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| | | |CENTER:&size(20){平安時代[794年~1185年]};&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗、渤海-)};||h
|794|>|>|''奈良時代→平安時代-[794年~1185年]''&size(6){(日本-日本-奈良時代 → 平安時代)};||
|794|||桓武天皇が京都市中心部にある平安京に遷都&size(6){(日本-日本-奈良時代 → 平安時代)};||
|794|||RIGHT:COLOR(green):平安京遷都&size(6){(日本-日本-奈良時代 → 平安時代)};||
|794|||弘仁&size(6){(日本-日本-)};||
|794|6|13|桓武天皇の命を受けた坂上田村麻呂が蝦夷征討に出発&size(6){(日本-日本-奈良時代 → 平安時代)};||
|794|10|22|平安遷都。桓武天皇が長岡京から山背国の新都(平安京)に入京&size(6){(日本-日本-奈良時代 → 平安時代)};||
|794|11|8|桓武天皇が、山背国を山城国と改め、新京を「平安京」と称する詔を発布&size(6){(日本-日本-奈良時代 → 平安時代)};||
|795|||公出挙利率を3割に減ずる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|795|||平安宮の大極殿などが完成&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|795|||東国防人の制を廃止。&size(6){(対馬)};&size(6){(日本-日本-)};||
|796|||COLOR(red):アヴァール王国滅亡&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};||
|797|||坂上田村麻呂が征夷大将軍になり蝦夷(えみし)を征服&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|797|||坂上田村麻呂、征夷大将軍に任官&size(6){(日本-日本-)};||
|797|2|13|菅野眞道、藤原繼繩らによる『続日本紀』全40巻が完成&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|797|11|5|坂上田村麻呂が蝦夷地征伐の為の征夷大将軍に任ぜられる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|798|||渤海に使を遣わす&size(6){(日本-日本、震国:渤海-平安時代)};||
|798|7|2|坂上田村麻呂が平安京に清水寺を建立&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|799|||8世紀末よりカロリング朝ルネサンス始まる&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|799|||COLOR(green):第39代新羅王昭聖王(799~800)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|799|||渤海使の来日を6年に一度とする&size(6){(日本-日本、震国:渤海-平安時代)};||
|800|||COLOR(red):スマトラ島中心にシュリビジャヤ王国が栄える&size(6){(アジア--)};||
|800|||COLOR(red):スマトラ島中心にシュリビジャヤ王国が栄える&size(6){(--)};||
|800|||カール大帝の戴冠、カールの戴冠によりローマと断絶&size(6){(西欧-イタリア-)};||
|800|||カール大帝、教皇レオ3世によりローマ皇帝に戴冠〔西ローマ帝国の復活〕&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|800|||カール1世がローマ皇帝となる(カール大帝)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|800|||COLOR(green):第40代新羅王哀荘王(800~809)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|800|||大隈・薩摩両国百姓の墾田を収めて口分田を授ける&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|800|||貞観文化&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|800|||大隈・薩摩両国百姓の墾田を収めて口分田を授ける&size(6){(日本-日本-)};||
|800|||貞観文化&size(6){(日本-日本-)};||
|800|3|14|富士山が大噴火。1か月近く続く&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|801|||坂上田村麻呂、蝦夷地を平定 大宰府に隼人の朝貢停止を命じる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|802|||坂上田村麻呂、胆沢城を築く&size(6){(--)};||
|802|||新羅、冬十二月、均貞に大阿?の官を授けて、仮の王子にして、日本国への人質にしようとしたが、均貞がこれを断った。&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|802|||入唐僧の順応と理貞により慶尚南道に海印寺創立&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|802|||坂上田村麻呂、胆沢城を築く&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|802|5|19|富士山噴火で陥没した足利路の代りに筥荷路(箱根路)が開通&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|803|||坂上田村麻呂、志波城を築く&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|804|||RIGHT:COLOR(green):最澄、空海が入唐&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗、渤海-)};||
|804|||新羅、夏五月日本国が使臣を派遣して、黄金三百両を進上した。&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|804|||COLOR(blue):坂上田村麻呂、征夷大将軍に再任される&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|804|||空海(くうかい)、最澄(さいちょう)が唐(中国)へ渡る&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|804|3|28|遣唐使藤原葛野麻呂に空海・最澄らが同行&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|805|||COLOR(green):順宗・即位&size(6){(--)};||
|805|||COLOR(green):憲宗・即位&size(6){(--)};||
|805|||唐・李氏・・憲宗&size(6){(東アジア-唐-唐)};||
|805|||唐・李氏・・順宗&size(6){(東アジア-唐-唐)};||
|805|||最済帰国して天台宗を開く&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|805|||最澄(伝教大師-でんきょうだいし)、日本に戻り天台宗(でんだいしゅう)を伝える。滋賀県と京都府の間の比叡山に延暦寺(えんりゃくじ)を建てる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|805|||第16次遣唐使に同行した最澄が対馬(阿連)に帰着。&size(6){(対馬)};&size(6){(日本-日本-)};||
|805|7|14|最澄が唐から帰国&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|806|||新羅、春三月日本国使臣が来たので、王は朝元殿で引見した。&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|806|||空海帰国して真言宗を伝える&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|806|||旱魃疾病につき日向・大隈・薩摩は田租1年免&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|806|||空海(弘法大師-こうぼうだいし)、日本に戻り真言宗(しんごんしゅう)を伝える。和歌山県の高野山に金剛峰寺(こんごうぶじ)を建てる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|806|||03/17 COLOR(green):第51代 平城天皇&size(6){(日本-日本-)};||
|806|3|17|COLOR(SandyBrown):第50代桓武天皇が崩御し、安殿親王が第51代平城天皇として即位&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|806|5|18|延暦から大同(たいどう)(806.5.18-809)に改元。&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|806|5|19|神野(嵯峨天皇)立太子&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|806|8|22|804年に遣唐使とともに唐に渡った空海が帰国。真言宗を伝える&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|807|||藤原宋茂の謀反発覚し、伊予親王ら自害&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|807|||伊予親王の変(いよしんのうのへん)。冤罪で藤原吉子・伊予親王が死去。その結果、藤原南家の勢力が衰える。&size(6){(日本-日本-)};||
|807|10|27|藤原宗成が伊予親王に謀反を勧めたことが発覚(伊予親王は桓武天皇の皇子で平城天皇の弟)&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|807|11|2|謀反の疑いで伊予親王と母藤原吉子を川原寺に幽閉(伊予親王は桓武天皇の皇子で平城天皇の弟)&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|807|11|12|川原寺に幽閉され断食させられていた伊予親王と母藤原吉子が服毒自殺(伊予親王は桓武天皇の皇子で平城天皇の弟)&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|808|||新羅、春二月に日本国の使臣が来た。王は厚い礼で、これを待遇した。&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|808|||畿内の班田を6年に一度に復す&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|808|||弘法大師が観心寺を訪れる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|808|||畿内の班田を6年に一度に復す&size(6){(日本-日本-)};||
|809|||COLOR(green):第41代新羅王憲徳王(809~826)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|809|||平城上皇、平城旧京へ移る&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|809|||04/01 COLOR(green):第52代 嵯峨天皇&size(6){(日本-日本-)};||
|809|4|1|COLOR(SandyBrown):第51代平城天皇が退位し、第52代嵯峨天皇が即位&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|810|||初めて蔵人所を置く藤原薬子の乱&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|810|||正良(仁明天皇)生誕&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|810|||薬子の変(くすこのへん)。平城上皇と嵯峨天皇との争い。嵯峨天皇が勝利して藤原北家の藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)が天皇の秘書長官である蔵人頭(くろうどのとう)となる。藤原北家の繁栄の基礎となる。&size(6){(日本-日本-)};||
|810|||初めて蔵人所を置く 藤原薬子の乱&size(6){(日本-日本-)};||
|810|||09/19 弘仁(こうにん)(810.9.19-823)&size(6){(日本-日本-)};||
|810|9||藥子の変。平生天皇の復位を企てた藤原藥子らの追討を命じ、鈴鹿・不破・愛発(あらち)の東国に通じる三関(さんげん)を閉鎖。坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)らを追討軍として編成。この日、藥子は解任され、兄の藤原仲成は拘束されている。&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|810|9||藥子の変。藥子の兄仲成が処刑される。一連の処置に激怒した平城上皇は東国の兵を動員して朝廷を倒そうと遷座するも進路を坂上田村麻呂の遮られ万事窮する。&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|810|9||藥子の変。平城上皇が平城宮に還幸し剃髪出家する。行き場を失った藤原藥子は自ら服毒して最後を遂げる。&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|810|9||大伴(淳和天皇)立太子&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|810|9|19|大同から弘仁(こうにん)(810.9.19-823)&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|811|||ブルガリア遠征に失敗し、皇帝ニケフォロスが処刑される&size(6){(西欧-イタリア、ブルガリア、ローマ-)};||
|811|||ブルガリア遠征に失敗し、皇帝ニケフォロスが処刑される&size(6){(東欧-ブルガリア-)};||
|811|||ビザンティン皇帝、ブルガリア人と戦い、敗死&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|811|||文室綿麻呂を征夷大将軍に任命&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|812|||アーヘン条約(カールの皇帝権、ビザンティン皇帝に承認される)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|812|||東ローマ帝国がカール1世をローマ皇帝と認める&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|812|||国司が公廨田以外に水陸田を営むことを禁止&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|813|||第2期聖像破壊運動(イコノクラスム)~843&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};||
|814|||カール大帝没(742~)。ルートウィヒ1世(敬虔王)即位(~840)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|814|||諸皇族に源姓を賜う 疱瘡流行、死者多し&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|815|||ビザンティン皇帝レオン5世、聖像礼拝を禁じ、再び紛争となる(~842)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|815|||薩摩国蝗(イナゴ)害により調・庸・租を免ぜられる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|815|||弘法大師が雲心寺の寺号を観心寺と改称する。&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|816|||左衛門大尉吉田書主に検非遺使の役兼行&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|816|||平安京羅城門が倒壊する&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|818|5|13|最澄が、比叡山天台宗の学生が守るべき六箇条『山家学生式[さんけがくしょうしき]』を制定&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|819|5|3|空海が高野山で真言宗総本山金剛峰寺の開創に着手&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|820|||弘仁格式完成&size(6){(--)};||
|820|||唐・李氏・・ 穆宗&size(6){(--)};||
|820|||COLOR(green):穆宗・即位&size(6){(--)};||
|820|||唐・李氏・・穆宗&size(6){(東アジア-唐-唐)};||
|820|||弘仁格式完成&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|821|||空海、讃岐の満濃池をつくる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|822|6|4|天台宗の開祖最澄歿&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|823|||大宰府管内で公営田制実施&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|823|||04/16 COLOR(green):第53代 淳和天皇&size(6){(日本-日本-)};||
|823|1|19|空海が教王護國寺(東寺)を下賜される&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|823|4|16|COLOR(SandyBrown):第52代嵯峨天皇が退位し弟の大伴(第53代淳和天皇)が即位&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|824|||COLOR(green):敬宗・即位&size(6){(--)};||
|824|||唐・李氏・・敬宗&size(6){(東アジア-唐-唐)};||
|824|||渤海使の来日を12年に1度とする&size(6){(日本-日本、震国:渤海-平安時代)};||
|824|1|5|天長(てんちょう)(824.1.5-833)&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|824|1|5|弘仁から天長(てんちょう)に改元。&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|824|7|7|第51代平城天皇崩御51歳&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|825|7|6|桓武天皇の孫・高棟王が臣籍に下り平姓を賜る。桓武平氏の始り&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|826|||COLOR(green):第42代新羅王興徳王(826~836)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|826|||上総・常陸・上野を親王任国とする&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|827|||唐・李氏・・ 文宗&size(6){(--)};||
|827|||COLOR(green):文宗・即位&size(6){(--)};||
|827|||クレタ島喪失&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};||
|827|||唐・李氏・・文宗&size(6){(東アジア-唐-唐)};||
|827|8||道康(文徳天皇)生誕&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|828|||COLOR(blue):張保皐、清海鎮設置&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗、渤海-)};||
|828|||新羅の張保皐,清海鎮設置.南海と黄海の海上交通を支配.貿易独占&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|828|||COLOR(blue):張保皐、青海鎮設置&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|828|||畿内に班田を行う&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|829|||このころバイキング&size(6){(北欧-アイスランド,ノルウェー、デンマーク、バイキング-)};||
|829|||ウェセックス王エグベルト、他の6王国を征服、イングランド統一の基礎を築く&size(6){(西欧-イギリス-)};||
|829|||COLOR(red):イングランド王国の成立(エグバードがイングランドを統一)&size(6){(西欧-イギリス-)};||
|829|||COLOR(red):イングランド王国の成立(エグバードがイングランドを統一)&size(6){(西欧-イギリス、イングランド王国-)};||
|829|3|10|神託により飛鳥坐神社を遷座。大和国高市郡賀美郷の甘南備(かんなび)山にあった飛鳥社を同じ郷内の鳥形山に遷座したといわれるが、甘南備の所在も神託の内容も不明。&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|830|||ノルマン人(バイキング)、北フランスを荒らす&size(6){(西欧-フランス、アイスランド,ノルウェー、デンマーク、バイキング-)};||
|830|||時康(光孝天皇)生誕&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|833|||02/28 COLOR(green):第54代 仁明天皇&size(6){(日本-日本-)};||
|833|2|28|COLOR(SandyBrown):第54代仁明天皇&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|833|2|28|第53代淳和天皇が退位&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|834|||百官の服色制度公布.冠帽や服装の型,色,形によって官位を見分ける&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|834|||COLOR(blue):百宮の服色制度の公布&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|834|||畿内の班田を12年に一度と改める&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|834|1|3|天長から承和(じょうわ)に改元。(834.1.3-847)&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|835|3|21|弘法大師(空海)歿&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|836|||COLOR(green):第43代新羅王僖康王(836~838)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|836|||薩摩国大飢饉&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|838|||COLOR(green):第44代新羅王閔哀王(838~839)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|838|||遣唐使大宰府より出発(最後の遣唐使)&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|838|12|15|病気を理由に遣唐使乗船を拒否した遣唐使副使・小野篁が隠岐に流される&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|839|||COLOR(green):第45代新羅王神武王(839)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|839|||COLOR(green):第46代新羅王文聖王(839~857)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|840|||COLOR(green):武宗・即位&size(6){(--)};||
|840|||唐・李氏・・武宗&size(6){(東アジア-唐-唐)};||
|840|5|8|第53代淳和天皇崩御&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|842|||承和の変&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|842|||承和の変(じょうわのへん)皇太子を巡る政変で、結果は藤原北家の藤原良房(ふじはらのよしふさ)の甥(道康親王)が皇太子となった。&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|842|||承和の変(じょうわのへん)。皇太子を巡る政変で、結果は藤原北家の藤原良房(ふじはらのよしふさ)の甥(道康親王)が皇太子となった。&size(6){(日本-日本-)};||
|842|7|15|嵯峨天皇が崩御。(神野親王)(天皇(52代),三筆の一人)<数え57歳>&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|842|7|17|承和の変。皇太子恒貞親王派の伴健岑・橘逸勢らの謀叛が発覚&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|842|8|4|道康(文徳天皇)が立太子&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|843|||COLOR(red):ベルダン条約でフランク王国が三分される&size(6){(--)};||
