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| | | |CENTER:&size(20){鎌倉時代[1185~1333]};&size(6){(日本--平安時代 → 鎌倉時代)};||h
|1185|||RIGHT:COLOR(green):平氏滅亡''1185''&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1185|||壇ノ浦の戦平氏滅亡&size(6){(日本-日本-平安時代 → 鎌倉時代)};||
|1185|||島津忠久、島津荘下司職に補任&size(6){(日本-日本-平安時代 → 鎌倉時代)};||
|1185|||日本最古の漫画「鳥獣戯画」ができる平安時代末期頃&size(6){(日本-日本-平安時代 → 鎌倉時代)};||
|1185|||源頼朝が全国に守護、地頭(じとう)を置く(名目は源義経を捕縛)この頃には鎌倉幕府が成立する&size(6){(日本-日本-平安時代 → 鎌倉時代)};||
|1185|||-02屋島の戦いで源義経が勝利。平氏の敗走&size(6){(日本-日本-)};||
|1185|||-03壇ノ浦の戦いで源義経が勝利。平氏の滅亡。平安時代末期頃。日本最古の漫画「鳥獣戯画」ができる&size(6){(日本-日本-)};||
|1185|||島津忠久、島津荘下司職に補任&size(6){(日本-日本-)};||
|1185|>|>|''平安時代→鎌倉時代-[1185年~1333年]''&size(6){(日本-日本-平安時代 → 鎌倉時代)};||
|1185|2||屋島の戦いで源義経が勝利。平氏の敗走&size(6){(日本-日本-平安時代 → 鎌倉時代)};||
|1185|3||壇ノ浦の戦いで源義経が勝利。平氏の滅亡&size(6){(日本-日本-平安時代 → 鎌倉時代)};||
|1185|3|24|第81代安徳天皇崩御8歳&size(6){(日本-日本-平安時代 → 鎌倉時代)};||
|1185|5|24|源頼朝の不興を解く為に鎌倉へ向かった義經が、腰越で留められた為、書状を大江広元に託す(腰越状)&size(6){(日本-日本-平安時代 → 鎌倉時代)};||
|1185|7|9|京都大地震(M7.4)。近江・山城・大和に被害&size(6){(日本-日本-平安時代 → 鎌倉時代)};||
|1185|8|14|寿永から文治(ぶんじ)(1185.8.14-1189)に改元&size(6){(日本-日本-平安時代 → 鎌倉時代)};||
|1185|10|17|堀川夜討ち。源頼朝の密命で土佐坊昌俊が京都・堀河館の義經を襲うが敗走&size(6){(日本-日本-平安時代 → 鎌倉時代)};||
|1185|10|18|後白河法皇が、源義經に頼朝追討の院宣を下す&size(6){(日本-日本-平安時代 → 鎌倉時代)};||
|1185|11|17|吉野山中で源義經と別れた愛妾・静御前が鎌倉幕府方に捕縛される&size(6){(日本-日本-平安時代 → 鎌倉時代)};||
|1185|11|29|鎌倉幕府が、源義經追討を名目に諸国に守護・地頭を置くことを後白河法皇に勅許させる&size(6){(日本-日本-平安時代 → 鎌倉時代)};||
|1186|||忠久、島津荘総地頭職になり、姓と十字家紋を賜う&size(6){(--)};||
|1186|||頼朝、荘園の兵粮米停止を奏上&size(6){(--)};||
|1186|||ブルガリア人、ビザンティン帝国に抵抗、第二次ブルガリア帝国を建設&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1186|||忠久、島津荘総地頭職になり、姓と十字家紋を賜う&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1186|||頼朝、荘園の兵粮米停止を奏上&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1186|7|29|源義經の愛妾・静御前が安達新三郎の家で男子を出産するが、頼朝の命により溺殺される&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1187|||COLOR(red):エルサレム王国滅亡&size(6){(アジア--)};||
|1187|||エルサレム王国が滅ぶ&size(6){(--)};||
|1187|||源義経、陸奥の藤原秀衝のもとに逃れる&size(6){(--)};||
|1187|||COLOR(red):エルサレム王国滅亡&size(6){(--)};||
|1187|||COLOR(red):第2次ブルガリア帝国成立~1393&size(6){(西欧-ブルガリア、イタリア、ローマ-)};||
|1187|||COLOR(red):第2次ブルガリア帝国成立&size(6){(東欧-ブルガリア、イタリア、ローマ-)};||
|1187|||源義経、陸奥の藤原秀衝のもとに逃れる&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1187|2|10|源義經が奥州平泉の藤原秀衡のもとに逃げ込む&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1188|||宣旨により藤原基成・泰衝に義経追討を命ず&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1189|||第3回十字軍遠征&size(6){(--)};||
|1189|||金・完顔氏・・ 章宗&size(6){(--)};||
|1189|||章宗(麻達葛、完顔璟)&size(6){(--)};||
|1189|||南宋・趙氏・・ 光宗&size(6){(--)};||
|1189|||光宗(趙惇)&size(6){(--)};||
|1189|||第3回十字軍遠征(~1192)&size(6){(--)};||
|1189|||イギリス、リチャード1世(獅子心王)即位(~1199)&size(6){(西欧-イギリス-)};||
|1189|||第3回十字軍遠征(~1192)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1189|||金・完顔氏・・章宗&size(6){(東アジア-金-)};||
|1189|||章宗(麻達葛、完顔璟)&size(6){(東アジア-金-)};||
|1189|||光宗(趙惇)&size(6){(東アジア-宋-)};||
|1189|||南宋・趙氏・・光宗&size(6){(東アジア-宋-)};||
|1189|||藤原泰衝、源義経を衣川に殺す 頼朝、藤原泰衝を討つ&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1189|||奥州合戦で奥州藤原氏、源義経、武蔵坊弁慶が滅亡&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1189|7|19|源頼朝が奥州平泉の藤原泰衡追討の為に鎌倉を出発。軍勢の総数は28万とも伝えられる。&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1189|9|3|28万の大軍を率いた源頼朝が奥州平泉に来攻。藤原泰衡は逃走中に家臣・河田次郎に殺され、奥州藤原氏が滅亡&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1189|9|22|源頼朝が、奥州藤原氏討伐に功績のあった葛西清重を奥州総奉行に任命。奥州支配を確立する&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1190|||COLOR(green):光宗・即位&size(6){(--)};||
|1190|||ドイツ騎士団が生まれる&size(6){(西欧-ドイツ-)};||
|1190|||ドイツ、ハインリヒ6世即位(~1197)&size(6){(西欧-ドイツ-)};||
|1190|||頼朝入京し、法王に謁す。右近衛大将を辞し鎌倉に帰る&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1190|>|>|''奈良時代/鎌倉時代''&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1190|||源頼朝が右近衛大将(うこのえのだいしょう)になる&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1190|||頼朝入京し、法王に謁す。右近衛大将を辞し鎌倉に帰る&size(6){(日本-日本-)};||
|1190|4|11|建久(けんきゅう)(1190.4.11-1198)&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1190|4|11|三合の厄を避ける為、建久[けんきゅう/けんきう]に改元&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1190|11|9|源頼朝が後白河法皇に謁見し権大納言に任官&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1191|||十字軍(リチャード1世)、キプロス島を占領&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1191|||栄西帰朝し、臨済宗をひろめる&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1191|||栄西(えいさい)が臨済宗(りんざいしゅう)を伝える(禅宗)&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1191|||栄西帰朝し、臨済宗をひろめる&size(6){(日本-日本-)};||
|1192|||RIGHT:COLOR(green):源頼朝征夷大将軍となる''1192''&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1192|>|>|''平安時代→鎌倉時代(1192-1333)''&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1192|||鎌倉文化&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1192|||源頼朝が征夷大将軍となる&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1192|||平安時代→鎌倉時代(1192 - 1333)&size(6){(日本-日本-)};||
|1192|||COLOR(blue):源頼朝が征夷大将軍となる&size(6){(日本-日本-)};||
|1192|3|13|第77代後白河天皇が崩御&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1192|7|12|源頼朝が征夷大将軍に就任。鎌倉幕府が成立&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1193|||源範頼、源頼朝に殺される&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1193|5|28|曾我十郎・五郎兄弟が父・河津三郎祐泰の仇・工藤祐經を討つ&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1193|8|17|源頼朝が、伊豆・修善寺に幽閉していた弟・範頼を殺害&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1194|||南宋・趙氏・・ 寧宗&size(6){(--)};||
|1194|||ハインリヒ6世、シチリア島を征服&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1194|||南宋・趙氏・・寧宗&size(6){(東アジア-宋-)};||
|1194|||寧宗(趙擴)&size(6){(東アジア-宋-)};||
|1194|||幕府、守護の国衙領侵犯を禁ず&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1194|7|5|延暦寺の訴えにより、栄西らの禅宗を禁止&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1195|||COLOR(green):寧宗・即位-1224&size(6){(--)};||
|1195|||イスラム教徒がスペインを占領&size(6){(西欧-スペイン-)};||
|1195|||イスラム教徒がスペインを占領&size(6){(西欧-スペイン-)};||
|1195|||イスラム教徒がスペインを占領 &size(6){(西欧-スペイン-)};||
|1195|||源頼朝、東大寺再建供養に臨席&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1195|||対馬在庁官人の中に惟宗氏の名が初見(八幡宮文書)。&size(6){(対馬)};&size(6){(日本-日本-)};||
|1195|3|12|後鳥羽天皇・源頼朝臨席の元、東大寺再建供養が行われる。この日は、朝から雨。午後に入るとさらに雨足は強まり地震まで起きるという最悪の天候であったという。&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1195|12|2|為仁(土御門天皇)生誕&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1196|||崔忠献、武臣政権を奪取(~1258)&br;崔忠献執権.慶大升死後政権を執る&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1196|||COLOR(blue):崔忠献執権&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1196|||九条兼実、関白を罷免され九条家一族排斥される&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1197|||島津忠久が薩摩・大隈両国家人の奉行人に補せられる&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1197|9|10|守成(順徳天皇)生誕&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1198|||教皇インノケンティウス3世即位(~1216)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1198|||万積の乱.公私奴隷開放をかかげ開京で乱を起こそうとして失敗&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1198|||COLOR(blue):万積の乱&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1198|1|11|COLOR(SandyBrown):第83代土御門天皇&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1198|1|11|COLOR(green):第83代 土御門天皇&size(6){(日本-日本-)};||
|1198|8|23|COLOR(SandyBrown):第82代後鳥羽天皇が退位し息子の為仁親王が第83代土御門天皇として即位&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1198|12|27|源頼朝が落馬。&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1199|||イギリス、ジョン王即位(~1216)&size(6){(西欧-イギリス-)};||
