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***島津家 [#ba6b1191]
島津氏のルーツといえば、島津忠久が近衛家により島津荘の下司識に、さらに源頼朝によって薩摩、大隅 日向の守護に補任されたことによって、島津氏が始まると言われています。
島津忠久については、源頼朝の落胤とか、またまた後白河法皇の御落胤という説もあって、その出自については実になぞめいた人物であることは確かです。しかし、確実に言えることは、摂関家筆頭の近衛家と深い結びつきにあった家系であったことは間違いないところでしょう。
島津氏を名乗る前は、惟宗姓を自称していたようで、惟宗氏は近衛家の家司の家柄であったとされています。
島津忠久を頼朝の落胤とする説では、源頼朝と丹後ノ局(比企能員の妹)の間に子が出来たものの、北条政子による殺害の恐れがあったので、丹後の局は密かに鎌倉を脱し、大阪の住吉神社で休んでいたところ、にわかに産気づきそこで忠久を生みます。住吉神社に参詣してきたときの関白近衛基通が、嬰児の泣き声を怪しんで丹後局の姿を発見します。事情を聞いて深く同情し、京へ連れて帰り、密かに鎌倉の頼朝に知らせると、頼朝から三郎と命名するようにとの知らせが入りという筋書きです。
その後数年間、母子共に近衛家の庇護を受けていたものの、ひそかに鎌倉に帰り、やがて丹後局は民部太輔惟宗広言に嫁することになります。広言の前室は畠山重忠の妹であったのですが、早逝したため、その継室となるわけです。三郎も母に連れられて惟宗家に入り、そのゆかりによって、惟宗氏を名乗るようになったというものです。三郎七歳の時、頼朝が三郎を召し出し、鶴ヶ岡八幡宮にて畠山忠重を烏帽子親として元服させます。このとき烏帽子親の畠山忠重から一字をもらい受け、忠久と改名したと。これが頼朝落胤説の大まかなストーリーになります。
この筋書きが一般に流布している説です。しかし、専門家の間では、当然頼朝落胤説は俗説として退けられています。現在、鎌倉にある島津忠久の墓とか、大江広元の墓とか指摘されていますが、あれだって本当に当の本人の物であるのかどうかは当てにはなりません。というのも、明治維新という大事業を成功させたのが、長州と薩摩ですので、当の長州と薩摩が早速その先祖の功績を洗い出す作業に着手したのも事実です。当時の明治政府のトップにいる人々が薩摩か長州の人々ですので、彼らの先祖の功績を権威にあるものに仕立て上げることに着手したということです。実際その手の話、つまり薩摩や長州出身の役人が鎌倉に足繁くやってきては、墓のことなど詳細に聴いたという事実などが地元に残っているようです。
ところで忠久の実の父は、同じ惟宗姓の忠康ではないのかというのが専門家の間での指摘です。ただしその確定的な証拠となる文書が見つからない。しかし惟宗一族であることだけは、一致しているようです。
それでは、惟宗一族という問題が次のテーマになりますが、惟宗氏とは、秦氏の支流ということになります。もう一つの接点は、摂関家筆頭の近衛家とは、とりもなおさず藤原氏ですので、藤原氏と秦氏との関係が問題になるはずです。ですから、当然次には、秦氏と藤原氏と惟宗氏との三者関係がどんな結びつきであったのかが焦点になろうかと思います。
補記
島津氏のルーツは惟宗氏であり、この惟宗氏は秦氏の改姓であり、この惟宗氏と、秦氏系統の移住地である大隅国分との密接な関係を積極的に認めているのは、大和岩雄氏です。氏が指摘しているところは、薩摩の地で、特に出水と国分で朝鮮半島の新羅の風習が見られるとして、新羅と薩摩大隅との濃密な関係を指摘されています。出水の地がこの鹿児島の地における島津氏の本拠地としてスタートしたことにも頷けるわけです。
このことをさらに敷衍すると、島津氏は秦氏系統の一族で、彼らが薩摩の地に入り込んできた背景には、同じ一族の人々がすでに入り込んでいた事実があり、このコネクションで鎌倉時代になって現地に入り込んできたと考えられるわけです。
