000年間で世界最大級の巨大噴火(半島リセット) | |
901 | | | 弓裔、後高句麗建国(-朝鮮半島-朝鮮、後高句麗)-国史年表-後三国時代 | |
901 | | | 後高句麗を建国(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--後三国時代 | |
901 | | | 弓裔,後高句麗建国.(後三国時代のはじまり)(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--後三国時代 | |
901 | | | 後高句麗建国(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗)--後三国時代 | |
902 | | | 後高句麗、弓裔が後高句麗を興す(-朝鮮半島-朝鮮、後高句麗)-- | |
904 | | | 後高句麗、弓裔が国号を摩震とする[911:泰封と改名)(-朝鮮半島-後高句麗、朝鮮、摩震)-- | |
904 | | | 朝鮮で、弓裔が後高句麗王と称する(後三国時代)(-朝鮮半島-唐、朝鮮)-総合年表(北・東・東南アジア)- | |
906 | | | 渤海、宰相の烏?度を唐に遣使 その子の光賛、賓貢に及第(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
| | | 皇帝を頂点とする中央集権型の国家体制を確立し、その政治体制は朝鮮や日本などの周辺国家にも広く影響を与えました。外戚をはじめとする貴族・権臣勢力や、安史の乱以降は藩鎮勢力、晩期になると宦官達にも悩まされ、皇帝は権限を失い国家は衰退します。王仙芝、黄巣の乱などの混乱の末、哀帝(李祝)が朱全忠(後梁の太祖)に位を譲り、滅亡しました。 | |
911 | | | 渤海、大光賛を後梁に派遣(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
912 | | | 新羅、《神徳王[912~917]即位》 後高句麗の弓裔、後百済の甄萱などの勢力に浸食されるだけ(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
917 | | | 新羅、《景明王[917~924]即位》(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
918 | | | 9世紀になると新羅は内紛のため分裂状態となり、918年に後高句麗の将軍王建が高麗をたて、朝鮮半島を統一した。高麗は仏教を保護し、唐と宋の制度を取り入れて栄えた。(-朝鮮半島-朝鮮、高句麗、高麗)--後三国時代 | |
918 | | 朝鮮で、王建が弓裔を追放し高麗を建国(~1392)(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-- | |
918 | | 王建、高麗建国(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-後三国時代 | |
918 | | | 高麗王朝[918~1392年] 中国の科挙制度が導入され、儒教を統治思想として中央集権的な体制が整備された。(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--後三国時代 | |
918 | | | 中世社会?[~1392](中世社会-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--後三国時代 | |
918 | | | 高麗、後高句麗の豪族の王建が新羅を滅ぼして王位を簒奪し、高麗(首都:開城)を建国する(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-- | |
918 | | 高麗(高 )[918~1392](-朝鮮半島-朝鮮、高麗(高 ))-- | |
918 | | | 渤海、遼に使節を派遣(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
| | 高麗時代[918ー1392] 高麗・・・モンゴル人→女真人→満州人 高麗は、918年に建国されました。この時期、国教として定められていた仏教は、政治と文化に大きな影響を及ぼしながら更に発展しました。高麗青磁やユネスコ世界文化遺産にも指定されている八万大蔵経、直指心経などの重要な遺産もこの時期に作られました。特に、直指心経は世界最初の金属活字で印刷された仏教経典で、グーテンベルク聖書よりも78年前に作られたものです。そんな高麗も14世紀後半からは次第に国力が衰えていきました。676年に新羅によって朝鮮半島初の統一がなされますが、8世紀末から9世紀まで王位継承の争いが起こり、地方でも農民が反乱を起したり、飢饉に見舞われたりと新羅は国力を失っていきます。そんな中、有力な豪族たちが新羅を分裂させ国を建国していきました。後三国時代といわれる時代です。この争いを制したのは高麗。高麗は935年に新羅を併合すると、936年には後百済を滅ぼし朝鮮半島を統一しました。高麗の建国者は王建(おうけん)。首都は開城(かいじょう)です。この高麗。現在、韓国のことをKoreaといいますよね。これは、高麗を表すKoryoが変化したものだといいます。当時、高麗は青磁(せいじ)という陶磁器を輸出し世界に名を知られることになりましたので、この高麗のイメージが強かったのでしょうね。また、高麗は日本ともちょっと因縁があります。そう元寇です。高麗は1259年にフビライ・ハンの率いるモンゴル(元)軍の侵攻により属国となります。これに対して、高麗は三別抄(さんべつしょう)と呼ばれる選抜部隊が奮闘し対抗するのですが、これも1273年には完全に鎮圧されてしまいます。そして、1274年には元により高麗水軍を前面に立てた日本攻撃が始まるのです。文永の役ですね。さらに1281年には再び日本に攻めてきます。弘安の役です。この高麗は、1356年に元から独立しますが、同時期に頻繁に発生していた倭寇(わこう・海賊)に悩まされ、高麗は徐々に衰退していくことになります。中国の科挙制度が導入され、儒教を統治思想として中央集権的な体制が整備された。 | |
919 | | | 開城に都をおいた(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--後三国時代 | |
919 | | | 高麗,開城を都に定める(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--後三国時代 | |
919 | | | 渤海、最後の渤海使を日本に派遣(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
920 | | | 新羅、景明王は王建と好みを通じて後百済に対抗したが、924年に亡くなった(-朝鮮半島-朝鮮、新羅)-- | |
922 | | | 高麗、契丹と国交を結ぶ(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-- | |
923 | | | 高麗、此の頃後梁に入朝する(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-- | |
924 | | | 渤海、渤海軍、契丹軍(遼国)占領中の遼東に反攻(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
925 | | | 渤海、契丹軍(遼国)、渤海の扶余府に侵攻 礼部卿の大和釣ら100戸を率いて高麗に投ず(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
926 | | | 渤海滅亡(-朝鮮半島-朝鮮、契丹、震国:渤海)--後三国時代 | |
926 | | | 渤海を滅ぼした北方民族契丹(きったん)は、急速に勢力を強め、高麗との国境付近まで版図を広げる(-朝鮮半島-朝鮮、契丹、震国:渤海)--後三国時代 | |
926 | | | 渤海滅亡(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-国史年表-後三国時代 | |
930 | | | 渤海、日本との通交が絶える(-朝鮮半島-朝鮮、震国(渤海))-- | |
933 | | | 高麗、後唐の冊封を受ける(-朝鮮半島-高麗、朝鮮)-- | |
935 | | | 新羅の敬順王,高麗に投降、高麗は新羅を併合し、新羅滅亡(-朝鮮半島-高麗、朝鮮、新羅)-総合年表(北・東・東南アジア)-後三国時代 | |
935 | | | 新羅滅亡(-朝鮮半島-高麗、朝鮮、新羅)-国史年表-後三国時代 | |
935 | | | 朝鮮の新羅が滅び、高麗が統一(-朝鮮半島-朝鮮、高麗、新羅)-- | |
935 | | | 新羅を降伏させた(-朝鮮半島-朝鮮、高麗、新羅)--後三国時代 | |
936 | | | 高麗が朝鮮半島統一(-朝鮮半島-高麗、朝鮮)-- | |
936 | | 高麗王朝 成立。高麗、後百済を滅ぼし朝鮮半島統一(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-総合年表(北・東・東南アジア)- | |
936 | | | 高麗、後三国の統一(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-後三国時代→高麗時代 | |
936 | | | 後百済を滅ぼして、高麗が、半島の再統一(後三国統一)をなしとげる。このときの首都は、開城(ケソン)におかれた。(-朝鮮半島-朝鮮、高麗,後百済)--後三国時代→高麗時代 | |
936 | | | 高麗、後百済を滅ぼして朝鮮半島を再統一(-朝鮮半島-朝鮮、高麗、後百済)--後三国時代→高麗時代 | |
936 | | | こうして、新羅、後百済、後高句麗の3国が鼎立する中で、弓裔の下にいた王建(ワンゴン)は、傲慢な弓裔を滅ぼし、918年、新たに高麗(コリョ)を建国し、自ら王を名乗る。王建は、次第に地方の豪族たちをまとめあげ、935年には、新羅を併合、そして、936年には、後百済を滅ぼして、高麗が、半島の再統一をなしとげる。このときの首都は、開城(ケソン)におかれた。高麗時代(-朝鮮半島-朝鮮、新羅、後百済、後高句麗)--後三国時代→高麗時代 | |
940 | | | 高麗、州府郡県の名号を改める(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-- | |
945 | | | 高麗、王位をめぐり、王規の乱おこる(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-- | |
956 | | | もともと官民でありながら奴婢になった者を開放させる,奴婢按検法実施(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
956 | | | 奴婢按検法を実施(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
956 | | | 奴婢按検法実施(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代 | |
958 | | | 科挙制実施(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
958 | | | 科挙制度を実施(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
958 | | | 光宗の代,実力本位で官吏を採用する,科挙制度実施(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
958 | | | 高麗、文班と武班による両班制度・科挙制度の導入(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-総合年表(北・東・東南アジア)- | |
976 | | | 田柴科制度を実施、地位により田地と柴地に差異を設けて分ける(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-総合年表(北・東・東南アジア)-高麗時代 | |
976 | | | 田柴科実施(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代 | |
976 | | | 高麗、田柴科制度(両班・胥吏・軍人に国家から耕作地と燃料採取地を支給)の創設 この時代の特徴: 上級官僚の貴族化 地方豪族の台頭化 北界(契丹・金など)の軍事体制として、屯田兵の設置 仏教寺院の勢力が強大になり、僧兵の出現をみる(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-- | |
983 | | | 十二牧設置(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
983 | | | 全国に十二牧設置,三省,六部,七寺を定める(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
983 | | | 全国に一二牧設置、三省六都を定める(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代 | |
983 | | | 高麗、地方行政機構の整備(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-- | |
992 | | | 中央に国子監設置.地方に郷校設置し儒学など強化(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
992 | | | 国子監設置(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代 | |
993 | | | 高麗、契丹軍、鴨緑江を越えて高麗を侵攻(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-- | |
993 | | | 契丹が何度も侵入し、高麗と激しい戦闘を繰り返した。契丹が西に去ると今度は女真が台頭し金を建国した。高麗は、金に朝貢して国内を安定させた。(-朝鮮半島-朝鮮、高麗、契丹)--高麗時代 | |
993 | | | 契丹が高麗に侵攻(-朝鮮半島-朝鮮、高麗、契丹)--高麗時代 | |
993 | | | 契丹の第一次侵攻.高麗国境を襲う.和約を結ぶ(-朝鮮半島-朝鮮、高麗、契丹)--高麗時代 | |
993 | | | 926年、渤海を滅ぼした北方民族契丹(きったん)は、急速に勢力を強め、高麗との国境付近まで版図を広げ、993年から、1019年まで、実に数次にわたって、高麗に侵攻してきた。だが、高麗は、これらの侵攻をことごとく撃退してしまうと、やがて、契丹の目は西方に向き、やがて、高麗は安定を取り戻す。(-朝鮮半島-朝鮮、高麗、契丹、震国:渤海)--高麗時代 | |
994 | | | 高麗、契丹に服属(-朝鮮半島-高麗、朝鮮、契丹)-宋の時代(年表)- | |
995 | | | 高麗、州県制を施行する(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-- | |
996 | | | 朝鮮における最初の鋳造貨幣,鉄銭(乾元重宝)の鋳造(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
996 | | | 鉄銭(乾元重宝)の鋳造(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代 | |
997 | | | 高麗(朝鮮の一国)使の来日(平安時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)-- | |
998 | | | 品階(階級)制を布く.王侯貴族,文武臣,僧侶など18科に分ける(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
1009 | | | 康兆の政変.武臣の康兆が王権交代を図る.後に契丹に殺される(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
1009 | | | 康兆の政変(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代 | |
1009 | | | 高麗、《顕宗の即位》(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-- | |
1010 | | | 高麗、契丹の侵入を撃退(~1011](-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-- | |
1014 | | | 高麗、武臣が乱をおこす(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-- | |
1018 | | | 高麗、地方官制が改められ、郡県制の確立 契丹の再侵入 &br姜邯賛の活躍により契丹軍を殲滅(亀州大捷)(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-- | |
1019 | | | 亀州大捷.契丹軍,開京付近まで侵攻するが,帰州で敗退(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
1019 | | | 帰州大捷.契丹軍,開京付近まで侵攻するが,帰州で敗退(-朝鮮半島-朝鮮、高麗、契丹)--高麗時代 | |
1019 | | | 姜邯賛が契丹を破る(亀州の戦い)(-朝鮮半島-朝鮮、高麗、契丹)--高麗時代 | |
1019 | | | 亀州大捷(-朝鮮半島-朝鮮、高麗、契丹)-国史年表-高麗時代 | |
1019 | | | 刀伊(女真族)の侵入1019年(-朝鮮半島-朝鮮、高麗、刀伊)--高麗時代 | |
1033 | | | 高麗、高麗の長城の建設開始(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-- | |
1076 | | | 高麗、両班田柴科を改定し、官制を改める(-朝鮮半島-高麗、朝鮮半島)-総合年表(北・東・東南アジア)- | |
1076 | | | 田柴科改定,官制改革.文武官僚の地位にしたがって柴地を与える(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
1076 | | | 田柴科改定、官制改革(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代 | |
1076 | | | 高麗、管制、田柴科制改められ、中央管制が確立(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-- | |
1086 | | | 義天,教蔵都監を設置して「続蔵経」を組み版(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
1086 | | | 義天、教蔵都監を設置して置き「続蔵経」を組み版刻む(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代 | |
1087 | | | 「高麗大蔵経」完成(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
1095 | | | 高麗、李資義の乱(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-- | |
1097 | | | 鋳銭都監設置.災害などの貧民救済に備える(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
1097 | | | 鋳銭都監設置(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代 | |
1102 | | | 海東通宝鋳造.農業中心社会のため広く流通せず(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
1102 | | | 海東通宝鋳造(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代 | |
1106 | | | 高麗、監務の地方派遣はじまる(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-- | |
1107 | | | 高麗、尹?、長城を越えて女真を攻める(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-- | |
1107 | | | 尹グァン、女真征伐(-朝鮮半島-朝鮮、高麗、女真)--高麗時代 | |
1107 | | | 尹グァン,別武班を率いて女真征伐(-朝鮮半島-朝鮮、高麗、女真)--高麗時代 | |
1107 | | | 尹權、女真征伐(-朝鮮半島-朝鮮、高麗、女真)-国史年表-高麗時代 | |
1115 | | | 高麗、(女真族の阿骨打による金国の成立)(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-- | |
1126 | 金(属国):1126年~1234年 | |
1126 | | | 李資謙の乱(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
1126 | | | 李資謙の乱.門閥社会が進んだ結果の権力争い(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
1126 | | | 李資謙の乱(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代 | |
1126 | | | 高麗、李資謙の乱、金に服属(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-- | |
1127 | | | 地方郡県に国立の儒学校,郷校設立(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
1129 | | | 李資謙の乱が起こる(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
1135 | | | 西京遷都運動(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
1135 | | | 妙清の西京遷都運動.金富軾の官軍に鎮圧される(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
1135 | | | 妙清の乱が起こる(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
1135 | | | 妙清の西京遷都運動(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代 | |
1135 | | | 高麗、妙清の乱(~1136]、李氏の没落(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-- | |
1145 | | | 金富軾「三国史記」編纂(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代 | |
1145 | | | 高麗、三国史記編纂される(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-- | |
1146 | | | 第四代国王世宗がハングル(訓民正音)を制定するも集賢殿の副提学であった雀萬理は昔から、中華の土地では風土が異なってる方言を文字にした例はないと批判。これに対し世宗は「これは文字ではないので中華に対しての反逆ではない。訓民正音である。」訓民正音とは愚かな民に発音を教える記号。(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
1147 | | | 同性婚,近親婚を禁止(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
1170 | | | 武臣政変(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
1170 | | | 高麗の鄭仲夫がクーデター、文臣を虐殺。武臣政権が成立(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-総合年表(北・東・東南アジア)-高麗時代 | |
1170 | | | 武臣政変.文臣中心から武臣政権になり,権力争い起こる(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
1170 | | | 武臣政変(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代 | |
1170 | | | 高麗、庚寅の乱(武人政権の成立、以後武人政権が続く)(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-- | |
1171 | | | 武人たちがクーデター(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
1172 | | | 高麗、民衆反乱[~1202](-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-- | |
1173 | | | 高麗で、文臣が再び虐殺される(-朝鮮半島-高麗、朝鮮半島)-総合年表(北・東・東南アジア)- | |
1174 | | | 鄭仲夫、政房設置(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代 | |
1174 | | | 高麗、以降、武人政権内での、私兵の組織化が本格化する(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-- | |
1174 | | | 朝鮮南部に草賊蜂起し、これ以後約30年間全国で騒擾が相次ぐ(-朝鮮半島-朝鮮、東アジア)-総合年表(北・東・東南アジア)- | |
1176 | | | 公州(忠南道)鳴鶴所の亡尹・亡所尹が公州占領する民乱(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
1179 | | | 慶大升,都房(私兵集団)政治(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
1179 | | | 慶大升、都房政治(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代 | |
1182 | | | 全州(全羅南道)民乱.官奴が中心になり州の官吏を襲撃(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
1185 | | | 平氏滅亡1185(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
1192 | | | 源頼朝征夷大将軍となる1192(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
1196 | | | 崔忠献、武臣政権を奪取[~1258] 崔忠献執権.慶大升死後政権を執る(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
1196 | | | 崔忠献執権(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代 | |
1196 | | | 高麗、崔忠献によるクーデター、崔氏政権の始まり(~1258)(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-総合年表(北・東・東南アジア)- | |
1198 | | | 万積の乱.公私奴隷開放をかかげ開京で乱を起こそうとして失敗(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
1198 | | | 万積の乱(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代 | |
1219 | | | 北条氏の執権政治始まる1219(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
1219 | | | 蒙古と通交(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
1219 | | | 蒙古モンゴルと通交(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代 | |
1224 | | | モンゴル使臣が高麗内で遭難する事件が発生するや、急速に関係が悪化、国交を断絶する。モンゴルによる高麗への侵入がはじまり、首都を江華島に移す。徹底抗戦するも、数度にわたるモンゴル侵入で、高麗はすっかり疲弊し、結局、(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
1231 | | | モンゴルの朝鮮侵入開始(~59)。高麗政府が江華島に避難(-朝鮮半島-朝鮮、モンゴル)-総合年表(北・東・東南アジア)- | |
1231 | | | モンゴルの侵入が始まった。高麗は都を江華島に移して抗戦したが、国土はモンゴル軍に蹂躙された。 モンゴル侵入北方でモンゴル帝国が台頭する。高麗はモンゴル帝国と平和的な関係を維持してきたが、 モンゴルが高麗に侵攻 北方でモンゴル帝国が台頭する。高麗はモンゴル帝国と平和的な関係を維持してきたが、1224年、モンゴル使臣が高麗内で遭難する事件が発生するや、急速に関係が悪化、国交を断絶する。モンゴルによる高麗への侵入がはじまり、首都を江華島に移す。徹底抗戦するも、数度にわたるモンゴル侵入で、高麗はすっかり疲弊し、結局、1259年、高麗はモンゴルに服属することになる。 蒙古の使者殺害を機に,蒙古が高麗へ第一次侵入.講和を結ぶ(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
1231 | | | 蒙古モンゴルの第一次侵入(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代 | |
1232 | | | 貞永式目制定1232(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
1232 | | | 江華島に遷都.蒙古と戦う 崔氏政権、王都を開京から江華島に遷す(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
1232 | | | 江華島に遷都(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代 | |
1232 | | | 高麗、モンゴル帝国の侵略始まる、首都を江華島に遷す(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-- | |
1234 | | | 西洋より200年も早く金属活字で「詳定古今礼文」刊行(現存しない)(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
1234 | | | 金属活字で「詳定古今礼文」を刊行(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代 | |