|1199|||頼朝没、子頼家が家督相続&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1199|||源頼朝が死去。源頼家(母:北条政子)が2代目将軍となる&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1199|1|13|前年の落馬が元で源頼朝死去&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1199|4|27|土御門天皇の即位に伴い建久から正治(しょうじ)(1199.4.27-1200)に改元。&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1200|>|>|''アイヌ時代''&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1200|||梶原景時、上洛を企て駿河で敗死&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1200|||元寇&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1200|||梶原景時の変(梶原氏一族の滅亡)十三人の合議制の開始&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1200|4|15|守成(順徳天皇)立太子&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1201|||13世紀ころメキシコ中央高原にアステカ文化隆盛&size(6){(中南米-メキシコ-)};||
|1201|||諸国大風雨&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1201|||建仁の乱(城氏一族の反乱)&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1201|2|13|建仁(けんにん)(1201.2.13-1203)&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1202|||第4回十字軍遠征(~1204)、十字軍がラテン帝国を建設&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1202|||第4回十字軍遠征&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1202|||第4回十字軍開始(~1204)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1202|7|23|源頼家が征夷大将軍に任ぜられる&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1203|||島津忠久、比企能員の乱に連座、守護職・地頭職没収&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1203|||北条時政、執権となる&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1203|||比企能員の変(ひきよしかずのへん)-北条時政(政子の父)により比企能員、比企一族が滅亡源実朝(みなもとのさねとも-母:北条政子)が3代目将軍となる北条時政が鎌倉幕府の執権(しっけん)となる(執権のはじまり)運慶、快慶が東大寺南大門の金剛力士像をつくる&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1203|7|24|仏師運慶・快慶が東大寺金剛力士像の造立を開始。10月に完成&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1203|9|29|執権・北條時政が将軍・源頼家を伊豆修善寺に幽閉&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1203|10|3|運慶と快慶が東大寺南大門の金剛力士像を完成させる&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1204|||ラテン帝国 第4回十字軍、コンスタンティノポリスを攻略、ビザンティン帝国断絶&size(6){(--)};||
|1204|||COLOR(red):(東ローマ帝国が一時滅亡、ラテン帝国の成立)&size(6){(--)};||
|1204|||COLOR(red):(東ローマ帝国が一時滅亡、ラテン帝国の成立)&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};||
|1204|||ラテン帝国第4回十字軍、コンスタンティノポリスを攻略、ビザンティン帝国断絶&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};||
|1204|||十字軍がコンスタンチノープルを陥落&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1204|||コンスタンティノープル、十字軍に占領される。ラテン帝国、ニカイア帝国成立&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1204|||ハンザ同盟-経済圏を支配した都市同盟13世紀~&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1204|||十字軍がコンスタンティノープルを占領してラテン帝国を建国&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1204|||頼家、北条時政に殺さる諸国地頭の非法を禁止&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1204|||源頼家が暗殺される&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1204|||頼家、北条時政に殺さる 諸国地頭の非法を禁止&size(6){(日本-日本-)};||
|1204|2|2|甲子革令の為、元久(げんきゅう)(1204.2.2-1205)に改元&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1204|3|21|三日平氏の乱。平賀朝雅が伊賀・伊勢の平氏の残党を平定&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1204|9|7|源千幡が征夷大将軍に任ぜられ、名を實朝[さねとも]と改める&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1205|||時政陰謀露見し失脚、子の義時が執権となる&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1205|||畠山重忠の乱(畠山重忠は北条義時(父:時政)に討たれる)牧氏事件(まきしじけん)-将軍の後継者争い。北条時政・牧の方と北条義時・北条政子の争いで北条義時が勝利して執権となる藤原定家による勅撰和歌集「新古今和歌集」ができる&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1205|6|22|北條時政が武蔵・二俣川で畠山重忠一族を討つ&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1205|7|19|執権・北條時政が実子の北條政子・義時によって伊豆に追放&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1205|7|20|前日に初代執権・北條時政を追放した実子・義時が第2代執権に就任&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1206|||インドの奴隷王朝はじまる&size(6){(南アジア-インド-インド)};||
|1206|||COLOR(red):奴隷王朝、成立(~1290)&size(6){(南アジア-インド-)};||
|1206|||奴隷王朝、成立&size(6){(南アジア-インド-)};||
|1206|||COLOR(red):インド奴隷王朝、成立(~1290)&size(6){(南アジア-インド-)};||
|1206|||テムジンがモンゴルを統一、チンギス汗と称す&size(6){(東アジア-モンゴル-)};||
|1206|||モンゴル帝国のチンギス・ハン即位&size(6){(東アジア-モンゴル-)};||
|1206|||モンゴル帝国・・ 定宗:貴由:グユク・ハーン&size(6){(東アジア-モンゴル-)};||
|1206|||モンゴル帝国・・ 太祖:成吉思汗:チンギス・ハーン&size(6){(東アジア-モンゴル-)};||
|1206|||モンゴル帝国・・ 太宗:窩闊台:オゴタイ・ハーン&size(6){(東アジア-モンゴル-)};||
|1206|||モンゴル帝国・・ 憲宗:蒙哥:メンゲ・ハーン&size(6){(東アジア-モンゴル-)};||
|1206|||COLOR(green):モンゴル帝国のチンギス・ハン即位&size(6){(東アジア-モンゴル-)};||
|1206|||モンゴル帝国・・憲宗:蒙哥:メンゲ・ハーン&size(6){(東アジア-モンゴル、モンゴル帝国-)};||
|1206|||モンゴル帝国・・太宗:窩闊台:オゴタイ・ハーン&size(6){(東アジア-モンゴル、モンゴル帝国-)};||
|1206|||モンゴル帝国・・太祖:成吉思汗:チンギス・ハーン&size(6){(東アジア-モンゴル、モンゴル帝国-)};||
|1206|||モンゴル帝国・・定宗:貴由:グユク・ハーン&size(6){(東アジア-モンゴル、モンゴル帝国-)};||
|1206|||モンゴル帝国のチンギス・ハン即位&size(6){(東アジア-モンゴル、モンゴル帝国-)};||
|1206|||幕府、頼朝の恩賞地は大罪を除き没収しない&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1206|4|27|建永(けんえい)(1206.4.27)&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1207|||幕府、地頭に武蔵国荒野の開墾を命令&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1207|10|25|承元(じょうげん)(1207.10.25-1210)&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1208|||衛紹王(興勝、完顔永済)&size(6){(東アジア-中国、金-金)};||
|1208|||金・完顔氏・・廃帝衛紹王&size(6){(東アジア-中国、金-金)};||
|1208|||金・完顔氏・・ 廃帝 衛紹王&size(6){(東アジア-中国、金-)};||
|1209|||ジョン王、教皇インノケンティウス3世と対立、破門される&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1209|||アルビジョア十字軍(~1229)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1209|||諸国の国衙、守護人の怠慢により群盗蜂起&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1210|||フランシスコ教団の創設&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1210|||幕府、武蔵国の大田文を作る&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1210|||11/25COLOR(green):第84代 順徳天皇&size(6){(日本-日本-)};||
|1210|11|25|COLOR(SandyBrown):第84代順徳天皇&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1210|11|25|COLOR(SandyBrown):順徳天皇(84)--第83代土御門天皇が退位し、守成親王が第84代順徳天皇として即位&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1211|||再度、東海道に新駅増設&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1211|3|9|建暦(けんりゃく)(1211.3.9-1212)&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1211|11|20|土佐に流されていた僧・法然が帰洛を許され、京都東山大谷に戻る&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1212|||キリスト教スペイン諸国連合軍、イスラム軍(ムワッヒド朝)を破る(ナバス・デ・トロサの戦い)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1212|||少年十字軍始まる&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1212|2|18|茂仁(後堀河天皇)生誕&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1213|||金・完顔氏・・宣宗&size(6){(東アジア-中国、金-金)};||
|1213|||宣宗(吾睹補、完顔珣)&size(6){(東アジア-中国、金-金)};||
|1213|||金・完顔氏・・ 宣宗&size(6){(東アジア-中国、金-)};||
|1213|||侍所別当の和田義盛、挙兵して敗死(和田合戦)執権北条義時、侍所別当を兼ねる&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1213|||島津忠久、地頭職に還補される&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1213|||和田合戦(和田義盛の反乱で和田義盛は敗死)&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1213|12|6|地震が相次いだため建暦から建保(けんぽう)(1213.12.6-1218)に改元&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1214|||ブービーヌの戦いで、フランス王フィリップ2世がイギリス王、ドイツ王を破る&size(6){(西欧-イギリス-)};||
|1214|||ブーヴィーヌの戦い。フランス王国vs神聖ローマ帝国連合軍(フランスの勝利)&size(6){(西欧-フランス-)};||
|1214|||栄西、実朝に茶を勧める&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1214|12|13|平徳子(建礼門院)没&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1215|||イギリスのジョン王が大憲章(マグナ=カルタ)承認&size(6){(西欧-イギリス-)};||
|1215|||マグナ・カルタ(大憲章)-イングランド国王の権限を制限&size(6){(西欧-イギリス-)};||