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島津以久
生没年:1550-1610
父:大隈清水城主 島津忠将
幼名:堯仁房
又四郎
初名:幸久、征久
右馬頭
相模守
従五位下
1603-1610 日向佐土原藩初代藩主
室:(父:北郷時久)
1567-1595 彰久(垂水家へ)
入来院重時(義父:入来院重豊)
室:原氏
娘(北郷忠能妻)
室:松本氏
1599-1637 忠興
室:岩本氏
娘
島津忠興
生没年:1599-1637
父:日向佐土原藩初代藩主 島津以久
幼名:堯秀坊
右馬允
1610-1637 日向佐土原藩二代藩主
1618 従五位下
1610 右馬頭
室:丹生氏
1633-1663 久雄
久富
室:池田氏
久遐
島津久富
生没年:
父:日向佐土原藩二代藩主 島津忠興
幼名:鶴千代丸、久次郎
初名:久寧
妻:鎌田氏
1664-1693 久寿
山本正延(義父:山本正貞)
1667-1713 久武
娘(高井端清妻)
娘(加藤則明妻)
島津久雄
生没年:1633-1663
父:日向佐土原藩二代藩主 島津忠興
幼名:万寿丸、堯仁坊
1637-1663 日向佐土原藩三代藩主
1648 従五位下
1648 右馬頭
但馬守
正室:徳雲院殿 於満(父:薩摩藩二代藩主 島津光久)
1651-1676 忠高
側室:島津氏
島津忠高
生没年:1651-1676
父:日向佐土原藩三代藩主 島津久雄
幼名:万寿丸、堯英坊、又四郎
初名:久英、国久
1664-1676 日向佐土原藩四代藩主
1664 従五位下
1664 飛騨守
正室:(父:石見津和野藩二代藩主 亀井茲政)
1664-1693 (養子)久寿
側室:竹井氏
1676-1738 惟久
島津久寿
生没年:1664-1693
父:島津久富
義父:日向佐土原藩四代藩主 島津忠高
幼名:鶴千代丸、又吉郎
1676-1690 日向佐土原藩五代藩主
1678 従五位下
1678 式部少輔
1690 別家
妻:
1667-1713 (養子)久武
島津惟久
生没年:1676-1738
父:日向佐土原藩四代藩主 島津忠高
幼名:万吉、又次郎
初名:忠充
1690-1723 日向佐土原藩六代藩主
1700 従五位下
1700 淡路守
正室:(父:若狭小浜藩三代藩主 酒井忠隆)
正室:諦観院殿(義父:薩摩藩三代藩主 島津綱貴、父:島津久洪)
養信院(筑後三池藩四代藩主 立花貫長室)
娘
1702-1784 忠雅
某
側室:井上氏
1697-1715 久睦
山本雅攄(義父:山本正延)
1701-1746 久芬
娘
娘
娘
久奉
就賢
娘(樺山久寛妻)
某
島津忠雅
生没年:1702-1784
父:日向佐土原藩六代藩主 島津惟久
幼名:万寿丸、又四郎
1716 従五位下
1716 但馬守
1723-1753 日向佐土原藩七代藩主
1747 加賀守
正室:(父:下野壬生藩二代藩主 鳥居忠瞭)
娘
1734-1805 久柄
某
娘
久武
側室:丸田氏
側室:萩原氏
久智
久福
某
久謐
久中
娘(渋谷久命妻)
島津久柄
生没年:1734-1805
父:日向佐土原藩七代藩主 島津忠雅
幼名:万寿丸、又四郎
1749 従五位下
1749 淡路守
1753-1785 日向佐土原藩八代藩主
1773 但馬守
正室:島津梅(父:島津貴儔、義父:薩摩藩七代藩主 島津重年)
娘(摂津三田藩九代藩主 九鬼隆張室)
巌之助
1766-1831 忠持
某
娘(豊後森藩七代藩主 久留島通同室)
久儔
側室:酒勾氏
某
娘(樺山久年妻)
久充
島津忠持
生没年:1766-1831
父:日向佐土原藩八代藩主 島津久柄
幼名:勝丸、又之進
1782 従五位下
1782 淡路守
1785-1816 日向佐土原藩九代藩主
