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[[独り言(Historical)]] #menu(menu_Historical) 9-Dec-2000 先週の日曜日(12/3)、「多元」という古田一派の団体主宰の、 古田武彦氏の講演に参加してきました。 えー、古田武彦というのは、 『「邪馬台国」はなかった』という、知る人ぞ知る本を書いて、 古代史の世界では、そこそこ有名な、かわにしのもっとも影響を受けた、 古代史家です。 …で、講演の内容は、というと、 藤村氏(捏造の人)の話と、藤村氏の捏造を看破できなかった「自然科学的方法」の話。 「大王(おほきみ)は神にしませば…」の歌の話。 「曲水の宴(歌詠みの遊び=天子の遊び)」の跡が九州と、東北にあったという話。 「天皇陵古墳」の軍事的意味の話。 などなどで、どれも、かなり面白い内容でしたが、それらについては、 かわにし説を含めて、いずれお話します。 かわにしは、前から疑問に思っていることがありました。 その前に、その前提となるお話をしましょう。 「倭の五王」について。 倭の五王(讃・珍・済・興・武)について、歴代天皇に擬する諸説があるが、いずれも、年代・系図・日本列島側の説話からいって、しっくりこない。=天皇家ではない可能性が高い。 五王、とくに倭王武の上表文に依れば、彼等が都したのは、九州である。 隋書について。 「日出づる処の天子」を称したのは、男性(「妻を鶏弥という」という記述あり)である。=推古天皇ではない。 明確に「第一の王者」を称しており、聖徳太子(No.2)ではない。 隋書自体の地理描写により、「日出づる処の天子」がいたのは、九州である。 旧唐書について。 「倭国伝」と「日本伝」が別れている。 「倭国」と「日本」は、その領域についての記述が異なり、別国である。 「日本伝」の描写は、「続日本紀」とよく一致するが、「倭国伝」は、全く一致しない。 という点などから、いわゆる「倭国」は、九州を中心とした王朝、「日本」は近畿を中心とした王朝である。(いわゆる「ヤマト朝廷」)という説を打ち出したのが古田氏です。 …で、古田説の肝要の一点は、 「九州王朝は、白村江の敗北によって滅亡した」 ということにあります。 そして、その後の701年(大宝元年)、「日本国」が「倭国」に替わり日本列島の王者となった、 というのです。 つまり、「白村江」は、九州の「倭国」の王者が指揮して行ったものである、ということです。 つけくわえれば、「日本」はこの戦いには消極的だった、のです。 かわにしとしては、この説に、ほとんど賛成なのですが、 いまいち、よくわからない問題があります。 日本書紀には、「倭王」の果たした業績を、さも「日本国」の天皇がなしたかのように、 書かれた部分が多々あります。 それらの一つ一つにはここではふれませんが、 要は、「日本書紀」という本は、「倭王」の業績を全て「日本」の天皇の業績にすり替え、 「倭国」の存在を極力消そう、という性格の本である、というのが古田氏の力説するところです。 で、ここでわからない。 「なぜ、日本書紀には、白村江の敗北が堂々と描かれているのか」という問題です。 白村江の戦いについて、あれだけの大敗北を喫しながら、「日本国」-天皇家側の重要人物、 中大兄皇子(天智天皇)・大海人皇子(天武天皇)・中臣鎌足らを初めとした人たちは、まったくの安泰です。 このことから、「日本国」側は、白村江に出兵しなかった、と考えることが出来ます。 戦後の日本じゃないですが、あれだけの大敗北に、人々をミスリードしてしまったら、 国民みんなから総スカンをくらって、とてもとても、権力の座に安泰、というわけにも行かないでしょう。 しかも、対戦国の唐・新羅とは、701年以降も、頻繁に外交を行っている上、 「日本国」は、律令・制度などの多くを、唐を手本とし、模倣しています。 そういう外交上の立場からも、720年(日本書紀成立の年)になって、いまさら、 「白村江」は「日本」の天皇の指揮の下に行われた、などと、(わざわざウソを)語るのは天皇家にとって不利だと考えざるを得ません。 古田氏は、 「記紀は天皇家にとって有利になるように加削されても、不利になるように加削されることはない」 といいますが、この場合だけは、逆だということになります。 で、これを質問したんですが、 回答はこんな感じでした。 「本当は白村江には触れたくなかったんだが、国際的に触れないわけには行かなかったので、 やむなく、天智天皇を天皇ではなく、「称制」として、責任者不在という状態にして、 触れることにした」 ということでした。 うーん、ちょっと納得できません。 まぁ、疑問が解決したわけではありませんでしたが、かわにしにとっては、面白い話がたくさん聴けて よかったなぁと思っております。 また、機会があったら、行こうかな。 それまでに、この問題に対するかわにしなりの回答が得られればいいなぁ、 と思う今日この頃です。(なんじゃそりゃ) 24-Nov-2000 えー、ずいぶん久しぶりですが、 急に古代史の話がしたくなりました。 今回のネタは、「日本の太陽神について」です。 さて、日本の神話に出てくる太陽の神様は、というと、ご存知かもしれませんが、 「天照大神(あまてらすおおみかみ)」です。 まぁ、「てらす」とか「おおみかみ」という読み方は、皇国史観というか、尊皇というか、国学というか、 とにかく、そういう流れの中から生まれてきた読み方で、要するに、「敬称」です。 ですから、素直に「あまてるおおかみ」と読んでも間違いではないと思います。 (「あまてらすおおみかみ」という読み方は、古く室町くらいまで遡れるらしい。 また、古事記や日本書紀でも、「天照大御神」という書き方をしているところがあり、 むしろこの場合は、「おおみかみ」が正しい。 でも、だからといって、「大神」を「おおみかみ」と読むのは、逆に正しくない) …で、彼女(「天照大神」は女性です。知ってますよね?)は、天皇家の祖先、「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」の祖母であり、 天皇家にとってもっとも尊ばれた、主神であることは、ご存知かと思います。 さらに、彼女は「日神」として、太陽神としても、信仰を集めていた、とされています。 彼女には二人の弟がいて、一人は「月読命(つくよみのみこと)」、 もう一人は有名な「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」です。 「すさのお」は置いておいて、「つくよみ」の方は、文字通り「月神」であり、 「日神」と対を為す存在です。 ところで、「天照大神」には「又の名」があります。 「大日霊貴(おほひるめのむち)」です。 こちらの方が、古い名であると考えられています。 「むち」は、「みこと」よりも古い「尊称」だからです。 で、「大」は、尊称の類ですから、名前の本体は、「ひるめ」ということになります。 「昼女」あるいは「日る女」と考えられます。(「る」は「所有の「の」」に同じ) で、これと対を為すのが、「蛭児(ひるこ)」。 不具の子供として、海に流されてしまう、哀れな子です。 親は同じ「いざなぎ・いざなみ」ですから、まぁ、「ひるめ」と兄弟ではあります。 (とはいっても、ここらへんの神様はみんな「いざなぎ・いざなみ」の子ですが…) さて、日本の神話を読む時、「又の名」に遭ったら、どう考えるべきかというと、 「別々の神が習合されたもの」と見なすべきです。 「神神習合」です。 「神仏習合」は有名ですが、なぜ、日本の神と仏教の仏とを、結びつけるという手法を奈良時代の日本人が成し得たかというと、 この「神神習合」の古い伝統があったためだと考えられます。 話を元に戻すと、「おほひるめのむち」と「あまてるおほかみ」とは、別の神様だった、ということです。 さて、実は「天照大神」には、太陽神としての説話が少ない、という見方があります。 記紀において、「天照大神」の役目は、「国譲り」で、「大国主命(おほくにぬしのみこと)」より地上の実権を奪い、 皇祖・「ににぎ」に指示を与え、「天孫降臨」せしめた、天皇家にとって、地上の覇権を握るのに重要な、基礎を固めたということにあります。 (もちろん、「これこれこういうわけだから、我々天皇家が、王として君臨しているのだ」と、 人々に宣伝するのが、記紀神話の狙いです) 従って、「天照大神」は太陽神というよりも皇祖神という性格の方が濃い。 と言われるわけです。 すると、「天照大神」と「大日霊貴」の違いが明らかになってきます。 さて、かわにしは、「国譲り」「天孫降臨」といわれる事件、ふたつとも、実在した、と考えています。 当たり前ですが、皇国史観から見たような、「華々しい偉業」というような、そういう観念では有りません。 もっと、生々しい、血みどろの事件だと考えています。 まぁ、アメリカの「開拓」と一緒です。 インディアンにとって見ればただの「侵略」でしょ? (ちなみに「神武東征」も) まぁ、そこらへんの話はいずれするとして、 この二つの実在の事件において、指揮を執ったのが「天照大神」です。 これは、どういうことでしょう。 素直に考えれば、「天照命(あまてるのみこと)」或は「天照姫(あまてるひめ)」という実在の人物ではないか、と思われてきます。 女王です。 一方、「おおひるめのむち」の方は、正真証明の「太陽神」です。 んー、ちょっと話が飛躍した感もありますが、まぁ、おいおいお話する、ということで、今日のところはこの辺で…。 23-Jul-2000 さて、今回は、古代史を知らない方にはあまり馴染みがないかもしれませんが、「タラシヒコ」(足彦・帯彦)です。 これは何かといいますと、古代の天皇の名前によく付けられた単語です。 例えば、 大足彦忍代別(オホタラシヒコオシロワケ・景行)天皇 稚足彦(ワカタラシヒコ・成務)天皇 足仲彦(タラシナカツヒコ・仲哀)天皇 気長足姫(オキナガタラシヒメ・神功)皇后 などです。 …で、景行天皇~神功皇后の間に集中的に現れる名前であることから、「タラシ系王朝(中王朝)」などという議論も出ています。(崇神=ミマキイリヒコを「イリ系王朝(前王朝)」、応神以降を別系統の王朝(後王朝)とする、「三王朝交替説」です。) また、「隋書」に「多利思北孤」(タリシヒコ)とあることから、推古朝時代の天皇の呼称という説もあります。 とにかく、そんな「重要な」名前であると、従来見なされています。 ですが、かわにしは、そのような解釈はしていません。 「入彦」もそうですが、「足彦」も、何も「天皇になったものだけに許される特別な名前」ではないのです。 例えば、 天押帯日子(アメオシタラシヒコ・孝昭天皇皇子) 沼帯別(ヌタラシワケ・垂仁天皇皇子) 胆香足姫(イカタラシヒメ・垂仁天皇皇女) 五十日足彦(イカタラシヒコ・垂仁天皇皇子) などは、ただの皇子・皇女でありながら、「タラシ」を名乗っています。 また、こんなのもいます。 鼻垂・耳垂(ハナタリ・ミミタリ) これは、九州の熊襲の族長として描かれたものです。ここの「タリ」も同じ意味だったであろうことが、従来指摘されています。彼等は、このように卑字で書かれていますが、実際は、「花足」「耳足」でしょう。「耳」は、古代の称号の一つであり、決して蔑称では有りません。そういう「誇るべき名前」を持っていたのだと考えられます。 …で、このようなことを踏まえると、「足彦」は本当はなんて読むんだ?という気がしてきます。 「タラシ」とは「足る」の未然形「タラ」+尊敬の助動詞「ス」の連用形「シ」でしょうか? (尊敬の「ス」は未然形接続です。懐かしい…) どちらにせよ、「タリ」より「タラシ」の方がえらい気がします。ちょうど「テル」より「テラス」の方がえらいように。 (「天照大神」は「アマテラスオホミカミ」、でも普通によんだら、「アマテルオホカミ」ですよね) と考えると、「足彦」の本来の形は「タリヒコ」ではないか。そう考えられます。 …で「タリ」ってなんだ?ということになるでしょう。先ほど、「ハナタリ」「ミミタリ」といのが出てきました。 じゃあ、 鎌足 これは? 「カマタリ」ですね。中臣鎌足です。この「カマタリ」をとってきて、「タリ」がついてるとかついてないとか、ということを重要視するのは、意味があるでしょうか? 何が言いたいのかというと、「足彦」の「タリ」も、同じことじゃないの?ということです。 やたらに「重要」がって、執着しすぎると、却って議論をややこしくするだけのように思われます。 もちろん、こんな問題もあります。 現在、皇族の名前は、「~仁」で統一されています。でも、じゃあ、「仁」てなんだ?といっても、意味はありません。 そういうことです。 28-May-2000 今日(5/28)、「歴史学研究会大会・古代史部会」に出るため、 慶應大学に行ってきました。 朝9:30からということなので、今日は日曜日にもかかわらず早起きして、 出かけました。 田町の駅につくと、何やら、それっぽい人の流れが。 とりあえず、その流れに乗っかっていると、難なく、慶應大学に到着しました。 きょろきょろしながら、目的の「古代史部会」の会場517教室に向かうと、あちらこちらから、「久しぶり」「こないだはどうも」といった会話が聞こえてきました。 今のかわにしには、そういう会話を交わすような「知人」もいないので、ちょっと寂しい感じでした。 まぁ、そのうち、そんなお仲間も出来ますわな。 とりあえず、割りと後ろの方の、通路側の席を確保して(ここらへんが学生時代からの癖だな) もうひとつの目的、「恒例の各書店の出店」巡りをしました。 さすがに、おえらい先生方もきているというだけあって、高そうな本がたくさん並んでいました。 でも、面白そうな本がたくさんありました。 オサイフサマともよーく相談して、いくつかの本を購入してしまいました。 また、「歴研会員は2割引」という、予約はがきもたくさんもらってきてしまいました。 もらえるもんは、なんでももらっとかないとね。 さて、そうこうしているうちに、 「古代史部会2000年度報告『古代の王権と交通』(黒瀬之恵氏)」の、発表の時間がきました。 さて、どうやら、「歴史学研究会古代史部会」では、「王権」と「地域」という2つのテーマを重視して、 ここ数年の研究を行っているようです。 ひとつには、統一国家の成立(律令以降とする)の前史としての、「ヤマト王権」成立史を重視した、 「王権論」。 もうひとつには、各「地域」の独自の成立や発展を重視した 「地域論」。 この2つの流れを詳しく検討することで、古代史の持つ様々な様相を理解していこうという、そういうテーマです。 その中で、今年の「古代の王権と交通」という報告は、 「地域」と「王権」の「関わり」を見る重要な視座だと言える、とのことです。 黒瀬氏の報告は、以下のようなものでした。 まず、「王権」と「地域」との関係を見る上で、「ミヤケ」についての分析を深めることによって、それを明らかにしようと、試みま した。 まず、6・7世紀の「ミヤケ」の構造について、「天皇・大王直属の屯田(ミタ)」と「必ずしも天皇直属ではないミヤケ」との区別を、 明瞭にされました。 このなかで、 「ミヤケの中には、大伴などの有力豪族の力を介しなければ、支配できないものもある」 という指摘は大変貴重なものでした。(詳しい話は、またすることにします) また、8世紀の「長屋王家木簡」から、長屋王の持っていた「御田」が、 前代の「ミヤケ(天皇直属ではない)」との関わりをもつ、というのが、 主な論点だったのではないかと思います。 さて、ここで、お昼となり、 また、「出店」めぐりをしました。 いやー、見てるだけでも結構面白い。 その後、黒瀬報告に対する、コメント・討論が行われました。 黒瀬さんがまだ結構若い(といっても30代だろうけど)ので、 発表に結構足りない点が多かったのに対して、 さすが、顕学の先生方のコメントは、 その不備を補って余りあるものがあり、 大変、有意義でした。 細かいお話は、いずれ機を改めてすることにして、 今回の「お勉強」は、大変意義深く、面白いものだったと思います。 21-May-2000 さて、だいぶ、お久し振りになってしまいましたが、法隆寺のお話の続きです。 今回は、第2部として、かわにし説をお話させていただきたいと、思います。 まず、梅原さんが重視した「資財帳」に関して。 わたくしは、「資財帳」に対して、梅原さんの行ったような評価を下すことは出来ません。なぜなら、現存する「資財帳」は、あくまで、「天平19年」のものであり、天平19年の時点での「第1次史料」と見なすことは出来ても、それ以前の事実に関しての「第1次史料」と見なすことは出来ないからです。つまり、たとえば、法隆寺建立の記事についても、100年近く前(「資財帳」は8世紀半ば。法隆寺建立は7世紀初め頃)の話をしていることについては、日本書紀と大差ありません。つまり、どちらも「第2次史料」(なんらかの史料に基づいて後からまとめられた史料)なのです。もちろん、「天平19年の時点で、法隆寺に何が保管されていたか」という点については、「資財帳」はまぎれもない「第1次史料」です。ですが、その由来・来歴に関しては、必ずしも「第1次史料」ではない、といえます。 ここで問題になるのは、「第2次史料」である「資財帳」の「法隆寺縁起」はどんな史料に基づいて、まとめられたのか、という点です。これと、日本書紀が基にした史料とを比較して、日本書紀を採るのか、資財帳を採るのか、決めなければなりません。 さて、以前に、「日本書紀に法隆寺建立の記事がない」というお話をしました。 「もしも、本当に、法隆寺が聖徳太子の手によって建てられたのなら、日本書紀にそう書いてないのはおかしい」 とも言いました。 これを踏まえると、少なくとも、書紀の編者の手にした史料には、「法隆寺は聖徳太子が造った」という、決定的な史料が無かった、と考えることが出来ます。日本書紀は「官撰」です。「勅撰」です。少なくとも、書紀編者は、ありとあらゆる史料を手にすることが出来たはずです。当時の最高峰の学者・官吏たちが、国の全てをつぎこんででも完成させようとした、そういう歴史書です。ですが、その膨大な史料収集能力をもってしても、「法隆寺は聖徳太子が造った」という史料に出会えなかった。これが、事実だろうと思われます。(ここで、「陰謀」とか「機密」とか「緘口」とかという言葉を持ち出して、ないものをさもあったかのように、語るのはフェアではありません。「陰謀」説というのは、世の中で一番、安易な説です) さて、では、日本書紀編者ですら出会えなかった史料に、法隆寺関係者は出会った、ということなのでしょうか。 これも、絶対にない、とは言いきれません。お寺のどこかから、そんな史料が新たに見つかったのかもしれませんし、お寺に、昔から語り継がれてきた、そういうお話かもしれません。官には提出したものの、書紀編者が(証拠不充分として)採用しなかったのかもしれません。 そこで、「資財帳」の法隆寺建立記事がいったいどのようなものなのか、しっかり見ておく必要があります。 資材帳をご覧ください。 この文面、内容、どこかで見たことがあります。「薬師像銘」です。当然、これだけ、文面、特に、字面がこれだけ一致しているとなると、「資財帳」が「薬師像銘」をもとにして記述した、と考えるのが、スジです。もしも、この「資財帳」の言うとおり、法隆寺が、用明天皇の為に、推古天皇と聖徳太子が造ったのであれば、法隆寺の真の本尊は、「薬師如来像」ということになります。なるほど、「薬師像」には「法隆寺を造った」という旨は必ずしも明記されているわけではありませんが、「寺の本尊をつくった」、という記事は、すなわち、「寺を造った」というのと、同じ意味になり得ます。寺があっての本尊、本尊があっての寺、なのですから。 そうすると、「薬師像銘」には、「この本尊が安置されるべき寺も建立した」という、暗黙の意味がこめられていることになります。それが法隆寺である、「資財帳」の文面はそのように語っています。(これによって、梅原さんの「薬師像銘」に対する疑いは、妥当でないことが判明します) つまり、「法隆寺と薬師如来像は用明天皇の為に推古天皇と聖徳太子が造った」というのが、「資財帳」と「薬師像銘」の共通認識のように見えます。 これにて一件落着。…とはいきません。 この「資財帳」説には重大な欠陥があるのです。それは、「法隆寺焼失」です。天智9年に、法隆寺は全焼しました。「一屋余すこと無し」=「本尊も焼失」という意味であることは、以前もお話しました。もしも、「薬師像」が推古朝時代に造られた”本物”であれば、この「薬師像」は、このとき、「法隆寺の本尊ではなかった」と考えざるを得ません。もしも、「薬師像」が実際はもっと後に造られたもの、特に、法隆寺全焼後に造られた”贋物”であれば、「薬師像」「資財帳」の示す図式は、かなり、時代の新しいものとならねばならず、おおよそ、(日本書紀を無視して)信憑するだけの価値は、ありません。いずれにしても、「資財帳」の示す、「法隆寺と薬師如来像は用明天皇の為に推古天皇と聖徳太子が造った」という説は、否定されざるを得ません。 また、「薬師像」の銘文も、推古朝の作と考えるべき点が多くあります。たとえば、「大王天皇」「聖王」。これらは、おおよそ「らしくない」言い方です。ここに「天皇」の語が出てくることに対して、疑う人もいますが、かえって、「大王天皇」などという呼び方が、後世ではあり得ないものです。「聖王」についても同じです。むしろ、後代には「法王」であって、「聖王」は類を見ません。 また、当時の人間関係を知る最大の証拠は、「崇峻天皇(用明と推古の間に即位した天皇)不在」です。考えても見ましょう。崇峻天皇は、蘇我氏に殺されました。後に、この「崇峻殺し」と「山背大兄王殺し」という「罪」によって、中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足は、蘇我を滅亡させました。