|1215|||パリ大学創設の特許状与えられる&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1215|||ジョン王、マグナ・カルタに署名&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1216|||ドミニコ会認可&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1216|||実朝、渡宋を計画し、陳和卿に造船を命令&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1217|||第5回十字軍開始(~1221)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1218|10|10|懐成(仲恭天皇)生誕&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1218|11|26|懐成親王(仲恭天皇)が立太子&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1219|||チンギス・ハンの西征&size(6){(東アジア-モンゴル帝国-)};||
|1219|||RIGHT:COLOR(green):北条氏の執権政治始まる''1219''&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1219|||蒙古と通交&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1219|||COLOR(blue):%%蒙古%%モンゴルと通交&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1219|||実朝横死し、源氏滅亡&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1219|||源実朝が鶴岡八幡宮で公暁(源頼家の子)に暗殺されるその後、2歳の九条頼経(源頼朝の血筋)を次期将軍として迎え入れた。九条頼経が将軍になるまでは北条政子が尼将軍として代行した。&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1219|4|12|建保から承久(しょうきゅう)(1219.4.12-1221)に改元&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1219|8|28|鎌倉・鶴岡八幡宮で源實朝が甥の公暁により暗殺される。源氏の正統が断絶&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1220|||モンゴル軍がホラズムを滅ぼす&size(6){(アジア-ホラズム、モンゴル帝国-)};||
|1220|2|26|邦仁(後嵯峨天皇)生誕&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1221|||RIGHT:COLOR(green):承久の乱''1221''&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗、日本-)};||
|1221|||薩摩国満家院郡司・大蔵幸光ら後鳥羽上皇軍に参加、乱後処罰される&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1221|||承久の乱&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1221|||承久の乱(じょうきゅうのらん)後鳥羽上皇(西国:朝廷)と北条義時(東国:鎌倉幕府)の争い。北条義時が勝利して幕府の支配権は西国にも及んだ。更に京都に六波羅探題(ろくはらたんだい)を設置して朝廷の動きを監視した。&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1221|||7/9COLOR(green):第86代 後堀河天皇&size(6){(日本-日本-)};||
|1221|||4/20COLOR(green):第85代 仲恭天皇&size(6){(日本-日本-)};||
|1221|.04.20||COLOR(SandyBrown):第85代仲恭天皇&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1221|.07.09||COLOR(SandyBrown):第86代後堀河天皇&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1221|4|20|COLOR(SandyBrown):仲恭天皇(85)---第84代順徳天皇が退位し、懐成親王が第85代仲恭天皇として即位&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1221|5|14|承久の乱。鎌倉幕府倒幕の為、後鳥羽上皇が近隣諸国の武士1700騎を結集&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1221|7|9|COLOR(SandyBrown):後堀河天皇(86)---茂仁(後堀河天皇)が即位&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1221|7|13|承久の乱で幕府に敗れた後鳥羽上皇が隠岐に流される&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1222|||六波羅探題設置&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1222|4|13|貞応(じょうおう)(1222.4.13-1223)&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1223|||哀宗(寧甲速、完顔守緒)&size(6){(東アジア-中国、金-金)};||
|1223|||金・完顔氏・・ 哀宗&size(6){(東アジア-中国、金-金)};||
|1223|||新補地頭の得分率を定める&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1224|||南宋・趙氏・・ 理宗&size(6){(--)};||
|1224|||モンゴル帝国が南ロシアを征服&size(6){(東アジア-モンゴル-)};||
|1224|||COLOR(red):オゴタイ汗国の成立&size(6){(東アジア-モンゴル-)};||
|1224|||COLOR(red):オゴタイ汗国の成立&size(6){(東アジア-モンゴル、オゴタイ汗国-)};||
|1224|||南宋・趙氏・・理宗&size(6){(東アジア-宋-)};||
|1224|||理宗(趙昀)&size(6){(東アジア-宋-)};||
|1224|||モンゴル使臣が高麗内で遭難する事件が発生するや、急速に関係が悪化、国交を断絶する。モンゴルによる高麗への侵入がはじまり、首都を江華島に移す。徹底抗戦するも、数度にわたるモンゴル侵入で、高麗はすっかり疲弊し、結局、&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1224|||モンゴル帝国が南ロシアを征服&size(6){(アジア-南ロシア、モンゴル帝国-)};||
|1224|||親鸞、浄土真宗を開く&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1224|||北条義時が死去。北条泰時(北条義時の子)が執権となる連署(れんしょ-副執権相当)の設置(初代は北条時房)親鸞(しんらん)が浄土真宗を伝える(念仏、悪人正機、他力本願)&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1224|11|2|貞応から元仁(げんにん)(1224.11.2)に改元&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1225|||COLOR(red):大越で李朝が倒れ、陳朝が成立&size(6){(アジア--)};||
|1225|||COLOR(red):大越で李朝が倒れ、陳朝が成立&size(6){(--)};||
|1225|||COLOR(green):理宗・即位-1264&size(6){(--)};||
|1225|||幕府、評定衆を設置&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1225|||北条政子が死去。北条泰時が評定衆(ひょうじょうしゅう)の設置&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1225|4|2|元仁から嘉禄(かろく)(1225.4.2-1226)に改元&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1225|12|21|鎌倉幕府が、政務・司法の評議・裁定の為の「評定衆」を設置&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1226|||ドイツ騎士団、プロイセン地域に進出&size(6){(西欧-ドイツ-)};||
|1226|||フランス、ルイ9世(聖王)即位(~1270)&size(6){(西欧-フランス-)};||
|1226|||頼経、征夷大将軍となる(摂家将軍の始まり)&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1226|||九条頼経が4代目将軍になる(摂家将軍の開始)&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1226|||COLOR(blue):頼経、征夷大将軍となる(摂家将軍の始まり)&size(6){(日本-日本-)};||
|1227|||COLOR(red):チャガタイ汗国の成立&size(6){(東アジア-モンゴル-)};||
|1227|||COLOR(red):チャガタイ汗国の成立&size(6){(東アジア-モンゴル、チャガタイ汗国-)};||
|1227|||チンギス汗の死&size(6){(アジア-モンゴル、モンゴル-)};||
|1227|||モンゴル軍が西夏を滅ぼす&size(6){(東アジア-モンゴル、西夏-)};||
|1227|||島津忠時、薩摩守護職&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1227|||道元帰国し、曹洞宗を開く(永平寺)&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1227|||道元(どうげん)が曹洞宗(そうとうしゅう)を伝える(禅宗、永平寺)&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1227|7|6|延暦寺の訴えで、浄土宗などの専修念仏が禁止される&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1227|12|1|安貞(あんてい)(1227.12.1-1229)に改元&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1228|||第5回十字軍&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1228|||第6回十字軍開始(~1229)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1229|3|5|天変が相次いだ為、安貞から寛喜(かんき)(1229.3.5-1231)に改元&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1230|||スペイン、カスティーリャ王がレオン王国を併合&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1230|||スペイン、イスラム教徒のグラナダ王国(ナスル朝)成立(~1492)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1230|||諸国に大飢饉、餓死者多し&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1230|2|22|第82代後鳥羽天皇崩御60歳&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1231|||COLOR(blue):モンゴルの侵入COLOR(black):が始まった。高麗は都を江華島に移して抗戦したが、国土はモンゴル軍に蹂躙された。&br;COLOR(blue):モンゴル侵入北方でモンゴル帝国が台頭する。高麗はモンゴル帝国と平和的な関係を維持してきたが、&br;COLOR(black):モンゴルが高麗に侵攻&br;北方でモンゴル帝国が台頭する。高麗はモンゴル帝国と平和的な関係を維持してきたが、1224年、モンゴル使臣が高麗内で遭難する事件が発生するや、急速に関係が悪化、国交を断絶する。モンゴルによる高麗への侵入がはじまり、首都を江華島に移す。徹底抗戦するも、数度にわたるモンゴル侵入で、高麗はすっかり疲弊し、結局、1259年、高麗はモンゴルに服属することになる。&br;蒙古の使者殺害を機に,蒙古が高麗へ第一次侵入.講和を結ぶ&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1231|||COLOR(blue):%%蒙古%%モンゴルの第一次侵入&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1231|||寛喜の飢饉(かんきのききん) 人身売買激増&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1231|2|12|秀仁(四条天皇)生誕・・・・・蛇足ですが管理人と同じ誕生日です&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1231|10|11|第83代土御門天皇崩御37歳&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1231|10|28|秀仁(四条天皇)立太子&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1232|||10/4COLOR(green):第87代 四条天皇&size(6){(--)};||
|1232|||RIGHT:COLOR(green):貞永式目制定''1232''&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1232|||江華島に遷都.蒙古と戦う&br;崔氏政権、王都を開京から江華島に遷す&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1232|||COLOR(blue):江華島に遷都&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1232|||御成敗式目制定&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1232|||北条泰時による御成敗式目(ごせいばいしきもく)の制定日本初の武家法で江戸時代まで法律の基本とされた。&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1232|4|2|寛喜から貞永(じょうえい)(1232.4.2)に改元&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1232|8|10|鎌倉幕府3代執権・北條泰時が「貞永式目」(御成敗式目)を制定&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1232|10|4|COLOR(SandyBrown):第87代四条天皇&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1232|10|4|COLOR(SandyBrown):第86代後堀河天皇が退位し秀仁親王が第87代四条天皇として即位&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1233|4|15|貞永から天福(てんぷく)(1233.4.15)に改元&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1234|||金・完顔氏・・ 末帝&size(6){(--)};||