|843|||COLOR(red):ルートウィヒ1世、フランク王国を3分割〔ベルダン条約〕&size(6){(西欧-フランス、ドイツ、イタリア-)};||
|843|||ビザンティン帝国で聖像礼拝復活&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|843|||ヴェルダン条約&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|843|||畿内校田使を任命&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|845|6|25|菅原道眞生誕&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|846|||唐・李氏・・宣宗&size(6){(東アジア-唐-唐)};||
|846|||COLOR(green):宣宗・即位&size(6){(東アジア-唐-)};||
|847|||唐の商人張友信ら、47人来着&size(6){(日本-日本、唐-平安時代)};||
|848|||良房、右大臣となる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|848|6|13|承和から嘉祥(かしょう)(848.6.13-850)に改元。&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|850|||富豪の山野占有禁止&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|850|||03/21 COLOR(green):第55代 文徳天皇&size(6){(日本-日本-)};||
|850|3|21|COLOR(SandyBrown):第55代文徳天皇&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|850|3|21|COLOR(SandyBrown):第54代仁明天皇崩御し道康が第55代文徳天皇として即位&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|850|3|25|惟仁(清和天皇)生誕&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|850|11|25|惟仁(清和天皇)立太子(生後8ヶ月)&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|851|||04/28 仁寿(にんじゅ)(851.4.28-853)&size(6){(日本-日本-)};||
|851|4|28|嘉祥から仁寿(にんじゅ)(851.4.28-854)に改元。&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|853|||ビザンティン帝国、イスラム軍と戦い、エジプト出兵&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|853|||全国に疱瘡流行&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|854|11|3|仁寿から斉衡(さいこう)(854.11.3-857)に改元。&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|855|||陸奥奥地の俘囚警備のため兵2000人を派遣&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|855|4|2|大和で地震&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|855|5|10|大和で地震&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|855|5|23|東大寺の大仏の首が落ちる。調査の結果大修理が必要との報告&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|857|||COLOR(green):第47代新羅王憲安王(857~861)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|857|||右大臣藤原良房、太政大臣となる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|857|2|21|斉衡から天安(てんなん)(857.2.21-858)に改元。&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|858|||藤原良房、摂政となる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|858|||藤原良房が人臣(皇族以外)で初の太政大臣となる藤原良房が人臣で初の摂政となる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|858|||08/27 COLOR(green):第56代 清和天皇&size(6){(日本-日本-)};||
|858|8|27|COLOR(SandyBrown):第56代清和天皇&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|858|8|27|COLOR(SandyBrown):第55代文徳天皇崩御32歳。8歳の惟仁が第56代清和天皇として即位&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|859|||唐・李氏・・懿宗&size(6){(東アジア-唐-唐)};||
|859|||COLOR(green):懿宗・即位&size(6){(東アジア-唐-)};||
|859|4|15|天安から貞観(じょうかん)(859.4.15-876)に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|861|||クレタ島奪回&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};||
|861|||COLOR(green):第48代新羅王景文王(861~875)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|861|||武蔵国の郡ごとに検非遺使をおく&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|862|||COLOR(red):ルーリックがノヴゴロド王国建設→ロシアの起原&size(6){(中欧-ロシア、ノヴゴロド王国-)};||
|862|||ルーリックがノヴゴロド王国建設&size(6){(中欧-ロシア、ノヴゴロド王国-)};||
|862|||ロシア、リューリクのノブゴロド王国建設(伝承による)&size(6){(中欧-ロシア、ノヴゴロド王国-)};||
|862|||ノヴゴロド公国が建国する&size(6){(中欧-ロシア、ノヴゴロド王国-)};||
|862|||COLOR(red):ルーリックがノヴゴロド王国建設 →ロシアの起原&size(6){(中欧-ロシア、ノヴゴロド王国-)};||
|862|||山陽・東海道に海賊追捕を命ずる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|862|3|14|東大寺大仏殿の開眼供養。855年の地震で首が落ちた大仏の修理が出来上がり、この日開眼供養が行われた。&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|863|||ギリシア人の、メトディオス、コンスタンティノス兄弟、スラブ人伝道を開始&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|864|||新羅、夏四月に日本国の使臣が来た。&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅、日本-平安時代)};||
|864|||伴善男が大納言、藤原基経が参議となる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|864|||富士山噴火(貞観大噴火)&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|864|7|17|富士山が大噴火。西湖と精進湖ができる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|866|||藤原良房、摂政となる 応天門の変&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|866|||応天門の変(藤原良房が伴氏を陥れて流刑にする)&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|866|7|14|清和天皇が没後44年目の最澄に「傳教大師」、円仁に「慈覺大師」の諡号を賜う&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|866|8|19|藤原良房が摂政に就任。初の皇族以外の摂政&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|867|||マケドニア朝バシレイオス1世のクーデター&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};||
|867|||ビサンティンのバシレイオス1世即位(~886)、マケドニア朝成立(~1056)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|867|||東西教会の分離&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|867|||京都に常平所設置、官米を安く売る&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|867|5|5|定省(宇多天皇)生誕&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|868|12|16|貞明(陽成天皇)生誕&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|869|||貞観格撰上新羅の賊、博多に来襲&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|869|||貞観地震(じょうがんじしん)の発生&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|869|6|30|貞明(陽成天皇)立太子&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|870|||メルセン条約でイタリア・ドイツ・フランスの基ができる&size(6){(--)};||
|870|||ヴァイキング、アイスランド植民。&size(6){(--)};||
|870|||ヴァイキング、アイスランド植民。&size(6){(北欧-アイスランド、ヴァイキング-)};||
|870|||COLOR(red):フランク王国が再分割&size(6){(西欧-フランス、ドイツ、イタリア-)};||
|870|||メルセン条約でイタリア・ドイツ・フランスの基ができる&size(6){(西欧-フランス、ドイツ、イタリア-)};||
|870|||メルセン条約。中フランク王国の領土の取り決め。この時の領土が現在のフランス、ドイツ、イタリアの原型となる。&size(6){(西欧-フランス、ドイツ、イタリア-)};||
|870|||ロートリンゲン王国、東西フランクに分割〔メルセン条約〕&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|870|||藤原元利万呂らを新羅内通の嫌疑で捕縛&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|871|||イングランド、アルフレッド大王即位(~899)&br;このころ、同王のもとでイングランドの統一進む。また、数度のデーン人の侵入を撃退&size(6){(西欧-イギリス-)};||
|871|||良房、准三后の待遇をうける&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|872|||良房没、基経、摂政となる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|873|||唐・李氏・・ 僖宗&size(6){(東アジア-唐-唐)};||
|873|||COLOR(green):僖宗・即位&size(6){(東アジア-唐-)};||
|873|||皇子・皇女に源姓を賜う&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|874|||COLOR(red):サーマン朝の成立(イラン)(中東-イラン-平安時代)&size(6){(--)};||
|874|||COLOR(red):サーマン朝の成立(イラン)&size(6){(中東-イラン、サーマン朝-)};||
|874|||開聞岳噴火&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|875|||COLOR(green):第49代新羅王憲康王(875~886)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|875|||唐で黄巣の乱(-884)&size(6){(東アジア-唐-唐)};||
|875|||下総国の俘囚の乱&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|876|||大極殿焼失&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|876|||11/29 COLOR(green):第57代 陽成天皇&size(6){(日本-日本-)};||
|876|11|29|COLOR(SandyBrown):第57代陽成天皇即位&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|876|11|29|第56代清和天皇が退位&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|877|4|16|貞観から元慶(がんぎょう)(877.4.16-884)に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|878|||50年ぶりに畿内に校田実施 出羽国の俘囚の乱&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|879|||新羅、八月に日本国の使臣が来た。王はこれを朝元殿で引見した。&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|879|||畿内に班田 畿内に官田4000町設定&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|880|||COLOR(red):キエフ公国の成立&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|880|||藤原基経、関白となる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|880|||歌物語「伊勢物語」ができる(880年以降&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|880|12|4|第56代清和天皇崩御&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|881|||官田の経営方式を定める&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|882|||ロシアのオレーグ公、キエフを占領。キエフ大公国成立&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|882|||キエフ公国が建国する&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|882|||三圃式農業(さんぽしき)が普及して農業生産力が向上する10世紀~&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|882|||新羅、夏四月に日本国王が使臣を派遣して、黄金三百両と明珠十箇を進上した。&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|883|||上総国市原郡に俘囚の乱&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|884|||藤原基経、関白の実を行う&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|884|||藤原基経が関白となる(関白のはじまり)&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|884|||02/04 COLOR(green):第58代 光孝天皇&size(6){(日本-日本-)};||
|884|2|4|COLOR(SandyBrown):第58代光孝天皇&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|884|2|4|COLOR(SandyBrown):第57代陽成天皇が退位して第58代光孝天皇が即位&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|885|||カール3世、東西フランクを再統一&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|885|||ノルマン人、パリを包囲&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|885|||開聞岳噴火&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|885|2|21|元慶から仁和(にんな)(885.2.21-889)に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|885|11|11|敦仁(醍醐天皇)生誕&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|886|||COLOR(green):第50代新羅王定康王(886~887)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|887|||イタリアのカロリング朝断絶&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|887|||COLOR(green):第51代新羅王真聖女王(887~897)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|887|||藤原基経、関白の詔を憂く&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|887|||阿衡事件(あこうじけん)&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|887|||'阿衡事件''&br;・・・・・887(仁和3)年藤原基経が関白に任命された時、任命の詔に「阿衡の任をもって卿の任とせよ」とありましたが、基経は”中国では阿衡とは名ばかりの仕事で関白の仕事を侮辱したものである”としてこの詔を作成した橘広相を朝廷から追放させました。&br; この事件は基経の権威を天皇に認めさせ、橘氏を没落させたものとして知られています。&size(6){(日本-日本-)};||
|887|8|26|COLOR(SandyBrown):第58代光孝天皇崩御58歳。定省が第59代宇多天皇として即位&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|887|8|26|08/26 COLOR(green):第59代 宇多天皇&size(6){(日本-日本-)};||
|887|11|21|太政大臣・藤原基經が関白に就任。初の人臣関白&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|888|||新羅,歴代の郷歌を集めた「三代目」編纂&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|888|||COLOR(blue):新羅、「三代目」編纂&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|888|||COLOR(green):昭宗・即位&size(6){(東アジア-唐-唐)};||
|888|||唐・李氏・・ 昭宗&size(6){(東アジア-唐-)};||
|888|||阿衝の紛議…政局混乱し、橘広相を処罰&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|888|8|17|京都の仁和寺[にんなじ]が落成&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|889|||高望王らに平姓を授ける&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|889|||宇多天皇は勢力拡大の為、桓武天皇の曾孫の高望王に平姓を与える。平将門(たいらのまさかど)は高望王の孫になる。(桓武平氏)&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|889|4|27|仁和から寛平(かんぴょう)(889.4.27-897)に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|889|5|13|桓武天皇の曾孫・高望王が平姓を賜り上総介に任じられる。平將門の祖父である。&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|890|||スラブ人・マジャール人の東欧移動&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|890|||藤原基経、関白を辞す&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|890|||日本最古の物語「竹取物語」ができる(890年代後半&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|890|||年代後半日本最古の物語「竹取物語」ができる&size(6){(日本-日本-)};||
|891|||東フランク王アルヌルフ、ノルマン人の侵入を撃退&br;このころマジャール人、ハンガリーに侵入&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|891|||基経没 菅原道真、蔵人頭となる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|892|>|>|''後三国時代(892年-936年)''&size(6){(東アジア-朝鮮-後三国時代)};||
|892|||COLOR(red):''後百済(892年-936年)''&size(6){(東アジア-朝鮮、後百済-)};||
|892||>|新羅が衰退(後三国時代へ)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|892|5|10|菅原道眞が『類聚国史』を撰進&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|893|||シメオン1世、ブルガリアのツァーリとなる(~927)(第一次ブルガリア帝国)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|893|||新羅人、筑前・肥後に来寇する&size(6){(日本-日本、新羅-平安時代)};||
|893|4|2|敦仁(醍醐天皇)立太子&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|894|||後高句麗(894年-918年)→高麗&br;9~10世紀頃繁栄を誇った新羅であるが、8世紀末頃から王都内で反乱や内紛が相次ぎ、加えて農民たちの蜂起もあって、新羅朝廷の統治能力は、弱体化していた。9世紀地方の豪族達も反乱を起こし、新羅の政権から離脱していった。中でも、甄萱(キョオヌウォン)、梁吉(ヤンキル)、弓裔(クンイェ)らが有力な勢力であった。そして、これらの勢力によって、新羅は、3つに分裂することになる。900年即ち、甄萱がにCOLOR(blue):後百済を建国COLOR(black):し、弓裔は898年に後高句麗を建国したのである。&size(6){(東アジア-朝鮮、後高句麗-)};||
|894|||''後高句麗[894年-918年]''→高麗&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|894|||RIGHT:COLOR(green):遣唐使廃止''894年''&size(6){(東アジア-朝鮮、日本-平安時代)};||
|894|||遣唐使廃止(藤原道真)の建議&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|894|||菅原道真(すがわらのみちざね)の建議で遣唐使を廃止&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|894|||新羅の賊船大小100隻、約2,500人来寇、国司文室義友らの活躍により撃退。&size(6){(対馬)};&size(6){(日本-日本-)};||
|894|9|30|菅原道眞の建白により遣唐使の廃止が決定&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|895|||新羅人、壱岐に来襲&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|896|||王建,弓裔に帰服しその部将となる&size(6){(東アジア-朝鮮-)};||
|896|||赤袴の乱.真聖女王10年,王都西部で民乱起こる&size(6){(東アジア-朝鮮-)};||
|896|||COLOR(green):''甄萱が後百済を建国''&size(6){(東アジア-朝鮮、後百済-)};||