当然ながら、「蘇我殺し」の後は、「蘇我は悪者だった」という宣伝が多くなされたはずです。日本書紀も、これに荷担していると言えます。 反対に考えてみましょう。「蘇我殺し」以前です。果たして、「崇峻はとってもいい人だったが、蘇我の横暴によって殺されてしまった」などと語られていたでしょうか。とんでもありません。「蘇我に殺された」ことが明らかにされたはずもなく、それを知る者たちも、そんなこと口に出来るはずもありません。むしろ、「そのことには触れたくない」というのが心情だったはずです。逆に「崇峻は天皇としてふさわしくなかった」という宣伝すらされた可能性もあります。 「崇峻はとってもいい人だったが、蘇我の横暴によって殺されてしまった」 こんなことを公に口にされて、政権に残ることが出来るほど、世の中は甘くありません。蘇我がこの後も政権に留まり得たのは、こういう声を挙げさせなかったからです。まさに、推古朝というのは、こういう状況のさなかでした。そこへ、「崇峻不在の銘文」。これはもっともなことです。「崇峻を称える=蘇我を冒涜する」ともなりかねない状況だったのですから、こんな晴れがましい銘文に、このいわくつきの人物の顔を出させるわけにはいかないのです。 反対に、「中大兄のクーデター」以後にこの銘文が作られたのであれば、それこそ、「一人の天皇を完全に無視する」ことなど、もってのほかです。「崇峻天皇の治世を経て…」とでも書けばそれで済む話ですから、そう書けばいいのです。 そういったわけで、銘文から言っても、やはり、これは推古朝の作としてふさわしいと言えます。 だとすれば、この「薬師像」が安置されるべく造られた寺は、法隆寺ではない別の寺だった可能性が、高くなります。となると、607年の「法隆寺建立」説には、根拠が無くなります。そうであれば、「聖徳太子の法華経講義」も、598年の史実として、矛盾が無くなります。(同時に、606年の法華経講義<日本書紀>も) また、許勢徳太の寄進も、それほど不審がることはありません。なぜなら、「聖徳太子が造った寺」ではないのですから。もちろん、法隆寺が聖徳太子ゆかりの寺だということを、否定はしません。ですが、法隆寺は聖徳太子のための寺ではなかったし、法隆寺は聖徳太子の寺でもなかったのです。 反対に、再建後の法隆寺は、聖徳太子との結びつきを求めていたように思われます。おそらく、「聖徳太子の建立」説もそのような欲求の中から生まれてきたものではないか、とさえ思えます。「薬師像」や「釈迦三尊像」を他から持ってきて、本尊にしたことなど、その現れでしょう。 もはや、長くなってしまったので、これ以上詳しくは語れませんが、わたくしとしては、以上のように考えています。 5-May-2000 今回は、法隆寺シリーズ第2弾です。 今回は2部構成です。 第1部は、梅原説の解説です。 梅原さんはどんな風にこの史料を見、どのように解釈したのか、という点を中心にお話していきたいと思います。 さて、梅原さんが一番重きを置いた史料は、「法隆寺伽藍縁起并流記資材帳(法隆寺資材帳)」でした。 その理由は、 1.日本書紀・続日本紀不信論。 日本書紀の撰者を、藤原不比等と考える梅原さんは、日本書紀は、不比等という影の大権力者によって、大きく事実を歪められ、隠されて、全て藤原氏に都合のいいように書かれている、との視点から、書紀に対して不信を投げています。また、その意味では続日本紀も同じだと。そういうことから、書紀・続紀と「資材帳」が矛盾した場合、基本的に「資材帳」を採るという、彼の方法論にたどり着くのです。 2.資材帳の実質は「霊亀二年」成立論。 梅原さんは、「資材帳」について、「毎年官に提出し、その異動を咎めるもの」と、規定しています。ですから、「資材帳」の「資材」の部分には、異動がありえても、「縁起」の部分には異動はありえない、と考え、少なくとも「縁起」部分は、始めて「資材帳」提出が命令された霊亀2年(716年)と変わらない、と見ています。とすると、「資材帳」は実質的には、日本書紀よりも古い史料となり、「古い史料を採る」という、史料操作の基本中の基本どおりに、書紀と「資材帳」が矛盾すれば、「資材帳」を採ることになります。 3.資材帳の史料性格 また、梅原さんは、「資材帳」について、これは、官に提出する為のもので、ウソなどもってのほか、という理由で、信頼できると考えてもいるようです。なるほど、特に、「資材帳」は国からの援助金・免税の対象となるような物についての公文書ですから、チェックはことのほか厳しいでしょう。そういう「事務的な文書」は、一般的に「1次史料」という価値をもちます。「1次史料」というのは、こういう事務的な文書(「報告書」「証明書」なども)の他に、「手紙」や「日記」「日誌」「手記」「碑文」「覚書」などのような、歴史事実の当事者自らが関わって書かれた史料のことです。そういったものは、例えば「歴史書」などのような「2次史料」に比べて、より尊重されることになります。「歴史書」などは、実際には、「事務的な文書」や「日記」「日誌」などの「1次史料」をもとにして再構成されたものだからです。 こういったわけで、梅原さんは、「資材帳」を中心に据えて、「法隆寺の謎」に迫ろうと試みたのです。 では、資材帳関連の史料から見ていきましょう。 縁起部分からです。 これは、多くの謎を持った文章でした。まず、「法隆寺建立」の件、これについては、無条件に信じることにして、次の「食封寄進」の寄進者が、「山背大兄王殺害者・許勢徳太」であることに注目しました。 聖徳太子一家の寺に、聖徳太子一家を滅亡させた張本人が、寄進している。 これはおかしいと思ったわけです。 そこで、有名な「怨霊」説が出てくるわけです。「これは、許勢徳太が太子一家の怨霊を恐れたからに違いない」と。 実際、梅原さんも、この記事を見た時に、「怨霊」説が浮かんだんだそうです。 最後の「聖徳太子の法華経・勝曼経講読」も、普通に考えれば、巨大な矛盾です。<解説>にかいた通り、あちら立てばこちら立たず式の、解しがたい矛盾です。ですが、梅原さんは、これも、「聖徳太子の霊魂が講読を行う、という儀式である」として、矛盾を解消しました。そして、その儀式が「聖霊会」である、と。 さて、となると、ここで、「法隆寺全焼→再建」に触れないのはおかしい、と思いそうですが、これは、梅原さんによれば、「興味がなかった」のだそうです。そもそも、「縁起」はその寺の出来た所以を語るのが目的であって、それがその後どうなったかについてを語るのは目的ではない、との見解です。ですから、「縁起」には、語らなくても別に問題ないことだから書いていない、と梅原さんは考えています。 さて、次に薬師像の件です。 これは、この文章と「薬師像自身の光背銘」との矛盾があると、梅原さんは言います。まず、一般的には、「用明天皇のために推古天皇と聖徳太子が作った」と読まれていますが、これを「用明天皇と推古天皇と聖徳太子のために作った」と読みます。そう読む理由は、(1)構文上の理由。(2)薬師像光背銘に影響されずに読む。という2点 です。構文上の理由とは、「奉為A年月日B敬造」という構文で、「法隆寺資財帳」の基本構文です。ここでは、「Aのために、何年何月何日、Bがつくった」という決まりになります。これから言うと、この文ではは用明天皇・推古天皇・聖徳太子がAに当たります。で、これと、薬師像光背銘が矛盾する、となると、梅原さんは、もともと、推古15年の作ではないのではないか、という嫌疑をかけられてきた薬師像の銘文を捨て、「資財帳」の文面を採用したのです。 続いては、釈迦三尊像です。 今度は、釈迦三尊像銘との矛盾です。「資財帳」では、「聖徳太子のために、『王后』が作った」と書いてあります。まず、「王后」という語について、これは「天子の正妻」という意味であり、「聖徳太子の妻」ではないという点に着目しました。すると、これは、聖徳太子の死後1年後である623年のことではなく、(女帝推古天皇の時代に「王后」と名乗りうる女性はいない)60年後の「癸未年」である683年のことである、と考えました。この時代の「王后」といえば、後の女帝持統がいました。彼女のことであろうと梅原さんは考えています。 すると、またしても、釈迦三尊像の銘文と矛盾することになります。 ここで、釈迦三尊像に対しても疑いの目を向けます。まず、銘文自身に矛盾があると、梅原さんは言います。たとえば、聖徳太子の病気の回復を願うのはよしとしても、太子がまだ生きているのに、その冥福を願うことの奇怪さ。 太子の病気の回復を願ったのは「王后」だが、この時点ではすでに、「王后」自身も病に倒れていたことの不審。などの点です。「だから、釈迦三尊像銘は信じるにたりず」というのが、梅原さんの結論です。 こういった史料批判を通じて、梅原さんは、第1、第2、第4の謎についての解答を得たようです。 また、法隆寺再建の年代についても、「伽藍様式」などから、「和銅年間」という結論を導き出しました。 これによって、梅原さんの「怨霊鎮魂説」はその基礎を形作ることになります。 かわにしとしては、その「史料批判」に対して、いくつか反論や疑問を持っています。 それについては、もう、時間がなくなってしまったので、また、今度にしましょう。 23-Apr-2000 今回は、「法隆寺」のお話です。 とりあえず、梅原猛氏の『隠された十字架』を中心にお話をしましょう。 えー、実は、「法隆寺」とか「聖徳太子」…といった辺りは、わたくし、あんまり得意分野ではございません。 ですんで、「七不思議」のすべてについて、語り尽くすことは、多分出来ません。 (『隠された十字架』も、最初から最後まで読み尽くしたわけじゃありません。まぁ、有名な本ですから、ある程度は読んだことがある、という程度です。だから、今日、図書館でもう一回読んできました) それでも、いくつかの点に付いては、お話できるだろうと、思います。 まず、梅原氏の挙げた、第1の謎、「日本書紀」「続日本紀」の謎について、です。 これまた、古代史を知る人には余りに有名なことなのですが、「法隆寺再建論争」というのが、明治の頃からありました。「今ある法隆寺は、再建されたものであるか否か」という論争です。 結論は「再建されたものである」のですが、そもそもこんな論争の発端となったのは、日本書紀の、 (天智九年、669年)、夏四月癸卯朔壬申(二十日)、夜半之後(あかつき)に、法隆寺に災あり。一屋も余すこと無し。大雨、雷震(な)る。 という文面が原因でした。 つまり、この記述どおりなら、法隆寺は669年に全焼したことになります。 …で、今、実際に法隆寺は存在するのですから、再建されたはずですね。「法隆寺再建論」です。 じゃあ、いつ、だれが、何の為に、となると、わかりません。日本書紀にも、その次の続日本紀にもそういう記事はないのです。ですが、続日本紀には、「天平年間に法隆寺に食封を与えた」という記事があるので、これまでの間に法隆寺は再建されたはずです。いつのまにか再建されている。 じゃ、本当のところは、669年には全焼したわけではないのでは?という意見がありました。むしろ、当初はこっちの方が優勢でした。なにしろ、法隆寺自身の来歴を示す「法隆寺伽藍縁起并資材帳」においても、「全焼→再建」という経緯は示されてなかったからです。これが「非再建論」です。 …で、長いこと、論争が繰り広げられたのですが、「若草伽藍跡」の発掘により、焼け落ちた、今の法隆寺より古い形式の、寺の跡が見つかったので、やはり、法隆寺は「再建された」のでした。 さて、こういう背景を踏まえて、梅原氏は、「法隆寺を再建したのは誰か」という疑問を投げかけました。 さらに、「日本書紀」「続日本紀」という日本の正史が、なぜ、「法隆寺再建」について語らないのか、ということに疑問を持ったのです。 これが、梅原氏のいう、一つめの「不思議」です。 ですが、もっと根本的な疑問があります。それは、「法隆寺建立の記事がない」ことです。書紀での法隆寺(斑鳩寺)の初出は、 (推古十四年、607年)、是歳、皇太子(聖徳太子)、亦た法華経を岡本宮に講ず。天皇、大いに喜び、播磨国の水田百町を皇太子に施す。因りて、斑鳩寺に納れる。 という記事であり、イキナリ斑鳩寺が登場してきます。やっぱり、いつのまにか出来ているのです。 日本書紀にこういう事例は少なくありません。ここもか、といって、素通りするのは勝手です。ですが、載っていない以上、「書紀には書いてないけど、法隆寺は聖徳太子が作った」と信じるのは、早い気がします。 当然、ここも疑ってしかるべきです。 まず、「(再建前の)法隆寺は誰が作ったのか」ここからです。わたくしは、書紀に載っていない以上、「聖徳太子の建立」説は疑わしいんじゃないかと思います。なぜなら、梅原氏も指摘するとおり、書紀編者は、聖徳太子を絶賛しています。彼に対するあらゆる美談を採り入れ、あらゆる事跡を残そうと、そういう一種感情的な姿勢が見られます。その中で、「法隆寺建立」は、当然、記してしかるべき事跡です。でかでかと書けばいいんです。本当に聖徳太子による創建であったなら。ということは、「載っていない」ということの持つ意味はかなり大きい。 つまり、元々の法隆寺の建立に関して、聖徳太子は関わっていなかったかもしれません。 (ただし、聖徳太子は「斑鳩」の地に住んでいました。法隆寺とまったく無縁の人だったわけではないでしょう) 次に、法隆寺の本尊について。 法隆寺には「2つの本尊」があります。 1つは、「薬師如来像」。 1つは、「釈迦三尊像」。 まぁ、後代にはもう1つ加えられたようですが(名前忘れた)、少なくとも、この2つは、「法隆寺の本尊」としての地位にある、最重要の仏像です。 まず、「薬師如来像」は、その光背銘に、「用明天皇の為に推古天皇と聖徳太子が造った」と書かれています。もし、法隆寺が「用明天皇の為に推古天皇と聖徳太子が造った」のであれば、法隆寺の本来の本尊は、この「薬師如来像」です。更に、「釈迦三尊像」は、聖徳太子の没時に、造られたものであろうと言われています。これも、聖徳太子ゆかりの「本尊」です。 (もっとも、この釈迦三尊像の光背銘には、「上宮法皇」とあり、「鬼前太后」「干食王后」とあり、いずれも、「天子」を中心とした表現。「太后」は「天子の母」、「王后」は「天子の妻」、「法皇」は、出家した「天子」。従って、「太子」に過ぎない「聖徳太子」にはふさわしくない=ここにいう「上宮法皇」は聖徳太子のことではない、という意見もあります) …で、最も重要なのは、この本尊は、現存する、ということです。 どういうことかというと、思い出してください。 法隆寺は天智九年に全焼しました。この時、「一屋余すこと無し」と書かれています。まかりまちがっても、「全焼したが、本尊は無事だった」という意味には読めません。そこで、「法隆寺の本尊は法隆寺再建後に他から持ってこられたものだ」という意見が登場するのです。 梅原氏の場合、橘寺だ、といいます。 まぁ、となると、確実に言えることは、「最初の法隆寺には、用明天皇の為に聖徳太子が作った仏像も、 聖徳太子の為に造られたとされる仏像も、なかった」ということです。 梅原氏は、再建後の法隆寺にばかり、目を向けていますが、その前に、再建前の法隆寺の性格を掴んでおく必要があるでしょう。あまり、聖徳太子一点張りのお寺ではなかったようです。 梅原説に従えば、再建を機に、法隆寺はガラッとイメージチェンジしたということでしょうか。 「ほんとにぃーーーー??」 という気がします。 その辺りについても考えてみると面白いかと思います。 12-Mar-2000 さて、今回は、やっと本編です。 前回のながーい継体紀を参照しながら、読んでください。 まず、以前話に出てきた「欽明紀」と比較してみます。 たしか、あの中にこういうのがありました。 欽明紀の朝鮮半島記事はもっぱら、百済聖明王を中心として描かれている。 同時に、もっぱら朝鮮半島を舞台とし、日本列島側の地名が皆無である。たとえば、「難波津」「那津」といった日本側の港がもう少し登場してもよさそうなものだ。事実、継体紀にはどちらも現れているし、敏達紀以降には「難波」の登場回数が非常に多いことを考えると、不自然だ。 「天皇」はただ、「詔勅」を発すだけの存在だ。実際にどこで何をした、という記事がない。 欽明朝ともなると、すでに飛鳥時代の大物がいる(蘇我稲目、物部尾輿、大伴金村など)。なのに、彼らが登場するのは、「崇仏論争」くらいだ。とくに欽明紀前半部分の任那日本府関連記事の中には、1度も登場しない。後半の新羅との戦闘記事に大伴紗手彦(金村の子)が大将軍として登場するくらい。もっと「活躍」できるはずだ。(継体紀の任那記事(四県割譲事件など)では、継体朝の大物、物部麁鹿火・大伴金村のほかに、勾大兄皇子(安閑天皇)も活躍している)だいたい、欽明天皇の皇子女といえば、蒼々たる面子だ。敏達・用明・崇峻・推古天皇、穴穂部皇子など。時代的には、蘇我馬子だってすでに生まれているはずなのだ。 任那日本府は明らかに新羅よりだ。一方、「天皇」は百済側に荷担している。なぜか、両者の立場が食い違っている。 もっとも重大な疑点、それは「なぜか天皇は日本府の官人に直接命じることがない」これだ。百済へは「詔勅」としてさまざまな指示を与えているように描かれているが、一度も日本府へ詔勅を出した形跡がない。なぜ、隣国へはいろいろ言うくせに、自国の官僚には何も言わないのか。 しかも、「天皇」の「詔勅」を「百済王が日本府に伝えている」。これはもう、おかしいとしかいいようがない。言いたいことがあるなら直接言ったらいいじゃないか。 さらに、日本府官人は、「天皇」の言い分などに聞く耳を持っていない。また、「あんなヤツ、クビにしてくれ」と百済王が「天皇」に進言してもクビにならない。これだけ主人(天皇)の言うことを聞かなかったら、クビになるだろうに。というより、当時だったら「反逆」として討伐されそうなものだ。 これが、「欽明紀」の持つ「疑点」でした。(05-Sep-99) これと比較してみると一目瞭然。随分と様相が違うように思えます。 天皇家側の重臣たちもかなり活躍しています。 さて、継体紀では、かなり多くの事件が、入り組んで、連続して起こっています。 それをまとめて見ましょう。 1)「四県割譲事件」6年4月~12月 主な登場人物:穂積臣押山・大伴金村・物部麁鹿火・勾大兄皇子(のち安閑) この事件は、非常に非古事記的な説話のように見えます。また、この辺りから、ようやく、神武・崇神・神功・応神といった過去の天皇たちの業績を踏まえて、人々が語るようになってきます。言ってみれば、「彼ら」にとっても、神功・応神といった人物は、「歴史上の人物」となったのでしょう。「歴史」を踏まえて「現在」の政策を論じるというのは、漢籍の王道です。つまり、より自然に「漢文的修飾」をこらした説話が語られているのです。このような語り口を見ているだけでも、随分と生き生きと説話が語られているなぁと いう感じを持ちます。これは明らかに、継体の頃から、現在(書紀編纂当時)まで、この説話が「生きて」語られてきたからだ、と考えています。ここでは、書紀編者も立派に語り部となっているのです。 (古事記の説話は、「古典」を「古典」のまま収録したものであるし、書紀の方でも、語句ばかりが漢文的になっただけで、説話の語り口は、古事記のままのところが多い。→特に「神代」) 事件としては、大伴金村・物部麁鹿火の両雄が登場し、さらに、安閑も登場して、人物から見れば、近畿系の説話に間違いなさそうです。安閑の登場の仕方も、古事記流の、 「A天皇の説話は、次のBないしC天皇の時に作られる」 という原則に照らしてみると、興味深いものです。 ただし、継体紀の流れから言って、 「この時点で、磐井は健在だった」 ということも忘れないでおいてください。 磐井と継体では、磐井の方が上位者である、ということも。 それと、このとき「割譲」されたのは、「上多利・下多利・娑陀・牟婁」の4県です。このうち、下多利国守穂積臣押山というのが何度も出てくるので注意してください。このとき、本当に割譲されていたならば、彼は誰の配下になるでしょうか。 2)「己文・帯沙割譲事件」7年6月~10年9月 主な登場人物:穂積臣押山(委の意斯移麻岐弥)・姐弥文貴将軍・州利即爾将軍・物部連(物部至至連) さて、この事件はちょっと様子が変わります。もちろん、説話自体の性格(物部連の朝鮮半島渡航)にもよりますが、近畿系の人物達の影が余りにも薄い。編者もそこらへんはわかっていたようで、日本列島側の人物に対しては、 「百済本記」で補強を図っています。ですが、本当に穂積臣押山=委の意斯移麻岐弥、物部連=物部至至連という等式が成り立つかどうかはわかりません。押山の方は、似て非なる人物のようですし(「臣」と「きみ」とでは、位も違う)、当時の日本に「物部連」というのは、山ほどいたからです。なにも、あの有名な「物部氏(この時なら麁鹿火や守屋)」と同族とは限りません。 ともあれ、この説話はどうも、九州くさい。とだけ言っておきましょう。 この説話については、後でまた出てきます。 3)「磐井の乱」21年6月~22年11月 主な登場人物:継体天皇・筑紫君磐井・近江毛野臣・大伴金村・物部麁鹿火 さて、本題も本題、「磐井の乱」です。知っての通り、実際の反乱者は継体であると考えられるので、この事件は「磐井の変」とでも言った方がいいのかもしれません。「変」とは、ご存知でしょうが、「暗殺事件」「謀殺事件」などのときの用語です。こっちの方が合っている気がします。「継体の乱」とは呼べない理由があって、それは、継体が処刑されていないからです。処刑されなかった「反乱者」はもはや「反乱者」とは呼べなくて、一個の独立勢力として確立した、と見なければなりません。つまり、「磐井の乱」と呼べば、近畿側の大義名分に荷担することになり、「継体の乱」と呼べば、九州側の大義名分に荷担することになる、というのが、私の考えかたです。あくまで客観的に言えば、やっぱり、「乱」という語は的確でない、そう思います。 