1236 | | | 高麗大蔵教(経・律・論など三蔵の仏教経典の総称)刻印(木版印刷)[~1251] 高麗大蔵経の製作を開始する(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
1236 | | | 高麗「大蔵経」を刻印刻む[-1251](-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代 | |
1258 | | | 高麗の崔氏政権が滅ぶ(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-総合年表(北・東・東南アジア)-高麗時代 | |
1259 | | | 高麗、モンゴル帝国(元)に屈し、属国化(皇帝の娘婿の国になる)(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-総合年表(北・東・東南アジア)- | |
1259 | 1259年~1356年:モンゴル(属国) | |
| | | 高麗,蒙古軍に降伏 高麗はモンゴルに服属することになる。 高麗はモンゴル帝国に服属し、30年に及ぶ抵抗は終わった。元の属国となった高麗は、二度の日本侵攻(元寇)の前線基地となり、多大な負担を強いられた。 高麗王朝、モンゴルに降伏 | |
1270 | | | 開京に遷都(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代 | |
1270 | | | 高麗、開城に復都する(武人の執権の終わり) &br武人派の軍隊三別抄の反乱[~1273](至元7](-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-- | |
1270 | | | 開京遷都 三別抄(精鋭軍隊)の対蒙抗争.開京遷都に反旗を翻すが失敗 武臣政権が終わり、開京に再遷都。三別抄の戦い始まる。 蒙古と講和を結び,開京遷都(-朝鮮半島-朝鮮、高麗、モンゴル)--高麗時代 | |
1270 | | | 三別抄の対蒙モンゴル抗争(-朝鮮半島-朝鮮、高麗、モンゴル)-国史年表-高麗時代 | |
| | | 1271~1368げん元国号の元は1271年に定められた。モンゴル帝国第5代ハーンのフビライ(世祖)が大都(北京)に遷都して、中国を支配。1279年南宋を滅ぼし、領域は中国全土からモンゴル本土を含み、朝鮮、チベットをも服属させた。11代で明の朱元璋に滅ぼされた。 | |
1274 | | | 高麗、元の2度[1281]の日本侵攻(元寇)への協力と出兵により甚大な被害をこうむる(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-- | |
1274 | | | 文永の役(元寇)・水際撃退1274(鎌倉時代-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、高麗、モンゴル(元))-対馬-高麗時代 | |
1274 | | | モンゴル軍と高麗軍が日本へ侵略 一方モンゴルのグビライは、日本を服従させようとして、2度にわたり、日本侵攻を行ったが失敗した。このとき、高麗は全線基地としての役割を命じられるが、多大な負担を強いられた。[~1281] 高麗と元の第一次日本侵略征伐(文永の役)(元寇)(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、高麗、モンゴル(元))-対馬-高麗時代 | |
1274 | | | 元寇(文永の役)、元・高麗軍4万人が小茂田浜に来襲、対馬守護代宗資国以下80余騎戦死。島民被害甚大。 資(助)国:宗氏系譜の祖 文永11 資国[1](-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、高麗、モンゴル(元))-対馬-高麗時代 | |
1274 | | | 文永の役(元寇)第一回蒙古襲来。2万人。(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、高麗、モンゴル(元))-- | |
1274 | | | 征日本派遣軍失敗(文永の役)。元の左丞相バヤン、襄陽から南宋総攻撃の途に上る[9月)。マルコ・ポーロ、元朝廷に至る(至元11](-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、高麗、モンゴル(元))-元の時代(年表)- | |
1274 | | | 元・高麗軍が対馬・壱岐を襲撃し、九州に上陸する(文永の役)(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、高麗、モンゴル(元))-- | |
1274 | | | 高麗・元の第一次日本征伐(元寇)(-朝鮮半島-日本、朝鮮、高麗、モンゴル)-国史年表-高麗時代 | |
1274 | | | 10.5 元軍が対馬・壱岐に初来襲。(元寇)(鎌倉時代-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、高麗、モンゴル、元)-対馬-高麗時代 | |
| | | 元寇-文永の役(ぶんえいのえき)元・高麗軍(約3万人)は対馬・壱岐に続いて博多湾から上陸するが日本軍の奮闘と暴風雨で退却。 | |
1280 | | | 僧一然「三国遺事」編纂(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代 | |
1281 | | | 弘安の役(元寇)・艦隊決戦1281(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
1281 | | | モンゴル軍と高麗軍が再び日本侵略 元の第二次日本侵略(弘安の役)(元寇).暴風雨に遭い撤退(-朝鮮半島-朝鮮、高麗、モンゴル)--高麗時代 | |
1304 | | | 安コウの主張により国学に大成殿設置(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
1304 | | | 安王向の主張によりで国学に大成殿設置を建てる(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代 | |
1314 | | | 萬巻堂設置(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
1314 | | | 萬巻堂の設置(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代 | |
1333 | | | 鎌倉幕府滅亡1333(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
1338 | | | 室町幕府成立1338(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
1350 | | | 倭寇の動きが活発化し、また紅巾賊に都を占拠される事件も発生した。(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
1351 | | | 高麗、恭愍王即位[~1374年)(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-- | |
1354 | | | 高麗、共愍王による反元運動が始まる(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-- | |
1356 | | | 双城摠管府回復 恭愍王、反元(モンゴル)運動を開始(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
1356 | | | 高麗、元軍が高麗から撤退(双城摠管府を回復)(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-- | |
1359 | | | 紅巾軍が朝鮮侵入(~60)(-朝鮮半島-元、朝鮮)-総合年表(北・東・東南アジア)- | |
1359 | | | 紅巾賊(明の成立の契機となった宗教的農民反乱軍)の侵入[~1361](-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
1359 | | | 高麗、紅巾軍侵入する[1362](-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-- | |
1363 | | | 文益漸,元から木綿の種を伝え,衣生活に大革新をもたらす(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
1363 | | | 文益斬、元から木綿の種を伝えるもたらす(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代 | |
1364 | | | 高麗,倭冦対策で倭人万戸府設置(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
1365 | | | 高麗、辛?による改革政治(~1371](-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-- | |
1370 | | | 倭寇(わこう-日本の海賊)が中国・朝鮮などの東アジア広域で襲撃(倭寇の最盛期)-1390(室町時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)-- | |
1374 | | | 高麗、恭愍王が暗殺される。?王が即位[~1388](-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-- | |
1376 | | | 崔瑩,倭冦征伐(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
1376 | | | 崔瑩、倭寇征伐(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代 | |
1377 | | | 「直指心経」印刷.世界最初の金属活字本として公認(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
1377 | | | 崔茂宣の建議で火薬武器製造(火桶都監設置)(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代 | |
1377 | | | 「直指心体要節」印刷(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代 | |
1380 | | | 李成桂,倭冦討伐(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
1388 | | | 威化島回軍武人李成桂はクーデターを興して政権を掌握すると、親明派の支持を受けて体制を固め、 威化島回軍.李成桂反対派の崔瑩を除去.昌王を王位に就ける 李成桂、威化島で引き返して政権を奪う(威化島回軍) 14世紀に入り元が衰え始めると、高麗は元と断交し、北方を奪還して、モンゴル侵入以前の領域を回復する。一方、活発化してきた倭寇に苦しむことになる。しかし、高麗軍の有力武将らが、次第に倭寇に打撃を加え、その脅威は減少する。やがて、中国が明に変わると、高麗内で親元派と親明派との抗争が絶えなかった。1388年、武人李成桂はクーデターを興して政権を掌握すると、親明派の支持を受けて体制を固め、1392年、自ら即位し李氏朝鮮を興し、ここに、高麗は、474年の幕を下ろすことになった。(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)--高麗時代 | |
1388 | | | 威化島回軍(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-国史年表-高麗時代 | |
1388 | | | 高麗、親明派の武将李成桂が威化島で回軍、クーデターを起こし実権者になる(威化島回軍)(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-総合年表(北・東・東南アジア)- | |
1389 | | | 李成桂一派により,昌王廃位恭譲王即位 倭冦の拠点である対馬征伐(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、高麗)-対馬-高麗時代 | |
1389 | | | 朴威、対馬島征伐(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、高麗)-対馬、国史年表-高麗時代 | |
1392 | 1392年~1637年:明(属国) | |
1392 | | | 高麗、鄭夢周が暗殺される(-朝鮮半島-朝鮮、高麗)-- | |
1392 | | 高麗滅亡、李氏朝鮮成立(~1910](高麗滅亡、李氏朝鮮-朝鮮半島-朝鮮、高麗、李氏朝鮮)--高麗時代→李氏朝鮮時代 | |
1392 | ''朝鮮王朝、朝鮮時代[1392~1897] 朝鮮時代[1392~1897]'' | |
1392 | | | 朝鮮の歴史朝鮮半島の歴史/1392(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--高麗時代→李氏朝鮮時代 | |
1392 | | | 朝鮮王朝[1392~1910年] 15世紀に権力構造が改編され、中央集権体制が強化された。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--高麗時代→李氏朝鮮時代 | |
1392 | | | CENTER:朝鮮半島の歴史/1392(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--高麗時代→李氏朝鮮時代 | |
1392 | | | 1392年朝鮮建国高麗(??)の武将、李成桂(???)は、自ら高麗王につき、翌1393年には、国名を「朝鮮」(??)と改称し、首都を漢陽(今のソウル)に移した。その後、数代にわたり、国としての各種制度・体制を整備していくが、王位継承のもつれから、うちのめされた李成桂は、晩年、仏門に帰依することになる。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--高麗時代→李氏朝鮮時代 | |
1392 | | | 1392李成桂が高麗の恭譲王から王位を簒奪し、高麗王に即位、明より権知高麗国事として認められる、(権知高麗国事:高麗の政治をあずかっていると云う地位)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--高麗時代→李氏朝鮮時代 | |
1392 | | | 高麗滅亡.李成桂,朝鮮建国(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--高麗時代→李氏朝鮮時代 | |
1392 | | | 科田法実施.全国の土地の大部分を国家の収租地とする(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--高麗時代→李氏朝鮮時代 | |
1392 | | | 近世社会?(~1863](-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--高麗時代→李氏朝鮮時代 | |
1392 | | | 李成桂、王位に就く、高麗王朝滅亡。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--高麗時代→李氏朝鮮時代 | |
1392 | | | 高麗滅亡.朝鮮建国(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-高麗時代→李氏朝鮮時代 | |
1392 | | | 李氏朝鮮[1392~1897] ・一割もいない両班・貴族階級が、中人、常民、賎民、奴婢を支配・樽も車もなく、庶民は白い服しか着なかった・商店も貨幣もない実物経済、御用証人のみ 朝鮮は、14世紀末に建国されました。儒教が国の基本理念となり、朝鮮社会全般に大きな影響を与えました。1443年には世宗大王によりハングルが作られました。1592年に壬辰倭乱(文禄・慶長の役)が始まると共に諸外国の勢力が侵入してきたことにより、朝鮮の国力は次第に衰退していきました。 モンゴル帝国(元)からの独立を勝ち取った高麗。しかし、この高麗も倭寇(海賊)などの活動により衰退していくことになります。この倭寇の撃退で名を馳せたのが高麗の武将・女真人の李成桂(りせいけい)でした。 李成桂は、1392年に自ら高麗の王に即位します。李成桂は、王に即位すると国号を「朝鮮」としました。ちなみに、朝鮮という呼び名は、以前にも「箕子朝鮮・きしちょうせん」や「衛氏朝鮮・えいしちょうせん」という呼び名がありましたので日本では、これらと分けるために李朝朝鮮または李氏朝鮮と呼ぶことがあります。 この李氏朝鮮の首都は漢城(ソウル)です。 李成桂は、進んで明(中国)の文化や制度を取り入れ、明にならい朱子学(しゅしがく)を官学化したりもしました。今の韓国の国旗は「太極旗」といいますが、あれは朱子学の世界観を図解化したものですね。 15世紀に権力構造が改編され、中央集権体制が強化された。(-朝鮮半島-箕氏朝鮮)--高麗時代→李氏朝鮮時代 | |
1392 | | | 李氏朝鮮の建国(女真人)(-朝鮮半島-李氏朝鮮)--高麗時代→李氏朝鮮時代 | |
1392 | | | 李氏朝鮮 1392年 - 1910年(-朝鮮半島-李氏朝鮮)--高麗時代→李氏朝鮮時代 | |
1392 | | | 1392年自ら即位し李氏朝鮮を興し、ここに、高麗は、474年の幕を下ろすことになった。(-朝鮮半島-李氏朝鮮)--高麗時代→李氏朝鮮時代 | |
1392 | | | 1392年日本では、南北朝が合一。元が滅んで明の時代になると、倭寇や元を見限り明につき元との戦いで功績をあげた李成桂が立ち上がり、1392年に高句麗を王となる。李成桂は、王位につくやすぐさま、当時誕生したばかりの明王朝に伺いを立て国号を決めて貰っている。李成桂は明から権知朝鮮国事(朝鮮・李氏朝鮮初代の王)に封ぜられた。この時、李成桂は、箕氏朝鮮の旧号「朝鮮」と李成桂の生地「和寧」の二つの名前を持ち出し、明の太祖の朱元璋から「朝鮮」の国号を使うことを許されている。世界史の中で様々な国が存在するが、他国に自国の国号を決めて貰った国など、後にも先にも朝鮮ただ一カ国である。本来ならこの一時を持って、朝鮮が中国の属国であった事を、何よりも物語っているのだが、韓国人はこれでもまだ朝鮮が中国の属国であったことを認めないのである。都は漢陽(ソウル)である。朝鮮は約500年続き、明の朝貢国の時代[1393~1637年)、清の朝貢国の時代[1637~1894年)、欧米や日本が干渉した時代[19世紀後半~1910年)に分けられる。李成桂は儒教を崇拝し、仏教を排斥する政策をとった。しかし、彼は晩年に仏門に帰依するなど儒教も仏教も保護された。明の朝貢国の時代には、文禄・慶長の役と清の侵攻の大きな戦争が発生し国土は焦土と化した。李氏朝鮮[1393~1896](-朝鮮半島-李氏朝鮮)--高麗時代→李氏朝鮮時代 | |
1392 | | | 「朝鮮」、建国高麗滅び、李成桂が朝鮮建国(李氏朝鮮)(~1910)。(-朝鮮半島-李氏朝鮮)-明の時代(年表)、総合年表(北・東・東南アジア)- | |
1393 | | | 1393李氏朝鮮[1393~1896](-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1393 | | | 1393李成桂が権知朝鮮国事に冊され、国号が朝鮮となる、明の皇帝から、新たな国号を「朝鮮」と「和寧」の二案から選んでもらうという形式的手順を踏んだ、内乱(~1400](-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1393 | | | 国号を朝鮮とする(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1393 | | | 李成桂が権知朝鮮国事に冊され、国号が朝鮮となる、明の皇帝から、新たな国号を「朝鮮」と「和寧」の二案から選んでもらうという形式的手順を踏んだ、内乱(~1400](-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1394 | | | 開城から漢陽(現ソウル)遷都(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1394 | | | 漢陽(現、ソウル)に遷都(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1394 | | | 都を漢陽と定める(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1394 | | | 漢陽遷都(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1396 | | | 倭寇の本拠地、対馬に軍隊を派遣、政治と軍事を分離した議政府をつくり、中央集権制度の確立(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、李氏朝鮮)-対馬-李氏朝鮮時代 | |
1396 | | | 李氏朝鮮、漢城(ソウル)に遷都(-朝鮮半島-李氏朝鮮)-総合年表(北・東・東南アジア)- | |
1396 | | | 3. 大内義弘、朝鮮に捕虜を送還する(-朝鮮半島-日本、日本、朝鮮)-室町時代(年表)- | |
1398 | | | 第一次王子の乱.五男芳遠,世子冊封に不満を抱き反乱(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1399 | | | 奴婢弁正都監設置.奴婢の戸籍を管理(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1399 | | | 日朝貿易対馬の宗氏が朝鮮と通交。(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮)-- | |
1400 | | | 第二次王子の乱.芳遠の実兄芳幹の乱.芳遠により鎮圧(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1401 | | | 1401明より朝鮮国王の冊封をうける(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1401 | | | 申聞鼓設置.民衆が自由に請願できる制度(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1401 | | | 明より朝鮮国王の冊封をうける(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1402 | | | 1402年号牌法の実施(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1402 | | | 16歳以上の男性に身分を問わず身分証(牌)を携帯させる,号牌法実施(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1402 | | | 号牌法を実施(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1402 | | | 号牌法実施(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1403 | | | 朝鮮で活字ができる(-朝鮮半島-朝鮮)-- | |
1403 | | | 李氏朝鮮、鋳字所を設置、銅活字を造る(-朝鮮半島-李氏朝鮮)-総合年表(北・東・東南アジア)-李氏朝鮮時代 | |
1403 | | | 鋳字所設置(-朝鮮半島-李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1404 | | | 室町幕府と国交回復、日朝貿易盛んとなる(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1408 | | | 李成桂死去.73歳(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1408 | | | 倭寇を鎮めて李氏朝鮮と通交、現在の峰町佐賀を府とする。 応永15 貞茂[7](-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮)-対馬- | |
1411 | | | 漢陽に,人文機関である五部学堂設置.文化水準を高める(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1411 | | | 漢陽に五部学堂設置(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1413 | | | 「太祖実録」を編纂.以来,歴代王朝の実録編纂続く(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1413 | | | 両界地域に道制を施行する(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1413 | | | 「太祖実録」を編纂(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1413 | | | 朝鮮八道の地方行政組織を完成.中央集権体制を確立(-朝鮮半島-李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1413 | | | 朝鮮八道の地方行政組織を完成(-朝鮮半島-李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1416 | | | 四都設置[-1443](-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1418 | | | 《太宗が譲位して、世宗が即位[~1450]》、(儒教の推進による王道政治、現在の朝鮮領土の原型ができる)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1418 | | | 世宗が即位(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1418 | | | 朝鮮王朝第4代王,世宗即位(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1418 | | | 世宗即位(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1419 | | | 応永の外寇(室町時代-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、李氏朝鮮)-対馬- | |
1419 | | | 朝鮮、倭寇征伐を理由として対馬を侵略する。日本、侵略した朝鮮を撃退。 (応永の外寇)(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、李氏朝鮮)-- | |
| | | 応永の外寇(世宗己亥の東征)。李氏朝鮮による対馬侵攻。李従茂に率いられた1万7千人の大軍が倭寇の活躍を封じるため倭冦の本拠地と見なした対馬の浅茅湾に来襲、仁位郡の糠岳付近で合戦。侵略した李氏朝鮮を宗貞盛が撃退。日本の勝利。 応永16 貞盛[8] | |
1419 | | | 6. 明が倭寇を破り、朝鮮が対馬を攻撃。前期倭寇が衰える(-朝鮮半島-明、朝鮮、対馬)-総合年表(北・東・東南アジア)、室町時代(年表)- | |
1420 | | | 集賢殿拡張.学問的作業だけでなく人材の養成と新文化の定着を図る(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1420 | | | 集賢殿拡張(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1420 | | | 朝鮮使節来朝(-朝鮮半島-日本、日本、朝鮮)-室町時代(年表)- | |
1422 | | | 5. 足利義持、朝鮮に大蔵経を求める(-朝鮮半島-日本、日本、朝鮮)-室町時代(年表)- | |
1423 | | | 「高麗史」編纂.高麗時代の歴史を自主的な視点で整理(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1424 | | | 8. 足利義持、朝鮮に大蔵経板木を求める(-朝鮮半島-日本、日本、朝鮮)-室町時代(年表)- | |
1426 | | | 三浦に倭館を設置し、常住を許可する(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1433 | | | 鴨緑江方面に四郡設置.女真族の侵入を防ぐ(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1433 | | | 朝鮮初期の医書「郷薬集成方」完成.旧来の朝鮮医書の集大成(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1433 | | | 四軍設置(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1433 | | | 1. 足利義教、朝鮮使と室町殿で会見(-朝鮮半島-日本、日本、朝鮮)-室町時代(年表)- | |
1434 | | | 1437六鎮設置[-1449](-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1437 | | | 豆満江方面に六鎮設置.北方の城壁となし安全を図る(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1438 | | | 日時計製作(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1441 | | | 世界初の測雨器製作.全国各地の降雨量測定(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1441 | | | 測雨器製作(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1442 | | | 朝鮮独自の暦書「七政算内編」作製(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1443 | | | 1443年第四代国王、世宗(??)の時代は、朝鮮時代の中でも王権が強固で権威も行き届いており、もっとも安定した時代とされている。この年、世宗王はハングルの基になる訓民正を制定するも、集賢殿の副提学であった雀萬理は「昔から中華の土地では風土が異なっても方言を文字にした例はない」と批判。これに対し世宗は「これは文字ではないので、中華に対しての反逆ではない。訓民正音である。」※訓民正音とは愚かな民に発音を教える記号のこと。 また、この李朝で何と言っても覚えておきたいのがハングル(訓民正音)の制定です。これを制定したのは14431146年のこと。制定したのは第4代国王・世宗(せいそう)の時代でした。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1443 | | | 訓民正音(ハングル)を草案(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1443 | | | 訓民正音(ハングル)創製(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1443 | | | 訓民正音の制定[1446年公布)、歳遺船(年間渡航許可船)の制度を定める(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1443 | | | 第四代国王、世宗(??)の時代は、朝鮮時代の中でも王権が強固で権威も行き届いており、もっとも安定した時代とされている。この年、世宗王はハングルの基になる訓民正音が作られた。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1443 | | | 「訓民正音」創製(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1443 | | | 対馬の宗貞盛、朝鮮と交易の役を定める(室町時代-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮)-対馬- | |
