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[[独り言(Historical)]] #menu(menu_Historical) 15-Dec-2002 今日は、久しぶりに「意味」について考えて見ます。 「考えてみる」とはいっても、おそらく「新しいお話」にはならないでしょう。 ここまでの「まとめ」という色合いになるかと思います。 まぁ、軽くお読みください^^ まず、何度も申し上げてきました、意味に関するひとつの視点を再び。 「意味は聞き手が決めるものである」 これですね。 これは、まさにこのとおり、だと思っています。 ですが、あまりこればかりを強調すると、もうひとつの重要な視点がぼやけてしまいます。 それは、「言葉」の「目的」といいますか、そもそもどうしてそんな機能を、私たちは身につけたのか、という点です。 このように言いますと、何か「本来性」とか「目的」とか、所謂「ポストモダニズム」が食いつきそうなテーマだとお思いになるかもしれませんね。 ですが、少なくとも、「言葉」に課せられた使命を、忘れてはいけないのです。 それは、「伝達」です。 よく、言葉とは「記述、あるいは自己の表現」なのか「コミュニケーションの道具」なのか、ということが問題にされますが、私には、このような対立自体が不毛と見えます。 なぜなら、「記述」もまた、「伝達」を目的としているからです。 要するに人は誰かに何かを伝えたいから、「言葉」を発するのです。 「誰か」は、「他人」かもしれませんし、「自分自身」かもしれません。 「何か」は、自分の気持ちかもしれませんし、科学的な論述なのかもしれません。 とにかく、言葉を発するからには、「誰か」に伝わり、そして「誰か」に何らかの「意味」を与える、これがなくてはいけません。 たとえ、「独り言」であっても、必ず「聞き手」がいるのです。 (ウチの「独り言」も、当然、読者を想定しているわけですね。それは今のお話とはあまり関係ないのですが) 例えば、「明日、7時に○○駅」なんていうメモ書きでも、「読者」がいるのです。 もちろん、「明日の自分」でしょう。 ですから、「言葉」の意味は「聞き手」が決めるのですが、必ず「話し手」がいて、その「彼(彼女)」がもともと「発した」ものである。 という、実に当たり前の話なのですが、この点を忘れるわけにはいきません。 「意味は聞き手が決めるものである」 という、記号学的な、そして現代的な発想を推し進めていくと、つい、「話し手」の存在を忘れてしまいがちです。 「人はあらゆるものに意味を見出さなくてはいられない」 「人間とは意味という病に侵された存在」 といった、記号学的なテーゼは、もちろん重要ですが、それと同時に「話し手」の存在を忘れてはいけない、ということです。 ここまで進めてきますと、柄谷行人や立川健二などの言う「教える立場」「誘惑する立場」という枠組みにも目が向きますが、今は、それよりも、「話す立場」を重視しておきます。 さて、「話す」という行為、或いは「書く」という行為には、既に「聞く」「読む」行為が含まれているのだということは、既にお話しました。 これによって、デリダの言う「差延(deferance)」は生じるのだ、と。 つまり、「最初の読者は必ず作者である」ということです。 言い換えると、「最初に意味を決めるのは作者」ということになります。 ここで、「作者」に特権的な「地位」が誕生するきっかけがあります。 このことを確認しておきましょう。 そして、「聴く立場」に戻ります。 「意味を決めるのは聞き手」なのですが、そもそもの「言葉の使命」を考えれば、言葉の発信者と、何らかの「情報の共有」というか、「意味の共有」が発生しなければ、「聞いた」事になりません。 もちろん、それは常に成功を収めるのではなく、往々にして失敗する。 失敗することで、「他者」という、私たちにとって重要な概念を得ることになるのですが、それでも「成功」を目指すのです。 レヴィナスに言わせれば、「他者を自己に取り込む」作業に他ならないのですが、それをせずにはいられないのです。 また、「話し手」と「聞き手」が「意味」を共有する為には、彼らの属する集団の「規則」あるいは「慣習」が必要になります。 もちろん、愛し合う恋人同士なら、二人だけのルールがあってもいいのですが、そういう場合は、「言葉さえいらない」ものですね。 まさに「ツーといえばカー」もしくは「阿吽」なわけです。 それでもやはり「慣習」とか「規則」はあって、彼らもそれに従うわけですが。 さて、そのような「慣習」や「規則」を共有する中で、特権的・支配的な「意味」が現れてきます。 それは、スチュアート・ホールのいう「オーディエンス」の有り様にも似ています。 「これこれはこういう意味である」という、強力なルールによって、「話し手」も「聞き手」も拘束されるのです。 (そして「文学作品」でかつて強力なルールとなったのは「作者の意図」でした。いかに作者の意図を性格に読み取るか、が、「文学作品」の批評において重要視されたのでした。これに反旗を翻したのが、プルーストなどの前衛的な作家であったり、バルトやエーコなどの記号学者であったのです) そのルール自体には、なんら「本来的」「根源的」「本質的」な根拠はなく、また一時も同じ形にとどまるようなものでは無いことを、現代の思想家たちは暴露して来ました。 でもその「拘束」があるからこそ、「話し手」と「聞き手」は「意味」を共有しうるのです。 さて、「歴史(史実の探究)の方法」というテーマに進みましょう。 私たちは、例えば『三国志』の「予想された読者」「語られる相手」ではありません。 ですから、私たちの流儀といいますか「規則」や「慣習」で、これを捉えることは、(文学作品として楽しむならいいのですが)問題があります。 もちろん、「歴史」のもうひとつの仕事―史実への評価―という意味では、「イマ・ココ」の価値で見るということも、重要な視野というか、展望を提供してくれます。 それとこれとは話が別です。 私たちは例えば『三国志』は、陳寿のルールで読まなくてはならないのです。 これは、以前もお話したとおりですね。 そして、陳寿のルールで読む為のひとつとして、私は「用例調査」を考えています。 もちろん、その方法にまったく問題がないわけではありません。 用法の弁別の為の最善の方法も、いまだ見出してはおりません。 「対照言語学」「言語類型論」「生成文法」なども参考になるような気がしていますが。 もちろん「計量言語学」や「計量文体論」も。 ここらあたりが、「来年の課題」ですね。 17-Nov-2002 今回は、「用例調査」という方法について考えて見ます。 用例調査といえば、古田氏の『「邪馬台国」はなかった』での「壹」と「臺」の調査以来、古田氏の専売特許と見る向きもなくはありませんが、比較的文献を対象とした学問ではよく行われているものだと思われます。 今日は、この「方法」の持つ意味といいますか、意義といいますか、要するに「用例調査」という方法の「理論的裏づけ」を考えてみたいと思います。 どうして「用例調査」を行うのか。 「用例調査」によって何がわかるのか。 何はわからないのか。 つまり、そういったことですね。 これを私なりに考えてみたいと思うのです。 まず、古田氏が初めに行った「壹」と「臺」の調査ですが、これは、実はその後古田氏の影響を受け、後に自立していった「市民の古代」の方々、例えば半沢英一氏や川村明氏、秦政明氏、丸山晋司氏などや、今も古田氏と行動を共にする方たち、古賀達也氏などがよく行っている(そして私もよく行う)用例調査とは、少し趣が違います。 (何もこの方法は古田氏とその影響を受けた人々だけが行っているのではなく、たとえば安本美典氏もよく行っている方法です) さて、「壹」と「臺」の用例調査は他と何が違うのかといいますと、これは純粋に記述統計である、という点です。 全『三国志』のテクストの中には、全部で86個の「壹」と58個の「臺」、計144個がある。 このうち、「邪馬壹国」1例、「壹与」3例を除くと、「壹」→「臺」の間違いは0である。 すなわち、「邪馬壹国」の「壹」を「臺」に偶然書き誤ったとは考えられない、と。こういうことです。 当時、「字形が似ているから偶然書き誤ったのだろう」という説が常識化している中へ一石を投じたのでした。 そういえば、MM3210さんのHPで確率を計算しておられましたね。 こういうわけですから、古田氏のこの調査は、純粋に記述統計調査であって、だからこそ安定した意味を持つ、と言ってよいかと思います。 次に、用例調査というか、用法調査とでも言うべきものがあります。 これは、私もよく行います。 最近では隋書の「達」の用法を調査しましたね。 あの結果はまだ事情があってUpしていないのですが。 これを調査するということの意味をここでは考えてみたい、と思います。 「何を調査したいのか」 まず、これを明らかにしておきましょう。 ことばには、「使い方」というものが存在します。 以前から何度も申し上げていますとおり、「意味は読み手が決める」のですが、文学作品を楽しむならともかく、我々のようにそこから「作者の見た歴史」の姿を取り出したいと思っている時、「意味を決める」権限を持った自分自身の「知識」が邪魔になることになります。 なぜなら、私は「作者」と共通の時代認識・常識・知識・慣習・文化を持たない、「作者」にとっての「期待した読者」「語られる相手(narratee)」では無いからです。 ですから、私は必ずしも「作者」と共通の「言葉の使い方」を知らない。 多くの場合には、ある程度共通しているものですが、少なくとも「同じである保証がない」のです。 従って、「作者」の用法を知る必要がある。 現代の私の用法ではなく、当時の「作者の用法」を、です。 その為のひとつの方法として、同一作品の中の用法を調べ、そこから帰納的に「作者の用法」を導き出す、という方法がとられることになります。 さて、ここで問題があります。 それは、「用例調査」を行っているのは、あくまで「現代の私」であって、「当時の作者」ではない、ということです。 結局のところ、一つ一つの用例を解釈し、分類しているのは、ほかでもない「現代の私」なのです。 ここで、「現代の私」の知識が入り込む恐れがあります。 そういえば、森博達氏が『日本書紀の謎を解く』の中で、日本書紀区分論の「語法分析」の問題点として、「明確な区分の基準がない」点を挙げておられました。 まさに、この点が問題なのです。 従って、私たちは、用法の区分に明確な基準を設けるべく、その「方法」を開発しなければならないでしょう。 今のところ、最善の方法はわかりません。 計量言語学における「語彙統計」が参考になりそうですが、これもあまり明確な基準を持っているとは言いがたいのです。 何よりも、計量言語学は「はじめから意味を承知している」のですから。 「何を意味しているか」という問いに答える手段ではありません。 私は「用例調査」という方法をよく使いますが、「肝心なところ」でこの問題に泣かされます。 ほとんどの場合は、それでも何とか、それなりの結論を得られるのですが。 これが、今の私にとってのひとつの課題だと思っています。 09-Nov-2002 今日は、MM3210氏の「邪馬台国ファンを惑わす誤り―2.古田武彦氏の説の誤り」について述べたいと思います。 古田氏は、『「邪馬台国」はなかった』において、魏志倭人伝の「景初二年」が「三年」の誤りである、とする説を批判し、景初二年が正しい、としました。 MM3210氏は、この点への批判を述べています。 MM3210氏の論点は、つまるところ以下の点にあります。 (1)魏が帯方郡を平定したのは公孫淵誅殺【後】である(「魏志東夷伝」)。 (2)公孫淵が誅殺されたのは景初2年8月23日である(「魏志公孫淵伝」)。 従って、景初二年六月の段階で、倭国が魏の帯方郡へ使者を送ることはできない。 だから、古田氏の説は誤りである、というわけです。 では、上記1,2の論点について、関連する史料を挙げ、確認していきましょう。 (1) (景初元年)秋七月丁卯、司徒陳矯薨ず。孫権、将朱然等二万人を遣わし、江夏郡を囲む。荊州刺史胡質等、之を撃ち、然、退走す。初め、権、使を遣わし海に浮かび、高句麗と通じ、遼東を襲わんと欲す。幽州刺史毋丘倹を遣わし、諸軍及び鮮卑、烏丸を率い、遼東の南界に屯せしめ、璽書を公孫淵に徴す。淵、兵を発し反す。倹、進軍して之を討ち、会して雨を連ねること十日、遼水大いに漲る。倹に詔して、軍を引きて右北平に還らしむ。・・・(中略)・・・辛卯、太白尽く見ゆ。淵、倹の還りてより、遂に自ら立ちて燕王と為し、百官を置き、紹漢元年と称す。青・[六/兄]・幽・冀四州に詔して、大いに海船を作らしむ。魏志三、明帝紀、景初元年 (2) (景初)二年春正月、太尉司馬宣王に詔して、衆を帥いて遼東を討たしむ。同、景初二年 (3) (景初二年八月)丙寅、司馬宣王、公孫淵を襄平に囲み、大いに之を破り、淵の首を京都に伝え、海東諸郡を平らぐ。冬十一月、淵を討つ功を録して、太尉宣王以下、増邑封爵、各差有り。同、景初二年 (4) (景初)三年春正月丁亥、太尉宣王、還りて河内に至る。同、景初三年 (5) 帝、曰く「往還、幾日か」(司馬宣王)対えて曰く「往くに百日、攻むに百日、還るに百日。六十日を以て休息と為す。此くの如く、一年足らずなり」晋紀、魏志三所引、于宝撰 (6) 景初元年、乃ち、幽州刺史毋丘倹等を遣わし、璽書を齎し淵に徴す。淵、遂に兵を発し遼隧に逆し、倹等と戦う。倹等不利にして還る。淵、遂に自立して燕王と為り、百官有司を置く。・・・(中略)・・・二年春、太尉司馬宣王を遣わし、淵を征す。六月、軍遼東に至る。淵、将軍卑衍・楊祚等歩騎数万を遣わし、遼隧に屯せしむ。囲塹二十余里。宣王の軍至る。衍をして逆戦せしむ。宣王将軍胡遵等を遣わし之を撃破す。宣王、軍をして囲を穿たしめ、兵を引きて東南に向う。而して東北に急ぎ、即ち襄平に趨く。衍等襄平の守無きを恐れ、夜走す。諸軍進みて首山に至る。淵、復び衍等を遣わし軍を迎え、殊に死戦す。復た撃ち、之を大破す。遂に進軍して城下に造り、囲塹とす。会霖雨三十余日。遼水、暴長し、船を運みて遼口より径ちに城下に至る。雨霽れ、土山を起こし、櫓を修め、為に石を発し弩を連ね城中に射る。淵、窘急す。糧尽き、人相食らい、死者甚だ多し。将軍楊祚等降る。八月丙寅夜、大流星長さ数十丈、首山の東北より、襄平城の東南に墜つ。壬午、淵の衆、潰し、其の子脩と数百騎を将い、囲を突き、東南に走る。大兵、之を急撃す。流星の墜つ処に当り、淵父子を斬る。城破れ、相国以下首級千数を以て斬る。淵の首を洛陽に伝え、遼東・帯方・楽浪・玄菟悉く平らぐ。魏志八、公孫伝 (7) 公孫淵、逆し、倹と戦う。不利にして、引き還る。明年、帝、太尉司馬宣王を遣わし、中軍及び倹等の衆数万を統べ淵を討ち、遼東を定む。倹、功を以て進みて安邑侯・食邑三千九百戸を封ぜらる。魏志二十八、毋丘倹伝 (8) 而るに公孫淵、父祖三世に仍りて遼東を有す。天子其の絶縁の為、委ねて海外の事を以てす。遂に東夷を隔断し、諸夏に通じるを得ざらしむ。景初中、大いに師旅を興して淵を誅す。又軍を潜し海に浮かび、楽浪・帯方の郡を収む。魏志三十、東夷伝序文 (9) 景初二年、太尉司馬宣王、衆を率い公孫淵を討つ。宮、主簿・大加を遣わし、数千人を将いて助軍す。魏志三十、高句麗伝 (10) 景初中、明帝密かに帯方太守劉[日斤]・楽浪太守鮮于嗣を遣わし、海を越え二郡を定む。諸韓国の臣智に邑君印綬を加賜し、其の次に邑長を与う。魏志三十、韓伝 (11) 景初二年六月、倭女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣り、天子に詣え、朝献することを求む。太守劉夏、吏将を遣わし京都に送り詣らしむ。其の年十二月、詔書を倭女王に報じて曰く「親魏倭王卑弥呼に制詔す。帯方太守劉夏、使を遣わし、汝の大夫難升米・次使都市牛利を送らしめ、汝の献ずる所の男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉らしめ、以て到る。・・・魏志三十、倭人伝 まず、帝紀を見て見ましょう。1では、公孫淵が反旗を翻し、燕王を名乗った経緯が描かれています。景初元年のことです。最後の造船記事も、公孫淵討伐に向けたものと解釈してよさそうです。 それに続き、2で司馬懿が公孫淵討伐に出発したのが、翌年正月です。そして、3で景初二年八月に、まさに勝負は決し、十一月には司馬懿への褒美が既に与えられています。 その後、4で洛陽に凱旋したのが景初三年正月のようです。 大まかな経緯は、以上のようで間違いないと考えられます。 ちなみに、5の史料は三国志ではありませんが、注に引用されているものです。司馬懿は、明帝から「(公孫淵討伐の)往還は何日くらいだ」と尋ねたところ、司馬懿は「一年足らず」と見積もっています。 実際に帝紀の上でもほぼ同様な期間です。参考にはなるでしょう。 おおよそ、MM3210氏もこの点においては、同じ見方といっていいでしょう。 さて、問題の帯方郡制定ですが、これらの文面からは何ともいえない、というのが率直なところでしょうね。 古田氏の指摘のように、10の韓伝の記述からは、緊迫した情勢での帯方郡制圧が、予想できます。 「完全制圧」が公孫淵誅殺の前だとは、この記述からはいえませんが、少なくとも、相当な圧力がかかっていたであろう事は容易に想像できます。 さて、MM3210氏の理路は、先に示したとおりだと認識しています。 かなり「インテンショナル」というか、古田氏の「故意」を主張する文面ですが、言っていることの理路は、つまり、公孫淵が殺される前に、帯方郡から魏へ遣使出来るわけがない、という、「常識的」な主張です。 古田氏が「太平の史家」と批判した、まさに同じ理路です。 古田氏の読解にも確かに誤解が含まれています。 司馬懿が洛陽に戻ったのは、ご指摘のとおり、景初三年正月です。 おそらくは、帝紀の八月の項からの類推なのでしょう。 MM3210氏のいうような「故意」であるかどうかは、私にはわかりません。 もしも、古田氏の「故意」を主張することによって、古田氏に批判された同じ理路を守ろうと、お考えであれば、残念ながら、不毛としか言いようがありません。 「故意」を主張するにしては、その「証拠」も少ない。 おそらく善意に解すれば、「誤解」程度のものでさえも、悪意に解すれば、どのようにもいえるのです。 もしも、古田氏が「故意」に司馬懿の凱旋を八月に「読み違えて見せた」とするなら、古田氏の説は、司馬懿が八月に洛陽に戻らないと成立しないのでしょうか。 実際のところ、別に、影響は無いのです。 それなのに、わざわざ・・・。 古田氏はなんという無益なウソをつくのでしょう。 「六月において大勢は決していた」についても、同様で、「大勢は決していたけれども、決着はついていない」、もはや、公孫淵は襄平城を囲まれ、「陥ちる」のは時間の問題だった、という謂いでしょう。 ですが、そうでなければ、「戦中遣使」という概念が成立しないと考えるのであれば、それは誤りです。 MM3210氏の言うとおり、六月時点では大勢が決していないのであれば、なおさら、「機敏な外交」の機敏さが増すだけのことであって、古田氏の説が成立しないわけではありません。 まぁ、あまりこの点ばかりを指摘しても、議論は前に進みませんので、MM3210氏の説の大前提を指摘し、その根拠を問うに留めたいと思います。 「公孫淵誅殺後でなければ、倭国は帯方郡を通じて魏へ遣使できない」とする根拠は何でしょうか。 私は、公孫淵誅殺前であっても、帯方郡経由で魏へ遣使することは可能と考えます。 私の理解では、古田氏の言う「戦中遣使」説が、この帯方郡制圧の前であってはならない、理由は無いだろうと思っています。 公孫淵健在中は倭国が魏の帯方郡へ使者を送ることはできない、というMM3210氏の理路は、つまり、公孫淵健在中は帯方太守不在か、もしくは、帯方太守も公孫淵一派という前提に立つものです。 そうでなくてはそういう理路は成立できない。 ですが、帯方郡や楽浪郡は、公孫淵に従って魏に抵抗しようとする勢力や、あくまで魏に従おうという勢力によって、大いにゆれていたであろう事は、容易に想像できます。 劉[日斤]にしても劉夏にしても、少なくとも景初中の帯方郡太守であり、かつ、魏に従っています。 (そのことによって、「激動の人生」を歩むことになったのかもしれません) その中での「戦中遣使」は、大いにありうるだろうと思います。 勘違いしていただいては困るのは、「景初二年」というのは、まさに「文面どおり」に理解しているだけのことであるという点です。 この文面が間違いである、と主張したいのであれば、「景初二年」であっては、決定的に矛盾する、論拠を挙げなければなりません。 ですが、文面どおりに理解しているだけの古田氏や私にとっては、「ありうる」ことを確認するだけで十分なのです。 この点、あくまで『三国志』に基づいて、古代史を研究する私たちにとって、忘れてはなりません。 (『三国志』に間違いがない、と主張したいのではありません) 20-Oct-2002 今日は、「虚構言語行為論」について考えたいと思います。 