それはともあれ、この事件の発端部に、いきなり矛盾と言うか、奇妙な現象が起こっています。 よーく読んでみてください。 毛野臣の渡航目的です。 「新羅に滅ぼされた南加羅・喙己呑の再興」?? え?いつ滅んだの?と思っても、どこにも書いてありません。(ちなみに、継体紀以前にもありません)さらに、ここに言う「南加羅」とは、朝鮮側の史料では金官(統一高麗の時代につけられた名前)や、駕洛(から)国と呼ばれている国です。今の釜山(プサン)付近にあったとされています。 …で、この国が滅んだのは、532年のこと(『三国史記』)。継体紀で言うと、継体天皇26年にあたります。ということは、両者の史料は、少なくても5年は、ずれています。(もちろん、駕洛国が滅んだ年に毛野臣が渡航しようとした、とは限らないから、もっとずれている可能性の方が高いと言えます) まぁ、これだけでもって、継体紀の紀年がずれていると論じるのは早計で、後代史料たる『三国史記』の方に問題があるのかもしれません。 とりあえず、ここでは、事件の発端となるはずの出来事に対して、不可欠な事件を、書紀は記載していない、このことを確認しておきましょう。これは、ここだけの問題ではないでしょう。次の「毛野臣の任那経営」説話、更には、欽明紀全体の説話にも多大な影響を及ぼします。(実は、欽明紀の説話も「新羅に滅ぼされた南加羅・喙己呑の再興」が、根本のテーマになっています) さて、第2には、近江毛野臣って誰だ?という疑問が沸き起こります。これは、次の、彼が主人公の説話で、考えることにしましょう。 ところで、物部麁鹿火と筑紫君磐井とは、筑紫御井郡(筑後、内陸)で戦っています。ですが、これは奇妙です。麁鹿火は、近畿から船でやってきたはずです。日本海側であろうと、瀬戸内からであろうと、そうしないと九州にはつきません。なのに、海岸線で戦っていない。昔から、上陸作戦と言えば、海岸線での一戦が一番の死闘。上ってしまえば、勝ったも同然です。となると、麁鹿火はどうやってこんな内陸の御井郡まで、戦わずに軍を進め得たので しょう。(「外は海路をふさぎ、高麗・百済・新羅・任那らの船を誘致し、内は任那へ遣わした毛野臣の軍を遮り、…」という記述のとおり、磐井の軍勢を持ってすれば、海岸線での「死闘」は必至。書紀の語る通りです) おそらく、その理由は、 「御井郡に至るまで、麁鹿火の軍勢は、磐井にとって、友軍だった」 こんなところだろうと思います。 だから、私は「暗殺事件」「謀殺事件」と位置付けたのです。 さて、この事件の顛末はというと、筑紫側から「糟屋屯倉」が贈られたのみです。おそらく、和平交渉上の副産物でしょう。継体側からもなにか差し出されたのかもしれません。 ともあれ、この事件を境に、近畿は独立勢力としての確固たる地位を築いた、 そう言って過言ではないでしょう。(おそらく、それ以前は、例えば、奥州藤原氏のような存在だっただろうと思われます) それはそうと、毛野臣の六万の大軍は、この磐井との決戦のとき、どこで何をしていたのでしょう。 4)「毛野臣の任那経営」23年3月~24年10月 この説話は、更に細かく分けられます。 (1)「多沙割譲事件」23年3月 主な登場人物:穂積臣押山・物部連父根・吉士老 これは、2)の「己文・帯沙割譲事件」にそっくりです。そこで、これは23年の事実ではなくて、7年の事実を振りかえって語ったものだ、という意見があります。(岩波『日本書紀』もその説を採っています) なるほど、穂積臣押山といい、物部連父根といい、7年条の人物と、同一人物が登場しているように見えます。それに、7年条と、23年条は、おそらく依拠した史料が違っているようにも、思えるので、この意見は正しいかもしれません。 ですが、別の事件と見なすことも出来ます。7年の時とは、事件の様相がかなり違うからです。7年条では、「己文」という港町はもともと百済のものでした。23年条では、「多沙」という港町はもともと加羅のものです。百済王がそう言っているのです。(ちなみに、7年の時点での百済王は「武寧王」、23年の時点では、「聖明王」です) また、割譲を実行しに行った、「物部連」は、7年条では、伴跛に襲われてしまいました。23年条では、加羅にちょっと気を使ったというだけで、なんの支障もなく、実行しています。 別事件と見れば、見れなくもありません。 (2)「加羅と新羅の通婚」23年3月 主な登場人物:加羅王・新羅王・阿利斯等・己富利知伽 さて、(1)を受けて、加羅は新羅と結ぶことにしました。この説話、その内容からして、かなりの年月を含むものと思われます。してみると、23年3月の一月間に限定してみる見方は出来ません。とすれば、(1)の事件も、やはり、23年よりも前のことなのかもしれません。ただし、最後の、 「新羅は刀伽・古跛・布那牟羅の三城を奪う。また、北境の五城を奪う」 は、23年3月のことと見なせるでしょう。 むしろ、これを述べるに当っての前置き、と見るのが正しいのかもしれません。 (3)「毛野臣の任那経営(in安羅)」23年3月 主な登場人物:近江臣毛野・将軍君尹貴・安羅国主 さて、ようやく、毛野臣の登場です。 この説話も、話上、長期間に及ぶ説話です。 「およそ数ヶ月に及び、再三、堂の上で会議が行われた」 とあるのがそれです。 おそらく、会議が始まったのが、23年3月なのでしょう。 ここでは、彼らの「位取り」が問題になっています。毛野と安羅国主は少なくとも同格。安羅の大人のうちでも、1・2人は同格。百済・新羅の使者は、それよりも下として扱われ、百済の使者はそれが不満だったようです。(「新羅は、隣国の宮家を破ったのを恐れ、大人を遣わさず…」という、文面からすると、百済の「将軍君」は大人クラスだったのでは、と思われます) ちなみに、関係ない話ですが、「国主」という語は、「くにのぬし」という以上に、「王ではない」というのが、重大な意味です。大義名分用語です。(「玉将」と同じ) (4)「毛野臣の任那経営(in熊川)」23年4月 主な登場人物:己能末多干岐・大伴金村・近江臣毛野・久遅布礼・恩率弥騰利・伊叱夫礼智干岐 さて、久し振りに大伴金村登場です。近畿側が一枚噛んでるなって感じです。任那王は、近畿に行きました。どうやら、これは事実なのでしょう。(基本的に、「これは本来大伴金村とは関係ない人物の話を、このようにすりかえ たのだ」系の解釈の仕方はしません。→全体について同じ) その目的は、任那・新羅間の和平仲介の依頼のようです。 ところが、毛野臣は、なぜか百済王を呼んでいます。ここらへんに、重要なキーが隠されているようにも思いますが、今はわかりません。結局、和平は失敗に終わり、却って新羅との仲を悪くしてしまいました。 …というよりも、毛野臣は、和平しようとしていたのでしょうか? 私には全然その気がなかったように見えます。 「毛野臣が無能だった」 で済む話か?という気もします。(結構、そう見ている歴史家は多い) ハナっからそんなつもりで百済・新羅王を呼んだんじゃないんじゃないの?というのが私の率直な感想です。とすると、日本列島での天皇・任那王・大伴金村の意図と、朝鮮の近江臣毛野の意図とはまったく違うようにも見えます。 また、ここには、毛野の言として、 「小が大に仕えるのは天の自然の道である」 というのがあって、これなら、天皇=大、百済・新羅=小と言っているようにも聞こえますが、ある本の、 「大木の端には大木で接木し、小木の端には小木で接木するのが当然だ」 となると、少し意味が違ってきます。 これだと、天皇=大だとすれば、新羅・百済王も大で、何を怒っているのか解らないということになるので、(これでいくと、臣下の毛野は小だから、百済王たちより下??)毛野=大で、 「大木たる自分が来ているのだから、大木たる王自ら来い」 と考えなければ意味が通じません。 もし、こっちが正しいとすると、毛野は自らを「王」の地位にまでもっていったことになります。おそらく、書紀編者にもそう見えていて、本文の方の言い方を採用したのではないでしょうか。 (5)「継体天皇の詔勅」24年2月 さて、書紀の中には、突然天皇がなんの脈絡もなく詔勅を述べ始めることが、結構あります。 ここもそんなうちのひとつです。 ですが、大抵の場合、そういう詔勅には、これから行う政策のことが書いてあって、「故、○○を行う」という形になっていることが多いのですが、それとも違っています。 なにか、所信表明演説っぽい気がするのは私だけでしょうか。 (6)「毛野臣の最期」24年9月~10月 主な登場人物:近江臣毛野・河内母樹馬飼首御狩・調吉士・阿利斯等・目頬子 とうとう、毛野臣も、その行状がバレて、日本列島に強制送還されてしまいます。さて、例によって、河内母樹馬飼首御狩・調吉士・目頬子という日本人は、正体不明です。まぁ、御狩は従者だというから、無名なのは当然でしょう。ですが、調吉士・目頬子というのは、大使です。かなりの地位の人物のはずです。なのに正体不明…。 やはり、この説話も九州の匂いがしてきました。 さて、ここまで見てきて、毛野臣の地位が少しだけ見えてきた気がします。彼は、一臣下などという身分ではなさそうな気配がします。おそらく継体と同じ位の地位にいる、「地方の王者」でしょう。でも、さすがに、「九州の大倭王」よりは下。そんなところじゃないでしょうか。 「毛野臣は今でこそ使者となっているが、俺とは昔は仲間として、肩や肘をすり合わせ、同じ釜の飯を食った仲だ。急に使者になったからといって今更おまえに、俺を従わせることなどできん」 という磐井の言葉がありますが、案外、毛野と同じ釜の飯を食ってたのは、継体なんじゃないの?という気もします。 さて、少しまとめてみましょう。 まず、1)「四県割譲」は近畿での説話です。ですが、これは実際には機能しなかった、とみるべきでしょう。なぜなら、その割譲されたはずの「下多利県」には、その後も日本人の、穂積臣押山が健在だからです。継体側の、外交政策の一環でしょうか、百済を取り込んで、倭を包囲しようということなのでしょうか。 それから、2)の事件は九州での出来事と見なすべきです。また、両説話に登場する、穂積臣押山は、九州側なのか、近畿側なのかはっきりしません。もっとも、このときは、九州・近畿の分裂はまだでしたから、両方と関係があっても、それほど不思議ではありません。(大伴金村に関しても同じ) 3)、4)における、近江臣毛野は、おそらく九州側の、かなり有力な「王」の一人でしょう。したがって、「任那経営」説話の大半は、九州側で起こったこと、と考えられます。また、「磐井の変」の真相は、 「磐井の命により、近江臣毛野を中心とした南加羅再興軍(新羅討伐軍)の出発に合わせ、継体も麁鹿火を送り込んだが、麁鹿火は筑紫に着くや、暗殺者となり、磐井の命を奪った」 こんな感じでしょうか。 「その後、磐井の子・葛子は、父の遺命を継承し、近江臣毛野を任那に送り込んだが、果たせず、毛野も南加羅再興の実現に努力しないので帰国させた」 といった感じでしょうか。 多分、毛野にとっては、新羅は最初から「敵」だったように見えます。 いやー、長くなってしまいました。 まぁ、最期の方は結構想像に頼っているのでそのうちコロッと言うことが変わるかもしれませんが、とりあえず、今の段階では、こんなとこです。 5-Mar-2000 今回は「磐井の乱」前後の継体紀について、お話したいと思います。 まず、今回は、継体紀(朝鮮関係・磐井関係だけ)を訳してみました。 とりあえず、ヒマな時にでもお読みくださいませ。 <日本書紀、巻第十七、継体天皇> 男大迹(をほど。継体)天皇(亦の名は彦太尊)は、誉田(ほむた。応神)天皇の五世の孫、彦主人(ひこうし)王の子である。母は振媛(ふるひめ)といい、振媛は活目(いくめ。垂仁)天皇の七世の孫である。 (中略) (継体)天皇が五十七歳のとき、(武烈)八年十二月に小泊瀬(をはつせ。武烈)天皇が亡くなった。もともと、武烈天皇には子がなく、後継ぎは絶えようとしていた。 (中略) (そこで大伴金村大連らは、男大迹王を立てて天皇とした。説話が長いので省略) 三年二月、百済に使者を送る。(百済本記には、「久羅麻致支弥、日本より来る」というが未詳)任那の日本の県邑にいる、百済よりの逃亡者・浮浪者を、三、四世にまで遡って、百済に送還し、百済の戸籍につける。 五年十月、山背の筒城に遷都。 六年四月、穂積臣押山を百済に派遣し、筑紫国の馬四十匹を贈る。 十二月、百済、遣使して調を貢る。別に上表文をもってきて、任那国の上[口多][口利](たり)・下[口多][口利]・娑陀(さだ)・牟婁(むろ)の四県を請う。多利国守穂積臣押山の奏していうには、 「この四県は百済に近接し、日本からは遠く隔たっています。多利と百済とは朝夕通い易く、鶏も犬も所属が混じるほど近い国です。今、百済にこれを贈り、併合してしまうのは、着実な策であってこれに勝るものはないでしょう。しかし、たとえ百済に合併しても、後世の安全が保証されるわけではございません。ましてや、百済と切離しておいておいたなら、とても何年も守り通すことは出来ません」 という。 大伴金村大連もこの言葉を受けて、賛成した。そして、物部麁鹿火大連を勅使とした。まさに、物部大連は難波館(迎賓館みたいなもん)に行き百済の客人に勅命を伝えようとしていたが、大連の妻が、 「住吉大神が初めて海外の金銀の国、高麗・百済・新羅・任那などを、神功皇后の御腹の中に居た応神天皇に授けたのです。だから大后息長足姫尊(神功)は、大臣武内宿禰と、初めて海外の宮家を置かれ、海外の属国としてその由来は久しいのです。もし、任那四県を割譲してしまえば、本の区域にたがいます。そんなことをすれば、後世からいかに評されましょう」 と固く諌めた。大連は、 「それはもっともなことであるけれども、どうして天勅に背くことが出来よう」 と答えた。 「病と称して、勅使を辞退しましょう」 と、妻は言った。大連は妻の言葉に従ったので、別の勅使が立てられ、百済に任那四県が割譲された。 大兄皇子(後の安閑)は、事情があって、先の割譲には関わっておらず、後からこの勅命の事を知った。皇子は驚き、悔やみ、この勅命を改めようと、 「胎中之帝(応神)より、宮家を置いている国を、軽軽しく他国の言うままに与えてはなりません」 という令旨を発した。 そして、日鷹吉士を遣わし、改めて百済の使者に令を伝えた。 使者は、 「父の天皇が既に勅命を下して、事は終わっているのに、子の皇子がどうして、勅命に背いてみだりに令を発するのでしょう。必ずやこれは、虚偽に違い有りません。もし、本当ならば、杖の大きく太い方で打つのと、小さく細い方で打つのと、どちらが痛いでしょうか」 と言って、聞かず、ついに百済に帰国していった。 「大伴大連と多利国守穂積臣押山とは、百済から賄賂をもらっていた」 というウワサがながれた。 七年六月、百済は姐弥文貴将軍・州利即爾将軍を遣わし、穂積臣押山(百済本記には「委の意斯移麻岐弥」という)にそえて、五経博士段楊爾を贈る。 別に上表文を持ち、 「伴跛国(はへ。加羅諸国の一)がわたくしの国の己文(こもん。港町)の地を奪ってしまいました。どうか、調停を行い、本の所属に戻してください」 と、奏言する。 (中略) 十二月、朝廷にて、百済の姐弥文貴将軍、新羅の文得至、安羅の辛已奚及び賁巴委佐、伴跛の既殿奚及び竹文至らを集め、己文・帯沙(たさ。港町)を百済に割譲。 この月に、伴跛国、輯支を遣わし、宝物を献じ、己文を請うも、与えず。 (中略) 八年三月、伴跛、子呑(しとん)・帯沙に城を築き、満奚(まんけい。地名)にまで烽火や兵糧庫を用意し、日本に備える。また、爾列比(にれひ。地名)・麻須比(ますひ。地名)にも築城し、麻且奚(ましょけい。地名)・推封(すゐふ。地名)までを繋ぐ。また、新羅に侵攻し、略奪殺戮を尽くす。あまりに凄惨な為、これ以上は載せない。 九年二月、百済の姐弥文貴将軍、帰国を申請、よって物部連(名を欠く)をそえて、帰国させる。(百済本記には「物部至至連」という) この月、沙都島に至り、人づてに、伴跛人の傍若無人振りを聞く。物部連、舟師五百を率い、まっすぐに帯沙港にいたる。文貴将軍は、新羅より去る。 四月、物部連、帯沙港に停泊して六日。伴跛、挙兵する。物部連ら、命からがら逃れ、文慕羅に泊まる。(文慕羅は島の名である) 十年五月、百済、前部木[力x3]不麻甲背(もくらふまかふはい)を遣わし、物部連らを己文にてねぎらい、引導して百済に入国。 九月、百済、州利即次将軍を遣わし、物部連にそえて来日。己文割譲を謝す。また、五経博士漢高安茂を送り、博士段楊爾と交代させる。百済、灼莫古将軍・日本の斯那奴阿比多(しなぬあひた)を遣わし、高麗の使者安定にそえて来朝。 (中略) 二十一年六月、近江毛野臣、衆六万を率い、任那へ行き、新羅に破られた南加羅(金官)・喙己呑(とくことん。地名)の再建を目指していた。このとき、筑紫国造磐井は密かに、反逆を企て、常に機をうかがっていた。新羅はこれを知り、密かに賄賂を贈って毛野臣の行軍を阻止するよう勧めた。こうして、磐井は火・豊両国に勢力を張り、天皇に従わず、外は海路をふさぎ、高麗・百済・新羅・任那らの船を誘致し、内は任那へ遣わした毛野臣の軍を遮り、無礼な揚言をして、 「毛野臣は今でこそ使者となっているが、俺とは昔は仲間として、肩や肘をすり合わせ、同じ釜の飯を食った仲だ。急に使者になったからといって今更おまえに、俺を従わせることなどできん」 といって、とうとう戦おうとして毛野臣の言葉を聞こうとしない。 こうして、毛野臣の軍は釘付けとなり、任那への進軍は中途にして、留まらざるを得なかった。 天皇は、大伴金村大連・物部麁鹿火大連・許勢男人大臣らに、 「筑紫の磐井が反して西の地を保っている。今、誰か将となるべきものはおらぬか」 と詔した。大伴大連らはみな、 「まさに、麁鹿火大連の右に出るものは無し」 といった。 天皇は「よし」といって、麁鹿火を将軍に任命した。 八月、(継体天皇は)「大連よ、例の磐井が従わない。おまえが行って討て」と詔を下した。物部麁鹿火大連は、再拝して、 「磐井は西戎の奸猾です。川によって阻まれていることを頼みに、朝廷に仕えず、山の峻厳なることによって、乱を起こしています。徳を破り、道に反して、朝廷を侮り、驕り高ぶって、自らを賢者と思っています。むかし、道臣(大伴氏の祖。神武の家臣)より室屋(大伴金村の父)に至るまでに、帝を守り、逆らうものを討ち、民を水火の苦しみより救うことは、今も昔も変わりません。ただ、天のお望みになることは、私めの常に重んずるところであります。必ずや、磐井を討ってみせましょう」 と言った。 天皇は、 「良将が軍を指揮すれば、恩を施し、恵を推し、己を慮って人を治める。攻めること河のさくるが如し。戦うこと風の発つが如し」 と言い、また、 「大将は民の命を司るものだ。社稷の存亡はここにかかっている。つとめ、謹んで、天罰を行え」 という詔を下した。 天皇は自ら鉞(まさかり。天子が征伐の大将に賜う中国のならわし)を取り、大連に授け、 「長門より東は私が統括しよう。筑紫より西はおまえが統括せよ。おまえが賞罰を専任し、その都度報告を怠るでないぞ」 と言った。 二十二年十一月、大将軍物部麁鹿火が自ら賊帥・磐井と、筑紫の御井郡で交戦する。両軍の軍旗と軍鼓とが向き合い、軍兵のあげる埃塵は入り乱れ、両群は勝機を掴もうと、決死の戦を交えて、互いに譲らなかった。 ついに磐井を斬り、ついに彊場(キョウエキ。国境)を定める。 十二月、筑紫君葛子(ちくしのきみくずこ)、父の罪に連座して誅されることを恐れ、糟屋屯倉を献じて死罪を贖う。 二十三年三月、百済王が、下多利国守穂積臣押山に、 「(日本への)朝貢の使者が、いつも嶋曲(海中の嶋の曲の崎岸をいう。俗にいう「みさき」)を去る度に、風波に苦しんでいる。だから、持っていったものが濡れ、壊れてしまい、なんともみっともない状態になってしまう。加羅の多沙港(帯沙に同じ)を我が国の朝貢の経由港としたい」 と語った。これを受け、押山は朝廷に進言した。 この月、物部伊勢連父根・吉士老らを遣わし、津を百済王に賜う。このとき、加羅王が勅使に、 「この港は、宮家の置かれて以来、我が国の朝貢の経由港としてきたものです。やすやすと隣国に与えてしまったのでは、元々の封地にたがいます」 と陳情し、勅使・父根は、このため、加羅の面前で百済に多沙を与えるのは難しいと思い、大島に退き、別に録史を遣わして、百済にこれを与えた。これによって、加羅は、新羅と結んで、日本を恨んだ。 加羅王は、新羅王の娘を娶り、子が生まれた。新羅は始め、娘を送る時に、あわせて百人の従者をつけた。受けて諸県に分散しておき、新羅の衣服を着させた。阿利斯等(ありしと。人名)はその服を変えたことを怒り、使いを送って新羅に送還した。新羅は大いに面目を失って、娘を召還しようとし、 「前にあなたが求めたから、わたしは娘との結婚を承諾したのです。今、こんなありさまなのでは、王女を還していただきたい」 といった。 加羅の己富利知伽(未詳)(こほりちか。人名)は、答えて 「夫婦としてめあわせておいて、いまさらどうして仲をさくことができましょう。それに、子供もおります。どこへ捨てていくことが出来ましょう」 といった。 ついに、新羅は刀伽(とか。地名)・古跛(こへ。地名)・布那牟羅(ふなむら。地名)の三城を奪う。また、北境の五城を奪う。 この月、近江臣毛野を遣わし、安羅への使者とする。勅を発し、新羅を勧め、更に南加羅・喙己呑を建てさせた。百済は、将軍君尹貴(いくさのきみいんくゐ)・麻那甲背(まなかふはい)・麻鹵(まろ)らを遣わし、安羅に赴いて、詔勅を聴いた。新羅は、隣国の宮家を破ったのを恐れ、大人(だいじん)を遣わさず、夫智奈麻礼(ぶちなまれ)・奚奈麻礼(けなまれ)を遣わして、安羅に赴いて、詔勅を聴いた。安羅は、新たに高堂を建てて、勅使を先導して昇る。国主は(勅使の)後ろに随って端を上る。国内の大人で、高堂に昇ったものは、一人二人だった。百済の使者の将軍君らは、堂の下に居た。