正室:雅姫 明子(義父:薩摩藩八代藩主 島津重豪、父:加治木家当主 島津久徴)
娘
娘
1797-1839 忠徹
島津忠徹
生没年:1797-1839
父:日向佐土原藩九代藩主 島津忠持
幼名:護之助、又四郎
1816-1839 日向佐土原藩十代藩主
従五位下
筑後守
飛騨守
正室:随真院 随姫、祝姫(父:薩摩藩九代藩主 島津斉宣)
忠施
小川久抹
1826-1877 美子(美濃苗木藩十二代藩主 遠山友禄室)
1828-1896 忠寛
宮原義敬
-1862 励(伊予吉田藩八代藩主 伊達宗孝室)
艶(但馬豊岡藩九代藩主 京極高厚室)
島津忠寛
生没年:1828-1896
父:日向佐土原藩十代藩主 島津忠徹
1839-1869 日向佐土原藩十一代藩主
1869-1871 佐土原藩知事
従五位下
淡路守
侍従
贈正二位
正室:(父:豊前中津藩五代藩主 奥平昌高)
継室:戸田孝(父:信濃松本藩八代藩主 戸田光庸)
1849-1909 忠亮
1851-1934 大村純雄(大村氏へ)
-1877 啓次郎
島津忠亮
生没年:1849-1909
父:日向佐土原藩十一代藩主 島津忠寛
1884-1891 子爵
1891-1909 伯爵
貴族院議員
妻:島津盛子(父:島津久宝、義父:公爵 島津久光)
1877-1926 忠麿
1883-1937 健之助(佐土原島津分家へ)
徳子(夫:島津久中)
1887-1928 阿部正寛(阿部氏へ)
島津忠麿
生没年:1877-1926
父:伯爵 島津忠亮
1909-1926 伯爵
貴族院議員
妻:真田松子(父:伯爵 真田幸民)
1894-1944 (養子)久範
1901-1942 文子(夫:公爵 九条通秀)
1900-1921 随子(夫:伯爵 島津久範)
1905-1928 秀子(夫:伯爵 島津久範)
島津久範
生没年:1894-1944
父:薩摩藩十二代藩主 島津忠義
義父:伯爵 島津忠麿
1926-1944 伯爵
式部官
内大臣秘書官
妻:島津随子(父:伯爵 島津忠麿)
妻:島津秀子(父:伯爵 島津忠麿)
1923- 雅子(夫:勧山弘)
1925- 敏子(夫:萩原光雄)
1927-1973 忠韶
妻:高倉久子(父:子爵 高倉永則)
1919-1964 貴美子(夫:北河原公典)
1930- 幸子(夫:本閒聖作)
1934- 久永
島津忠韶
生没年:1927-
父:伯爵 島津久範
1944-1947 伯爵
妻:加納芳子1934-(父:加納芳治)
1957- 忠範(妻:弥生1962-)
島津久永
生没年:1934-
父:伯爵 島津久範
1957-1987 日本輸出銀行
2003-2004 山階鳥類研究所理事
2004- 山階鳥類研究所理事長
妻:清宮 貴子内親王(父:昭和天皇)
禎久
佐土原別家
島津久武
生没年:1667-1713
父:島津久富
義父:日向佐土原藩五代藩主 島津久寿
幼名:長菊丸、又十郎
妻:(父:大岡忠高)
長次郎
某
某
1697-1715 (養子)久睦
島津久睦
生没年:1697-1715
父:日向佐土原藩六代藩主 島津惟久
義父:島津久武
幼名:堯麟坊
妻:
1701-1746 (養子)久芬
島津久芬
生没年:1701-1746
父:日向佐土原藩六代藩主 島津惟久
義父:島津久睦
幼名:千代丸、權七郎
初名:久府
1735 従五位下
1735 山城守
妻:(父:池田由道)
妻:(父:三河西大平藩初代藩主 大岡忠相)
娘
(養子)娘(大岡忠近妻、父:鳥居忠瞭)
娘(中山時寿および武蔵六浦藩三代藩主 米倉昌晴室)
1731- 久般
某
娘(松浦信富妻)
娘(永井直廉妻)
娘(山本正倫および竹尾俊一妻)
島津久般
生没年:1731-
父:島津久芬
幼名:又吉郎
初名:久馮
1779 従五位下
1779 山城守
式部少輔
妻:(父:備中鴨方藩三代藩主 池田政方)
1768- 久道
娘
久儔