1443 | | | 対馬の宗氏、李氏朝鮮と通交条約である嘉吉条約(癸亥約条)を結び、歳遣船の定数を定める。歳遣船定数 50 隻。※応仁の乱の最中も無関係に通商。李氏朝鮮、対馬の宗氏に通交貿易の条件を与える 嘉吉3(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、李氏朝鮮)-対馬、総合年表(北・東・東南アジア)、室町時代(年表)-李氏朝鮮時代 | |
| | | 嘉吉条約 [嘉吉3 [1443] 年] 嘉吉3 [1443] 年,対馬島守宗貞盛と朝鮮との間に締結された条約。朝鮮では正統癸亥 (きがい) 約条と呼ぶ。朝鮮側が日鮮貿易の統制をはかったもので,内容は来航者の詐称を防止するため,銅印を大名,豪族,商人などに授け,実名を刻んだり,九州地方の大名,土豪の使送船は九州探題,また対馬島内に住む大名や土豪などの使送船は宗氏の書契を持参すべきであると決めたりしたものであった。また室町幕府に対しては,象牙を用いて円形の勘合符を製し,左半を朝鮮にとどめ,右半を幕府に贈った。将軍,管領,有力大名のほかは,毎年渡航する航数をそれぞれ条約により限定した。これにより宗氏の歳遣船 (さいけんせん) は 50隻に制限され,歳賜米や豆も合せて 200石までと決められた。 1443年(嘉吉3,朝鮮世宗25]に,朝鮮から対馬の宗貞盛らにあたえられた通交貿易の条件。朝鮮側では,癸亥(きがい)約条という。おもな内容は,[1]宗氏から毎年朝鮮に派遣する歳遣船(さいけんせん)の数を50に限定する,[2]宗氏から朝鮮に対して緊急に報告しなければならないことがおきたときは,歳遣船の定数外に特送船を派遣することができる,(3]朝鮮から毎年宗氏に送る歳賜米・豆はあわせて200石に限定する,の3点である。 対馬(つしま)島主宗貞盛(そうさだもり)と李氏(りし)朝鮮との間で1443年(嘉吉3]に定められた日朝通交の条約。朝鮮側では癸亥約条(きがいやくじょう)という。応永(おうえい)の外寇(がいこう)後、対馬と朝鮮の通交は一時とだえたが、世宗(せいそう)の平和通交による交隣政策によって、嘉吉条約をはじめ数多くの通交統制規定が定められた。条約の内容は、[1]島主宗氏は毎年50船を朝鮮に派遣できる、[2]宗氏には世宗10年[1428]以来実施されている歳賜米(さいしまい)・豆あわせて200石が与えられる、などである。この条約は、朝鮮側が日朝貿易の統制を図ったものであったが、これによって、宗氏歳遣船(さいけんせん)が制度的に確立し、朝鮮通交での宗氏の独占的立場が定まったのである。 [対馬島宗氏の独占] やがて朝鮮貿易の利益に目をつけ,日本からの渡航者が増大したため,応接する朝鮮側の負担が大きくなったので渡航者の制限がはかられるようになり,朝鮮ではとくに地理的に最も近い対馬島の宗氏の特殊権益を認めることによって,統制化を進めていった。1443年(嘉吉3]宗氏との間で歳遣船隻を定約した嘉吉条約(癸亥(きがい)約条),渡航証としての文引(ぶんいん)(図書・文引)の制度強化などがそれである。これによって,日朝間に占める宗氏の位置は決定的なものとなり,一方,諸大名・豪族等の勢力が後退して,それらの名義を借りた偽使が対馬から派遣される状態になっていった。 ※「嘉吉条約」について言及している用語解説の一部を掲載しています。 | |
1445 | | | 義塩法制定.義塩色という官庁を設け,塩の流通を国家が管理(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1446 | | | 朝鮮で、訓民正音(ハングル)頒布(-朝鮮半島-朝鮮)-総合年表(北・東・東南アジア)- | |
1446 | | | 「訓民正音」としてハングル文字が公布(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1446 | | | 義塩色廃止.私売買を禁止.民衆の不満を買う(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1446 | | | 訓民正音(ハングル)を公布(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1446 | | | 「訓民正音」領布(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1450 | | | 世宗死去.53歳(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1452 | | | 成職が封を継ぎ、貞盛死去する。朝鮮国王が1隻は弔礼の、1隻は襲封祝賀の使船2隻を送る。将軍や島主の代 替わり毎の告慶 参判使の始まり 享徳元 成職[9](-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮)-対馬- | |
1453 | | | 癸酉靖難、首陽大君の王位纂奪、首陽大君(のちの第7代国王・世祖)が朝廷大臣たちを殺し,政権を掌握(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1453 | | | 朝鮮で癸酉靖難起こる。首陽大君(後の世祖)、実権を握る(朝鮮-朝鮮半島-明、朝鮮)-総合年表(北・東・東南アジア)- | |
1455 | | | 首陽大君,端宗を退け第7代王世祖に上がる(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1456 | | | 丙子冕獄(死六臣が処刑される)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1456 | | | 対馬島人源茂崎が漂民救助の功により朝鮮国王より官職図書(司直の職)を授けられる。(初の受職人)。 康正2(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮)-対馬- | |
1466 | | | 現職官吏だけに土地を支給する,職田法実施(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1466 | | | 職田法(官職についているものだけに田地の給付)の制定(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1466 | | | 職田法実施(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1467 | | | 応仁の乱起こる[~77]1467(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1467 | | | 李施愛の乱.中央文臣中心の政治に地方豪族が不満(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1467 | | | 朝鮮で、李施愛の乱起こる (-朝鮮半島-明、朝鮮)-総合年表(北・東・東南アジア)- | |
1468 | | | 世祖が崩御し睿宗即位[1469年に崩御)、南怡の謀叛事件が起こる(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1469 | | | 「経国大典」完成.朝鮮独自の法典を編纂.統治規制を成文化.(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1470 | | | 成宗の治世に『経国大典』頒布、朝鮮王朝の諸法体系化の完成をみる[~19世紀末)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1470 | | | 「経国大典」完成(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1474 | | | 義政、朝鮮に明の勘合符を求める(室町時代-朝鮮半島-日本、朝鮮、明)-- | |
1481 | | | 足利義政、勘合船を朝鮮に派遣(室町時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)-- | |
1481 | | | 朝鮮で、『東国輿地勝覧』刊行 (-朝鮮半島-明、朝鮮)-総合年表(北・東・東南アジア)- | |
1485 | | | 経国大典完成(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1485 | | | 1169「経国大典」完成[-1449](-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1485 | | | 朝鮮で、『経国大典』施行 (-朝鮮半島-明、朝鮮)-総合年表(北・東・東南アジア)- | |
1498 | | | 士林派に対する弾圧が始まる(戊午士禍)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1498 | | | 戊午士禍(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1498 | | | 朝鮮で、金宗直らが処刑される〔戊午の士禍〕(-朝鮮半島-明、朝鮮)-総合年表(北・東・東南アジア)- | |
1503 | | | 幕府、勘合符を朝鮮に求める(戦国時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)-- | |
1504 | | | 甲子士禍.燕山君,母の廃妃関連者を処刑(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1504 | | | 甲子士禍が起こる(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1506 | | | 燕山君がクーデターにより失脚し、中宗が即位(中宗反正)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1506 | | | 朴元宗の乱.燕山君廃位追放.晋城大君が中宗に即位(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1509 | | | 対馬島民、朝鮮を侵す(戦国時代-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮)-対馬- | |
1510 | | | 三浦の乱が起こる(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1510 | | | 在朝日本人の貿易活動等を統制したため、三港で日本人と援軍の宗軍による暴動が起こる(三浦の乱)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1510 | | | 三浦の乱、日本人居留民と朝鮮人が交戦。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1510 | | | 三浦倭乱.三浦で起こった日本人居留民の暴動事件.日本との通交中断(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1510 | | | 三浦の乱(さんぽのらん)李氏朝鮮の三浦(釜山浦・薺浦・塩浦)で起きた対馬の宗氏・恒居倭人(こうきょわじん-貿易の為に朝鮮に居留している日本人)の反乱。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1510 | | | 三浦倭乱(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1510 | | | 朝鮮で三浦の乱が起こり、国交が断絶する。 三浦倭変:日本人居留民の反乱 永正7 義盛[12](戦国時代-朝鮮半島-日本、対馬、日本、対馬、朝鮮)-対馬- | |
1510 | | | 三浦の乱三浦の居留民と、朝鮮との間の争い勃発。以後、朝鮮貿易は衰退。(-朝鮮半島-日本、対馬、日本、対馬、朝鮮)-対馬- | |
1512 | | | 壬申約条締結.足利幕府と結ぶ.倭人の出入りを制限(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1512 | | | 壬申約条(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1512 | | | 対馬の宗氏、朝鮮と壬申約定を締結す(戦国時代-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮)-対馬- | |
1512 | | | 朝鮮との間に永正条約を締結して、国交を回復する。歳遣船定数 25 隻 永正9(戦国時代-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮)-対馬- | |
1519 | | | 己卯士禍.趙光祖の改革に対する中宗と勲旧勢力の親衛クーデター(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1519 | | | 己卯士禍が起こる、(趙光祖の改革政治が挫折)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1543 | | | 1543年白雲洞書院設立(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1543 | | | 白雲洞書院(最初の書院)建造.儒教精神の定着に力を注ぐ(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1543 | | | 白雲洞書院を建造建てる(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1544 | | | 台湾へのオランダ進出 この台湾に大きな変化が起きたのは16世紀。当時は、倭寇といった海賊がたくさんいたんですが、彼らは台湾を根拠地として移り住んでいたんです。この倭寇は前期が主に日本人、後期は主に漢人や朝鮮人ですね。彼らはやがて恒久的に台湾へと移住しはじめるようになります。 さらに、ヨーロッパからも多くの人々が台湾に来航してくるようになります。ヨーロッパで最初に台湾を訪れたのはポルトガル人。1544年のことです。しかし、最初に拠点を築いたのはオランダ人。オランダ東インド会社は1624年に台湾島の大員という場所を中心に制圧してゼーランディア城という要塞を築きました。1626年にはスペインも台湾の北部に要塞を建てて島の開発を進めましたが、オランダはスペイン勢力を駆逐し台湾はオランダの一大拠点となります。 オランダは、この台湾に中国から大量の漢民族を労働力として募集し土地開発を勧めます。 ですが、中国でもこの頃大変な事態が起きていました。明朝の滅亡[1644年)です。(-朝鮮半島-台湾、朝鮮)-- | |
1545 | | | 乙已士禍(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1545 | | | 仁宗崩御(在位1544年~1545年)、明宗即位乙巳士禍が起こる(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1547 | | | 丁未約条.倭人との交易を許すが規制を強化(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1549 | | | ザビエル来日1549(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1554 | | | 軍事機構,備辺司設置.倭冦と女真族の侵入に備える(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1554 | | | 備辺司設置(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1555 | | | 1555備辺司設置(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1555 | | | 乙卯倭変.三浦倭乱による貿易規制に対し,倭人が全羅道の一部を占領(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1555 | | | 備辺司設置(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1555 | | | 乙卯倭変(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1559 | | | 1559林巨正の乱[~1562](-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1559 | | | 林巨正の乱[~1562](-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1559 | | | 林巨正の乱.民衆を代弁する義賊.3年間[~1562]政府を悩ます(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1564 | | | 永正条約による歳遣船25隻の貿易制限を、朝鮮との交渉により30隻に拡大することに成功する。歳遣船定数 30 隻 永禄7 義調[16](戦国時代-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮)-対馬- | |
1567 | | | 1567《宣祖即位》、勲旧派の終焉、以後、士林派(新進官僚による政治勢力)同士の対立が続く(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1567 | | | 《宣祖即位》、勲旧派の終焉、以後、士林派(新進官僚による政治勢力)同士の対立が続く(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1572 | | | 揚古利[1572~1637]舒穆禄氏。満洲正黄旗の出身。幼くして父に従ってヌルハチに帰順し、額 となった。女真各部や明に対する征戦に従って、戦功を挙げ、左翼兵の統括を命じられ、一等総兵官に任ぜられた。崇徳二年[1637]、太宗ホンタイジが朝鮮を攻めるのに従い、戦後に戦場を巡視していたところを朝鮮兵に射殺された。武勛王に追封された。(-朝鮮半島-清、朝鮮)-中国史人物事典- | |
| | 朱翊鈞[1563~1620] 明の十四代万暦帝。廟号は神宗。在位1572~1620。穆宗(朱載 )の三男。隆慶二年[1568]、皇太子に立てられた。六年[1572]、穆宗が崩ずると帝位についた。高拱・張居正・高儀らが補政した。張居正の改革により、税収は増え、国勢は一時回復した。北方には李成梁を起用して、国境も安定した。万暦十年[1582]、張居正が亡くなると親政をはじめた。張居正の官爵を奪い、一家を断絶させた。日本の朝鮮侵攻に対する援朝軍の派遣や東北での後金勃興に対処するため軍費が増大し、財政が逼迫した。東林党が内閣と争い、四十三年[1615]には挺撃の案が起こるなど、政府内の党争は激化した。帝は治世の後半二十五年間にわたって朝廷に出なかったという。 | |
1573 | | | 室町幕府滅亡1573(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1575 | | | 1575東人・西人の党争の始まり(乙亥党論)、陶山書院建立(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1575 | | | 東人・西人の党争の始まり(乙亥党論)、陶山書院建立(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1575 | | | 東人派と西人派の対立(党争の始まり)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1582 | | | マリ,済州島漂着(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1582 | | | マリ、済州島漂着(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1587 | | | 1587年九州の平定。伴天連追放令(豊臣秀吉)朝鮮国王に入貢要求。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1588 | | | 1588年海賊停止令。琉球国王に入貢要求。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1589 | | | 1589鄭汝立の乱(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1589 | | | 1589年中国征服を狙う豊臣秀吉は、朝鮮に明征討の先鋒になるよう要求してきた。朝鮮は日本の真意を確認するため通信使を派遣した。帰朝した通信使は、「日本は侵攻の準備をしている」と報告したが、「秀吉を恐れる必要はない」との報告もあり、結局、防衛準備を行わなかった。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1589 | | | 鄭汝立の乱(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1589 | | | 11. 秀吉、宗義智を朝鮮に遣わし来貢を促す(-朝鮮半島-日本、朝鮮)-安土桃山時代- | |
1590 | | | 豊臣秀吉の全国統一1590(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1590 | | | 義智、豊臣秀吉の命により朝鮮に渡り、通信使黄允吉、金誠一等を伴って帰国し、京において秀吉が引見する。 天正18 義智[19](戦国時代-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮)-対馬- | |
1591 | | | 1591年豊臣秀吉、インド副王(ポルトガル総督)に入貢要求。この時、スペイン国王にも入貢要求フィリピンに入貢要求。唐陣(朝鮮出兵)を命じる。(インド-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮、インド、スペインフィリピン、日本)--李氏朝鮮時代 | |
1591 | | | 義智、朝鮮国に対し秀吉の意を伝えるために釜山に渡るが、朝鮮側を説得できず。秀吉、朝鮮出兵を命ず。府中(厳原)に清水山城を築く。 天正19(戦国時代-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮)-対馬- | |
1592 | | | 文禄の役 この頃、日本では、豊臣秀吉が日本を統一し、更に勢力拡大のため、大陸進出をはかろうとしていた。そして、1592年、いわゆる文禄の役が発生し、たちまちにして、首都漢城(ソウル)を攻略してしまう。当時腐敗が進んでいた朝鮮は、なすすべもなく、国土を疲弊してしまった。やがて、中国から明の援軍が進出して、戦線は膠着し、和議交渉を試みるが失敗に終る。1597年、日本は再度侵攻し、慶長の役が勃発する。しかし、秀吉の健康が損なわれ、戦争が泥沼状態になり、やがて、秀吉の死去によって、この7年に及ぶ戦乱は終結する。この動乱により、朝鮮は、政治的にも、経済的にも、また社会的にも、壊滅的な状態に追いやられ、破綻寸前に陥った。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1592 | | | 1592壬辰の倭乱・丁西の倭乱[~1598:豊臣秀吉の2度の朝鮮侵攻で、全国土が戦乱の被害をうける)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1592 | | | 壬辰倭乱(文禄の役)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1592 | | | 1592年壬辰倭乱この朝鮮に対して豊臣秀吉が侵略のために軍を派遣します。「文禄・慶長の役」ですね。朝鮮の人々がいうところの「壬辰・丁酉(じんしん・ていゆう)の倭乱」です。この秀吉軍に激しく対抗し、活躍したのが朝鮮海軍の李舜臣(イスンシン)でした。韓国には現在でも英雄であり、銅像がいたるところに立っています。この秀吉の朝鮮侵略の計画は、秀吉の死により日本軍の撤退という形で終わりを告げますが、朝鮮にとっても大きな打撃となりました。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1592 | | | 1592年(文禄元年)文禄の役この頃、日本では、豊臣秀吉が日本を統一し、更に勢力拡大のため、大陸進出をはかろうとしていた。日本軍が釜山に上陸し、いわゆる文禄の役が発生し、体制の整わない朝鮮軍は各地で破れ、たちまちにして、首都漢城(ソウル)を攻略し、数ヶ月で朝鮮全土が制圧された。釜山近くの蔚山城の戦いが有名。加藤清正はこの時虎退治をした。当時腐敗が進んでいた朝鮮は、なすすべもなく、国土を疲弊してしまった。朝鮮の国境、豆満江を越えて、満州のオラニンイ(ワルカ)へ支援要請を受けた明軍が到着し、義勇軍が立ち上がると戦線は膠着した。そして、一旦休戦し3年におよぶ和平交渉が始まったが決裂。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1592 | | | 閑山島大捷.李瞬臣勝利(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1592 | | | 壬辰の倭乱・丁西の倭乱[~1598:豊臣秀吉の2度の朝鮮侵攻で、全国土が戦乱の被害をうける)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1592 | | | 壬辰倭乱(文禄の役).1回目の倭国秀吉軍の侵略.漢城陥落(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1592 | | | 壬辰倭乱、閑山島大捷(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1592 | | | 文禄の役(壬辰の倭乱)[~1595]。義智、小西行長とともに朝鮮へ出兵。諸将の各隊に対馬より通詞を派遣。 第1軍:小西行長他18,700人 文禄元 (戦国時代-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮)-対馬- | |
1592 | | | 文禄の役、豊臣秀吉の朝鮮出兵(戦国時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)-- | |
1592 | | | 文禄の役(ぶんろくのえき)豊臣秀吉が朝鮮へ出兵する。日本と明・李氏朝鮮の戦い。日本軍は朝鮮の首都:漢城を占拠して加藤清正が王子二人を捕虜にした。快進撃を続けたが明軍により食料倉庫を狙われ和議交渉を進める。-1593(戦国時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)-- | |
1592 | | | 文禄の役日ノ本を統一した秀吉は海外へと目を向け、朝鮮へ出兵する。(戦国時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)-- | |
1592 | | | 文禄の役秀吉が朝鮮出兵を命ずる。15万人の軍。(-朝鮮半島-日本、朝鮮)-- | |
1592 | | | 1.5 豊臣秀吉が、朝鮮を経て明へ出兵する為の出陣令を発布、諸大名に朝鮮出兵を命ずる。(戦国時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)-- | |
1592 | | | 3.26 豊臣秀吉が朝鮮出兵の指揮をとる為京都から肥前へ出発(戦国時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)-- | |
1592 | | | 4.13 朝鮮出兵第一陣の小西行長らが釜山に上陸。文禄の役が始る(戦国時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)-- | |
1592 | | | 5.3 朝鮮出兵の一番隊、小西行長・加藤清正が漢城(現在のソウル)に入城(戦国時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1593 | | | 幸州大捷(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1593 | | | 幸州大捷(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1593 | | | 朝鮮での戦、上手くいかず。日本へ兵を撤退させる。 豊臣秀頼(秀吉の子)が誕生する。秀頼を豊臣家の跡継ぎにしたい秀吉は秀次を邪魔者とばかりに追いやっていくこととなる。(戦国時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)-- | |
1595 | | | 達海[1595~1632]覚爾察氏。満洲正藍旗の出身。満漢の文字に通じ、後金と明・朝鮮・モンゴルの間の文書の往来は多くかれの手によって成った。天聡初年、値文館に入り、漢文書籍を翻訳した。天聡六年[1632]、満文字体の改定にあたり、十二字頭を増し、圏点を加えて、新満文あるいは圏点満文と称した。(-朝鮮半島-清、朝鮮)-中国史人物事典- | |
1596 | | | 9.1 明からの国書の非礼に怒った豊臣秀吉が朝鮮再征を決意(戦国時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)-- | |
1597 | | | 1597年慶長の役日本は再び侵攻してきた。北上する日本軍を漢城付近で明軍が迎え撃ち、泥沼の戦いが続いた。しかし、秀吉の健康が損なわれ、戦争が泥沼状態になり、やがて、秀吉の死去によって、この7年に及ぶ戦乱は終結する。この動乱により、朝鮮は、政治的にも、経済的にも、また社会的にも、壊滅的な状態に追いやられ、破綻寸前に陥った。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1597 | | | 丁酉再乱(慶長の役).2回目の秀吉軍の侵略.(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1597 | | | 丁酉倭乱(慶長の役)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1597 | | | 丁酉再乱(慶長の役)が起こる(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1597 | | | 豊臣秀吉の二度目の朝鮮出兵(慶長の役)(戦国時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)-- | |