「虚構の言述(fictional discouse)」とは、つまり、小説や物語のような、虚構の世界(フィクション)を語ることです。 私たちは、何かを発言するとき、必ず何かの行為を行っています。 「約束」や「命令」などは、そのわかりやすい例ですが、たとえば、科学的論述などでもそれは「確言」という言語行為を行っているのだ、と言うことができます。 このような見方によってJ.L.オースティンは、「言語行為論」を構築しました。 そのオースティンも「虚構の言述」に関しては、差し当たって、「言語行為論」の分析の対象から外しました。 オースティンに拠れば、「虚構の言述」(小説を「書く」行為や、舞台で役者がせりふを「語る」行為)は、言語の「真面目な使用」ではなく「本来の用法に寄生する」使用だからであるといいます。 これを「記述的言語」もしくは「日常的言語」と「詩的言語」の対立と見れば、オースティンは「日常的言語」に軍配を上げていることになります。 この際、P.ヴァレリーやマラルメ等は、はっきりと「詩的言語」に軍配を挙げていることも忘れてはならないでしょう。 さて、オースティンの後継者であるJ.R.サールは、この「虚構の言述」に対する考察を始めました。 まず、サールは「虚構の言述」に対する次の立場を批判します。 それは、「虚構の言述は、小説を「書く」あるいは「物語る」という行為を行っている」という立場です。 この立場に従えば、たとえば「私は彼を覚えている」という文は、(法廷などにおける)「主張」あるいは「確言」という行為の「他に」、虚構作品の中では「物語る」という行為を行っていることになるのです。 文の意味と行為は「関数関係」にあると見るのが、サールの根本的な主張ですから、ひとつの文に異なった行為をともに割り当てることは、サールの主張に根本的に反します。 もしも「フィクションとノン・フィクションでは、文の意味が異なる」という主張を行うのであれば、すべての言葉は「フィクション用の意味」と「ノン・フィクション用の意味」の両方を持っていることになり、この不合理性は明らかでしょう。 これに対し、サールは、虚構の言述における「主張」は「偽装された主張」である、とします。 「私は彼を覚えている」という文章がフィクションの中で使われた場合、作者は、その「主張」を偽装しているのだというのです。 ところが、これには問題があります。 野家啓一は、サールのこの主張は、結局フィクションとノン・フィクションの唯一のメルクマールは、「発話者の意図」だけであって、それを読者はどうやって知るのか、という背理に陥っていると批判します。 なるほど、サールは、確かに「フィクションの言述」と「ノン・フィクションの言述」が、言語の使用方法自体においては、まったく違いがないことを確認していました。 つまり、文面だけでは「フィクションとノン・フィクションは区別できない」のです。 だとすれば、サールが「発話者の意図」に還元してしまった「フィクション/ノン・フィクション」の境目は、読者にとって不明というほかは無いのです。 さて、その野家は、「虚構言語行為」は、「引用」という特徴を持つといいます。 古典的な「物語」や口承伝承がそうであるように、「昔々あるところに」で始まり、「・・・だったとさ」で終わるような、典型的な昔話は、まさに「引用」という体裁をとることで、「言語行為」のもつ様々な規則を免れる、というのです。 「引用」の場合には、「引用者」はその内容についての何の責務をも負わない、というわけです。 同じように、小説の場合も、基本的には、「引用」という形で、その責務を免れているのだといいます。 もちろん、現代の前衛的な小説の冒頭が、引用で始まるなどということはあり得ませんが、これは、より技巧的になった、先端のものであり、発展型だからであるというわけです。 しかし、この野家の主張も残念ながら、サールと同じ「背理」にぶつかっている、と言わざるを得ません。 その「前衛的な」小説をフィクションたらしめているのは何か、という問題にぶつからざるを得ないからです。 次に、G.ジュネットは、虚構の言述について、これは複数の言語行為を同時に行うものだとしました。 「昔々あるところにおじいさんとおばあさんがいました」という文を書くとき、作者は読者に「昔々あるところにおじいさんとおばあさんがいました、と思って聴いてほしい」と命令あるいは要求しているのであり、また、「昔々あるところにおじいさんとおばあさんがいた、と宣言する」のです。 言い換えると、作者は「私はこの文面で持って虚構的に『昔々あるところにおじいさんとおばあさんがいた』と定める」という「虚構世界の構築」を行っている、というのです。 なるほど、この説も説得力を持ちます。 ですが、おそらく、サールの反駁を免れないでしょう。 この主張によっても、「フィクション用の意味」と「ノン・フィクション用の意味」を持つという見解に加担することになるのです。 さて、サールはフィクションとノン・フィクションの間に文体的な違いは無いのだと考えました。 一方、野家は、典型的な「物語」には、「引用」という文体的な特徴があるのだと考えました。 要するに、「引用」が本来で、今の小説はその発展型である、と。 ここで、意味に関する重要な視点を思い出したいと思います。 「意味は聞き手が決めるものである」 これです。 「虚構が虚構として成立する為には、聞き手によって虚構と見なされなければならない」 のです。 ひとつ、興味深い事例を挙げましょう。 「1938年10月30日、夕刻8時ごろ、アメリカのコロンビア放送が、H.G.ウェルズのSF小説である『宇宙戦争』のドラマを流していた。ダンス音楽を中断し、火星に青い火がみえたという臨時ニュースを流した。第2回目には、ダンス音楽を中断し、ある町にみたこともない飛行物体が到着したという臨時ニュースを流した。その後アナウンサーが興奮して現場中継し、銃声や指揮官の声などが流されると、人々は本物と思い、120万もの人が逃げ惑うまでに発展していった」『心理学要論』、有斐閣双書による これは、社会心理学で「群集心理」の「パニック現象」の典型的な例として挙げられることの多いものです。 心理学の教科書には大抵載っているでしょう。 (実際、学生時代の教科書からの引用です) ここで注目すべきなのは、このパニック現象の真の原因です。 つまり、「虚構が虚構として聞かれなかった」ということなのです。 サールも野家も、この視点を欠いているように思えます。 典型的な物語が「昔々あるところに」で始まるのは、語り手の免責のためだけではありません。 聞き手に、それが「虚構である」と理解させる為なのです。 そして、コロンビア放送の例のように、小説の場合、それを伝えるメディアの役割を忘れてはいけません。 私たちは普通、小説は始めから「これは小説だ」とわかって読みます。 始めから「小説を読む」という行為を、十分承知の上で行っているのです。 そうさせるのは、「作者の名前」や「作品の評判」「出版社」、「本の体裁」など様々な、「本文外の情報」です。 P.ブルデューや、S.シュミットの文学現象という問題意識が重要となるのです。 さて、なぜ私がこのような問題を考え出したのか、をお話しましょう。 それは、もちろん、『日本書紀』です。 ここまでの話を踏まえれば、『日本書紀』は、「虚構」という範疇にはくくれないことになります。 むしろ、「虚偽」なのでしょうか。 一方、神話は、どうなのでしょうか。 「虚構」にくくれるもの、くくれないものの両方があるような気がします。 結局のところ、「虚構言語行為論」から、『日本書紀』に迫ろうという、私の目論見は見事に打ち砕かれてしまったような感じです。 まぁ、しかし、「虚構言語行為論」。 これも、なかなかに興味深いものだと思います。 06-Oct-2002 今回は、上野千鶴子、そして野家啓一の歴史観を批判したいと思います。 まず、上野千鶴子は、フェミニズム活動の中心的な一人として、「従軍慰安婦」の問題から、歴史への問題に踏み込みました。 彼女は、所謂ポストモダン的な視点から、(西尾幹二や藤岡信也・小林よしのりの歴史観はもとより)伝統的実証主義の歴史学をも批判しました。 所謂実証主義が、いかに「政治的・権力的・男性中心主義・西欧中心主義」な立場を免れ得ないか、を辛辣に描き出し、暴き出したのです。 これは、ポストモダンのひとつの大きな潮流でした。 歴史のプロット化やメタ・ヒストリーを主唱するヘイドン・ホワイトなどはその代表者ですし、たとえば、ガヤトリ・スピヴァックは「サバルタン」とよばれる「弱者」の言説でさえ、西欧中心主義的な「認識論の暴力」を免れることができず、かえって、「弱者」として語ること自体がそういった「暴力」に加担することになってしまう、と指摘しました。 スピヴァックやサイードなどは、「ポストコロニアル(「植民地主義の次に来るもの)」の代表的人物です。 また、ブローデルの歴史観も、地中海の民衆の生活に深く入り込んでいくことによって、民衆の生活の中の「非西欧的」なものをあぶりだしました。 同じように、ウォーラーステインの世界システム論も、そもそもは南アフリカ研究に始まっており、やはり、同じ潮流の中に位置づけることができます。 このように、私たちの素朴な歴史観の中に根付く、「政治的・権力的・男性中心主義・西欧中心主義」が次々と暴き出されてきたのです。 上野の批判も、基本的には同じ流れの上に立つものと見ることができるでしょう。 さて、上野は、「実証主義」が「文書至上主義」に陥っていると非難します。 これはつまり、所謂「自由主義史観」論者が、「従軍慰安婦強制連行を示す史料がない」ことを理由に、従軍慰安婦問題を教科書から削除しようとする動きに対する反論ですが、同じ罠に「実証主義」論者(吉見義明や鈴木裕子が「標的」にされていますが)も陥っているのだというのです。 「公文書がない」=「十分な証拠能力がない」という論理が「文書至上主義」だという批判です。 これは、もっともなことです。 「従軍慰安婦問題」には、「当事者の証言」があります。 ハッキリ言うと、私たちのように「史料に渇望した」古代史の立場から言えば、それこそ「喉から手が出るほどほしい」史料です。 ふむ。 私は今まで自分のことを「実証主義者」だと思っていましたが、どうも、上野の言う「実証主義者」とは違うようです。 彼女の言う「実証主義者」は、この「喉から手が出るほどほしい第一史料」をあっさり切り捨ててしまうそうです。 いささか、シニカルな言い方になりますが、彼女は「敵」を見誤っている、といわざるを得ません。 彼女の敵は「普通の実証主義者」ではなく、「三流の実証主義者」です。 この意味で、彼女が吉見や鈴木を標的にしたのは、正しいとは言えません。 また、「実証主義」そのものを否定しようと試みたことは、彼女自身の立場をも危うくする、と言えるでしょう。 彼女は、「従軍慰安婦の当事者の証言」を何の批判的・客観的・実証的判断もなしに「鵜呑み」にしたいのでしょうか。 そうだとすれば、逆に、上野千鶴子という「政治的活動家(客観性を否定する彼女の活動は、彼女自身の論理に従って「政治的」にならざるを得ない)」によって「構築」され、利用された、と見なさざるを得なくなります。 もはや彼女は「歴史」だとか「事実」だとか、そういうことを語ってはいけない。 やや、挑発的になりました。 もちろん、彼女がそのように考えているとは思いません。 要するに、彼女の敵は、「実証主義を貫徹できない実証主義者」「実証主義を掲げていながらその実、実証主義では全然ないような輩」であって、「実証主義」そのものではないのです。 もちろん、「実証主義者」の中にも「公文書中心主義」「西欧中心主義」「男性中心主義」といったものは、根を張っているわけで、この点に鋭い監視の目を光らせておくことは、非常に重要です。 (ここに、古田武彦の言う「天皇家中心主義」を加える必要もあるでしょう。むしろ、ポストモダニズムが日本においてたどり着くべき概念であるはずです。ここにたどり着かないで、欧米から輸入されたままの「西欧中心主義」「キリスト教中心主義」に留まるなら、それ自体が「西欧中心主義」の賜物といえます) 上野は「当事者の証言」を重視します。 これは、何も「実証主義」に反する概念ではなく、むしろ、「実証主義」が重視すべき点なのです。 オーラル・ヒストリーとは、「実証主義」のためにある言葉なのです。 まずはこのことを確認しておきましょう。 次に、野家啓一です。 彼は、アーサー・ダントの「物語論」に従い、「物語行為」を理論化しました。 人が何かを「物語る」のは、人間にとって非常に重要な行為である、とするもので、彼によれば「歴史」もまた、ひとつの「物語る」行為に過ぎないのだ、といいます。 (同じように「科学」の持つ「物語性」も彼の視野に入っています) 彼に言わせれば、「客観的な事実」という意味の「史実」を語ることは出来ず、あくまで「価値判断」を伴った「物語」としての「歴史」しか存在しないのだとします。 もっとも、彼が最大の標的にしているのは、ヘーゲルの歴史哲学やマルクス主義的史的唯物論の類です。 「素朴な実証主義」はその標的にはなっていませんが、「客観的な事実」の探究を前提とする立場が批判されていることは言うまでもありません。 もちろん、日本の戦後史学はマルクス主義的な歴史観を「発展」させた独自の史観によって、構築されていますし、「実証主義」の代名詞でもあるレオポルド・フォン・ランケの歴史観も、それ自身まったくの「無価値的」「客観的」「相対主義的」だとは言えず、やはり、あらゆる歴史学の言説が何らかの「価値判断」に拠っていることは否定しません。 むしろ、クローチェやコリングウッド、E.H.カーが言うように、「歴史とは、現在と過去の不断の対話」であると見るほうが、正しいでしょう。 この営み自体を否定しようというつもりはありません。 野家の指摘も興味深いものです。 ですが、私は、「だからどうした」という反問を抑えることができません。 「開き直り」では、どうも、ないようです。 つまり、野家に限らず、「客観性」への懐疑的な態度は、あくまで「人間の現状把握」としては正しくとも、それ以上でもそれ以下でもない、ということです。 自らを「客観的」と信じていた無邪気な「理性」への反駁ではあります。 要するに、Y=1/Xという式を発見して、「だからYは0には絶対にならない」と言うことは出来ます。 ですが、だからといって「Yを限りなく0に近づけようとする試み」を笑う資格はありません。 「客観的な事実」「本来的な事実」は無いんだ、というポストモダンの定式から言えば、最後は「根拠のない信念」に頼らざるを得ないことは、明らかです。 私の「根拠のない信念」は、「客観性を目指すこと」に他なりません。 さて、いつかもお話したことがありますが、歴史には二つの仕事があります。 ひとつは「史実の探究」。 もうひとつは「史実への評価」です。 私が「客観性」を目指すのは、あくまで「史実の探究」です。 野家の「物語論」を始めとして、この「区別」が必ずしもはっきりしてはいません。 その理由のひとつに、所謂「歴史哲学」や「歴史の方法論」を語る論者の多くが「近代史」を念頭においていることが挙げられるかと思います。 ハッキリ言うと、「史実の探究」が見るからに困難な状況にあるのは、「古代史」くらいなものです。 「史料」に飢えることを知らず、「史料」に飽きる、飽食の時代、それが「近代史」です。 ですから、「評価」が歴史家にとって大事な仕事である、と考える節があります。 もちろん、古代史に関しても、「評価」こそが歴史家の仕事だ、と考える人が多いようです。 「史料の探究」「史実の探究」は、文献屋の仕事だ、というわけです。 要するに、彼ら(ヘーゲルにしてもランケにしてもベルンハイムにしてもラングロアにしても)の口ぶりは「発掘」「史料の保存」「年代の鑑定」などは、「歴史家の仕事ではない」という前提に立つものなのです。 この点は、私たちが歴史の方法を考える上で見落としてはならないと思います。 22-Sep-2002 「文献批判について」第7回ですね。 予告どおり「テクストとテクストの影響について」です。 まずは、主にジュリア・クリステヴァの「間テクスト性」の概念から見ていきたいと思います。 クリステヴァは、ソシュール、バフチン、フロイトのテクストの読解から、この概念を引き出したとされています。 彼女は「間テクスト性(l'Intertextulite)」について、「あらゆるテクストはあるテクストを変形したものである」としました。 すでにバフチンは、テクストの「多声性」「ポリフォニー」「ディアロジズム(対話主義)」という言葉によって、ひとつのテクストの中にも、複数の「声」が存在しているのだということを指摘していました。 これを受け、クリステヴァは、テクストが(たとえどんなに自己完結的なものであっても)完全に他のテクストから独立したものではあり得ないことを、このように理論付けたのです。 しかし、これは、伝統的な文学批評の方法とは少し異なります。 テクストがテクストに及ぼす影響、というと、つい、「先行するテクスト」だけを見てしまいがちですが、そうではありません。 「後続のテクスト」が「先行するテクスト」の読解を変形することがありうるのだという点が重要なのです。 つまり、『魏志倭人伝』に影響を及ぼすのは『漢書』や『史記』だけではなく、『後漢書』や『日本書紀』もまた、影響を及ぼしうるのだ、ということです。 「意味を決めるのは読者」と、私はこれまで繰り返してきましたが、この視点からすれば、上記の結論は必然だといっていいでしょう。 「読者」が「意味」を「決める(生成する)」過程において、「先行するテクスト」であろうと「後続するテクスト」であろうと関係なく、影響を及ぼしうるものです。 これがクリステヴァの強調する「間テクスト性」でした。 クリステヴァの問題意識は、ハッキリと「読者の立場=聴く立場」に立っています。 この点、土田知則『現代文学理論』では、誤解があるように見えます。 土田は、「間テクスト性」の審級として、デーレンバックの理論を援用して、 一般的な間テクスト性・・・作者Aのテクストaと作者Bのテクストbの関係 制限的な間テクスト性・・・作者Aのテクストaと同作者のテクストbの関係 自己的な間テクスト性・・・作者Aのテクストaとテクストa'の関係 という3つを挙げましたが、これは「作者の立場」と「読者の立場」を混同したものだということができます。 もちろん、このような概念自体は必要です。 しかし、これはクリステヴァの問題意識とは違うのだという気がします。 「読む立場」に立った「間テクスト性」の議論は、バーバラ・ジョンソンやハロルド・ブルームら「イェール学派」の文学理論に影響を及ぼします。 こういった、「読む立場」からの「間テクスト性」の問題は、我々にとっても、重要な問題提起となります。 我々は意識する/しないに関わらず、あるテクストの読みにおいて「他のテクスト」の影響から逃れることができないのです。 特に、『魏志倭人伝』に対する『記紀』の影響、もしくは、「津田左右吉」や「内藤湖南」や「榎和雄」や「江上波夫」や「古田武彦」の影響に注意を払う、という「再帰的態度」(M.ピッカリングによる)をとることは大事なことです。 これが「間テクスト性」の問題の第1点です。 次に、先ほど批判した「作者の立場」に立つことにしましょう。 ここでは、土田知則=デーレンバックの審級が、意味を持ちます。 しかし、この点は、実は伝統的な実証主義の精神によって、かなり研究が進められているといっていいでしょう。 例えば、『日本書紀』における先行テクストの影響(例えば、『芸文類聚』など)や「原典研究」などがその一例です。 『魏志倭人伝』に対する『魏略』などもそのひとつでしょうか。 ですが、我々は「作者」つまり「書くこと」について、もうひとつの認識を手にしています。 それは、「我々は書くと同時に読む」ということです。 もしくは「作品の最初の読者は作者である」と言い換えてもいいでしょう。 この作用によって、土田=デーレンバックの言う第3の審級、もしくは、デリダの言う「差延」、ジョンソンの言う「批評的差異」は生まれるのです。 他ならぬ『日本書紀』が『日本書紀』に影響を及ぼす、という可能性があるのです。 ましてや、『日本書紀』は個人の著作ではありません。 より複雑な「内的差異」を持つテクストであろう事は容易に想像できますし、事実、指摘されていることです。 この差異を「著者」の違いに真っ直ぐに還元することは、以上のような視点にまったく配慮していないものだということができます。 同一の著者であっても差異が生じることは大いにありうることなのです。 これが、「間テクスト性」の問題の第2点。 さらに、「作者は、作者であると同時に読者である」という点も忘れてはいけません。 「書くこと」に作者の知識が影響を及ぼすことは容易に想像できることです。 そして、その「知識」が他のテクストによってもたらされたことはいうまでもありません。 ですが、作者にとっては、その「他のテクストの読み」が、すでに「間テクスト性」によって、「他のテクストの影響を受けたもの」であることは、以外に忘れられてしまいます。 