|896|||五位以上の私営田禁止&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|897|||COLOR(green):第52代新羅王孝恭王(897~912)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|897|||藤原時平が大納言、道真が権大納言となる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|897|7|3|COLOR(SandyBrown):第59代宇多天皇が退位し、第60代醍醐天皇即位&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|898|||時平が左大臣 道真が右大臣となる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|898|4|26|寛平から昌泰(しょうたい)(898.4.26-900)に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|899|||マジャール人、数回に及ぶイタリア侵攻&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|899|||宇田上皇出家(法王の始まり)&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|899|9|19|群盗横行の為、相模国足柄坂・上野国碓氷坂に関を設置&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|900|||ハラール(美髪王)によるノルウェー王国の創建&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|900|||9世紀末~10世紀ノルマン人のグリーンランド発見&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|900|||COLOR(red):甄萱,後百済建国.現在の全羅道と忠清道を支配&size(6){(東アジア-朝鮮、後百済-)};||
|900|||COLOR(blue):甄萱、後百済建国&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、後百済-)};||
|900|||9~10世紀頃繁栄を誇った新羅であるが、8世紀末頃から王都内で反乱や内紛が相次ぎ、加えて農民たちの蜂起もあって、新羅朝廷の統治能力は、弱体化していた。9世紀になると地方の豪族達も反乱を起こし、新羅の政権から離脱していった。中でも、甄萱(キョオヌウォン)、梁吉(ヤンキル)、弓裔(クンイェ)らが有力な勢力であった。そして、これらの勢力によって、新羅は、3つに分裂することになる。即ち、甄萱が900年に後百済を建国し、弓裔は898年に後高句麗を建国したのである。&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗、後百済-)};||
|900|||国風文化&size(6){(日本-日本-)};||
|901|||10~11世紀ころ新マヤ文化が興隆&size(6){(中南米-メキシコ、マヤ-)};||
|901|>|>|''10世紀:長白山が過去2000年間で世界最大級の巨大噴火(半島リセット)''&size(6){(よいこの正しい半島歴史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮-)};||
|901|||COLOR(blue):弓裔、後高句麗建国&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、後高句麗-)};||
|901|||COLOR(blue):後高句麗を建国&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|901|||COLOR(green):弓裔,後高句麗建国&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|901|||COLOR(red):弓裔,後高句麗建国.(後三国時代のはじまり)&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|901|||''後高句麗建国''&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|901|||菅原道真、大宰府に流さる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|901|||昌泰の変(しょうたいのへん)-菅原道真を大宰府へ左遷させる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|901|7|15|辛酉革命の為延喜(えんぎ)(901.7.15-922)に改元。923年に延長に改元。&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|901|8|2|清和・陽成・光孝3代の天皇が在位した32年間を記述した『日本三代実録』が完成&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|902|||延喜の荘園整理令公布&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|903|||菅原道真、筑紫の配所で死去&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|903|2|25|菅原道眞歿&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|904|||唐・李氏・・ 哀宗&size(6){(東アジア-唐-唐)};||
|904|||COLOR(green):哀宗・即位&size(6){(東アジア-唐-)};||
|905|||紀貫之(きのつらゆき)などにより最初の勅撰和歌集「古今和歌集(こきんわかしゅう)」ができる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|906|||マジャール人、大モラビア国を滅ぼす&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|907|||(五代十国時代へ)(-960)&size(6){(--)};||
|907|||COLOR(green):太祖・即位&size(6){(--)};||
|907|||五代十国(907-979)&size(6){(--)};||
|907|||(五代十国時代へ)(-960)&size(6){(東アジア-五代十国時代-五代十国時代)};||
|907|||五代・後漢・劉氏・隠帝&size(6){(東アジア-五代十国時代-五代十国時代)};||
|907|||五代・後漢・劉氏・高祖&size(6){(東アジア-五代十国時代-五代十国時代)};||
|907|||五代・後周・柴氏・恭帝&size(6){(東アジア-五代十国時代-五代十国時代)};||
|907|||五代・後周・柴氏・世宗&size(6){(東アジア-五代十国時代-五代十国時代)};||
|907|||五代・後周・柴氏・太祖&size(6){(東アジア-五代十国時代-五代十国時代)};||
|907|||五代・後晋・石氏・??鶏&size(6){(東アジア-五代十国時代-五代十国時代)};||
|907|||五代・後晋・石氏・高祖&size(6){(東アジア-五代十国時代-五代十国時代)};||
|907|||五代・後晋・石氏・出帝&size(6){(東アジア-五代十国時代-五代十国時代)};||
|907|||五代・後唐・李氏・荘宗&size(6){(東アジア-五代十国時代-五代十国時代)};||
|907|||五代・後唐・李氏・末帝&size(6){(東アジア-五代十国時代-五代十国時代)};||
|907|||五代・後唐・李氏・明宗&size(6){(東アジア-五代十国時代-五代十国時代)};||
|907|||五代・後唐・李氏・李克用&size(6){(東アジア-五代十国時代-五代十国時代)};||
|907|||五代・後唐・李氏・閔帝&size(6){(東アジア-五代十国時代-五代十国時代)};||
|907|||五代・後梁・朱氏・太祖&size(6){(東アジア-五代十国時代-五代十国時代)};||
|907|||五代・後梁・朱氏・末帝&size(6){(東アジア-五代十国時代-五代十国時代)};||
|907|||五代・後漢・劉氏・ 隠帝&size(6){(東アジア-後漢-)};||
|907|||五代・後漢・劉氏・ 高祖&size(6){(東アジア-後漢-)};||
|907|||五代・後周・柴氏・ 恭帝&size(6){(東アジア-後周-)};||
|907|||五代・後周・柴氏・ 世宗&size(6){(東アジア-後周-)};||
|907|||五代・後周・柴氏・ 太祖&size(6){(東アジア-後周-)};||
|907|||五代・後晋・石氏・ ??鶏&size(6){(東アジア-後晋-)};||
|907|||五代・後晋・石氏・ 高祖&size(6){(東アジア-後晋-)};||
|907|||五代・後晋・石氏・ 出帝&size(6){(東アジア-後晋-)};||
|907|||五代・後唐・李氏・ 荘宗&size(6){(東アジア-後唐-)};||
|907|||五代・後唐・李氏・ 末帝&size(6){(東アジア-後唐-)};||
|907|||五代・後唐・李氏・ 明宗&size(6){(東アジア-後唐-)};||
|907|||五代・後唐・李氏・ 李克用&size(6){(東アジア-後唐-)};||
|907|||五代・後唐・李氏・ 閔帝&size(6){(東アジア-後唐-)};||
|907|||五代・後梁・朱氏・ 太祖&size(6){(東アジア-後梁-)};||
|907|||五代・後梁・朱氏・ 末帝&size(6){(東アジア-後梁-)};||
|907|||COLOR(red):唐滅亡、五代十国成立(~960)&size(6){(東アジア-唐、五代十国時代-)};||
|907|||時平ら、延喜格撰上&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|909|||フランスのクリュニー修道院設立&size(6){(西欧-フランス-)};||
|911|||COLOR(red):ノルマンディー公国の成立&size(6){(--)};||
|911|||COLOR(green):末帝・即位&size(6){(--)};||
|911|||フランス、ノルマン人の首長ロロ、ノルマンディー公国を建設&size(6){(西欧-フランス-)};||
|911|||カロリング朝東フランク王国滅び、ドイツ王国成立&size(6){(西欧-フランス、ドイツ、イタリア-)};||
|911|||COLOR(red):ノルマンディー公国の成立&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|911|||西フランクはヴァイキングのロロにノルマンディー公国を授与&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|911|||弓裔,国号を泰封とする&size(6){(東アジア-朝鮮、泰封-)};||
|912|||COLOR(green):第53代新羅王神徳王(912~917)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|914|||三善清行、意見封事十二ケ条を上申&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|916|||北方の異民族国家で大宋帝国のライバル。宋とは燕雲十六州を巡り激しい領土争いを繰り広げました。&size(6){(--)};||
|916|||COLOR(red):契丹(遼)(916-1125)の建国&size(6){(東アジア-朝鮮-)};||
|917|||シメオン1世、「全ブルガリアとローマ」の皇帝を称し、第一次ブルガリア王国最盛期を現出&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|917|||COLOR(green):第54代新羅王景明王(917~924)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|918|||COLOR(red):9世紀になると新羅は内紛のため分裂状態となり、918年に後高句麗の将軍王建が高麗をたて、朝鮮半島を統一した。高麗は仏教を保護し、唐と宋の制度を取り入れて栄えた。&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|918|||COLOR(red):王建,弓裔を追放し高麗建国&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|918|||''高麗王朝[918~1392年]''&br;中国の科挙制度が導入され、儒教を統治思想として中央集権的な体制が整備された。&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|918|||高麗時代(918ー1392)''&br;高麗・・・モンゴル人→女真人→満州人高麗は、918年に建国されました。この時期、国教として定められていた仏教は、政治と文化に大きな影響を及ぼしながら更に発展しました。高麗青磁やユネスコ世界文化遺産にも指定されている八万大蔵経、直指心経などの重要な遺産もこの時期に作られました。特に、直指心経は世界最初の金属活字で印刷された仏教経典で、グーテンベルク聖書よりも78年前に作られたものです。そんな高麗も14世紀後半からは次第に国力が衰えていきました。676年に新羅によって朝鮮半島初の統一がなされますが、8世紀末から9世紀まで王位継承の争いが起こり、地方でも農民が反乱を起したり、飢饉に見舞われたりと新羅は国力を失っていきます。そんな中、有力な豪族たちが新羅を分裂させ国を建国していきました。後三国時代といわれる時代です。この争いを制したのは高麗。高麗は935年に新羅を併合すると、936年には後百済を滅ぼし朝鮮半島を統一しました。高麗の建国者は王建(おうけん)。首都は開城(かいじょう)です。この高麗。現在、韓国のことをKoreaといいますよね。これは、高麗を表すKoryoが変化したものだといいます。当時、高麗は青磁(せいじ)という陶磁器を輸出し世界に名を知られることになりましたので、この高麗のイメージが強かったのでしょうね。また、高麗は日本ともちょっと因縁があります。そう元寇です。高麗は1259年にフビライ=ハンの率いるモンゴル(元)軍の侵攻により属国となります。これに対して、高麗は三別抄(さんべつしょう)と呼ばれる選抜部隊が奮闘し対抗するのですが、これも1273年には完全に鎮圧されてしまいます。そして、1274年には元により高麗水軍を前面に立てた日本攻撃が始まるのです。文永の役ですね。さらに1281年には再び日本に攻めてきます。弘安の役です。この高麗は、1356年に元から独立しますが、同時期に頻繁に発生していた倭寇(わこう・海賊)に悩まされ、高麗は徐々に衰退していくことになります。中国の科挙制度が導入され、儒教を統治思想として中央集権的な体制が整備された。&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|918|||中世社会?(~1392)&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-中世社会)};||
|918|||COLOR(red):COLOR(blue):王建、高麗建国&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|918|||COLOR(red):高麗の建国&size(6){(-朝鮮、高麗-)};||
|918|||こうして、新羅、後百済、後高句麗の3国が鼎立する中で、弓裔の下にいた王建(ワンゴン)は、傲慢な弓裔を滅ぼし、新たにCOLOR(blue):高麗(コリョ)を建国COLOR(black):し、自ら王を名乗る。王建は、次第に地方の豪族たちをまとめあげ、&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗、新羅、後百済、後高句麗-)};||
|919|||ドイツ、ハインリヒ1世即位(~936)、ザクセン朝(~1024)成立&size(6){(西欧-ドイツ-)};||
|919|||開城に都をおいた&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|919|||高麗,開城を都に定める&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|919|||前武蔵権介、官物を奪い国府を襲う&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|920|||COLOR(red):クメル王国が首都アンコール=トムを建設&size(6){(アジア--)};||
|920|||COLOR(red):クメル王国が首都アンコール=トムを建設(アジア-クメル王国-平安時代)&size(6){(--)};||
|920|||皇子高明親王らに源朝臣の姓をける&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|920|12|27|醍醐天皇の皇子・高明親王が臣籍に下り源姓を賜る。「醍醐源氏」の始り&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|923|||COLOR(green):荘宗・即位&size(6){(--)};||
|923|||新羅使来日(最後の新羅使)&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|923|4|11|延喜から延長(えんちょう)(923.閏4.11-930)に改元。&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|923|4|20|菅原道真を右大臣とし正二位を贈る&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|923|7|24|朱雀天皇(寛明親王)生誕。(天皇(61代))[952年歿]&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|924|||マジャール人、南フランスを攻撃&size(6){(西欧-フランス-)};||
|924|||COLOR(green):第55代新羅王景哀王(924~927)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|925|10|21|寛明(朱雀天皇)立太子&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|925|12|13|奈良時代に編纂されたものが散佚した為、朝廷が諸国に風土記の再提出を命じる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|926|||COLOR(green):明宗・即位&size(6){(--)};||
|926|||COLOR(red):COLOR(blue):渤海滅亡&size(6){(東アジア-朝鮮、契丹、震国:渤海-)};||
|926|||渤海を滅ぼした北方民族契丹(きったん)は、急速に勢力を強め、高麗との国境付近まで版図を広げる&size(6){(東アジア-朝鮮、契丹、震国:渤海-)};||
|926|||COLOR(blue):渤海滅亡&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|926|||着任勤務しない官人を罰す&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|926|6|2|成明(村上天皇)生誕&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|927|||イングランド王国が建国する&size(6){(西欧-イギリス-)};||
|927|||満州の渤海が滅ぶ&size(6){(東アジア-、震国:渤海-渤海)};||
|927|||COLOR(green):第56代新羅王敬順王(927~935)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|927|||藤原忠平ら「延喜式」を撰進&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|929|||渤海使来日(最後の渤海使727→)&size(6){(日本-日本、震国:渤海-平安時代)};||
|930|||アルシンギ(立法・司法機関)設立&size(6){(北欧-アイスランド-)};||
|930|||スペイン、カスティーリャ王国成立&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|930|||COLOR(SandyBrown):醍醐天皇譲位第61代朱雀天皇即位忠平が摂政&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|930|||醍醐天皇譲位 朱雀天皇即位 忠平が摂政&size(6){(日本-日本-)};||
|930|||09/22 COLOR(green):第61代 朱雀天皇&size(6){(日本-日本-)};||
|930|6|26|清涼殿に落雷し公卿2人が即死。菅原道眞の怨霊との噂が流れる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|930|9|22|COLOR(SandyBrown):第60代醍醐天皇が退位し第61代朱雀天皇が即位&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|930|9|29|第60代醍醐天皇崩御46歳&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|931|||諸国の不耕作田の開発を奨励する&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|931|4|26|延長から承平(じょうへい)(931.4.26-937)に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|931|7|19|第59代宇多天皇崩御65歳&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|932|||COLOR(red):プワイフ朝成立&size(6){(--)};||
|932|||COLOR(red):プワイフ朝成立&size(6){(--)};||
|933|||南海海賊横行により諸国に警護使を定む&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|934|||COLOR(green):廃帝・即位&size(6){(--)};||
|934|12|21|紀貫之が土佐国守の任務を終え都へ向かう。『土左日記(土佐日記)』を起筆&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|935|||高麗、朝鮮半島統一&size(6){(アジア--)};||
|935|||新羅の滅亡&size(6){(アジア--)};||
|935|||朝鮮の新羅が滅び、高麗が統一&size(6){(アジア--)};||
|935|||高麗、朝鮮半島統一&size(6){(--)};||
|935|||新羅の滅亡&size(6){(--)};||
|935|||朝鮮の新羅が滅び、高麗が統一&size(6){(--)};||
|935|||COLOR(red):高麗は新羅を併合し、COLOR(blue):新羅滅亡COLOR(black):そして、&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗、新羅-)};||
|935|||新羅の敬順王,高麗に投降し新羅滅亡&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗、新羅-)};||
|935|||新羅を降伏させた&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗、新羅-)};||
|935|||COLOR(blue):新羅滅亡&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗、新羅-)};||
|935|||平将門、平国香を殺す&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|935|||承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)平将門の反乱(関東)と藤原純友の反乱(瀬戸内海)。平将門は関東を手中に収めて新皇と名乗るがその2ヵ月後に藤原秀郷、平貞盛に討たれた。藤原純友は経基王によって鎮圧される。-941&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|935|||紀貫之による日記文学「土佐日記」ができる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|935|||-941承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)。平将門の反乱(関東)と藤原純友の反乱(瀬戸内海)。平将門は関東を手中に収めて新皇と名乗るがその2ヵ月後に藤原秀郷、平貞盛に討たれた。藤原純友は経基王によって鎮圧される。&size(6){(日本-日本-)};||
|935|10|21|平將門が伯父の良正らを撃破&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|936|||COLOR(green):高祖・即位&size(6){(--)};||
|936|||オットー1世、ドイツ国王として即位(~973)&size(6){(西欧-ドイツ-)};||
|936|||COLOR(blue):高麗、後三国の統一&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|936|||後百済を滅ぼして、高麗が、半島の再統一(COLOR(blue):後三国統一)をなしとげる。このときの首都は、開城(ケソン)におかれた。&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗,後百済-)};||
|936|||高麗、後百済を滅ぼして朝鮮半島を再統一&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗、後百済-)};||
|936|||こうして、新羅、後百済、後高句麗の3国が鼎立する中で、弓裔の下にいた王建(ワンゴン)は、傲慢な弓裔を滅ぼし、918年、新たに高麗(コリョ)を建国し、自ら王を名乗る。王建は、次第に地方の豪族たちをまとめあげ、935年には、新羅を併合、そして、936年には、後百済を滅ぼして、高麗が、半島の再統一をなしとげる。このときの首都は、開城(ケソン)におかれた。高麗時代&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅、後百済、後高句麗-)};||
|936|||藤原純友、海賊の勢力と結ぶ&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|936|||高麗との交渉始まる 将門追捕の官符降る&size(6){(日本-日本-)};||
