柳生家(柳生藩)
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柳生家(柳生藩)
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[[江戸大名公家]] 柳生家 柳生藩 吾亦紅(われもこう) に雀 1万2500石 大和添上郡柳生(奈良市) 譜代 陣屋 移封加減増履歴・寛永13年→大和国内で1万石・寛永17年→大和柳生1万2500石 江戸城詰席・菊之間 子爵 上屋敷・木挽町五丁目(安永)→増上寺裏門前(文久・明治) 参勤・定府だが、帰国することもあり、宗冬・宗在・俊則・俊章は伊賀上野を通っている ※陣屋は寛永19年(1642)に竣工したが、延享4年(1747)12月10日夜に全焼したため、以後は仮建築のまま明治に至っている 人口・全領地6884人 享保11年(1726)現在 藩祖・宗矩(むねのり) 柳生宗巌(石舟斎)の五男 母は興原助豊の娘 生没・元亀2年(1571)~正保3年(1646) 関ヶ原の戦い後に旧領柳生庄で2000石を知行 将軍秀忠・家光の剣法師範として新陰流を教授 寛永17年(1640)相次ぐ加増により1万2500石となり、柳生を居所とする 正保3年(1646)将軍家光が柳生江戸邸に病の宗矩を見舞う 従五位下但馬守(後に贈従四位下) 正室・松下之綱の娘(之綱は秀吉の属将、子重綱は陸奥二本松藩主、子長綱は発狂から除封) 子女・2代三厳 友矩(病没) 宗冬(三厳養子、3代) 六郎(義仙) 2代・三厳(みつよし) 宗矩長男 母は正室松下之綱の娘 生没・慶長12年(1607)~慶安3年(1650) 元和2年(1616)秀忠に仕えるも勘気をこうむる 寛永15年(1638)許されて書院番士となる、通称は十兵衛 家督・正保3年(1646)父の遺領の内8300石を相続し、4000石を弟宗冬、200石を義仙に分与 正室・秋篠氏 子女・養子宗冬(3代) 3代・宗冬(むねふゆ) 宗矩三男 母は正室松下之綱の娘 生没・慶長18年(1613)~延宝3年(1675) 家督・慶安3年(1650)相続 明暦2年(1656)家綱への剣術指南を命ぜられる 従五位下飛騨守 正室・峯山藩京極高通の娘 子女・宗春(病没) 4代宗在 4代・宗在(むねあり) 宗冬次男 母は正室京極高通の娘 生没・承応3年(1654)~元禄2年(1689) 家督・延宝3年(1675)相続 天和2年(1682)剣術秘伝書を献上 従五位下対馬守 正室・五条為庸の娘 子女・養子俊方(5代) 隆久(三田藩九鬼副隆養子) 5代・俊方(としかた) 3代宗冬の長男宗春の長男 母は三田藩九鬼久隆の娘 生没・延宝元年(1673)~享保15年(1730) 家督・元禄2年(1689)相続 正徳2年(1712)家宣の剣術指南として家臣村田久辰を上げる、後に久辰は家宣の側近となり柳生の称を許され、旗本柳生家の祖となる 従五位下備前守 正室・津和野藩亀井茲政の娘 継室・亀田藩岩城重隆の娘 子女・養子宗盈(岸和田藩岡部長泰の五男、病により離縁) 養子矩美(鹿野藩池田仲澄の五男、病没) 養子俊平(6代) 6代・俊平(としひら) 桑名藩松平定重の11男 母は某氏 生没・元禄12年(1699)~明和5年(1768) 家督・享保15年(1730)相続 従五位下飛騨守 寛保2年(1742)隠居 正室・臼杵藩稲葉恒通の娘 子女・養子俊峯(7代) 7代・俊峯(としみね) 松代藩真田信弘の四男 母は某氏 生没・享保4年(1719)~宝暦13年(1763) 家督・寛保2年(1742)相続 従五位下備前守 正室・小諸藩牧野康重の娘 子女・養子俊則(8代) 女子→8代俊則室 8代・俊則(としのり) 松前藩松前邦広の次男 母は某氏 生没・享保15年(1730)~文化13年(1816) 家督・宝暦13年(1763)相続 将軍及び側近役に剣術を指南 寛政3年(1791)家伝の奥義書を献上 従五位下能登守 文化4年(1807)隠居 正室・俊峯の娘 子女・養子俊豊(9代) 9代・俊豊(としもり) 郡山藩柳沢保光の六男 母は某氏 生没・寛政2年(1790)~文政3年(1820) 家督・文化4年(1807)相続 従五位下但馬守 正室・村松藩堀直方の娘 子女・10代俊章 10代・俊章(としあきら) 俊豊の子 母は某氏 生没・文化6年(1809)~文久2年(1862) 家督・文政3年(1820)相続 従五位下備前守 嘉永2年(1849)隠居 正室・相良藩田沼意正の娘 子女・養子俊能(11代) 11代・俊能(としよし) 相良藩田沼意正の次男 母は某氏 生没・天保元年(1830)~嘉永3年(1850) 家督・嘉永2年(1849)相続 従五位下飛騨守 正室・不詳 子女・養子俊順(12代) 12代・俊順(としむね) 高家武田信之の次男 母は某氏 生没・天保7年(1836)~文久2年(1862) 家督・嘉永3年(1850)相続 将軍家定に剣術を指南す 従五位下対馬守 正室・日出藩木下俊敦の娘 子女・養子俊益(13代) 13代・俊益(とします、後に俊郎と改名) 高家武田信之の五男 母は某氏 生没・嘉永4年(1851)~昭和2年(1927) 家督・文久2年(1862)相続 従五位下但馬守 正室・四辻公績の娘