1597 | | | 1. 慶長の役[~1598]。義智、1千の兵を朝鮮に出兵。 慶長2(戦国時代-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮)-対馬- | |
1597 | | | 1. 慶長の役(けいちょうのえき)再び、豊臣秀吉が朝鮮へ出兵する。明軍の影響で日本軍は苦戦する。戦争中に豊臣秀吉が病死して日本軍は撤退する。-1598(戦国時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)-- | |
1597 | | | 1. 慶長の役 再び豊臣秀吉は朝鮮に兵を送る。(戦国時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)-- | |
1597 | | | 1. 慶長の役秀吉が再び朝鮮に出兵する。(-朝鮮半島-日本、朝鮮)-- | |
1598 | | | 秀吉死去.倭軍撤収始める(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮、日本)--李氏朝鮮時代 | |
1598 | | | 秀吉死す[1536→)朝鮮から撤兵ほぼ終了(戦国時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)-- | |
1598 | | | 豊臣秀吉、死去。 これにて朝鮮出兵も中断。日本へ兵を撤退させる。(戦国時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)-- | |
1598 | | | 8. 秀吉没。豊臣氏五大老、朝鮮出兵の諸軍を召還(-朝鮮半島-日本、朝鮮)-- | |
1598 | | | 8.25 豊臣秀吉の死去に伴い、徳川家康ら五大老が朝鮮撤兵を決定し使者を朝鮮に派遣(戦国時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)-- | |
1599 | | | 1599年秀吉が死去し、日本軍は撤退した。現地の土地を出兵した者がのぞまないため、負けという形になった。この戦乱で朝鮮は崩壊寸前まで追いやられ、明も国力は弱体化し、滅亡の遠因になった。 朝鮮出兵→本当は「明」への出兵、唐陣。「明」←→中原のみの国(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1599 | | | 1599年秀吉が死去し、日本軍は撤退した。現地の土地を出兵した者がのぞまないため、負けという形になった。この戦乱で朝鮮は崩壊寸前まで追いやられ、明も国力は弱体化し、滅亡の遠因になった。朝鮮出兵→本当は「明」への出兵、唐陣。「明」←→中原のみの国(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1599 | | | 露梁大捷.李瞬臣流れ弾に当たり戦死.7年間の戦乱を終える(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1599 | | | 徳川家康より朝鮮との国交回復を命ぜられる。家臣を朝鮮に度々派遣するも帰国せず。 慶長4(戦国時代-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮)-対馬- | |
1600 | | | 関が原の戦い1600(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1603 | | | 徳川家康征夷大将軍になる 江戸幕府を開く(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1607 | | | 日本と国交回復.朝鮮通信使始まる(~1811](-朝鮮半島-朝鮮、日本、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1607 | | | 回答兼刷還使を日本へ派遣する(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1607 | | | 1607年日本との関係は。秀吉の死後、朝鮮通信使が日本に送られ関係を修復しました。朝鮮通信使→人質奪還のための使節。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1607 | | | 朝鮮との国交修復。将軍秀忠の襲職を賀する朝鮮通信使(回答兼刷還使)が来日し、義智、江戸まで護衛する。 慶長12(戦国時代-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮)-対馬- | |
1607 | | | 朝鮮使、初めて江戸に来る 了以、富士川の水路を開く(戦国時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)-- | |
1608 | | | 京幾道で大同法を実施(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1608 | | | 京畿道に大同法実施.土地の結数によって米,布,銭で税を貢納(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1608 | | | 光海君が即位。北人政権が成立。京畿道に大同法を実施(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1608 | | | 京畿道に大同法実施(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1609 | | | 日本と己酉約定締結(-朝鮮半島-朝鮮、日本、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1609 | | | その後も、王位継承をめぐる争いは、断続的に発生し、紆余曲折があるが、1609年になって、日本と和約し、外交面での修復が展開されていく。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1609 | | | 日本と和約し外交関係の修復にも力を入れた(朝鮮通信使)。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1609 | | | 日本と己酉約条締結(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1609 | | | 義智、僧玄蘇らを朝鮮に派遣し、朝鮮国と慶長条約(己酉約条)を締結する。 歳遣船定数20隻 慶長14 (戦国時代-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮)-対馬- | |
1609 | | | 李氏朝鮮と対馬の宗氏との間で己酉約条(慶長条約)が結ばれ、貿易が再開される(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、李氏朝鮮)-対馬-李氏朝鮮時代 | |
1609 | | | 己酉約条締結.対馬の宗氏に通交貿易許す.富山(釜山)浦に再び倭館設置(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、李氏朝鮮)-対馬-李氏朝鮮時代 | |
1609 | | | オランダ商館を平戸(長崎県)に設置する-島津氏が琉球王国を攻略して服属させる-己酉約条(きゆうやくじょう)-日本と李氏朝鮮との間の貿易再開(戦国時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)-- | |
1610 | | | 朝鮮の伝統医学の集大成「東医宝鑑」完成(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1610 | | | 「東医宝鑑」完成(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1611 | | | 量田実施.農地の実情を調査し国家財源の増大に努める(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1611 | | | 朝鮮国と慶長条約(己酉約条)を締結する。(戦国時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)-対馬- | |
1613 | | | 七庶の獄(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1616 | | | 光海君の明・金中立外交(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1616 | | | 琉球から煙草輸入される(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1616 | | | 中国では明が衰え、満州に後金が独立した。#style(class=box_black_swm){{満州・・・非漢字国満州人満州語・・アルタイ語系文字}}(-朝鮮半島-朝鮮:李氏朝鮮、後金:清)--李氏朝鮮時代 | |
1618 | | | 李永芳(?~1634]遼東鉄嶺の人。明の撫順游撃。万暦四十六年[1618]、後金に降った。太祖ヌルハチにより三等総兵官に任ぜられた。明の巡撫王化貞らが彼を招撫しようとしたが、応じなかった。太宗が即位すると、アミンに従って朝鮮を攻めた。↓次の時代・清-清初(-朝鮮半島-清、朝鮮)-中国史人物事典- | |
1619 | | | サルホの戦いで後金軍に敗れる(-朝鮮半島-朝鮮:李氏朝鮮、後金:清)--李氏朝鮮時代 | |
1623 | | | 仁祖反正で光海君廃位(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1623 | | | 仁祖反正(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1623 | | | 仁祖反正.西人派が北人派を一掃し,仁祖を王に擁立する武力政変(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1623 | | | 仁祖反正(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1624 | | | 李 の乱(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1624 | | | 李 の乱.仁祖反正後の論功行賞に対する不満(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1624 | | | 李 の乱(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
| | | ホンタイジ[1592~1643] 名は知られていない。通称はホンタイジ(皇太極)。清の第二代太宗。在位1626~1643。太祖ヌルハチの八男。はじめ正白旗の旗主たる貝勒(ベイレ)となり、ダイシャン(代善)・アミン(阿敏)・マングルタイ(莽古爾泰)と並ぶ四大貝勒の末席を占めた。兵を率いて征戦におもむき、しばしば戦功があった。天命十一年[1626]、ヌルハチが没すると、後金のハーン位を継いだ。明制にならって三院・六部・都察院・理藩院を設けた。来帰した漢人武将やモンゴル諸王の軍によって自己の軍事力を強化し、三大貝勒の権力を抑制した。漢人官僚を登用し、人材と文化の吸収につとめ、漢土統治の基礎を築いた。また八旗の軍制を拡大して、蒙古八旗・漢軍八旗を新たに編成した。天聡九年[1635]、チャハル部を逐って内モンゴルを平定し、大元伝国の璽を入手し、朝鮮を従属させた。女真の称を満洲に改めた。翌年四月、大清皇帝の位につき、国号を大清(清、ダイチン・グルン)と改め、崇徳と改元した。崇徳五年[1640]、松錦の戦いで明軍主力に大打撃を与えた。明朝打倒をめざし、山海関に迫ったが、関を越えることなく翌年に没した。 | |
1627 | | | 朝鮮に侵入する(天聡1](-朝鮮半島-清、朝鮮)-清の時代(年表)- | |
1627 | | | 丁卯胡乱(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1627 | | | 丁卯胡乱(後金の朝鮮侵攻)(-朝鮮半島-朝鮮:李氏朝鮮、後金:清)--李氏朝鮮時代 | |
1627 | | | 丁卯胡乱、後金(後の清)鴨緑江を越え朝鮮侵入(-朝鮮半島-朝鮮:李氏朝鮮、後金:清)--李氏朝鮮時代 | |
| | | 後金(後の清)のヌルハチホンタイジ(女真人・満州人)は明と同盟関係にある朝鮮に侵攻してきた。朝鮮軍は敗北を重ね、皇帝は江華島へ避難した。その後、後金に服従することで講和が成立、交易開始、後金軍は撤退した。 | |
1628 | | | オランダ人ベルテブレ,済州島漂着.帰化し朝鮮人女性と結婚(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1628 | | | ベルテブレ、済州島漂着(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1629 | | | 平安道・黄海道の流浪民の明火賤集団により漢城攻略(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1631 | | | 鄭斗源,明から千里眼,時計,鉄砲を伝える(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1631 | | | 鄭斗源が明から千里鏡、時計自鳴鍾、鉄砲火砲などを輸入(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1635 | | | 朝鮮貿易復活。歳遣船1船を釜山に出す。 慶長16 重臣柳川調興が宗氏の国書改ざんを幕府へ直訴したが(柳川事件)、将軍家光の裁きにより調興は津軽へ、外交僧規伯玄方は盛岡に流罪となる。 寛永12(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮)-対馬- | |
1636 | | | 金、国号を清と改める。朝鮮を属国とする(崇徳1](-朝鮮半島-清、朝鮮)-清の時代(年表)- | |
1636 | | | 丙子胡乱、清国への朝貢を行う(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1636 | | | 丙子胡乱.清が君臣関係を要求し侵略.世子を人質として清へ送る(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1636 | | | 丙子胡乱(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1636 | | | 清のホンタイジが朝鮮に親征(丙子胡乱)、朝鮮国王仁祖、南漢山城に篭城、(後金、国号を清とする)(-朝鮮半島-朝鮮:李氏朝鮮、後金:清)--李氏朝鮮時代 | |
1636 | | | 1636年丙子胡乱後金は国号を清とし、清に服従することと明討伐の派遣軍3万の提供を要求してきた。朝鮮はこれを拒否、清は12万の大軍で侵攻してきた。朝鮮軍はなすすべもなく40日あまりで降伏した。朝鮮は明と断交すること、王子を人質に差し出すこと、莫大な賠償金を支払うなどの屈辱的な講和条約を結ばされた。また、朝鮮王の仁祖は、清の皇帝の前で三跪九叩頭の礼を行い、服従する誓いをさせられた。【三跪九叩頭の礼(さんききゅうこうとうのれい)】中国皇帝に臣下の礼をとるため、三度ひざまずき、九度頭を地にこすりつける儀式。(-朝鮮半島-朝鮮:李氏朝鮮、後金:清)--李氏朝鮮時代 | |
| | | 後金から清へ ヌルハチの建国したアイシン(後金)はしだいに周辺民族を制圧して、第2代のホンタイジの時の1636年に、中国風に国号を清に改め、さらに明が李自成の反乱で滅亡した後に北京に入り、李自成を討って1644年に中国全土を統一した。 | |
1637 | 1637年~1897年:清(属国) | |
1637 | | | 仁祖(朝鮮王)降伏、明に替わり、清の皇帝を認める(大清皇帝功徳碑)、以後、1895年の下関条約締結まで、朝鮮は清に臣従する、小中華思想(朝鮮のみが、中華文明の継承者であるとする)が髙揚(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1637 | | | 清の北京に国家使節として燕行使派遣.1894年まで続く(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1641 | | | 鎖国体制(幕府の対外政策)の完成-オランダ商館を出島へ移す。オランダと中国は幕府直轄の出島、朝鮮とは対馬藩、琉球は薩摩藩、アイヌは松前藩で貿易が行われた。(江戸時代-朝鮮半島-日本、日本、対馬、朝鮮)-対馬- | |
1645 | | | 昭顕世子,清から化学,カトリック教などの洋書を伝える(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1645 | | | 昭顕世子が清からカトリック書や科学書などを持ち帰る(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1645 | | | 昭顕世子が清から科学書籍、カトリック書籍などの洋書を輸入(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1646 | | | 林慶業の乱.下層民衆の反乱.失敗に終わる(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1653 | | | ハメル,済州島漂着.後に脱出し「朝鮮幽囚記」を著す(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1653 | | | 時憲暦採択.太陰暦と太陽暦を合わせて,二十四節気と1日の時間を計算(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1653 | | | ハメル、済州島漂着(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1653 | | | 時憲暦採択(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1654 | | | 1654年羅禅征伐(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1654 | | | 第一次羅禪(ロシア)征伐.黒龍江へ侵略した羅禪を清の要請で撃退(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1658 | | | 第二次羅禪征伐.朝鮮の鳥銃軍,再度ロシアを撃退(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1658 | | | 第二次羅禅征伐(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1659 | | | 胡西地方に大同法実施.民衆の税負担を減らす(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1659 | | | 湖西地方に大同法実施(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1660 | | | 1660己亥礼訟(礼論が起こる)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1660 | | | 己亥礼訟(礼論が起こる)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1662 | | | 堤堰司設置(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1662 | | | 堤堰司設置(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1674 | | | 甲寅礼訟により、南人が政権を握る(両班制度の中の党派争い)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1674 | | | 甲虎礼訴が起こり、南人政権が成立(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1678 | | | 常平通宝鋳造.朝鮮後期の法貨の誕生(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1678 | | | 常平通宝鋳造(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1680 | | | 1680庚申換局(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1680 | | | 西人政権(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1680 | | | 庚申換局.南人派が失脚し西人政権樹立.一党専制化始まる(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1680 | | | 庚申換局(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1680 | | | 酉人政権が成立(庚申換局)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1683 | | | 1683西人が老論と少論に分裂(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1683 | | | 西人が老論と少論に分裂(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1688 | | | 京畿道楊州で弥勒信仰者が漢城に侵攻しようとするが失敗(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1689 | | | 1689己巳換局(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1689 | | | 己巳換局(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1689 | | | 己已換局、西人政権が再び南人政権へ(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1689 | | | 雨森芳洲、対馬の儒学者として仕え朝鮮外交に活躍。 元禄2(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮)-対馬- | |
1694 | | | 粛宗の治世に甲戌の獄起こる(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1694 | | | 申戌換局.南人派が小論派除去に失敗して打撃を受ける(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1694 | | | 甲戌換局、西人が再び政権を掌握(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1696 | | | 安龍福,鬱陵島から日本人追放.独島(竹島)を朝鮮領土として主張(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1696 | | | 安龍福、欝陵島から日本人を追放追い払う(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1697 | | | 義賊,張吉山の乱.反政府活動を続けるが最後まで逮捕されず(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1700 | | | 17世紀末 党派政争が次第に激しくなり、さまざまな、政策が打ち出され、王権の強化拡大策が試みられる。この頃、中国の清との間で領土問題が発生したり、日本との間では、鬱陵島やその周辺の島々の帰属問題が発生した。当時の江戸幕府は、鬱陵島を朝鮮の領土として承認する協定を締結した。現在、日韓で懸案の、竹島(独島)の帰属問題は、このときの協定内容に起因する争いである。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1700 | | | 17世紀この頃の朝鮮半島は中国の清による冊封体制の中にありました。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1700 | | | 17世紀前半清から攻撃を受け、朝鮮は清の属国となりました。朝鮮の朝貢物は女性(生口)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1700 | | | 17世紀末党派政争が次第に激しくなり、さまざまな、政策が打ち出され、王権の強化拡大策が試みられる。この頃、中国の清との間で領土問題が発生したり、日本との間では、鬱陵島やその周辺の島々の帰属問題が発生した。当時の江戸幕府は、鬱陵島を朝鮮の領土として承認する協定を締結した。現在、日韓で懸案の、竹島(独島)の帰属問題は、このときの協定内容に起因する争いである。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1703 | | | 朝鮮国訳使官使船、鰐浦沖で遭難し乗員112名全員死亡。 元禄16(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮)-対馬- | |
1708 | | | 全国的に大同法施行.土地所有の程度により税を負担(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1708 | | | 全国に大同法施行(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1711 | | | 新井白石、朝鮮使の待遇を改める(江戸時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)-- | |
1712 | | | 1712白頭山に定界碑を建立(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1712 | | | 清との領界を定める白頭山定界碑建立(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1712 | | | 白頭山に定界碑を建立(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1712 | | | 白頭山定界碑建立(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1715 | | | 原田三郎右衛門が陶山訥庵の入手した甘藷の種の栽培に成功する。 甘藷は後に対馬から朝鮮へ伝わる。 正徳5(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮)-対馬- | |
1716 | | | 享保の改革1716(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1721 | | | 1721景宗の治世に、壬寅の獄起こる[~1722辛壬士禍)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1721 | | | 景宗の治世に、壬寅の獄起こる[~1722辛壬士禍)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1724 | | | 《英祖即位(在~1776]》(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1725 | | | 1725年蕩平策実施(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1725 | | | 圧膝刑や死者に罪を追加して再度殺す刑罰を禁止(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1725 | | | 蕩平策実施.党争の悪弊を正し,王権の伸張と不偏不党を図る(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1725 | | | 老論政権成立(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1725 | | | 蕩平策実施(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1727 | | | 丁未換局、少論政権成立(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1728 | | | 1728李麟佐の乱(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1728 | | | 李鱗佐の乱.政界から追放された過激派勢力が政権を奪取しようとする(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1728 | | | 李麟佐の乱(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1729 | | | 三覆法制定.死刑囚への初審,再審,三審を認める(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1750 | | | 1750年均役法実施(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1750 | | | 均役法実施.奴婢以外の成年男子に軍役を課し,身役と賦役の弊害を正す(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1750 | | | 均役法実施される(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1750 | | | 均役法実施(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1759 | | | 「東史綱目」完成.正史の間違いを批判.野史も取り入れる(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1759 | | | 府中大火。消失家屋1千戸。幕府より米1万石の支援救援を受ける。幕府より朝鮮人参貿易資金8万両を借入れ。 宝暦9 義蕃[27](-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮)-対馬- | |