|938|||僧空也、金仏宗をはじめる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|938|5|22|承平から天慶(てんぎょう)(938.5.22-946)に改元。&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|939|||将門、関東に挙兵、反乱(→941)&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|939|||天慶の乱(てんぎょうのらん)-俘囚(ふしゅう)の反乱&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|939|11|21|平將門が常陸国府を襲撃。国衙の印などを奪い常陸介・藤原維幾を捕える&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|939|12|15|平將門が上野国衛を倒し国府の印と府庫の鍵を掠奪し上野・下野を制圧。八幡大菩薩のお告げで「新皇」と称す&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|940|||平貞盛・藤原秀郷ら、将門を討つ&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|940|4|25|平將門を討ち果たした藤原秀郷が将門の首を進上する&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|941|||キエフ・ロシアのイーゴリ公にコンスタンティノポリス攻撃される&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};||
|941|||ロシアのキエフ公イーゴリ、ビザンティン遠征&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|941|||忠平が関白となる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|943|||ペルシャ語の「千物語」がアラビア語訳に(「千一夜物語」の原型)&size(6){(中東-イラン、ペルシャ-)};||
|944|||COLOR(green):出帝・即位&size(6){(--)};||
|944|4|22|成明(村上天皇)立太子&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|945|||呉越人100人、肥前国に来着&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|945|5|18|紀貫之没&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|946|4|20|COLOR(SandyBrown):第62代村上天皇&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|946|4|20|COLOR(SandyBrown):第62代村上天皇即位 藤原師輔の娘安子女御となる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|946|4|20|COLOR(SandyBrown):第61代朱雀天皇が退位し第62代村上天皇が即位&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|946|4|20|04/20 COLOR(green):第62代 村上天皇&size(6){(日本-日本-)};||
|947|||COLOR(green):高祖・即位&size(6){(--)};||
|947|||藤原実頼、呉越王に書を贈る 疱瘡流行&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|947|4|22|天慶から天暦(てんりゃく)(947.4.22-956)に改元。&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|948|||COLOR(green):隠帝・即位&size(6){(--)};||
|948|||京都に群盗横行 右近衛府・清涼殿に押し入る&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|949|9|29|第57代陽成天皇崩御&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|950|||期限を過ぎて赴任しない受領を罰する&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|950|5|24|憲平(冷泉天皇)生誕&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|950|7|23|憲平(冷泉天皇)立太子&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|951|||COLOR(green):太祖・即位&size(6){(--)};||
|951|||ドイツのオットー1世、第1回イタリア遠征(~952)&size(6){(西欧-ドイツ-)};||
|952|8|15|第61代朱雀天皇崩御30歳&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|953|||藤原師輔、呉越王に書を送る&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|954|||COLOR(green):世宗・即位&size(6){(--)};||
|955|||オットー1世、マジャールを破る〔レヒフェルトの戦い〕&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|956|||もともと官民でありながら奴婢になった者を開放させる,奴婢按検法実施&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|956|||奴婢按検法を実施&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|956|||COLOR(blue):奴婢按検法実施&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|957|||呉越国特礼使、言上書を進上 疱瘡流行&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|957|10|27|天暦から天徳(てんとく)(957.10.27-960)に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|958|||乾元大宝鋳造&size(6){(--)};||
|958|||COLOR(blue):科挙制実施&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|958|||科挙制度を実施&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|958|||光宗の代,実力本位で官吏を採用する,科挙制度実施&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|958|||乾元大宝鋳造&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|958|3|25|古代最後の国産貨幣となる「乾元大宝」が鋳造される&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|959|3|2|守平(円融天皇)生誕&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|959|12|7|紫宸殿の前庭に「右近の橘」が植えられる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|960|||COLOR(red):宋(北宋)成立(~1127)&size(6){(--)};||
|960|||ソロモン王&size(6){(--)};||
|960|||COLOR(red):宋(北宋)の建国&size(6){(--)};||
|960|||北宋・趙氏・・ 太祖&size(6){(--)};||
|960|||COLOR(red):宋(北宋)成立(~1127)&size(6){(--)};||
|960|||COLOR(green):太祖・即位&size(6){(--)};||
|960|||北宋(960-1127)&size(6){(--)};||
|960|||デンマーク王ハラール(青歯王)、キリスト教を公認&br;このころ、ポーランド王国の統合&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|960|||経基王(つねもとおう)は臣籍降下で源姓(源経基)となる。孫の嫡流が源頼朝となる(清和源氏)&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|960|||COLOR(red):宋(北宋)の建国&size(6){(東アジア-北宋-北宋)};||
|960|||北宋・趙氏・・太祖&size(6){(東アジア-北宋-北宋)};||
|961|||趙匡胤が造った王朝。この時代、慈悲深く、芸術や学問への造詣が深い皇帝たちによって、士大夫に言論の自由が与えられ、芸術的にも技術的にも高い生活水準を維持し、街は庶民の活気でにぎわいました。第四代仁宗は自身も学者で、好奇心が強く、実用的な実験に富がつぎ込まれました。羅針盤とそろばんが発明され、最古の天文時計台の一つが建てられるなど科学的に発展しました。また、水滸伝の舞台になった時代でもあります。&size(6){(--)};||
|961|||オットー1世の第2回イタリア遠征(~964)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|961|||.薩摩国国分寺、大宰府安楽寺の末寺となる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|961|2|16|天徳から応和(おうわ)(961.2.16-963)に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|962|||COLOR(red):アフガニスタンにガズニ朝が成立&size(6){(中東-アフガニスタン-)};||
|962|||COLOR(red):アフガニスタンにガズニ朝が成立&size(6){(アジア-アフガニスタン、アフガニスタン-アフガニスタン)};||
|962|||COLOR(red):オットー一世、神聖ローマ帝国の成立&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};||
|962|||神聖ローマ帝国、オットー即位(~973)&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};||
|962|||COLOR(red):オットー一世、神聖ローマ帝国の成立&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};||
|962|||東フランク王国が神聖ローマ帝国となる&size(6){(西欧-フランス、ドイツ、イタリア-)};||
|962|||オットー1世、ローマで戴冠、神聖ローマ帝国成立(~1806)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|963|||高麗が宋に服属&size(6){(--)};||
|964|7|1|甲子革令の為、康保(こうほう)(964.7.1-967)に改元。968年に安和に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|966|||ポーランド王(ミェシコ1世)、キリスト教の洗礼を受ける&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|966|||桂川決壊し、京都洪水&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|967|||藤原実頼、関白となる 初めて延喜式を施行&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|967|5|25|COLOR(SandyBrown):第62代村上天皇が崩御(42歳)し、第63代冷泉天皇が即位&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|967|5|25|05/25 COLOR(green):第63代 冷泉天皇&size(6){(日本-日本-)};||
|967|7|9|律令政治の基本細則「延喜式」施行&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|967|9|1|守平(円融天皇)立太子&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|968|||ドイツ、マクデブルクを東部植民の根拠地化&size(6){(西欧-ドイツ-)};||
|968|||東大寺・興福寺の両寺乱闘&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|968|8|15|康保から安和(あんな)(968.8.15-970)に改元に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|968|10|26|師定(第65代花山天皇)生誕&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|969|||安和の乱…左大臣源高明、大宰権現に左遷&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|969|||安和の変(あんなのへん)-皇位継承者争いで、藤原師尹(ふじわらのもろただ)が源高明を大宰府へ左遷させる(藤原氏、最後の謀略)&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|969|||安和の乱…左大臣源高明、大宰権現に左遷&size(6){(日本-日本-)};||
|969|||08/13 COLOR(green):第64代 円融天皇&size(6){(日本-日本-)};||
|969|3|25|安和の変。源満仲の密告により源高明が皇太子守平親王廃立陰謀を問われ太宰権帥に左遷。これにより藤原氏政権が確立&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|969|8|13|COLOR(SandyBrown):第64代円融天皇&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|969|8|13|COLOR(SandyBrown):第63代冷泉天皇が退位し、守平親王が第64代円融天皇として即位、同日師定(花山天皇)が立太子&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|970|||実頼死去藤原伊尹摂政&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|970|||実頼死去 藤原伊尹摂政&size(6){(日本-日本-)};||
|970|3|25|安和から天禄(てんろく)(970.3.25-972)に改元。&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|971|||ブルガリアに遠征し、その東部を獲得&size(6){(西欧-イタリア、ブルガリア、ローマ-)};||
|971|||ブルガリアに遠征し、その東部を獲得&size(6){(西欧-イタリア、ブルガリア、ローマ-)};||
|971|||ビザンティン帝国軍、ブルガリアに進撃・併合&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|972|||兼通、兼家をこえて関白内大臣となる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|973|12|2|天禄から天延(てんえん)(973.12.2-975)に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|974|||尾張の百姓の訴えにより、国府を解任&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|975|||藤原道綱の母(ふじわらのみちつなのはは)による日記「蜻蛉日記(かげろうにっき)」ができる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|976|||北宋・趙氏・・ 太宗&size(6){(--)};||
|976|||COLOR(green):太宗・即位&size(6){(--)};||
|976|||ビザンティン皇帝バシレイオス2世の親政。同帝のもとで帝国の版図最大となる&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|976|||シチリアのイスラム軍、南イタリアに侵入&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|976|||田柴科制度を実施、地位により田地と柴地に差異を設けて分ける&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|976|||COLOR(blue):田柴科実施&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|976|||北宋・趙氏・・太宗&size(6){(東アジア-北宋-北宋)};||
|976|1|3|居貞(三条天皇)生誕&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|976|7|13|天延から貞元(じょうげん)(976.7.13-977)に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|977|||藤原兼通、関白を頼忠に譲る弟兼家を左遷&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|978|11|29|翌年が陽五の厄に当たる為、貞元から天元(てんげん)(978.11.29-982)に改元。&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|979|||宋、中国を統一&size(6){(東アジア-宋-)};||
|980|6|1|懐仁(一条天皇)生誕&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|983|||スラブ人、エルベ・オーデル間でドイツに反乱&size(6){(西欧-ドイツ-)};||
|983|||COLOR(blue):十二牧設置&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|983|||全国に十二牧設置,三省,六部,七寺を定める&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|983|||COLOR(blue):全国に一二牧設置、三省六都を定める&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|983|4|15|天元から永観(えいかん)(983.4.15-984)に改元。&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|984|||永観の荘園整理令 高麗人、筑前国に来着&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|984|||08/27 COLOR(green):第65代 花山天皇&size(6){(日本-日本-)};||
|984|8|27|COLOR(SandyBrown):第65代花山天皇&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|984|8|27|COLOR(SandyBrown):第64代円融天皇が退位し、第65代花山天皇が即位、同日、懐仁親王(一条天皇)が立太子&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|984|11|28|針博士・丹波康頼がまとめた『医心方』を円融天皇に献上。日本最古の医書&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|985|4|27|永観から寛和(かんな)(985.4.27-986)に改元。&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|986|||兼家・道兼父子の策謀で、花山天皇出家&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|986|||06/23 COLOR(green):第66代 一条天皇&size(6){(日本-日本-)};||
|986|6|23|COLOR(SandyBrown):第66代一条天皇&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|986|6|23|COLOR(SandyBrown):花山天皇が近習らとともに清涼殿から失踪する。同日退位処理。第66代一条天皇が即位&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|986|7|16|居貞(三条天皇)立太子&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|987|||COLOR(red):フランスにカペー王朝が起こる&size(6){(西欧-フランス、カペー朝-)};||
|987|||フランスにカペー王朝が起こる&size(6){(西欧-フランス、カペー朝-)};||
|987|||フランス、西フランクのカロリング朝断絶、パリ伯ユーグ・カペー即位(~996)&size(6){(西欧-フランス、カペー朝-)};||
|987|||COLOR(red):フランスにカペー王朝が起こる&size(6){(西欧-フランス、カペー朝-)};||
|987|||西フランク王国がフランス王国となる&size(6){(西欧-フランス、ドイツ、イタリア-)};||
|987|||宋の商人朱仁聡来日 諸寺に銭貨の流通祈願&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|987|4|5|寛和から永延(えいえん)(987.4.5-989)に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|988|||キエフ大公ウラジーミル1世、ギリシア正教を受容&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|988|||キエフ公国がギリシャ正教を国教とする&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|988|||尾張の郡司・百姓、国守藤原元命の苛政を訴え&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|989|||藤原元命、尾張守の任を解かれる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|989|8|8|永延から永祚(えいそ)(989.8.8)に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|990|||兼家出家し、長子道隆関白となる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|990|11|7|永祚から正暦(しょうりゃく)(990.11.7-994)に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|991|||円融皇太后詮子出家し、東三条院の女院号に&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|991|2|12|第64代円融天皇崩御33歳&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|991|9|16|一條天皇が皇太后・詮子に「東三條院」の号を宣下。初の女院号&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|992|||中央に国子監設置.地方に郷校設置し儒学など強化&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|992|||COLOR(blue):国子監設置&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|993|||1019年実に数次にわたって、高麗に侵攻してきた。だが、高麗は、これらの侵攻をことごとく撃退してしまうと、やがて、契丹の目は西方に向き、やがて、高麗は安定を取り戻す。&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗、契丹-)};||
|993|||契丹が何度も侵入し、高麗と激しい戦闘を繰り返した。契丹が西に去ると今度は女真が台頭し金を建国した。高麗は、金に朝貢して国内を安定させた。&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗、契丹-)};||
|993|||契丹が高麗に侵攻&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗、契丹-)};||
|993|||契丹の第一次侵攻.高麗国境を襲う.和約を結ぶ&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗、契丹-)};||
|993|||926年、渤海を滅ぼした北方民族契丹(きったん)は、急速に勢力を強め、高麗との国境付近まで版図を広げ、993年から、1019年まで、実に数次にわたって、高麗に侵攻してきた。だが、高麗は、これらの侵攻をことごとく撃退してしまうと、やがて、契丹の目は西方に向き、やがて、高麗は安定を取り戻す。&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗、契丹、震国:渤海-)};||
|995|||疫病流行し、藤原道隆・道兼死去&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|995|||藤原道長が内覧(ないらん)の宣旨(せんじ)を受けて権力が拡大する&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|995|2|22|正暦から長徳(ちょうとく)(995.2.22-998)に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|996|||朝鮮における最初の鋳造貨幣,鉄銭(乾元重宝)の鋳造&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|996|||COLOR(blue):鉄銭(乾元重宝)の鋳造&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|996|||伊周・藤原隆家を左遷道長左大臣&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|996|||藤原定子(一条天皇の皇后)に仕えた清少納言(せいしょうなごん)による日本最古の随筆「枕草子(まくらのそうし)」ができる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|996|4|24|道長と関白の座を争った藤原伊周が、道長の策動により大宰権帥に左遷される&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|997|||北宋・趙氏・・ 真宗&size(6){(--)};||