およそ数ヶ月に及び、再三、堂の上で会議が行われた。将軍君らは、堂の下の庭にいて会議に参加できないことを恨んだ。 四月、任那王己能末多干岐(己能末多というのは、恐らく阿利斯等だろう)(このまたかんき)が来朝。大伴金村大連に、 「海外の諸蕃(「蕃」は「藩」に同じ)は胎中(応神)天皇が宮家を置いて以来、もとの国王にその土地を委任統治させたのは、まことに道理の有ることです。今、新羅は、最初に新羅領として決めて与えたその限界を無視して、 しばしば境を越えて、侵入してきます。どうか、天皇に申し上げて我が国をお救いください」 と陳情。大伴大連は、その通り上申した。 この月、使いを遣わして、己能末多干岐を送る。あわせて、任那に居る近江臣毛野に、 「任那王の奏上するところをよく問いただして、任那・新羅両国のお互いに疑い合っているところを和解させよ」 という詔勅を下した。そこで毛野臣は、熊川(くまなれ。地名)に宿泊して(ある本には「任那の久斯牟羅に宿泊」という)新羅・百済の二国王を召集した。新羅王佐利遅(さりぢ)は久遅布礼(ある本には「久礼爾師知于奈師磨里」という)(くぢふれ)を遣わし百済は、恩率弥騰利(みどり)を遣わして、毛野臣のもとへ集い、二王は自らやってこなかった。毛野臣は大いに怒り、二国使を攻め問い、 「小が大に仕えるのは天の自然の道である(ある本には、「大木の端には大木で接木し、小木の端には小木で接木するのが当然だ」とある)。どうして、新羅・百済両国の国王が、自らここに集まってきて、偉大なる天皇の勅命を承らないで、無礼にも使いのごとき小さき者をよこしたのか。今もし、おまえ達の王が自らやってきて勅を聴いても、俺はあえて勅を下さん。必ず追い返してやるぞ」 と言った。久遅布礼・恩率弥騰利は、恐れ、それぞれ帰って王を呼んだ。これによって、新羅は改めてその上臣伊叱夫礼智干岐(新羅は大臣を「上臣」とする。ある本には「伊叱夫礼知奈末」とある)を遣わし、兵士三千を率いてやってきて、詔勅を聴きたいと願い出た。毛野臣は、はるかに兵士達が集い囲んでいるのを見て、熊川より任那の己叱己利城に入った。伊叱夫礼智干岐は、多多羅原に駐屯し、我が軍に礼儀をもって仕えずに、勅旨を待つ こと、三ヶ月にもなった。しきりに勅を聴きたいと願い出たが、ついに相手の無礼を責めて勅を宣らず。伊叱夫礼智の率いる兵卒は集落に食べ物を乞うていた。毛野臣の従者・河内馬飼首御狩はそこに立ち寄った。御狩は、近くの門に身を隠し、物乞いとなった兵卒をやり過ごし、拳骨で遠くから殴るまねをした。物乞いはこれを見て、 「謹んで、三ヶ月も待って、勅旨を聞こうと待ち望んでいたのに、やはり毛野臣は勅旨を述べようとしない。勅を聴きに来た使いをこうやって困らせるのは、つまり、偽って上臣を殺そうというつもりなのだということが、解った」 と言った。 そうしてあるがままに上臣に報告した。上臣は、四村を奪い(金官・背伐・安多・委陀。これを四村とする。 ある本には、「多多羅・須那羅・和多・費智を四村とする」とある)、全軍を率いて本国に帰還した。 人々は、「多多羅など四村が奪われたのは、毛野臣の過失だ」といった。 九月、巨勢男人大臣、薨ず。 二十四年二月、詔勅に言う。 「磐余彦(いはれひこ。神武)帝・水間城(みまき。崇神)王より、皆、博識な臣下、明哲なる補佐に頼ってきた。つまり、道臣が策略を述べたから神日本(神武)は盛んになった。大彦が政略を述べたから胆瓊殖(いにゑ。崇神)は隆盛となった。継体(ここでは普通名詞。後継者)君に及んで、中興の功を立てようと思う時には、どうしてむかしより、賢哲な政策に頼らざることがあろうか。ここに、小泊瀬(武烈)天皇の天下に王たるに降り、幸いにして前聖を継承し、隆平の日は久しい。太平の為に人々は眠ったようになり、政治もだんだん衰えてよくないところを改めようともしなくなった。ただ、各人の類をもって進むことを全うするのみである。深謀遠慮の有るものは、その足りぬところを問うこともなく、才能の有るものは、その過失有るところをそしらない。こうして、獲て宗廟を奉じ、社稷を危ぶめず。これによってみれば、どうして明佐にあらざるだろうか。私が帝業を継承して、今や二十四年。天下は清泰。内外に憂い無し。土地は肥え、稲穂は実るが、私がひそかに恐れているのは、万民がこれによって習慣を作り、これによって驕りを生じることだ。人に廉節を挙げしめ、大道を宣揚し、鴻化を流布し、能力ある官吏を任用することは、昔から難しいこととされてきた。ここに私の代になって、どうして慎まぬものか」 九月、任那の使いが、 「毛野臣は、ついに久斯牟羅にして、舎宅を起こして赴任すること二年になります(ある本に「三年」というのは言った年と帰った年を合わせて三年という)が、彼は政務につとめて仕事をしません。今、日本人と任那人の間でしきりに子供が生まれているため、その帰属を巡る訴訟の決し難いことをもって、はじめから判断しようとせず、誓湯(うけひゆ)を置いて、『事実を言うものは爛れない。偽るものは爛れる』などといって、湯に投じられて爛れ死ぬものが大勢居ます。また、吉備韓子那多利・斯布利を殺し、(大日本の人が蕃国の女を娶って生んだ子を韓子という)常々人民を悩まし、とうとう和解することはありません」 といった。 天皇はその行状を聞き、人を遣わして毛野臣を召還したが、やってこず。毛野臣はそっと、河内母樹馬飼首御狩を京に送りこんで、天皇に奏させた。 「わたくしめは、いまだ勅旨をなさず、京に帰るのは、励まされて旅立って、なんの功もなく帰ることになります。はずかしくて、面目なくてどうしようもありません。伏して願わくば、朝命を達成して後、帰朝して謝罪致します」 また、毛野臣は謀って、 「調吉士もまた、(自分と同じ使命を持った)天皇の使者だ。もし俺より先に帰って俺の行状をそっくり伝えたなら、 俺の罪は重くなってしまう」 といい、調吉士を伊斯枳牟羅城の守備につかせた。 こうして、阿利斯等は毛野臣が小さなくだらないことばかりして、任那復興の約束を実行しないのを知って、しきりに帰朝しなさいとすすめたけれど、毛野臣はやはり帰還することを聞き入れなかった。このために、阿利斯等は毛野臣の行状をすっかり知って、心中に背く気持ちを起こした。そして、久礼斯己母(くれしこも。人名)を遣わし、新羅に援軍を求め、奴須久利(ぬすくり。人名)を遣わし、百済に援軍を求めた。毛野臣は、百済兵が来ると聞いて、背評(背評は地名。またの名は能備己富利)に迎え撃った。死傷者は約半数にも及んだ。百済は、奴須久利を捕らえ、足かせ手かせをして、新羅とともに城を囲み、阿利斯等を責め罵って 「毛野臣を出せ」 といった。 毛野臣は篭城して、守りを固めた。戦線は膠着し一月になった。新羅・百済は城を築いて帰国した。これを久礼牟羅城と言う。帰る道すがら、騰利枳牟羅・布那牟羅・牟斯枳牟羅・阿夫羅・久知波多枳の五城を奪った。 十月、調吉士が任那より至り、奏言するには、 「毛野臣のひととなりは理に背き、治体を習わず。ついに和解なく、加羅を擾乱に導きました。自分勝手で、あれこれ好きなことを考え、外患を防ぐこともありません」 という。 ゆえに、目頬子を遣わして、毛野臣を召還する。(目頬子は未詳) この年、毛野臣は召されて対馬にいたり、病を患って、死ぬ。葬送の時、川筋に随って近江に入る。妻の歌。 ひらかたゆ 笛吹き上る 近江のや 毛野の若子い 笛吹き上る 目頬子が初めて任那に至る時に、任那在住の日本人の贈った歌。 韓国を いかにふことそ 目頬子来る むかさくる 壱岐の渡りを 目頬子来る 二十五年二月、天皇の病は重く、磐余玉穂宮に崩ず。享年八十二。 さて、本編はまた今度にします。 いやー、長かった…。 途中で後悔した(笑)。 13-Feb-2000 今回は、「卑弥呼は倭を統一していたか」というテーマで、お話したいと思います。 まず、関連する史料から。 (1) 楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国を為す。漢書、地理志、燕地 (2) 倭人は帯方の東南、大海の中に在り、山島に依りて国邑を為す。旧百余国、漢の時朝見する者有り、今使訳通ずる所、三十国。魏志、倭人伝 (3) 倭は韓の東南、大海の中に在り、山島に依りて居と為す。凡そ百余国、武帝の朝鮮を滅してより、使駅の漢に通ずる所、三十許(ばかり)国。後漢書、倭伝 (4) 昔より祖禰(ソデイ。祖先)躬(みずか)ら甲冑を環(手偏。つらぬ)き、山川を跋渉(バツショウ。山を行き川を渡る)し、寧処に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国。王道融泰にして、土を廓(ひら)き、畿を遐(はるか)にす(遐畿とは天子(宋)の領域を遠くまで及ばせる意)。宋書、倭国伝、倭王武表 (5) 倭国は古の倭奴国なり。京師を去ること一万四千里。新羅東南の大海の中に在り、山島に依りて居す。東西五月行、南北三月行。…四面に小島、五十余国、皆附庸(フヨウ。天子(唐)の封国(=倭)の属国となること)す。旧唐書、倭国伝 さて、一つずつ見ていきましょう。 まず、1の漢書ですが、これが実は周以来のお話だということは、お話したことがありますよね。 ただし、これは、何も周代だけに限定しなくてはいけないわけではなくて、当然、漢代にも、倭人は百余国あったもの、と見て差し支えないでしょう。 次に2ですが、ここで問題になることがあります。 それは、「旧百余国」と「今使訳所通三十国」の対比です。 この文面から、多数の論者は、 「昔は百余国あった。それが統合されて今は三十国になった」 と考えているようです。 本当でしょうか。 後漢書を見ても、大体同じです。 「許(ばかり)」がついて概数になっているのは、魏志のように、明確な史料がなかったためでしょう。 (魏志の場合、卑弥呼or壹与の上表文に三十国の名が記されていたもの、と見なせます。 ちなみに、魏志にいう「漢時有朝見者」とは、後漢書に見える最低2回の遣使(金印の時と、倭国王帥升)を 指しています。) さて、百余国問題に一石を投じるのは、宋書の倭王武の上表文です。 ここの「海北」とは朝鮮半島のことですが、「東」と「西」は日本列島内です。 五十五国と六十六国、足すと百二十一国です。 百余国と言うのは、概数ですから、まあ、合ってるといえば合ってます。 ここでは、相変わらず、倭人(東夷)の国が百余国あります。 「毛人」「衆夷」をエミシ・クマソとして、倭人ではない、と言い張ってもムダです。 多分、中国側から見れば大差ありません。 さらに、エミシ・クマソと、いわゆる倭人が異民族なわけではありません。 (エミシがアイヌであれば、多少話は変わってきますが) ハッキリ言えば、クマソが「衆夷」なら、倭人も「東夷」に過ぎないのです。 そしてその立場は、倭王武にとっても同じでした。 自らを「臣」と称し、「自分は東夷の王として、天子の為に、その領域を拡大しているのです」 これがこの上表文の要旨です。 次に旧唐書を見てみましょう。 ここでは、倭国の「四面」には五十余国があるといいます。 ここで、倭国の本領域は、九州島です。 (東西五月行、南北三月行は、倭国天子自称の「畿」です) つまり、九州島に五十余国あると言っているのです。 これも、倭人百余国の漢書、東西合わせて百二十一国の宋書に近い数値です。 こう見てくると、卑弥呼の三十国とはどういう領域なのでしょうか。 やはり、百余国中の三十国が彼女の領域だった、こう考えるしかないようです。 つまり、残り七十~八十国くらいは女王に属さなかったのです。 思えば、「狗奴国」は女王に属さない「倭人国」でした。 さらに、「朱儒国」「黒歯国」「裸国」も女王に属しません。 女王は倭の中で最も有力な王者だったかもしれませんが、いまだ倭を統一するに至っていないのです。 陳寿が「倭国伝」とせずに「倭人伝」としたのには、こういう背景があります。 とすると、卑弥呼の領域は、凡そ、九州の半分くらい、北部九州に限定されると考えて良さそうです。 「筑紫」「豊」「火(肥)」の三国くらいでしょうか。 「日向(ひむか)」「襲(そ)」あたりはやはり「狗奴国」と考えて良いでしょうか。 また瀬戸内は「倭種」とされていますが、女王とは別領域です。 「多波那(たばな)国(三国史記に見える、倭人の新羅王脱解の故郷)」なども女王に属せざる国のようです。 このようなことは、例えば古田の歴史観にも大きな影響を及ぼします。 「景行九州遠征」の話(九州王朝からの盗用)の位置付けなどです。 これらについては、またお話したいと思います。 11-Feb-2000 えー、今回は黒歯国・裸国について、お話します。 「黒歯国」「裸国」というと、なんか原始人みたいですが、(実際、中国側でこんな名前をつけたのは、そういうイメージだったのかもしれません)魏志倭人伝の中に登場する、倭人の国です。 しかし、「黒歯国」「裸国」ともに、魏志が初出ではありません。 『山海経』(周~戦国・漢代にかけての成立)や、『淮南子』(漢・淮南王劉安撰)、『論衡』(漢・王充著)、『戦国策』(漢・劉向撰)、「海賦」(晋・木華の詩)などにも見える有名な地名です。 さて、これらを吟味してみましょう。 (A) (女王国)東南船行一年、裸国黒歯国に至る。魏志、倭人伝(晋・陳寿) 是に於て、舟人漁子、南に徂(ゆ)き、東に極(いた)る。 或は[ゲンダ](海亀)の穴に屑没(セツボツ。チリとなる)し、 或は岑敖(敖は本当は山かんむり。シンゴウ。険しく鋭い山)に 挂涓(涓はさんずいナシ。ケイケン。ひっかかること)す。 或は裸人の国に掣掣洩洩(セイセイエイエイ。風に任せて漂うさま)し、 或は黒歯の邦に氾氾悠悠(ハンハンユウユウ。流れに従うさま)す。 文撰、江海、海賦(晋・木華) (B) 昔、舜は有苗(ユウビョウ。南蛮。一説にミャオ族)に舞い、禹は袒(裸になること)して裸国に入れり。 : 是を以て聖人は、其の郷を観て宜しきに順ひ、其の事に因りて礼を制す。其の民を利して其の国を厚くする所以なり。被髪(ヒハツ。髪を結わず冠を付けない風俗)文身(ブンシン。入れ墨)、錯臂(サクヒ。腕組みして立つ姿勢)左衽(サジン。襟が左前)は、甌越(オウエツ。甌江に住む越族)の民なり。黒歯(コクシ。お歯黒)雕題(顔に入れ墨)、是冠(是は魚へん。テイカン。鯰の冠)朮縫(朮は禾へん。ジュツホウ。着物の縫い目が粗い)は大呉の国なり。礼・服同じからざるも、其の便は一なり。戦国策、趙、武霊王(漢・劉向) 禹の裸国に入る、裸にして入り衣にして出づれば、衣服の制は夷狄に通ぜざるなり。禹の裸国に衣服を教ふる能はざるに、孔子何ぞ能く九夷をして君子為たしめむ。論衡、問孔(漢・王充) (C) 下に湯谷(ヨウコク)有り。湯谷の上に扶桑有り。十日の浴する所。黒歯の北に在り。山海経、海外東経(周~戦国・漢) 東南自り東北方に至る、大人国・君子国・黒歯民・玄股民・毛民・労民有り。淮南子、墜形(チケイ)訓(漢・淮南王劉安) (黒歯国)其の人黒歯にして稲を食ひ蛇を啖(くら)ふ。湯谷の上に在り。高誘注(後漢・高誘) さて、今、6つの史料を引用してみましたが、これらは3つのグループに分かれます。 Aグループは、魏志倭人伝型です。黒歯国と裸国は1セットです。 存在する方角は東南。海のはるか彼方です。 次にBグループは、黒歯国と裸国は直接の関係は有りません。 確かにともに南蛮の一種ですが、関わりはそれほどでもありません。 裸国は禹のエピソードで有名なようです。 (このお話、戦国策では「郷に入ては郷に従え」よろしく、禹が裸国において裸になったように、呉越の風習についても、中国人(華北)は理解すべきだ、それが礼の道なんだ。っていうような話しで、とても興味深いですね。後世の中華思想とはちょっと違う、健全な発想です。ところが、時代はそんなに違わないのに(ただし書かれたのは漢代だが、実際は戦国時代のエピソード)、王充の方は、禹のような聖人君子をもってしても、夷狄の連中に礼を教えることなどできんのだ。と言っていて、随分解釈が違います。どっちにしても、「禹は裸国に行った。その時、禹は裸国の風習に従って裸で生活した」というエピソードは有名だったようです) また、戦国策において、裸国は禹の時代の国、黒歯は、現代(戦国)の呉越の風俗であってその存在する時代も違っています。 Cグループは、東方の異民族の中に黒歯というのがいるというもの。 ちなみに南方には裸国があります。 扶桑という太陽の昇る木のある湯谷という場所の近くに、黒歯人はいるようです。 さて、各グループの時代を見てみましょう。BとCはともに周から戦国・前漢の時代で、ちかいです。ですがAは晋代であって、それより少し遅れます。 このように見ると、陳寿が倭人伝に「黒歯国」「裸国」と記したとき、少なくとも、B・Cのグループに見える「黒歯」や「裸」を知っていたはずです。 三国志の読者(陳寿にとっての)も、同じくB・Cのそれを連想したでしょう。 つまり、倭から東南に船で1年行った所に、禹の赴いた「裸国」や、扶桑の近くにある「黒歯国」があるんだなあと、そう思うはずです。 思えば、陳寿は魏志東夷伝の序文に、 東、大海に臨む。長老説くに、異面の人有り。日の出づる処に近し、と。 と記していて、それが「日の出づる処」扶桑の近くにあるという「黒歯国」を指すことを予告していたのです。 広大なロマンを感じる部分だと思いません? ゾクゾクします。 シルクロードの漢書西域伝と同じくらい。 だから陳寿は、こんなに倭人伝に行数を費やしたのです。 里程記事をこんなに詳細に載せたのです。 目的地は倭の女王ではなく、その先の「日の出づる処」の近く、「黒歯国」だったのです。 さて、クールなお話に戻りましょう。 じゃあ、「裸国」はなんなんだ。「黒歯国」があるっていう根拠(陳寿にとっての)は何だったんだ。 こういうことになります。 まず、「裸国」は倭人伝に出てくる意味がありませんね。 別に禹の話しを語るわけでもなく、名前しか書いていません。 また、「黒歯」と並んで称されるのも今まで(漢まで)に例がありません。 それから、「黒歯国」「裸国」に中国人が訪れたわけではないのですから、東南の海の彼方にある国が「黒歯」「裸国」だなんて、どうして言えたのでしょう。 そう考えると、答えはひとつしかありません。 倭人からの情報です。 また、倭人伝に載っている以上、「黒歯」「裸国」は倭人の一派と考えるのがスジです。 では、その倭人からの情報とは、どんなものだったのでしょうか。 「東南の海の彼方に、黒い歯をした連中や、服を着ない連中がいる」 こんな感じでしょうか。 でも、これじゃ、陳寿にとって、推定の域を出ません。 そういうことならば、陳寿はこう書くはずです。 「東南に、黒い歯をした人々の国や、裸で生活する人々の国があるという。 恐らく、われわれの言う黒歯国や裸国であろう。」 と。 それを「黒歯国・裸国有り」と単刀直入にズバッと言い切るとは考えにくいのです。 ならば、考えられるのはひとつ、 「倭人が『黒歯国』『裸国』という名称を用いていた」 この可能性です。当時の倭人の中には漢字の読み書きが出来る者がいたはずであることは、卑弥呼や壹与が、魏・晋と国書のやりとりをしていることから明らかです。 つまり、倭人が自ら、この名前を、この字面で、中国人に教えたのです。 黒歯・裸国の国名(奴国や伊都国のような)が中国の古い東方の異人伝承の国名と一致するのは、偶然なのか、それとも、中国伝承を受けて倭人が名づけたのか、もともとあった「黒歯」「裸国」の倭人国のウワサが中国に伝わった伝承なのか、それはわかりませんが、楽しい話です。 6-Feb-2000 えっと、もう2月になってしまいました…。 今更ながら、2000年の記念すべき第1回の ネタです。 さて、ではさっそく参りましょう。 …なんの話しでしたっけ? 「倭武天皇」でしたね。 詳しい話は前回(25-Dec-99)を読んでいただくとして、 今回は、「倭武天皇」という字面はいったいどこから来たのか? というテーマでいきたいと思います。 さて、少なくとも常陸風土記編者(藤原宇合という説が有力)は、「倭武天皇」をヤマトタケルに擬して書き記した、このことは前回お話しました。 ですが、中央でさえ「天皇」扱いされていないヤマトタケルをひとり常陸風土記だけ(もっとも播磨風土記にも「倭建天皇命」と見える)が「天皇」に格上げして表記したとは考えられません。 (これも前回お話しました。) だとすると、この「倭武天皇」、とくに「天皇」という表現はいったいどこから来たのでしょう。 これが問題となります。 結論はただひとつです。 「もともとの史料に倭武天皇と書いてあった」 これしかないでしょう。 ですから、この場合は「倭武天皇」の「属性」「地域性」もさることながら、「倭武」という字面に引かれて、 ヤマトタケルと同一視された、そう考えられます。 (その一方で、前回のBの史料では、同一人物の事跡(ヒナラス命派遣)が「美麻貴天皇」に仮託されていたのは、「天皇」の表記に引かれたもの、と考えることが出来ます。) この辺りについては、古田が既に論じております。 では、「倭武天皇」とはいったい誰なのか。 再三申しておりますように、「倭王武」ではありません。 そうすると、一応、2通りの解釈が出来るかと思われます。 1)「倭」の「武天皇(諡)」→漢語と見なす 2)「ちくしのたけるのすめらみこと」→倭語と見なす。「倭」=「ちくし」(ヤマトではないことは記紀より明白) 私としては、1ではないかな?と思っております。 …で、そうすると、こんな史料に目を引かれます。 継体天皇十六年、武王、年を建て善記と云ふ。襲国偽僭考、鶴峯戊申、文政3(1820) もちろん、以前(28-Nov-99)お話したとおり、これをどこまで信憑してよいか、甚だ疑問です。ですが、気になる史料です。武王って誰やねん?ってことです。 要するに「九州王朝」の中に「武王」「武天皇」と諡された君主がいたのかもしれません。 なんとも歯切れの悪い結論ですが、まぁ、こんな感じだと思っています。