1762 | | | 1762英祖の治世に荘献世子事件起こる、精神を病んだ荘献世子が異常な行動を取り、王命により米櫃の中に閉じ込められ、餓死する(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1762 | | | 英祖の治世に荘献世子事件起こる、精神を病んだ荘献世子が異常な行動を取り、王命により米櫃の中に閉じ込められ、餓死する(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1763 | | | 1763年朝鮮通信使が日本からサツマイモを持ち帰り、朝鮮で食糧対策の一環として取り入れられた。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1763 | | | さつまいも日本より伝来(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1763 | | | 朝鮮通信使が日本からサツマイモを持ち帰り、朝鮮で食糧対策の一環として取り入れられた。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1763 | | | さつまいもの伝来(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1763 | | | 江戸神田に朝鮮人参座創設(江戸時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)-- | |
1772 | | | 老中田沼意次、田沼時代が始まる1772(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1774 | | | 個人の家での刑罰「濫刑」や,男性器を切り取る「鯨刺」禁止(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1776 | | | 1776年奎章閣設置(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1776 | | | 昌徳宮の北苑に奎章閣設置.文芸の中心機関となる(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1776 | | | 奎章閣設置(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1776 | | | 朝鮮私貿易断絶のため、対馬藩に手当金給付(江戸時代-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮)-対馬- | |
1776 | | | 朝鮮貿易のうち私貿易の断絶を申告し、幕府より毎年1万2千両の給付を受ける。 安永5 義暢[28](-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮)-対馬- | |
1782 | | | 天明の大飢饉[~87]1782(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1784 | | | 1784李承薫が天主教の書籍を持ち込む(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1784 | | | 李承薫、北京で洗礼を受けて帰国、伝道を行う(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1784 | | | 李承薫,北京で西洋の神父より洗礼を受け帰国,天主教伝道(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1784 | | | 李承薫が天主教の書籍を持ち込む(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1784 | | | 李承薫の天主教カトリック伝道(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1785 | | | 「大典通編」完成(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1786 | | | 1786年西学禁止(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1786 | | | 西学(天主教)禁じる(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1786 | | | 西学が禁止される(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1786 | | | 西学を禁じる(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1787 | | | 寛政の改革(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1791 | | | 辛亥通共政策(商業における自由売買を決める)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1796 | | | 1796正祖による水原城(華城)建設、(朝鮮後半の全盛期)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1796 | | | 正祖による水原城(華城)建設、(朝鮮後半の全盛期)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1800 | | | 18世紀中国を経由してカトリックが入ってくる。朝鮮内部では、王朝が強力に推進してきた儒教との対比で、容認派と反対派との抗争が起こり、朝鮮王朝は、1791年、ついにカトリック弾圧を実施した。そして、これを皮切りに、以後数次にわたり、カトリック弾圧が断行され、多くの犠牲者も出した。このカトリック弾圧に対しては、19世紀になってからも、西洋諸国からの強力な抗議・干渉が、高まって行く。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1800 | | | 18世紀末中国を経由してカトリックが入ってくる。朝鮮内部では、王朝が強力に推進してきた儒教との対比で、容認派と反対派との抗争が起こり、朝鮮王朝は、1791年、ついにカトリック弾圧を実施した。そして、これを皮切りに、以後数次にわたり、カトリック弾圧が断行され、多くの犠牲者も出した。このカトリック弾圧に対しては、19世紀になってからも、西洋諸国からの強力な抗議・干渉が、高まって行く。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1801 | | | 日本統治時代 19世紀末、日本は日清戦争に勝利し、台湾の統治権を得ました。これ以後約50年間、台湾は日本の植民地となりました。日本の統治に対して、当初は台湾住民の抵抗が強く、約5年間続いた紛争では、1万人以上の台湾人が戦死したり虐殺されるなどしました。 台湾に対する日本の植民地政策は、植民地経営での欧米との対抗意識や、南進政策もあり、道路、鉄道、港湾、上下水道、電気、通信などのインフラの整備や、教育の普及、治安の維持に注力するもので、そのレベルは当時の日本本土を上回るものでした。 台湾人は二等国民とされ、日本人や朝鮮人らと差別されましたが、こうした植民地政策により、台湾の公共インフラや教育水準はこの時期に飛躍的に向上し、経済的にも発展しました。 日本統治時代は、台湾人の日本同化政策により、台湾での学校教育は日本語で行われたため、この時代に学校教育を受けた世代は、日本語を話すことができます。(-朝鮮半島-台湾、朝鮮)-- | |
1801 | | | 1801年辛酉迫害(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1801 | | | 辛酉邪獄(天主教徒[カトリック]と中国人神父の殺害)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1801 | | | 辛酉迫害(辛酉邪獄)、天主教に寛大であった時派への弾圧(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1801 | | | 辛酉迫害(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1804 | | | 1804《純祖の治世、安東金氏による権勢政治[~1863年)》、士林派の終焉(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1804 | | | 《純祖の治世、安東金氏による権勢政治[~1863年)》、士林派の終焉(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1811 | | | 洪景来の乱[~1812地方差別に反発した一揆)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1811 | | | 洪景来の乱(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1811 | | | 洪景来の乱(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1811 | | | 没落両班,洪景来の乱.農民とともに平安道で起こる(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1811 | | | 洪景来の乱(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1811 | | | 朝鮮信使の江戸参礼を改め、聘礼式を府中(厳原)において行う。 文化8(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮)-対馬- | |
1811 | | | 最後の朝鮮通信使,対馬に来着(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、李氏朝鮮)-対馬-李氏朝鮮時代 | |
1825 | | | 異国船打払令1825(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1831 | | | 天主教朝鮮教区設置(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1831 | | | カトリック朝鮮教区設置(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1832 | | | イギリス商船、ロード・アーマスト号来航し通商を求める(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1834 | | | 朝鮮の凶作及び王城焼失により貿易途絶し、幕府より1万両を借入れ。 天保5(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮)-対馬- | |
1839 | | | 1839己亥迫害(漢城の天主教徒の弾圧)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1839 | | | 己亥邪獄.フランス人神父と信者多数処刑(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1839 | | | 己亥迫害(漢城の天主教徒の弾圧)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1839 | | | 斥邪綸音公布.民衆に公式にカトリック教を禁じる教書を下す(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1839 | | | 已亥迫害(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1839 | | | 己亥迫害(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1845 | | | イギリスの軍艦サマラン号が済州島と西海岸を不法に測量する(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1846 | | | 1846丙午迫害(天主教徒の漢江畔での処刑)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1846 | | | フランス軍,カトリック教弾圧に抗議し忠清道に入り書簡を渡す(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1846 | | | 丙午迫害(天主教徒の漢江畔での処刑)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1854 | | | 日米和親条約締結1854(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1856 | | | ハリス来日1856(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1858 | | | 日米修好通商条約締結1858(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1859 | | | 安政の大獄1859(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1860 | | | 崔済愚,東学(西教のカトリック教に対し,東方の道を立てる)創始(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1860 | | | 崔済愚、東学創始(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1861 | | | 金正浩,「大東輿地図」作成.産業,文化への関心を反映(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1861 | | | 金正浩、「大東輿地図」をつくる(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1862 | | | 慶州道の晋州地方から農民蜂起始まる(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1862 | | | 1862年壬戌農民蜂起(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1862 | | | 壬戌農民蜂起(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1863 | | | 1863《哲宗崩御し、高宗即位》、大院君政権の成立(王権強化)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1863 | | | 近代社会?(~1945](-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1863 | | | 1863年興宣大院君、執権。大院君の鎖国政策。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1863 | | | 高宗即位.父の興宣大院君執権.実権を握る(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1863 | | | 高宗即位。興宣大院君執権(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1864 | | | 朝鮮で大院君が政権を掌握(-朝鮮半島-朝鮮)-- | |
1864 | | | 4. 崔済愚処刑。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1865 | | | 1865年閔妃が王妃に。#style(class=box_black_swm){{閔妃・・・1851ー95年閔茲暎、公宗の王妃。後の明成皇后。}}(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1865 | | | 1865年閔妃が王妃に。 閔妃・・・1851ー95年閔茲暎、公宗の王妃。後の明成皇后。}}(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1865 | | | 壬辰倭乱で焼失した景福宮再建[~1872](-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1865 | | | 景福宮再建[-1872](-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1866 | | | 平壌洋擾.アメリカの武装商船ゼネラル・シャーマン号焼打ち(-朝鮮半島-朝鮮、アメリカ、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1866 | | | 1866キリスト教を弾圧し、信者1000人の死傷者を出した(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1866 | | | 1866年高宗の王妃に。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1866 | | | キリスト教を弾圧し、信者1000人の死傷者を出した(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1866 | | | ドイツの冒険商人,交易を拒否され大院君の父の墓をあばこうとして失敗(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1866 | | | 丙虎邪獄。シャーマン事件(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1866 | | | 丙寅迫害.天主教に対する弾圧.9人のフランス人神父と数千人の信徒が処刑(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1866 | | | 丙寅洋擾.丙寅迫害に対してフランス侵略するが撃退(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1866 | | | 丙寅迫害、丙寅洋擾(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1866 | | | 1866丙寅教獄(フランス人神父を含む多数の天主教徒の処刑により、フランス艦隊の江華島攻撃)、丙寅洋擾(アメリカ武装商船シャーマン号が朝鮮軍人の拉致や発砲を行うも、逆に焼討ちにあい全員殺害される)(-朝鮮半島-朝鮮:李氏朝鮮、アメリカ、フランス)--李氏朝鮮時代 | |
1866 | | | 1866年丙寅迫害→丙寅洋擾カトリック虐殺→舐めきって準備不足の仏に勝利?ジェネラルシャーマン号事件。アメリカ商船を奇襲、虐殺。(-朝鮮半島-朝鮮:李氏朝鮮、アメリカ、フランス)--李氏朝鮮時代 | |
1866 | | | 丙寅教獄(フランス人神父を含む多数の天主教徒の処刑により、フランス艦隊の江華島攻撃)、丙寅洋擾(アメリカ武装商船シャーマン号が朝鮮軍人の拉致や発砲を行うも、逆に焼討ちにあい全員殺害される)(-朝鮮半島-朝鮮:李氏朝鮮、アメリカ、フランス)--李氏朝鮮時代 | |
1866 | | | 10. フランス艦隊江華島攻撃(丙寅洋擾)。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1867 | | | 1867年(明治元年)明治政府は宗氏を通じ、王政復古を朝鮮に通達。「皇」「勅」の字の多用に朝鮮が怒り、受け取り拒否。以後、朝鮮は日本使者に非礼。帰国後、全員が「即時征韓論」を唱える。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1868 | | | 宗義達、藩兵を率いて大坂行在所に至り八幡の守衛に就く。京に上り、朝鮮通交につき建言。朝鮮国に政権が天皇に帰したことを通告。 明治元(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮)-- | |
1868 | | | 4. 宗義達(対馬藩主)朝鮮通交事務取扱となる。(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、大韓帝国)-日韓併合- | |
| | | 明治時代 (めいじじだい) 字義どおりには,1868年(慶応4・明治1]9月8日の明治改元から、1912年7月30日明治天皇の崩御にともない皇太子嘉仁(よしひと)親王が践祚し、大正と改元したときまでを指す。これは、明治天皇の践祚が1867年1月9日であるため、天皇の在位期間と一致せず、一世一元制の採用以前の時期を包摂できない。歴史学上での時期区分からすれば,1853年(嘉永6]ペリーの来航に始まる幕末・維新期の激動の時代から、明治天皇の没後に新しい時代の台頭を象徴する事件として生起した大正政変のころまでを指すのが適切であろう。
一八六八年から一九一二年に至る、「明治」の元号による四五年間の称。明治新政府の成立以来、開国進取・富国強兵が国是とされ、版籍奉還、廃藩置県などが行なわれて、封建制度にかわる中央集権体制が確立した。また、明治一八年に内閣制度、同二二年には大日本帝国憲法が制定され、欧米諸国の制度・文物の移入による諸改革が急速に行なわれた。 ※将来之日本[1886]〈徳富蘇峰〉一「今日の老輩にして封建時代の破壊より、明治時代の今日に至る迄を経過したるの人は」 1868年の明治新政府の発足から,1912年明治天皇の崩御に至るまでの44年間をさす この時代の日本国民は,国内政治・国際政治において大きな変革を経験した。世界の各国の進歩からとり残されていた鎖国下の封建日本は,この半世紀間に欧米諸国にならって立憲制を採用し,資本主義体制を確立して近代国家へと発展した。日清・日露両戦争に勝ち,アジア大陸の一角,朝鮮に植民地を得て列強の一つとして強大な軍備をもち,他国を脅かす存在となった。しかし明治末年には政治・経済上の行きづまりをみせ,国際的にはアメリカと対立するに至った。 | |
1869 | | | 1. 樋口鉄四郎(対馬藩家老)を朝鮮へ派遣、「皇」「勅」書契問題おこる。(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、大韓帝国)-日韓併合- | |
1870 | | | 1. 佐田白茅を朝鮮へ派遣。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1870 | | | 10. 吉岡弘毅を朝鮮へ派遣。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1871 | | | 辛未洋擾.アメリカの艦隊が江華島に侵入,撃退(-朝鮮半島-朝鮮、アメリカ、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1871 | | | 1871年辛未洋擾、米軍、江華島で報復。朝鮮軍敗北も「賛国維持」で勝利と宣伝。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1871 | | | 辛未洋擾(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1871 | | | 6. アタリカ艦隊江華島攻撃(辛未洋擾)。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1871 | | | 9.13 天津で初の対等条約である日清修好条規が結ばれる。・通商章程調印。(-朝鮮半島-清、清、朝鮮)-日韓併合- | |
1871 | | | 9.13 日清修好条規 日本と中国清朝との間に締結された最初の修好通商条約。1871年9月13日(明治4年7月29日)日本側全権大蔵卿伊達宗城と清国側全権直隷総督李鴻章との間に調印,73年3月9日批准,94年8月1日,日清開戦により失効した。明治政府は係争中の対朝鮮修交問題を有利に解決するため,朝鮮の宗主国である清国と対等条約を締結することを希望した。しかし日清間には16世紀末以来正式国交がなかったので,1870年7月27日(明治3年6月29日)予備交渉のため外務権大丞柳原前光,同権少丞花房義質に国交と通商の下交渉ならびに貿易状況の調査を目的に清国差遣を命じた。(-朝鮮半島-清、朝鮮)-- | |
1871 | | | 11. 岩倉具視らを欧米へ派遣。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1872 | | | 9. 花房義質を朝鮮へ派遣、朝鮮政府退去を要求。草梁倭館を接収、日本公館とする。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1873 | | | 朝鮮で閔氏が政権を奪取(-朝鮮半島-朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1873 | | | 《大院君追放、閔妃を中心にした閔氏政権の成立》(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1873 | | | 1873年大院君失脚により、閔一族の権勢。高宗、親政。 同族争いの歴史 輿宣大院君━┳━┃高宗━━━閔妃(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1873 | | | 1873年(明治6年)征韓論争(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1873 | | | 大院君政権が倒れ、閔氏政権が成立(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1873 | | | 8. 閣議、参議西郷隆盛の朝鮮派遣決定。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1873 | | | 10. 西郷の朝鮮派遣を無期延期、征韓派5参議下野(明治6年10月政変)。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1873 | | | 12. 閔氏政権成立。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1874 | | | 1874(明治7)年の日本の台湾出兵は、近代日本の最初の海外出兵であった。当時日本では、西郷隆盛らが盛んに征韓論という朝鮮半島への出兵を主張していたが、大久保利通ら政府首脳は内治優先を主張して鋭く対立し、ついに西郷らの下野、そして1877(明治10)年の西南戦争という内戦に向かっていく。その一方で行われた台湾出兵は、琉球帰属問題という朝鮮問題と並ぶもう一つの領土問題の懸案だった。こちらに対しては内治派の大久保らも出兵を推進しており、明治政府の基本姿勢は翌75年の江華島事件とともに、対外膨張路線であったことが明らかである。そして台湾出兵は、琉球帰属問題の解決後の琉球処分(琉球併合)、さらにその後の台湾領有に向けての第一歩となった。(-朝鮮半島-台湾、日本、朝鮮)-- | |
1874 | | | 純宗、出産。高宗、妾に男子有り。(明治7年)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1874 | | | 5. 日本軍、台湾出兵。~10(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1874 | | | 9. 日本公館長森山茂と東莱府使との閧に交渉開始合意。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1875 | | | 清に息子を王世子と認めてもらう。(明治8年)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1875 | | | 日本の軍艦雲揚号江華島へ侵入.武力示威を展開.永宗島占拠(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1875 | | | 雲揚号事件(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1875 | | | 2. 森山茂理事官、釜山着任、朝鮮政府と意見対立(7月 金継運との会見拒否、9. 帰国)。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1875 | | | 9.20 江華島事件(日本が朝鮮との国交通商を要求し武力示威した事件)(-朝鮮半島-朝鮮:李氏朝鮮、日本、アメリカ、フランス、ロシア)--李氏朝鮮時代 | |
1875 | | | 9.20 1875年(明治8年)日本軍と朝鮮軍との間で江華島事件(こうかとうじけん)がおきます。これは、日本軍が朝鮮付近の海を測量したのに対して朝鮮軍との間に衝突が起きたのですね。日本に媚びる。(-朝鮮半島-朝鮮:李氏朝鮮、日本、アメリカ、フランス、ロシア)--李氏朝鮮時代 | |
1875 | | | 9.20 江華島事件。雲揚号が江華島へ侵攻(-朝鮮半島-朝鮮:李氏朝鮮、日本、アメリカ、フランス、ロシア)--李氏朝鮮時代 | |
1875 | | | 9.20 江華島事件鎖国中の朝鮮と江華島事件が起き、朝鮮砲台占拠。(-朝鮮半島-朝鮮:李氏朝鮮、日本、アメリカ、フランス、ロシア)--李氏朝鮮時代 | |
1875 | | | 9.20 江華島事件-日本と李氏朝鮮との戦い。日本の勝利(明治時代-朝鮮半島-朝鮮:李氏朝鮮、日本、アメリカ、フランス、ロシア)-- | |
1875 | | | 9.20 「雲揚」、江華島・永宗島攻撃(江華島事件)。(-朝鮮半島-朝鮮:李氏朝鮮、日本、アメリカ、フランス、ロシア)-日韓併合- | |
1875 | | | 9.20 江華島事件(こうかとうじけん) 1875年9月 20日,朝鮮半島の西沿岸で水路測量の名目で示威活動中の日本艦『雲揚』の端艇がカンファ (江華) 島付近でチョウォチン (草芝鎮) 砲台から砲撃され応戦した事件。別名『雲揚』号事件。これを好機として,日本は強硬策をとり,列国の支持を得て,黒田清隆,井上馨を両全権として朝鮮に派遣し,武力的威嚇のもとに交渉を行い,76年2月 27日,日鮮修好条規 (→江華条約 ) を調印させた。(-朝鮮半島-朝鮮:李氏朝鮮、日本、アメリカ、フランス、ロシア)-- | |
1875 | | | 10. 参議木戸孝允、朝鮮政策につき意見書提出。(-朝鮮半島-朝鮮:李氏朝鮮、日本、アメリカ、フランス、ロシア)-日韓併合- | |
1875 | | | 12. 参議黒田清隆を朝鮮派遣全権大使に任命。(-朝鮮半島-朝鮮:李氏朝鮮、日本、アメリカ、フランス、ロシア)-日韓併合- | |
1876 | | | 日朝修好条規朝鮮と日朝修好条規(江華条約)を締結。外国に対して締結した初めての不平等条約。(-朝鮮半島-、朝鮮)-- | |