|997|||奄美島人・薩摩国ら大宰府管内の壱岐・対馬を襲撃&size(6){(対馬)};&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|997|||高麗(朝鮮の一国)使の来日&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|997|||北宋・趙氏・・真宗&size(6){(東アジア-北宋-北宋)};||
|998|||品階(階級)制を布く.王侯貴族,文武臣,僧侶など18科に分ける&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|998|||.大宰府、貴駕島に奄美人追捕を命じる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|998|||COLOR(green):真宗・即位&size(6){(-北宋-)};||
|999|||10世紀後半から再びデーン人のイングランド侵入激化&size(6){(西欧-イギリス-)};||
|999|||10世紀末イベリア半島で国土回復運動(レコンキスタ)盛んとなる&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|999|||10世紀末スウェーデン、統一王国を形成&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|999|||大宰府、奄美人追討のことを朝廷に言上&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|999|||淡路の百姓の訴えにより国守を解任&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|999|5|20|903年に歿した菅原道眞に左大臣と正一位を追贈、北野神社(北野天満宮)を建立&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|999|5|27|長徳から長保(ちょうほう)(999.1.13-1003)に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1000|||スペイン、ナバラ王国のサンチョ3世即位(~1035)&br;このころノルウェー人、アメリカ大陸に達する&br;イタリア、このころベネチア市独立し、アドリア海域をおさえる&br;このころキリスト生誕1000年でキリスト教徒のローマ巡礼盛ん&size(6){(西欧-イタリア-)};||
|1000|||ハンガリー王イシュトバーン1世即位(~1038)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1000|||11世紀初めロシアのキエフ公、全ルーシを統一&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1000|||中宮定子が皇后 女御彰子が中宮となる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1002|||ドイツ、ザクセン朝最後の王ハインリヒ2世、神聖ローマ皇帝に即位(~24)&size(6){(西欧-ドイツ-)};||
|1003|||下総で反乱した平維良、捕らわれる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1004|||宋が契丹と「せん淵の盟」&size(6){(東アジア-宋-)};||
|1004|7|2|長保から寛弘(かんこう)(1004.7.2-1011)に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1005|9|26|安倍晴明歿(陰陽師)<数え85歳>&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1006|||諸寺僧徒の横暴激しくなる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1007|||因幡国の在庁官人・百姓ら愁訴&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1007|||大宰少監大蔵種材、大隈守菅野重忠を殺害&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1008|||尾張国の郡司・百姓ら、国司を訴える&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1008|||紫式部(むらさきしきぶ)による世界最古の恋愛小説「源氏物語」ができる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1008|2|8|第65代花山天皇崩御(41歳)&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1008|9|11|敦成(後一条天皇)生誕&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1009|||COLOR(red):大越が成立&size(6){(アジア-大越-)};||
|1009|||COLOR(red):大越が成立&size(6){(-大越-)};||
|1009|||康兆の政変.武臣の康兆が王権交代を図る.後に契丹に殺される&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1009|||COLOR(blue):康兆の政変&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1009|11|25|敦良(後朱雀天皇)生誕&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1010|||COLOR(red):李朝大越国、成立(~1225)&size(6){(東南アジア-ベトナム、李朝大越国-)};||
|1010|||李朝大越国、成立&size(6){(-大越-)};||
|1010|||COLOR(red):李朝大越国、成立(~1225)&size(6){(-大越-)};||
|1011|||紫式部「源氏物語」なる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1011|||06/13 COLOR(green):第67代 三条天皇&size(6){(日本-日本-)};||
|1011|6|13|COLOR(SandyBrown):第67代三条天皇&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1011|6|13|COLOR(SandyBrown):第66代一条天皇が退位し居貞が第67代三条天皇として即位し敦成(後一条天皇)が立太子&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1011|6|22|第66代一条天皇崩御(32歳)&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1011|10|24|第63代冷泉天皇崩御62歳&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1012|||道長の女妍子、三条天皇の中宮となる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1012|12|15|坂田金時歿&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1012|12|25|寛弘から長和(ちょうわ)(1012.12.25-1016)に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1013|||デーン人の王スベン1世、イングランド王を兼ねる&size(6){(西欧-イギリス-)};||
|1016|||クヌート、イングランド支配(-35)&size(6){(--)};||
|1016|||クヌード大王、イングランド王となる(~1035)&br;イタリア、このころジェノバ、ピサがイスラム教徒との海戦に勝利&size(6){(西欧-イギリス、イタリア-)};||
|1016|||クヌート、イングランド支配(-35)&size(6){(西欧-イギリス、クヌート-)};||
|1016|||藤原道長が摂政となる。藤原道長は3人の娘を皇后に1人を皇太子妃にして権力を拡大した。&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1016|1|29|COLOR(SandyBrown):第68代後一条天皇&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1016|1|29|COLOR(SandyBrown):第067代三条天皇が退位、敦成が第68代後一条天皇として即位&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1016|1|29|01/29 COLOR(green):第68代 後一条天皇&size(6){(日本-日本-)};||
|1016|2|7|COLOR(SandyBrown):第068代後一条天皇即位&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1017|||藤原道長太政大臣となる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1017|4|23|長和から寛仁(かんにん)(1017.4.23-1020)に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1017|5|9|第67代三条天皇崩御42歳&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1017|8|9|敦良(後朱雀天皇)が立太子&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1017|12|4|藤原道長が太政大臣に就任&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1018|||COLOR(red):皇帝バシレイオス2世、ブルガリア王国を滅ぼす&size(6){(西欧-イタリア、ブルガリア、ローマ-)};||
|1018|||ビザンティン帝国、ブルガリアを支配下におく&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1018|||道長の女威子、後一条中宮となる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1019|||COLOR(blue):亀州大捷&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1019|||帰州大捷.契丹軍,開京付近まで侵攻するが,帰州で敗退&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗、契丹-)};||
|1019|||姜邯賛が契丹を破る(亀州の戦い)&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗、契丹-)};||
|1019|||COLOR(blue):亀州大捷&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗、契丹-)};||
|1019|||RIGHT:COLOR(green):刀伊(女真族)の侵入''1019年''&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗、刀伊-)};||
|1019|||刀伊の賊、北九州に來寇&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1019|||刀伊の入寇(といのにゅうこう)-女真族(じょしんぞく)の来襲&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1019|||刀伊の入寇。女真族の賊船約50隻が来襲し、島民36人を殺害。346人を連れ去る。&size(6){(対馬)};&size(6){(日本-日本-)};||
|1019|||刀伊の賊、北九州に來寇&size(6){(日本-日本-)};||
|1019|3|21|藤原道長が出家。無量寿院の造営に着手する&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1019|12|21|藤原道長の長男・頼通が関白に就任&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1020|||南西諸島人が薩摩に来襲&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1021|||天皇、春日社に行幸&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1021|2|2|寛仁から治安(じあん)(1021.2.2-1023)に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1022|||北宋・趙氏・・仁宗&size(6){(東アジア-北宋-北宋)};||
|1022|||北宋・趙氏・・ 仁宗&size(6){(-北宋-)};||
|1022|||COLOR(green):仁宗・即位&size(6){(-北宋-)};||
|1024|||ドイツ、コンラート2世、神聖ローマ皇帝に即位(~1039)。ザリエル朝成立(~1125)&size(6){(西欧-ドイツ-)};||
|1024|||.大宰大監平季基、島津荘を宇治関白頼通に寄進&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1024|7|13|甲子革令の為、治安から万寿(まんじゅ)(1024.7.13-1027)に改元。1028年に長元に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1024|7|13|07/13 万寿(まんじゅ)(1024.7.13-1027)&size(6){(日本-日本-)};||
|1025|||ポーランド王国が建国する&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1025|8|3|後冷泉天皇生誕(親仁親王)(天皇(70代))[1068年歿]&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1026|||伊勢国在庁官人・百姓ら、国守の非法を訴える&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1027|||藤原道長死去&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1028|||クヌード大王、ノルウェーを征服、ノルウェー王となる&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1028|||前上総介平忠常、下総で反乱&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1028|||平忠常の乱(たいらのただつねのらん)房総で平忠常が起こした反乱。源頼信(みなもとのよりのぶ)が鎮圧。&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1028|||前上総介平忠常、下総で反乱&size(6){(日本-日本-)};||
|1028|6|5|平忠常の乱。平忠常が安房の国府を襲い国守・源惟忠を殺害&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1028|7|25|万寿から長元(ちょうげん)(1028.7.25-1036)に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1030|||甲斐守源頼信らに忠常の追討を命ず&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1031|||COLOR(red):後ウマイア朝が衰亡&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1031|||スペインの後ウマイヤ朝滅亡(756~)、小国乱立。キリスト教徒の国土回復運動(レコンキスタ)始まる&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1031|||源頼信、忠常の乱を平定&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1034|||高麗人が大隈国に漂着&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1034|7|18|尊仁(後三条天皇)生誕&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1035|||イングランドのウィリアム1世、ノルマンディー公となる&size(6){(西欧-イギリス-)};||
|1035|||園城寺・延暦寺の僧徒争う&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1036|||04/17 COLOR(green):第69代 後朱雀天皇&size(6){(日本-日本-)};||
|1036|4|17|COLOR(SandyBrown):第69代後朱雀天皇&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1036|4|17|COLOR(SandyBrown):第68代後一条天皇崩御し、弟の敦良が第69代後朱雀天皇として即位&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1037|||COLOR(red):セルジュク朝の成立&size(6){(アジア-、セルジュク朝-)};||
|1037|||COLOR(red):セルジュク朝の成立&size(6){(アジア-、セルジュク朝-)};||
|1037|||興福寺僧徒、東大寺東南院を破壊&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1037|4|21|長元から長暦(ちょうりゃく)(1037.4.21-1039)に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1037|8|17|親仁親王(後冷泉天皇)立太子&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1038|||COLOR(red):ペルシアにセルジューク朝、成立(~1157)&size(6){(アジア-ペルシア、セルジューク朝-)};||
|1038|||COLOR(red):ペルシアにセルジューク朝、成立(~1157)&size(6){(-ペルシア、セルジューク朝-)};||
|1038|||COLOR(red):西夏の建国&size(6){(東アジア-西夏-西夏)};||
|1038|||COLOR(red):西夏の建国(~1227年)&size(6){(-西夏-)};||
|1038|||延暦寺の僧徒が強訴&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1040|||長久の荘園整理令京中放火頻発&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1040|||長久の荘園整理令 京中放火頻発&size(6){(日本-日本-)};||
|1040|11|1|長暦から長久(ちょうきゅう)(1040.11.1-1043)に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1042|||イングランドのアングロ・サクソン系のエドワード(懺悔王)即位(~66)&size(6){(西欧-イギリス-)};||
|1042|||セルビア、ビザンティン帝国より独立(第一セルビア王国)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1044|||宋の商人張守隆ら、但馬に漂着&size(6){(--)};||
|1044|||COLOR(red):ビルマにパガン朝が成立&size(6){(--)};||
|1044|||COLOR(red):ビルマにパガン朝が成立&size(6){(アジア-ビルマ-)};||
|1044|||イタリア、ミラノの自治都市成立&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1044|||宋の商人張守隆ら、但馬に漂着&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1044|11|24|長久から寛徳(かんとく)(1044.11.24-1045)に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1045|||前任国司以後の新立荘園を停止&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1045|||寛徳の荘園整理令&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1045|1|16|COLOR(SandyBrown):第70代後冷泉天皇&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1045|1|16|COLOR(green):第70代 後冷泉天皇&size(6){(日本-日本-)};||
|1045|2|27|第69代後朱雀天皇が崩御&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1045|12|12|COLOR(SandyBrown):第70代後冷泉天皇が即位し尊仁(後三条天皇)が立太子&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1046|||ドイツのハインリヒ3世、イタリア遠征&size(6){(西欧-ドイツ-)};||
|1046|4|14|寛徳から永承(えいしょう)(1046.4.14-1052)に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1047|||筑前国の清原守武、入宋する罪で佐渡流刑&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1047|4|17|源頼信歿&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1050|||周王朝による華北の統一&size(6){(--)};||
|1050|||陸奥守・秋田城介が浮囚安部頼時と戦い敗れる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1051|||11世紀半ばごろエドワード(懺悔王)、ウェストミンスター寺院建立開始&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1051|||前九年の役(→1062)&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1051|||前九年の役東北地方での安倍頼時(豪族)と源頼義・清原武則(官軍)の争い。安倍氏が滅亡する。-1062&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1051|||-1062前九年の役。東北地方での安倍頼時(豪族)と源頼義・清原武則(官軍)の争い。安倍氏が滅亡する。&size(6){(日本-日本-)};||
|1052|||藤原頼通が平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)を建立&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1052|3|28|藤原頼通が宇治の別荘を平等院と命名&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1053|||宇治平等院鳳凰堂建立&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1053|1|11|永承から天喜(てんき)(1053.1.11-1057)に改元。&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1053|6|19|貞仁親王(白河天皇)生誕&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1054|||ギリシア・ローマの両教会が完全に分裂&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};||
|1054|||東西両教会分離&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};||
|1054|||ローマ教皇(法王)、コンスタンティノープル総主教を破門、東西教会の決定的分裂&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1054|||東西教会の分裂-東方正教会(ギリシャ正教)カトリック(ローマ)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1055|||寛徳2年以後の新立荘園を停止&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1056|||ドイツ、ハインリヒ4世即位(~1106)&size(6){(西欧-ドイツ-)};||
|1057|||源頼義、安部頼時を討つ&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1058|8|29|天喜から康平(こうへい)(1058.8.29-1064)に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1059|||南イタリアのノルマン人、ローマ教皇(法王)と主従関係締結&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1059|||菅原孝標(すがわらのたかすえ)の娘により回想録「更級日記」ができる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1061|||ノルマン人のシチリア島征服開始&br;このころ都市にギルド結成盛んとなる&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1062|||出羽の俘囚清原武則、源頼義の要請で陸奥へ&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1063|||北宋・趙氏・・ 英宗&size(6){(--)};||
|1063|||源頼義伊予守、義家出羽守鎮守府将軍に&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1063|||源頼義が鎌倉に鶴岡八幡宮を建立&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1063|||北宋・趙氏・・英宗&size(6){(東アジア-北宋-北宋)};||