単純な「誤読」で片付けられるもの(例えば、范曄の『魏志倭人伝』の読解に関しては、賛否両論のあるところですが、これも范曄の「知識」による影響と見られることに、異論は無いでしょう。問題はその「知識」が妥当であるかということになります)もありますが、そうではないものもあります。 また、その読解によるテクストが、もとのテクストよりも大きな影響力を持ち、逆にもとのテクストに「反逆」するような影響関係を持つにいたることもあります。 『後漢書』の范曄による『魏志倭人伝』読解が、『魏志倭人伝』そのものに与えた影響を考えてみればよいでしょう。 さて、最後に「メタフィクション」もしくは「パロディ」研究の成果を見ておくことにします。 これは、「作者の立場」からの「間テクスト性」研究に大きな影響力を持つと言えます。 所謂「狭義のメタフィクション」「パロディ」は、「引用」「引喩」「変形」「(狭義の)パロディ(諧謔的な模倣)」「文体模倣」「風刺」などの要素を持つ第2次的な文学のことです。 これらの研究は、例えば、『日本書紀』研究においてもなされてはいます。 他にも中国側史書の多くが先行する史書の「模倣」もしくは「引用」によって、作文していることは、著名な話です。 ここで重要なのは、「パロディ」における「読者の役割」です。 「パロディ」が「パロディ」として成り立つ為には、「読者」の存在が不可欠です。 「読者」は、「パロディ」として「テクスト」を読むと同時に、「もとのテクスト」を知らなければならないのです。 そして、「パロディ作品」が「もとのテクストのパロディである」ことを認めなければ、「パロディ作品」は成立しません。 これは、何も「大々的なパロディ作品」のことを言っているのではありません。 例えば、万葉集において、同じような文句が、歌として現れますが、これも、「パロディ」の一部として、「読者の役割」を必要とします。 『日本書紀』が『芸文類聚』の文を採ったことに、どのような意味を見出すか、は、実は重要な問題です。 単に「修飾」の為、というだけの評価しか下せないのでは、実は『記紀』の半分も理解したことにならないのではないか、という気さえします。 こういった点への配慮は、もちろん、今までの「記紀研究」に皆無だったとは思いません。 改めて重要性を痛感している、というところです。 ・・・やっと、「古代史」の話に戻ってこれましたね。 今後は、更に「文献批判の方法」を詰めていきたいと思います。 では。 16-Sep-2002 「文献批判について」第6回です。 今回は、「知識」というものについて、考えて見ます。 今まで、私は「読む」という行為、「書く」という行為が各々の「知識」の影響を受ける、という図を紹介しました。 ここで言う「知識」とは、非常に広範な概念だと思ってください。 「慣習」「経験」「常識」「他者の目」「価値判断」「類推」「思考」・・・。 私は今、ブルデューの「ハビトゥス」、ホールの「オーディエンス」、オースティンの「慣習」、ウィトゲンシュタインの「言語ゲームの規則」、フーコーの「エピステーメ」、ベッカーの「ラベリング理論」、マルクスの「交通」、ソシュールの「交通」、サピアの「ドリフト」、デリダの「差延」、クリステヴァの「間テクスト性」、フィッシュの「解釈共同体」・・・といった概念を念頭においています。 要するに、純粋に自己の内部にある(と見なされている)個人的な経験や知識、考え方といったもの「だけ」ではなく、その属する社会の常識や規範、慣習が大いに影響します。 そして、この「知識」は、読むことによって「変容」します。 あるときは新たな発見として、あるときは既有知識を補強するものとして。 肝心なことは、「読む」ことによって起こる「変容」は、「書き手」の意図したとおりのものでは、必ずしもない、ということです。 「意味は読み手が決める」のです。 むしろ、書き手とは反対の意見を強めることもあります。 いずれにせよ、「読む」ことによって、知識は変容するのです。 つまり、「読む」ことには「知識」が関わり、そして、「読む」ことによって「知識」が変容する。 こういう両方の関係があります。 さて、「知識」は、どのようにして形成されていくのでしょうか。 ひとつには、今申し上げたとおり、「読む」もしくは「聞く」ことによって、得られます。 他には、「見る」「味わう」「嗅ぐ」「体験する」などが考えられます。 しかし、もうひとつあります。 「書く」「話す」ことです。 私たちは、「書く」ときに、必ず、「読んで」います。 もしくは、「聞いて」います。 これを行わないと、「書け」ないのです。 まず、自分の書いたことを読んでいないと、自分の文章の誤りに気づくことはできません。 これは、「モニタリング機能」といって、必ず自身の作り出す文章が間違っていないか、おかしくないか、常にチェックしているものです。 もちろん、「推敲」といわれるチェックも行われます。 ですから、「書く」には必ず「読む」が含まれるといっていいでしょう。 ここで、「自らの文章を読む」という作業でも、知識の変容は起こりえます。 よく「書くことで思考が深まる」といいますが、つまり、そういうことなのです。 こう書いてくると、デリダの言う「差延(deferance)」なる概念が何を示すのか、それが少し見えてきます。 つまり、「人の知識は書いている間にも変容する」のですから、テクストの始めのほうと終わりのほうでは、かなり「知識」が変わっていることがあります。 問題意識がハッキリしたり、ちょっとだけ問題に対する「温度」が変わったり、というような微妙な差でしょうが。 (余談ですが、よく「一人で愚痴って最後には一人で納得すること」ありません?) そしてその「変容」は必ず「書いた」後に起こるのですから、「遅延」させられているわけです。 この「差異」+「遅延」の概念がデリダの言う「差延」でした。 さて、私たちは常に何かを見ています。何かを聞いています。そして何かを話します。 これらすべてが「知識の変容」に関わるのだとすれば、「知識」というものは、一瞬たりとも「一定の形に留まる」ことがないのだということに気づきます。 すでに言語に対してはそのような見方がされています。 ソシュールは、「通時態」という概念により、これを表現しました。 また、サピアは「ドリフト」という概念により、これを示しました。 いずれも、「言語は常に変化する。一定の形をとどめていることなどない」という見方です。 これは当然ながら(言語=思考という極端な言語相対性仮説に拠らずとも)思考、あるいは「知識」にも言えます。 このような「知識変容のダイナミズム」を所謂「ポスト構造主義」は、志向したのでした。 ですから、そのような見地から、クリステヴァの「間テクスト性」の問題は重要です。 「間テクスト性」とは、つまり、「他のテクストがあるテクストの読みに関わる影響」のことです。 これについては、また述べることにします。 さて、「思考」についても、少し考えて見ます。 ズバリ言うと「考えることは自分に話すこと」です。 もちろん、視覚的な思考というものは存在しています。 心理学的にも多くの実験により確かめられています。 それを否定はしません。 結局は何かを「イメージする」ということは、「頭の中で」同じ経験を繰り返すことなのです。 たとえば「イメージトレーニング」も同様です。 訓練をすると、「イメージする」ことによって、運動神経・筋肉にも影響を及ぼすことができるのだといいます。 (「運動準備」という状態に神経をさらすことによって、実際に運動するのと同じような効果を得られる) そして、私たちにとって、たいていの経験は言語を伴って記憶されます。 とくに、冷静に、論理的にものを考えようとすれば、「言語」抜きにはほとんど無理でしょう。 こう考えると、思考(内言)は、常に「対話的」でなければならない、というバフチンの指摘は重要です。 また、「考える為には二人でなければならない」といったヴァレリーの言葉も、参考になります。 (「『私が』『私に』話すのである以上、前の『私』は後の『私』が知らないことを知っているということになる。内部状態の差異というものが存在するのである」Cahiers I、立川健二・山田広昭『現代言語理論』による) ですが、先ほども申し上げたとおり、「書く」「話す」という行為自体に実は、「読む」「聞く」という行為が含まれているとすれば、やはり、「考えることは自分に話すことである」と言っていいと思います。 要するにヴァレリーの言う「内的差異」は、結局はデリダの言う「差延」なのです。 ふむ。 「古代史」の話からはだいぶそれました。 次は本当に、ここまでのお話を踏まえての「史料批判」の方法について、考えることにします。 お題目を決めておきます。 「テクストとテクストの影響について」です。 お楽しみに(笑)。 08-Sep-2002 昨日今日(2002.9.7~9.8)と、西さんトコの「考古文化研究会」主催の河上邦彦さんの講演会に参加するため、奈良県に行ってきました。 ・・・というわけで、旅日記風に書いてみたいと思います。 2002.9.7 朝、9:00に神奈川県大和市の自宅より出発。 10:36発の新幹線「のぞみ」にて、京都へ。 12:37、京都に到着。ここから近鉄に乗り換え、奈良県橿原に向う。 西さんとの待ち合わせは、14:00。 ここまでは、予定通り。順調だけど、天気予報で降水確率50%となっていたのが心配。 近鉄西大寺駅で、橿原線に乗り換え。 しばらくすると、予報どおりの雨。しかも、大雨。 ・・・とおもったら、この雨はすぐに止んで、日差しがさしてきた。 変な天気。 待ち合わせていた「八木駅」に到着。 西さんの携帯に連絡する。ちょっとすれ違ったりしてるうちに、また大雨。まさに豪雨。 西さんご夫婦と合流し、早速、西さんの車で移動。 この雨だから、古墳めぐりの予定を変更して、資料館に案内してくださるとのこと。 「田原本町郷土資料展示室」(「中央体育館」内)に到着。 有名な唐子・鍵遺跡の展示を行っている。 西さんの解説つきで、展示を閲覧。土器の編年の見わけ方など、とても参考になった。 また、展示では何も書いていなかったが、西さんに拠れば、「吉備」のものもいくつかあるという。 見ている間に雨が上がった。 おまけ:展示室の方も、親切な方で、たっぷり「解説」していただきました。 次に、「桜井市埋蔵文化財センター」へ。 須恵器の古いものの見わけ方を、西さんの奥さんから教えてもらった。 雨も上がったことだし、箸墓を見る。 車でぐるっと回りながら、見た。その後、車を停めて、全体を見た。 実は、私、箸墓見たの初めてなのです。 ふむ、思った以上に、木が生い茂って、何もない感じなのね・・・。 近くの「ホケノ山」に移動。 ホケノ山古墳の上に登って、三輪山→箸墓を180度見渡す。 三輪山、ホケノ山、箸墓・・・。 西さんが興味深いお話をしてくれた。 でも、ここではひみつ(笑)。 今度は、「金屋の石仏」。 でも、「石仏」は今回の目的ではなく、目的は、石仏のあるお堂の下。 肥後ピンク石の石棺の蓋が、「転がって」いた。 こんなところに、無造作に。 西さんから、肥後ピンク石の摂関のお話を聞いた。 肥後ピンク石の石棺はいくつか例があるけれど、本場の肥後にはないのだという。 でも明らかに九州の工人の手によるものだという。 「製品」を九州から持ってきた・・・らしい。 詳しくは、西さんが書いているからそちらを参考。 いろいろ想像が掻き立てられるけど、慎重に調べないと、ね。 面白い話に発展しそうな感じはする。 西さんの論考をもう一回読んでみようっと。 1日目はこれで終わり。 ・・・なわけはなく、飲みに行った。 例によって、飲みすぎる。 2002.9.8 6:30起床。 頭痛。やっぱり飲みすぎましたね。 7:30朝食。 8:30出発。 あ、ちなみに、西さんとは同じホテルに泊まってました。 西さんが私に合わせてくれたのです。 で、西さんと一緒にタクシーで出発。 橿原考古学研究所付属博物館に到着。 物怪守屋さんに会った。 で、河上邦彦さんの講演。 なんでも、河上さん、同博物館の館長になって、「営業」も気にしなくちゃいけないらしい。 ま、どこ行っても仕事は大変なものです。 河上さんの講演の内容は、「條ウル神古墳と巨勢谷について」。 スライドを使って、発掘の裏話から、未発表情報まで、楽しい講演だった。 12:00に講演は終わり。 西さんに誘われ、河上さんや研究会のスタッフの昼食会にお邪魔させていただいた。 ほとんど河上さんの独演状態。 ざっくばらんな気さくな方で、楽しい昼食でした。 「まずいビールの飲み方」から「南朝文化の影響について」まで、いろんな話を聞かせていただいた。 あっという間に15:00。 ここでお開きとなり、西さんたちと別れ、帰途につく。 西さん、ありがとうございました。 さて、これで終わらなかったのです。 帰りの新幹線「のぞみ」が、なぜか静岡に停車。 「あれ?」と思っていると、アナウンスが。 「富士川付近で大雨の為、しばらく運転を見合わせます」 結局、1時間37分遅れで新横浜に到着。 参った・・・。 ふぅ、というわけですので、もう寝ます。 おやすみなさい。 01-Sep-2002 今日も、「文献批判とは」です。もう5回目ですね。 ここまで、20世紀の思想界の状況をざっとですが、見てきました。 そろそろ、「本業(?)」である、「古代史」のほうへ向って進んで生きたいと思いますが、まだまだ道のりは長そうです(笑)。 はじめに、いつかの図を見ていただきたいと思います。 図参照 この図は、書くこと、そして読むことを一般的な通信モデルを基に、かわにしが書いたものです。 実は、すでに似たような図がたくさんあることを知りました。 たとえば、ブルデューは、「ハビトゥス」という概念を用いて、やはり同じような図を描いています。 また、ヤコブソンは、かわにしの図において「テキスト」とされる部分を更に細かく分析し、メッセージやコードといった概念を提出しています。 参考としてあげておきます。 図参照 さて、この図において、著者と読者の知識の違いによって、意味の違いが生じる、と以前言いました。 この点をより深く分析してみます。 まず、「意味」とは何でしょうか。 これについては、意味=言及(指示)対象説(意味はそれが指示する対象のことである)、意味=観念(概念)説(意味は「心像」あるいは「概念」である)、意味=行動説(意味は、その発話の状況と、それによって引き起こされる行動である)、意味=用法説(意味は言語の中におけるその使用である)という、主に4つの説があります。 私は、これらの全てが(意味の一部を言い表しているという意味で)正しく、またいずれも(意味の一部しか言い表していないという意味で)正しくないと思います。 最近注目されるスペルベル&ウィルソンによる「関連性理論」による「意味」の解釈が適当でしょう。 それは、意味は聞き手にとってより重要な、興味を惹く効果をもたらすものである、という解釈です。 「昨日の地震で学校がつぶれた」の意味は、 地震により学校の建物が倒壊した。 学校の経営が行き詰まっており、昨日の地震で(何らかの)決定的な損失を被り、破産した。 の、いずれもありえます。この場合、聞き手が「地震があった」という事実を知っていれば、それによって「学校が倒壊したことによって、児童に犠牲者が出たのではないか」という点に関心を示すでしょう。 だから、1)の解釈を採ります。もしかしたら、「地震があった」ことによって、経済的な損失を被り、破産したのかもしれませんが、通常聞き手が関心を示すのは、1)のほうでしょう。 実は、同じようなことをすでにブルームフィールドが述べています。 なんにせよ見かけは重要でない物事が、ヨリ重要な物事と密接な関係にあるとわかったとき、われわれは前者がけっきょく、『意味』("meaning")をもっているという。すなわち、それは後者―ヨリ重要な物事を『意味する』("means")のである。したがって、ことば発話は、それ自身は些末で重要では無いが、それが意味("meaning")を有するがゆえに重要であるとわれわれはいう。ブルームフィールド『言語』1933(三宅鴻・日野資純訳、大修館書店1971) さて、この立場を突き詰めてみると、結局、このようにいえます。 「意味は聞き手が決めるものである」。 したがって、多くの言語学者が、意識する/しないに関わらず「聴く立場」からの分析を中心にすえていたことは、無理もないことなのかもしれません。 これに対し、たとえば、柄谷行人はウィトゲンシュタインの言語ゲーム理論を援用して、「教える立場」の重要性を指摘します。(『探究I』) また、立川健二も「誘惑する立場」として、「聴く立場」に対置する概念を強調します。(『現代言語論』) 彼らの主張は、「意味は聞き手が決めるものである」という概念を突き詰め、それによって生じる「話し手の側の、(意味を発する側でありながら決定することの出来ない)不安定な状況」を鮮明に映し出すものと言うことが出来ます。 また、ウィトゲンシュタインは「意味は聞き手が決めるものである」にもかかわらず、話し手と聞き手の間にコミュニケーションが成立する状態をこそ、「言語ゲーム」として、描き出したのでした。 (ここらへんは、あくまで「かわにしによる理解」によって、「可能性の中心」(立川による)を引き出した理解といってもいいかもしれません。) 反対に、話し手の立場を強調するのが、「言語行為論」だと、ひとまずは言っていいでしょう。 その担い手はオースティンやサールです。 オースティンは、全ての発言は、「行為遂行的だ」と言います。 これは、例えば、「わたしは明日9時に会社に行く」と発言した場合、そのこと自体で「宣言」という行為を行っていることになります。 また、「危ない」と道路で叫んだら、おそらく、道路を横断しようとしている歩行者に「警告」という行為を行っているでしょう。 そういう意味で、全ての発言は、何らかの行為を含むのです。 端的な例は、「約束」です。 「明日の5時に○○で会いましょう」という、ありふれた約束は、考えてみると、非常に難しい概念です。 まず、この発言は相手に聞かれなくては「約束」として成立しません。 これは当たり前ですね。 次に、これは、相手が「約束」として受け取らなくては、「約束」として成立しません。 (あまり遠まわしなプロポーズでは、相手が結婚の約束と受け取ってくれないかもしれません。笑) また、この発言をしたからには、少なくとも「明日の5時に○○に行く」意思がないといけません。 ところが、仮にこの意思を持たなかったとしたら・・・。 翌日の5時に○○に彼が現れなければ、「約束違反」として彼は責められるでしょう。 そのときに彼が「昨日はああ言ったが、そんな意思はなかった。俺の言ったことを真に受けたのか」と言ったとしたら・・・。 それでも、「約束違反」は「約束違反」です。彼の言い訳は通常通用しません。 これが言葉の持つ威力というものです。 本人の意思とは無関係に、発した瞬間に、威力を持つ、という、そら恐ろしいような威力を持ちます。 さて、「約束」には、それこそ「お約束」の決まり文句が付き物です。 それは、自他共に確実に「約束」であることを認識する為に、必要なものです。 オースティンは、これを慣習として、重視しました。 わたしは、単なる言葉のほかにも、「指きり」や「婚約指輪」等といった行為もそれを補うものだという気がしています。 この慣習は、なにも「約束」という限られた行為にのみ存在するのではありません。 オースティンに拠れば、これは行為遂行的発言において、非常に重要なものであるとします。 結局は、話し手と聞き手が、意思の疎通を行う際に、共通の慣習、というものが重要である、という、言ってみれば、普通の話なのですが、このことが重要です。 (ウィトゲンシュタインに言わせれば、それが言語ゲームの規則というものです) また、現代語用論(pragmatics)の中心をなす、グライスは、次のような「意図」の重要性を説きます。 発話の内容が発話者にとって何らかの意味があること。 発話の相手がその発話に何らかの意味があることを了承すること。 相手がその意味を了承すること。 これらのことを、発話者は了解している必要があるというのです。 この「再帰的」な関係は、重要だと思います。 つまり、「発言をするからには、自分にとって意味があることで、かつ、「相手にとって意味がある」と発話者がわかっていること、そして相手にそれが伝わることを満たすように、発現をしなくてはならない」のです。 実際はそんなに難しいことではありません。 いつもやっているのですから。 現に、わたしも今、それを考慮して、この文章を組み立てているところです。 整理しましょう。 もう一度、例の図を見てください。 ここで、必要なのは、 <著者(話し手)から見ると> 1)発話の内容が発話者にとって何らかの意味があること。 2)発話の相手がその発話に何らかの意味があることを了承すること。 3)相手がその意味を了承すること。 <読者(聞き手)から見ると> 話し手が以上のことを考慮して発した言葉であることを認識しつつ、自己にとって「意味のある(より重要な)」解釈を選ぶ。 ということになるかと思います。 ここで、もうひとつの概念を追加したいと思います。 ホールの「オーディエンス」という概念です。 これは、主に社会学で、マスコミ研究・大衆文化研究などで使われる言葉です。 