1876 | | | 日本と江華島条約(日朝修好条規)締結(-朝鮮半島-朝鮮、日本、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1876 | | | 日朝修好条規を結ぶ、釜山など三港の開港と自由貿易、開港場の居留地、日本商民への領事裁判権の承認、日本貨幣の流通、輸出入品への関税免除など、参考:、[1880]日本公使の常駐、元山の開港、無関税規定の改定、[1883]仁川の開港(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1876 | | | 1876年王朝内部の抗争は、絶えることなく続くが、一方で、徐々に迫ってくる諸外国に対しては、とうとう強硬な鎖国政策をとることとなる。だが、これが、後年、朝廷混乱に拍車をかけることになる。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1876 | | | 日朝修好条規清の宗主権を否定両班でない階層は、親日派で近代化を目指す宮中で興宣大院君と閔妃が権力争いを繰り返す日清の条約の後 ※両班朝鮮の身分制度・・・千年にわたる、非人間的な身分制度 貴族・・・王族及びその縁者両班・・・特権階級併合前の李氏朝鮮末期、戸籍上の半数中人・・・官僚機構をになう専門職常民・・・多くが小作農、実質的な人権がない常奴の蔑称も七賎・・・賎民階層(商人、船夫、獄卒、逓夫、僧侶、白丁、巫女、李朝時代には妓生(きいせん))白丁は戸籍が無く、性も無い、その他いくつもの禁止事項が。奴婢・・・家畜同然で、他人に売買はされる存在。(明治9年)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1876 | | | 日朝修好条規締結1867(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1876 | | | 江華条約(日朝修好条規)調印。釜山港開港(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1876 | | | 江華島条約を締結(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1876 | | | 江華島条約江華島事件の翌年には、日本は朝鮮との間に不平等条約「日朝修好条規」を結ぶことに成功しました。この日朝修好条規により朝鮮は日本に対して釜山、元山、仁川を開港し、開港地には日本の居留地を設定しなければならず、領事裁判権を認め、関税自主権も失うことになります。これによって、日本人が朝鮮に渡って、米の流通を牛耳ってしまうんですね。そして、大量の穀物などが日本に輸入され、朝鮮では穀物の価格がどんどん高くなってしまう事態となります。1876年には、当時の開国派政権との間で、いわゆる江華島条約(日朝修好条規)を締結する。これに引き続いて、アメリカ、フランス、ロシアなどと、相次いで通商条約を結ぶことになる。(-朝鮮半島-朝鮮:李氏朝鮮、日本、アメリカ、フランス、ロシア)--李氏朝鮮時代 | |
1876 | | | 王朝内部の抗争は、絶えることなく続くが、一方で、徐々に迫ってくる諸外国に対しては、とうとう強硬な鎖国政策をとることとなる。だが、これが、後年、朝廷混乱に拍車をかけることになる。しかし、やがて、1875年、日本軍は、開国を求めて、江華島に侵入し、1876年には、当時の開国派政権との間で、いわゆる江華島条約(日朝修好条規)を締結する。これに引き続いて、アメリカ、フランス、ロシアなどと、相次いで通商条約を結ぶことになる。(-朝鮮半島-朝鮮:李氏朝鮮、日本、アメリカ、フランス、ロシア)--李氏朝鮮時代 | |
1876 | | | 朝鮮国の開港に関する江華島条約締結(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮)-対馬- | |
1876 | | | 1. 森有礼公使、李鴻章と会談。清国政府、朝鮮国王に開国を勧告。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1876 | | | 2. 黒田全権ら江華島に上陸[11日より交渉開始)。日朝修好条規調印(27日)。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1876 | | | 2. 日朝修好条規の締結(朝鮮の開国)-日本と李氏朝鮮との条約(明治時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)-- | |
1876 | | | 5. 第1回修信使(金騎秀)来日。8日朝修好条規付録、日本国人民貿易規則(通商章程)調印。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1877 | | | 花房義質代理公使を開港交渉のため朝鮮へ派遣、成功せず。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1877 | | | 西南戦争1877(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1877 | | | 釜山に日本人居留地設置(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1878 | | | 9. 朝鮮政府、釜山港輸出入品につき朝鮮商人に課税[12月廃止)。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1879 | | | 池錫永,種痘法実施(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1879 | | | 池錫永、種痘法実施(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1879 | | | 4. 琉球藩廃止、沖縄県設置。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1879 | | | 6. 花房代理公使、朝鮮政府と開港交渉(仁川開港を断念)。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1880 | | | 4. 花房義質、弁理公使となる。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1880 | | | 5. 元山開港。米シュウフェルト提督釜山入港、国書奉呈拒否される。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1880 | | | 8. 金弘集来日。シュウフェルト天津着、以後李鴻章と朝鮮の通商条約締結交渉に入る。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1880 | | | 12. 花房弁理公使、朝鮮国王に国書奉呈。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1881 | | | 1881年調査視察団(紳士遊覧団)、領選使派遣(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1881 | | | 日本へ紳士遊覧団および清国へ領選使派遣.開化政策を推進(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1881 | | | 紳士遊覧団および領選使派遣(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1881 | | | 1. 朝鮮統理機務衛門設置。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1881 | | | 5. 朴定陽ら来日。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1881 | | | 11. 趙秉稿来日。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1882 | | | 朝鮮で壬午軍乱(-朝鮮半島-朝鮮)-- | |
1882 | | | 米英独などアメリカ、イギリス、ドイツと通商条約締結(-朝鮮半島-朝鮮、アメリカ、イギリス、ドイツ、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1882 | | | 1882年米朝修好通称条約壬午事変(じんごじへん)壬午軍乱(じんごぐんらん)壬午事変というのは、朝鮮にて当時、政権を握っていた閔氏(びんし)人物が日本と友好であったが為、それに反発するグループがクーデターを起こした事件です。結局、これには日本軍、清軍が介入し鎮圧。この事件後、日本はソウルにおける日本軍の駐留権を認めさせ、清も朝鮮に対して軍隊を指導するなど内政干渉を強めていきます。ちなみに、この事件の後、それまで親日的であった閔氏は内政干渉を強める清よりへと傾いていきます。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1882 | | | 1882年大院君、復権。 壬午事変前の改革 閔氏政権vs金弘集 ・開化政策 ・清を見習う日本を見習う日本人顧問を呼んで新式訓練(別技軍) 壬午事変 ・給与13ヶ月分に旧式軍人が激怒7月23日蜂起 ・金弘集ら事大党、日本公使館を焼くなどクーデター ・大院君が担がれる ・閔妃は女官に紛れ脱出→日本を見捨て清(袁世凱)を頼る(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1882 | | | 1882年8月30日済物浦条約日本は軍艦5隻に陸軍一個大隊と海軍陸戦隊を載せ、仁川から一気にソウルまで駆け上がり、居留民保護。以下を朝鮮に認めさせる・謝罪・責任者処罰・賠償・公使館警備のための軍隊駐留(再発防止)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1882 | | | 壬午軍乱.旧式軍隊への差別待遇に対する不満爆発(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1882 | | | 大院君、開化政策の否定とする、壬午軍乱(軍内における棒給などの不満による暴動で、閔政権打倒される)起こる、朝米(朝英・朝独)修好通商条約の締結、清国は壬午軍乱を鎮圧し、ソウルに軍隊を駐留させ、朝中商民水陸貿易章程を締結する、清国による内政干渉がはじまる 壬午事変後の朝鮮 ・朝清商民水陸貿易章程で経済的に属国化 ・馬建忠とメレンドルフが顧問に。閔妃はメレンドルフ(高宗側近)と組みロシアに色目。・・・清の不信。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1882 | | | 米・英・独と通商条約締結.日本とロシアを牽制(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1882 | | | 壬午軍乱(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1882 | | | 壬午軍乱(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1882 | | | 3. 金玉均来日(8月まで滞在)。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1882 | | | 5. 朝米修好通商条約調印。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1882 | | | 6. 朝英仁川条約調印(イギリス批准せず)。朝独修好通商条約調印(ドイツ批准せず)。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1882 | | | 7. 朝鮮国に壬午事変勃発。翌月、済物浦条約締結。(-朝鮮半島-朝鮮)-- | |
1882 | | | 7. 壬午軍乱おこる。8日朝修好条規続約・済物浦条約調印。清国軍、大院君を拉致、天津へ連行。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1882 | | | 7. 壬午事変(じんごじへん)-李氏朝鮮で発生した襲撃事件(明治時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)-- | |
1882 | | | 7.22 朝鮮、壬午の変、日本の出兵に対抗し、8月7日、清も出兵(-朝鮮半島-清、朝鮮)-- | |
1882 | | | 9. 仁川開港。朝清商民水陸貿易章程調印。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1882 | | | 10. 朴泳孝・金玉均ら来日。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1882 | | | 12. 横浜正金銀行、朝鮮政府と17万円借款協定成立。ドイツ人ノレンドルフ朝鮮政府統理衛門に傭聘。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1883 | | | 元山学舎設立(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1883 | | | 太極旗使用(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1883 | | | 典圜局設置.貨幣発行(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1883 | | | 博文局設立.開化党,朝鮮初の近代的新聞「漢城旬報」発刊(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1883 | | | 「漢城旬報」発刊(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1883 | | | 曲圜局設置(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1883 | | | 元山学舎設立(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1883 | | | 大極旗使用(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1883 | | | 6. 金玉均来日、借款を求めるが交渉不成立[1884年5月帰国)。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1883 | | | 10. 駐清英国公使パークス、横浜駐在独領事ツァッペとともに漢城入京、メレンドルフと条約再交渉(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1883 | | | 11. 清仏戦争はじまる。[~1885年4月)(光緒10](-朝鮮半島-清、李氏朝鮮、日本)-日韓併合- | |
1883 | | | 11. 朝英修好通商条約・朝独修好通商条約調印(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1884 | | | 朝鮮で甲申政変(-朝鮮半島-朝鮮)-- | |
1884 | | | 甲申政変(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1884 | | | 甲申政変.開化党による政変革命.清国軍の介入により3日天下に終わる(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1884 | | | 甲申政変(甲申事件)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1884 | | | 朝露修好通商条約の締結、甲申政変(甲申事変)、開化派のクーデターは失敗に終わり、事大派の勝利となる(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1884 | | | 郵政局設置.近代的郵政事業を目指す(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1884 | | | 郵政局設置(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1884 | | | 甲申政変(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1884 | | | 6. 朝伊修好通商条約調印(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1884 | | | 7. 朝露修好通商条約調印。日本公使館新築(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1884 | | | 11. 甲申政変-李氏朝鮮内でのクーデター(明治時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)-- | |
1884 | | | 12. 朝鮮国内にて甲申事変。(-朝鮮半島-朝鮮)-- | |
1884 | | | 12.4 甲申政変おこる。朴泳孝・金玉均ら日本へ亡命。井上馨外務卿を特派全権大使として朝鮮へ派遣。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1884 | | | 12.4 甲申事変(こうしんじへん)そして、そのすぐ後、甲申事変が起きます。これは、朝鮮にて清の影響力が強まる中、日本と組んで近代化を目指した方がいい!というグループがクーデターを起こすのです。もちろん彼らは自分達だけでは無理なので日本の軍にも期待しています。それに対して、閔氏は清に援軍を要請します。朝鮮の人々の中でも日本につくか?清につくか?で争いが頻発した時代ですね。しかし、日本も清も本気で戦争を始められる状態では当時なかった。1884年といえば清はベトナムをめぐって清仏戦争を起こしていて、日本も自由民権運動の真っ只中。そこで、両国間の間で天津条約(てんしんじょうやく)というのが結ばれます。これは、とりあえず、両国とも軍を朝鮮から軍を引き上げましょう。また、今後朝鮮への出兵する際には事前に通告をし合うことにしましょう。と約束事を設けたんですね。閔妃失脚も、清の力で復権。 甲申事変金玉均、竹添進一郎日本公使館の協力を得て、閔氏政権に対して、クーデター 1.国王殿下の呼称の廃止皇帝陛下として独立国の君主として振る舞う事。 2.清国に対して、朝貢の礼を廃止する事。 3.内閣を廃し、税制を改め、宦官の制を廃する事。 など、14項目の政策を発表清は、清仏戦争の敗北により、全力を朝鮮に。閔妃は、再び清を頼る。日本軍150対清国1500で銃撃戦。清軍、日本公使館焼き討ち。市街で居留民虐殺。竹添、長崎へ脱出。金玉均、朴永孝も日本へ亡命。3日で、クーデター失敗。清は、大院君を送り出す。 甲申事変後の処理 ・閔妃の復讐・開化は要人の家族、凌遅刑 ・金玉均、暗殺団、組織漢城条約(日本に対して) ・謝罪 ・賠償金 事大主義 強い方に付く、勝ちそうな方に付く。親清・親露・親日の見方はできない。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1885 | | | 日本と漢城条約の締結、英艦隊、巨文島を占領する、(日清間に天津条約の締結)(-朝鮮半島-朝鮮、日本、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1885 | | | 1885日本と漢城条約の締結、英艦隊、巨文島を占領する、(日清間に天津条約の締結)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1885 | | | 1885年4月天津条約・朝鮮より、両軍の撤兵・軍事顧問団不派遣・出兵前に事前通告の原則(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1885 | | | 1885年巨文島事件(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1885 | | | 1885年ロシアを後盾にしようとして失敗。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1885 | | | ソウル・仁川間電信開通(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1885 | | | 巨文島事件.イギリス巨文島を占領,ポール・ハミルトンと命名(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1885 | | | 広恵院設立(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1885 | | | 培材学堂設立(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1885 | | | 巨文島事件(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1885 | | | 培材学堂設立(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1885 | | | ソウル・仁川間電信開通(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1885 | | | 広恵院設立(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1885 | | | 1. 漢城条約調印。竹添公使召還。呉大澂、漢城入京。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1885 | | | 3. 福沢諭吉「脱亜論」発表。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1885 | | | 4. イギリス海軍巨文島占拠。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1885 | | | 4. 天津条約調印。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1885 | | | 4. 天津条約-日本と清との朝鮮に関する条約(明治時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)-- | |
1885 | | | 4.18 日本と天津条約に調印、朝鮮を日中両国共同の「保護国」化(-朝鮮半島-清、朝鮮)-- | |
1885 | | | 6. スベエル、ロシア軍人傭聘協定締結のため漢城入京。メレンドルフ解任。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1885 | | | 7. 榎本武揚駐清公使、李鴻章に日清共同朝鮮内政改革案を提示。日本守備隊・清国軍、朝鮮より撤退。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1885 | | | 9. 幽閉中の大院君赦免[10月帰国)。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1886 | | | 育英公院,梨花学堂設立(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1886 | | | 育英公院、梨花学堂設立(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1886 | | | 6. 朝仏修好通商条約調印。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1887 | | | 清国の仲介により,巨文島よりイギリス軍撤退く(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1888 | | | ドイツでヴィルヘルム2世が即位し、国際政治が大変動。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1889 | | | 1889年威鏡道、防穀令実施(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1889 | | | 凶作を理由に咸鏡道に穀物輸出禁止令.日本の反対で解除(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1889 | | | 咸鏡道に防穀令実施(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1889 | | | 防穀令事件-日本と李氏朝鮮の穀物輸出問題。日本は賠償金獲得 日本法律学校(日本大学)が設立(明治時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)-- | |
1889 | | | 2. 大日本帝国憲法公布。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1889 | | | 2. 大日本帝国憲法発布1889(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1889 | | | 5. 黄海道で防穀令施行。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1889 | | | 9. 咸鏡道で防穀令施行。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1890 | | | 山県有朋による「外交政略論」の提出、(朝鮮を日本の利益線とみなし、その防護が国家目標であるとする)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1890 | | | 3. 第1回帝国議会召集。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1890 | | | 11. 黄海道で防穀令施行。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1891 | | | 12. 朝鮮政府に防穀損害賠償要求(防穀令事件)。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1892 | | | 12. 東学教徒、崔済愚の伸寃運動開始。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1893 | | | 3. 東学教徒報恩集会。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1894 | | | 日清戦争は朝鮮を巡る両国の対立から起こった戦争であるが、台湾は沖縄に近く、砂糖などの生産地、地下資源など日本にとって有用であるとして日本の戦争目的の一つには早くから台湾領有の意図があった。また、イギリス・フランスも関心を寄せ、日本の台湾進出を警戒していた。清朝は独力で台湾を保持するのは困難と考え、まずイギリスへの売却交渉を子なったが合意に至らなかった。またフランスは海軍を台湾に派遣するなど積極的で、清朝も一時的譲渡など交渉を行ったが、マダガスカルで反仏暴動が起こったため、台湾譲渡は実現しなかった。そのような情勢の中、日清戦争は講和交渉に入ったが、その最中の1895年3月、日本軍は台湾と大陸の間にある澎湖島を占領して清を牽制し、下関条約で遼東半島とともに台湾を譲渡することを合意させた。(-朝鮮半島-台湾、朝鮮)-- | |
1894 | | | 東学党の乱(-朝鮮半島-朝鮮)-- | |
1894 | | | 朝鮮で甲午農民戦争(東学党の乱)(-朝鮮半島-朝鮮)-- | |
1894 | | | 1894年東学農民運動、甲午改革(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1894 | | | 1894年閔妃、金玉均を暗殺。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1894 | | | 1894年6月2日伊藤内閣、解散と開戦を同時決定。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1894 | | | 1894年7月23日王宮占領。高宗拘束。大院君、第三次政権樹立も、1ヶ月で日本に呆れられる。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1894 | | | 1894年9月15日平壌攻略。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1894 | | | 1894年9月17日黄海海戦勝利。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1894 | | | 甲午改革.日本の圧力で閔氏政権を倒し,第一次金弘集内閣成立(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1894 | | | 甲午農民政争が始まる(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1894 | | | 東学農民運動.反封建,反侵略の近代民族運動に移っていく(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1894 | | | 東学農民運動、甲午改革(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1894 | | | 3. 朝鮮国内で東学党の乱。(-朝鮮半島-朝鮮)-- | |
1894 | | | 3. 朝鮮で東学党の乱(一次・二次甲午農民戦争)、農民が減税などを訴え起こした乱です。党派間のクーデターによる混乱や、外国との開国通商による物価高騰に苦しめられた農民が中心になって蜂起し、官軍と起こした内戦である。大院君派と閔妃派の対立が深まり、大院君、東学党の大幹部の全?準を食客に。大院君は儒教原理主義を押し立て、清の後ろ盾を頼る。しかし、日本にも色目。閔妃はロシアに色目を使うも、清に媚びる。閔妃が清に出兵要請。東学党二代目教祖雀時亮→排外的西洋文化が、古来文化をこわす。地方役人の賄賂に、地方農民が怒り乱となった。これを鎮圧させる為に閔妃は清に援軍を要請します。これを見た日本も日本の公使館を守るなどの理由で出兵。官・農民間の和議が成立して終結する。閔妃、失脚。しかしその後も、清軍と日本軍は、双方が朝鮮に駐屯を続け、ついに、日清戦争が勃発する。日清戦争で陸上戦闘の主戦場となるこの戦争は1895年、日本軍の勝利に終わり、朝鮮は日本の影響下におかれることになる。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮、日本、ロシア、清)--李氏朝鮮時代 | |
1894 | | | 3.29 朝鮮、甲午農民戦争始まる、6月2日、日本が朝鮮に出兵(-朝鮮半島-清、朝鮮)-- | |