|1064|||COLOR(green):英宗・即位&size(6){(--)};||
|1065|||新立の荘園を停止&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1065|8|2|三合の厄を避ける為康平から治暦(じりゃく)(1065.8.2-1068)に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1066|||COLOR(red):イギリスにノルマン朝が成立&size(6){(西欧-イギリス-)};||
|1066|||ノルマンジーがイングランドを征服&size(6){(西欧-イギリス-)};||
|1066|||ノルマン人のイングランド征服。ノルマンディー公ウィリアム、イングランド王(ウィリアム1世)に即位し、ノルマン朝(~1154)成立&size(6){(西欧-イギリス-)};||
|1066|||ノルマン・コンクエスト。ノルマンディー公によるイングランドの征服後、ウィリアム1世として即位する。(現在のイギリス王室との関係性は不明)&size(6){(西欧-イギリス-)};||
|1066|||COLOR(red):イギリスにノルマン朝が成立&size(6){(西欧-イギリス-)};||
|1066|||ノルマンジーがイングランドを征服&size(6){(西欧-イギリス-)};||
|1066|||ノルマンジーがイングランドを征服&size(6){(西欧-イギリス、ノルマンジー-)};||
|1067|||北宋・趙氏・・神宗&size(6){(東アジア-北宋-北宋)};||
|1067|||北宋・趙氏・・ 神宗&size(6){(東アジア-北宋-)};||
|1068|||COLOR(SandyBrown):後三条天皇が即位する(親政に戻り藤原氏の摂関時代の終焉となる)&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1068|||04/19 COLOR(green):第71代 後三条天皇&size(6){(日本-日本-)};||
|1068|||COLOR(green):神宗・即位&size(6){(東アジア-北宋-)};||
|1068|4|19|COLOR(SandyBrown):第71代後三条天皇&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1068|4|19|COLOR(SandyBrown):第70代後冷泉天皇が崩御し第71代後三条天皇(尊仁)が即位&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1069|||王安石の改革&size(6){(東アジア-宋-)};||
|1069|||宋の王安石が新法を開始&size(6){(東アジア-宋-)};||
|1069|||後三条天皇はじめて記録荘園券契所(記録所)を設置&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1069|||延久の荘園整理令(記録荘園券契所の設置)&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1069|4|13|治暦から延久(えんきゅう)(1069.4.13-1073)に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1069|4|28|貞仁親王(白河天皇)が立太子&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1071|||ウィリアム1世、ほぼ全イングランドを征服&size(6){(西欧-イギリス-)};||
|1072|||估価法(物資交換の換算率)を定める&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1072|9|29|後三條天皇が「量衡の制」を制定。年貢などを測る基準となる公定の枡を定める&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1072|12|8|COLOR(SandyBrown):第72代白河天皇&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1072|12|8|12/08 COLOR(green):第72代 白河天皇&size(6){(日本-日本-)};||
|1073|||グレゴリウス7世、ローマ教皇(法王)となる(~1085)。ローマ教皇権の最盛期&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1073|||院蔵入所を置く&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1073|5|7|第71代後三条天皇崩御&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1073|12|8|COLOR(SandyBrown):第71代後三条天皇が退位し貞仁親王が第72代白河天皇として即位&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1074|8|23|延久から承保(じょうほう)(1074.8.23-1076)に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1075|||聖職叙任権闘争開始(~1122)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1075|||グレゴリウス改革-教皇による叙任権、綱紀粛正の改革&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1075|||延暦寺・園城寺の僧徒が抗争&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1076|||ドイツ(神聖ローマ)皇帝ハインリヒ4世が教皇グレゴリウス7世の廃位を宣言、教皇は皇帝を破門&size(6){(西欧-ドイツ-)};||
|1076|||田柴科改定,官制改革.文武官僚の地位にしたがって柴地を与える&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1076|||COLOR(blue):田柴科改定、官制改革&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1077|||宋帝に返書・信物を贈る&size(6){(--)};||
|1077|||カノッサの屈辱~ドイツ皇帝がローマ法王に屈伏&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};||
|1077|||カノッサの屈辱(ドイツ皇帝がローマ法王に屈伏)&size(6){(西欧-ドイツ-)};||
|1077|||カノッサの屈辱 ~ドイツ皇帝がローマ法王に屈伏&size(6){(西欧-ドイツ-)};||
|1077|||カノッサの屈辱(教皇権の伸長)&size(6){(西欧-ドイツ-)};||
|1077|||カノッサの屈辱(教皇権の伸長)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1077|||ハインリヒ4世、教皇グレゴリウス7世に赦免を請う〔カノッサ事件〕&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1077|||カノッサの屈辱。神聖ローマ帝国の皇帝ハイリンヒ4世が雪の中、カノッサ城の門前で三日間立ち尽くして教皇に破門の解除を請う。&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1077|||宋帝に返書・信物を贈る&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1077|11|17|承保から承暦(じょうりゃく)(1077.11.17-1080)に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1078|||宋商孫忠、宋の牒状を携え大宰府に来着&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1079|||延暦寺の僧徒強訴&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1079|7|9|善仁(堀河天皇)生誕&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1080|||高麗使来日(以後、高麗と国交絶える)&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1081|||ビザンティン帝国にコムネノス朝成立(~1185)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1081|||延暦寺の僧徒、園城寺を襲い、これを焼く&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1081|2|1|承暦から永保(えいほ)(1081.2.1-1083)に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1082|||ベネチア人、ビザンティン帝国での商業上の特権を付与される&size(6){(西欧-イタリア-)};||
|1082|||熊野の僧徒、上京して強訴&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1083|||後三年の役(→1087)&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1083|||後三年の役東北地方での清原氏と源義家・清原清衡(ふじわらのきよひら)の争いで源義家が勝利する。清原清衡は藤原清衡となり奥州藤原氏の祖となる。-1087&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1083|||-1087後三年の役。東北地方での清原氏と源義家・清原清衡(ふじわらのきよひら)の争いで源義家が勝利する。清原清衡は藤原清衡となり奥州藤原氏の祖となる。&size(6){(日本-日本-)};||
|1084|2|7|永保から応徳(おうとく)(1084.2.7-1086)に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1085|||スペインのカスティーリャ王国、トレドを奪回&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1085|||北宋・趙氏・・哲宗&size(6){(東アジア-北宋-北宋)};||
|1085|||北宋・趙氏・・ 哲宗&size(6){(-北宋-)};||
|1086|||イングランド、ドゥームズデー・ブック編纂&size(6){(西欧-イギリス-)};||
|1086|||義天,教蔵都監を設置して「続蔵経」を組み版&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1086|||COLOR(blue):義天、教蔵都監を%%設置して%%置き「続蔵経」を%%組み版%%刻む&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1086|||院政の開始(白河上皇)&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1086|||白河天皇が上皇となり院政を開始(院政のはじまり)&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1086|||11/26 COLOR(green):第73代 堀河天皇&size(6){(日本-日本-)};||
|1086|||COLOR(green):哲宗・即位&size(6){(-北宋-)};||
|1086|9|16|藤原通俊が『後拾遺和歌集』を撰進&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1086|11|26|COLOR(SandyBrown):第73代堀河天皇&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1086|11|26|COLOR(SandyBrown):第72代白河天皇が退位し、善仁親王が第73代堀河天皇として即位&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1087|||「高麗大蔵経」完成&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1087|||後三年の役終わる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1087|4|7|応徳から寛治(かんじ)(1087.4.7-1093)に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1088|||イタリア、ヨーロッパ最古のボローニャ大学創立&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1091|||源義家への荘園の寄進を禁ず&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1092|||義家の立てた荘園を停止&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1093|||興福寺僧徒、春日社の神木を奉じて入京&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1094|||藤原伊房、遼と私貿易をおこなった罪で処罰&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1094|12|15|寛治から嘉保(かほう)(1094.12.15-1095)に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1095|||クレルモン宗教会議&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1095|||クレルモン公会議。教皇ウルバヌス2世、第1回十字軍の発進(1096)を訴う&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1095|||クレルモン教会会議-教皇ウルバヌス2世が行った十字軍の宣言&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1095|||延暦寺僧徒、日吉神輿を奉じて入京&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1095|||白河上皇が北面武士を設置する&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1096|||第1回十字軍(~1099)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1096|||BGCOLOR(#EEEEEE):十字軍。約180年の間に7回遠征する。聖地エルサレムをイスラム教から奪還する目的。セルジューク朝から奪回してエルサレム王国を建国するが、アイユーブ朝のサラディンに奪われる。(最終的に十字軍は失敗)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1096|||永長&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1096|||白河上皇、出家する&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1096|||白河上皇が出家して白河法皇となる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1096|12|17|嘉保から永長(えいちょう)(1096.12.17)に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1097|||ホラズムの成立&size(6){(アジア--)};||
|1097|||COLOR(red):ホラズムの成立&size(6){(--)};||
|1097|||鋳銭都監設置.災害などの貧民救済に備える&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1097|||COLOR(blue):鋳銭都監設置&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1097|||平正盛、伊賀国の私領を六条に寄進&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1097|11|21|永長から承徳(じょうとく)(1097.11.21-1098)に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1098|||源義家、院の昇殿許される&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1099|||COLOR(red):十字軍がエルサレム王国を建てる&size(6){(--)};||
|1099|||COLOR(red):十字軍がエルサレム王国を建設&size(6){(アジア--)};||
|1099|||十字軍がエルサレム王国を建てる&size(6){(--)};||
|1099|||COLOR(red):十字軍がエルサレム王国を建設&size(6){(--)};||
|1099|||第1回十字軍、エルサレム王国を建設(~1187)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1099|||白河法皇、仁和寺寛行を親王とする&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1099|8|28|承徳から康和(こうわ)(1099.8.28-1103)に改元。&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1100|||北宋・趙氏・・ 徽宗&size(6){(--)};||
|1100|||錬金術、ヨーロッパに伝わる&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1100|>|>|''グスク時代(12世紀-14世紀)''&size(6){(日本-日本-)};||
|1100|||源平合戦&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1100|||北宋・趙氏・・徽宗&size(6){(東アジア-北宋-北宋)};||
|1101|||12世紀ころ南アメリカの中央アンデス地方にインカ帝国成立&size(6){(中南米-インカ帝国-)};||
|1101|||ノルウェー・デンマーク・スウェーデンの3国王の不可侵条約&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1101|||義家の子源義親、九州を荒らし、追討使派遣&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1101|||12世紀宗氏の祖、惟宗氏の対馬入国。&size(6){(対馬)};&size(6){(日本-日本-)};||
|1101|||COLOR(green):徽宗・即位&size(6){(-北宋-)};||
|1102|||海東通宝鋳造.農業中心社会のため広く流通せず&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1102|||COLOR(blue):海東通宝鋳造&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1102|||源義親を壱岐に流す&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1103|8|6|宗仁(鳥羽天皇)生誕&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1103|8|17|宗仁(鳥羽天皇)立太子&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1104|2|1|康和から長治(ちょうじ)(1104.2.1-1105)に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1105|||宋商人、筑前博多に来航 延暦寺僧徒ら藤原季仲を強訴&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1105|||藤原清衡が中尊寺を建立(金色堂-こんじきどう)&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1106|||イギリスのヘンリー1世、ノルマンディーを支配&size(6){(西欧-イギリス-)};||
|1106|4|9|奇星出現の為、長治から嘉承(かしょう)(1106.4.9-1107)に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1107|||COLOR(blue):尹グァン、女真征伐&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗、女真-)};||
|1107|||尹グァン,別武班を率いて女真征伐&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗、女真-)};||
|1107|||COLOR(blue):尹權、女真征伐&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗、女真-)};||
|1107|||流人源義親、出雲に逃れて反す&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1107|7|19|COLOR(SandyBrown):第74代鳥羽天皇&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1107|7|19|COLOR(SandyBrown):第73代堀河天皇崩御し、宗仁親王が第74代鳥羽天皇として即位&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1107|7|19|07/19 COLOR(green):第74代 鳥羽天皇&size(6){(日本-日本-)};||
|1108|||フランス、ルイ6世即位(~1137)、カペー朝隆盛期&size(6){(西欧-フランス-)};||
|1108|||平正盛、源義親を討つ浅間山噴火新立荘園を停止&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1108|||源義親の乱(源義親が略奪、乱暴を働いた為、平正盛に討たれた)&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1108|8|3|嘉承から天仁(てんにん)(1108.8.3-1109)に改元。1110年に天永に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1109|||スコラ哲学の創始者(アンセルムス)の死&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1109|||スコラ哲学の祖アンセルムス没(1033~)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1109|||スコラ哲学の創始者(アンセルムス)の死&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1110|7|13|天永に改元。1113年に天永(てんえい)(1110.7.13-1112)に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1111|||延久の荘園整理令にならい、記録荘園券契所を開設&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1113|||ヨハネ騎士修道会創設&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1113|||延暦・興福僧徒、清水寺別当補任で激突、狼藉を繰り返す&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1113|7|13|永久に改元。1118年に永久(えいきゅう)(1113.7.13-1117)に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1114|||延暦寺僧徒の武装を禁ず&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1115|||太祖(阿骨打、完顔旻)&size(6){(--)};||
|1115|||イタリアでこのころフィレンツェに自治都市(コムーネ)成立&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1115|||中国東北部に金が建国&size(6){(-金-)};||
|1115|||女真族の国家。遼を滅ぼした後、宋にも攻め込み長江以北を支配しました。&size(6){(-金-)};||
|1115|||金(女真)の建国&size(6){(-金-)};||
|1115|||金・完顔氏・・ 太祖&size(6){(-金-)};||
|1115|||中国東北部に金が建国&size(6){(-金-)};||
|1115|||COLOR(red):金(1115-1234)&size(6){(-金-)};||
|1115|||COLOR(red):金(女真)の建国&size(6){(東アジア-中国、金-金)};||
|1115|||金・完顔氏・・太祖&size(6){(東アジア-中国、金-金)};||
|1115|||太祖(阿骨打、完顔旻)&size(6){(東アジア-中国、金-金)};||
|1115|||COLOR(red):中国東北部に金が建国&size(6){(東アジア-中国、金-金)};||
|1116|||宋の牒状来る&size(6){(--)};||
|1116|||フィロメリオンの勝利&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};||
|1116|||フィロメリオンの勝利&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};||
|1116|||宋の牒状来る&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1118|||スペイン、アラゴン王国がイスラムの拠点サラゴサを占領&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1118|||テンプル騎士修道会創設&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1118|4|3|元永(げんえい)(1118.4.3-1119)&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1119|||このころ大学ができはじめる&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1119|||上野国の荘園5000町歩停止&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1119|5|28|顕仁(崇徳天皇)生誕&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1120|||COLOR(red):クメル王国がアンコール=ワットを建設&size(6){(アジア--)};||