|1234|||モンゴル帝国が金を滅ぼす&size(6){(東アジア-モンゴル-)};||
|1234|||モンゴル軍が金を滅ぼす&size(6){(東アジア-モンゴル-)};||
|1234|||モンゴル帝国が金を滅ぼす&size(6){(東アジア-モンゴル、モンゴル帝国-)};||
|1234|||金・完顔氏・・末帝&size(6){(東アジア-中国、金-金)};||
|1234|||末帝(完顔承麟)&size(6){(東アジア-中国、金-金)};||
|1234|||西洋より200年も早く金属活字で「詳定古今礼文」刊行(現存しない)&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1234|||COLOR(blue):金属活字で「詳定古今礼文」を刊行&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1234|||専修念仏宗を禁圧&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1234|5|20|第85代仲恭天皇崩御17歳&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1234|8|6|後堀河天皇崩御。(茂仁親王)(天皇(86代))<数え23歳>&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1234|11|5|天変地震により文暦(ぶんりゃく)(1234.11.5)に改元&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1235|||藤原定家による私撰和歌集「小倉百人一首」ができる&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1235|9|19|地震頻発の為、文暦から嘉禎(かてい)(1235.9.19-1237)に改元&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1236|||モンゴルのバツが西進&size(6){(アジア-モンゴル、モンゴル-)};||
|1236|||カスティーリャ、コルドバを征服&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1236|||高麗大蔵教(経・律・論など三蔵の仏教経典の総称)刻印(木版印刷)(~1251)&br;高麗大蔵経の製作を開始する&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1236|||COLOR(blue):高麗「大蔵経」を%%刻印%%刻む(-1251)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1236|||興福寺僧徒鎮圧のため大和に守護・地頭設置&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1237|||モスクワ、キエフ、モンゴル人に攻略される(~1340)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1237|||幕府、諸寺社・国司・領家の訴訟は式目によらない&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1238|||新補地頭の処分法制定&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1238|11|23|嘉禎から暦仁(りゃくにん)(1238.11.23)に改元&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1239|||幕府、人身売買禁止&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1239|2|7|暦仁から延応(えんおう)(1239.2.7)に改元&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1239|2|22|第82打義後鳥羽天皇崩御&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1239|8|17|加賀の白山が噴火。白山権現が焼失&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1240|||キエフ公国がモンゴルに服属&size(6){(東アジア-モンゴル、キエフ公国-)};||
|1240|||ロシアのノブゴロド共和国、スウェーデン軍の侵入を撃退&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1240|||第二次ブルガリア帝国分裂&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1240|||御家人の所領譲与・売買を禁止&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1240|7|16|仁治(にんじゅ)(1240.7.16-1243)に改元&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1241|||COLOR(red):ドイツにハンザ同盟が成立&size(6){(西欧-ドイツ-)};||
|1241|||リーグニッツの戦いで、モンゴル軍、ドイツ・ポーランド連合軍を破る&size(6){(西欧-ドイツ-)};||
|1241|||ワールシュタットの戦い(モンゴル軍がドイツ・ポーランドの騎士連合軍を破る)&size(6){(西欧-ドイツ、ポーランド、モンゴル-)};||
|1241|||モンゴル帝国がワールシュタットの戦いで勝利&size(6){(東アジア-モンゴル-)};||
|1241|||ハンザ同盟成立〔ハンブルク・リューベックの同盟〕&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1241|||ワールシュタットの戦い&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1241|||モンゴル帝国がワールシュタットの戦いでヨーロッパ軍を破る&size(6){(欧州-ヨーロッパ、モンゴル帝国-)};||
|1242|||ノブゴロド共和国のアレクサンドル・ネフスキー、ドイツ騎士団・デンマーク連合軍を撃破&size(6){(西欧-ドイツ-)};||
|1242|||九条道家、皇嗣を幕府に諮問する&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1242|||北条泰時が死去。北条経時が執権となる&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1242|1|20|COLOR(SandyBrown):邦仁親王が第88代後嵯峨天皇として即位&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1242|2|26|COLOR(SandyBrown):第88代後嵯峨天皇&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1242|2|26|COLOR(green):第88代 後嵯峨天皇&size(6){(日本-日本-)};||
|1242|3|26|第87代四条天皇が崩御12歳&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1242|9|12|順徳天皇崩御(守成親王,佐渡院)(天皇(84代))<数え46歳>&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1243|||COLOR(red):キプチャク汗国の成立&size(6){(東アジア-モンゴル-)};||
|1243|||COLOR(red):キプチャク汗国の成立&size(6){(アジア-モンゴル、キプチャク汗国-)};||
|1243|||タタールのくびき。モンゴル帝国によるロシアの支配-1480年&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1243|2|26|仁治から寛元(かんげん)(1243.2.26-1246)に改元&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1243|6|10|久仁(後深草天皇)生誕&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1243|8|10|久仁(後深草天皇)立太子&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1244|||賭博禁止  「平家物語」なる&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1245|||養子・飢饉養助・人身売買等の法を定める&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1246|||北条時頼、執権となる&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1246|||北条経時が死去。北条時頼が執権となる宮騒動(北条光時の反乱で、北条時頼が勝利する)&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1246|||大宰府の命により惟宗重尚が阿比留在庁(平太郎国時)を征討したという伝承がある。&size(6){(対馬)};&size(6){(日本-日本-)};||
|1246|||1/29COLOR(green):第89代 後深草天皇&size(6){(日本-日本-)};||
|1246|1|29|COLOR(SandyBrown):第89代後深草天皇&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1246|1|29|COLOR(SandyBrown):第88代後嵯峨天皇が退位し第89代後深草天皇が即位&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1247|||宝治合戦…時頼、秦村とその一族を攻め滅ぼす&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1247|||宝治合戦(ほうじかっせん)-北条氏と三浦氏の争い。三浦氏の滅亡&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1247|2|28|寛元から宝治(ほうじ)(1247.2.28-1248)に改元&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1248|||ドイツのフリードリヒ2世、ロンバルディア同盟と戦い、敗北&size(6){(西欧-ドイツ-)};||
|1248|||第6回十字軍&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1248|||第7回十字軍開始(~1254)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1248|||カスティーリャ王国、セビーリャを征服&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1249|||幕府、引付衆を設置&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1249|||引付衆(ひきつけしゅう)の設置&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1249|3|18|宝治から建長(けんちょう)(1249.3.18-1255)に改元&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1249|5|27|恒仁(亀山天皇)生誕&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1250|||COLOR(red):エジプトにマムルーク朝成立&size(6){(アフリカ-エジプト-)};||
|1250|||COLOR(red):エジプトにマムルーク朝成立&size(6){(アフリカ-エジプト-)};||
|1250|||フランス、パリに高等法院設置&size(6){(西欧-フランス-)};||
|1250|||幕府、大和の悪党の乱暴禁圧を六波羅に命ず&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1251|5|7|品川沖でかかった鮫の腹から観音像が出る。「鮫頭観音」として安置し後に一帯が鮫洲と呼ばれる&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1252|||五摂家分立&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1252|||宗尊親王(むねたかしんのう)が6代目将軍に就任(皇族将軍の開始)鎌倉に鎌倉大仏(阿弥陀如来坐像)ができる&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1252|8|17|鎌倉・長谷大仏が木像から金銅像に鋳直して完成&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1253|||日蓮、日蓮宗をとなえる&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1253|||日蓮が日蓮宗を伝える(法華経、南無妙法蓮華経、立正安国論)&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1253|4|27|日蓮が安房国小湊浦の清澄山山頂で集まった大衆に初めて法華の教えを説く&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1254|||ドイツ、ライン都市同盟成立&size(6){(西欧-ドイツ-)};||
|1254|||日蓮「立正安国論」を書く&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1255|||ストックホルム市の建設&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1256|||ドイツ、大空位時代始まる(~1273)&size(6){(西欧-ドイツ-)};||
|1256|10|5|建長から康元(こうげん)(1256.10.5)に改元&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1257|||COLOR(red):タイのスコタイ朝成立&size(6){(東南アジア-タイ-)};||
|1257|||COLOR(red):タイのスコタイ朝成立&size(6){(東南アジア-タイ、スコタイ朝-タイ)};||
|1257|||ソルボンヌ神学寮(現パリ大学の第四大学)創設&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1257|||園城寺僧徒が、戒壇建立の強訴&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1257|3|14|康元から正嘉(しょうか)(1257.3.14-1258)に改元&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1258|||COLOR(red):イル汗国の成立(アッバス朝滅亡)&size(6){(アジア--)};||
|1258|||COLOR(red):イル汗国の成立(アッバス朝滅亡)&size(6){(--)};||