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[[独り言(Historical)]] #menu(menu_Historical) 9-Dec-2000 先週の日曜日(12/3)、「多元」という古田一派の団体主宰の、 古田武彦氏の講演に参加してきました。 えー、古田武彦というのは、 『「邪馬台国」はなかった』という、知る人ぞ知る本を書いて、 古代史の世界では、そこそこ有名な、かわにしのもっとも影響を受けた、 古代史家です。 …で、講演の内容は、というと、 藤村氏(捏造の人)の話と、藤村氏の捏造を看破できなかった「自然科学的方法」の話。 「大王(おほきみ)は神にしませば…」の歌の話。 「曲水の宴(歌詠みの遊び=天子の遊び)」の跡が九州と、東北にあったという話。 「天皇陵古墳」の軍事的意味の話。 などなどで、どれも、かなり面白い内容でしたが、それらについては、 かわにし説を含めて、いずれお話します。 かわにしは、前から疑問に思っていることがありました。 その前に、その前提となるお話をしましょう。 「倭の五王」について。 倭の五王(讃・珍・済・興・武)について、歴代天皇に擬する諸説があるが、いずれも、年代・系図・日本列島側の説話からいって、しっくりこない。=天皇家ではない可能性が高い。 五王、とくに倭王武の上表文に依れば、彼等が都したのは、九州である。 隋書について。 「日出づる処の天子」を称したのは、男性(「妻を鶏弥という」という記述あり)である。=推古天皇ではない。 明確に「第一の王者」を称しており、聖徳太子(No.2)ではない。 隋書自体の地理描写により、「日出づる処の天子」がいたのは、九州である。 旧唐書について。 「倭国伝」と「日本伝」が別れている。 「倭国」と「日本」は、その領域についての記述が異なり、別国である。 「日本伝」の描写は、「続日本紀」とよく一致するが、「倭国伝」は、全く一致しない。 という点などから、いわゆる「倭国」は、九州を中心とした王朝、「日本」は近畿を中心とした王朝である。(いわゆる「ヤマト朝廷」)という説を打ち出したのが古田氏です。 …で、古田説の肝要の一点は、 「九州王朝は、白村江の敗北によって滅亡した」 ということにあります。 そして、その後の701年(大宝元年)、「日本国」が「倭国」に替わり日本列島の王者となった、 というのです。 つまり、「白村江」は、九州の「倭国」の王者が指揮して行ったものである、ということです。 つけくわえれば、「日本」はこの戦いには消極的だった、のです。 かわにしとしては、この説に、ほとんど賛成なのですが、 いまいち、よくわからない問題があります。 日本書紀には、「倭王」の果たした業績を、さも「日本国」の天皇がなしたかのように、 書かれた部分が多々あります。 それらの一つ一つにはここではふれませんが、 要は、「日本書紀」という本は、「倭王」の業績を全て「日本」の天皇の業績にすり替え、 「倭国」の存在を極力消そう、という性格の本である、というのが古田氏の力説するところです。 で、ここでわからない。 「なぜ、日本書紀には、白村江の敗北が堂々と描かれているのか」という問題です。 白村江の戦いについて、あれだけの大敗北を喫しながら、「日本国」-天皇家側の重要人物、 中大兄皇子(天智天皇)・大海人皇子(天武天皇)・中臣鎌足らを初めとした人たちは、まったくの安泰です。 このことから、「日本国」側は、白村江に出兵しなかった、と考えることが出来ます。 戦後の日本じゃないですが、あれだけの大敗北に、人々をミスリードしてしまったら、 国民みんなから総スカンをくらって、とてもとても、権力の座に安泰、というわけにも行かないでしょう。 しかも、対戦国の唐・新羅とは、701年以降も、頻繁に外交を行っている上、 「日本国」は、律令・制度などの多くを、唐を手本とし、模倣しています。 そういう外交上の立場からも、720年(日本書紀成立の年)になって、いまさら、 「白村江」は「日本」の天皇の指揮の下に行われた、などと、(わざわざウソを)語るのは天皇家にとって不利だと考えざるを得ません。 古田氏は、 「記紀は天皇家にとって有利になるように加削されても、不利になるように加削されることはない」 といいますが、この場合だけは、逆だということになります。 で、これを質問したんですが、 回答はこんな感じでした。 「本当は白村江には触れたくなかったんだが、国際的に触れないわけには行かなかったので、 やむなく、天智天皇を天皇ではなく、「称制」として、責任者不在という状態にして、 触れることにした」 ということでした。 うーん、ちょっと納得できません。 まぁ、疑問が解決したわけではありませんでしたが、かわにしにとっては、面白い話がたくさん聴けて よかったなぁと思っております。 また、機会があったら、行こうかな。 それまでに、この問題に対するかわにしなりの回答が得られればいいなぁ、 と思う今日この頃です。(なんじゃそりゃ) 24-Nov-2000 えー、ずいぶん久しぶりですが、 急に古代史の話がしたくなりました。 今回のネタは、「日本の太陽神について」です。 さて、日本の神話に出てくる太陽の神様は、というと、ご存知かもしれませんが、 「天照大神(あまてらすおおみかみ)」です。 まぁ、「てらす」とか「おおみかみ」という読み方は、皇国史観というか、尊皇というか、国学というか、 とにかく、そういう流れの中から生まれてきた読み方で、要するに、「敬称」です。 ですから、素直に「あまてるおおかみ」と読んでも間違いではないと思います。 (「あまてらすおおみかみ」という読み方は、古く室町くらいまで遡れるらしい。 また、古事記や日本書紀でも、「天照大御神」という書き方をしているところがあり、 むしろこの場合は、「おおみかみ」が正しい。 でも、だからといって、「大神」を「おおみかみ」と読むのは、逆に正しくない) …で、彼女(「天照大神」は女性です。知ってますよね?)は、天皇家の祖先、「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」の祖母であり、 天皇家にとってもっとも尊ばれた、主神であることは、ご存知かと思います。 さらに、彼女は「日神」として、太陽神としても、信仰を集めていた、とされています。 彼女には二人の弟がいて、一人は「月読命(つくよみのみこと)」、 もう一人は有名な「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」です。 「すさのお」は置いておいて、「つくよみ」の方は、文字通り「月神」であり、 「日神」と対を為す存在です。 ところで、「天照大神」には「又の名」があります。 「大日霊貴(おほひるめのむち)」です。 こちらの方が、古い名であると考えられています。 「むち」は、「みこと」よりも古い「尊称」だからです。 で、「大」は、尊称の類ですから、名前の本体は、「ひるめ」ということになります。 「昼女」あるいは「日る女」と考えられます。(「る」は「所有の「の」」に同じ) で、これと対を為すのが、「蛭児(ひるこ)」。 不具の子供として、海に流されてしまう、哀れな子です。 親は同じ「いざなぎ・いざなみ」ですから、まぁ、「ひるめ」と兄弟ではあります。 (とはいっても、ここらへんの神様はみんな「いざなぎ・いざなみ」の子ですが…) さて、日本の神話を読む時、「又の名」に遭ったら、どう考えるべきかというと、 「別々の神が習合されたもの」と見なすべきです。 「神神習合」です。 「神仏習合」は有名ですが、なぜ、日本の神と仏教の仏とを、結びつけるという手法を奈良時代の日本人が成し得たかというと、 この「神神習合」の古い伝統があったためだと考えられます。 話を元に戻すと、「おほひるめのむち」と「あまてるおほかみ」とは、別の神様だった、ということです。 さて、実は「天照大神」には、太陽神としての説話が少ない、という見方があります。 記紀において、「天照大神」の役目は、「国譲り」で、「大国主命(おほくにぬしのみこと)」より地上の実権を奪い、 皇祖・「ににぎ」に指示を与え、「天孫降臨」せしめた、天皇家にとって、地上の覇権を握るのに重要な、基礎を固めたということにあります。 (もちろん、「これこれこういうわけだから、我々天皇家が、王として君臨しているのだ」と、 人々に宣伝するのが、記紀神話の狙いです) 従って、「天照大神」は太陽神というよりも皇祖神という性格の方が濃い。 と言われるわけです。 すると、「天照大神」と「大日霊貴」の違いが明らかになってきます。 さて、かわにしは、「国譲り」「天孫降臨」といわれる事件、ふたつとも、実在した、と考えています。 当たり前ですが、皇国史観から見たような、「華々しい偉業」というような、そういう観念では有りません。 もっと、生々しい、血みどろの事件だと考えています。 まぁ、アメリカの「開拓」と一緒です。 インディアンにとって見ればただの「侵略」でしょ? (ちなみに「神武東征」も) まぁ、そこらへんの話はいずれするとして、 この二つの実在の事件において、指揮を執ったのが「天照大神」です。 これは、どういうことでしょう。 素直に考えれば、「天照命(あまてるのみこと)」或は「天照姫(あまてるひめ)」という実在の人物ではないか、と思われてきます。 女王です。 一方、「おおひるめのむち」の方は、正真証明の「太陽神」です。 んー、ちょっと話が飛躍した感もありますが、まぁ、おいおいお話する、ということで、今日のところはこの辺で…。 23-Jul-2000 さて、今回は、古代史を知らない方にはあまり馴染みがないかもしれませんが、「タラシヒコ」(足彦・帯彦)です。 これは何かといいますと、古代の天皇の名前によく付けられた単語です。 例えば、 大足彦忍代別(オホタラシヒコオシロワケ・景行)天皇 稚足彦(ワカタラシヒコ・成務)天皇 足仲彦(タラシナカツヒコ・仲哀)天皇 気長足姫(オキナガタラシヒメ・神功)皇后 などです。 …で、景行天皇~神功皇后の間に集中的に現れる名前であることから、「タラシ系王朝(中王朝)」などという議論も出ています。(崇神=ミマキイリヒコを「イリ系王朝(前王朝)」、応神以降を別系統の王朝(後王朝)とする、「三王朝交替説」です。) また、「隋書」に「多利思北孤」(タリシヒコ)とあることから、推古朝時代の天皇の呼称という説もあります。 とにかく、そんな「重要な」名前であると、従来見なされています。 ですが、かわにしは、そのような解釈はしていません。 「入彦」もそうですが、「足彦」も、何も「天皇になったものだけに許される特別な名前」ではないのです。 例えば、 天押帯日子(アメオシタラシヒコ・孝昭天皇皇子) 沼帯別(ヌタラシワケ・垂仁天皇皇子) 胆香足姫(イカタラシヒメ・垂仁天皇皇女) 五十日足彦(イカタラシヒコ・垂仁天皇皇子) などは、ただの皇子・皇女でありながら、「タラシ」を名乗っています。 また、こんなのもいます。 鼻垂・耳垂(ハナタリ・ミミタリ) これは、九州の熊襲の族長として描かれたものです。ここの「タリ」も同じ意味だったであろうことが、従来指摘されています。彼等は、このように卑字で書かれていますが、実際は、「花足」「耳足」でしょう。「耳」は、古代の称号の一つであり、決して蔑称では有りません。そういう「誇るべき名前」を持っていたのだと考えられます。 …で、このようなことを踏まえると、「足彦」は本当はなんて読むんだ?という気がしてきます。 「タラシ」とは「足る」の未然形「タラ」+尊敬の助動詞「ス」の連用形「シ」でしょうか? (尊敬の「ス」は未然形接続です。懐かしい…) どちらにせよ、「タリ」より「タラシ」の方がえらい気がします。ちょうど「テル」より「テラス」の方がえらいように。 (「天照大神」は「アマテラスオホミカミ」、でも普通によんだら、「アマテルオホカミ」ですよね) と考えると、「足彦」の本来の形は「タリヒコ」ではないか。そう考えられます。 …で「タリ」ってなんだ?ということになるでしょう。先ほど、「ハナタリ」「ミミタリ」といのが出てきました。 じゃあ、 鎌足 これは? 「カマタリ」ですね。中臣鎌足です。この「カマタリ」をとってきて、「タリ」がついてるとかついてないとか、ということを重要視するのは、意味があるでしょうか? 何が言いたいのかというと、「足彦」の「タリ」も、同じことじゃないの?ということです。 やたらに「重要」がって、執着しすぎると、却って議論をややこしくするだけのように思われます。 もちろん、こんな問題もあります。 現在、皇族の名前は、「~仁」で統一されています。でも、じゃあ、「仁」てなんだ?といっても、意味はありません。 そういうことです。 28-May-2000 今日(5/28)、「歴史学研究会大会・古代史部会」に出るため、 慶應大学に行ってきました。 朝9:30からということなので、今日は日曜日にもかかわらず早起きして、 出かけました。 田町の駅につくと、何やら、それっぽい人の流れが。 とりあえず、その流れに乗っかっていると、難なく、慶應大学に到着しました。 きょろきょろしながら、目的の「古代史部会」の会場517教室に向かうと、あちらこちらから、「久しぶり」「こないだはどうも」といった会話が聞こえてきました。 今のかわにしには、そういう会話を交わすような「知人」もいないので、ちょっと寂しい感じでした。 まぁ、そのうち、そんなお仲間も出来ますわな。 とりあえず、割りと後ろの方の、通路側の席を確保して(ここらへんが学生時代からの癖だな) もうひとつの目的、「恒例の各書店の出店」巡りをしました。 さすがに、おえらい先生方もきているというだけあって、高そうな本がたくさん並んでいました。 でも、面白そうな本がたくさんありました。 オサイフサマともよーく相談して、いくつかの本を購入してしまいました。 また、「歴研会員は2割引」という、予約はがきもたくさんもらってきてしまいました。 もらえるもんは、なんでももらっとかないとね。 さて、そうこうしているうちに、 「古代史部会2000年度報告『古代の王権と交通』(黒瀬之恵氏)」の、発表の時間がきました。 さて、どうやら、「歴史学研究会古代史部会」では、「王権」と「地域」という2つのテーマを重視して、 ここ数年の研究を行っているようです。 ひとつには、統一国家の成立(律令以降とする)の前史としての、「ヤマト王権」成立史を重視した、 「王権論」。 もうひとつには、各「地域」の独自の成立や発展を重視した 「地域論」。 この2つの流れを詳しく検討することで、古代史の持つ様々な様相を理解していこうという、そういうテーマです。 その中で、今年の「古代の王権と交通」という報告は、 「地域」と「王権」の「関わり」を見る重要な視座だと言える、とのことです。 黒瀬氏の報告は、以下のようなものでした。 まず、「王権」と「地域」との関係を見る上で、「ミヤケ」についての分析を深めることによって、それを明らかにしようと、試みま した。 まず、6・7世紀の「ミヤケ」の構造について、「天皇・大王直属の屯田(ミタ)」と「必ずしも天皇直属ではないミヤケ」との区別を、 明瞭にされました。 このなかで、 「ミヤケの中には、大伴などの有力豪族の力を介しなければ、支配できないものもある」 という指摘は大変貴重なものでした。(詳しい話は、またすることにします) また、8世紀の「長屋王家木簡」から、長屋王の持っていた「御田」が、 前代の「ミヤケ(天皇直属ではない)」との関わりをもつ、というのが、 主な論点だったのではないかと思います。 さて、ここで、お昼となり、 また、「出店」めぐりをしました。 いやー、見てるだけでも結構面白い。 その後、黒瀬報告に対する、コメント・討論が行われました。 黒瀬さんがまだ結構若い(といっても30代だろうけど)ので、 発表に結構足りない点が多かったのに対して、 さすが、顕学の先生方のコメントは、 その不備を補って余りあるものがあり、 大変、有意義でした。 細かいお話は、いずれ機を改めてすることにして、 今回の「お勉強」は、大変意義深く、面白いものだったと思います。 21-May-2000 さて、だいぶ、お久し振りになってしまいましたが、法隆寺のお話の続きです。 今回は、第2部として、かわにし説をお話させていただきたいと、思います。 まず、梅原さんが重視した「資財帳」に関して。 わたくしは、「資財帳」に対して、梅原さんの行ったような評価を下すことは出来ません。なぜなら、現存する「資財帳」は、あくまで、「天平19年」のものであり、天平19年の時点での「第1次史料」と見なすことは出来ても、それ以前の事実に関しての「第1次史料」と見なすことは出来ないからです。つまり、たとえば、法隆寺建立の記事についても、100年近く前(「資財帳」は8世紀半ば。法隆寺建立は7世紀初め頃)の話をしていることについては、日本書紀と大差ありません。つまり、どちらも「第2次史料」(なんらかの史料に基づいて後からまとめられた史料)なのです。もちろん、「天平19年の時点で、法隆寺に何が保管されていたか」という点については、「資財帳」はまぎれもない「第1次史料」です。ですが、その由来・来歴に関しては、必ずしも「第1次史料」ではない、といえます。 ここで問題になるのは、「第2次史料」である「資財帳」の「法隆寺縁起」はどんな史料に基づいて、まとめられたのか、という点です。これと、日本書紀が基にした史料とを比較して、日本書紀を採るのか、資財帳を採るのか、決めなければなりません。 さて、以前に、「日本書紀に法隆寺建立の記事がない」というお話をしました。 「もしも、本当に、法隆寺が聖徳太子の手によって建てられたのなら、日本書紀にそう書いてないのはおかしい」 とも言いました。 これを踏まえると、少なくとも、書紀の編者の手にした史料には、「法隆寺は聖徳太子が造った」という、決定的な史料が無かった、と考えることが出来ます。日本書紀は「官撰」です。「勅撰」です。少なくとも、書紀編者は、ありとあらゆる史料を手にすることが出来たはずです。当時の最高峰の学者・官吏たちが、国の全てをつぎこんででも完成させようとした、そういう歴史書です。ですが、その膨大な史料収集能力をもってしても、「法隆寺は聖徳太子が造った」という史料に出会えなかった。これが、事実だろうと思われます。(ここで、「陰謀」とか「機密」とか「緘口」とかという言葉を持ち出して、ないものをさもあったかのように、語るのはフェアではありません。「陰謀」説というのは、世の中で一番、安易な説です) さて、では、日本書紀編者ですら出会えなかった史料に、法隆寺関係者は出会った、ということなのでしょうか。 これも、絶対にない、とは言いきれません。お寺のどこかから、そんな史料が新たに見つかったのかもしれませんし、お寺に、昔から語り継がれてきた、そういうお話かもしれません。官には提出したものの、書紀編者が(証拠不充分として)採用しなかったのかもしれません。 そこで、「資財帳」の法隆寺建立記事がいったいどのようなものなのか、しっかり見ておく必要があります。 資材帳をご覧ください。 この文面、内容、どこかで見たことがあります。「薬師像銘」です。当然、これだけ、文面、特に、字面がこれだけ一致しているとなると、「資財帳」が「薬師像銘」をもとにして記述した、と考えるのが、スジです。もしも、この「資財帳」の言うとおり、法隆寺が、用明天皇の為に、推古天皇と聖徳太子が造ったのであれば、法隆寺の真の本尊は、「薬師如来像」ということになります。なるほど、「薬師像」には「法隆寺を造った」という旨は必ずしも明記されているわけではありませんが、「寺の本尊をつくった」、という記事は、すなわち、「寺を造った」というのと、同じ意味になり得ます。寺があっての本尊、本尊があっての寺、なのですから。 そうすると、「薬師像銘」には、「この本尊が安置されるべき寺も建立した」という、暗黙の意味がこめられていることになります。それが法隆寺である、「資財帳」の文面はそのように語っています。(これによって、梅原さんの「薬師像銘」に対する疑いは、妥当でないことが判明します) つまり、「法隆寺と薬師如来像は用明天皇の為に推古天皇と聖徳太子が造った」というのが、「資財帳」と「薬師像銘」の共通認識のように見えます。 これにて一件落着。…とはいきません。 この「資財帳」説には重大な欠陥があるのです。それは、「法隆寺焼失」です。天智9年に、法隆寺は全焼しました。「一屋余すこと無し」=「本尊も焼失」という意味であることは、以前もお話しました。もしも、「薬師像」が推古朝時代に造られた”本物”であれば、この「薬師像」は、このとき、「法隆寺の本尊ではなかった」と考えざるを得ません。もしも、「薬師像」が実際はもっと後に造られたもの、特に、法隆寺全焼後に造られた”贋物”であれば、「薬師像」「資財帳」の示す図式は、かなり、時代の新しいものとならねばならず、おおよそ、(日本書紀を無視して)信憑するだけの価値は、ありません。いずれにしても、「資財帳」の示す、「法隆寺と薬師如来像は用明天皇の為に推古天皇と聖徳太子が造った」という説は、否定されざるを得ません。 また、「薬師像」の銘文も、推古朝の作と考えるべき点が多くあります。たとえば、「大王天皇」「聖王」。これらは、おおよそ「らしくない」言い方です。ここに「天皇」の語が出てくることに対して、疑う人もいますが、かえって、「大王天皇」などという呼び方が、後世ではあり得ないものです。「聖王」についても同じです。むしろ、後代には「法王」であって、「聖王」は類を見ません。 また、当時の人間関係を知る最大の証拠は、「崇峻天皇(用明と推古の間に即位した天皇)不在」です。考えても見ましょう。崇峻天皇は、蘇我氏に殺されました。後に、この「崇峻殺し」と「山背大兄王殺し」という「罪」によって、中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足は、蘇我を滅亡させました。