|1120|||COLOR(red):クメル王国がアンコール=ワットを建設&size(6){(--)};||
|1120|||イタリア、ローマ法の研究復活&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1120|||延暦・園城両寺僧徒の濫行禁止の院宣&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1120|||04/01 保安(ほうあん)(1120.4.1-1123)&size(6){(日本-日本-)};||
|1120|4|1|保安(ほうあん)(1120.4.1-1123)&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1122|||(聖職任免権の教皇優位を決定)&size(6){(--)};||
|1122|||ベチェネグ人撃退&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};||
|1122|||(聖職任免権の教皇優位を決定)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1122|||ウォルムスの協約&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1122|||ウォルムス協約で、皇帝ハインリヒ5世、教皇カリクストゥス2世に譲歩し、聖職叙任権闘争一段落&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1122|||ヴォルムス協約-皇帝ハインリヒ5世は叙任権を放棄&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1123|||金・完顔氏・・ 太宗&size(6){(--)};||
|1123|||太宗(呉乞買、完顔晟)&size(6){(--)};||
|1123|||金・完顔氏・・太宗&size(6){(東アジア-中国、金-金)};||
|1123|||太宗(呉乞買、完顔晟)&size(6){(東アジア-中国、金-金)};||
|1123|||延暦寺の僧徒、日吉社の神輿を奉じて入京平忠盛ら防ぐ&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1123|||01/28 COLOR(green):第75代 崇徳天皇&size(6){(日本-日本-)};||
|1123|1|28|COLOR(SandyBrown):第75代崇徳天皇&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1123|1|28|COLOR(SandyBrown):第74代鳥羽天皇が退位し、第75代崇徳天皇が即位&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1124|||僧良忍、融通念仏をはじめる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1124|4|3|保安から天治(てんじ)(1124.4.3-1125)に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1124|11|24|鳥羽天皇の后・中宮璋子に院号宣下。待賢門院に&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1125|||金が遼を滅ぼす&size(6){(--)};||
|1125|||北宋・趙氏・・ 欽宗&size(6){(--)};||
|1125|||金が遼を滅ぼす&size(6){(--)};||
|1125|||京都大火 殺生厳禁を命ず&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1125|||北宋・趙氏・・欽宗&size(6){(東アジア-北宋-北宋)};||
|1125|||金が遼を滅ぼす&size(6){(東アジア-遼、金-)};||
|1126|||靖康の変(-27)&size(6){(アジア--)};||
|1126|||藤原清衡、中尊寺建立&size(6){(--)};||
|1126|||靖康の変(-27)&size(6){(--)};||
|1126|||COLOR(green):欽宗・即位&size(6){(--)};||
|1126|>|>|''1126年~1234年:金(属国)''&size(6){(よいこの正しい半島歴史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮-)};||
|1126|||COLOR(blue):李資謙の乱&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1126|||李資謙の乱.門閥社会が進んだ結果の権力争い&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1126|||COLOR(blue):李資謙の乱&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1126|||藤原清衡、中尊寺建立&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1126|1|22|元治から大治(だいじ)(1126.1.22-1130)へ改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1127|||長江以北を金に奪われたものの、南方で皇族の趙構が建国。&size(6){(-、金-)};||
|1127|||宋が金の侵攻で南渡(南宋)&size(6){(-金、宋-)};||
|1127|||チンギス・ハーン率いるモンゴル民族は瞬く間に金を滅ぼし、その勢いで南宋も滅ぼしてしまいました。元の占領後は漢民族はモンゴル民族中心の差別政策に苦しみます。&size(6){(-金、南宋、モンゴル-)};||
|1127|||高宗(趙構)&size(6){(東アジア-宋-)};||
|1127|||宋が金の侵攻で南渡(南宋)(~1279)&size(6){(東アジア-宋、金-)};||
|1127|||南宋・趙氏・・高宗&size(6){(東アジア-宋、南宋-)};||
|1127|||地方郡県に国立の儒学校,郷校設立&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1127|||南宋・趙氏・・ 高宗&size(6){(-南宋-)};||
|1127|||高宗(趙構)&size(6){(-南宋-)};||
|1127|||COLOR(green):高宗・即位&size(6){(-南宋-)};||
|1127|||南宋(1127-1279)&size(6){(-南宋-)};||
|1127|||宋が金の侵攻で南渡(南宋)(~1279)&size(6){(東アジア-南宋、金-)};||
|1127|||大治の荘園停止令&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1127|||COLOR(red):北宋が滅亡、南宋の成立&size(6){(東アジア-北宋-北宋)};||
|1127|||COLOR(red):北宋が滅亡、南宋の成立&size(6){(-北宋、南宋-)};||
|1127|9|11|雅仁(後白河天皇)生誕&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1129|||李資謙の乱が起こる&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1129|||鳥羽上皇の院政開始平忠盛、海賊を追捕&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1129|||鳥羽上皇の院政が開始する&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1129|7|7|第72代白河天皇(白河上皇)崩御&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1130|||イタリアにナポリ王国が成立&size(6){(--)};||
|1130|||COLOR(red):イタリアにナポリ王国が成立&size(6){(--)};||
|1130|||COLOR(red):両シチリア王国の成立&size(6){(--)};||
|1130|||COLOR(red):イタリアにナポリ王国が成立&size(6){(西欧-イタリア、ナポリ王国-)};||
|1130|||COLOR(red):両シチリア王国の成立&size(6){(西欧-イタリア、両シチリア王国-)};||
|1130|||イタリア、ノルマンのルッジェーロ2世により、シチリア王国成立&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1131|1|29|天承(てんじょう)(1131.1.29)&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1132|||COLOR(red):西遼(カラ=キタイ)の成立&size(6){(東アジア-西遼、カラ=キタイ-)};||
|1132|||COLOR(red):西遼(カラ=キタイ)の成立&size(6){(-西遼、カラ=キタイ-)};||
|1132|||平忠盛、昇殿を許される&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1132|8|11|長承長承(ちょうじょう)(1132.8.11-1134)に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1133|||宋の商船來着、平忠盛院宣と称してその貨物を収む&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1133|4|7|法然生誕&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1135|||金・完顔氏・・ 煕宗&size(6){(--)};||
|1135|||熙宗(合剌、完顔亶)&size(6){(--)};||
|1135|||金・完顔氏・・煕宗&size(6){(東アジア-中国、金-金)};||
|1135|||熙宗(合剌、完顔亶)&size(6){(東アジア-中国、金-金)};||
|1135|||COLOR(blue):西京遷都運動&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1135|||妙清の西京遷都運動.金富軾の官軍に鎮圧される&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1135|||妙清の乱が起こる&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1135|||COLOR(blue):妙清の西京遷都運動&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1135|||平忠盛、海賊の首領を捕らえた功で子清盛従四位下に叙す&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1135|4|27|長承から保延(ほうえん)(1135.4.27-1140)に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1135|8|21|平忠盛の海賊追討の功により、忠盛の子・清盛が従四位下に叙せられる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1137|||興福寺僧徒、春日神木を奉じて入京強訴&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1138|||コンラート3世、神聖ローマ皇帝となり(~1152)、ホーエンシュタウフェン朝(~1208、1215~1254)成立&br;ドイツでこのころウェルフ家とホーエンシュタウフェン家の対立激化&size(6){(西欧-ドイツ-)};||
|1138|||アラゴン王国、バルセロナ伯領を併合&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1138|||阿多郡司、平忠景、私領を祈祷料として観音寺に寄進&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1138|||京都大火&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1139|||ポルトガル王国が建国する&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1139|5|18|体仁(近衛天皇)生誕&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1139|8|17|体仁(近衛天皇)立太子・・・生後3ヶ月&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1140|10|15|鳥羽上皇の北面の武士・佐藤義清が出家し西行と名乗る&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1141|||鳥羽上皇、出家する崇徳天皇法王の意で近衛天皇に譲位&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1141|||12/07 COLOR(green):第76代 近衛天皇&size(6){(日本-日本-)};||
|1141|7|1|辛酉革命により永治(えいじ)(1141.7.1)に改元。1142年に康治に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1141|12|7|COLOR(SandyBrown):第75代崇徳天皇が退位し、わずか2歳の体仁親王が第76代近衛天皇として即位&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1142|||紹興の和議 ~宋と金の和議&size(6){(--)};||
|1142|||フランスのスコラ哲学者アベラール没(1079~)&size(6){(西欧-フランス-)};||
|1142|||紹興の和議~宋と金の和議&size(6){(東アジア-宋、金-)};||
|1142|4|28|康治(こうじ)(1142.4.28-1143)&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1143|||ドイツ、リューベック市建設される&size(6){(西欧-ドイツ-)};||
|1143|||COLOR(red):ポルトガル王国が成立&size(6){(西欧-ポルトガル-)};||
|1143|||COLOR(red):ポルトガル王国が成立&size(6){(西欧-ポルトガル、ポルトガル王国-)};||
|1143|||ポルトガル王国成立&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1143|||源為義、内大臣藤原頼長に臣従する&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1143|6|18|守仁(二条天皇)生誕&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1144|2|23|天養(てんよう)(1144.2.23)&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1145|||COLOR(blue):金富軾「三国史記」編纂&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1145|7|22|久安(きゅうあん)(1145.7.22-1150)に改元。&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1146|||第四代国王世宗がハングル(訓民正音)を制定するも集賢殿の副提学であった雀萬理は昔から、中華の土地では風土が異なってる方言を文字にした例はないと批判。これに対し世宗は「これは文字ではないので中華に対しての反逆ではない。訓民正音である。」訓民正音とは愚かな民に発音を教える記号。&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1146|||平清盛、正四位下に叙し、安芸守となる京都大火&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1147|||第2回十字軍(~1149)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1147|||第2回十字軍開始(~1149)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1147|||ポルトガル王国がリスボンを占領&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1147|||第2回十字軍(~1149)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1147|||同性婚,近親婚を禁止&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1148|5|15|橘寺が落雷による火災で五重塔を失う。&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1149|||海陵王(迪古乃、完顔亮)&size(6){(東アジア-中国、金-金)};||
|1149|||金・完顔氏・・廃帝海陵王&size(6){(東アジア-中国、金-金)};||
|1149|||海陵王(迪古乃、完顔亮)&size(6){(東アジア-中国、金-)};||
|1149|||金・完顔氏・・ 廃帝 海陵王&size(6){(東アジア-中国、金-)};||
|1150|||カンボジアでアンコール・ワット建設&size(6){(東南アジア-カンボジア-)};||
|1150|||このころ宋で火薬の発明&size(6){(東アジア-宋-)};||
|1150|||左大臣藤原頼長、氏長者となり、兄忠通と不和&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1151|||藤原頼長、内覧となる関白忠通、鳥羽上皇に讒訴&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1151|1|26|仁平(にんぴょう)(1151.1.26-1154)に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1152|||ドイツ、フリードリヒ1世(バルバロッサ)即位(~1190)&size(6){(西欧-ドイツ-)};||
|1154|||COLOR(red):イギリス、プランタジネット朝成立&size(6){(西欧-イギリス-)};||
|1154|||イギリス、ヘンリー2世即位(~1189)、プランタジネット朝始まる(~1399)&size(6){(西欧-イギリス-)};||
|1154|||COLOR(red):英、プランタジネット朝成立(欧州-英-平安時代)&size(6){(西欧-イギリス-)};||
|1154|||源為朝、九州で乱行、父為義、官を解かれる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1154|10|28|久寿(きゅうじゅ)(1154.10.28-1155)&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1155|||後白河天皇即位、頼長の内覧を止める 諸国飢饉&size(6){(日本-日本-)};||
|1155|||07/24 COLOR(green):第77代 後白河天皇&size(6){(日本-日本-)};||
|1155|7|23|COLOR(SandyBrown):近衛天皇(体仁親王)の崩御(天皇(76代))<数え17歳>に伴い雅仁親王が第77代後白河天皇として即位&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1155|7|24|COLOR(SandyBrown):第77代後白河天皇即位、頼長の内覧を止める諸国飢饉&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1155|9|23|守仁親王(二条天皇)が立太子&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1156|||オストマルク、オーストリア大公領に&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1156|||COLOR(green):保元の乱''1156年''&size(6){(日本-日本-)};||
|1156|||保元の乱(ほうげんのらん)後白河天皇(源義朝・平清盛)と崇徳上皇(源為義・平忠正)の政権争い。後白河天皇の勝利。&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1156|4|27|保元(ほうげん)に改元(1156.4.27-1158)&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1156|7|2|第74代鳥羽天皇崩御54歳&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1156|7|11|保元の乱。平清盛・源義朝らが崇徳上皇らの蘢る白河御所を夜襲し上皇方が敗退&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1156|8|26|保元の乱で敗れた源為朝が捕えられ伊豆大島に流される&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1158|||フリードリヒ1世、ロンバルディア諸都市と戦う&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1158|||後白河上皇の院政始まる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1158|||後白河天皇の院政が開始する&size(6){(日本-日本-)};||
|1158|8|11|COLOR(SandyBrown):第78代二条天皇&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1158|8|11|第77代後白河天皇が退位。上皇となって院政を開始&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1158|8|11|08/11 COLOR(green):第78代 二条天皇&size(6){(日本-日本-)};||
|1158|12|20|COLOR(SandyBrown):後白河上皇の子・守仁親王が即位して第78代天皇・二条天皇となる。&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1159|||RIGHT:COLOR(green):平治の乱''1159年''&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1159|||鎌倉&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1159|||平治の乱(へいじのらん)源義朝の内乱、源義朝は平清盛に討たれる。源頼朝は伊豆に流刑。この頃には平清盛を礎とする平氏一族が台頭する。&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1159|||平治の乱&size(6){(日本-日本-)};||
|1159|4|2|保元から平治(へいじ)(1159.4.2)に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1159|12|4|平清盛が熊野に参詣。留守中に源義朝らが挙兵を計画&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1159|12|9|藤原信頼・源義朝らが後白河上皇の御所を襲撃し二条天皇を幽閉。平治の乱が始る&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1159|12|27|藤原信頼死去、平治の乱で敗れ斬首&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1160|||宋で会紙(紙幣)を発行&size(6){(東アジア-宋-)};||
|1160|||源義朝・義兵殺される源頼朝伊豆に流される&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1160|||清盛正三位&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1160|||源義朝・義兵殺される 源頼朝伊豆に流される&size(6){(日本-日本-)};||
|1160|||清盛正三位&size(6){(日本-日本-)};||
|1160|1|1|永暦(えいりゃく)(1160.1.1)&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1160|2|9|平治の乱に敗れた源頼朝が、平頼盛の従者・平宗清に捕われる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1160|2|9|保元から永暦に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1160|3|11|平治の乱に敗れた源頼朝が伊豆に流される&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1161|||金・完顔氏・・世宗&size(6){(東アジア-中国、金-金)};||
|1161|||世宗(烏禄、完顔雍)&size(6){(東アジア-中国、金-金)};||
|1161|||金・完顔氏・・ 世宗&size(6){(東アジア-中国、金-)};||
|1161|||世宗(烏禄、完顔雍)&size(6){(東アジア-中国、金-)};||
|1161|||平忠景貴海島に逐電 平家貞、忠景追討ならず&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1161|9|3|憲仁(高倉天皇)生誕&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1161|9|4|応保(おうほ)(1161.9.4-1162)&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1162|||孝宗(趙シン)&size(6){(東アジア-宋-)};||
|1162|||南宋・趙氏・・孝宗&size(6){(東アジア-宋-)};||