文字通り、「聴衆」です。 マスコミにしても、著作物にしても、「読み手」はたくさん存在します。 ここが通常の言語学が対象とする「会話」とは違う点です。 もちろん、送り手は、同じようにして、メッセージを送ります。 ところが、受け手は一人ではないのですから、そこに様々な解釈が生まれます。 当然、受け手は、それぞれに、それぞれにとって「意味のある」解釈を行うわけですから、みんな同じというわけには行きません。 そうすると、受け手は受け手同士で、「解釈のぶつかり合い」「せめぎあい」が行われることになります。 これはこのままジェンダー・エスニシティといった、ポストモダン的な重要な概念や、知に潜む権力性、エピステーメといった概念、それに、ブルデューのハビトゥスという概念ともつながっていきますが、今はここまでにしておきましょう。 (この問題は、カルチュラル・スタディーズという、ホールを中心とした研究活動の主な問題意識に直結しています) 「古代史となんの関係があるんだ」と思った方、いらっしゃいますか。 でも、よく考えてみると、「史料を読む」という、「歴史学」にとって最重要な作業は、まさに、今言った受け手の活動に他ならないのです。 この点をよく踏まえたうえで、なおかつ、「大衆化されたポストモダニズム」の陥った、安直な議論に進むことなく、「史料を読む」という作業を私たちはどのようにして行うのがいいのかを考える必要があるのです。 端的に言うと、私は「読者であることをやめなければならない」と思います。 まぁ、続きは、またの機会に・・・。 25-Aug-2002 今日は「文献批判とは―第4回」です。 先日は、記号学・構造主義から、ポストモダニズムまでお話しました。 まぁ、あの説明でよくわかったかどうか、不安ですが…。 なんにせよ、「よくわからん」とかでも、広い意味で興味をもたれた方は、ご自分でこれらの著書にあたってみるのが良いかと思います。 そして、私の説明の間違い、もしくは、鋭い批判やツッコミなどしていただければ、幸いです。 さて、今回は、そのポストモダニズム批判に転じたいと思います。 この批判の急先鋒は、マルクス主義文学批評家にして、哲学者のテリー・イーグルトンです。 彼は、ジャック・デリダ、ミシェル・フーコー、ジル・ドゥルーズらが登場してきた1960年代~1970年代には、彼らの問題意識を積極的に自身のマルクス主義に取り入れようとしてきました。 イーグルトンには、『文学とは何か』という、構造主義批判にして、文学理論の概説書でもある書物がありますが、この頃には、デリダらの思想を積極的に認めていたのだといいます(イーグルトン『ポストモダニズムの幻想』森田典正訳、大月書店、1998、「訳者あとがき」による)。 さて、イーグルトンに拠れば、ポストモダニズムは、1980年代以降の熱狂的な流行の過程で、極度に歪曲され、単純化され、すでに、弊害を生むものとなっているといいます。 私の理解により、私の言葉で説明してみたいと思います。 たとえば、デリダが行ったのは、「形而上学批判」ですが、これは、プラトン以来、ルソーそしてヘーゲルにいたるまで、哲学を支配し続けた「絶対的な理性」に対する批判です。 哲学は、物事の様々な問題を捉え、考えてきました。何によって・・・理性によって、です。 「人間とは何か」「国家とは何か」「歴史とは何か」「世界とは何か」「自然とは何か」「学問とは何か」・・・。 これらの問いを発し、考え、解決するのは「理性」であり「知」です。 そして、哲学は、「知の体系」として確立していきます。 もちろん、考える主体と客体についての考察がないわけではなく、この問題に「同一性」というかたちで決着をつけたのがヘーゲルだといえます(これを「現前性(presence)」といいます)。そうして、絶対的な知の体系をいったん完成させたのでした。 この「知の体系」に疑問を持つものがいました。 それが、ニーチェであり、ハイデガーであり、デリダです。 ここで、デリダは「脱構築」という考えを提示して、現前性の形而上学を批判します。 「脱構築」で行おうとしているのは、哲学者たちの記述がいかに、「現前性」の欲望によって支えられているか、いかに「差延(deferance)」の動きにさらされているか、といったことを、彼らの定義に従い、徹底的に追及することで、彼らの持つ構造がいかに軋み、解体していくかを見届ける作業ですが、これは、デリダのキーワードになりました。 このような次第ですから、デリダの問題意識は、決して単純なものではないのです。 もう、これ以上突っ込まれても私には説明できません(笑)。 また、フーコーは、エピステーメという概念によって、「権力と知との共犯関係」を暴きだしました。 ドゥルーズは、形而上学的な樹形図(tree)構造の概念に対し、リゾーム(根茎)的な構造を提出します。 ツリー構造という言い方をするとわかりやすい方もいるかと思いますが、「基点」から次々に枝分かれしていくというあの構造です。 たとえば、生物の進化の樹形図とか、チョムスキー的な文法の樹形図とか、○○家の家系図とか、はたまた、Microsoftのエクスプローラ風のフォルダ構造とか・・・。 これに対し、リゾームとは、任意のある一点が別の任意の一点に接合するような、不規則で反系譜的な構造です。 もちろん、構造そのものが問題・・・というよりは、むしろ、そういう思考形式が問題なのです。 彼らの考えを積極的に取り入れることで、「大衆化されたポストモダニズム」は、独り歩きを始めます。 たとえば、「脱構築」「現前の形而上学」「知の権力」「エピステーメ」といった彼らのキーワードは、独り歩きを始め、極度に単純化されます。 その結果、ポストモダニズムは以下のスローガンとも言えるテーマを共通して持つようになりました。 反本質主義(anti-essentialsm):たとえば、ジェンダー(社会的な性)にしても、ナショナリズムにしても、エスニシティ(民族性、人種性)にしても、階級にしても、逸脱者(outsider)にしても、彼らの本質的な部分によって形成されるのではなく、社会によって構築される概念である、とする考え。 客観的言説の否定:全ての言説は、あらゆる価値判断に影響される。したがって価値判断を伴わない客観的な言説など存在しない。 政治性、権力への関心:言説の持つ権力構造に注目し、あらゆる言説の持つ政治性を暴きだす。 これらは、「批判勢力」として存在する分には、それほど問題ではありません。 ですが、ひとたび、隆盛すれば様々な弊害を生むことになります。 たとえば、1の概念は、それ自体としては重要な概念です。また、これによって「少数派」もしくは「従属的な立場に追いやられた人々」への関心、視野が広がったことは間違いありません。 ですがひとたび「全てのものは反本質的(社会により構築された概念である)である」と主張した瞬間、自己撞着に陥ります。 なぜなら、この発言は「全てのものは反本質的という本質を持つ」と言っているからです。 また、形而上学はだめだ、とか、真理などない、とか、中心を据えて物を見るのはだめだ(脱中心主義)、とか、というポストモダニズム論者がよく口にするテーマは、実は、安直な2項対立(真実と虚構、中心と周辺など)に身をおく態度なのです。 この2項対立は、まさにデリダの批判した「現前の形而上学」の賜物なのです。 さて、本筋の話に入ります。 歴史学の方法とは、というテーマです。 そもそも私が統計学→言語学→文学理論→哲学と旅をしてきたのは、これを見出す為でした。 もっと切実には、「日本書紀をどう読んだらいいのか」という問題が原点でした。 今後、少しずつ、私の考えを述べていきたいと思います。 とりあえず、今日はここまでにしておきましょうか。 では。 18-Aug-2002 今日も「文献批判とは―第3回」です。 今日は、20世紀になって発展してきた哲学・思想的状況を見てみようと思います。 なぜ、そんなことをするのか、というと、当然ですが、史料とは何か、とか、歴史認識とは・・・といった根本的な問いを考える為には、現在の思想状況を把握しておくことも重要なことです。 私も、ここ数ヶ月の間で学び取ったことを、少しずつですが、消化して吸収していきたいと思っているところです。 しばらく、お付き合いくださいませ。 さて、20世紀の思想状況を反映する言葉として、「言語論的転回」(linguistic turn)というものがあります。 伝統的な経験論、観念論の哲学体系は、観念と実在、あるいは主観と客観、もしくは現実と精神という対立関係を基にし、実在・客観・現実というものは、精神の外に確固として存在しているものと考えていました。 これに対し、フッサールの現象学に代表されるように、実在・事実・客観には、直接には達することが出来ず、精神に表象されることによってのみ近づくことが出来る、だから、われわれは事実そのものを記述しようとすることをやめ、精神の表象を記述することに努めよう、という考えが生まれました。 目の前にあるりんごは、本当に目の前に実在しているかは知らん。少なくともわかっているのは、「りんごが見えている」という精神の表象だけだ。 こういう考え方です。 このような次第で、哲学の記述の対象は、観念から(精神の表象としての)言語・意味論を中心にすえるようになっていきます。 これが、第1の意味での「言語論的転回」です。 その後、スイスのソシュールという言語学者が、画期的な言語観を打ち立てました。 ソシュール以前の言語観は「言語名称目録観」あるいは「博物館の神話」と言われています。 どのようなものかというと、「世界には先に意味があり、それを表す為のラベルとして言葉がある」という見方です。 「ワンワンと吠える人間に飼いならされた動物」という意味・概念・実物がすでにそこにあり、日本語を使う人々は、これをイヌと名づけたという見方です。 ソシュールはそうではなくて、「イヌ」という言葉を使うようになったから、「イヌ」を指し示す概念が分化して、意味が生まれるのだ、と考えました。 つまり、こういうことです。 「イヌ」と「オオカミ」の違いは、「イヌ」と「オオカミ」が生物として決定的に異なるから、別の語が割り当てられたのではなく、「イヌ」「オオカミ」という言葉の区別があるから、「イヌ」と「オオカミ」という概念は区別されるのだ、と。 このことによって、言語学は飛躍的に発展しました。 また、この考え方は、言葉に限らず、「記号」という概念として、様々なものを考える時の概念装置として重宝するようになります。 これを「記号論」と呼びます。 ソシュールは「記号」について、構造的な理解を進めました。 まず記号(シーニュ、sign)には、記号表現(シニフィアン、signifiant、「意味するもの」)と、記号内容(シニフィエ、signifie、「意味されるもの」)とがあり、これが不可分な形で結びついたものであるとしました。 これは、言葉と実物の関係では決してなく、あくまで心的なものです。 このシーニュは、言語システムを構成する重要な要素です。 ここで重要なのですが、この言語システムは、シーニュの総和として存在するのではなく、あるシーニュと他のシーニュとの関係(差異)に基づくシステムだということです。 シーニュの単体は実体を持つものではなく、他のシーニュとの関係によってのみ定義される、と言い換えてもいいかもしれません。 このような「差異のシステム」として言語構造を形作ったのがソシュールでした。 さて、このような「差異のシステム」「関係のシステム」という捉え方は、重要なキー概念になります。 このように、物事の構造を捉えようとする試みは、主にフランスにて構造主義としてひとつの潮流を築き上げていきます。 レヴィ=ストロースは、「構造人類学」という学問を打ち立てました。これは、古代史にも関係がありますので、ご存知の方もおられるでしょう。(ちなみに、日本では小松和彦等が記号論的な民話の分析を試みています) 他にジャック・ラカンは「精神分析」で、ヤコブソンは「音韻論」の分野で構造主義を確立しました。 また、ロラン・バルトは「物語の構造分析」を行ったし、アルチュセールは「マルクス主義」において構造主義を確立しました。 それぞれ重要な人物なのですが、いずれお話したいと思います。 実は構造主義という潮流には、もうひとつの概念が内在しています。 これがポスト構造主義という概念で、構造主義の作り出す構造(静態的になりやすい)を解体し、混沌とした生成・変動の過程を見る、という考えです。 なんのこっちゃとお思いかもしれません。 私も理解した限りで説明させていただきます。 そもそもソシュールは言語研究の持つ二つの側面を提示していました。 「共時態」「通時態」と言われるもので、よく「記述的」「歴史的」と言われますが、これは大体合ってますが誤解をはらみます。 「ぱっと見」「ぱっと聞き」はそんな感じだと思ってください。 詳しく言うと、言語というのは長い時間の流れで見ると、すこしずつ変わっていきます。 ですが、わたしたちは自分の使っている言語が変化しているとは思っていません。 言語はすこしずつ、しかし常に変化します。使っている本人も気づかないうちに。 この「ある人が使っている(変化していない)言語」について研究する視点が「共時態」。 「長いスパンで変化していく言語」を研究するのが「通時態」。 ということです。 構造主義はこの「共時態」研究に対応するものです。 ポスト構造主義は「通時態」研究に対応します。「ポスト」なんていうと、構造主義の対立概念と見られがちですが、そうではなく、いわば双子なのです。 (この名称はアメリカがフランスからこの潮流を輸入した際に、アメリカに影響を与えた順で名づけられたもの、と言われています) ですから、ラカンもバルトもポスト構造主義者とも呼ばれます。 このポスト構造主義の影響を受け、デリダ・オースティン・クリステヴァ・フーコーなどは、言語の持つ「力」に目を向けます。 彼らの影響を受け、社会学などの人文系の学問で、認識論の転回が起こりました。 これが、第2の「言語論的転回」です。 「読むという行為、書くという行為は、社会的・個人的価値観から自由になれない」 「ジェンダー(社会的に構築される性、「男らしさ」「女らしさ」)をはじめとする諸概念は、言語によって形成される」 といった点に注意を払うのが、「言語派」「ポスト・モダン」といわれる人々です。 これにより、社会学をはじめとする人文系学問は、様々な認識の転換を迫られることになります。 歴史学も例外ではありません。 このような歴史学の認識論の転換を求める論者に上野千鶴子、野家啓一などがいます。 彼らについては、またお話します。 今日はここまで!! あ、「かわにしの、かわにしによる、かわにしのための用語集」(笑)を作りました。 暫定公開しておきます。よろしければ、ご覧ください。 04-Aug-2002 今日は、「文献批判とは―第2回」です。 何回まで続くかわかりません(笑)。 今回は、「歴史の史料とは」ということで、考えてみます。 ラングロア&セニョボスは、『歴史学研究入門』という本のなかで、このように言っています。 「歴史は史料で作られる。史料とは、むかしの人間が残した思想や行動の跡である。…史料がなければ歴史はない、ということである」<ラングロア&セニョボス『歴史学研究入門』> これは、近代実証主義歴史学における根本的概念といっていいでしょう。 「歴史」というのは、つまり「史料」なのです。 さて、ラングロア&セニョボスは、史料について以下のように分類しました。 (1)直接的な体験・・・今日地震がおきた、とか、昨日の天気は晴れとか。NYのテロをNYで直接見た、とか。戦争体験者の証言など。 (2)間接的な伝達・・・自分の目では見ていないけれども、何らかの形で知っている歴史上の事件。 (2.1)物理的史料・・・地震の残骸やNYテロの残骸、アフガニスタンの石仏の跡など。考古学的な発見。 (2.2)精神的史料・・・歴史書や日記、手記、碑文、手紙、外交記録、メモなど。 大方、このような分類で、たしかに、正しいでしょう。 所謂文献史学が対象とするのは、2.2の精神的史料です。 さて、これもさらに細分化することが出来ます。 (編年史、日記・・・という分類もありますが、今は、私なりの分類をして見ます) (2.2.1)「過去に起こった事実」の記述を意図しているもの。 (2.2.2)「過去に起こった事実」の記述を意図していないもの。 このような分類です。 「過去に起こった事実」というのは、読んでのとおりで、どんなに個人的なことであろうと、また、世界的なことであろうと、同様です。 つまり、日記・歴史書・新聞などの事件報道などです。 また、より厳密に考えれば、「現在の出来事」も同じであるといえます。 なぜなら、「今」という概念は、私たちの通常の意味では一定の期間をさしているかのようですが、厳密には「点」だからです。 1秒前でも一瞬でも刹那でも、過去は過去、というわけです。 また、書いた本人が体験したか否か、によって更に下位区分が出来ます。 (2.2.1.1)書き手が体験したもの (2.2.1.2)書き手は体験していないもの さて、過去に起こった事実の記述を意図していないものとは、どういうものでしょうか。 これは当然、小説や詩などの文学作品や、あるいは、論文や演説など、また、エッセイのようなものでしょう。 ほかには、命令書や立て札・荷札などもこの類のものでしょう。 しかし、論文にしてもエッセイにしても、手紙にしても、「過去の事実」を引き合いに出すことがあります。 ですから、ひとつの文書の中でも、この区分は分かれるのだと考えたほうがいいでしょう。 最初のセンテンスは2.2.1に、次のセンテンスは2.2.2に・・・といった具合に。 さて、「過去の事実を記述する意図が無い」ものは、歴史資料として価値は無いでしょうか。 そんなことはありません。 当然ながら、そこには、史料として価値のある記述が含まれています。 むしろ、「直接史料」として価値があると見ることも可能です。 (古田武彦が『万葉集』の歌に価値を見出すように) どのような部分に含まれるのかといえば、たとえば、「漱石」や「鴎外」などを読めば、すぐにわかるでしょう。 どうしたって、当時の時代背景が私たちの前に浮かんできます。 漱石にしても鴎外にしても、歴史事実の記述をする意図は無く、作品の世界を描き出しているだけなのですが、私たちは、そこに「歴史性」を見出すことが出来るのです。 私たちが「歴史」を感じるのは、どんなときでしょうか。 テレビドラマの再放送を見て、「歴史」を感じたことはありませんか。 たとえば、主人公の使っている携帯電話が異常に大きく感じたり、100円玉ひとつで缶ジュースを買っていたり、そんな些細なことでも「歴史性」は潜んでいるものです。 「黒電話」や「ガチャガチャ回すチャンネルのテレビ」や、「白黒テレビ」ならなおさらでしょう。 (いまに、「分厚いテレビ」もその仲間入り・・・でしょうかね) もうすこし、突っ込んで言うと、この文章も、おそらく何十年、何百年か後に読むと、「難解な文章」になっている可能性があります。 なぜなら、「携帯電話が異常に大きく感じ」る背景には、「2002年ごろの携帯電話はもっと小さい」という事実があることを前提とした表現だからです。 このような現象が起こるのは、先日の「モデル」が関わります。 あの図で「著者の知識」と「読者の知識」のギャップ・・・そのうちの、著者と読者の住む「時代」の違いによるギャップ・・・これが、「歴史性」をかもし出しているのです。 理論的には、ミハイル・バフチンのディアローグ(対話)主義、ジャック・デリダの差延(defferance―デリダの造語、相違する+遅延する)、ジュリア・クリステヴァの間テクスト性、ミカエル・リファテールの文体論、バーバラ・ジョンソンの批評的差異などの概念が参考になるだろうと思いますが、目下勉強中ですので、あしからず(笑)。 さて、今回は、「形而上学的」に分類を行ってみました。 しかし、実は、「歴史史料」は、もう少し、深く考えてみようと思っています。 「体験する/しない」の区分は・・・とか、「書く/読む」と「聞く/話す」とか・・・。 とりあえず、今日はここまで! 23-Jul-2002 今日は、「文献批判とは」ということで考えてみようと思います。 実は、ここのところ、「日本書紀に立ち向かうための方法」を模索していて、その中で、この設問が避けられなかった、というのが正直なところです。 まず、「文献批判」ということは、対象とするのは「文献(テキスト)」です。 「テキスト」ということは、つまり、「文字で書かれた情報」です。 すなわち、極論をすれば、「文字を媒介としたコミュニケーション」の一つだということが出来ます。 「文献」の著者は、「何か」を伝えたくて、書いたのです。読者は、その「何か」を掴もうとする存在だということが出来ます。 さて、認知心理学の知見に拠れば、「読み」も「書き」も本質的には同様の作業であり、 「こうして書き手は読み手の理解過程をシミュレートしながら文章を組み立てていく。読み手の方は書き手がどんな方法で組み立てたかを手がかりにして意味を構成しようとするのである。いわば書き手と読み手の共同作業によって意味は構成されていく。