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[[江戸大名公家]] 柳生家 柳生藩 吾亦紅(われもこう) に雀 1万2500石 大和添上郡柳生(奈良市) 譜代 陣屋 移封加減増履歴・寛永13年→大和国内で1万石・寛永17年→大和柳生1万2500石 江戸城詰席・菊之間 子爵 上屋敷・木挽町五丁目(安永)→増上寺裏門前(文久・明治) 参勤・定府だが、帰国することもあり、宗冬・宗在・俊則・俊章は伊賀上野を通っている ※陣屋は寛永19年(1642)に竣工したが、延享4年(1747)12月10日夜に全焼したため、以後は仮建築のまま明治に至っている 人口・全領地6884人 享保11年(1726)現在 藩祖・宗矩(むねのり) 柳生宗巌(石舟斎)の五男 母は興原助豊の娘 生没・元亀2年(1571)~正保3年(1646) 関ヶ原の戦い後に旧領柳生庄で2000石を知行 将軍秀忠・家光の剣法師範として新陰流を教授 寛永17年(1640)相次ぐ加増により1万2500石となり、柳生を居所とする 正保3年(1646)将軍家光が柳生江戸邸に病の宗矩を見舞う 従五位下但馬守(後に贈従四位下) 正室・松下之綱の娘(之綱は秀吉の属将、子重綱は陸奥二本松藩主、子長綱は発狂から除封) 子女・2代三厳 友矩(病没) 宗冬(三厳養子、3代) 六郎(義仙) 2代・三厳(みつよし) 宗矩長男 母は正室松下之綱の娘 生没・慶長12年(1607)~慶安3年(1650) 元和2年(1616)秀忠に仕えるも勘気をこうむる 寛永15年(1638)許されて書院番士となる、通称は十兵衛 家督・正保3年(1646)父の遺領の内8300石を相続し、4000石を弟宗冬、200石を義仙に分与 正室・秋篠氏 子女・養子宗冬(3代) 3代・宗冬(むねふゆ) 宗矩三男 母は正室松下之綱の娘 生没・慶長18年(1613)~延宝3年(1675) 家督・慶安3年(1650)相続 明暦2年(1656)家綱への剣術指南を命ぜられる 従五位下飛騨守 正室・峯山藩京極高通の娘 子女・宗春(病没) 4代宗在 4代・宗在(むねあり) 宗冬次男 母は正室京極高通の娘 生没・承応3年(1654)~元禄2年(1689) 家督・延宝3年(1675)相続 天和2年(1682)剣術秘伝書を献上 従五位下対馬守 正室・五条為庸の娘 子女・養子俊方(5代) 隆久(三田藩九鬼副隆養子) 5代・俊方(としかた) 3代宗冬の長男宗春の長男 母は三田藩九鬼久隆の娘 生没・延宝元年(1673)~享保15年(1730) 家督・元禄2年(1689)相続 正徳2年(1712)家宣の剣術指南として家臣村田久辰を上げる、後に久辰は家宣の側近となり柳生の称を許され、旗本柳生家の祖となる 従五位下備前守 正室・津和野藩亀井茲政の娘 継室・亀田藩岩城重隆の娘 子女・養子宗盈(岸和田藩岡部長泰の五男、病により離縁) 養子矩美(鹿野藩池田仲澄の五男、病没) 養子俊平(6代) 6代・俊平(としひら) 桑名藩松平定重の11男 母は某氏 生没・元禄12年(1699)~明和5年(1768) 家督・享保15年(1730)相続 従五位下飛騨守 寛保2年(1742)隠居 正室・臼杵藩稲葉恒通の娘 子女・養子俊峯(7代) 7代・俊峯(としみね) 松代藩真田信弘の四男 母は某氏 生没・享保4年(1719)~宝暦13年(1763) 家督・寛保2年(1742)相続 従五位下備前守 正室・小諸藩牧野康重の娘 子女・養子俊則(8代) 女子→8代俊則室 8代・俊則(としのり) 松前藩松前邦広の次男 母は某氏 生没・享保15年(1730)~文化13年(1816) 家督・宝暦13年(1763)相続 将軍及び側近役に剣術を指南 寛政3年(1791)家伝の奥義書を献上 従五位下能登守 文化4年(1807)隠居 正室・俊峯の娘 子女・養子俊豊(9代) 9代・俊豊(としもり) 郡山藩柳沢保光の六男 母は某氏 生没・寛政2年(1790)~文政3年(1820) 家督・文化4年(1807)相続 従五位下但馬守 正室・村松藩堀直方の娘 子女・10代俊章 10代・俊章(としあきら) 俊豊の子 母は某氏 生没・文化6年(1809)~文久2年(1862) 家督・文政3年(1820)相続 従五位下備前守 嘉永2年(1849)隠居 正室・相良藩田沼意正の娘 子女・養子俊能(11代) 11代・俊能(としよし) 相良藩田沼意正の次男 母は某氏 生没・天保元年(1830)~嘉永3年(1850) 家督・嘉永2年(1849)相続 従五位下飛騨守 正室・不詳 子女・養子俊順(12代) 12代・俊順(としむね) 高家武田信之の次男 母は某氏 生没・天保7年(1836)~文久2年(1862) 家督・嘉永3年(1850)相続 将軍家定に剣術を指南す 従五位下対馬守 正室・日出藩木下俊敦の娘 子女・養子俊益(13代) 13代・俊益(とします、後に俊郎と改名) 高家武田信之の五男 母は某氏 生没・嘉永4年(1851)~昭和2年(1927) 家督・文久2年(1862)相続 従五位下但馬守 正室・四辻公績の娘
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