1894 | | | 4. 甲午農民戦争。 (-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1894 | | | 6. 朝鮮政府、清国に援兵要請。清国・日本、朝鮮に出兵。全州和議、全羅道に執綱所設置。日本政府、清国と朝鮮内政共同改革を提議、拒否される。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1894 | | | 6.5 朝鮮王朝が清軍に出兵を依頼、朝鮮に出兵。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1894 | | | 6.8 清出兵に伴い日本軍、朝鮮に出兵。日清英露の四国で協議。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1894 | | | 7. 大鳥公使、朝鮮政府に内政改革案を提示。日英通商航海条約調印。日本軍が王宮占領、大院君摂政となる(甲午政変)。豊島沖海戦(日清戦争はじまる)。甲午改革はじまる。8対清宣戦布告。第1次金弘集内閣成立。大日本大朝鮮両国盟約(攻守同盟)調印。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1894 | | | 7.22 日本、朝鮮に清軍の撤退を要求。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1894 | | | 7.23 李氏朝鮮で親日政権が誕生する(日本が朝鮮王宮を占拠)(明治時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)-- | |
1894 | | | 8.1 日清戦争(中日甲午戦争)始まる。日清両国、宣戦布告。[~95.03.30](光緒20](-朝鮮半島-清、日本、朝鮮、李氏朝鮮、台湾)--李氏朝鮮時代 | |
1894 | | | 8.1 日清戦争 李氏朝鮮での甲午農民戦争が発端となり日本と清は朝鮮半島を巡り戦争となる。日本海軍が豊島沖で清国艦隊を攻撃し、開戦。黄海海戦などで日本が勝利し、清が和平を求めた。(-朝鮮半島-清、日本、朝鮮、李氏朝鮮、台湾)--李氏朝鮮時代 | |
1894 | | | 8.1 大院君へ引退勧告。(明治27年)(-朝鮮半島-清、日本、朝鮮、李氏朝鮮、台湾)--李氏朝鮮時代 | |
1894 | | | 9. 平壌占領。黄海海戦。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1894 | | | 10. 農民軍各地で決起。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1894 | | | 11. 井上公使、内政改革要領を朝鮮国王に奏上。日本軍、旅順口占領。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1894 | | | 11.7 大連占領。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1894 | | | 11.7 旅順占領。この日清戦争については、日本の大勝利により下関条約が結ばれます。大院君、日清戦争中、開化派を弾圧。日本が激怒も、涙の弁明で命乞い。幽閉。 「朝鮮雑記・・・日本人が見た1894年の李氏朝鮮」祥伝社・本間九介(安達九郎)匙や箸などを使わず、すべて手で。小便で顔を荒い、婦女子が陰部を洗う(梅毒など伝染病予防)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1894 | | | 12. 農民軍公州で敗退、全璋準捕われ処刑。軍国機務処廃止。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1895 | | | 同じ日本の植民地であった朝鮮(韓国)とは異なり、現在の台湾には日本統治時代に功績のあった日本人を顕彰する銅像や記念碑などが多く存在しており、約50年にわたる日本統治時代を全否定するような歴史解釈は見られません。(-朝鮮半島-台湾、朝鮮)-- | |
1895 | | | 朝鮮で閔妃殺害事件(-朝鮮半島-朝鮮、日本)-- | |
1895 | | | 1895年10月8日乙未改革閔妃殺害事件(びんひさつがいじけん)(乙未事変)日清戦争による日本の勝利に伴い、朝鮮半島は清の冊封体制から逃れた訳ですが、国内ではこのままでは日本のいいなりになってしまうと危機感が広がっていくわけです。そして、朝鮮の宮廷内では、ロシアと手を組んで日本に対抗しようという動きが出てきます。当時、日本は日清戦争によって獲得した遼東半島をロシアが中心となった三国干渉により清に返還していますから、朝鮮王朝としてはロシアを味方につければ日本もおとなしくなるだろうという考えがあったわけです。当然、日本はこの事態に激怒するわけですが、それにしても恐ろしい事件を引き起こすことになります。1895年10月8日、閔妃殺害事件(びんひさつがいじけん)(乙未事変)です。大院君、三浦梧楼公使と閔妃殺害を計画。閔妃殺害事件後、幽閉。 閔妃の本当の写真は? 閔妃は国王の王妃です。彼女がロシアと手を組もうとしている朝鮮宮廷内の動きの背後にいるのではないか?という日本側の憶測により、閔妃を殺害した上でガソリンにて遺体を妬いてしまうという暴挙をおこします。この閔妃殺害には陸軍600人、民間人47人が参加したとされ、首謀者とされたのが三浦梧楼(ごろう)という人物です。彼は、ソウル公使であったのですが、彼ひとりでこの大事件を画策したというのにはさすがに無理がありますね。そして、結局彼らは証拠不十分ということで処罰されることはありませんでした。この事件の背後にいたのは、日本政府?または、殺害事件の前にも暗殺未遂事件が起きていることから閔妃に不満を持つ宮廷内の人物が日本側と手を組んで?など近年ではさまざまな憶測が飛び交っています。 背後に誰がいたのか?それは定かではありませんが、しかし、首謀者が三浦梧楼とされ、彼は処罰されずということで朝鮮国内では日本に対して不満が爆発していくきっかけとなっていきました。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1895 | | | 1895年4月三国干渉で親露政策。ドイツフランスロシアロシアと友好関係維持→遼東半島が日本領になると南下政策に支障。日本に圧力→遼東半島を清国に返還。清国より賠償金上乗せ。「朝鮮には貨幣がない」(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1895 | | | 乙未事変.日本公使三浦梧楼の指揮により王妃閔妃暗殺(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1895 | | | 断髪令発布(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1895 | | | 日本軍の弾圧(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1895 | | | 閔妃殺害事件(乙未事変)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1895 | | | 乙未事変(閔后弑殺)(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1895 | | | 兪吉濬「西遊見聞」を書く(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | |
1895 | | | 2. 北洋艦隊降伏。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1895 | | | 3. 日本銀行、朝鮮政府と300万円借款契約(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1895 | | | 4.17 下関条約 伊藤博文首相、陸奥宗光外相と、李鴻章が交渉。 朝鮮の独立承認 遼東半島、台湾・ぼう湖諸島の割譲。 2億両(3億1000万円)の賠償金。 (-朝鮮半島-清、日本、朝鮮)-- | |
1895 | | | 4.17 日清講和条約調印(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1895 | | | 4.17 1895日清講和条約(下関条約成立、朝鮮が独立国であることを確認)朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止される親露反日政策をとった閔妃(明成皇后)が日本軍守備隊や警察、訓練隊等により殺害される(乙未事変)三浦梧楼の指揮によって殺害されたとする説が一般的だが、他方日本の保守派・右派の間では、それについて確認がとれていないことを強調する立場もある(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1895 | | | 4.17 下関会議。#style(class=box_black_swm){{下関条約の内容1:朝鮮の独立を認めること。(この直後、朝鮮は大韓帝国と国名を変え、独立を宣言します)2:遼東半島(りょうとうはんとう)を日本に譲り渡す。(中国と朝鮮の間にある半島で日本の戦略的にかなり重要な土地です)3:台湾を日本に譲り渡す。(これにより日本は初の海外植民地として台湾を獲得しました。)4:澎湖諸島(ほうこしょとう)を日本に譲り渡す。(これは台湾と中国本土の間の島々。)5:賠償金2億両を日本に支払う。(約3億1000万円。当時の日本の国家予算のなんと2倍以上のお金です)6:日清通商航海条約を結ぶ(清に欧米と同条件の不平等条約を日本とも結ばせた)沙市、重慶、蘇洲、杭洲の開港。?}}朝鮮において重要なのは最初の朝鮮の独立を清に認めさせたというところ!これにより、清による朝鮮の冊封体制は完全に消滅。1897年には朝鮮は大韓帝国と改称することになります。そして、韓国併合。つまりは、日本による朝鮮の植民地化へと進んでいくのです。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1895 | | | 4.17 下関会議。 下関条約の内容1:朝鮮の独立を認めること。(この直後、朝鮮は大韓帝国と国名を変え、独立を宣言します)2:遼東半島(りょうとうはんとう)を日本に譲り渡す。(中国と朝鮮の間にある半島で日本の戦略的にかなり重要な土地です)3:台湾を日本に譲り渡す。(これにより日本は初の海外植民地として台湾を獲得しました。)4:澎湖諸島(ほうこしょとう)を日本に譲り渡す。(これは台湾と中国本土の間の島々。)5:賠償金2億両を日本に支払う。(約3億1000万円。当時の日本の国家予算のなんと2倍以上のお金です)6:日清通商航海条約を結ぶ(清に欧米と同条件の不平等条約を日本とも結ばせた)沙市、重慶、蘇洲、杭洲の開港。? 朝鮮において重要なのは最初の朝鮮の独立を清に認めさせたというところ!これにより、清による朝鮮の冊封体制は完全に消滅。1897年には朝鮮は大韓帝国と改称することになります。 そして、韓国併合。つまりは、日本による朝鮮の植民地化へと進んでいくのです。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1895 | | | 4.17 日清講和条約(下関条約成立、朝鮮が独立国であることを確認)朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止される親露反日政策をとった閔妃(明成皇后)が日本軍守備隊や警察、訓練隊等により殺害される(乙未事変)三浦梧楼の指揮によって殺害されたとする説が一般的だが、他方日本の保守派・右派の間では、それについて確認がとれていないことを強調する立場もある(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |
1895 | | | 4.17 下関条約 第一条清は朝鮮を独立国と認める。 第二条清は遼東半島、台湾、澎湖諸島を日本に譲渡する。 第三条清は日本へ賠償金2億両(銀)を支払う。(最終的には金払い)(明治時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)-- | |
| | | 三国干渉 日清戦争に勝利した日本が、1895年、下関条約で中国から遼東半島を獲得したことに対して、ロシア・フランス・ドイツの三国が干渉し、その返還を迫ったこと。ロシア(ニコライ2世)の蔵相ウィッテが主唱して、フランスとドイツに働きかけ、日本の遼東半島の領有は極東の平和を妨げるという理由でそれを放棄するよう、下関条約調印のわずか6日後の4月23日に日本に勧告した。日本は当時の国際的な力関係から、この圧力に抗しきれず、同年11月に遼東半島還付条約を清と結んで遼東半島を清に還付し、かわりに3千万両を受けることとした。日本国内では「臥薪嘗胆」が叫ばれ、特にロシアに対する反発が強まった。 | |
1895 | | | 4.23 三国干渉起こる(明治28)(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本、清)-日韓併合、日露戦争史(年表)- | |
1895 | | | 7. 三国干渉の影響で朝鮮は親露政権となる(明治時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)-- | |
1895 | | | 8. 三浦梧楼駐朝公使となる。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1895 | | | 10. 閔妃殺害(乙未事変)。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1895 | | | 12. 断髪令公布。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1896 | | | 徐載弼,アメリカより帰国し「独立新聞」発刊(-朝鮮半島-朝鮮、アメリカ、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代→大韓帝国時代 | |
1896 | | | 1896山県・ロバノフ協定(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代→大韓帝国時代 | |
1896 | | | 1896年大院君、隠居。「独立新聞」創刊独立協会設立(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代→大韓帝国時代 | |
1896 | | | 1896年露館播遷高宗、暗殺を恐れロシア公使館に逃げ込む。(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代→大韓帝国時代 | |
1896 | | | 俄館播遷.親露派により国王をロシア公使館へ移す(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代→大韓帝国時代 | |
1896 | | | 義兵が起こる 露館播遷 独立協会設立(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代→大韓帝国時代 | |
1896 | | | 山県・ロバノフ協定(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代→大韓帝国時代 | |
1896 | | | 太陽暦採用(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代→大韓帝国時代 | |
1896 | | | 独立協会を設立.独立門を建てる(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代→大韓帝国時代 | |
1896 | | | 俄館播遷(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代→大韓帝国時代 | |
1896 | | | 「独立新聞」発刊(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代→大韓帝国時代 | |
1896 | | | 独立協会の設立(-朝鮮半島-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代→大韓帝国時代 | |
1896 | | | 1. 各地に義兵闘争おこる(乙未義兵)。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1896 | | | 2. 「俄館播遷」。金弘集ら殺害される。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1896 | | | 4. 徐載弼「独立新聞」発行。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1896 | | | 5. 小村・ウェーバー協定調印。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1896 | | | 6. 山県・ロバノフ協定調印。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1896 | | | 6. 山縣・ロバノフ協定(朝鮮に関する日露協定)。(-朝鮮半島-日本、朝鮮)-- | |
1896 | | | 7. 徐載弼・尹致昊ら独立協会結成。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1896 | | | 11. 漢城に独立門建立。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1896 | | | 12. 「大朝鮮独立協会会報」発刊。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1897 | | | 一方、弱体化してきた朝廷では王妃がロシアに近づき親露政策をとることになったが、これにより、王妃は朝鮮人と日本人の手で惨殺される。更に王は、これに恐怖を感じ、王権は、失墜する。朝鮮は日本とロシアとの勢力争いの場となってしまった。1897年、朝鮮は国号を大韓帝国と改称する。(-朝鮮半島-大韓帝国、朝鮮)--大韓帝国時代 | |
1897 | | | 大韓帝国樹立 一方、弱体化してきた朝廷では王妃がロシアに近づき親露政策をとることになったが、これにより、王妃は朝鮮人と日本人の手で惨殺される。更に王は、これに恐怖を感じ、王権は、失墜する。朝鮮は日本とロシアとの勢力争いの場となってしまった。1897年、朝鮮は国号を大韓帝国と改称する。 日清戦争[1894~1895]の清の敗北を受けて締結された下関条約により、朝鮮は清の冊封体制から離脱し、朝鮮国から大韓帝国と国号を改める(財政基盤の脆弱性により借款がうまくゆかず、各地で抗争が起きる) 大韓帝国成立一方、弱体化してきた朝廷では王妃がロシアに近づき親露政策をとることになったが、これにより、王妃は朝鮮人と日本人の手で惨殺される。更に王は、これに恐怖を感じ、王権は、失墜する。朝鮮は日本とロシアとの勢力争いの場となってしまった。日本はロシアの南進を防ぐべく、朝鮮半島の近代化を進めた武断政治とよばれる強権統治をおこない、活発な抗日独立運動がおこった。日清戦争後の下関条約により、朝鮮は清の冊封体制から離脱し、1897年に大韓帝国(通称・韓国)として独立し、高宗は韓国皇帝を称した。これ以後日本の強い影響下に置かれた。 大韓帝国の設立.内外に自主国家であることを宣言http://www.0o0d.com/img/flags/16/Korean-Empire.png 国号を大韓帝国に改める(-朝鮮半島-大韓帝国、朝鮮)--大韓帝国時代 | |
1897 | 下関条約により清の属国から開放される←←←ココ重要! | |
1897 | | | 朝鮮が国号を韓と改める(-朝鮮半島-朝鮮、韓)-- | |
1897 | | 朝鮮人民共和国 1945年(-朝鮮半島-朝鮮人民共和国)-消滅した政権一覧- | |
1897 | | | 10. 下関条約により李氏朝鮮は清から独立する 初代皇帝は高宗とし国号は大韓帝国となる(明治時代-朝鮮半島-大韓帝国、日本、朝鮮)-- | |
1898 | | | フランスへの売却をとめた後藤新平の統治施策 日本統治下における台湾での教育行政も、朝鮮と同様に「日本人の優位確保」と「現地住民の日本的慣習への同化」に重点が置かれましたが、朝鮮の場合と違っていたのは、日本人と台湾人(漢人)に加えて、主に山岳で暮らす原住民が、異なる文化を守りながら暮らしていたことでした。 そのため、日本統治時代の台湾には、日本人、台湾人、原住民の三種類の学校があり、日本人学校は設備も教員の質も高くされていました。一方、伝統的な固有文化を重んじる原住民の教育施設には、監視の意図も含めて日本の警察が関わることもありました。(-朝鮮半島-台湾、朝鮮)-- | |
1898 | | | 釜下鉄道会社設立 独立協会,万民共同会開催.ロシアの侵略策動を糾弾し自主国権運動展開 1898独立教会、官民共同会を開き国政改革を求めるも、土地改革構想を提示しえず、農民層を陣営に取り込めず失敗し、守旧派の弾圧を受け解散する 万民共同会開催「皇城新聞」創刊朝鮮は国号を大韓帝国と改称する。閔妃を明成皇后に祭り上げる。親露派が親日派を圧倒。 大院君、死去。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1898 | | | 万民共同会開催(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)-国史年表-大韓帝国時代 | |
1898 | | | 4. 西・ロ-ゼソ協定調印。米西戦争おこる。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1898 | | | 4. 朝鮮の主権を日露両国確認。(-朝鮮半島-朝鮮、日本、ロシア)-- | |
1898 | | | 7. 量田事業開始。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1898 | | | 9. 金鵄陸ら、皇帝・皇太子殺害を計画(毒茶事件)。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1898 | | | 10. 官民共同会開催。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1898 | | | 11. 独立協会に解散命令。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1899 | | | 1899年京仁線開通 外国人の手により京仁線開通. 利運社,通運社などの陸運会社設立(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1899 | | | 京仁線開通(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)-国史年表-大韓帝国時代 | |
1899 | | | 9. 韓清通商条約調印。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1899 | | | 12. 「独立新聞」発刊。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1900 | | | 韓国の歴史http://www.0o0d.com/img/flags/16/Korean-Empire.png&size(6){(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代}; | |
1900 | | | 京仁鉄道の開通(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1900 | | | 万国郵便連合加入(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)-国史年表-大韓帝国時代 | |
1900 | | | 日英露独墺伊仏英、八ヶ国連合軍出兵。(明治33年)(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1900 | | | 漢江に1100mの鉄橋を架ける。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1900 | | | しかし、19世紀に入ると東アジアでは激動の時代となります。アヘン戦争などによる清の国力低下。フランスやアメリカも朝鮮を狙い始め、また日本も朝鮮に国交を強く要求します。しかし、朝鮮は清による冊封体制の下にあることを理由に日本との国交を拒否し、日本と朝鮮との間では対立が激しくなっていくのです。(-朝鮮半島-朝鮮:大韓帝国、日本、アメリカ、フランス)--大韓帝国時代 | |
1900 | | | 満韓交換論 伊藤博文による交換論(満州はロシア帝国、朝鮮半島は日本)(明治時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)-- | |
1900 | | | 4. 露清密約、満州全域に露軍駐留。 大韓共同郵船会社,仁川輪船株式会社,海西鉄鉱会社設立 万国郵便連合加入(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1900 | | | 6. 義和団事件。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1900 | | | 11. 満州に関する露清協定締結。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1901 | | | 1901貨幣条令を公布し、金本位制を採用 1901年北京議定書(日本は駐留権)(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1901 | | | 6. 桂太郎内閣成立、政綱に韓国保護国化を掲げる。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1901 | | | 10. 朴斉純外相来日、中立化案を打診。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1902 | | | 1902(日英同盟の締結)、日本の第一銀行、朝鮮国内で銀行券を発行(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1902 | | | ソウル・仁川間長距離電話開通 日英同盟成立 1902(日英同盟の締結)、日本の第一銀行、朝鮮国内で銀行券を発行 1902年1月30日桂太郎首相、ロシアに満韓交換論を提示。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1902 | | | 日英同盟成立1902(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1902 | | | ソウル・仁川間に長距離電話開通(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)-国史年表-大韓帝国時代 | |
1903 | ロシア朝鮮半島を南下。日本の尽力によりロシアの属国化を回避 | |
1903 | | | YMCA発足(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1903 | | | 遂安金鉱合資会社設立(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1903 | | | YMCA発足(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)-国史年表-大韓帝国時代 | |
1903 | | | 8. 日本政府、日露協商基礎条項提示。ロシア、極東総督府設置。駐日公使高永喜、戦時局外中立の承認を求める韓帝密書を小村外相に手交。韓帝、中立承認を各国に打診。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1903 | | | 9. 「皇城新聞」に「満韓交換の風説を破る」掲載。小村・ローゼン会談開始(30日、両者間に日露協商確定修正案まとまる)。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1903 | | | 10. 小村寿太郎外相と駐日ロシア公使ローゼンとの間で朝鮮満州をめぐる交渉開始。(-朝鮮半島-日本、朝鮮)-- | |
1903 | | | 12. 閣議、日露開戦時の対清韓方針決定。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1904 | | | 日露戦争勃発。日本側の勝利に終る。翌年、第二次日韓協約締結。日本の一連の責任者伊藤博文は、朝鮮の保護国化を推進し、日本政府の早期併合論に反対を唱えていた。しかし、1909年朝鮮の民族主義運動であった安重根(???)によって暗殺されるや、決定的に韓国併合に進んで行った。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1904 | | | 1904.02.09日露戦争の始まり、日本、ソウルを制圧し、日韓議定書の調印(朝鮮の内政干渉、軍の駐留権、土地収容権などの確保)(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1904 | | | 1904.08.22第一次日韓協約の締結、(日本人による財政顧問・外交顧問の登用、外交交渉における日本政府の事前協議など)(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1904 | | | 1904.02.08日英同盟締結。日露戦争勃発。高宗、中立宣言。日本側の勝利に終る。日韓議定書、韓国内での日本の軍事行動の自由を保障。翌年、第二次日韓協約締結。日本の一連の責任者伊藤博文は、朝鮮の保護国化を推進し、日本政府の早期併合論に反対を唱えていた。しかし、1909年朝鮮の民族主義運動であった安重根によって暗殺されるや、決定的に韓国併合に進んで行った。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1904 | | | 1904年8月23日第一次日韓協約を結ぶ。韓国財政、外交顧問に日本の推薦者を置く。外交案件は事前にに日本と協議。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1904 | | | 1904年京釜線竣工(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1904 | | | 1904年一進会は日韓合邦運動を開始。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1904 | | | 日露戦争が起こる1904(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1904 | | | 韓日議定書締結.日本による顧問政治始まる(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1904 | | | 京釜線竣工(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1904 | | | 親日御用団体,一進会設立.日本の政策を支持する運動を展開(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1904 | | | 第一次日韓協約締結(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1904 | | | 日露戦争(~1905]が起こる。 第一次日露協約調印。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1904 | | | 韓日議定書を締結(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)-国史年表-大韓帝国時代 | |