まったく同一の文章であっても読み手のいだいている知識や関心によって、異なる意味がもたらされることになる。」内田伸子「談話過程」大津由紀雄編『認知心理学3言語』所収 と、いうことができます。 少し、言い換えると、我々は、「読み」という作業においても、「書き」という作業においても、それぞれの持っている知識の影響を十分に受けながら、また、受けることを予想しながら、意味を構成しているということが言えます。 ところが、たとえば「読み手」によって、知識に違いがあれば、その結果、同じ文章でも構成される意味が異なる、ということはあり得ることです。 では、これを「歴史学の史料」に当てはめて見ましょう。 たとえば、陳寿(三世紀中国)の『三国志』を考えてみればよいと思います。 当然ながら、陳寿は、「読み手」の知識を予想しながら、『三国志』を書きます。 ですが、予想する「読み手」というのは、あくまで同時代の同じ文化の中にある人々でしょう。 これは、想像のつく事だと思います。いくらなんでも「二十一世紀の日本人」を想定して書いたはずはありません。 また、「読み手」である我々は、当然「三世紀の中国人」とまったく同じ知識を有しているわけではありません。 ある部分では、「三世紀の中国人」の知らない知識を有していますし、「三世紀の中国人」の常識的な知識を知らないこともあります。 「書き手」の想定したものと「読み手」のそれでは、ギャップがあるわけです。 これを図示すると、このようになります。 図参照 さて、我々は今、何を知ろうとしているのかといえば、究極的には、「歴史」が知りたいわけです。 従って、当然ながら、まず「テキスト→読者」間において、「知識」によって付加されたり、除去されたりする情報をなくす必要があります。 つまり、「テキスト」には、何が書かれているのか、ということを忠実に読み取らねばならないのです。 このための方法は、実は、いくつかすでに存在しています。 たとえば、「計量的(今まで「統計的」と言ってきましたが、こちらのほうがよりよい表現かもしれません)」な手法などです。 また、「構造主義的な文学理論」も参考になるでしょう(直接的にはロラン・バルトの「物語の構造分析」やミハエル・リファテールの「文体論」など。またクリステヴァの「間テキスト性」などの概念も…)。 他にも言語学的な諸理論が有用なのかもしれません。 その後、「著者→テキスト」間で、「知識」によって、付加・削除される情報をなくす努力をせねばなりません。 こちらについては、「書く」という作業について、より認識を深めた上で、考えていかなければならないでしょう。 これを詰めることによって、より良い方法論が考え出せるのだろうという気がしています。 ま、のんびりやりやしょう(笑)。 29-Jun-2002 最近、「統計学」「認知心理学」「言語学」などに少し寄り道してました。 そういった中で、少し考えたことを、お話します。 1.文献(テキスト)に対するときの標本・母集団の関係について 文献研究に統計学を適用するということは、文献史料の一部を標本として扱う、ということに他なりません。 一般的な社会統計調査や実験結果とは、少し違います。 その前に、「標本」と「母集団」について、少し説明しておきましょう。 「統計」という言葉のイメージと馴染みやすい例を挙げましょう。 たとえば、「日本人全体の何らかのデータ」を調査したいと思ったとします。 「収入はどのくらいか」とか「家族は何人」とか「恋愛観」や「人生観」でもいいと思います。 本当に「正確な」データを収集するとすれば、当然ながら、「日本人」全員を調査する必要があります。 ですが、実際問題として、それは不可能ですので、「無作為」にいくつかのデータを抽出して(百人とか千人とか)、それによって、「日本人の収入」だとか、「日本人の家族構成」だとかを調べようとします。 この場合、「日本人」全体が「母集団」で、「抽出された百人とか千人」が「標本」です。 ・・・で、この「標本」を基にして、平均(平均とは、データ全体の代表となる値(代表値)のひとつです。他には中央値-ミディアンや最頻値-モードなど)を算出したり、標準偏差や分散(分散は、データの「散らばり具合」を表す値(散布度)のひとつです。他には「範囲」「四分位数」「散らばり指数」など)を算出したり して、データ全体がどのようになっているのか、調べたり、同じようにして手に入れたたとえば米国や韓国のデータと比較したりするわけです。 もちろん、本当に調べたいデータの一部分を取ってきているわけですから、本当に調べたい「日本人」全体とは、厳密には一緒ではありません。 ですが、ちゃんと抽出さえ行えば、だいたい一致するといって、間違いではありません。 一般的には標本の数を増やせば、かなり一致すると見て差し支えは無いといわれています。 さて、では、今度は古田氏が行った、「魏志倭人伝の「壹」の数の調査」を見て見ましょう。 この場合、「母集団」は何でしょうか。 古田氏は、「母集団」は、「魏志倭人伝全体に現れた全ての「壹」」だといいます。 だから、これは全数調査だ、と。 誰だったか忘れましたが、これに対し、これは「標本」だと、批判した論者がいました。 歴史上存在した全ての版本の「壹」が母集団だ、というわけです。 要は、母集団の設定の仕方が、非常に難しいのです。 たとえば、「隋書の「達」」の用例調査を行った場合、その「母集団」は何でしょうか。 これは、「全数調査」にあたるでしょうか。 用例調査を行う意味を考えると、つまり、隋書執筆当時に使われていた「達」の用法を知りたいわけです。 さらに、言葉の使い方の「個人差」や、文章の種類(歴史書とか詩とか)による用法の違いを考慮すると、厳密には、隋書の執筆者の「達」の用法を知りたいのです。 そうすると、「母集団」は、「隋書執筆者が隋書(のような書物)を書くときに用いた全ての達」と見なすことも出来ます。 これは、「隋書」に実際に現れた「達」の数と一致する、という見方も出来るのかもしれません。 そのように見なすとすれば、これは「全数調査」だと言い得るのかも知れません。 ですが、言語学では、「隋書執筆者が隋書(のような書物)を書くときに用いた(用いるであろう)全ての達」を母集団と見るようです。 そうすると、「隋書」に実際に現れた「達」は「標本」だ、ということになります。 ですが、この場合、注意すべきことは、この「標本」の抽出は、「無作為」ではない、ということです。 このような点は、非常に微妙な問題をはらみます。 十分注意が必要です。 2.切断の効果 たとえば、こういう調査結果があります。 大学入試時の成績と、大学入学後の成績には相関関係は無い、だから、入試は有効ではない、と。 これは正しい議論でしょうか。 実は、そうではありません。 「大学入学後の成績」は、実際のところ、「大学入試時の成績」が良かった人だけの集団の成績です。 もしも、「大学に不合格の人が、同じ教育を受けた場合の成績」をも含めれば、やっぱり相関は認められると予想できます。 「大学入学後の成績」は、決して、「大学入試時の成績」と同じ母集団からの値では無いと同時に、本来の母集団のうちの一部で切断して、それ以上や以下のものだけの集団で、統計を行うと、正しい結果が得られないことがあります。 それを、統計学的には「切断の効果」と言ったりしますが、この点にも注意が必要です。 たとえば、調べたわけではありませんが、『漢書』の中で、皇帝以外に没年齢が記されている場合、これを用いて、「漢代の平均寿命がわかる」でしょうか。 多分、無理です。 なぜなら、『漢書』という歴史書に「没年齢」が載るとすれば、全員に記載があるわけではなく、「特別長寿だから」とか「あまりに若くして亡くなったから」とかという理由があるだろうと考えられます。 従って、ここでも、「切断の効果」を気にする必要があるのです。 こういう間違いは、しやすいものです。 これも十分注意が必要でしょう。 3.統計学の方法 さて、そうすると、文献資料というのは、統計にとって、かなり制限された状況だということがわかります。 とくに、標本抽出の作業が、容易ではない。 「母集団」の設定の仕方を慎重に行い、「切断の効果」を十分注意すると、標本抽出は、非常に限られたものとなります。 おそらく、そうなると、「正規分布」を必要とする推定・検定の方法(パラメトリック法といわれる)は、難しいのかもしれません。 ですから、「ノンパラメトリック法」が重視されるべきなのかもしれません。 回帰分析や多変量解析も、微妙な方法です。 なぜなら、それは、「多数の標本抽出によって正規分布が十分認められる」場合に、使いやすい方法だからです(たしか)。 ふむ。 今のところ、こんな感じに考えています。 また、そのうち、まとまったお話が出来るかもしれません。 今日のところはこの辺で。 1-Jun-2002 今日は、今後の研究のひとつの指針について、書きたいと思います。 ・・・と、言うと、何か大事のようですが、まぁ、今もっている構想というか、こんなことをやってみたらどうだろうという、そういうお話です。 時間が掛かりそうなことなので、予め「ぶっちゃけ」てしまおう、というわけです。 さて、先日もお話したとおり、「九州王朝説」を抜きにして記紀を批判する、というテーマですが、それだけでは、具体的な成果は恐らく得られないでしょう。 なぜなら、すでに、「九州王朝説抜き」という研究は多数あります。そこには、「天皇家一元」と古田氏が非難する立場からの解釈もありましたが、そうでもないものも、たくさんあります。 とはいえ、そういう中へ、なんの「方位磁針」も持たずに踏み込めば、迷子になること間違いなしです。 森博達氏は、『日本書紀の謎を解く』の中で、書紀を「森」に喩えていましたが、まさに、そのとおりです。 森氏の場合、方位磁針となったのは、音韻論でした。 これと、書紀の区分論とを組み合わせ、「森」を歩く。 これは大事なことだと思います。 付け加えれば、古田氏はまさに、「九州王朝」を方位磁針にして、「森」を歩いたのでした。 森氏の研究には、なぜ価値があるのか。それは、出発点が徹底した「音韻研究」だからです。 記紀歌謡の仮名を抜き出し、それを分類するという、一種地味な作業を基盤にしたものであるから、方法として非常に安定しています。 小川清彦氏の暦日研究も、同じ意味で、重要なのです。 「古代史ブーム」と言われる中で、よく、いきなり大きな「世界観」の構築をしてしまう論者がいます。 アマチュア論者の陥りやすい困った点なのですが、実は、それが「古代史の魅力」ともされている。 でも、本当に「実証的」で「客観的」な研究成果というのは、なかなか「スケールの大きな結論」にいたることは出来ません。 「ささやかな発見」に見えるものです。 西さんが「文献史学は、絵筆で絵を描くようなもので、考古学はドット(点)で絵を描くようなもの」というようなことをおっしゃっていましたが、本当は、文献史学も「ドットで」描かなければいけないのです。 少なくとも、そういう研究は大事だと思います。 さて、私は、かつて「心理学」をかじったことがあります。 本当に「ちょっとかじった」程度ですが。 その中で、「統計学」というものを学びました。 実は、「数理統計学」という学問の、かなりの部分で、「心理学」が関与しています。「心理学の要請にこたえる形で、心理学者の手によって」統計学が進歩した面があります。 心理学実験の効果の検定や、標本調査・因子分析などです。 そういうわけですから、「心理学」を勉強する際には「統計学」は必須項目となります。 「統計学」を「歴史学」に利用した例としては、古代史では安本美典氏が著名です。 (実は、彼は心理学者でもあります。学生時代の統計の教科書に、彼の名前があったときには、ビックリしました(笑)。 安本美典・本田正久『因子分析法』は、その名のとおり、因子分析の入門書として良書です) 安本氏は、統計学を駆使して、「古代の天皇の在位年数は十年程度だ」としました。 私はその結論には疑問を持っていますが、彼の方法自体には、問題は無いと思っています。 彼の方法について、多くの反論がありましたが、私の目から見ても、「統計学を知らない」批判もあり、また、安本氏の結論自体にも問題があり、このことで「数理統計学を古代史に適用する」気運が盛り下がってしまうとすれば、残念です。 私は、統計学上の方法を、記紀批判に応用できないか、と考えています。 もちろん、そのような試みは決して少なくは無かった。 少なくは無かったけれども、注目はされなかった。 むしろ、「あやしい」と見られがちだった。 それは、確固とした、「方法論」として確立できなかったため、と考えます。 歴史学、特に文献研究に「統計学」を応用することは、世論調査や社会調査といった所謂「統計」とも、心理学における「統計学」とも、同じではありません。 それなりに、「歴史学」「文献史学」に適合する形の「統計理論」の確立を目指さなくてはいけないでしょう。 「借り物の統計学」のまま、文献にぶつかっても、「戦う」ことは出来ないでしょう。 ・・・大きなテーマですね。 だから、予め「ぶっちゃけて」しまおうと思ったわけです。 こっそり研究して、一気に発表してみんなを驚かす・・・なーんてテーマじゃないですもの。 というわけで、まずは、「統計学マスター」を目指さなくてはいけないことになりました(笑)。 これとは別に、世界的な「統計学の歴史学への適用」の実際を、収集しなくてはなりませんね。 情報をお持ちの方がおられましたら、よろしくお願いします。 21-May-2002 今日は、「九州王朝説と記紀」について、です。 古田氏が、「九州王朝説」という概念を提出したのは、古田氏の第二著『失われた九州王朝』でした。 これは、第一著『「邪馬台国」はなかった』を受けて、魏志倭人伝の分析で得た、その到達地点を基に他の「中国側史料の分析」によってたどり着いた概念だと思っています。 ここで貫かれていたのは、「中国側同時代文献から後代文献である記紀を見る」という立場でした。 思えば、松下見林に始まり、それまでの歴史家たちは、「記紀を基に中国側文献を見る」という立場でした。 だからこそ、多くの矛盾を、中国側の誤りとして処理しえたのでした。 ところが、津田左右吉氏以降、記紀をも疑うのが主流となった。 しかし、それでも記紀は主要文献であり続けたのです。 記紀を一切無視し、中国側文献だけに拠ったとき、どのような結論が得られるのか、それが「九州王朝説」だと思っています。 これが、「九州王朝説」論者の立つべき基本認識だと思っています。 もちろん、『失われた九州王朝』という本の中では、記紀についても触れられています。 ですが、古田氏の「九州王朝説」の骨組みは、あくまで、前半の「連鎖の論理」までで、組みあがっているのです。 私はそのように理解しています。 だから、私は古田氏の「九州王朝説」を要約して「九州王朝とは」という文章を書きましたが、あのような構成となっているのです。 それまでの諸説の矛盾を洗い出し、記紀と中国文献を「切り離す」ときにだけ、記紀は登場するのです。 これが基本認識だと思っています。 決して「記紀の解釈」から生まれた説ではない、ということです。 さて、古田氏は記紀に対しても多くの見解を提示しています。 第三著『盗まれた神話』はその基礎となるものです。 ですが、古田氏は『盗まれた神話』の時点では、もうすでに「九州王朝説」の立場に、どっしりと腰を落ち着けているのです。 基本的には「九州王朝説の立場から、記紀はこのように解釈しうる」。 それを提示したものです。 決して、記紀の史料批判の中から「九州王朝説」という帰結を得たのではない。 『盗まれた神話』の構成からも、古田氏の立場は明らかです。 「第一章 謎にみちた二書」で記紀の持つ矛盾点・疑問点を提示し、「第二章 いわゆる戦後史学への批判」でそれまでの説に疑問を投げかけ、「第三章 『記・紀』に見る九州王朝」で、九州王朝説からの解釈を図る。 こういう構成です。 「盗用説」という、あるいは「古田氏の説の代名詞」とも、見なされる説は、あくまで、「九州王朝説」を前提にした議論なのです。 もちろん、私が言うまでも無く、古田氏にとっても、これは当然のことです。 論理的には、このような「構成」を持つのが「九州王朝説」です。 ですから、記紀に対するときの古田氏は、時に主観主義に走りやすい、という危険があります。 特に「盗用説」は、九州王朝側の史書が残されていない以上、事実上、フリーハンドです。 証明不可能、だが事実。 これは、「造作説」が陥った甘いワナでした。 また、「盗用説」による解釈を進めていって、それによって「だから九州王朝説が正しいんだ」という論法は、「盗用説」の論理的基盤はあくまで「九州王朝説」であるという根本の関係を忘れたものといえます。 むしろ、「今まで謎とされてきたところに、九州王朝という視点を導入してみたら、どのような理解が可能か」という立場であるべきだと、私は思います。 少なくとも、古田氏はそういう立場で『盗まれた神話』を書いたはずです。 古田氏は、基本的には、この作業を重視してきたのでした。 「一つの仮説を立て、それが多くの現象(歴史学では史料事実や遺物の事実)をいかに過不足なく説明できるか―その検証こそ学問だからである」という『失われた九州王朝』の「結び」の言葉を、まさに、実践してきた・・・そういうことです。 もっとも、最近の『壬申大乱』あたりでは、もはやすっかり、「九州王朝説」に腰を落ち着けすぎている感がありますが・・・。 このような「九州王朝説と記紀」の関係ですが、私は、もう一度、記紀を「九州王朝説抜き」で捉えなおしてみるのも、ひとつの方法では無いかと思っています。 古田氏の「九州王朝説」の、もうひとつの功績として、「天皇家以外に日本列島を統一し、たとえば、天皇家を支配した勢力もありうる」という、言葉で書くと、あまりに当たり前ですが、その可能性を提示した点があると思います。 この点を重視して、あくまで記紀を中心に、「記紀だけから言えること」を積み重ねる必要もあると思うのです。 「九州王朝説から見た記紀への解釈」と「記紀自身の史料批判」とは、別個に扱われるべきだ、ということです。 まぁ、こうやって「書いてみる」と、何てことは無い話ですね(笑)。 最近、改めてそのように思った・・・ということです。 09-May-2002 最近、ほうぼうで、森博達氏『古代音韻と日本書紀の成立』『日本書紀の謎を解く』、小川清彦氏「日本書紀の暦日に就て」(内田正男『日本暦日原典』所収)を紹介しています。 特に、意図があってのことではなく、まぁ、たまたま、なのですが。 私は、両研究については、5~6年ほど前、古代史に興味を持ち始め、調べ始めた頃に、偶然大学(当時、学生でした)の図書館で見つけ、目を輝かせた記憶があります。 そんなことはさておき、最近になって、ようやく、というか、この両研究が、「九州王朝説」に与える影響、というのを考えるようになって来ました。 古田氏は、わりと、冷めた、というか、あまり関心を払った様子がないのですが、私は、この両説が「九州王朝説」に与える影響は、多大だ、ということに今更ながら気づいてきました。 私は始め、 「これは画期的な研究だ。でも、九州王朝説を抜きにして、研究を続けたら、うまくいかないかもしれない。 どこかで、九州王朝説の観点からの解釈を導入せざるを得ないのではないか」 と思っていました。 ちょうど、古田氏も似たような見解だったようです。 最近は、むしろ逆に、 「九州王朝説は、森氏や小川氏の研究を抜きにしては、限界がある」 と思い始めています。 「盗用説」です。 もしも、両研究が示すごとく、雄略紀以前が、八世紀にほど近い時代に書き下ろされたものであるなら、 「九州王朝史書を近畿天皇家が盗用した」 という仮説は、成り立たないのです。 もしくは、非常に成り立ちにくい。 また、以前、川村明氏との間で、「推古紀の十二年のずれ」問題を論じ合いましたが、私は、今また、揺れています。 川村氏はくしくも、森氏の所説を引いておられましたが(川村氏の論点は「推古紀は、雄略紀以前と性質が似ており(β群)、倭文臭の濃い漢文である。だから、「から」と読ませるつもりで「(本来の国号は隋だが)唐」と記したのだ」というものでした)、私は、別の論点から、「十二年のずれ」にとって不利な、状況を見出すこととなりました。 それは、「推古紀は正しく元嘉暦である」ということです。 暦は「十二年」ずれていないのです。 これも、ひとつの史料事実として(以前唱えた自説に大変不利ですが)、提示させていただこうと思います。 ただ、まだ、いろいろな可能性が考えられる段階です。 たとえば、 ・推古紀の原史料は、干支で年月を示しただけのもので、あとから、「元嘉暦」で正しく暦が割り振られた。 →だとすると、雄略紀以降も、後のいずれかの段階で、暦が割り当てられたと見ざるを得ません。 →九州王朝側史料は元嘉暦、近畿天皇家側は干支ということも、あるのかもしれません。 →推古朝の金石文では、干支だけの表示が、一般的です。(法皇年号もありますが) などです。 こういった点は、「ずれ」以前に、「日本書紀の成立過程」をより深く詳細に、明らかにしなければ、語れないだろうと、思うようになってきました。 もちろん、「景行九州遠征」などに関しても、見直す必要があるのかもしれません。 