島津久道
生没年:1768-
父:島津久般
幼名:英吉、又吉郎
妻:(父:酒井忠鄰)
娘
***島津家 佐土原藩 丸に轡 2万7000石 [#x7541202]
日向那珂郡佐土原(宮崎県宮崎市佐土原町)
外様 城主
移封加減増履歴 ・慶長8年→日向佐土原3万石・元禄3年→2万7000石
専売品&専売開始年・紙(宝暦から天明頃)
江戸城詰席・大広間 伯爵 上屋敷・芝三田小山
参勤・3月発、佐土原→細島(ここから大坂まで海路)→島之浦→米生津→佐賀関(臼杵領)→三机(宇和島領)→北条(松山領)→御手洗(広島領)→牛窓→明石→大坂(ここから川船)→伏見(ここから陸路東海道)→江戸、所要日数は海路の都合次第で40日ほど
人口・全領地士族3778人、庶民1万5666人、家数士族854軒、庶民5171軒 明治2年現在
藩祖・以久(もちひさ)
薩摩藩藩祖島津家久の祖父貴久の弟忠将の長男 母は佐多忠成の娘
生没・天文9年(1540)~慶長15年(1610)
慶長8年(1603)関ヶ原で奮戦死した島津豊久(貴久の四男家久の子)の旧領である日向佐土原3万石を与えられる
従五位下右馬頭
正室・なし
子女・2代忠興 女子→人吉藩相良長毎室
2代・忠興(ただおき)
以久三男 母は松木氏
生没・慶長4年(1599)~寛永14年(1637)
家督・慶長15年(1610)相続
従五位下右馬頭
正室・なし
子女・3代久雄 久富
3代・久雄(ひさお)
忠雄長男 母は丹生氏
生没・寛永10年(1633)~寛文3年(1663)
家督・寛永14年(1637)相続
正室・薩摩藩島津光久の娘
子女・4代忠高
4代・忠高(ただたか)
久雄長男 母は正室島津光久の娘
生没・慶安4年(1651)~延宝4年(1676)
家督・寛文4年(1664)相続
従五位下飛騨守
正室・津和野藩亀井茲政の娘
子女・養子久寿(5代) 惟久(久寿養子、6代)
5代・久寿(ひさなが)
2代忠興の次男久富の長男 母は鎌田氏
生没・寛文4年(1664)~元禄6年(1693)
家督・延宝4年(1676)忠高の嫡子惟久が幼少のため養子となり遺領を相続
元禄3年(1690)惟久に2万7000石を返し、3000石を領して分家する
従五位下式部少輔
正室・不詳
子女・養子惟久(6代)
6代・惟久(これひさ)
4代忠高の長男 母は竹井氏
生没・延宝4年(1676)~元文3年(1738)
家督・元禄3年(1690)相続
従五位下淡路守
享保8年(1723)隠居
正室・小浜藩酒井忠隆の娘
継室・薩摩藩島津綱貴の養女
子女・女子→下手渡藩立花貫長室 7代忠雅
7代・忠雅(ただまさ)
惟久三男 母は継室島津綱貴の養女
生没・元禄15年(1702)~天明4年(1784)
家督・享保8年(1723)相続
従五位下加賀守
宝暦3年(1753)隠居
正室・壬生藩鳥居忠瞭の娘
子女・8代久柄
8代・久柄(ひさもと )
忠雅三男 母は正室鳥居忠瞭の娘
生没・享保19年(1734)~文化2年(1805)
家督・宝暦3年(1753)相続
従五位下但馬守
天明5年(1785)隠居
正室・薩摩藩家臣島津貴儔の娘
子女・女子→三田藩九鬼隆張室 9代忠持
女子→森藩久留島通同室
9代・忠持(ただもち)
久柄三男 母は正室島津貴儔の娘
生没・明和3年(1766)~天保2年(1831)
家督・天明5年(1785)相続
従五位下淡路守
文化13年(1816)隠居
正室・薩摩藩島津重豪の養女
子女・10代忠徹 久徳 久業
10代・忠徹(ただゆき)
忠持長男 母は某氏
生没・寛政9年(1797)~天保10年(1839)
家督・文化13年(1816)相続
従五位下飛騨守
正室・薩摩藩島津斉宣の娘
子女・女子→ 吉田藩伊達宗孝室
女子→苗木藩遠山友禄室 11代忠寛
11代・忠寛(ただひろ)
忠徹三男 母は某氏
生没・文政11年(1828)~明治29年(1896)
家督・天保10年(1839)相続