|1163|||パリのノートル・ダム大聖堂建立開始(~1250ころ)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1163|||COLOR(green):孝宗・即位&size(6){(東アジア-宋-)};||
|1163|3|29|長寛(ちょうかん)(1163.3.29-1164)&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1164|||平家納経(平清盛が厳島神社に33巻の経典を奉納する)&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1164|8|26|第75代崇徳天皇崩御&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1164|11|14|順仁(六条天皇)生誕&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1164|12|17|後白河上皇が、平清盛に造営させた蓮華王院(三十三間堂)の落慶法要を行う&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1165|||06/25 COLOR(green):第79代 六条天皇&size(6){(日本-日本-)};||
|1165|6|5|永万(えいまん)(1165.6.5)&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1165|6|25|COLOR(SandyBrown):第79代六条天皇&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1165|6|25|COLOR(SandyBrown):第78代二条天皇が退位し息子の順仁親王が第79代六条天皇として即位&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1165|7|27|COLOR(SandyBrown):二條天皇の子・順仁親王が即位し第79代天皇・六條天皇に&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1165|7|28|第78代二条天皇が崩御&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1166|8|27|仁安(にんあん)(1166.8.27-1169)に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1166|10|10|憲仁親王(高倉天皇)立太子&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1167|||イタリアでロンバルディア同盟結成&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1167|||平清盛太政大臣となる平家全盛に向かう&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1167|||RIGHT:COLOR(green):平氏の全盛、平清盛太政大臣になる&size(6){(日本-日本-)};||
|1167|||平清盛が武士で初の太政大臣となる日宋貿易(にっそうぼうえき)が盛んになる。平時忠「平家にあらずんば人にあらず」と発言する。&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1167|2|11|平清盛が、左・右大臣を経ずに一挙に太政大臣に就任。&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1168|||イギリス、オックスフォード大学創立&size(6){(西欧-イギリス-)};||
|1168|||ダルマティア併合&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};||
|1168|||清盛病により出家する 京都大火&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1168|||02/19 COLOR(green):第80代 高倉天皇&size(6){(日本-日本-)};||
|1168|2|19|COLOR(SandyBrown):第80代高倉天皇&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1168|2|19|COLOR(SandyBrown):わずか3歳の六条天皇が後白河上皇に退位させられ、上皇の息子憲仁が第80代高倉天皇として即位。&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1169|||朱子、宋学を大成(朱子学)&size(6){(--)};||
|1169|||セルビア人独立&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};||
|1169|||アイユーブ朝&size(6){(-エジブト-)};||
|1169|||ロシア、スズダリ公国キエフを襲う。キエフ大公国衰退&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1169|||後白河上皇、出家する&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1169|4|8|仁安から嘉応(かおう)(1169.4.8-1170)に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1170|||COLOR(blue):武臣政変&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1170|||鄭仲夫ら武臣が政権を奪取&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1170|||武臣政変.文臣中心から武臣政権になり,権力争い起こる&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1170|||COLOR(blue):武臣政変&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1170|||藤原秀衝、鎮守府将軍となる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1170|5|25|奥州の藤原秀衡が朝廷から鎮守府将軍に任命される&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1171|||ファーチマ朝滅亡&size(6){(--)};||
|1171|||外国人排斥運動&size(6){(--)};||
|1171|||ファーチマ朝滅亡&size(6){(アフリカ-アフリカ-)};||
|1171|||外国人排斥運動&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};||
|1171|||COLOR(red):エジブトにアイユーブ朝が成立&size(6){(アフリカ-エジブト-)};||
|1171|||COLOR(red):エジブトにアイユーブ朝が成立&size(6){(アフリカ-エジブト-)};||
|1171|||ヘンリー2世のアイルランド征服開始&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1171|||武人たちがクーデター&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1171|||清盛の女徳子、入内(高倉天皇女御)後に建礼門院を称す&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1171|4|21|嘉応から承安(しょうあん)(1171.4.21-1174)に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1172|||イタリア、ベネチアに大評議会成立。貴族的財閥の支配&size(6){(西欧-イタリア-)};||
|1172|||宋の明州の使者、法王清盛に物を送る&size(6){(日本-日本、宋-平安時代)};||
|1173|||法王、清盛に命じて宋に返牒を送らせる&size(6){(日本-日本、宋-平安時代)};||
|1173|4|1|親鸞生誕&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1174|||COLOR(blue):鄭仲夫、政房設置&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1174|||法王・平氏一門、厳島に参詣&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1175|||源空、専修念仏をとなえる(浄土宗)&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1175|||法然(ほうねん)が浄土宗を伝える(念仏、南無阿弥陀仏、極楽浄土)&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1175|||源空、専修念仏をとなえる(浄土宗)&size(6){(日本-日本-)};||
|1175|7|28|安元(あんげん)(1175.7.28-1177)に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1176|||レニャーノの戦いで、ロンバルディア同盟が神聖ローマ(ドイツ)皇帝フリードリヒ1世を破る&size(6){(西欧-ドイツ-)};||
|1176|||公州(忠南道)鳴鶴所の亡尹・亡所尹が公州占領する民乱&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1176|7|17|第79代六條天皇崩御(順仁親王)(天皇(79代))<数え13歳>&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1177|||鹿が谷事件京都大火、大内裏・大極殿・八省院など焼失&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1177|||俊寛ら喜界島(硫黄島)に流刑&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1177|||鹿ケ谷の陰謀(ししがたにのいんぼう)-平氏を倒す陰謀で首謀者は斬首、流罪&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1177|||俊寛ら喜界島(硫黄島)に流刑&size(6){(日本-日本-)};||
|1177|4|27|太郎焼失。京都富小路から出火し、大内裏・大極殿をはじめ2万戸が焼失&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1177|6|1|鹿ヶ谷事件。後白河法皇近臣・俊寛らの平家打倒の謀議が密通され一味が逮捕&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1177|8|4|治承(じしょう)(1177.8.4-1180)に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1178|6|17|平清盛が「新制十七條」を制定&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1178|11|12|言仁(安徳天皇)生誕&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1178|12|15|言仁(安徳天皇)立太子&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1179|||慶大升,都房(私兵集団)政治&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1179|||COLOR(blue):%%慶大升、都房政治%%&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1179|||清盛、院政を停止し、後白河法王幽閉&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1179|||平清盛が後白河法皇を幽閉する&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1179|11|20|平清盛が軍事行動に出て、平氏と対立した後白河法皇を幽閉し院政が停止させる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1180|||フランス、カペー朝のフィリップ2世即位(~1223)&size(6){(西欧-フランス-)};||
|1180|||源頼朝、伊豆に挙兵&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1180|||-08石橋山の戦いで源頼朝が大庭景親に敗れる。源頼朝は敗走中に梶原景時に発見されるが見逃される。その後、源頼朝は鎌倉へ行き本拠地とする&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1180|||-11源頼朝が侍所(さむらいどころ)を設置&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1180|||-1185治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)-源平合戦&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1180|||-12平清盛は後白河法皇の幽閉をとく&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1180|||-05以仁王(もちひとおう)が平家打倒の令旨(りょうじ)。以仁王・源頼政は挙兵するが敗死&size(6){(日本-日本-)};||
|1180|||-10富士川の戦いで源頼朝と平維盛が対峙するが平維盛は敗走する。源頼朝は弟の源義経(牛若丸)と対面する&size(6){(日本-日本-)};||
|1180|||源頼朝、伊豆に挙兵&size(6){(日本-日本-)};||
|1180|2|21|COLOR(SandyBrown):第81代安徳天皇&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1180|2|21|COLOR(SandyBrown):第80代高倉天皇が退位し、子の言仁親王が第81代安徳天皇として即位&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1180|2|21|02/21 COLOR(green):第81代 安徳天皇&size(6){(日本-日本-)};||
|1180|4|9|後白河法皇の皇子・以仁王が平氏追討の令旨を発する&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1180|4|27|伊豆・蛭ヶ小島に流されていた源頼朝が、叔父の行家から以仁王の平家追討令旨を伝えられる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1180|5||以仁王(もちひとおう)が平家打倒の令旨(りょうじ)。以仁王・源頼政は挙兵するが敗死&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1180|5|26|平家打倒に蹶起した平頼政と以仁王が宇治川で敗死&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1180|6|2|平清盛が安徳天皇を奉じて福原(現在の神戸市兵庫区)に遷都&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1180|7|14|尊仁(後鳥羽天皇)生誕&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1180|8|17|伊豆・蛭ヶ小島に流されていた源頼朝が、以仁王の平家追討令旨を受けて挙兵&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1180|9|7|木曾の源義仲(木曾義仲)が平家討伐の兵を挙げる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1180|10||富士川の戦いで源頼朝と平維盛が対峙するが平維盛は敗走する。源頼朝は弟の源義経(牛若丸)と対面する&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1180|10|6|石橋山の合戦で敗れ安房に逃れた源朝頼が、千葉常胤らの助勢を得て鎌倉に入る&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1180|10|21|源頼朝と源義經の兄弟が駿河国の黄瀬川で初めての対面&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1180|11|26|平清盛が都を福原から平安京に戻す&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1180|12|28|南都焼き打ち。平清盛が平重衡に命じ東大寺・興福寺を焼き払う&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1181|||清盛没、後白河法王院政再開&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1181|||第80代高倉天皇崩御21歳&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1181|||養和の飢饉&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1181|||-01後白河法皇は院政を再開する&size(6){(日本-日本-)};||
|1181|||-02平清盛が病死する&size(6){(日本-日本-)};||
|1181|||清盛没、後白河法王院政再開&size(6){(日本-日本-)};||
|1181|1||後白河法皇は院政を再開する&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1181|2||平清盛が病死する&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1181|2|4|平清盛歿64歳&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1181|7|14|養和(ようわ)(1181.7.14)に改元。&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1181|11|25|高倉天皇の中宮・平徳子が院号宣下され建礼門院となる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1182|||パリのノートルダム寺院完成&size(6){(西欧-フランス-)};||
|1182|||全州(全羅南道)民乱.官奴が中心になり州の官吏を襲撃&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1182|||院宣を下し諸国荘園より兵粮米の徴収&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1182|5|27|兵乱と三合の厄を避ける為、壽永(じゅえい)(1182.5.27-1183)に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1183|||イタリア、コンスタンツの和で、ロンバルディア同盟、自治特権を獲得&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1183|||義仲、倶利伽羅峠に平氏の軍を破る&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1183|||-07平氏が都を捨て西国へ敗走。源義仲が入京(都で乱暴をはたらく)&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1183|||-05倶利伽羅峠(くりからとうげのたたかい)の戦いで源義仲(木曾義仲)は火牛の計で平維盛に勝利&size(6){(日本-日本-)};||
|1183|||-10水島の戦いで源義仲は平氏に敗れる。源頼朝が朝廷より宣旨をうける(寿永二年十月宣旨-東国支配権)&size(6){(日本-日本-)};||
|1183|||義仲、倶利伽羅峠に平氏の軍を破る&size(6){(日本-日本-)};||
|1183|||08/20 COLOR(green):第82代 後鳥羽天皇&size(6){(日本-日本-)};||
|1183|5||倶利伽羅峠(くりからとうげのたたかい)の戦いで源義仲(木曾義仲)は火牛の計で平維盛に勝利&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1183|5|11|礪波山の戦い(倶利伽羅峠の戦い)。越中加賀国境の倶利伽羅峠で木曾義仲が平惟盛軍に、牛の角にたいまつをくくりつけて放つ「火牛の計」で大勝&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1183|7|25|平宗盛ら平家一族が、安徳天皇と神器を奉じて都より西国へ落ちる&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1183|7|28|後白河法皇が平家追討の院宣を下す&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1183|8|20|COLOR(SandyBrown):第82代後鳥羽天皇&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1183|8|20|後白河法皇の命令で、第82代後鳥羽天皇が践祚&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1183|10||水島の戦いで源義仲は平氏に敗れる源頼朝が朝廷より宣旨をうける(寿永二年十月宣旨-東国支配権)&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1183|11|18|平氏追討に失敗し京に帰った源義仲(木曾義仲)が、後白河法皇の御所・法住寺殿を急襲し法皇を幽閉&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1184|||源義仲、源範頼・義経の軍に敗れ、粟津に敗死&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1184|||源義仲(木曾義仲)が、頼朝の命をうけた範頼・義經の軍と戦い近江・粟津原で敗死&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1184|||源頼朝が問注所(もんちゅうじょ)、公文所(くもんじょ)を設置(公文所は後の政所の前進)&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1184|||-02一の谷の戦いで源範頼・源義経が勝利。平氏の敗走&size(6){(日本-日本-)};||
|1184|1||源義仲は征東大将軍となる宇治川の戦いで源範頼・源義経が勝利。源義仲が敗死&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1184|1|11|源義仲(木曾義仲)が征夷大将軍に&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1184|2||一の谷の戦いで源範頼・源義経が勝利。平氏の敗走&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1184|2|7|一ノ谷の合戦。源義經らが「鵯越の奇襲」により平氏に圧勝&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1184|4|16|源氏方が治承から元暦(げんりゃく)(1184.4.16)に改元&size(6){(日本-日本-平安時代)};||
|1185|||RIGHT:COLOR(green):平氏滅亡''1185''&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1185|||壇ノ浦の戦平氏滅亡&size(6){(日本-日本-平安時代 → 鎌倉時代)};||
|1185|||島津忠久、島津荘下司職に補任&size(6){(日本-日本-平安時代 → 鎌倉時代)};||
|1185|||日本最古の漫画「鳥獣戯画」ができる平安時代末期頃&size(6){(日本-日本-平安時代 → 鎌倉時代)};||
|1185|>|>|''平安時代→鎌倉時代-[1185年~1333年]''&size(6){(日本-日本-平安時代 → 鎌倉時代)};||
|1185|||源頼朝が全国に守護、地頭(じとう)を置く(名目は源義経を捕縛)この頃には鎌倉幕府が成立する&size(6){(日本-日本-平安時代 → 鎌倉時代)};||
|1185|||-02屋島の戦いで源義経が勝利。平氏の敗走&size(6){(日本-日本-)};||
|1185|||-03壇ノ浦の戦いで源義経が勝利。平氏の滅亡。平安時代末期頃。日本最古の漫画「鳥獣戯画」ができる&size(6){(日本-日本-)};||
|1185|||島津忠久、島津荘下司職に補任&size(6){(日本-日本-)};||
|1185|2||屋島の戦いで源義経が勝利。平氏の敗走&size(6){(日本-日本-平安時代 → 鎌倉時代)};||
|1185|3||壇ノ浦の戦いで源義経が勝利。平氏の滅亡&size(6){(日本-日本-平安時代 → 鎌倉時代)};||
|1185|3|24|第81代安徳天皇崩御8歳&size(6){(日本-日本-平安時代 → 鎌倉時代)};||
|1185|5|24|源頼朝の不興を解く為に鎌倉へ向かった義經が、腰越で留められた為、書状を大江広元に託す(腰越状)&size(6){(日本-日本-平安時代 → 鎌倉時代)};||
|1185|7|9|京都大地震(M7.4)。近江・山城・大和に被害&size(6){(日本-日本-平安時代 → 鎌倉時代)};||
|1185|8|14|寿永から文治(ぶんじ)(1185.8.14-1189)に改元&size(6){(日本-日本-平安時代 → 鎌倉時代)};||
|1185|10|17|堀川夜討ち。源頼朝の密命で土佐坊昌俊が京都・堀河館の義經を襲うが敗走&size(6){(日本-日本-平安時代 → 鎌倉時代)};||
|1185|10|18|後白河法皇が、源義經に頼朝追討の院宣を下す&size(6){(日本-日本-平安時代 → 鎌倉時代)};||
|1185|11|17|吉野山中で源義經と別れた愛妾・静御前が鎌倉幕府方に捕縛される&size(6){(日本-日本-平安時代 → 鎌倉時代)};||
|1185|11|29|鎌倉幕府が、源義經追討を名目に諸国に守護・地頭を置くことを後白河法皇に勅許させる&size(6){(日本-日本-平安時代 → 鎌倉時代)};||

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