私が提示した「欽明紀」も、再検討を要します。 ただ、私は、「盗用説はもうだめだ」と思っているのではないのです。 まだそこまでは踏み込んでいません。 なぜなら、森氏の研究の基礎は「万葉仮名」であり、小川氏の研究は「暦日」です。 そして、あくまで「日本書紀編纂過程」に対する、見解であるということが重要です。 「ネタ本としての九州王朝史書の盗用」という可能性もまた、十分にあります。 これはむしろ当然なのかもしれません。 古くから、「日本書紀は芸文類聚などによる修飾が多い」とされてきたわけです。 古田氏は近年、「盗用=文面どおり、九州王朝史料」と見なす向きがありますが、これは誤りだろうと思います。 森氏の研究に関しても、やはり「α群は中国人の手による」と見るにしても、そこに九州王朝の関与は考えられないだろうか、という観点は必要だという気がしています。 これは、大きなテーマです。 今まで以上に、慎重にひとつひとつ吟味していきたいと思います。 03-May-2002 今日は、「知」の続報です。 といっても、まだ、問題を整理しているだけですが。 まず、「知」の用例ですが、漢字としての「知」の意味としては、大方、以下のようです。 【知】 しる。 言葉として口から発し得る心内の認識。 知、詞也。从口矢。説文 心える。みとめる。認知する。 さとる。感づく。覚識する。 見わける。弁別する。 おぼえる。記憶する。 きく。聞きしる。 見る。見てしる。 したしむ。まじはる。 あらはれる。 つかさどる。治める。とりしまる。 知、主也。<字彙> 乾、知大始。<易経、繁辞上> 子産、其将知政矣。<左氏春秋、襄公、二十六年>知、国政<注> 三年而知鄭国之政也。<呂覧、長見>知、猶為也。<注> 左伝、襄二十六年、公孫揮曰、子産、其将知政矣。魏了翁、読書雑鈔、後世官制上知字、如知府知県、始此。<通俗編、政治、知> しらす。しらしめる。告げる。 しらせ。しらせること。 しること。 しる所の多いこと。 ちゑ。 しりあひ。交友。 まじはり。交游。 もてなし。あしらひ。 欲。むさぼる心。 たぐひ。たぐふ。あひかた。 病いえる。 知事。 諸橋大漢和辞典 さて、「つかさどる」の用例ですが、少し吟味したいと思います。 左氏春秋の例です。 ここに登場する「子産」という人物、彼は、鄭の宰相(大夫?卿?うろ覚えです。ごめんなさい)です。 ここのお話は、鄭伯が、(宰相として国政を預かる前の)子産らに、領土を与えたときに、子産は、礼儀を重んじてこれを辞退しました。 結局は鄭伯に説得され、受けるのですが、このやりとりを聞いていた公孫揮という人物が、彼を評して言った言葉だとされています。 「子産は、きっと政治をつかさどる人物になるだろう」ということです。 ですから、これは必ずしも「王として支配する」の用例では無いと思います。 ちょうど、「聴」にもおなじような用法があります(聴政)。 これも、「摂政」などと同じように、「王に代わって政務を担当する」という意味で「つかさどる」「治める」の意味があるのだと見るべきです。 (もっとも、鄭は伯爵の国ですので、「伯」に代わって・・・ということですが) 通俗編に載せる、「魏了翁」の説明が、参考になるでしょう。 「知初国」も、漢字としての用例は、この「つかさどる」の用例にあたるでしょう。 次に、「古語」としての意味を見てみます。 【しる】(知・領) 対象を支配下のものにする。 土地や国を治める。 那賀美古夜、都毘邇斯良牟登、加理波古牟良斯。 (汝が御子や、終にしらむと、雁は卵生(む)らし)<仁徳記、歌謡七四> 土地を領有する。 葛城乃、高間草野、早知而、標指益乎、今悔拭。 (葛城の、高間の草野、はや知りて、標(しめ)指さましを、今ぞ悔しき)<万葉集、一三三七> (他に、伊勢物語第一段の例もあります) 対象を意識の中のものにする。 知覚する。 阿摩[イ襄]霧、箇留[小宛]等売、異[口多]儺介麼、臂等資利奴陪瀰、幡舎能夜摩能、波刀能、資[口多]儺企邇奈勾。 (天飛(あまだ)む、軽嬢子(かるをとめ)、甚(いた)泣かば、人知りぬべみ、幡舎の山の、鳩の、下泣きに泣く)<允恭紀、二十四年、歌謡七一> 認識する。 烏麼野始[イ爾]、倭例烏比岐例底、制始比騰能、於謀提母始羅孺、伊幣母始羅孺母。 (小林に、我を引入て、せし人の、面も知らず、家も知らずも)<皇極紀、三年、歌謡一一一> さとる。 白珠者、人爾不所知、不知友縦、雖不知、吾之知有者、不知友任意。 (白珠は、人に知らえず、知らずともよし、知らずとも、吾し知れらば、知らずともよし)<万葉集、一〇一八> 角川古語大辞典 さて、1の用法のうち、ロの用法は、漢字としての「知」に近いものがあります。 「王の支配」ではないという点です。 問題は、仁徳記の用法です。 同じような用例として、以下のようなものもあります。 不念乎、思常云者、天地之、神祇毛知寒、邑礼左変。 (念はずを、思ふと云ふは、天地の、神祇も知らさむ、邑礼左変(訓未詳))万葉集、六五五 今所知、久邇乃京爾、妹二不相、久成、行而早見奈。 (今知らす、久邇の京に、妹に相はず、久しくなりぬ、行きて早見な)万葉集、七六八 「しらす」と尊敬の接尾語がついていますが、同じです。 そして、古事記の「日継を知る」という用法。 これらがポイントになるだろうと思っています。 んー、やや中途半端ですが・・・今のところ、こんな感じに考えています。 (Vtecさん(の依拠した辞書)では、「占有・領有」が原義で、そこから「知識として得る」の用法に転じた、とのことでしたが、上記のような史料状況からいうと、なんともいえない気がします。 「知識として得る」の用法のほうが新しい・・・という史料状況ではありません) 28-Apr-2002 先日、Satoshiさんから、二編の論文を送っていただきました。 1つは古賀達也「盗まれた降臨神話」(古田史学会報No.48)。 もう1つは伊東義彰「『神武が来た道』について」(古田史学会報No.49)。 まず、古賀氏の論文では、古事記の「神武東征」説話のうち、熊野以降は、九州王朝説話の盗用であるとします。 以下の点を根拠に挙げています。 1)神武の呼び名 神武記では、神武は3通りの呼び名で描かれています。 「神倭伊波礼毘古命」「天神御子」「天皇」です。 このうち、「神倭伊波礼毘古」は、東征説話のうち、熊野以前に現れます。 ここまでの部分は古田武彦氏が、論じたとおり、当時の説話としてリアリティを持つと考えられています。 (『盗まれた神話』他参照) 「天皇」は橿原宮での「即位」以降の説話に現れます。 ですが、「天神御子」が突如として現ることに、古賀氏は疑問を持ったのでした。 そこで、「天神御子」が他にどのように使われているか検証すると、「邇邇芸」(と天忍穂耳)の「天孫降臨」説話でだけ使われているとのことでした。 したがって、神武記の「天神御子」も「邇邇芸」のことである、と。 簡単に言うと、こういうことです。 2)「吉野河の河尻」 次に、古賀氏は、熊野以降の「天神御子」説話部分は、前後の「神倭伊波礼毘古」説話、「天皇」説話にくらべて、問題が多いといいます。 そのひとつが、「吉野河の河尻」問題です。 まぁ、本居宣長以来、ずっと指摘されてきたことではあります。 東征のルートからいえば、吉野川の上流に出るはずなのに、「河尻(=下流)」はおかしい。 というわけです。 ここで、古田氏の『壬申大乱』の説(吉野=佐賀県)を取り上げて、ここも・・・と推測しています。 また、熊野で「天照大神」や「健御雷神」という「天孫降臨当時の人物(神)」が登場することから、これも「天孫降臨説話盗用」の痕跡とみなされます。 さて、私の疑問を書きたいと思います。 1)について。 私は、これは、本当にそうかなあというのが、率直な感想です。 なぜなら、「天神御子」の古事記自体での用例は決して多くないからです。 そこには、2群あります。 1)神代記で「邇邇芸」を指す用例 2)神武記で「神武」を指す用例 このふたつです。 前者と後者の関係は、厳密には不明です。 いくらでも、可能性があります。 たとえば、 ・神武は自らを「邇邇芸」の再来と位置づけ、自称した・・・。 ・神武東征の結果、近畿天皇家は、神武を「邇邇芸」と同等に位置づけ、「邇邇芸」と同じ呼称を与えて伝承した。 などです。 古賀氏の挙げた「盗用説」もそのひとつの可能性に過ぎません。 これは古賀氏に限ったことではありませんが、可能性をひとつ提示して、それで、論証が終わった、というのは、良くない傾向です。 (それにもまして、「解釈はいくらでも可能だから・・・」と、反論をかわすのは最悪ですね) 古賀氏にとって、必要なのは、他の可能性に対する徹底的な検証です。 私が、今思いついた程度の可能性に対しての検証は、最低水準として必要なのでは無いか、と思います。 (私は今そんなに「奇想天外」な可能性を考えたつもりはありません) 要するに古賀氏の挙げた論点から、本当に、「盗用説」しかありえないのか、というと、はなはだ疑問なのです。 もう少し、吟味が必要なのだという気がします。 ・・・と、これを踏まえて、伊東論文に目を向けると、早速「吉野河の河尻」に対する、再吟味が提示されています。 私も、「河尻」について少し考えて見ますと、まず、「河尻」ってどういう意味だ、という気がします。 確かに、なんとなく「下流」のような気もしますが、「河口」といった場合もやっぱり「下流」です。 日中の感覚の違いなのかもしれませんが。 伊東氏が模索していたように、吉野川上流域に「河尻」と呼ばれる地域があってもおかしくは無い、という気がします。 あと、Satoshiさんからは、和田高明「大和朝廷の成立」(『古代に真実を求めて』第四集)もご紹介いただきましたが、後日、改めて論じさせていただくことにします。 (今のところ、読む限り、「諡号」の盗用ではなくて、存在そのものの盗用説のようです) 2-Apr-2002 今回は、「ハツクニシラス」番外編です。 実は、「ハツクニシラス考」を書き上げる際に、気がついていたことではありますが、ひとつ、触れていない問題があります。 それは、「しる(しらす)」の語義です。 現在、われわれは、「しる」という言葉を、「統治する」の意味には使っていません。 では、古代では、どうだったのでしょうか。 実は、それが、あまり「明らか」とは言えないようなのです。 調べてみたのですが、ハッキリ明記されているもの(「しる」は「統治の意味」と)は、ありませんでした。 あるとしても、その出典は記紀であって、「同語反復」となりますから、今はおいておきます。 「所知初国」を「はつくにしらす」と言われても、ねぇ。 「知」という漢語には「統治」の意味はないわけです。 じゃぁ、「しる」という倭語にはあるのか、というと、わからないのです。 たとえば、「治天下」を「あめのしたしらしめしき」と読むことが多いのですが、 じゃぁ、「治」を「しる」と読むのか?というと、その出典は必ずしも明らかではない。 むしろ、「ハツクニシラス」や「所知日継」が出典であるのかもしれません。 古事記です。 記紀前後の言葉にはこういった問題は常につきまとっていて、「しる」だけの問題ではないと思いますが、 それにしても「所知初国」の意味を「はつくにを統治した」と捉えて、本当に良いのだろうか、という懸念があります。 ちなみに、ちょっとこわいような話ですが、「知」の意味には、こんなのがあります。 <知> ある領地を任され支配する。・・・「知行」「知事」 むむむ。 18-Mar-2002 久しぶりの「独り言」です。 今回も、時事ネタです。 最近、時事ネタ比率が大きくなってるような…。 それはさておき、例の鈴木宗男議員の関係で、話題に上ることの多い、「北方領土」問題について、簡単に考えてみます。 「北方領土」とは、基本的には国後・色丹・択捉・歯舞の四島を指しており、日本が領有を主張するものの、ロシアとの間で主張が全く食い違っている。 そういう領域です。 で、所謂「領土問題」に当るわけですが、日本は「武力」を持たないわけですから、領土問題といってもそれほど緊迫した情勢があるわけではありません。 血生臭い解決ではなく、友好的な解決を迎えることが出来れば、それは日本としても、誇るべきことでしょう。 そのために、宗男さんも「努力」なさったのだろう、と思います。 まぁ、宗男さんのやってきたことは、言ってみれば、自民党政治の「王道」なわけで、それを変えなきゃいけない、という気がします。 それはさておき、「北方領土」問題の発端は、1951(昭和26)年のサンフランシスコ平和条約でした。 このとき、日本は「千島列島」を放棄しました。 この千島列島は、1875(明治8)年の樺太・千島交換条約によって、ロシアとの間で交換されたものでした。 ですが、ここで「千島列島」といっている中には、例の四島は含まれていません。 四島はそれ以前から日本の領土、というのが日本の主張です。 だから、サンフランシスコでも放棄していないのだ、と。 樺太と言えば、間宮林蔵が有名ですが、四島には最上徳内という人物が訪れていて、江戸時代から日本の周知の土地だったわけです。 樺太は1854(安政元)年の日露和新条約で、日露の国境が確定した際、日露雑居地とされましたが、四島はそうではありませんでした(というのが日本の主張です)。 で、だから、本来は日本の土地だ、という主張は、よくわかります。 でも、ね。 よくよく考えてみれば、「本来」ってどういうことでしょう。 所謂「日本民族(倭人)」は、本来、樺太や四島はおろか、北海道にさえも住んではいなかった。 住んでいたのはアイヌです。 そう言えば、宗男さんが「北方領土返還は日本民族の悲願」と言っていたのを聞いて、少し、寒気がしました。 彼の言う「日本民族」って、何でしょう。 アイヌをも含めてでしょうか、それともアイヌは含まないのでしょうか。 (「日本は単一民族国家だ」とつい言ってしまいますが、これはちょっと気をつけるべきだと思います) 含めるなら、それはそれで、アイヌの方はどう思うのでしょうね。 それはわかりませんが、少なくとも「倭人」は「本来の住人ではない」ということです。 ロシア人と、本質的には一緒です。 さて、北方四島には、既に多くのロシア人の方々が、長い間生活しています。 「北方領土返還」と言っても、彼等を追い出すことが、本当に正しいのか、という視点もあります。 彼等の中には、既にあの土地で生まれ育ち、唯一の故郷だという人もいるはずです。 一方には、あの土地を故郷としている日本人もいる。 難しいですね。 10-Jan-2002 2002年の1回目は、「理屈」のお話です。 抽象論になるので、気軽に読んでください。 近年(といっても、10年以上前から、そうだと思いますが)、「地方史」というのが盛んになっていて、古代史の分野でも、地方や地域密着型の研究が盛んに行われています。 これはこれとして、非常に重要なことだと思います。 ですが、こと「古代史」に関しては、それ以前に、「地方」とか「中央」とか「国家」とか「地域」とか「王朝」とか、そういう概念に対して考えておかなければならない。 なぜなら、それらが形成されていく時期を対象にしているからです。 勿論、そのようなことは、早くから考慮されていて、有名な「教科書用語」-「ムラからクニ」などは、その点に対する一般的な理解と言うことが出来るのかもしれません。 少しだけ、研究史を紐解いて見ましょう。 (私もただいま「勉強中」の身で、或は誤解があるかもしれませんし、抜け漏れもあるかもしれません。ご容赦願います) まず、近代の日本古代史において、「国家形成」を論じる上で重要な役割を担ったのは、「唯物史観」でした。 マルクス・エンゲルス(と対にして言いますが、「国家形成」に関してはエンゲルス個人の業績らしいですね)の有名な理論です。 階級闘争と革命を経て、国家が発展していくと言う、アレです。 古代史は、まさにその「国家形成」の段階として、注目されていました。 先の「ムラからクニ」というのは、階級の発生と「国家形成」を弥生時代と見なした上でのものです。 稲作や金属器の普及がその要因であると教科書で教わった記憶があります。 これが戦後の古代史の通説でした。 ただ、現在では、律令国家として成立した八世紀をもって、「(統一)国家」の成立と見なすようになっています。 「大化改新」や「近江令」などをその前史として見るのです。 また、考古学の目覚しい成果により、縄文時代に対する見方が一変したことも重要です。 以前のように「平和で争いの無い狩猟生活」を想定することは難しくなりました。 ですが、このように、「発展の段階」によって「国家」かどうかを定めることには、無理があると思います。 極論をすると、「独自の力で自国を防衛できる」段階を「国家」の条件にいれたら、現在の日本はどうなの?という話です。 また、いわゆる「国家」以前の共同体の間や内部では、「紛争」「講和」「友好」「支配」「従属」「交渉」「交易」といった関係はなかったのかと問われれば、そのようには考えられないでしょう。 我々にとって重要なのは、むしろそういう「関係」や「しくみ」ではないでしょうか。 さて、「地域国家」という言葉があります。 これは、門脇貞二氏がよく使っている言葉ですが、いわゆる「統一国家」に対する概念だと理解しています。 門脇氏は早くから出雲や吉備などにおいて、「国家」と呼び得る、自立した政権が存在したのだと主張していました。 その出雲や吉備などが「地域国家」というわけです。 (個々の議論に関しては、疑問もありますが、ここでは省略します) 門脇氏は、「国家」に関して次のような基準を設けています。 1)王権とその支配機構を持っていること 2)独自の支配領域を持っていること 3)それぞれの支配理念あるいは独自の文化を持っていること これを満たせば、「国家」と呼んでもいいのではないか、ということです。 また、出雲にしても吉備にしても大和にしても筑紫にしても、各々、対立ばかりしていたわけではなくて、連携や交渉があったと考えなければならないことなども指摘しています。 (最近の著書では『古代日本の「地域王国」と「ヤマト王国」(上・下)』が参考になります) また、古田武彦氏は、「王朝」について何度か定義を試みています。 (これは以前の「独り言」-原田実氏の『幻想の多元的古代』のお話で取り上げました) <王朝の定義>(古田武彦「邪馬壹国論争(上)」による) 1)一つの領域が一定の文化特徴を共有する政治的な文明圏を構成しているとき 2)そのなかで質量ともにもっとも集中して、政治的な文化特徴をもつ一中心地があれば、 3)それがその圏内の焦点、すなわち王朝の存在を示す。 原田氏は、この定義が極めて「考古学の成果」に基づいた定義であるのに対して、実際に古田氏が「王朝」を命名したのは、別の基準によるのではないかと指摘していましたが、私は、それも「古田氏の王朝観の発展」の結果なのだろうと思います。 ここで古田氏が「王朝」の語を用いているのも、それほど厳格な意味ではなく、「国家」と同義だろうと思います。 古田氏が中国側文献の記載に基づき、九州王朝という概念を生み出したことには、重要な意味があると思います。 勿論、「国家」をどう考えるか、という問題に対してです。 古田氏は、中国側史料から九州王朝と言う概念を創出した際、それを単なる「地域国家」という位置付けとは考えず、「統一国家」というか、「倭国統一の王者」と見なしました。 少なくとも古田氏には、「中国側が(卑弥呼や五王、多利思北孤らを)倭国統一の王者と見なしている」と考えたからです。 勿論、このような「倭国統一の王者」という見方は何も古田氏に始まったわけではなく、古くから言われてきたことではありました。 ですから、「卑弥呼や五王、多利思北孤は、九州に本拠を置いている」という概念と、「中国側は彼等を倭国統一の王者と見なしている」という概念が結びついた結果が、九州王朝説である、と言えます。 この点、他ならぬ古田氏自身も、「近畿天皇家一元史観」と自ら命名した「敵」を意識し過ぎたせいか、自説に対して正当な評価を与えていないように思えます。 さて、少し現代に目を向けてみましょう。 「国家」を語る上で興味深い「素材」があります。 一つは台湾です。 台湾は、「国家」ではありません。 なぜでしょうか。 理由は簡単です。 中華人民共和国は勿論のこと、むしろ「国際社会」が認めていないからです。 ところが、門脇氏の提起したような項目を見てみましょう。 いずれも一応、満たしているとは思いませんか。 1)王権とその支配機構を持っていること 2)独自の支配領域を持っていること 3)それぞれの支配理念あるいは独自の文化を持っていること 勿論、「王政」ではないのですが、台湾は台湾独自の統治機構を持っていますし、支配領域もハッキリしています。 支配理念も、中華人民共和国のそれとは、異なっています。 台湾という地域を冷静に分析すれば、誰であっても同じような結論に至ると思います。 でも台湾は「国家」ではない。 台湾だけに限った話ではありません。 そういう「地域」は今も数多く存在しています。 何が言いたいのかと言えば、つまるところ、「国際社会」の目も、「国家」を左右する重要なキーであると言うことです。 今、二つの対照的な「地域国家」を挙げてみたいと思います。 一つは「九州王朝」。 古田氏の分析通り、卑弥呼や倭の五王、多利思北孤が、九州に都する王者だとすれば、彼等は国際的に認められた王者です。 これと同じ時期に、例えば近畿に王者があったとしても、彼には国際社会の認知は無いとすれば、この点が両者の関係に影響しないとは考えられません。 ですから、古田氏がこの点を強調するのは、当然のことだと考えられます。 「関係」と言っても、それは単なる「支配・従属」関係だけではありません。 「対立」や「反発」「抵抗」、或は「妥協」や「連携」などの様々な関係が複雑に絡み合っていたと考えるのは、当然のことです。 もう一つは「蝦夷」です。 現代の古代史においても、蝦夷をれっきとした「国家」と見なす論者は、多くはありません。 なぜでしょうか。 先の門脇氏の項目を考慮しても、やはり、蝦夷はれっきとした「地域国家」であると考えるべきです。 さらには、中国側からも「蝦夷国」<新唐書など>として「国」として認知されていたことは確実です。 ところが記紀や続日本紀は、蝦夷を国家とは認めません。 このことが、当時の「日本」と「蝦夷」という「両国」の関係に影響しないはずは無いのですが、同時に、私達は「蝦夷」に対して正当な評価をする必要があるということも事実です。 話が散漫になってしまいましたが、要するに、色々複雑な問題なわけですね(笑)。 何を以って「統一」なのか、とか。 これも、例えば「北海道」や「沖縄」に支配が及ばない八世紀の律令国家を「統一」と呼ぶココロは?と問われると、なかなか回答は難しいのではないでしょうか。 「日本人とは何ぞや」という問いも、同じような問題をはらんでいますね。 考え出したらキリは無いのですが、たまにはこういうことも考えておかなくちゃいけないと思います。