当然ながら、「蘇我殺し」の後は、「蘇我は悪者だった」という宣伝が多くなされたはずです。日本書紀も、これに荷担していると言えます。 反対に考えてみましょう。「蘇我殺し」以前です。果たして、「崇峻はとってもいい人だったが、蘇我の横暴によって殺されてしまった」などと語られていたでしょうか。とんでもありません。「蘇我に殺された」ことが明らかにされたはずもなく、それを知る者たちも、そんなこと口に出来るはずもありません。むしろ、「そのことには触れたくない」というのが心情だったはずです。逆に「崇峻は天皇としてふさわしくなかった」という宣伝すらされた可能性もあります。 「崇峻はとってもいい人だったが、蘇我の横暴によって殺されてしまった」 こんなことを公に口にされて、政権に残ることが出来るほど、世の中は甘くありません。蘇我がこの後も政権に留まり得たのは、こういう声を挙げさせなかったからです。まさに、推古朝というのは、こういう状況のさなかでした。そこへ、「崇峻不在の銘文」。これはもっともなことです。「崇峻を称える=蘇我を冒涜する」ともなりかねない状況だったのですから、こんな晴れがましい銘文に、このいわくつきの人物の顔を出させるわけにはいかないのです。 反対に、「中大兄のクーデター」以後にこの銘文が作られたのであれば、それこそ、「一人の天皇を完全に無視する」ことなど、もってのほかです。「崇峻天皇の治世を経て…」とでも書けばそれで済む話ですから、そう書けばいいのです。 そういったわけで、銘文から言っても、やはり、これは推古朝の作としてふさわしいと言えます。 だとすれば、この「薬師像」が安置されるべく造られた寺は、法隆寺ではない別の寺だった可能性が、高くなります。となると、607年の「法隆寺建立」説には、根拠が無くなります。そうであれば、「聖徳太子の法華経講義」も、598年の史実として、矛盾が無くなります。(同時に、606年の法華経講義<日本書紀>も) また、許勢徳太の寄進も、それほど不審がることはありません。なぜなら、「聖徳太子が造った寺」ではないのですから。もちろん、法隆寺が聖徳太子ゆかりの寺だということを、否定はしません。ですが、法隆寺は聖徳太子のための寺ではなかったし、法隆寺は聖徳太子の寺でもなかったのです。 反対に、再建後の法隆寺は、聖徳太子との結びつきを求めていたように思われます。おそらく、「聖徳太子の建立」説もそのような欲求の中から生まれてきたものではないか、とさえ思えます。「薬師像」や「釈迦三尊像」を他から持ってきて、本尊にしたことなど、その現れでしょう。 もはや、長くなってしまったので、これ以上詳しくは語れませんが、わたくしとしては、以上のように考えています。 5-May-2000 今回は、法隆寺シリーズ第2弾です。 今回は2部構成です。 第1部は、梅原説の解説です。 梅原さんはどんな風にこの史料を見、どのように解釈したのか、という点を中心にお話していきたいと思います。 さて、梅原さんが一番重きを置いた史料は、「法隆寺伽藍縁起并流記資材帳(法隆寺資材帳)」でした。 その理由は、 1.日本書紀・続日本紀不信論。 日本書紀の撰者を、藤原不比等と考える梅原さんは、日本書紀は、不比等という影の大権力者によって、大きく事実を歪められ、隠されて、全て藤原氏に都合のいいように書かれている、との視点から、書紀に対して不信を投げています。また、その意味では続日本紀も同じだと。そういうことから、書紀・続紀と「資材帳」が矛盾した場合、基本的に「資材帳」を採るという、彼の方法論にたどり着くのです。 2.資材帳の実質は「霊亀二年」成立論。 梅原さんは、「資材帳」について、「毎年官に提出し、その異動を咎めるもの」と、規定しています。ですから、「資材帳」の「資材」の部分には、異動がありえても、「縁起」の部分には異動はありえない、と考え、少なくとも「縁起」部分は、始めて「資材帳」提出が命令された霊亀2年(716年)と変わらない、と見ています。とすると、「資材帳」は実質的には、日本書紀よりも古い史料となり、「古い史料を採る」という、史料操作の基本中の基本どおりに、書紀と「資材帳」が矛盾すれば、「資材帳」を採ることになります。 3.資材帳の史料性格 また、梅原さんは、「資材帳」について、これは、官に提出する為のもので、ウソなどもってのほか、という理由で、信頼できると考えてもいるようです。なるほど、特に、「資材帳」は国からの援助金・免税の対象となるような物についての公文書ですから、チェックはことのほか厳しいでしょう。そういう「事務的な文書」は、一般的に「1次史料」という価値をもちます。「1次史料」というのは、こういう事務的な文書(「報告書」「証明書」なども)の他に、「手紙」や「日記」「日誌」「手記」「碑文」「覚書」などのような、歴史事実の当事者自らが関わって書かれた史料のことです。そういったものは、例えば「歴史書」などのような「2次史料」に比べて、より尊重されることになります。「歴史書」などは、実際には、「事務的な文書」や「日記」「日誌」などの「1次史料」をもとにして再構成されたものだからです。 こういったわけで、梅原さんは、「資材帳」を中心に据えて、「法隆寺の謎」に迫ろうと試みたのです。 では、資材帳関連の史料から見ていきましょう。 縁起部分からです。 これは、多くの謎を持った文章でした。まず、「法隆寺建立」の件、これについては、無条件に信じることにして、次の「食封寄進」の寄進者が、「山背大兄王殺害者・許勢徳太」であることに注目しました。 聖徳太子一家の寺に、聖徳太子一家を滅亡させた張本人が、寄進している。 これはおかしいと思ったわけです。 そこで、有名な「怨霊」説が出てくるわけです。「これは、許勢徳太が太子一家の怨霊を恐れたからに違いない」と。 実際、梅原さんも、この記事を見た時に、「怨霊」説が浮かんだんだそうです。 最後の「聖徳太子の法華経・勝曼経講読」も、普通に考えれば、巨大な矛盾です。<解説>にかいた通り、あちら立てばこちら立たず式の、解しがたい矛盾です。ですが、梅原さんは、これも、「聖徳太子の霊魂が講読を行う、という儀式である」として、矛盾を解消しました。そして、その儀式が「聖霊会」である、と。 さて、となると、ここで、「法隆寺全焼→再建」に触れないのはおかしい、と思いそうですが、これは、梅原さんによれば、「興味がなかった」のだそうです。そもそも、「縁起」はその寺の出来た所以を語るのが目的であって、それがその後どうなったかについてを語るのは目的ではない、との見解です。ですから、「縁起」には、語らなくても別に問題ないことだから書いていない、と梅原さんは考えています。 さて、次に薬師像の件です。 これは、この文章と「薬師像自身の光背銘」との矛盾があると、梅原さんは言います。まず、一般的には、「用明天皇のために推古天皇と聖徳太子が作った」と読まれていますが、これを「用明天皇と推古天皇と聖徳太子のために作った」と読みます。そう読む理由は、(1)構文上の理由。(2)薬師像光背銘に影響されずに読む。という2点 です。構文上の理由とは、「奉為A年月日B敬造」という構文で、「法隆寺資財帳」の基本構文です。ここでは、「Aのために、何年何月何日、Bがつくった」という決まりになります。これから言うと、この文ではは用明天皇・推古天皇・聖徳太子がAに当たります。で、これと、薬師像光背銘が矛盾する、となると、梅原さんは、もともと、推古15年の作ではないのではないか、という嫌疑をかけられてきた薬師像の銘文を捨て、「資財帳」の文面を採用したのです。 続いては、釈迦三尊像です。 今度は、釈迦三尊像銘との矛盾です。「資財帳」では、「聖徳太子のために、『王后』が作った」と書いてあります。まず、「王后」という語について、これは「天子の正妻」という意味であり、「聖徳太子の妻」ではないという点に着目しました。すると、これは、聖徳太子の死後1年後である623年のことではなく、(女帝推古天皇の時代に「王后」と名乗りうる女性はいない)60年後の「癸未年」である683年のことである、と考えました。この時代の「王后」といえば、後の女帝持統がいました。彼女のことであろうと梅原さんは考えています。 すると、またしても、釈迦三尊像の銘文と矛盾することになります。 ここで、釈迦三尊像に対しても疑いの目を向けます。まず、銘文自身に矛盾があると、梅原さんは言います。たとえば、聖徳太子の病気の回復を願うのはよしとしても、太子がまだ生きているのに、その冥福を願うことの奇怪さ。 太子の病気の回復を願ったのは「王后」だが、この時点ではすでに、「王后」自身も病に倒れていたことの不審。などの点です。「だから、釈迦三尊像銘は信じるにたりず」というのが、梅原さんの結論です。 こういった史料批判を通じて、梅原さんは、第1、第2、第4の謎についての解答を得たようです。 また、法隆寺再建の年代についても、「伽藍様式」などから、「和銅年間」という結論を導き出しました。 これによって、梅原さんの「怨霊鎮魂説」はその基礎を形作ることになります。 かわにしとしては、その「史料批判」に対して、いくつか反論や疑問を持っています。 それについては、もう、時間がなくなってしまったので、また、今度にしましょう。 23-Apr-2000 今回は、「法隆寺」のお話です。 とりあえず、梅原猛氏の『隠された十字架』を中心にお話をしましょう。 えー、実は、「法隆寺」とか「聖徳太子」…といった辺りは、わたくし、あんまり得意分野ではございません。 ですんで、「七不思議」のすべてについて、語り尽くすことは、多分出来ません。 (『隠された十字架』も、最初から最後まで読み尽くしたわけじゃありません。まぁ、有名な本ですから、ある程度は読んだことがある、という程度です。だから、今日、図書館でもう一回読んできました) それでも、いくつかの点に付いては、お話できるだろうと、思います。 まず、梅原氏の挙げた、第1の謎、「日本書紀」「続日本紀」の謎について、です。 これまた、古代史を知る人には余りに有名なことなのですが、「法隆寺再建論争」というのが、明治の頃からありました。「今ある法隆寺は、再建されたものであるか否か」という論争です。 結論は「再建されたものである」のですが、そもそもこんな論争の発端となったのは、日本書紀の、 (天智九年、669年)、夏四月癸卯朔壬申(二十日)、夜半之後(あかつき)に、法隆寺に災あり。一屋も余すこと無し。大雨、雷震(な)る。 という文面が原因でした。 つまり、この記述どおりなら、法隆寺は669年に全焼したことになります。 …で、今、実際に法隆寺は存在するのですから、再建されたはずですね。「法隆寺再建論」です。 じゃあ、いつ、だれが、何の為に、となると、わかりません。日本書紀にも、その次の続日本紀にもそういう記事はないのです。ですが、続日本紀には、「天平年間に法隆寺に食封を与えた」という記事があるので、これまでの間に法隆寺は再建されたはずです。いつのまにか再建されている。 じゃ、本当のところは、669年には全焼したわけではないのでは?という意見がありました。むしろ、当初はこっちの方が優勢でした。なにしろ、法隆寺自身の来歴を示す「法隆寺伽藍縁起并資材帳」においても、「全焼→再建」という経緯は示されてなかったからです。これが「非再建論」です。 …で、長いこと、論争が繰り広げられたのですが、「若草伽藍跡」の発掘により、焼け落ちた、今の法隆寺より古い形式の、寺の跡が見つかったので、やはり、法隆寺は「再建された」のでした。 さて、こういう背景を踏まえて、梅原氏は、「法隆寺を再建したのは誰か」という疑問を投げかけました。 さらに、「日本書紀」「続日本紀」という日本の正史が、なぜ、「法隆寺再建」について語らないのか、ということに疑問を持ったのです。 これが、梅原氏のいう、一つめの「不思議」です。 ですが、もっと根本的な疑問があります。それは、「法隆寺建立の記事がない」ことです。書紀での法隆寺(斑鳩寺)の初出は、 (推古十四年、607年)、是歳、皇太子(聖徳太子)、亦た法華経を岡本宮に講ず。天皇、大いに喜び、播磨国の水田百町を皇太子に施す。因りて、斑鳩寺に納れる。 という記事であり、イキナリ斑鳩寺が登場してきます。やっぱり、いつのまにか出来ているのです。 日本書紀にこういう事例は少なくありません。ここもか、といって、素通りするのは勝手です。ですが、載っていない以上、「書紀には書いてないけど、法隆寺は聖徳太子が作った」と信じるのは、早い気がします。 当然、ここも疑ってしかるべきです。 まず、「(再建前の)法隆寺は誰が作ったのか」ここからです。わたくしは、書紀に載っていない以上、「聖徳太子の建立」説は疑わしいんじゃないかと思います。なぜなら、梅原氏も指摘するとおり、書紀編者は、聖徳太子を絶賛しています。彼に対するあらゆる美談を採り入れ、あらゆる事跡を残そうと、そういう一種感情的な姿勢が見られます。その中で、「法隆寺建立」は、当然、記してしかるべき事跡です。でかでかと書けばいいんです。本当に聖徳太子による創建であったなら。ということは、「載っていない」ということの持つ意味はかなり大きい。 つまり、元々の法隆寺の建立に関して、聖徳太子は関わっていなかったかもしれません。 (ただし、聖徳太子は「斑鳩」の地に住んでいました。法隆寺とまったく無縁の人だったわけではないでしょう) 次に、法隆寺の本尊について。 法隆寺には「2つの本尊」があります。 1つは、「薬師如来像」。 1つは、「釈迦三尊像」。 まぁ、後代にはもう1つ加えられたようですが(名前忘れた)、少なくとも、この2つは、「法隆寺の本尊」としての地位にある、最重要の仏像です。 まず、「薬師如来像」は、その光背銘に、「用明天皇の為に推古天皇と聖徳太子が造った」と書かれています。もし、法隆寺が「用明天皇の為に推古天皇と聖徳太子が造った」のであれば、法隆寺の本来の本尊は、この「薬師如来像」です。更に、「釈迦三尊像」は、聖徳太子の没時に、造られたものであろうと言われています。これも、聖徳太子ゆかりの「本尊」です。 (もっとも、この釈迦三尊像の光背銘には、「上宮法皇」とあり、「鬼前太后」「干食王后」とあり、いずれも、「天子」を中心とした表現。「太后」は「天子の母」、「王后」は「天子の妻」、「法皇」は、出家した「天子」。従って、「太子」に過ぎない「聖徳太子」にはふさわしくない=ここにいう「上宮法皇」は聖徳太子のことではない、という意見もあります) …で、最も重要なのは、この本尊は、現存する、ということです。 どういうことかというと、思い出してください。 法隆寺は天智九年に全焼しました。この時、「一屋余すこと無し」と書かれています。まかりまちがっても、「全焼したが、本尊は無事だった」という意味には読めません。そこで、「法隆寺の本尊は法隆寺再建後に他から持ってこられたものだ」という意見が登場するのです。 梅原氏の場合、橘寺だ、といいます。 まぁ、となると、確実に言えることは、「最初の法隆寺には、用明天皇の為に聖徳太子が作った仏像も、 聖徳太子の為に造られたとされる仏像も、なかった」ということです。 梅原氏は、再建後の法隆寺にばかり、目を向けていますが、その前に、再建前の法隆寺の性格を掴んでおく必要があるでしょう。あまり、聖徳太子一点張りのお寺ではなかったようです。 梅原説に従えば、再建を機に、法隆寺はガラッとイメージチェンジしたということでしょうか。 「ほんとにぃーーーー??」 という気がします。 その辺りについても考えてみると面白いかと思います。 12-Mar-2000 さて、今回は、やっと本編です。 前回のながーい継体紀を参照しながら、読んでください。 まず、以前話に出てきた「欽明紀」と比較してみます。 たしか、あの中にこういうのがありました。 欽明紀の朝鮮半島記事はもっぱら、百済聖明王を中心として描かれている。 同時に、もっぱら朝鮮半島を舞台とし、日本列島側の地名が皆無である。たとえば、「難波津」「那津」といった日本側の港がもう少し登場してもよさそうなものだ。事実、継体紀にはどちらも現れているし、敏達紀以降には「難波」の登場回数が非常に多いことを考えると、不自然だ。 「天皇」はただ、「詔勅」を発すだけの存在だ。実際にどこで何をした、という記事がない。 欽明朝ともなると、すでに飛鳥時代の大物がいる(蘇我稲目、物部尾輿、大伴金村など)。なのに、彼らが登場するのは、「崇仏論争」くらいだ。とくに欽明紀前半部分の任那日本府関連記事の中には、1度も登場しない。後半の新羅との戦闘記事に大伴紗手彦(金村の子)が大将軍として登場するくらい。もっと「活躍」できるはずだ。(継体紀の任那記事(四県割譲事件など)では、継体朝の大物、物部麁鹿火・大伴金村のほかに、勾大兄皇子(安閑天皇)も活躍している)だいたい、欽明天皇の皇子女といえば、蒼々たる面子だ。敏達・用明・崇峻・推古天皇、穴穂部皇子など。時代的には、蘇我馬子だってすでに生まれているはずなのだ。 任那日本府は明らかに新羅よりだ。一方、「天皇」は百済側に荷担している。なぜか、両者の立場が食い違っている。 もっとも重大な疑点、それは「なぜか天皇は日本府の官人に直接命じることがない」これだ。百済へは「詔勅」としてさまざまな指示を与えているように描かれているが、一度も日本府へ詔勅を出した形跡がない。なぜ、隣国へはいろいろ言うくせに、自国の官僚には何も言わないのか。 しかも、「天皇」の「詔勅」を「百済王が日本府に伝えている」。これはもう、おかしいとしかいいようがない。言いたいことがあるなら直接言ったらいいじゃないか。 さらに、日本府官人は、「天皇」の言い分などに聞く耳を持っていない。また、「あんなヤツ、クビにしてくれ」と百済王が「天皇」に進言してもクビにならない。これだけ主人(天皇)の言うことを聞かなかったら、クビになるだろうに。というより、当時だったら「反逆」として討伐されそうなものだ。 これが、「欽明紀」の持つ「疑点」でした。(05-Sep-99) これと比較してみると一目瞭然。随分と様相が違うように思えます。 天皇家側の重臣たちもかなり活躍しています。 さて、継体紀では、かなり多くの事件が、入り組んで、連続して起こっています。 それをまとめて見ましょう。 1)「四県割譲事件」6年4月~12月 主な登場人物:穂積臣押山・大伴金村・物部麁鹿火・勾大兄皇子(のち安閑) この事件は、非常に非古事記的な説話のように見えます。また、この辺りから、ようやく、神武・崇神・神功・応神といった過去の天皇たちの業績を踏まえて、人々が語るようになってきます。言ってみれば、「彼ら」にとっても、神功・応神といった人物は、「歴史上の人物」となったのでしょう。「歴史」を踏まえて「現在」の政策を論じるというのは、漢籍の王道です。つまり、より自然に「漢文的修飾」をこらした説話が語られているのです。このような語り口を見ているだけでも、随分と生き生きと説話が語られているなぁと いう感じを持ちます。これは明らかに、継体の頃から、現在(書紀編纂当時)まで、この説話が「生きて」語られてきたからだ、と考えています。ここでは、書紀編者も立派に語り部となっているのです。 (古事記の説話は、「古典」を「古典」のまま収録したものであるし、書紀の方でも、語句ばかりが漢文的になっただけで、説話の語り口は、古事記のままのところが多い。→特に「神代」) 事件としては、大伴金村・物部麁鹿火の両雄が登場し、さらに、安閑も登場して、人物から見れば、近畿系の説話に間違いなさそうです。安閑の登場の仕方も、古事記流の、 「A天皇の説話は、次のBないしC天皇の時に作られる」 という原則に照らしてみると、興味深いものです。 ただし、継体紀の流れから言って、 「この時点で、磐井は健在だった」 ということも忘れないでおいてください。 磐井と継体では、磐井の方が上位者である、ということも。 それと、このとき「割譲」されたのは、「上多利・下多利・娑陀・牟婁」の4県です。このうち、下多利国守穂積臣押山というのが何度も出てくるので注意してください。このとき、本当に割譲されていたならば、彼は誰の配下になるでしょうか。 2)「己文・帯沙割譲事件」7年6月~10年9月 主な登場人物:穂積臣押山(委の意斯移麻岐弥)・姐弥文貴将軍・州利即爾将軍・物部連(物部至至連) さて、この事件はちょっと様子が変わります。もちろん、説話自体の性格(物部連の朝鮮半島渡航)にもよりますが、近畿系の人物達の影が余りにも薄い。編者もそこらへんはわかっていたようで、日本列島側の人物に対しては、 「百済本記」で補強を図っています。ですが、本当に穂積臣押山=委の意斯移麻岐弥、物部連=物部至至連という等式が成り立つかどうかはわかりません。押山の方は、似て非なる人物のようですし(「臣」と「きみ」とでは、位も違う)、当時の日本に「物部連」というのは、山ほどいたからです。なにも、あの有名な「物部氏(この時なら麁鹿火や守屋)」と同族とは限りません。 ともあれ、この説話はどうも、九州くさい。とだけ言っておきましょう。 この説話については、後でまた出てきます。 3)「磐井の乱」21年6月~22年11月 主な登場人物:継体天皇・筑紫君磐井・近江毛野臣・大伴金村・物部麁鹿火 さて、本題も本題、「磐井の乱」です。知っての通り、実際の反乱者は継体であると考えられるので、この事件は「磐井の変」とでも言った方がいいのかもしれません。「変」とは、ご存知でしょうが、「暗殺事件」「謀殺事件」などのときの用語です。こっちの方が合っている気がします。「継体の乱」とは呼べない理由があって、それは、継体が処刑されていないからです。処刑されなかった「反乱者」はもはや「反乱者」とは呼べなくて、一個の独立勢力として確立した、と見なければなりません。つまり、「磐井の乱」と呼べば、近畿側の大義名分に荷担することになり、「継体の乱」と呼べば、九州側の大義名分に荷担することになる、というのが、私の考えかたです。あくまで客観的に言えば、やっぱり、「乱」という語は的確でない、そう思います。 