|1258|||崔氏政権が崩壊&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1258|8|7|恒仁(亀山天皇)立太子&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1259|>|>|''1259年~1356年:モンゴル(属国)''&size(6){(よいこの正しい半島歴史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮-)};||
|1259|||高麗,蒙古軍に降伏&br;高麗はモンゴルに服属することになる。&br;高麗はモンゴル帝国に服属し、30年に及ぶ抵抗は終わった。元の属国となった高麗は、二度の日本侵攻(元寇)の前線基地となり、多大な負担を強いられた。&br;高麗王朝、モンゴルに降伏&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗、モンゴル-)};||
|1259|||後深草天皇譲位、恒仁親王(亀山天皇)践祚&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1259|||11/26COLOR(green):第90代 亀山天皇&size(6){(日本-日本-)};||
|1259|3|26|正嘉から正元(しょうげん)(1259.3.26)に改元&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1259|11|26|COLOR(SandyBrown):第90代亀山天皇&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1259|11|26|COLOR(SandyBrown):第89代後深草天皇が退位し、第90代亀山天皇が即位&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1260|||フビライ・ハンが即位&size(6){(東アジア-モンゴル-)};||
|1260|||フビライ・ハン即位&size(6){(東アジア-モンゴル-)};||
|1260|||フビライ・ハンが即位 &size(6){(東アジア-モンゴル-)};||
|1260|||フビライ汗の即位&size(6){(アジア-モンゴル、モンゴル-)};||
|1260|||フビライ・ハンが即位&size(6){(東アジア-モンゴル帝国-)};||
|1260|4|13|正元から文応(ぶんおう)(1260.4.13)に改元&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1260|7|16|日蓮が前執権・北條時頼に『立正安国論』を献進&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1261|||東ローマ帝国が再興&size(6){(西欧-イタリア-)};||
|1261|||パライオロゴス朝 ラテン帝国崩壊し、ビザンティン帝国復興&size(6){(西欧-イタリア-)};||
|1261|||COLOR(red):東ローマ帝国が再興(ラテン王国の滅亡)&size(6){(西欧-イタリア-)};||
|1261|||COLOR(red):東ローマ帝国が復活(ラテン王国の滅亡)&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};||
|1261|||ビザンティン帝国再興(ラテン帝国滅亡)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1261|||幕府、諸国盗賊・悪党蜂起について禁圧&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1261|2|2|弘長(こうちょう)(1261.2.2-1263)&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1261|2|20|辛酉革命の為、弘長[こうちょう/こうちやう]に改元&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1262|||ノルウェーの統治下に入る&size(6){(北欧-アイスランド、ノルウェー-)};||
|1262|||ノルウェー王国のアイスランド征服&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1262|11|28|親鸞入寂&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1263|||モスクワ大公国が建国する&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1263|||高麗、日本人の沿岸侵略禁圧を要請&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1264|||南宋・趙氏・・ 度宗&size(6){(--)};||
|1264|||度宗(趙キ、在位1264年 - 1274年)&size(6){(--)};||
|1264|||度宗(趙キ、在位1264年-1274年)&size(6){(東アジア-宋-)};||
|1264|||南宋・趙氏・・度宗&size(6){(東アジア-宋-)};||
|1264|2|28|弘長から文永(ぶんえい)(1264.2.28-1274)に改元&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1265|||COLOR(green):度宗・即位-1274&size(6){(--)};||
|1265|||イギリス国会(下院)が創設される&size(6){(西欧-イギリス-)};||
|1265|||シモン・ド・モンフォールの議会召集(イギリス議会の始)&size(6){(西欧-イギリス-)};||
|1265|||モンフォール議会-イングランド議会の基礎を築く&size(6){(西欧-イギリス-)};||
|1265|||トマス=アキナスの「神学大全」&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1265|||忠時、長子久経に薩摩守護職を譲る&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1265|4|23|熙仁(伏見天皇)生誕&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1266|||イタリア、シチリアのアンジュー家支配始まる&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1266|||引付衆廃止、評定衆が訴訟を扱う&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1267|||イタリアのスコラ神学者トマス・アクィナスの『神学大全』第1部成る&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1267|||高麗の使きたる&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1267|12|1|世仁(後宇多天皇)生誕&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1268|||時宗、執権となり、元の使者を退ける&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1268|||北条時宗が執権となる。モンゴル帝国の元からの服属要求を断る&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1268|1|2|蒙古の使者が国書を携えて来朝&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1268|8|25|世仁(後宇多天皇)立太子&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1269|||蒙古使、対馬に来着 幕府、引付を復活&size(6){(対馬)};&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1270|||第7回十字軍&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1270|||第8回十字軍開始&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1270|||COLOR(blue):開京に遷都&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1270|||COLOR(blue):開京遷都&br;COLOR(black):三別抄(精鋭軍隊)の対蒙抗争.開京遷都に反旗を翻すが失敗&br;武臣政権が終わり、開京に再遷都。三別抄の戦い始まる。&br;蒙古と講和を結び,開京遷都&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗、モンゴル-)};||
|1270|||COLOR(blue):三別抄の対%%蒙%%モンゴル抗争&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗、モンゴル-)};||
|1270|||朝廷、蒙古へ拒否の返牒作成するも幕府送らず&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1271|||元、成立&size(6){(東アジア-モンゴル-)};||
|1271|||COLOR(red):国号を元とする(元建国)(~1368)&size(6){(東アジア-モンゴル-)};||
|1271|||COLOR(red):国号を元とする(元建国)(~1368)&size(6){(東アジア-モンゴル、元-元)};||
|1271|||世祖聖徳神功文武皇帝クビライ(奇渥温忽必烈)&size(6){(東アジア-モンゴル、元-元)};||
|1271|||マルコ・ポーロ、東方へ出発(~1295)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1271|||マルコ=ポーロアジアへの旅。東方見聞録(世界の記述)。チョウジ、ナツメグの香料諸島や黄金の国ジパングなど。この本の影響で後に大航海時代へと突入する。-1295年&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1271|||元使趙良粥、国書をもたらす&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1271|9|12|日蓮が佐渡島に流される&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1272|||イギリス、エドワード1世即位(~1307)&size(6){(西欧-イギリス-)};||
|1272|||十字軍が聖地を退く&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1272|||諸国に大田文の銭出命令&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1272|||二月騒動(北条氏一族の争い)&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1272|2|17|第88代後嵯峨天皇崩御53歳&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1273|||COLOR(red):ハプスブルグ朝の成立&size(6){(西欧-ドイツ-)};||
|1273|||ドイツ、ルードルフ1世即位(~1291)し、ハプスブルク家治政始まる&size(6){(西欧-ドイツ-)};||
|1273|||COLOR(red):ハプスブルグ朝の成立&size(6){(西欧-ドイツ-)};||
|1273|||元使趙良弼、再び大宰府に来るも上京拒否&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1274|||南宋・趙氏・・ 恭宗&size(6){(--)};||
|1274|||恭帝(趙ケン、在位1274年 - 1276年)&size(6){(--)};||
|1274|||恭帝(趙ケン、在位1274年-1276年)&size(6){(東アジア-宋-)};||
|1274|||南宋・趙氏・・恭宗&size(6){(東アジア-宋-)};||
|1274|||文永の役&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1274|||1/26COLOR(green):第91代 後宇多天皇&size(6){(日本-日本-)};||
|1274|||RIGHT:COLOR(green):文永の役・水際撃退''1274''&size(6){(対馬)};&size(6){(日本、東アジア-日本、朝鮮、高麗、モンゴル-鎌倉時代)};||
|1274|||モンゴル軍と高麗軍が日本へ侵略&br;一方モンゴルのグビライは、日本を服従させようとして、2度にわたり、日本侵攻を行ったが失敗した。このとき、高麗は全線基地としての役割を命じられるが、多大な負担を強いられた。(~1281)&br;高麗と元の第一次日本侵略%%征伐%%(文永の役)&size(6){(対馬)};&size(6){(日本、東アジア-日本、朝鮮、高麗、モンゴル-)};||
|1274|||COLOR(blue):高麗・元の第一次日本征伐&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(対馬、国史年表)};&size(6){(日本、東アジア-日本、朝鮮、高麗、モンゴル-)};||
|1274|||元寇-文永の役(ぶんえいのえき)元・高麗軍(約3万人)は対馬・壱岐に続いて博多湾から上陸するが日本軍の奮闘と暴風雨で退却。&size(6){(対馬)};&size(6){(日本、東アジア-日本、朝鮮、高麗、モンゴル-鎌倉時代)};||
|1274|||元寇(文永の役)、元・高麗軍4万人が小茂田浜に来襲、対馬守護代宗資国以下80余騎戦死。島民被害甚大。&size(6){(対馬)};&size(6){(日本、東アジア-日本、朝鮮、高麗、モンゴル-)};||
|1274|1|26|COLOR(SandyBrown):第91代後宇多天皇&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1274|1|26|COLOR(SandyBrown):第90代亀山天皇が退位し第91代後宇多天皇が即位&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1274|5|11|日蓮が信奉者の招きにより鎌倉を去り身延山へ&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1274|10|5|元軍が対馬・壱岐に初来襲。文永の役が始る&size(6){(対馬)};&size(6){(日本、東アジア-日本、朝鮮、高麗、モンゴル-鎌倉時代)};||
|1275|||COLOR(green):恭宗・即位&size(6){(--)};||
|1275|||マルコ・ポーロが大都に来る&size(6){(東アジア-モンゴル-)};||
|1275|||マルコ・ポーロが大都に来る&size(6){(東アジア-モンゴル-)};||
|1275|||マルコ・ポーロが大都に来る &size(6){(東アジア-モンゴル-)};||
|1275|||マルコ=ポーロがフビライに謁する&size(6){(東アジア-モンゴル、元-元)};||
|1275|||元(モンゴル)から日本へ使者が到着するが処刑する&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1275|4|25|文永から建治(けんじ)(1275.4.25-1277)に改元&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1275|9|7|鎌倉幕府執権・北條時宗が、入貢を要求した元の使者5人を斬殺&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1276|||端宗(趙&#26160;、在位1276年-1278年)&size(6){(東アジア-宋-)};||