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[[独り言(Historical)]] #menu(menu_Historical) 15-Dec-2002 今日は、久しぶりに「意味」について考えて見ます。 「考えてみる」とはいっても、おそらく「新しいお話」にはならないでしょう。 ここまでの「まとめ」という色合いになるかと思います。 まぁ、軽くお読みください^^ まず、何度も申し上げてきました、意味に関するひとつの視点を再び。 「意味は聞き手が決めるものである」 これですね。 これは、まさにこのとおり、だと思っています。 ですが、あまりこればかりを強調すると、もうひとつの重要な視点がぼやけてしまいます。 それは、「言葉」の「目的」といいますか、そもそもどうしてそんな機能を、私たちは身につけたのか、という点です。 このように言いますと、何か「本来性」とか「目的」とか、所謂「ポストモダニズム」が食いつきそうなテーマだとお思いになるかもしれませんね。 ですが、少なくとも、「言葉」に課せられた使命を、忘れてはいけないのです。 それは、「伝達」です。 よく、言葉とは「記述、あるいは自己の表現」なのか「コミュニケーションの道具」なのか、ということが問題にされますが、私には、このような対立自体が不毛と見えます。 なぜなら、「記述」もまた、「伝達」を目的としているからです。 要するに人は誰かに何かを伝えたいから、「言葉」を発するのです。 「誰か」は、「他人」かもしれませんし、「自分自身」かもしれません。 「何か」は、自分の気持ちかもしれませんし、科学的な論述なのかもしれません。 とにかく、言葉を発するからには、「誰か」に伝わり、そして「誰か」に何らかの「意味」を与える、これがなくてはいけません。 たとえ、「独り言」であっても、必ず「聞き手」がいるのです。 (ウチの「独り言」も、当然、読者を想定しているわけですね。それは今のお話とはあまり関係ないのですが) 例えば、「明日、7時に○○駅」なんていうメモ書きでも、「読者」がいるのです。 もちろん、「明日の自分」でしょう。 ですから、「言葉」の意味は「聞き手」が決めるのですが、必ず「話し手」がいて、その「彼(彼女)」がもともと「発した」ものである。 という、実に当たり前の話なのですが、この点を忘れるわけにはいきません。 「意味は聞き手が決めるものである」 という、記号学的な、そして現代的な発想を推し進めていくと、つい、「話し手」の存在を忘れてしまいがちです。 「人はあらゆるものに意味を見出さなくてはいられない」 「人間とは意味という病に侵された存在」 といった、記号学的なテーゼは、もちろん重要ですが、それと同時に「話し手」の存在を忘れてはいけない、ということです。 ここまで進めてきますと、柄谷行人や立川健二などの言う「教える立場」「誘惑する立場」という枠組みにも目が向きますが、今は、それよりも、「話す立場」を重視しておきます。 さて、「話す」という行為、或いは「書く」という行為には、既に「聞く」「読む」行為が含まれているのだということは、既にお話しました。 これによって、デリダの言う「差延(deferance)」は生じるのだ、と。 つまり、「最初の読者は必ず作者である」ということです。 言い換えると、「最初に意味を決めるのは作者」ということになります。 ここで、「作者」に特権的な「地位」が誕生するきっかけがあります。 このことを確認しておきましょう。 そして、「聴く立場」に戻ります。 「意味を決めるのは聞き手」なのですが、そもそもの「言葉の使命」を考えれば、言葉の発信者と、何らかの「情報の共有」というか、「意味の共有」が発生しなければ、「聞いた」事になりません。 もちろん、それは常に成功を収めるのではなく、往々にして失敗する。 失敗することで、「他者」という、私たちにとって重要な概念を得ることになるのですが、それでも「成功」を目指すのです。 レヴィナスに言わせれば、「他者を自己に取り込む」作業に他ならないのですが、それをせずにはいられないのです。 また、「話し手」と「聞き手」が「意味」を共有する為には、彼らの属する集団の「規則」あるいは「慣習」が必要になります。 もちろん、愛し合う恋人同士なら、二人だけのルールがあってもいいのですが、そういう場合は、「言葉さえいらない」ものですね。 まさに「ツーといえばカー」もしくは「阿吽」なわけです。 それでもやはり「慣習」とか「規則」はあって、彼らもそれに従うわけですが。 さて、そのような「慣習」や「規則」を共有する中で、特権的・支配的な「意味」が現れてきます。 それは、スチュアート・ホールのいう「オーディエンス」の有り様にも似ています。 「これこれはこういう意味である」という、強力なルールによって、「話し手」も「聞き手」も拘束されるのです。 (そして「文学作品」でかつて強力なルールとなったのは「作者の意図」でした。いかに作者の意図を性格に読み取るか、が、「文学作品」の批評において重要視されたのでした。これに反旗を翻したのが、プルーストなどの前衛的な作家であったり、バルトやエーコなどの記号学者であったのです) そのルール自体には、なんら「本来的」「根源的」「本質的」な根拠はなく、また一時も同じ形にとどまるようなものでは無いことを、現代の思想家たちは暴露して来ました。 でもその「拘束」があるからこそ、「話し手」と「聞き手」は「意味」を共有しうるのです。 さて、「歴史(史実の探究)の方法」というテーマに進みましょう。 私たちは、例えば『三国志』の「予想された読者」「語られる相手」ではありません。 ですから、私たちの流儀といいますか「規則」や「慣習」で、これを捉えることは、(文学作品として楽しむならいいのですが)問題があります。 もちろん、「歴史」のもうひとつの仕事―史実への評価―という意味では、「イマ・ココ」の価値で見るということも、重要な視野というか、展望を提供してくれます。 それとこれとは話が別です。 私たちは例えば『三国志』は、陳寿のルールで読まなくてはならないのです。 これは、以前もお話したとおりですね。 そして、陳寿のルールで読む為のひとつとして、私は「用例調査」を考えています。 もちろん、その方法にまったく問題がないわけではありません。 用法の弁別の為の最善の方法も、いまだ見出してはおりません。 「対照言語学」「言語類型論」「生成文法」なども参考になるような気がしていますが。 もちろん「計量言語学」や「計量文体論」も。 ここらあたりが、「来年の課題」ですね。 17-Nov-2002 今回は、「用例調査」という方法について考えて見ます。 用例調査といえば、古田氏の『「邪馬台国」はなかった』での「壹」と「臺」の調査以来、古田氏の専売特許と見る向きもなくはありませんが、比較的文献を対象とした学問ではよく行われているものだと思われます。 今日は、この「方法」の持つ意味といいますか、意義といいますか、要するに「用例調査」という方法の「理論的裏づけ」を考えてみたいと思います。 どうして「用例調査」を行うのか。 「用例調査」によって何がわかるのか。 何はわからないのか。 つまり、そういったことですね。 これを私なりに考えてみたいと思うのです。 まず、古田氏が初めに行った「壹」と「臺」の調査ですが、これは、実はその後古田氏の影響を受け、後に自立していった「市民の古代」の方々、例えば半沢英一氏や川村明氏、秦政明氏、丸山晋司氏などや、今も古田氏と行動を共にする方たち、古賀達也氏などがよく行っている(そして私もよく行う)用例調査とは、少し趣が違います。 (何もこの方法は古田氏とその影響を受けた人々だけが行っているのではなく、たとえば安本美典氏もよく行っている方法です) さて、「壹」と「臺」の用例調査は他と何が違うのかといいますと、これは純粋に記述統計である、という点です。 全『三国志』のテクストの中には、全部で86個の「壹」と58個の「臺」、計144個がある。 このうち、「邪馬壹国」1例、「壹与」3例を除くと、「壹」→「臺」の間違いは0である。 すなわち、「邪馬壹国」の「壹」を「臺」に偶然書き誤ったとは考えられない、と。こういうことです。 当時、「字形が似ているから偶然書き誤ったのだろう」という説が常識化している中へ一石を投じたのでした。 そういえば、MM3210さんのHPで確率を計算しておられましたね。 こういうわけですから、古田氏のこの調査は、純粋に記述統計調査であって、だからこそ安定した意味を持つ、と言ってよいかと思います。 次に、用例調査というか、用法調査とでも言うべきものがあります。 これは、私もよく行います。 最近では隋書の「達」の用法を調査しましたね。 あの結果はまだ事情があってUpしていないのですが。 これを調査するということの意味をここでは考えてみたい、と思います。 「何を調査したいのか」 まず、これを明らかにしておきましょう。 ことばには、「使い方」というものが存在します。 以前から何度も申し上げていますとおり、「意味は読み手が決める」のですが、文学作品を楽しむならともかく、我々のようにそこから「作者の見た歴史」の姿を取り出したいと思っている時、「意味を決める」権限を持った自分自身の「知識」が邪魔になることになります。 なぜなら、私は「作者」と共通の時代認識・常識・知識・慣習・文化を持たない、「作者」にとっての「期待した読者」「語られる相手(narratee)」では無いからです。 ですから、私は必ずしも「作者」と共通の「言葉の使い方」を知らない。 多くの場合には、ある程度共通しているものですが、少なくとも「同じである保証がない」のです。 従って、「作者」の用法を知る必要がある。 現代の私の用法ではなく、当時の「作者の用法」を、です。 その為のひとつの方法として、同一作品の中の用法を調べ、そこから帰納的に「作者の用法」を導き出す、という方法がとられることになります。 さて、ここで問題があります。 それは、「用例調査」を行っているのは、あくまで「現代の私」であって、「当時の作者」ではない、ということです。 結局のところ、一つ一つの用例を解釈し、分類しているのは、ほかでもない「現代の私」なのです。 ここで、「現代の私」の知識が入り込む恐れがあります。 そういえば、森博達氏が『日本書紀の謎を解く』の中で、日本書紀区分論の「語法分析」の問題点として、「明確な区分の基準がない」点を挙げておられました。 まさに、この点が問題なのです。 従って、私たちは、用法の区分に明確な基準を設けるべく、その「方法」を開発しなければならないでしょう。 今のところ、最善の方法はわかりません。 計量言語学における「語彙統計」が参考になりそうですが、これもあまり明確な基準を持っているとは言いがたいのです。 何よりも、計量言語学は「はじめから意味を承知している」のですから。 「何を意味しているか」という問いに答える手段ではありません。 私は「用例調査」という方法をよく使いますが、「肝心なところ」でこの問題に泣かされます。 ほとんどの場合は、それでも何とか、それなりの結論を得られるのですが。 これが、今の私にとってのひとつの課題だと思っています。 09-Nov-2002 今日は、MM3210氏の「邪馬台国ファンを惑わす誤り―2.古田武彦氏の説の誤り」について述べたいと思います。 古田氏は、『「邪馬台国」はなかった』において、魏志倭人伝の「景初二年」が「三年」の誤りである、とする説を批判し、景初二年が正しい、としました。 MM3210氏は、この点への批判を述べています。 MM3210氏の論点は、つまるところ以下の点にあります。 (1)魏が帯方郡を平定したのは公孫淵誅殺【後】である(「魏志東夷伝」)。 (2)公孫淵が誅殺されたのは景初2年8月23日である(「魏志公孫淵伝」)。 従って、景初二年六月の段階で、倭国が魏の帯方郡へ使者を送ることはできない。 だから、古田氏の説は誤りである、というわけです。 では、上記1,2の論点について、関連する史料を挙げ、確認していきましょう。 (1) (景初元年)秋七月丁卯、司徒陳矯薨ず。孫権、将朱然等二万人を遣わし、江夏郡を囲む。荊州刺史胡質等、之を撃ち、然、退走す。初め、権、使を遣わし海に浮かび、高句麗と通じ、遼東を襲わんと欲す。幽州刺史毋丘倹を遣わし、諸軍及び鮮卑、烏丸を率い、遼東の南界に屯せしめ、璽書を公孫淵に徴す。淵、兵を発し反す。倹、進軍して之を討ち、会して雨を連ねること十日、遼水大いに漲る。倹に詔して、軍を引きて右北平に還らしむ。・・・(中略)・・・辛卯、太白尽く見ゆ。淵、倹の還りてより、遂に自ら立ちて燕王と為し、百官を置き、紹漢元年と称す。青・[六/兄]・幽・冀四州に詔して、大いに海船を作らしむ。魏志三、明帝紀、景初元年 (2) (景初)二年春正月、太尉司馬宣王に詔して、衆を帥いて遼東を討たしむ。同、景初二年 (3) (景初二年八月)丙寅、司馬宣王、公孫淵を襄平に囲み、大いに之を破り、淵の首を京都に伝え、海東諸郡を平らぐ。冬十一月、淵を討つ功を録して、太尉宣王以下、増邑封爵、各差有り。同、景初二年 (4) (景初)三年春正月丁亥、太尉宣王、還りて河内に至る。同、景初三年 (5) 帝、曰く「往還、幾日か」(司馬宣王)対えて曰く「往くに百日、攻むに百日、還るに百日。六十日を以て休息と為す。此くの如く、一年足らずなり」晋紀、魏志三所引、于宝撰 (6) 景初元年、乃ち、幽州刺史毋丘倹等を遣わし、璽書を齎し淵に徴す。淵、遂に兵を発し遼隧に逆し、倹等と戦う。倹等不利にして還る。淵、遂に自立して燕王と為り、百官有司を置く。・・・(中略)・・・二年春、太尉司馬宣王を遣わし、淵を征す。六月、軍遼東に至る。淵、将軍卑衍・楊祚等歩騎数万を遣わし、遼隧に屯せしむ。囲塹二十余里。宣王の軍至る。衍をして逆戦せしむ。宣王将軍胡遵等を遣わし之を撃破す。宣王、軍をして囲を穿たしめ、兵を引きて東南に向う。而して東北に急ぎ、即ち襄平に趨く。衍等襄平の守無きを恐れ、夜走す。諸軍進みて首山に至る。淵、復び衍等を遣わし軍を迎え、殊に死戦す。復た撃ち、之を大破す。遂に進軍して城下に造り、囲塹とす。会霖雨三十余日。遼水、暴長し、船を運みて遼口より径ちに城下に至る。雨霽れ、土山を起こし、櫓を修め、為に石を発し弩を連ね城中に射る。淵、窘急す。糧尽き、人相食らい、死者甚だ多し。将軍楊祚等降る。八月丙寅夜、大流星長さ数十丈、首山の東北より、襄平城の東南に墜つ。壬午、淵の衆、潰し、其の子脩と数百騎を将い、囲を突き、東南に走る。大兵、之を急撃す。流星の墜つ処に当り、淵父子を斬る。城破れ、相国以下首級千数を以て斬る。淵の首を洛陽に伝え、遼東・帯方・楽浪・玄菟悉く平らぐ。魏志八、公孫伝 (7) 公孫淵、逆し、倹と戦う。不利にして、引き還る。明年、帝、太尉司馬宣王を遣わし、中軍及び倹等の衆数万を統べ淵を討ち、遼東を定む。倹、功を以て進みて安邑侯・食邑三千九百戸を封ぜらる。魏志二十八、毋丘倹伝 (8) 而るに公孫淵、父祖三世に仍りて遼東を有す。天子其の絶縁の為、委ねて海外の事を以てす。遂に東夷を隔断し、諸夏に通じるを得ざらしむ。景初中、大いに師旅を興して淵を誅す。又軍を潜し海に浮かび、楽浪・帯方の郡を収む。魏志三十、東夷伝序文 (9) 景初二年、太尉司馬宣王、衆を率い公孫淵を討つ。宮、主簿・大加を遣わし、数千人を将いて助軍す。魏志三十、高句麗伝 (10) 景初中、明帝密かに帯方太守劉[日斤]・楽浪太守鮮于嗣を遣わし、海を越え二郡を定む。諸韓国の臣智に邑君印綬を加賜し、其の次に邑長を与う。魏志三十、韓伝 (11) 景初二年六月、倭女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣り、天子に詣え、朝献することを求む。太守劉夏、吏将を遣わし京都に送り詣らしむ。其の年十二月、詔書を倭女王に報じて曰く「親魏倭王卑弥呼に制詔す。帯方太守劉夏、使を遣わし、汝の大夫難升米・次使都市牛利を送らしめ、汝の献ずる所の男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉らしめ、以て到る。・・・魏志三十、倭人伝 まず、帝紀を見て見ましょう。1では、公孫淵が反旗を翻し、燕王を名乗った経緯が描かれています。景初元年のことです。最後の造船記事も、公孫淵討伐に向けたものと解釈してよさそうです。 それに続き、2で司馬懿が公孫淵討伐に出発したのが、翌年正月です。そして、3で景初二年八月に、まさに勝負は決し、十一月には司馬懿への褒美が既に与えられています。 その後、4で洛陽に凱旋したのが景初三年正月のようです。 大まかな経緯は、以上のようで間違いないと考えられます。 ちなみに、5の史料は三国志ではありませんが、注に引用されているものです。司馬懿は、明帝から「(公孫淵討伐の)往還は何日くらいだ」と尋ねたところ、司馬懿は「一年足らず」と見積もっています。 実際に帝紀の上でもほぼ同様な期間です。参考にはなるでしょう。 おおよそ、MM3210氏もこの点においては、同じ見方といっていいでしょう。 さて、問題の帯方郡制定ですが、これらの文面からは何ともいえない、というのが率直なところでしょうね。 古田氏の指摘のように、10の韓伝の記述からは、緊迫した情勢での帯方郡制圧が、予想できます。 「完全制圧」が公孫淵誅殺の前だとは、この記述からはいえませんが、少なくとも、相当な圧力がかかっていたであろう事は容易に想像できます。 さて、MM3210氏の理路は、先に示したとおりだと認識しています。 かなり「インテンショナル」というか、古田氏の「故意」を主張する文面ですが、言っていることの理路は、つまり、公孫淵が殺される前に、帯方郡から魏へ遣使出来るわけがない、という、「常識的」な主張です。 古田氏が「太平の史家」と批判した、まさに同じ理路です。 古田氏の読解にも確かに誤解が含まれています。 司馬懿が洛陽に戻ったのは、ご指摘のとおり、景初三年正月です。 おそらくは、帝紀の八月の項からの類推なのでしょう。 MM3210氏のいうような「故意」であるかどうかは、私にはわかりません。 もしも、古田氏の「故意」を主張することによって、古田氏に批判された同じ理路を守ろうと、お考えであれば、残念ながら、不毛としか言いようがありません。 「故意」を主張するにしては、その「証拠」も少ない。 おそらく善意に解すれば、「誤解」程度のものでさえも、悪意に解すれば、どのようにもいえるのです。 もしも、古田氏が「故意」に司馬懿の凱旋を八月に「読み違えて見せた」とするなら、古田氏の説は、司馬懿が八月に洛陽に戻らないと成立しないのでしょうか。 実際のところ、別に、影響は無いのです。 それなのに、わざわざ・・・。 古田氏はなんという無益なウソをつくのでしょう。 「六月において大勢は決していた」についても、同様で、「大勢は決していたけれども、決着はついていない」、もはや、公孫淵は襄平城を囲まれ、「陥ちる」のは時間の問題だった、という謂いでしょう。 ですが、そうでなければ、「戦中遣使」という概念が成立しないと考えるのであれば、それは誤りです。 MM3210氏の言うとおり、六月時点では大勢が決していないのであれば、なおさら、「機敏な外交」の機敏さが増すだけのことであって、古田氏の説が成立しないわけではありません。 まぁ、あまりこの点ばかりを指摘しても、議論は前に進みませんので、MM3210氏の説の大前提を指摘し、その根拠を問うに留めたいと思います。 