それはともあれ、この事件の発端部に、いきなり矛盾と言うか、奇妙な現象が起こっています。 よーく読んでみてください。 毛野臣の渡航目的です。 「新羅に滅ぼされた南加羅・喙己呑の再興」?? え?いつ滅んだの?と思っても、どこにも書いてありません。(ちなみに、継体紀以前にもありません)さらに、ここに言う「南加羅」とは、朝鮮側の史料では金官(統一高麗の時代につけられた名前)や、駕洛(から)国と呼ばれている国です。今の釜山(プサン)付近にあったとされています。 …で、この国が滅んだのは、532年のこと(『三国史記』)。継体紀で言うと、継体天皇26年にあたります。ということは、両者の史料は、少なくても5年は、ずれています。(もちろん、駕洛国が滅んだ年に毛野臣が渡航しようとした、とは限らないから、もっとずれている可能性の方が高いと言えます) まぁ、これだけでもって、継体紀の紀年がずれていると論じるのは早計で、後代史料たる『三国史記』の方に問題があるのかもしれません。 とりあえず、ここでは、事件の発端となるはずの出来事に対して、不可欠な事件を、書紀は記載していない、このことを確認しておきましょう。これは、ここだけの問題ではないでしょう。次の「毛野臣の任那経営」説話、更には、欽明紀全体の説話にも多大な影響を及ぼします。(実は、欽明紀の説話も「新羅に滅ぼされた南加羅・喙己呑の再興」が、根本のテーマになっています) さて、第2には、近江毛野臣って誰だ?という疑問が沸き起こります。これは、次の、彼が主人公の説話で、考えることにしましょう。 ところで、物部麁鹿火と筑紫君磐井とは、筑紫御井郡(筑後、内陸)で戦っています。ですが、これは奇妙です。麁鹿火は、近畿から船でやってきたはずです。日本海側であろうと、瀬戸内からであろうと、そうしないと九州にはつきません。なのに、海岸線で戦っていない。昔から、上陸作戦と言えば、海岸線での一戦が一番の死闘。上ってしまえば、勝ったも同然です。となると、麁鹿火はどうやってこんな内陸の御井郡まで、戦わずに軍を進め得たので しょう。(「外は海路をふさぎ、高麗・百済・新羅・任那らの船を誘致し、内は任那へ遣わした毛野臣の軍を遮り、…」という記述のとおり、磐井の軍勢を持ってすれば、海岸線での「死闘」は必至。書紀の語る通りです) おそらく、その理由は、 「御井郡に至るまで、麁鹿火の軍勢は、磐井にとって、友軍だった」 こんなところだろうと思います。 だから、私は「暗殺事件」「謀殺事件」と位置付けたのです。 さて、この事件の顛末はというと、筑紫側から「糟屋屯倉」が贈られたのみです。おそらく、和平交渉上の副産物でしょう。継体側からもなにか差し出されたのかもしれません。 ともあれ、この事件を境に、近畿は独立勢力としての確固たる地位を築いた、 そう言って過言ではないでしょう。(おそらく、それ以前は、例えば、奥州藤原氏のような存在だっただろうと思われます) それはそうと、毛野臣の六万の大軍は、この磐井との決戦のとき、どこで何をしていたのでしょう。 4)「毛野臣の任那経営」23年3月~24年10月 この説話は、更に細かく分けられます。 (1)「多沙割譲事件」23年3月 主な登場人物:穂積臣押山・物部連父根・吉士老 これは、2)の「己文・帯沙割譲事件」にそっくりです。そこで、これは23年の事実ではなくて、7年の事実を振りかえって語ったものだ、という意見があります。(岩波『日本書紀』もその説を採っています) なるほど、穂積臣押山といい、物部連父根といい、7年条の人物と、同一人物が登場しているように見えます。それに、7年条と、23年条は、おそらく依拠した史料が違っているようにも、思えるので、この意見は正しいかもしれません。 ですが、別の事件と見なすことも出来ます。7年の時とは、事件の様相がかなり違うからです。7年条では、「己文」という港町はもともと百済のものでした。23年条では、「多沙」という港町はもともと加羅のものです。百済王がそう言っているのです。(ちなみに、7年の時点での百済王は「武寧王」、23年の時点では、「聖明王」です) また、割譲を実行しに行った、「物部連」は、7年条では、伴跛に襲われてしまいました。23年条では、加羅にちょっと気を使ったというだけで、なんの支障もなく、実行しています。 別事件と見れば、見れなくもありません。 (2)「加羅と新羅の通婚」23年3月 主な登場人物:加羅王・新羅王・阿利斯等・己富利知伽 さて、(1)を受けて、加羅は新羅と結ぶことにしました。この説話、その内容からして、かなりの年月を含むものと思われます。してみると、23年3月の一月間に限定してみる見方は出来ません。とすれば、(1)の事件も、やはり、23年よりも前のことなのかもしれません。ただし、最後の、 「新羅は刀伽・古跛・布那牟羅の三城を奪う。また、北境の五城を奪う」 は、23年3月のことと見なせるでしょう。 むしろ、これを述べるに当っての前置き、と見るのが正しいのかもしれません。 (3)「毛野臣の任那経営(in安羅)」23年3月 主な登場人物:近江臣毛野・将軍君尹貴・安羅国主 さて、ようやく、毛野臣の登場です。 この説話も、話上、長期間に及ぶ説話です。 「およそ数ヶ月に及び、再三、堂の上で会議が行われた」 とあるのがそれです。 おそらく、会議が始まったのが、23年3月なのでしょう。 ここでは、彼らの「位取り」が問題になっています。毛野と安羅国主は少なくとも同格。安羅の大人のうちでも、1・2人は同格。百済・新羅の使者は、それよりも下として扱われ、百済の使者はそれが不満だったようです。(「新羅は、隣国の宮家を破ったのを恐れ、大人を遣わさず…」という、文面からすると、百済の「将軍君」は大人クラスだったのでは、と思われます) ちなみに、関係ない話ですが、「国主」という語は、「くにのぬし」という以上に、「王ではない」というのが、重大な意味です。大義名分用語です。(「玉将」と同じ) (4)「毛野臣の任那経営(in熊川)」23年4月 主な登場人物:己能末多干岐・大伴金村・近江臣毛野・久遅布礼・恩率弥騰利・伊叱夫礼智干岐 さて、久し振りに大伴金村登場です。近畿側が一枚噛んでるなって感じです。任那王は、近畿に行きました。どうやら、これは事実なのでしょう。(基本的に、「これは本来大伴金村とは関係ない人物の話を、このようにすりかえ たのだ」系の解釈の仕方はしません。→全体について同じ) その目的は、任那・新羅間の和平仲介の依頼のようです。 ところが、毛野臣は、なぜか百済王を呼んでいます。ここらへんに、重要なキーが隠されているようにも思いますが、今はわかりません。結局、和平は失敗に終わり、却って新羅との仲を悪くしてしまいました。 …というよりも、毛野臣は、和平しようとしていたのでしょうか? 私には全然その気がなかったように見えます。 「毛野臣が無能だった」 で済む話か?という気もします。(結構、そう見ている歴史家は多い) ハナっからそんなつもりで百済・新羅王を呼んだんじゃないんじゃないの?というのが私の率直な感想です。とすると、日本列島での天皇・任那王・大伴金村の意図と、朝鮮の近江臣毛野の意図とはまったく違うようにも見えます。 また、ここには、毛野の言として、 「小が大に仕えるのは天の自然の道である」 というのがあって、これなら、天皇=大、百済・新羅=小と言っているようにも聞こえますが、ある本の、 「大木の端には大木で接木し、小木の端には小木で接木するのが当然だ」 となると、少し意味が違ってきます。 これだと、天皇=大だとすれば、新羅・百済王も大で、何を怒っているのか解らないということになるので、(これでいくと、臣下の毛野は小だから、百済王たちより下??)毛野=大で、 「大木たる自分が来ているのだから、大木たる王自ら来い」 と考えなければ意味が通じません。 もし、こっちが正しいとすると、毛野は自らを「王」の地位にまでもっていったことになります。おそらく、書紀編者にもそう見えていて、本文の方の言い方を採用したのではないでしょうか。 (5)「継体天皇の詔勅」24年2月 さて、書紀の中には、突然天皇がなんの脈絡もなく詔勅を述べ始めることが、結構あります。 ここもそんなうちのひとつです。 ですが、大抵の場合、そういう詔勅には、これから行う政策のことが書いてあって、「故、○○を行う」という形になっていることが多いのですが、それとも違っています。 なにか、所信表明演説っぽい気がするのは私だけでしょうか。 (6)「毛野臣の最期」24年9月~10月 主な登場人物:近江臣毛野・河内母樹馬飼首御狩・調吉士・阿利斯等・目頬子 とうとう、毛野臣も、その行状がバレて、日本列島に強制送還されてしまいます。さて、例によって、河内母樹馬飼首御狩・調吉士・目頬子という日本人は、正体不明です。まぁ、御狩は従者だというから、無名なのは当然でしょう。ですが、調吉士・目頬子というのは、大使です。かなりの地位の人物のはずです。なのに正体不明…。 やはり、この説話も九州の匂いがしてきました。 さて、ここまで見てきて、毛野臣の地位が少しだけ見えてきた気がします。彼は、一臣下などという身分ではなさそうな気配がします。おそらく継体と同じ位の地位にいる、「地方の王者」でしょう。でも、さすがに、「九州の大倭王」よりは下。そんなところじゃないでしょうか。 「毛野臣は今でこそ使者となっているが、俺とは昔は仲間として、肩や肘をすり合わせ、同じ釜の飯を食った仲だ。急に使者になったからといって今更おまえに、俺を従わせることなどできん」 という磐井の言葉がありますが、案外、毛野と同じ釜の飯を食ってたのは、継体なんじゃないの?という気もします。 さて、少しまとめてみましょう。 まず、1)「四県割譲」は近畿での説話です。ですが、これは実際には機能しなかった、とみるべきでしょう。なぜなら、その割譲されたはずの「下多利県」には、その後も日本人の、穂積臣押山が健在だからです。継体側の、外交政策の一環でしょうか、百済を取り込んで、倭を包囲しようということなのでしょうか。 それから、2)の事件は九州での出来事と見なすべきです。また、両説話に登場する、穂積臣押山は、九州側なのか、近畿側なのかはっきりしません。もっとも、このときは、九州・近畿の分裂はまだでしたから、両方と関係があっても、それほど不思議ではありません。(大伴金村に関しても同じ) 3)、4)における、近江臣毛野は、おそらく九州側の、かなり有力な「王」の一人でしょう。したがって、「任那経営」説話の大半は、九州側で起こったこと、と考えられます。また、「磐井の変」の真相は、 「磐井の命により、近江臣毛野を中心とした南加羅再興軍(新羅討伐軍)の出発に合わせ、継体も麁鹿火を送り込んだが、麁鹿火は筑紫に着くや、暗殺者となり、磐井の命を奪った」 こんな感じでしょうか。 「その後、磐井の子・葛子は、父の遺命を継承し、近江臣毛野を任那に送り込んだが、果たせず、毛野も南加羅再興の実現に努力しないので帰国させた」 といった感じでしょうか。 多分、毛野にとっては、新羅は最初から「敵」だったように見えます。 いやー、長くなってしまいました。 まぁ、最期の方は結構想像に頼っているのでそのうちコロッと言うことが変わるかもしれませんが、とりあえず、今の段階では、こんなとこです。 5-Mar-2000 今回は「磐井の乱」前後の継体紀について、お話したいと思います。 まず、今回は、継体紀(朝鮮関係・磐井関係だけ)を訳してみました。 とりあえず、ヒマな時にでもお読みくださいませ。 <日本書紀、巻第十七、継体天皇> 男大迹(をほど。継体)天皇(亦の名は彦太尊)は、誉田(ほむた。応神)天皇の五世の孫、彦主人(ひこうし)王の子である。母は振媛(ふるひめ)といい、振媛は活目(いくめ。垂仁)天皇の七世の孫である。 (中略) (継体)天皇が五十七歳のとき、(武烈)八年十二月に小泊瀬(をはつせ。武烈)天皇が亡くなった。もともと、武烈天皇には子がなく、後継ぎは絶えようとしていた。 (中略) (そこで大伴金村大連らは、男大迹王を立てて天皇とした。説話が長いので省略) 三年二月、百済に使者を送る。(百済本記には、「久羅麻致支弥、日本より来る」というが未詳)任那の日本の県邑にいる、百済よりの逃亡者・浮浪者を、三、四世にまで遡って、百済に送還し、百済の戸籍につける。 五年十月、山背の筒城に遷都。 六年四月、穂積臣押山を百済に派遣し、筑紫国の馬四十匹を贈る。 十二月、百済、遣使して調を貢る。別に上表文をもってきて、任那国の上[口多][口利](たり)・下[口多][口利]・娑陀(さだ)・牟婁(むろ)の四県を請う。多利国守穂積臣押山の奏していうには、 「この四県は百済に近接し、日本からは遠く隔たっています。多利と百済とは朝夕通い易く、鶏も犬も所属が混じるほど近い国です。今、百済にこれを贈り、併合してしまうのは、着実な策であってこれに勝るものはないでしょう。しかし、たとえ百済に合併しても、後世の安全が保証されるわけではございません。ましてや、百済と切離しておいておいたなら、とても何年も守り通すことは出来ません」 という。 大伴金村大連もこの言葉を受けて、賛成した。そして、物部麁鹿火大連を勅使とした。まさに、物部大連は難波館(迎賓館みたいなもん)に行き百済の客人に勅命を伝えようとしていたが、大連の妻が、 「住吉大神が初めて海外の金銀の国、高麗・百済・新羅・任那などを、神功皇后の御腹の中に居た応神天皇に授けたのです。だから大后息長足姫尊(神功)は、大臣武内宿禰と、初めて海外の宮家を置かれ、海外の属国としてその由来は久しいのです。もし、任那四県を割譲してしまえば、本の区域にたがいます。そんなことをすれば、後世からいかに評されましょう」 と固く諌めた。大連は、 「それはもっともなことであるけれども、どうして天勅に背くことが出来よう」 と答えた。 「病と称して、勅使を辞退しましょう」 と、妻は言った。大連は妻の言葉に従ったので、別の勅使が立てられ、百済に任那四県が割譲された。 大兄皇子(後の安閑)は、事情があって、先の割譲には関わっておらず、後からこの勅命の事を知った。皇子は驚き、悔やみ、この勅命を改めようと、 「胎中之帝(応神)より、宮家を置いている国を、軽軽しく他国の言うままに与えてはなりません」 という令旨を発した。 そして、日鷹吉士を遣わし、改めて百済の使者に令を伝えた。 使者は、 「父の天皇が既に勅命を下して、事は終わっているのに、子の皇子がどうして、勅命に背いてみだりに令を発するのでしょう。必ずやこれは、虚偽に違い有りません。もし、本当ならば、杖の大きく太い方で打つのと、小さく細い方で打つのと、どちらが痛いでしょうか」 と言って、聞かず、ついに百済に帰国していった。 「大伴大連と多利国守穂積臣押山とは、百済から賄賂をもらっていた」 というウワサがながれた。 七年六月、百済は姐弥文貴将軍・州利即爾将軍を遣わし、穂積臣押山(百済本記には「委の意斯移麻岐弥」という)にそえて、五経博士段楊爾を贈る。 別に上表文を持ち、 「伴跛国(はへ。加羅諸国の一)がわたくしの国の己文(こもん。港町)の地を奪ってしまいました。どうか、調停を行い、本の所属に戻してください」 と、奏言する。 (中略) 十二月、朝廷にて、百済の姐弥文貴将軍、新羅の文得至、安羅の辛已奚及び賁巴委佐、伴跛の既殿奚及び竹文至らを集め、己文・帯沙(たさ。港町)を百済に割譲。 この月に、伴跛国、輯支を遣わし、宝物を献じ、己文を請うも、与えず。 (中略) 八年三月、伴跛、子呑(しとん)・帯沙に城を築き、満奚(まんけい。地名)にまで烽火や兵糧庫を用意し、日本に備える。また、爾列比(にれひ。地名)・麻須比(ますひ。地名)にも築城し、麻且奚(ましょけい。地名)・推封(すゐふ。地名)までを繋ぐ。また、新羅に侵攻し、略奪殺戮を尽くす。あまりに凄惨な為、これ以上は載せない。 九年二月、百済の姐弥文貴将軍、帰国を申請、よって物部連(名を欠く)をそえて、帰国させる。(百済本記には「物部至至連」という) この月、沙都島に至り、人づてに、伴跛人の傍若無人振りを聞く。物部連、舟師五百を率い、まっすぐに帯沙港にいたる。文貴将軍は、新羅より去る。 四月、物部連、帯沙港に停泊して六日。伴跛、挙兵する。物部連ら、命からがら逃れ、文慕羅に泊まる。(文慕羅は島の名である) 十年五月、百済、前部木[力x3]不麻甲背(もくらふまかふはい)を遣わし、物部連らを己文にてねぎらい、引導して百済に入国。 九月、百済、州利即次将軍を遣わし、物部連にそえて来日。己文割譲を謝す。また、五経博士漢高安茂を送り、博士段楊爾と交代させる。百済、灼莫古将軍・日本の斯那奴阿比多(しなぬあひた)を遣わし、高麗の使者安定にそえて来朝。 (中略) 二十一年六月、近江毛野臣、衆六万を率い、任那へ行き、新羅に破られた南加羅(金官)・喙己呑(とくことん。地名)の再建を目指していた。このとき、筑紫国造磐井は密かに、反逆を企て、常に機をうかがっていた。新羅はこれを知り、密かに賄賂を贈って毛野臣の行軍を阻止するよう勧めた。こうして、磐井は火・豊両国に勢力を張り、天皇に従わず、外は海路をふさぎ、高麗・百済・新羅・任那らの船を誘致し、内は任那へ遣わした毛野臣の軍を遮り、無礼な揚言をして、 「毛野臣は今でこそ使者となっているが、俺とは昔は仲間として、肩や肘をすり合わせ、同じ釜の飯を食った仲だ。急に使者になったからといって今更おまえに、俺を従わせることなどできん」 といって、とうとう戦おうとして毛野臣の言葉を聞こうとしない。 こうして、毛野臣の軍は釘付けとなり、任那への進軍は中途にして、留まらざるを得なかった。 天皇は、大伴金村大連・物部麁鹿火大連・許勢男人大臣らに、 「筑紫の磐井が反して西の地を保っている。今、誰か将となるべきものはおらぬか」 と詔した。大伴大連らはみな、 「まさに、麁鹿火大連の右に出るものは無し」 といった。 天皇は「よし」といって、麁鹿火を将軍に任命した。 八月、(継体天皇は)「大連よ、例の磐井が従わない。おまえが行って討て」と詔を下した。物部麁鹿火大連は、再拝して、 「磐井は西戎の奸猾です。川によって阻まれていることを頼みに、朝廷に仕えず、山の峻厳なることによって、乱を起こしています。徳を破り、道に反して、朝廷を侮り、驕り高ぶって、自らを賢者と思っています。むかし、道臣(大伴氏の祖。神武の家臣)より室屋(大伴金村の父)に至るまでに、帝を守り、逆らうものを討ち、民を水火の苦しみより救うことは、今も昔も変わりません。ただ、天のお望みになることは、私めの常に重んずるところであります。必ずや、磐井を討ってみせましょう」 と言った。 天皇は、 「良将が軍を指揮すれば、恩を施し、恵を推し、己を慮って人を治める。攻めること河のさくるが如し。戦うこと風の発つが如し」 と言い、また、 「大将は民の命を司るものだ。社稷の存亡はここにかかっている。つとめ、謹んで、天罰を行え」 という詔を下した。 天皇は自ら鉞(まさかり。天子が征伐の大将に賜う中国のならわし)を取り、大連に授け、 「長門より東は私が統括しよう。筑紫より西はおまえが統括せよ。おまえが賞罰を専任し、その都度報告を怠るでないぞ」 と言った。 二十二年十一月、大将軍物部麁鹿火が自ら賊帥・磐井と、筑紫の御井郡で交戦する。両軍の軍旗と軍鼓とが向き合い、軍兵のあげる埃塵は入り乱れ、両群は勝機を掴もうと、決死の戦を交えて、互いに譲らなかった。 ついに磐井を斬り、ついに彊場(キョウエキ。国境)を定める。 十二月、筑紫君葛子(ちくしのきみくずこ)、父の罪に連座して誅されることを恐れ、糟屋屯倉を献じて死罪を贖う。 二十三年三月、百済王が、下多利国守穂積臣押山に、 「(日本への)朝貢の使者が、いつも嶋曲(海中の嶋の曲の崎岸をいう。俗にいう「みさき」)を去る度に、風波に苦しんでいる。だから、持っていったものが濡れ、壊れてしまい、なんともみっともない状態になってしまう。加羅の多沙港(帯沙に同じ)を我が国の朝貢の経由港としたい」 と語った。これを受け、押山は朝廷に進言した。 この月、物部伊勢連父根・吉士老らを遣わし、津を百済王に賜う。このとき、加羅王が勅使に、 「この港は、宮家の置かれて以来、我が国の朝貢の経由港としてきたものです。やすやすと隣国に与えてしまったのでは、元々の封地にたがいます」 と陳情し、勅使・父根は、このため、加羅の面前で百済に多沙を与えるのは難しいと思い、大島に退き、別に録史を遣わして、百済にこれを与えた。これによって、加羅は、新羅と結んで、日本を恨んだ。 加羅王は、新羅王の娘を娶り、子が生まれた。新羅は始め、娘を送る時に、あわせて百人の従者をつけた。受けて諸県に分散しておき、新羅の衣服を着させた。阿利斯等(ありしと。人名)はその服を変えたことを怒り、使いを送って新羅に送還した。新羅は大いに面目を失って、娘を召還しようとし、 「前にあなたが求めたから、わたしは娘との結婚を承諾したのです。今、こんなありさまなのでは、王女を還していただきたい」 といった。 加羅の己富利知伽(未詳)(こほりちか。人名)は、答えて 「夫婦としてめあわせておいて、いまさらどうして仲をさくことができましょう。それに、子供もおります。どこへ捨てていくことが出来ましょう」 といった。 ついに、新羅は刀伽(とか。地名)・古跛(こへ。地名)・布那牟羅(ふなむら。地名)の三城を奪う。また、北境の五城を奪う。 この月、近江臣毛野を遣わし、安羅への使者とする。勅を発し、新羅を勧め、更に南加羅・喙己呑を建てさせた。百済は、将軍君尹貴(いくさのきみいんくゐ)・麻那甲背(まなかふはい)・麻鹵(まろ)らを遣わし、安羅に赴いて、詔勅を聴いた。新羅は、隣国の宮家を破ったのを恐れ、大人(だいじん)を遣わさず、夫智奈麻礼(ぶちなまれ)・奚奈麻礼(けなまれ)を遣わして、安羅に赴いて、詔勅を聴いた。安羅は、新たに高堂を建てて、勅使を先導して昇る。国主は(勅使の)後ろに随って端を上る。国内の大人で、高堂に昇ったものは、一人二人だった。百済の使者の将軍君らは、堂の下に居た。およそ数ヶ月に及び、再三、堂の上で会議が行われた。