1904 | | | 京釜線竣工(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)-国史年表-大韓帝国時代 | |
1904 | | | 1. 林公使・李址鎔外相聞に日韓議定書案まとまる。韓国政府、局外中立宣言。御前会議、対露開戦決定(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1904 | | | 2.8 臨時派遣隊仁川上陸、仁川沖・旅順口でロシア艦を攻撃~2.9(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1904 | | | 2.8 日露戦争 ~1905-09-05 満州・朝鮮半島を巡る日本とロシア帝国の一連の戦い。日本はイギリス・アメリカの後押しもあり苦戦ながらも勝利した。(海軍:東郷平八郎・陸軍:乃木希典-のぎまれすけなど)(明治時代-朝鮮半島-日本、ロシア、朝鮮)-- | |
1904 | | | 2.10 宣戦布告(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1904 | | | 2.12 清国局外中立宣言(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1904 | | | 2.23 日韓議定書調印(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1904 | | | 3. 韓国駐剳軍司令部設置。伊藤博文特派大使漢城入京。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1904 | | | 5. 鴨緑江渡河作戦、九連城占領。朝露修好通商条約廃棄。閣議、対韓施設綱領決定。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1904 | | | 7. 駐剳軍司令官軍律制定。「大韓毎日申報」発刊。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1904 | | | 8. 一進会結成。第1次日韓協約調印(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1904 | | | 9. 遼陽占領。京畿道始興・黄海道谷山で民擾。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1904 | | | 10. 咸鏡道に軍政施行。沙河会戦。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1904 | | | 10. 目賀田種太郎財政顧問(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1904 | | | 12. スティ-ヴンス外交顧問着任)。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1905 | 1905年~1945年:日本(保護国、併合) | |
1905 | | | 日本の保護国の時期1905~1910(日本の保護国-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1905 | | | 1905.08(第二回日英同盟の締結)(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1905 | | | 1905.11.17第二次日韓協約の締結(日本の保護国となる)(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1905 | | | 1905.11.17第二次日韓協約を結ぶ。韓国は外交権を日本に譲渡、日本の保護国となる。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1905 | | | 1905年乙巳条線(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1905 | | | 1905年ポーツマス条約日本の韓国における優越権を認める。日露両軍を満州から撤退する。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1905 | | | 日露講和条約(ポーツマス条約)締結1905(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1905 | | | 保護条約、乙巳条約(第2次日韓協約)調印(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1905 | | | 関釜連絡船航路就航.現在,関釜フェリーとして運行(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1905 | | | 第二次日韓協約(乙巳条約).日本の強制的な保護条約(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1905 | | | 第二次日韓協約調印(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1905 | | | 東学の第3代教主孫秉熙,天道教創始(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1905 | | | 日本,竹島(独島)の占有権を公示(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1905 | | | 乙巳条約(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)-国史年表-大韓帝国時代 | |
1905 | | | 天道教創立(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)-国史年表-大韓帝国時代 | |
1905 | | | 1905年8月日英同盟改定。イギリスが日本の韓国保護国化を承認。(-朝鮮半島-朝鮮:大韓帝国、日本、イギリス)--大韓帝国時代 | |
1905 | | | 1. 旅順開城。駐剳軍司令官、漢城地区の治安警察権を掌握(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1905 | | | 3. 奉天会戦。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1905 | | | 4. 全州地区も)。日本貨幣の韓国内流通公認。第一銀行、韓国政府と国庫金取り扱い、貨幣整理事業委託契約(中央銀行化)。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1905 | | | 4. 閣議、韓国保護権確立方針決定。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1905 | | | 5. イギリス外相、日英攻守同盟を提案。日本海海戦。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1905 | | | 6. アメリカ大統領、日露両国に講和勧告、両国政府承諾。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1905 | | | 7. 高宗のロシア帝国への密使が発覚する、桂・タフト協定(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、ロシア)--大韓帝国時代 | |
1905 | | | 7. 桂・タフト協定成立。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1905 | | | 7.29 桂・タフト協定 首相:桂太郎とタフト(アメリカ)による協定。日本はアメリカのフィリピン支配権を認める。アメリカは日本の大韓帝国支配権を認める。(明治時代-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、アメリカ、日本)--大韓帝国時代 | |
1905 | | | 8. 日露講和会議[10日交渉開始、29日講和成立)。第2回日英同盟協約調印。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1905 | | | 8.9 露講和条約(ポーツマス条約)調印。小村全権、韓国保護国化にっきアメリカ大統領の了解をうる。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1905 | | | 9. 日露講和条約(ポーツマス条約)、注:それぞれにフィリピンとインドに対する支配を承認することを引き換えに、朝鮮に対する保護権確立を米・英・露に認めさせた(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1905 | | | 9.5 ポーツマス条約 アメリカのポーツマスで日本とロシア帝国が講和条約を結ぶ。 1.ロシア帝国は日本の朝鮮半島における優越権を認める。 2.ロシア帝国は南樺太を日本へ譲渡する。 3.ロシア帝国は南満州鉄道・遼東半島租借権・漁業権などを日本へ譲渡する 日比谷焼打事件-ポーツマス条約に賠償金がない事で暴動が発生(明治時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)-- | |
1905 | | | 10. 朴斉純外相、新日英同盟の条約違反を駐韓日英公使に抗議。日本閣議、韓国保護権確立実行を決定。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1905 | | | 11. 伊藤博文を特派大使として韓国派遣[15日、韓帝に保護国承認を強要)。第2次日韓協約(乙巳条約)強制調印[17日)。保護条約反対の義兵闘争おこる。ハルバート、韓帝のアメリカ大統領あて親書を携えアメリカ国務長官に調停依頼。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1905 | | | 12. 韓国統監府および理事庁官制公布、統監に伊藤博文任命。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1906 | | | 日本、統監府を設置(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1906 | | | 1906.02韓国統監府の設置(統監に伊藤博文が赴任)(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1906 | | | 1906年漢城に韓国統監府設置。初代統監に伊藤博文。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1906 | | | 大韓自強会結成.愛国運動開始(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1906 | | | 統監府設置.日本人次官が韓国内政全般を取り仕切る(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1906 | | | 日本、韓国統監府を設置(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1906 | | | 統監府設置(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)-国史年表-大韓帝国時代 | |
1906 | | | 1. 韓帝、イギリス人ストーリー記者を通じて国書を列国に送り、共同保護を要望。(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、大韓帝国)-日韓併合- | |
1906 | | | 1. 対馬で獄死。梅謙次郎、韓国政府法律顧問となる(法典編纂)。(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、大韓帝国)-日韓併合- | |
1906 | | | 2. 韓国統監府開庁。(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、大韓帝国)-日韓併合- | |
1906 | | | 3. 興業借款1000万円供与。(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、大韓帝国)-日韓併合- | |
1906 | | | 5. 閔宗植、藍浦で挙兵、洪州を占領するも日本軍と交戦して敗退[11月逮捕される)。(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、大韓帝国)-日韓併合- | |
1906 | | | 6. 崔益鉉、泰仁で挙兵、捕えられる(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、大韓帝国)-日韓併合- | |
1906 | | | 8. 関東都督府官制公布。三七忠造、韓国政府学部参与官となる(教科書編纂)。(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、大韓帝国)-日韓併合- | |
1906 | | | 9. 日本人参与官を朝鮮各地方に配置。(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、大韓帝国)-日韓併合- | |
1906 | | | 10. 鴨緑江・豆満江森林経営に関する協同約款調印。内田良平、一進会顧問となる。(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、大韓帝国)-日韓併合- | |
1906 | | | 11. 満州鉄道会社設立。(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、大韓帝国)-日韓併合- | |
1906 | | | 12. ロシア外相、日露協商を示唆。(-朝鮮半島-日本、対馬、朝鮮、大韓帝国)-日韓併合- | |
1907 | | | 1907.04~愛国啓蒙運動の活動が起こる、国債報償運動(日本からの借款を募金により返済すると云う)が起こる(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1907 | | | 1907.06高宗によるハーグ密使事件(オランダのハーグで開催された第二回万国平和会議の失敗)(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1907 | | | 1907年国債報償運動(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1907 | | | 1907年6月ハーグ密使事件。オランダのハーグで開かれた第2回ハーグ平和会議に朝鮮(大韓帝国)の高宗皇帝が密使を送る。この事件で統監伊藤博文は皇帝に抗議。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1907 | | | 1907年7月19日高宗皇帝、息子の純宗に譲位。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1907 | | | 1907年7月第三次日韓協約。内政権が日本の管轄下に入る。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1907 | | | 1907年8月1日韓国軍の解散が定められる。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1907 | | | ハーグ特使派遣.日本との条約無効を国内外に宣言しようとしたが失敗(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1907 | | | ハーグ密使事件、高宗退位 第三次日韓協約調印(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1907 | | | 安昌浩,新民会設立.多様な反日活動を続ける(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1907 | | | 高宗皇帝退位.純宗王位に就く(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1907 | | | 国債報償運動(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1907 | | | 朝鮮軍隊解散(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1907 | | | 日本,保安法,新聞紙法などの弾圧法規により啓蒙運動を圧迫(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1907 | | | 国債報償運動(大邱)(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)-国史年表-大韓帝国時代 | |
1907 | | | ハーグ特使派遣(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)-国史年表-大韓帝国時代 | |
1907 | | | 高宗皇帝退位(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)-国史年表-大韓帝国時代 | |
1907 | | | 軍隊解散(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)-国史年表-大韓帝国時代 | |
1907 | | | 新民会設立(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)-国史年表-大韓帝国時代 | |
1907 | | | 2. ロシア外相、日露協商案を提示。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1907 | | | 5. 李完用内閣成立。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1907 | | | 6. 第2回万国平和会議に保護条約無効を訴える韓帝の密使3人、パーク着。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1907 | | | 6. 日仏協約 日本は南満州・朝鮮半島・台湾・福建省・蒙古、フランスはインドシナ・広東省・広西省・雲南省の支配・利益を互いに認め合う。(明治時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)-- | |
1907 | | | 7. 高宗が退位し、純宗が即位、第三次日韓協約の締結(内政権の日本管轄、一大隊を残して韓国軍の解体)(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1907 | | | 7. 韓帝の各国元首あて親書(常設仲裁裁判所へ保護条約無効提訴につき協力を要請)を携えたハルバート、ニューヨーク着。対韓強硬の世論高まる。閣議、韓帝譲位などの処理方針決定。高宗譲位詔勅発布、純宗即位。第3次日韓協約(丁未7条約)調印(24日)。第1回日露協約調印。韓国軍隊解散の詔勅発布。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1907 | | | 7. 第三次日韓協約。(-朝鮮半島-朝鮮、日本)-- | |
1907 | | | 7.30 日露協約 日本は南満州・朝鮮半島、ロシア帝国は北満州・外蒙古(がいもうこ)の支配・利益を互いに認め合う。 日英同盟・日仏協約・日露協約を結んだ日本は三国協商(イギリス・フランス・ロシア)の一員となる。(明治時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)-- | |
1907 | | | 8. 抗日義兵抗争(~1915](-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1907 | | | 8. 改元、純宗即位式。原州鎮衛隊・江華島分遣隊など軍隊解散に反対し蜂起、丁未義兵闘争おこる。李麟栄ら義兵決起[12月楊州に1万人集結、上京をめざす。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1908 | | | 義兵,ソウル近郊まて進行,日本軍の反撃で撤退(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1908 | | | 義兵、ソウル進攻作戦(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)-国史年表-大韓帝国時代 | |
1908 | | | 1. 裁判所構成法施行。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1908 | | | 3. 韓国施政改善に1968万円無利子貸し付け。元外交顧問スティーブンス、サンフランシスコで田明雲らに射殺される。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1908 | | | 6. 韓国人憲兵補助員制度創設。「大韓毎日中報」のベセル、イギリス領事裁判で禁固処分を受ける。李完用内閣改造。宗秉峻内相となる[1909年辞任)。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1908 | | | 9. 閣議、満洲に関する交渉方針決定。10日韓漁業協定調印。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1908 | | | 12. 東洋拓植会社設立。日本興業銀行、起業資金1296万円借款契約。日本政府、起業公債100万円借款契約。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1909 | | | 伊藤博文暗殺伊藤博文が満州のハルビンで、朝鮮の青に暗殺される。(-朝鮮半島-、朝鮮)-- | |
1909 | | | 安重根が伊藤博文を殺害(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1909 | | | 1909.09韓国銀行の設立(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1909 | | | 1909.10統監伊藤博文がハルビン駅にて、愛国啓蒙運動の義兵(安重根)に暗殺される、朝鮮と清の国境が定まる(間島協約)(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1909 | | | 1909年12月4日一進会は韓国皇帝・曾禰荒助統監・李完用総理大臣に対して、日韓合邦に関する上奏文と請願書を提出し、合邦声明書を国民に配布。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1909 | | | 1909年安重根義士の義挙(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1909 | | | 1909年韓国統監府初代統監伊藤博文がハルビン駅にて安重根により暗殺される。 伊藤博文「俺を撃ったりして、馬鹿な奴だ。」 朝鮮と清の国境が定まる(間島協約)。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1909 | | | 安重根,ハルピン駅で伊藤博文射殺.翌年旅順で処刑http://www.0o0d.com/img/flags/16/Korean-Empire.png&size(6){(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代}; | |
1909 | | | 安重根がハルピン駅で伊藤博文を射殺(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1909 | | | 日本,安奉線の鉄道敷設権を手に入れるため,清と間島を交換(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代 | |
1909 | | | 日本、清と間島を安奉線と交換(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)-国史年表-大韓帝国時代 | |
1909 | | | 安重根、伊藤博文処断(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)-国史年表-大韓帝国時代 | |
1909 | | | 羅喆、大?教創始(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)-国史年表-大韓帝国時代 | |
1909 | | | 李麟栄捕えられ処刑)。間島に統監府派出所開設(清国、撤去を要求)。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1909 | | | 一進会、皇帝・統監に「韓日合邦」上奏文・上申書提出(却下される)。大韓協会など、一進会非難・併合反対運動を展開。李完用、李在明に刺され負傷。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1909 | | | 閣議、韓国併合方針決定。韓国司法・監獄事務委託に関する日韓覚書調印(法部廃止)。韓国中央銀行に関する日韓覚書調印。軍部廃止。9日本軍、全羅南道方面の義兵「討伐」作戦開始。満州5案件に関する日清協約調印。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1909 | | | 1. 韓帝地方巡幸、伊藤統監陪従[~2月)。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1909 | | | 2. 大竹貫一代議士、統監政治批判演説。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1909 | | | 4. 伊藤統監、韓国併合に同意、桂首相・小村外相と実施方針協議。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1909 | | | 6. 伊藤統監辞任、曽禰荒助統監就任。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1909 | | | 6. 伊藤博文、ハルビン駅頭で朝鮮人安重根に射殺される。(-朝鮮半島-朝鮮、日本)-- | |
1909 | | | 7. 閣議は韓国併合方針を決定。(-朝鮮半島-朝鮮、日本)-- | |
1909 | | | 10. 警察事務執行に関する取極書調印(警察合併)。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1909 | | | 10. 伊藤博文、ハルビンで安重根に射殺される。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1909 | | | 10.26 伊藤博文がハルピンで朝鮮の抗日運動家・安重根に暗殺される(明治時代-朝鮮半島-日本、朝鮮)-- | |
1909 | | | 11. 純宗、昌徳宮へ遷る。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |
1910 | 日本帝国の植民地時代(日帝時代)[1910~1945年] | |
1910 | | | #style(class=box_black_swm){{建築や燃料のため木を伐り、又、「火田民」による焼畑農業によるやせた土地を、植林する事なく放置されていたため、山々にはほとんど木が生えていなく、盗伐が多いため「山覧」をおき、一般人が植林した山に入る事を禁じた。火田民に農業用地を与え、焼畑農業を禁止し、定住型の農業を進め、5億9000万本の植林をすすめた。鉄道網100kmから総延長6000kmに増やした併合時の人工約1300万人あまり、1942年には2550万人以上平均寿命24才から、42才に}}(-朝鮮半島-朝鮮)--大韓帝国時代→日韓併合時代 | |
1910 | | | #style(class=box_black_swm){{植民地・搾取する土地朝鮮に搾取できるものが何一つない歴代シナ王朝→反抗時の軍事制裁はすれども占有はせず日本→使命感に燃えてせっせと投資}}(-朝鮮半島-朝鮮)--大韓帝国時代→日韓併合時代 | |
1910 | | | #style(class=box_black_swm){{理想の朝鮮統治とは石橋湛山朝鮮放棄論結論・・・日本人との同化は無理吉野作造外的施設だけでなく朝鮮人の心を得なければならない朝鮮人は日本臣民だが大和民族ではない}}(-朝鮮半島-朝鮮)--大韓帝国時代→日韓併合時代 | |
1910 | | | 1910合邦条約を締結。一進会の李容九、宋秉畯などが併合に関する各種の請願書や声明文を発表。(-朝鮮半島-朝鮮)--大韓帝国時代→日韓併合時代 | |
1910 | | | 1910.03土地調査事業の推進(土地所有権・地価・地形など)国有地は東洋拓殖株式会社などの日本人地主に多く払い下げられる終了した時点[1918]では水田65%、畑43%が小作地となり農民の77%が小作農・自作農となる1910年代には、本格的な産業政策の展開が見られなかったので、土地を失った農民は中国国境の豆満江・鴨緑江を越えた間島(現、延辺朝鮮族自治州など)に毎年2~3万人の移住が続き、40万人近い朝鮮人が在住していた1920年代には、日本に4万人程度、またロシア領沿海州・中国・アメリカなどに移民(-朝鮮半島-朝鮮)--大韓帝国時代→日韓併合時代 | |
1910 | | | 1910.07憲兵警察制度の発足集会取締り令の公布(政治結社・報道の規制)(-朝鮮半島-朝鮮)--大韓帝国時代→日韓併合時代 | |
1910 | | | 併合後李容九は「日本にだまされた」と述べたと伝えられる。(-朝鮮半島-朝鮮)--大韓帝国時代→日韓併合時代 | |
1910 | | | 併合直後一進会は他の団体とともに解散を命じられた。(-朝鮮半島-朝鮮)--大韓帝国時代→日韓併合時代 | |
1910 | | | 「東医宝鑑」完成(-朝鮮半島-朝鮮)--大韓帝国時代→日韓併合時代 | |
1910 | | | 1910年日帝の国権侵奪(-朝鮮半島-朝鮮)--大韓帝国時代→日韓併合時代 | |
1910 | | | 会社令発令.朝鮮人会社の設立を抑制(-朝鮮半島-朝鮮)--大韓帝国時代→日韓併合時代 | |
1910 | | | 日韓併合条約調印(-朝鮮半島-朝鮮)--大韓帝国時代→日韓併合時代 | |
1910 | | | 国権剥奪(-朝鮮半島-朝鮮)-国史年表-大韓帝国時代→日韓併合時代 | |
1910 | | | 日韓併合日本帝国の植民地時代(日帝時代)[1910~1945年] 日本はロシアの南進を防ぐべく、朝鮮半島の近代化を進めた武断政治とよばれる強権統治をおこない、活発な抗日独立運動がおこった。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国)--大韓帝国時代→日韓併合時代 | |
1910 | | | 韓国併合韓国を併合しソウルに朝鮮総督府を置いた。(-朝鮮半島-朝鮮、大韓帝国、日本)-- | |