|1276|||南宋・趙氏・・ 端宗&size(6){(東アジア-宋-)};||
|1276|||端宗(趙&#26160;、在位1276年 - 1278年)&size(6){(東アジア-宋-)};||
|1276|||COLOR(green):端宗・即位-1278&size(6){(東アジア-宋-)};||
|1276|||幕府、博多付近の海岸に防塁を築かせる&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1276|||異国征伐を計画する。更に元寇に備えて沿岸に防塁(ぼうるい)を築く&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1277|||ビルマのパガン朝が元に服属&size(6){(アジア-ビルマ-ビルマ)};||
|1278|||衛王(趙&#26170;、在位1278年-1279年)&size(6){(東アジア-宋-)};||
|1278|||南宋・趙氏・・帝&size(6){(東アジア-宋-)};||
|1278|||南宋・趙氏・・ 帝&size(6){(東アジア-宋-)};||
|1278|||衛王(趙&#26170;、在位1278年 - 1279年)&size(6){(東アジア-宋-)};||
|1278|||元、日本商船の交易を許可&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1278|2|29|建治から弘安(こうあん)(1278.2.29-1287)に改元&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1279|||元・・世祖&size(6){(東アジア-元-)};||
|1279|||元の中国統一(南宋の滅亡)&size(6){(東アジア-元-)};||
|1279|||元・・ 世祖&size(6){(-元-)};||
|1279|||COLOR(green):帝丙・即位&size(6){(東アジア-元-)};||
|1279|||COLOR(green):フビライ(世祖)・即位-1294&size(6){(東アジア-元-)};||
|1279|||元が南宋を滅ぼす。このころ元の全盛期で東西交通が栄える&size(6){(東アジア-元、南宋-)};||
|1279|||元が南宋を滅ぼす&size(6){(東アジア-南宋、元-)};||
|1279|||元が南宋を滅ぼす。このころ元の全盛期で東西交通が栄える &size(6){(東アジア-南宋、元-)};||
|1279|||元使周福、筑紫に來着元使を博多で斬る&size(6){(日本-日本、元-鎌倉時代)};||
|1279|||元(モンゴル)から日本へ使者が到着するが処刑する&size(6){(日本-日本、元-鎌倉時代)};||
|1279|||元使周福、筑紫に來着 元使を博多で斬る&size(6){(日本-日本、元-)};||
|1280|||COLOR(blue):%%僧一然「三国遺事」編纂%%&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1280|||島津久経、忠宗に守護職を譲る&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1281|||RIGHT:COLOR(green):弘安の役・艦隊決戦''1281''&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1281|||モンゴル軍と高麗軍が再び日本侵略&br;元の第二次日本侵略(弘安の役).%%暴風雨に遭い撤退%%&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗、モンゴル-)};||
|1281|||元が日本を攻める(弘安の役)&size(6){(日本-日本、元-鎌倉時代)};||
|1281|||弘安の役…元の東路軍・江南軍博多に来襲、暴風雨で撤退&size(6){(日本-日本、元-鎌倉時代)};||
|1281|||元寇-弘安の役(こうあんのえき)再び、元・高麗軍(約14万人)が侵攻してきたが総攻撃の前に台風で壊滅する。&size(6){(日本-日本、元-鎌倉時代)};||
|1281|||元寇(弘安の役)、元・高麗・漢軍連合の東路軍が日本世界村(峰町佐賀)に来襲とあるが、被害不明。&size(6){(対馬)};&size(6){(日本-日本、元-)};||
|1281|5|21|壱岐・対馬に高麗の兵船が襲来。弘安の役の始り&size(6){(対馬)};&size(6){(日本-日本、元-鎌倉時代)};||
|1282|||イタリア、シチリアの晩鐘(フランス王家のシチリア支配後退)&size(6){(西欧-フランス-)};||
|1282|||ハンザ同盟のノルウェー経済封鎖(~1285)(ノルウェー屈服)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1282|||ハプスブルク家のオーストリア支配開始&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1282|||興福寺僧徒強訴 春日社神木動座終わる&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1282|||北条時宗が円覚寺舎利殿(えんかくじしゃりでん)を建立&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1284|||スペイン、アラゴン王国がシチリアを併合&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1284|||エドワード1世、ウェールズを併合&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1284|||北条時宗死去元使、対馬に来着&size(6){(対馬)};&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1284|||北条貞時(ほうじょうさだとき)が執権となる&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1284|||北条時宗死去 元使、対馬に来着&size(6){(日本-日本-)};||
|1285|||霜月騒動 内管領平頼綱、安達泰盛一族を滅ぼす&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1285|||霜月騒動(しもつきそうどう)有力御内人(内管領:平頼綱)と有力御家人(安達泰盛)の争い。有力御家人の壊滅。&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1285|2|2|邦治(後二条天皇)生誕&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1286|||幕府、異国警護をさらに厳重にする&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1286|||両統迭立の議が起こる(大覚寺統(南朝)、持明院統(北朝))&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1287|||10/21COLOR(green):第92代 伏見天皇&size(6){(日本-日本-)};||
|1287|10|21|COLOR(SandyBrown):第92代伏見天皇&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1287|10|21|COLOR(SandyBrown):第91代後宇多天皇が退位し、第92代伏見天皇が即位&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1288|3|3|胤仁(後伏見天皇)生誕&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1288|4|28|弘安から正応(しょうおう)(1288.4.28-1292)に改元&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1288|11|2|尊治(後醍醐天皇)生誕&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1289|4|25|胤仁(後伏見天皇)立太子&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1290|||COLOR(red):インドのハルジー朝の成立(奴隷王朝の滅亡)&size(6){(南アジア-インド-インド)};||
|1290|||COLOR(red):インドのハルジー朝の成立(奴隷王朝の滅亡)&size(6){(南アジア-インド-)};||
|1291|||十字軍の終結&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1291|||十字軍アッコより撤退(十字軍終わる)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1291|||スイス三州の同盟結成(独立運動開始)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1292|||イギリスのロジャー・ベーコン没(1214/20~)&size(6){(西欧-イギリス-)};||
|1292|||日本商船、元に交易要求、高麗使国書を呈す&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1293|||鎮西探題を置き、北条兼時を任命&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1293|||平禅門の乱(へいぜんもんのらん)北条貞時が鎌倉大地震の混乱に乗じて平頼綱とその一族を討つ。&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1293|8|5|正応から永仁(えいにん)(1293.8.5-1298)に改元&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1294|||ボニファティウス8世、教皇即位(~1303)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1294|||元・・成宗&size(6){(東アジア-元-元)};||
|1294|||成宗欽明広孝皇帝テムル(奇渥温鉄穆耳)&size(6){(東アジア-元-元)};||
|1294|||元・・ 成宗&size(6){(-元-)};||
|1294|||COLOR(green):ティムール(成宗)・即位-1307&size(6){(-元-)};||
|1294|||幕府、霜月騒動の賞罰の詮議を停止&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1294|||多聞丸(楠正成)生誕&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1295|||イギリスで模範会議&size(6){(西欧-イギリス-)};||
|1295|||模範議会-イングランド議会の模範となる議会&size(6){(西欧-イギリス-)};||
|1295|||エドワード1世の模範議会&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1296|||教皇ボニファティウス8世とフィリップ4世(フランス王)の争い始まる&size(6){(西欧-フランス-)};||
|1297|||徳政令発布(えいにんのとくせいれい)-日本初の徳政令&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1297|||永仁の徳政令&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1297|7|25|富仁(花園天皇)生誕&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1297|7|25|後の花園天皇生誕。(富仁親王,萩原院)(天皇(95代))[1348年歿]&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1298|||幕府、永仁の徳政令を停止&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1298|7|22|COLOR(SandyBrown):第93代後伏見天皇&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1298|7|22|COLOR(SandyBrown):胤仁親王が第93代後伏見天皇として即位&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1298|7|22|7/22COLOR(green):第93代 後伏見天皇&size(6){(日本-日本-)};||
|1298|8|10|邦治(後二条天皇)立太子&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1299|||マルコ・ポーロの『東方見聞録』なる&size(6){(--)};||
|1299|||鎮西評定衆を設置 鎮西引付衆を設置&size(6){(--)};||
|1299|||COLOR(red):オスマン=トルコの建国&size(6){(中東-トルコ-オスマン・トルコ)};||
|1299|||COLOR(red):オスマン・トルコ帝国の建国&size(6){(中東-トルコ-オスマン・トルコ)};||
|1299|||マルコ・ポーロ『東方見聞録』完成&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1299|||鎮西評定衆を設置鎮西引付衆を設置&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1299|4|25|永仁から正安(しょうあん)(1299.4.25-1301)に改元&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1300|||イタリアで航海用コンパス開発&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1300|||越訴を禁止&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1300|>|>|''三山時代(14世紀-1429)''&size(6){(日本-日本-)};||
|1300|||島津忠宗国中の社寺に異国降伏祈願をさせる&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1301|||1/21COLOR(green):第94代 後二条天皇&size(6){(日本-日本-)};||
|1301|1|21|COLOR(SandyBrown):第94代後二条天皇&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1301|1|21|COLOR(SandyBrown):邦治親王が第94代後二条天皇として即位&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1301|8|24|富仁親王(花園天皇)立太子&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1302|||フランスのフィリップ4世、全国三部会を開催&size(6){(西欧-フランス-)};||