戊辰戦争では出兵した五百人の一割が戦死する、明治2年賞典禄3万石が下賜される
従五位下淡路守
正室・中津藩奥平昌高の娘、後に離縁
継室・信濃松本藩戸田光庸の娘
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秦氏━━━惟宗氏━━━━━━惟宗広言━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┗┳━島津貴久
┗━島津忠将━┳━島津以久━┳━彰久(垂水家へ)
┣━入来院重時(義父:入来院重豊)
┣━娘(北郷忠能妻)
┣━島津忠興━━━━━┳━島津久雄━━━━━━━┓
┗━女子 ┣━島津久富━━━━━━┓┃
(人吉藩相良長毎室)┗━島津久遐 ┃┃
┃┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛┃
┣島津久寿 ┃
┣山本正延(義父:山本正貞) ┃
┣島津久武━━━━━┳━島津長次郎 ┃
┃(佐土原別家) ┣━某 ┃
┣娘(高井端清妻) ┣━某 ┃
┗娘(加藤則明妻) ┗━(養子)島津久睦━━━(養子)島津久芬━━━━━━━┓┃
┃┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛┃
┣娘 ┃
┣(養子)娘(大岡忠近妻、父:鳥居忠瞭) ┃
┣娘(中山時寿および武蔵六浦藩三代藩主 米倉昌晴室) ┃
┣島津久般━━━━━┳━島津久道━━━娘 ┃
┣某 ┣━娘 ┃
┣娘(松浦信富妻) ┗━島津久儔 ┃
┣娘(永井直廉妻) ┃
┗娘(山本正倫および竹尾俊一妻) ┃
┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┗島津久寿━━━島津忠高━┳━(養子)島津久寿━━━(養子)島津久武
┗━島津惟久━┳━養信院
┃(筑後三池藩四代藩主 立花貫長室)
┣━娘
┣━島津忠雅━━━━━━━━━━━━━┓
┣━某 ┃
┣━島津久睦 ┃
┣━山本雅?(義父:山本正延) ┃
┣━島津久芬 ┃
┣━娘 ┃
┣━娘 ┃
┣━娘 ┃
┣━久奉 ┃
┣━就賢 ┃
┣━娘(樺山久寛妻) ┃
┗━某 ┃
┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┣娘
┣島津久柄━━┳━娘(摂津三田藩九代藩主 九鬼隆張室)
┣某 ┣━島津巌之助
┣娘 ┣━島津忠持━━━━━━━━━━━━━━━┳━娘
┣島津久武 ┣━某 ┣━娘
┣島津久智 ┣━娘(豊後森藩七代藩主 久留島通同室) ┗━島津忠徹━━━━━┓
┣島津久福 ┣━島津久儔 ┃
┣某 ┣━某 ┃
┣島津久謐 ┣━娘(樺山久年妻) ┃
┣島津久中 ┗━島津久充 ┃
┗娘(渋谷久命妻) ┃
┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┣島津忠施
┣小川久抹
┣美子(美濃苗木藩十二代藩主 遠山友禄室)
┣島津忠寛━┳━島津忠亮━━━━━━━┳━島津忠麿━━━━━━━━━━━━━━┓
┣宮原義敬 ┣━大村純雄(大村氏へ) ┣━島津健之助(佐土原島津分家へ) ┃
┣励 ┗━島津啓次郎 ┣━徳子(夫:島津久中) ┃
┃(伊予吉田藩八代藩主 伊達宗孝室) ┗━阿部正寛(阿部氏へ) ┃
┗艶 ┃
(但馬豊岡藩九代藩主 京極高厚室) ┃
┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┣(養子)島津久範━━━━━┳━雅子(夫:勧山弘)
┣文子(夫:公爵 九条通秀)┣━敏子(夫:萩原光雄)
┣随子(夫:伯爵 島津久範)┣━島津忠韶━━━━━━━━━島津忠範
┗秀子(夫:伯爵 島津久範)┣━貴美子(夫:北河原公典)
┣━幸子(夫:本閒聖作)
┗━島津久永━━━━━━━━━島津禎久