将軍君らは、堂の下の庭にいて会議に参加できないことを恨んだ。 四月、任那王己能末多干岐(己能末多というのは、恐らく阿利斯等だろう)(このまたかんき)が来朝。大伴金村大連に、 「海外の諸蕃(「蕃」は「藩」に同じ)は胎中(応神)天皇が宮家を置いて以来、もとの国王にその土地を委任統治させたのは、まことに道理の有ることです。今、新羅は、最初に新羅領として決めて与えたその限界を無視して、 しばしば境を越えて、侵入してきます。どうか、天皇に申し上げて我が国をお救いください」 と陳情。大伴大連は、その通り上申した。 この月、使いを遣わして、己能末多干岐を送る。あわせて、任那に居る近江臣毛野に、 「任那王の奏上するところをよく問いただして、任那・新羅両国のお互いに疑い合っているところを和解させよ」 という詔勅を下した。そこで毛野臣は、熊川(くまなれ。地名)に宿泊して(ある本には「任那の久斯牟羅に宿泊」という)新羅・百済の二国王を召集した。新羅王佐利遅(さりぢ)は久遅布礼(ある本には「久礼爾師知于奈師磨里」という)(くぢふれ)を遣わし百済は、恩率弥騰利(みどり)を遣わして、毛野臣のもとへ集い、二王は自らやってこなかった。毛野臣は大いに怒り、二国使を攻め問い、 「小が大に仕えるのは天の自然の道である(ある本には、「大木の端には大木で接木し、小木の端には小木で接木するのが当然だ」とある)。どうして、新羅・百済両国の国王が、自らここに集まってきて、偉大なる天皇の勅命を承らないで、無礼にも使いのごとき小さき者をよこしたのか。今もし、おまえ達の王が自らやってきて勅を聴いても、俺はあえて勅を下さん。必ず追い返してやるぞ」 と言った。久遅布礼・恩率弥騰利は、恐れ、それぞれ帰って王を呼んだ。これによって、新羅は改めてその上臣伊叱夫礼智干岐(新羅は大臣を「上臣」とする。ある本には「伊叱夫礼知奈末」とある)を遣わし、兵士三千を率いてやってきて、詔勅を聴きたいと願い出た。毛野臣は、はるかに兵士達が集い囲んでいるのを見て、熊川より任那の己叱己利城に入った。伊叱夫礼智干岐は、多多羅原に駐屯し、我が軍に礼儀をもって仕えずに、勅旨を待つ こと、三ヶ月にもなった。しきりに勅を聴きたいと願い出たが、ついに相手の無礼を責めて勅を宣らず。伊叱夫礼智の率いる兵卒は集落に食べ物を乞うていた。毛野臣の従者・河内馬飼首御狩はそこに立ち寄った。御狩は、近くの門に身を隠し、物乞いとなった兵卒をやり過ごし、拳骨で遠くから殴るまねをした。物乞いはこれを見て、 「謹んで、三ヶ月も待って、勅旨を聞こうと待ち望んでいたのに、やはり毛野臣は勅旨を述べようとしない。勅を聴きに来た使いをこうやって困らせるのは、つまり、偽って上臣を殺そうというつもりなのだということが、解った」 と言った。 そうしてあるがままに上臣に報告した。上臣は、四村を奪い(金官・背伐・安多・委陀。これを四村とする。 ある本には、「多多羅・須那羅・和多・費智を四村とする」とある)、全軍を率いて本国に帰還した。 人々は、「多多羅など四村が奪われたのは、毛野臣の過失だ」といった。 九月、巨勢男人大臣、薨ず。 二十四年二月、詔勅に言う。 「磐余彦(いはれひこ。神武)帝・水間城(みまき。崇神)王より、皆、博識な臣下、明哲なる補佐に頼ってきた。つまり、道臣が策略を述べたから神日本(神武)は盛んになった。大彦が政略を述べたから胆瓊殖(いにゑ。崇神)は隆盛となった。継体(ここでは普通名詞。後継者)君に及んで、中興の功を立てようと思う時には、どうしてむかしより、賢哲な政策に頼らざることがあろうか。ここに、小泊瀬(武烈)天皇の天下に王たるに降り、幸いにして前聖を継承し、隆平の日は久しい。太平の為に人々は眠ったようになり、政治もだんだん衰えてよくないところを改めようともしなくなった。ただ、各人の類をもって進むことを全うするのみである。深謀遠慮の有るものは、その足りぬところを問うこともなく、才能の有るものは、その過失有るところをそしらない。こうして、獲て宗廟を奉じ、社稷を危ぶめず。これによってみれば、どうして明佐にあらざるだろうか。私が帝業を継承して、今や二十四年。天下は清泰。内外に憂い無し。土地は肥え、稲穂は実るが、私がひそかに恐れているのは、万民がこれによって習慣を作り、これによって驕りを生じることだ。人に廉節を挙げしめ、大道を宣揚し、鴻化を流布し、能力ある官吏を任用することは、昔から難しいこととされてきた。ここに私の代になって、どうして慎まぬものか」 九月、任那の使いが、 「毛野臣は、ついに久斯牟羅にして、舎宅を起こして赴任すること二年になります(ある本に「三年」というのは言った年と帰った年を合わせて三年という)が、彼は政務につとめて仕事をしません。今、日本人と任那人の間でしきりに子供が生まれているため、その帰属を巡る訴訟の決し難いことをもって、はじめから判断しようとせず、誓湯(うけひゆ)を置いて、『事実を言うものは爛れない。偽るものは爛れる』などといって、湯に投じられて爛れ死ぬものが大勢居ます。また、吉備韓子那多利・斯布利を殺し、(大日本の人が蕃国の女を娶って生んだ子を韓子という)常々人民を悩まし、とうとう和解することはありません」 といった。 天皇はその行状を聞き、人を遣わして毛野臣を召還したが、やってこず。毛野臣はそっと、河内母樹馬飼首御狩を京に送りこんで、天皇に奏させた。 「わたくしめは、いまだ勅旨をなさず、京に帰るのは、励まされて旅立って、なんの功もなく帰ることになります。はずかしくて、面目なくてどうしようもありません。伏して願わくば、朝命を達成して後、帰朝して謝罪致します」 また、毛野臣は謀って、 「調吉士もまた、(自分と同じ使命を持った)天皇の使者だ。もし俺より先に帰って俺の行状をそっくり伝えたなら、 俺の罪は重くなってしまう」 といい、調吉士を伊斯枳牟羅城の守備につかせた。 こうして、阿利斯等は毛野臣が小さなくだらないことばかりして、任那復興の約束を実行しないのを知って、しきりに帰朝しなさいとすすめたけれど、毛野臣はやはり帰還することを聞き入れなかった。このために、阿利斯等は毛野臣の行状をすっかり知って、心中に背く気持ちを起こした。そして、久礼斯己母(くれしこも。人名)を遣わし、新羅に援軍を求め、奴須久利(ぬすくり。人名)を遣わし、百済に援軍を求めた。毛野臣は、百済兵が来ると聞いて、背評(背評は地名。またの名は能備己富利)に迎え撃った。死傷者は約半数にも及んだ。百済は、奴須久利を捕らえ、足かせ手かせをして、新羅とともに城を囲み、阿利斯等を責め罵って 「毛野臣を出せ」 といった。 毛野臣は篭城して、守りを固めた。戦線は膠着し一月になった。新羅・百済は城を築いて帰国した。これを久礼牟羅城と言う。帰る道すがら、騰利枳牟羅・布那牟羅・牟斯枳牟羅・阿夫羅・久知波多枳の五城を奪った。 十月、調吉士が任那より至り、奏言するには、 「毛野臣のひととなりは理に背き、治体を習わず。ついに和解なく、加羅を擾乱に導きました。自分勝手で、あれこれ好きなことを考え、外患を防ぐこともありません」 という。 ゆえに、目頬子を遣わして、毛野臣を召還する。(目頬子は未詳) この年、毛野臣は召されて対馬にいたり、病を患って、死ぬ。葬送の時、川筋に随って近江に入る。妻の歌。 ひらかたゆ 笛吹き上る 近江のや 毛野の若子い 笛吹き上る 目頬子が初めて任那に至る時に、任那在住の日本人の贈った歌。 韓国を いかにふことそ 目頬子来る むかさくる 壱岐の渡りを 目頬子来る 二十五年二月、天皇の病は重く、磐余玉穂宮に崩ず。享年八十二。 さて、本編はまた今度にします。 いやー、長かった…。 途中で後悔した(笑)。 13-Feb-2000 今回は、「卑弥呼は倭を統一していたか」というテーマで、お話したいと思います。 まず、関連する史料から。 (1) 楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国を為す。漢書、地理志、燕地 (2) 倭人は帯方の東南、大海の中に在り、山島に依りて国邑を為す。旧百余国、漢の時朝見する者有り、今使訳通ずる所、三十国。魏志、倭人伝 (3) 倭は韓の東南、大海の中に在り、山島に依りて居と為す。凡そ百余国、武帝の朝鮮を滅してより、使駅の漢に通ずる所、三十許(ばかり)国。後漢書、倭伝 (4) 昔より祖禰(ソデイ。祖先)躬(みずか)ら甲冑を環(手偏。つらぬ)き、山川を跋渉(バツショウ。山を行き川を渡る)し、寧処に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国。王道融泰にして、土を廓(ひら)き、畿を遐(はるか)にす(遐畿とは天子(宋)の領域を遠くまで及ばせる意)。宋書、倭国伝、倭王武表 (5) 倭国は古の倭奴国なり。京師を去ること一万四千里。新羅東南の大海の中に在り、山島に依りて居す。東西五月行、南北三月行。…四面に小島、五十余国、皆附庸(フヨウ。天子(唐)の封国(=倭)の属国となること)す。旧唐書、倭国伝 さて、一つずつ見ていきましょう。 まず、1の漢書ですが、これが実は周以来のお話だということは、お話したことがありますよね。 ただし、これは、何も周代だけに限定しなくてはいけないわけではなくて、当然、漢代にも、倭人は百余国あったもの、と見て差し支えないでしょう。 次に2ですが、ここで問題になることがあります。 それは、「旧百余国」と「今使訳所通三十国」の対比です。 この文面から、多数の論者は、 「昔は百余国あった。それが統合されて今は三十国になった」 と考えているようです。 本当でしょうか。 後漢書を見ても、大体同じです。 「許(ばかり)」がついて概数になっているのは、魏志のように、明確な史料がなかったためでしょう。 (魏志の場合、卑弥呼or壹与の上表文に三十国の名が記されていたもの、と見なせます。 ちなみに、魏志にいう「漢時有朝見者」とは、後漢書に見える最低2回の遣使(金印の時と、倭国王帥升)を 指しています。) さて、百余国問題に一石を投じるのは、宋書の倭王武の上表文です。 ここの「海北」とは朝鮮半島のことですが、「東」と「西」は日本列島内です。 五十五国と六十六国、足すと百二十一国です。 百余国と言うのは、概数ですから、まあ、合ってるといえば合ってます。 ここでは、相変わらず、倭人(東夷)の国が百余国あります。 「毛人」「衆夷」をエミシ・クマソとして、倭人ではない、と言い張ってもムダです。 多分、中国側から見れば大差ありません。 さらに、エミシ・クマソと、いわゆる倭人が異民族なわけではありません。 (エミシがアイヌであれば、多少話は変わってきますが) ハッキリ言えば、クマソが「衆夷」なら、倭人も「東夷」に過ぎないのです。 そしてその立場は、倭王武にとっても同じでした。 自らを「臣」と称し、「自分は東夷の王として、天子の為に、その領域を拡大しているのです」 これがこの上表文の要旨です。 次に旧唐書を見てみましょう。 ここでは、倭国の「四面」には五十余国があるといいます。 ここで、倭国の本領域は、九州島です。 (東西五月行、南北三月行は、倭国天子自称の「畿」です) つまり、九州島に五十余国あると言っているのです。 これも、倭人百余国の漢書、東西合わせて百二十一国の宋書に近い数値です。 こう見てくると、卑弥呼の三十国とはどういう領域なのでしょうか。 やはり、百余国中の三十国が彼女の領域だった、こう考えるしかないようです。 つまり、残り七十~八十国くらいは女王に属さなかったのです。 思えば、「狗奴国」は女王に属さない「倭人国」でした。 さらに、「朱儒国」「黒歯国」「裸国」も女王に属しません。 女王は倭の中で最も有力な王者だったかもしれませんが、いまだ倭を統一するに至っていないのです。 陳寿が「倭国伝」とせずに「倭人伝」としたのには、こういう背景があります。 とすると、卑弥呼の領域は、凡そ、九州の半分くらい、北部九州に限定されると考えて良さそうです。 「筑紫」「豊」「火(肥)」の三国くらいでしょうか。 「日向(ひむか)」「襲(そ)」あたりはやはり「狗奴国」と考えて良いでしょうか。 また瀬戸内は「倭種」とされていますが、女王とは別領域です。 「多波那(たばな)国(三国史記に見える、倭人の新羅王脱解の故郷)」なども女王に属せざる国のようです。 このようなことは、例えば古田の歴史観にも大きな影響を及ぼします。 「景行九州遠征」の話(九州王朝からの盗用)の位置付けなどです。 これらについては、またお話したいと思います。 11-Feb-2000 えー、今回は黒歯国・裸国について、お話します。 「黒歯国」「裸国」というと、なんか原始人みたいですが、(実際、中国側でこんな名前をつけたのは、そういうイメージだったのかもしれません)魏志倭人伝の中に登場する、倭人の国です。 しかし、「黒歯国」「裸国」ともに、魏志が初出ではありません。 『山海経』(周~戦国・漢代にかけての成立)や、『淮南子』(漢・淮南王劉安撰)、『論衡』(漢・王充著)、『戦国策』(漢・劉向撰)、「海賦」(晋・木華の詩)などにも見える有名な地名です。 さて、これらを吟味してみましょう。 (A) (女王国)東南船行一年、裸国黒歯国に至る。魏志、倭人伝(晋・陳寿) 是に於て、舟人漁子、南に徂(ゆ)き、東に極(いた)る。 或は[ゲンダ](海亀)の穴に屑没(セツボツ。チリとなる)し、 或は岑敖(敖は本当は山かんむり。シンゴウ。険しく鋭い山)に 挂涓(涓はさんずいナシ。ケイケン。ひっかかること)す。 或は裸人の国に掣掣洩洩(セイセイエイエイ。風に任せて漂うさま)し、 或は黒歯の邦に氾氾悠悠(ハンハンユウユウ。流れに従うさま)す。 文撰、江海、海賦(晋・木華) (B) 昔、舜は有苗(ユウビョウ。南蛮。一説にミャオ族)に舞い、禹は袒(裸になること)して裸国に入れり。 : 是を以て聖人は、其の郷を観て宜しきに順ひ、其の事に因りて礼を制す。其の民を利して其の国を厚くする所以なり。被髪(ヒハツ。髪を結わず冠を付けない風俗)文身(ブンシン。入れ墨)、錯臂(サクヒ。腕組みして立つ姿勢)左衽(サジン。襟が左前)は、甌越(オウエツ。甌江に住む越族)の民なり。黒歯(コクシ。お歯黒)雕題(顔に入れ墨)、是冠(是は魚へん。テイカン。鯰の冠)朮縫(朮は禾へん。ジュツホウ。着物の縫い目が粗い)は大呉の国なり。礼・服同じからざるも、其の便は一なり。戦国策、趙、武霊王(漢・劉向) 禹の裸国に入る、裸にして入り衣にして出づれば、衣服の制は夷狄に通ぜざるなり。禹の裸国に衣服を教ふる能はざるに、孔子何ぞ能く九夷をして君子為たしめむ。論衡、問孔(漢・王充) (C) 下に湯谷(ヨウコク)有り。湯谷の上に扶桑有り。十日の浴する所。黒歯の北に在り。山海経、海外東経(周~戦国・漢) 東南自り東北方に至る、大人国・君子国・黒歯民・玄股民・毛民・労民有り。淮南子、墜形(チケイ)訓(漢・淮南王劉安) (黒歯国)其の人黒歯にして稲を食ひ蛇を啖(くら)ふ。湯谷の上に在り。高誘注(後漢・高誘) さて、今、6つの史料を引用してみましたが、これらは3つのグループに分かれます。 Aグループは、魏志倭人伝型です。黒歯国と裸国は1セットです。 存在する方角は東南。海のはるか彼方です。 次にBグループは、黒歯国と裸国は直接の関係は有りません。 確かにともに南蛮の一種ですが、関わりはそれほどでもありません。 裸国は禹のエピソードで有名なようです。 (このお話、戦国策では「郷に入ては郷に従え」よろしく、禹が裸国において裸になったように、呉越の風習についても、中国人(華北)は理解すべきだ、それが礼の道なんだ。っていうような話しで、とても興味深いですね。後世の中華思想とはちょっと違う、健全な発想です。ところが、時代はそんなに違わないのに(ただし書かれたのは漢代だが、実際は戦国時代のエピソード)、王充の方は、禹のような聖人君子をもってしても、夷狄の連中に礼を教えることなどできんのだ。と言っていて、随分解釈が違います。どっちにしても、「禹は裸国に行った。その時、禹は裸国の風習に従って裸で生活した」というエピソードは有名だったようです) また、戦国策において、裸国は禹の時代の国、黒歯は、現代(戦国)の呉越の風俗であってその存在する時代も違っています。 Cグループは、東方の異民族の中に黒歯というのがいるというもの。 ちなみに南方には裸国があります。 扶桑という太陽の昇る木のある湯谷という場所の近くに、黒歯人はいるようです。 さて、各グループの時代を見てみましょう。BとCはともに周から戦国・前漢の時代で、ちかいです。ですがAは晋代であって、それより少し遅れます。 このように見ると、陳寿が倭人伝に「黒歯国」「裸国」と記したとき、少なくとも、B・Cのグループに見える「黒歯」や「裸」を知っていたはずです。 三国志の読者(陳寿にとっての)も、同じくB・Cのそれを連想したでしょう。 つまり、倭から東南に船で1年行った所に、禹の赴いた「裸国」や、扶桑の近くにある「黒歯国」があるんだなあと、そう思うはずです。 思えば、陳寿は魏志東夷伝の序文に、 東、大海に臨む。長老説くに、異面の人有り。日の出づる処に近し、と。 と記していて、それが「日の出づる処」扶桑の近くにあるという「黒歯国」を指すことを予告していたのです。 広大なロマンを感じる部分だと思いません? ゾクゾクします。 シルクロードの漢書西域伝と同じくらい。 だから陳寿は、こんなに倭人伝に行数を費やしたのです。 里程記事をこんなに詳細に載せたのです。 目的地は倭の女王ではなく、その先の「日の出づる処」の近く、「黒歯国」だったのです。 さて、クールなお話に戻りましょう。 じゃあ、「裸国」はなんなんだ。「黒歯国」があるっていう根拠(陳寿にとっての)は何だったんだ。 こういうことになります。 まず、「裸国」は倭人伝に出てくる意味がありませんね。 別に禹の話しを語るわけでもなく、名前しか書いていません。 また、「黒歯」と並んで称されるのも今まで(漢まで)に例がありません。 それから、「黒歯国」「裸国」に中国人が訪れたわけではないのですから、東南の海の彼方にある国が「黒歯」「裸国」だなんて、どうして言えたのでしょう。 そう考えると、答えはひとつしかありません。 倭人からの情報です。 また、倭人伝に載っている以上、「黒歯」「裸国」は倭人の一派と考えるのがスジです。 では、その倭人からの情報とは、どんなものだったのでしょうか。 「東南の海の彼方に、黒い歯をした連中や、服を着ない連中がいる」 こんな感じでしょうか。 でも、これじゃ、陳寿にとって、推定の域を出ません。 そういうことならば、陳寿はこう書くはずです。 「東南に、黒い歯をした人々の国や、裸で生活する人々の国があるという。 恐らく、われわれの言う黒歯国や裸国であろう。」 と。 それを「黒歯国・裸国有り」と単刀直入にズバッと言い切るとは考えにくいのです。 ならば、考えられるのはひとつ、 「倭人が『黒歯国』『裸国』という名称を用いていた」 この可能性です。当時の倭人の中には漢字の読み書きが出来る者がいたはずであることは、卑弥呼や壹与が、魏・晋と国書のやりとりをしていることから明らかです。 つまり、倭人が自ら、この名前を、この字面で、中国人に教えたのです。 黒歯・裸国の国名(奴国や伊都国のような)が中国の古い東方の異人伝承の国名と一致するのは、偶然なのか、それとも、中国伝承を受けて倭人が名づけたのか、もともとあった「黒歯」「裸国」の倭人国のウワサが中国に伝わった伝承なのか、それはわかりませんが、楽しい話です。 6-Feb-2000 えっと、もう2月になってしまいました…。 今更ながら、2000年の記念すべき第1回の ネタです。 さて、ではさっそく参りましょう。 …なんの話しでしたっけ? 「倭武天皇」でしたね。 詳しい話は前回(25-Dec-99)を読んでいただくとして、 今回は、「倭武天皇」という字面はいったいどこから来たのか? というテーマでいきたいと思います。 さて、少なくとも常陸風土記編者(藤原宇合という説が有力)は、「倭武天皇」をヤマトタケルに擬して書き記した、このことは前回お話しました。 ですが、中央でさえ「天皇」扱いされていないヤマトタケルをひとり常陸風土記だけ(もっとも播磨風土記にも「倭建天皇命」と見える)が「天皇」に格上げして表記したとは考えられません。 (これも前回お話しました。) だとすると、この「倭武天皇」、とくに「天皇」という表現はいったいどこから来たのでしょう。 これが問題となります。 結論はただひとつです。 「もともとの史料に倭武天皇と書いてあった」 これしかないでしょう。 ですから、この場合は「倭武天皇」の「属性」「地域性」もさることながら、「倭武」という字面に引かれて、 ヤマトタケルと同一視された、そう考えられます。 (その一方で、前回のBの史料では、同一人物の事跡(ヒナラス命派遣)が「美麻貴天皇」に仮託されていたのは、「天皇」の表記に引かれたもの、と考えることが出来ます。) この辺りについては、古田が既に論じております。 では、「倭武天皇」とはいったい誰なのか。 再三申しておりますように、「倭王武」ではありません。 そうすると、一応、2通りの解釈が出来るかと思われます。 1)「倭」の「武天皇(諡)」→漢語と見なす 2)「ちくしのたけるのすめらみこと」→倭語と見なす。「倭」=「ちくし」(ヤマトではないことは記紀より明白) 私としては、1ではないかな?と思っております。 …で、そうすると、こんな史料に目を引かれます。 継体天皇十六年、武王、年を建て善記と云ふ。襲国偽僭考、鶴峯戊申、文政3(1820) もちろん、以前(28-Nov-99)お話したとおり、これをどこまで信憑してよいか、甚だ疑問です。ですが、気になる史料です。武王って誰やねん?ってことです。 要するに「九州王朝」の中に「武王」「武天皇」と諡された君主がいたのかもしれません。 なんとも歯切れの悪い結論ですが、まぁ、こんな感じだと思っています。
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