|1302|||アナーニ事件-フランス国王が教皇を捕らえる&size(6){(西欧-フランス-)};||
|1302|||三部会-フランスでの身分制議会(聖職者、貴族、平民)&size(6){(西欧-フランス-)};||
|1302|||鎌倉に大火、死者500人に及ぶ&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1302|11|21|正安から乾元(けんげん)(1302.11.21)に改元&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1303|||フィリップ4世とボニファティウス8世の争い〔アナーニ事件〕&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1303|8|5|乾元から嘉元(かげん)(1303.8.5-1305)に改元。&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1304|||安コウの主張により国学に大成殿設置&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1304|||COLOR(blue):安王向の主張%%により%%で国学に大成殿%%設置%%を建てる&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1304|7|16|第89代後深草天皇が崩御&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1305|||嘉元の乱(かげんのらん)-北条宗方の乱&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1305|9|15|第90代亀山天皇が崩御&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1306|||日本商船、元の慶元(寧波)に赴き交易&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1306|12|14|嘉元から徳治(とくじ)(1306.12.14-1307)に改元&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1307|||武宗仁恵宣孝皇帝カイシャン(奇渥温海山)&size(6){(東アジア-モンゴル、元-元)};||
|1307|||鎮西探題、蒙古合戦の恩賞地を配分する&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1308|||元・・ 武宗&size(6){(東アジア-モンゴル、元-元)};||
|1308|||COLOR(green):ハイシャン(武宗)・即位-1311&size(6){(-元-)};||
|1308|||8/26COLOR(green):第95代 花園天皇&size(6){(日本-日本-)};||
|1308|8|25|第94代後二条天皇崩御24歳&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1308|8|26|COLOR(SandyBrown):第95代花園天皇&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1308|8|26|COLOR(SandyBrown):第95代花園天皇が即位&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1308|9|19|尊治(後醍醐天皇)立太子&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1308|10|9|徳治から延慶(えんぎょう)(1308.10.9-1310)に改元&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1309|||教皇庁がフランスのアビニョンに移される〔アビニョン教皇庁(~1377)〕&size(6){(西欧-フランス-)};||
|1309|||教皇のバビロン捕囚。教皇庁を南フランスのアヴィニョンに移設。-1377年&size(6){(西欧-フランス-)};||
|1309|||教皇のアビニョン捕囚&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1310|||幕府、苅田狼藉を所務沙汰から検断沙汰に移す&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1311|||元・・仁宗&size(6){(東アジア-モンゴル、元-元)};||
|1311|||仁宗聖文欽孝皇帝アユルバルワダ(奇渥温愛育黎抜力八達)&size(6){(東アジア-モンゴル、元-元)};||
|1311|||元・・ 仁宗&size(6){(東アジア-元-)};||
|1311|||COLOR(green):アユルバリバトラ(仁宗)・即位-1320&size(6){(東アジア-元-)};||
|1311|4|28|延慶から応長(おうちょう)(1311.4.28)に改元&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1312|||テンプル騎士修道会解散〔テンプル騎士修道会事件〕&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1312|3|20|応長から正和(しょうわ)(1312.3.2-1316)に改元&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1313|||ダンテの『神曲』ができる&size(6){(--)};||
|1313|||このころからイタリアにルネッサンス(文芸復興)が始まる&size(6){(西欧-イタリア-)};||
|1313|||ドイツで火薬が発明される&size(6){(西欧-ドイツ-)};||
|1313|||ドイツのシュバイツ、黒色火薬を火砲に応用&size(6){(西欧-ドイツ-)};||
|1313|7|9|量仁(光厳天皇)生誕&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1314|||萬巻堂設置&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1314|||COLOR(blue):萬巻堂の設置&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1315|||スイス三州の同盟軍、オーストリア軍を破る〔モルガルテンの戦い〕&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1316|||北条高時、執権となる&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1317|||文保の和談&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1317|||文保の和談(ぶんぽうのわだん)-皇位継承を巡る幕府からの和談&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1317|2|3|正和から文保(ぶんぽう)(1317.2.3-1318)に改元&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1317|9|3|第92代伏見天皇崩御53歳&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1318|||この年、僧多数入元&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1318|||COLOR(SandyBrown):後醍醐天皇が即位する(初代南朝天皇)&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1318|||2/26COLOR(green):第96代 後醍醐天皇&size(6){(日本-日本-)};||
|1318|.02.26||COLOR(SandyBrown):第96代後醍醐天皇&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1318|2|26|COLOR(SandyBrown):第95代花園天皇が退位し尊治親王が第96代後醍醐天皇として即位&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1319|4|28|文保から元応(げんおう)(1319.4.28-1320)に改元&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1320|||COLOR(red):インドのトグルク朝成立(ハルジー朝滅亡)&size(6){(南アジア-インド-インド)};||
|1320|||COLOR(red):インドのトグルク朝成立(ハルジー朝滅亡)&size(6){(南アジア-インド-)};||
|1320|||英宗睿聖文孝皇帝シデバラ(奇渥温碩徳八刺)&size(6){(東アジア-モンゴル、元-元)};||
|1320|||ウワディスワフ1世即位、ポーランド王国成立&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1320|||出羽の蝦夷、安東氏の内紛で蜂起&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1321|||元・・ 英宗&size(6){(東アジア-モンゴル-)};||
|1321|||COLOR(green):シデバラ(英宗)・即位-1323&size(6){(東アジア-モンゴル-)};||
|1321|||元・・英宗&size(6){(東アジア-モンゴル、元-元)};||
|1321|||ダンテの「神曲」&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1321|||イタリアの詩人ダンテ没(1265~)、『神曲』完成&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1321|||院政をやめ、後醍醐天皇親政&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1321|2|23|元応から元亨(げんこう)(1321.2.23-1323)に改元&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1321|12|9|後醍醐天皇が、後宇多天皇の院政を廃して親政を敷く&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1321|12|23|豊仁(光明天皇)生誕&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1322|||安藤氏の乱(蝦夷の蜂起と安藤氏の内紛)&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1323|||元・・泰定帝&size(6){(東アジア-モンゴル、元-元)};||
|1323|||泰定帝イェスン・テムル(奇渥温也孫鉄木児)&size(6){(東アジア-モンゴル、元-元)};||
|1323|||アラゴン王国、サルデーニャ島を征服&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1323|||元・・ 泰定帝&size(6){(東アジア-元-)};||
|1323|||COLOR(green):エスン・ティムール(泰定帝)・即位-1328&size(6){(東アジア-元-)};||
|1324|||正中の変&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1324|||正中の変(しょうちゅうのへん)-後醍醐天皇による討幕計画で失敗&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1324|6|25|第91代後宇多天皇崩御58歳&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1324|9|19|正中の変。六波羅探題が兵を遣し、鎌倉幕府討滅を企てた後醍醐天皇方の土岐頼兼・多治見國長らを殺害し、日野資朝・俊基を捕える&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1324|12|9|元亨から正中(しょうちゅう)(1324.12.9-1325)に改元&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1325|||幕府、建長寺船を元に遣わす&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1326|||嘉暦の騒動(かりゃくのそうどう)-北条氏の家督争い&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1326|||7/24COLOR(green):北朝1代 光厳天皇&size(6){(日本-日本-)};||
|1326|.07.24||COLOR(SandyBrown):北朝1代光厳天皇&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1326|4|24|道長と関白の座を争っていた藤原伊周が道長の策謀により太宰権師に左遷される。&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1326|4|26|正中から嘉暦(かりゃく)(1326.4.26-1328)に改元&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1326|7|24|量仁(光厳天皇)立太子&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1327|||東大寺の訴えにより、伊加黒田荘の悪党退治&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1328|||元・・ 文宗&size(6){(--)};||
|1328|||COLOR(red):カペー朝断絶、バロア朝成立&size(6){(--)};||
|1328|||COLOR(green):トゥク・ティムール(文宗)・即位 (1329-1332)&size(6){(--)};||
|1328|||フランス、シャルル4世没し(1294~)、カペー朝断絶。フィリップ6世即位し(~1350)、バロア朝成立(~1589)&size(6){(西欧-フランス-)};||
|1328|||COLOR(red):カペー朝断絶、バロア朝成立&size(6){(西欧-フランス、バロア朝-)};||
|1328|||モスクワ大公国がキプチャク汗国から自立&size(6){(アジア-モスクワ大公国-)};||
|1328|||元・・文宗&size(6){(東アジア-モンゴル、元-元)};||
|1328|||天順帝アリギバ(奇渥温阿速吉八)&size(6){(東アジア-モンゴル、元-元)};||
|1328|||モスクワ公国のイワン1世、大公を称す(モスクワ大公国)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1328|||義良親王(後村上天皇)生誕&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1329|||元・・ 明宗&size(6){(東アジア-モンゴル-)};||
|1329|||COLOR(green):ホシャラ(明宗)・即位&size(6){(東アジア-モンゴル-)};||
|1329|||元・・明宗&size(6){(東アジア-モンゴル、元-元)};||
|1329|||文宗聖明元孝皇帝トク・テムル(奇渥温図帖睦爾)&size(6){(東アジア-モンゴル、元-元)};||
|1329|||明宗翼献景孝皇帝コシラ(奇渥温和世剌)&size(6){(東アジア-モンゴル、元-元)};||
|1329|8|29|嘉暦から元徳(げんとく)(1329.8.29-1330)に改元&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1330|||セルビア、ブルガリアを破る&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1330|||ルーマニアのワラキア公国、ハンガリーから独立&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1330|||延暦寺宗徒、一向宗の禁圧を請う&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1330|||年頃吉田兼好による随筆「徒然草」ができる&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1331|||セルビア王国の圧迫オスマン・トルコにニケーアを奪われる&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};||
|1331|||セルビア王ドゥシャン、全バルカンの覇権掌握&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|1331|||元弘(南朝)&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1331|>|>|''室町(南北朝)時代''&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1331|||元弘の変笠置遷幸楠木正成挙兵&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1331|||元弘の乱(げんこうのらん)後醍醐天皇による討幕計画で失敗。護良親王(もりよししんのう)や楠木正成(くすのきまさしげ)などが挙兵した。&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1331|||COLOR(SandyBrown):-09光厳天皇が即位する(初代北朝天皇)&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1331|||元弘の変 笠置遷幸 楠木正成挙兵&size(6){(日本-日本-)};||
|1331|5|5|元弘の変。後醍醐天皇の再度の倒幕計画が室町幕府に漏洩し日野俊基らを逮捕。天皇は笠置山に籠城&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1331|8|9|元弘(げんこう)(1331.8.9-1333)南朝は元徳3年「元弘」と改元。&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1331|8|9|元徳から元弘(げんこう)に改元&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1331|8|27|元弘の変(倒幕計画)に失敗した後醍醐天皇が神器とともに奈良・笠置山に逃れる&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1331|9|11|元弘の乱で窮地に陥った後醍醐天皇の召しに応じて楠木正成が挙兵&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1331|9|20|COLOR(SandyBrown):北朝の光厳天皇が即位&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1331|9|28|笠置山に蘢っていた後醍醐天皇が挙兵。幕府が足利尊氏軍を指し向ける&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1331|9|29|後醍醐天皇の行在所である笠置山が幕府軍により全焼。逃れた後醍醐天皇は囚われの身となる。&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1331|10|21|攻め寄る幕府軍に対して河内国赤坂城に蘢城していた楠木正成が城に火をかけて脱出&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1332|||寧宗冲聖嗣孝皇帝イリンジバル(奇渥温額琳只班)&size(6){(東アジア-モンゴル、元-元)};||
|1332|||後醍醐天皇、隠岐に流さる&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1332|||後醍醐天皇が隠岐に流刑(翌年、脱出する)&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1332|4|28|元弘から正慶(北朝)(しょうけい)(1332.4.28-1333)北朝は元徳4年「正慶」と改元。&size(6){(日本-日本-鎌倉時代)};||
|1333|||アルハンブラ宮殿なる&size(6){( - -)};||
|1333|||アルハンブラ宮殿なる&size(6){(--)};||
|1333|||元・・ 順帝&size(6){(--)};||
|1333|||COLOR(green):トゴン・ティムール(順帝)・即位-1368&size(6){(--)};||
|1333|||恵宗トゴン・テムル&size(6){(東アジア-モンゴル、元-元)};||
|1333|||元・・順帝&size(6){(東アジア-モンゴル、元-元)};||
|1333|||順帝トゴン・テムル(奇渥温妥懽帖睦爾)「順帝」は明により贈られた諡号&size(6){(東アジア-モンゴル、元-元)};||
|1333|||RIGHT:COLOR(green):鎌倉幕府滅亡''1333''&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1333|>|>|''鎌倉時代→建武中興(1333-1335)''&size(6){(日本-日本-鎌倉時代→建武中興)};||
|1333|||鎌倉幕府滅亡&size(6){(日本-日本-鎌倉時代→建武中興)};||
|1333|||建武中興(1333-1335)&size(6){(日本-日本-鎌倉時代→建武中興)};||
|1333|||島津貞久、大隈国守護職貞久、鎮西探題を攻撃&size(6){(日本-日本-鎌倉時代→建武中興)};||
|1333|||松平親氏生誕(推定)&size(6){(日本-日本-鎌倉時代→建武中興)};||
|1333|||鎌倉幕府の滅亡&size(6){(日本-日本-鎌倉時代→建武中興)};||
|1333|||鎌倉時代末期一遍(いっぺん)が時宗(じしゅう)を伝える(踊り念仏)&size(6){(日本-日本-鎌倉時代→建武中興)};||
|1333|||建武の新政1333~1336&size(6){(日本-日本-鎌倉時代→建武中興)};||
|1333|||南朝(大覚寺統)初代:後醍醐天皇、奈良の吉野、新田義貞・楠正成・北畠顕家。&size(6){(日本-日本-鎌倉時代→建武中興)};||
|1333|||北朝(持明院統)初代:光厳天皇、京都、足利尊氏・足利直義・高師直。&size(6){(日本-日本-鎌倉時代→建武中興)};||
|1333|||護良親王(後醍醐天皇の子)が征夷大将軍となる記録所、恩賞方、雑訴決断所、武者所を設置する&size(6){(日本-日本-鎌倉時代→建武中興)};||
|1333|||島津貞久、大隈国守護職 貞久、鎮西探題を攻撃&size(6){(日本-日本-)};||
|1333|||建武中興(1333 - 1335)&size(6){(日本-日本-)};||
|1333|||鎌倉時代→南北朝時代&size(6){(日本-日本-)};||
|1333|4|18|足利尊氏が後醍醐天皇による討幕挙兵討伐のため入京&size(6){(日本-日本-鎌倉時代→建武中興)};||
|1333|4|27|倒幕挙兵討伐の為に丹波に入っていた足利尊氏が、後醍醐天皇に応じて倒幕を決意し挙兵&size(6){(日本-日本-鎌倉時代→建武中興)};||
|1333|5|7|倒幕に転じた足利尊氏の攻撃により京都・六波羅探題が陥落&size(6){(日本-日本-鎌倉時代→建武中興)};||
|1333|5|7|京都の統治機関である六波羅探題が足利尊氏(あしかがたかうじ)により壊滅。&size(6){(日本-日本-鎌倉時代→建武中興)};||
|1333|5|8|新田義貞が上野国で北條氏討伐の旗揚げ&size(6){(日本-日本-鎌倉時代→建武中興)};||
|1333|5|9|足利尊氏に攻撃され敗走した六波羅探題・北條仲時が、近江で自刃。432人が殉死した。&size(6){(日本-日本-鎌倉時代→建武中興)};||
|1333|5|22|新田義貞が鎌倉幕府(14代執権北条高時、北条一族)へ攻め込み滅亡させる。&size(6){(日本-日本-鎌倉時代→建武中興)};||
|1333|5|25|北朝の光厳天皇が南朝の後醍醐天皇に譲位し一旦南北朝が合一&size(6){(日本-日本-鎌倉時代→建武中興)};||
|1333|5|25|九州の統治機関である鎮西探題(ちんぜいたんだい)が少弐貞経(しょうにさだつね)・大友貞宗・島津貞久により壊滅。&size(6){(日本-日本-鎌倉時代→建武中興)};||
|1333|8|15|COLOR(SandyBrown):北朝の光明天皇が即位。再び南北朝分離へ&size(6){(日本-日本-鎌倉時代→建武中興)};||
|1334|||建武中興&size(6){(日本-日本-鎌倉時代→建武中興)};||
|1334|||島津荘日向南郷で北條氏縁故者が挙兵&size(6){(日本-日本-鎌倉時代→建武中興)};||
|1334|||日本で建武の中興&size(6){(日本-日本-鎌倉時代→建武中興)};||
|1334|>|>|''鎌倉時代/室町時代''&size(6){(日本-日本-鎌倉時代→建武中興)};||
|1334|||建武の新政(けんむのしんせい)後醍醐天皇による親政で延喜・天暦の治(えんぎ・てんりゃくのち)を理想とする。武士よりも貴族・寺社を重んじた為、武士の不満が高まる。&size(6){(日本-日本-鎌倉時代→建武中興)};||
|1334|||-08二条河原の落書(新政府の混乱状態をかいたもの)&size(6){(日本-日本-鎌倉時代→建武中興)};||
|1334|1|29|1/29建武(けんむ)(1334.1.29-1335)&size(6){(--)};||
|1334|1|29|正慶から建武(けんむ)(1334.1.29-1335)に改元&size(6){(日本-日本-鎌倉時代→建武中興)};||
|1334|1|29|建武(南朝)&size(6){(日本-日本-鎌倉時代→建武中興)};||
|1334|1|29|建武(北朝)&size(6){(日本-日本-鎌倉時代→建武中興)};||
|1334|4|22|興仁(崇光天皇)生誕&size(6){(日本-日本-鎌倉時代→建武中興)};||
|1334|5|3|後醍醐天皇が借金に苦しむ人々を救う為の徳政令を発布&size(6){(日本-日本-鎌倉時代→建武中興)};||
|1335|||足利尊氏そむく&size(6){(日本-日本-建武中興→室町時代)};||
|1335|||-07中先代の乱(なかせんだいのらん)北条時行の反乱で幕府の再興を果たしたが、足利尊氏によって20日間で滅びた。&size(6){(日本-日本-建武中興→室町時代)};||
|1335|||-1336延元の乱(足利尊氏が後醍醐天皇の政権に対して挙兵)&size(6){(日本-日本-建武中興→室町時代)};||
|1335|||-12箱根・竹ノ下の戦い(足利尊氏は新田義貞を破る)&size(6){(日本-日本-建武中興→室町時代)};||
|1335|7|23|中先代の乱。鎌倉に幽閉中の護良親王を足利尊氏の弟・直義が暗殺&size(6){(日本-日本-建武中興→室町時代)};||
|1335|8|9|足利尊氏が北條時行を討つ為の征東将軍に任ぜられ、鎌倉へ出発&size(6){(日本-日本-建武中興→室町時代)};||
|1335|11|19|新田義貞らが足利尊氏追討の為、京都を出発&size(6){(日本-日本-建武中興→室町時代)};||
|1335|12|11|箱根・竹ノ下の戦い。建武新政府に叛旗を翻した足利尊氏が新田義貞軍を破る。南北朝動乱の始り&size(6){(日本-日本-建武中興→室町時代)};||
|1336|>|>|''建武中興→室町時代(1336-1573)''&size(6){(日本-日本-建武中興→室町時代)};||
|1336|||延元(南朝)&size(6){(日本-日本-建武中興→室町時代)};||
|1336|||尊氏東上、湊川の戦、正成戦死&size(6){(日本-日本-建武中興→室町時代)};||
|1336|||貞久、重久篤兼に肝付氏の属城加瀬田城を攻めさせる&size(6){(日本-日本-建武中興→室町時代)};||
|1336|||北山文化&size(6){(日本-日本-建武中興→室町時代)};||
|1336|||COLOR(SandyBrown):豊仁親王が北朝第2代光明天皇として即位&size(6){(日本-日本-建武中興→室町時代)};||
|1336|||楠正成が数百の手勢で兵庫に向け出陣。湊川の戦いでは足利尊氏が楠木正成を破る。正成は一族とともに自害&size(6){(日本-日本-建武中興→室町時代)};||
|1336|||第93代後伏見天皇崩御49歳&size(6){(日本-日本-建武中興→室町時代)};||
|1336|||足利尊氏が、幕府の基本的な政治方針「建武式目」を制定。室町幕府が成立&size(6){(日本-日本-建武中興→室町時代)};||
|1336|||新田義貞が京都を奪回&size(6){(日本-日本-建武中興→室町時代)};||
|1336|||新田義貞・名和長年らが京都で足利尊氏を迎え討つが敗れる&size(6){(日本-日本-建武中興→室町時代)};||
|1336|||建武から延元(えんげん)に改元&size(6){(日本-日本-建武中興→室町時代)};||
|1336|>|>|''室町時代-[1336年~1573年]''&size(6){(日本-日本-建武中興→室町時代)};||
|1336|||COLOR(SandyBrown):-08光明天皇が即位する(北朝)&size(6){(日本-日本-建武中興→室町時代)};||
|1336|||-11足利尊氏が建武式目を定める&size(6){(日本-日本-建武中興→室町時代)};||
|1336|||-12後醍醐天皇は吉野へ逃れる(南朝)&size(6){(日本-日本-建武中興→室町時代)};||
|1336|>|>|''南北朝時代(1336-1392)''&size(6){(日本-日本-建武中興→室町時代)};||
|1336|||建武中興→室町時代(1336 - 1573)&size(6){(日本-日本-)};||
|1336|1||足利尊氏は入京する。後醍醐天皇は比叡山へ&size(6){(日本-日本-建武中興→室町時代)};||
|1336|2||豊島河原合戦(足利尊氏と新田義貞・北畠顕家(きたばたけあきいえ)の戦い。足利尊氏は九州へ敗走)&size(6){(日本-日本-建武中興→室町時代)};||
|1336|2.29||延元(えんげん)(1336.2.29-1339)&size(6){(日本-日本-建武中興→室町時代)};||
|1336|3||多々良浜の戦い(足利尊氏は菊池武敏を破り九州を固める)&size(6){(日本-日本-建武中興→室町時代)};||
|1336|5||湊川の戦い足利尊氏・足利直義と新田義貞・楠木正成の戦いで、足利尊氏が勝利する&size(6){(日本-日本-建武中興→室町時代)};||
|1336|6||足利尊氏が入京する&size(6){(日本-日本-建武中興→室町時代)};||
|1336|8|15|COLOR(SandyBrown):北朝2代光明天皇&size(6){(日本-日本-建武中興→室町時代)};||
|1336|12|21|後醍醐天皇が幽閉中の花山院を抜け出して吉野・金峰山に潜幸。南北朝対立が始る&size(6){(日本-日本-建武中興→室町時代)};||

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