「公孫淵誅殺後でなければ、倭国は帯方郡を通じて魏へ遣使できない」とする根拠は何でしょうか。 私は、公孫淵誅殺前であっても、帯方郡経由で魏へ遣使することは可能と考えます。 私の理解では、古田氏の言う「戦中遣使」説が、この帯方郡制圧の前であってはならない、理由は無いだろうと思っています。 公孫淵健在中は倭国が魏の帯方郡へ使者を送ることはできない、というMM3210氏の理路は、つまり、公孫淵健在中は帯方太守不在か、もしくは、帯方太守も公孫淵一派という前提に立つものです。 そうでなくてはそういう理路は成立できない。 ですが、帯方郡や楽浪郡は、公孫淵に従って魏に抵抗しようとする勢力や、あくまで魏に従おうという勢力によって、大いにゆれていたであろう事は、容易に想像できます。 劉[日斤]にしても劉夏にしても、少なくとも景初中の帯方郡太守であり、かつ、魏に従っています。 (そのことによって、「激動の人生」を歩むことになったのかもしれません) その中での「戦中遣使」は、大いにありうるだろうと思います。 勘違いしていただいては困るのは、「景初二年」というのは、まさに「文面どおり」に理解しているだけのことであるという点です。 この文面が間違いである、と主張したいのであれば、「景初二年」であっては、決定的に矛盾する、論拠を挙げなければなりません。 ですが、文面どおりに理解しているだけの古田氏や私にとっては、「ありうる」ことを確認するだけで十分なのです。 この点、あくまで『三国志』に基づいて、古代史を研究する私たちにとって、忘れてはなりません。 (『三国志』に間違いがない、と主張したいのではありません) 20-Oct-2002 今日は、「虚構言語行為論」について考えたいと思います。 「虚構の言述(fictional discouse)」とは、つまり、小説や物語のような、虚構の世界(フィクション)を語ることです。 私たちは、何かを発言するとき、必ず何かの行為を行っています。 「約束」や「命令」などは、そのわかりやすい例ですが、たとえば、科学的論述などでもそれは「確言」という言語行為を行っているのだ、と言うことができます。 このような見方によってJ.L.オースティンは、「言語行為論」を構築しました。 そのオースティンも「虚構の言述」に関しては、差し当たって、「言語行為論」の分析の対象から外しました。 オースティンに拠れば、「虚構の言述」(小説を「書く」行為や、舞台で役者がせりふを「語る」行為)は、言語の「真面目な使用」ではなく「本来の用法に寄生する」使用だからであるといいます。 これを「記述的言語」もしくは「日常的言語」と「詩的言語」の対立と見れば、オースティンは「日常的言語」に軍配を上げていることになります。 この際、P.ヴァレリーやマラルメ等は、はっきりと「詩的言語」に軍配を挙げていることも忘れてはならないでしょう。 さて、オースティンの後継者であるJ.R.サールは、この「虚構の言述」に対する考察を始めました。 まず、サールは「虚構の言述」に対する次の立場を批判します。 それは、「虚構の言述は、小説を「書く」あるいは「物語る」という行為を行っている」という立場です。 この立場に従えば、たとえば「私は彼を覚えている」という文は、(法廷などにおける)「主張」あるいは「確言」という行為の「他に」、虚構作品の中では「物語る」という行為を行っていることになるのです。 文の意味と行為は「関数関係」にあると見るのが、サールの根本的な主張ですから、ひとつの文に異なった行為をともに割り当てることは、サールの主張に根本的に反します。 もしも「フィクションとノン・フィクションでは、文の意味が異なる」という主張を行うのであれば、すべての言葉は「フィクション用の意味」と「ノン・フィクション用の意味」の両方を持っていることになり、この不合理性は明らかでしょう。 これに対し、サールは、虚構の言述における「主張」は「偽装された主張」である、とします。 「私は彼を覚えている」という文章がフィクションの中で使われた場合、作者は、その「主張」を偽装しているのだというのです。 ところが、これには問題があります。 野家啓一は、サールのこの主張は、結局フィクションとノン・フィクションの唯一のメルクマールは、「発話者の意図」だけであって、それを読者はどうやって知るのか、という背理に陥っていると批判します。 なるほど、サールは、確かに「フィクションの言述」と「ノン・フィクションの言述」が、言語の使用方法自体においては、まったく違いがないことを確認していました。 つまり、文面だけでは「フィクションとノン・フィクションは区別できない」のです。 だとすれば、サールが「発話者の意図」に還元してしまった「フィクション/ノン・フィクション」の境目は、読者にとって不明というほかは無いのです。 さて、その野家は、「虚構言語行為」は、「引用」という特徴を持つといいます。 古典的な「物語」や口承伝承がそうであるように、「昔々あるところに」で始まり、「・・・だったとさ」で終わるような、典型的な昔話は、まさに「引用」という体裁をとることで、「言語行為」のもつ様々な規則を免れる、というのです。 「引用」の場合には、「引用者」はその内容についての何の責務をも負わない、というわけです。 同じように、小説の場合も、基本的には、「引用」という形で、その責務を免れているのだといいます。 もちろん、現代の前衛的な小説の冒頭が、引用で始まるなどということはあり得ませんが、これは、より技巧的になった、先端のものであり、発展型だからであるというわけです。 しかし、この野家の主張も残念ながら、サールと同じ「背理」にぶつかっている、と言わざるを得ません。 その「前衛的な」小説をフィクションたらしめているのは何か、という問題にぶつからざるを得ないからです。 次に、G.ジュネットは、虚構の言述について、これは複数の言語行為を同時に行うものだとしました。 「昔々あるところにおじいさんとおばあさんがいました」という文を書くとき、作者は読者に「昔々あるところにおじいさんとおばあさんがいました、と思って聴いてほしい」と命令あるいは要求しているのであり、また、「昔々あるところにおじいさんとおばあさんがいた、と宣言する」のです。 言い換えると、作者は「私はこの文面で持って虚構的に『昔々あるところにおじいさんとおばあさんがいた』と定める」という「虚構世界の構築」を行っている、というのです。 なるほど、この説も説得力を持ちます。 ですが、おそらく、サールの反駁を免れないでしょう。 この主張によっても、「フィクション用の意味」と「ノン・フィクション用の意味」を持つという見解に加担することになるのです。 さて、サールはフィクションとノン・フィクションの間に文体的な違いは無いのだと考えました。 一方、野家は、典型的な「物語」には、「引用」という文体的な特徴があるのだと考えました。 要するに、「引用」が本来で、今の小説はその発展型である、と。 ここで、意味に関する重要な視点を思い出したいと思います。 「意味は聞き手が決めるものである」 これです。 「虚構が虚構として成立する為には、聞き手によって虚構と見なされなければならない」 のです。 ひとつ、興味深い事例を挙げましょう。 「1938年10月30日、夕刻8時ごろ、アメリカのコロンビア放送が、H.G.ウェルズのSF小説である『宇宙戦争』のドラマを流していた。ダンス音楽を中断し、火星に青い火がみえたという臨時ニュースを流した。第2回目には、ダンス音楽を中断し、ある町にみたこともない飛行物体が到着したという臨時ニュースを流した。その後アナウンサーが興奮して現場中継し、銃声や指揮官の声などが流されると、人々は本物と思い、120万もの人が逃げ惑うまでに発展していった」『心理学要論』、有斐閣双書による これは、社会心理学で「群集心理」の「パニック現象」の典型的な例として挙げられることの多いものです。 心理学の教科書には大抵載っているでしょう。 (実際、学生時代の教科書からの引用です) ここで注目すべきなのは、このパニック現象の真の原因です。 つまり、「虚構が虚構として聞かれなかった」ということなのです。 サールも野家も、この視点を欠いているように思えます。 典型的な物語が「昔々あるところに」で始まるのは、語り手の免責のためだけではありません。 聞き手に、それが「虚構である」と理解させる為なのです。 そして、コロンビア放送の例のように、小説の場合、それを伝えるメディアの役割を忘れてはいけません。 私たちは普通、小説は始めから「これは小説だ」とわかって読みます。 始めから「小説を読む」という行為を、十分承知の上で行っているのです。 そうさせるのは、「作者の名前」や「作品の評判」「出版社」、「本の体裁」など様々な、「本文外の情報」です。 P.ブルデューや、S.シュミットの文学現象という問題意識が重要となるのです。 さて、なぜ私がこのような問題を考え出したのか、をお話しましょう。 それは、もちろん、『日本書紀』です。 ここまでの話を踏まえれば、『日本書紀』は、「虚構」という範疇にはくくれないことになります。 むしろ、「虚偽」なのでしょうか。 一方、神話は、どうなのでしょうか。 「虚構」にくくれるもの、くくれないものの両方があるような気がします。 結局のところ、「虚構言語行為論」から、『日本書紀』に迫ろうという、私の目論見は見事に打ち砕かれてしまったような感じです。 まぁ、しかし、「虚構言語行為論」。 これも、なかなかに興味深いものだと思います。 06-Oct-2002 今回は、上野千鶴子、そして野家啓一の歴史観を批判したいと思います。 まず、上野千鶴子は、フェミニズム活動の中心的な一人として、「従軍慰安婦」の問題から、歴史への問題に踏み込みました。 彼女は、所謂ポストモダン的な視点から、(西尾幹二や藤岡信也・小林よしのりの歴史観はもとより)伝統的実証主義の歴史学をも批判しました。 所謂実証主義が、いかに「政治的・権力的・男性中心主義・西欧中心主義」な立場を免れ得ないか、を辛辣に描き出し、暴き出したのです。 これは、ポストモダンのひとつの大きな潮流でした。 歴史のプロット化やメタ・ヒストリーを主唱するヘイドン・ホワイトなどはその代表者ですし、たとえば、ガヤトリ・スピヴァックは「サバルタン」とよばれる「弱者」の言説でさえ、西欧中心主義的な「認識論の暴力」を免れることができず、かえって、「弱者」として語ること自体がそういった「暴力」に加担することになってしまう、と指摘しました。 スピヴァックやサイードなどは、「ポストコロニアル(「植民地主義の次に来るもの)」の代表的人物です。 また、ブローデルの歴史観も、地中海の民衆の生活に深く入り込んでいくことによって、民衆の生活の中の「非西欧的」なものをあぶりだしました。 同じように、ウォーラーステインの世界システム論も、そもそもは南アフリカ研究に始まっており、やはり、同じ潮流の中に位置づけることができます。 このように、私たちの素朴な歴史観の中に根付く、「政治的・権力的・男性中心主義・西欧中心主義」が次々と暴き出されてきたのです。 上野の批判も、基本的には同じ流れの上に立つものと見ることができるでしょう。 さて、上野は、「実証主義」が「文書至上主義」に陥っていると非難します。 これはつまり、所謂「自由主義史観」論者が、「従軍慰安婦強制連行を示す史料がない」ことを理由に、従軍慰安婦問題を教科書から削除しようとする動きに対する反論ですが、同じ罠に「実証主義」論者(吉見義明や鈴木裕子が「標的」にされていますが)も陥っているのだというのです。 「公文書がない」=「十分な証拠能力がない」という論理が「文書至上主義」だという批判です。 これは、もっともなことです。 「従軍慰安婦問題」には、「当事者の証言」があります。 ハッキリ言うと、私たちのように「史料に渇望した」古代史の立場から言えば、それこそ「喉から手が出るほどほしい」史料です。 ふむ。 私は今まで自分のことを「実証主義者」だと思っていましたが、どうも、上野の言う「実証主義者」とは違うようです。 彼女の言う「実証主義者」は、この「喉から手が出るほどほしい第一史料」をあっさり切り捨ててしまうそうです。 いささか、シニカルな言い方になりますが、彼女は「敵」を見誤っている、といわざるを得ません。 彼女の敵は「普通の実証主義者」ではなく、「三流の実証主義者」です。 この意味で、彼女が吉見や鈴木を標的にしたのは、正しいとは言えません。 また、「実証主義」そのものを否定しようと試みたことは、彼女自身の立場をも危うくする、と言えるでしょう。 彼女は、「従軍慰安婦の当事者の証言」を何の批判的・客観的・実証的判断もなしに「鵜呑み」にしたいのでしょうか。 そうだとすれば、逆に、上野千鶴子という「政治的活動家(客観性を否定する彼女の活動は、彼女自身の論理に従って「政治的」にならざるを得ない)」によって「構築」され、利用された、と見なさざるを得なくなります。 もはや彼女は「歴史」だとか「事実」だとか、そういうことを語ってはいけない。 やや、挑発的になりました。 もちろん、彼女がそのように考えているとは思いません。 要するに、彼女の敵は、「実証主義を貫徹できない実証主義者」「実証主義を掲げていながらその実、実証主義では全然ないような輩」であって、「実証主義」そのものではないのです。 もちろん、「実証主義者」の中にも「公文書中心主義」「西欧中心主義」「男性中心主義」といったものは、根を張っているわけで、この点に鋭い監視の目を光らせておくことは、非常に重要です。 (ここに、古田武彦の言う「天皇家中心主義」を加える必要もあるでしょう。むしろ、ポストモダニズムが日本においてたどり着くべき概念であるはずです。ここにたどり着かないで、欧米から輸入されたままの「西欧中心主義」「キリスト教中心主義」に留まるなら、それ自体が「西欧中心主義」の賜物といえます) 上野は「当事者の証言」を重視します。 これは、何も「実証主義」に反する概念ではなく、むしろ、「実証主義」が重視すべき点なのです。 オーラル・ヒストリーとは、「実証主義」のためにある言葉なのです。 まずはこのことを確認しておきましょう。 次に、野家啓一です。 彼は、アーサー・ダントの「物語論」に従い、「物語行為」を理論化しました。 人が何かを「物語る」のは、人間にとって非常に重要な行為である、とするもので、彼によれば「歴史」もまた、ひとつの「物語る」行為に過ぎないのだ、といいます。 (同じように「科学」の持つ「物語性」も彼の視野に入っています) 彼に言わせれば、「客観的な事実」という意味の「史実」を語ることは出来ず、あくまで「価値判断」を伴った「物語」としての「歴史」しか存在しないのだとします。 もっとも、彼が最大の標的にしているのは、ヘーゲルの歴史哲学やマルクス主義的史的唯物論の類です。 「素朴な実証主義」はその標的にはなっていませんが、「客観的な事実」の探究を前提とする立場が批判されていることは言うまでもありません。 もちろん、日本の戦後史学はマルクス主義的な歴史観を「発展」させた独自の史観によって、構築されていますし、「実証主義」の代名詞でもあるレオポルド・フォン・ランケの歴史観も、それ自身まったくの「無価値的」「客観的」「相対主義的」だとは言えず、やはり、あらゆる歴史学の言説が何らかの「価値判断」に拠っていることは否定しません。 むしろ、クローチェやコリングウッド、E.H.カーが言うように、「歴史とは、現在と過去の不断の対話」であると見るほうが、正しいでしょう。 この営み自体を否定しようというつもりはありません。 野家の指摘も興味深いものです。 ですが、私は、「だからどうした」という反問を抑えることができません。 「開き直り」では、どうも、ないようです。 つまり、野家に限らず、「客観性」への懐疑的な態度は、あくまで「人間の現状把握」としては正しくとも、それ以上でもそれ以下でもない、ということです。 自らを「客観的」と信じていた無邪気な「理性」への反駁ではあります。 要するに、Y=1/Xという式を発見して、「だからYは0には絶対にならない」と言うことは出来ます。 ですが、だからといって「Yを限りなく0に近づけようとする試み」を笑う資格はありません。 「客観的な事実」「本来的な事実」は無いんだ、というポストモダンの定式から言えば、最後は「根拠のない信念」に頼らざるを得ないことは、明らかです。 私の「根拠のない信念」は、「客観性を目指すこと」に他なりません。 さて、いつかもお話したことがありますが、歴史には二つの仕事があります。 ひとつは「史実の探究」。 もうひとつは「史実への評価」です。 私が「客観性」を目指すのは、あくまで「史実の探究」です。 野家の「物語論」を始めとして、この「区別」が必ずしもはっきりしてはいません。 その理由のひとつに、所謂「歴史哲学」や「歴史の方法論」を語る論者の多くが「近代史」を念頭においていることが挙げられるかと思います。 ハッキリ言うと、「史実の探究」が見るからに困難な状況にあるのは、「古代史」くらいなものです。 「史料」に飢えることを知らず、「史料」に飽きる、飽食の時代、それが「近代史」です。 ですから、「評価」が歴史家にとって大事な仕事である、と考える節があります。 もちろん、古代史に関しても、「評価」こそが歴史家の仕事だ、と考える人が多いようです。 「史料の探究」「史実の探究」は、文献屋の仕事だ、というわけです。 要するに、彼ら(ヘーゲルにしてもランケにしてもベルンハイムにしてもラングロアにしても)の口ぶりは「発掘」「史料の保存」「年代の鑑定」などは、「歴史家の仕事ではない」という前提に立つものなのです。 この点は、私たちが歴史の方法を考える上で見落としてはならないと思います。 22-Sep-2002 「文献批判について」第7回ですね。 予告どおり「テクストとテクストの影響について」です。 まずは、主にジュリア・クリステヴァの「間テクスト性」の概念から見ていきたいと思います。 クリステヴァは、ソシュール、バフチン、フロイトのテクストの読解から、この概念を引き出したとされています。 彼女は「間テクスト性(l'Intertextulite)」について、「あらゆるテクストはあるテクストを変形したものである」としました。 すでにバフチンは、テクストの「多声性」「ポリフォニー」「ディアロジズム(対話主義)」という言葉によって、ひとつのテクストの中にも、複数の「声」が存在しているのだということを指摘していました。 これを受け、クリステヴァは、テクストが(たとえどんなに自己完結的なものであっても)完全に他のテクストから独立したものではあり得ないことを、このように理論付けたのです。 しかし、これは、伝統的な文学批評の方法とは少し異なります。 テクストがテクストに及ぼす影響、というと、つい、「先行するテクスト」だけを見てしまいがちですが、そうではありません。 「後続のテクスト」が「先行するテクスト」の読解を変形することがありうるのだという点が重要なのです。 つまり、『魏志倭人伝』に影響を及ぼすのは『漢書』や『史記』だけではなく、『後漢書』や『日本書紀』もまた、影響を及ぼしうるのだ、ということです。 「意味を決めるのは読者」と、私はこれまで繰り返してきましたが、この視点からすれば、上記の結論は必然だといっていいでしょう。 「読者」が「意味」を「決める(生成する)」過程において、「先行するテクスト」であろうと「後続するテクスト」であろうと関係なく、影響を及ぼしうるものです。 これがクリステヴァの強調する「間テクスト性」でした。 クリステヴァの問題意識は、ハッキリと「読者の立場=聴く立場」に立っています。 この点、土田知則『現代文学理論』では、誤解があるように見えます。 土田は、「間テクスト性」の審級として、デーレンバックの理論を援用して、 一般的な間テクスト性・・・作者Aのテクストaと作者Bのテクストbの関係 制限的な間テクスト性・・・作者Aのテクストaと同作者のテクストbの関係 自己的な間テクスト性・・・作者Aのテクストaとテクストa'の関係 という3つを挙げましたが、これは「作者の立場」と「読者の立場」を混同したものだということができます。 もちろん、このような概念自体は必要です。 しかし、これはクリステヴァの問題意識とは違うのだという気がします。 「読む立場」に立った「間テクスト性」の議論は、バーバラ・ジョンソンやハロルド・ブルームら「イェール学派」の文学理論に影響を及ぼします。 こういった、「読む立場」からの「間テクスト性」の問題は、我々にとっても、重要な問題提起となります。 我々は意識する/しないに関わらず、あるテクストの読みにおいて「他のテクスト」の影響から逃れることができないのです。 特に、『魏志倭人伝』に対する『記紀』の影響、もしくは、「津田左右吉」や「内藤湖南」や「榎和雄」や「江上波夫」や「古田武彦」の影響に注意を払う、という「再帰的態度」(M.ピッカリングによる)をとることは大事なことです。 これが「間テクスト性」の問題の第1点です。 次に、先ほど批判した「作者の立場」に立つことにしましょう。 ここでは、土田知則=デーレンバックの審級が、意味を持ちます。 しかし、この点は、実は伝統的な実証主義の精神によって、かなり研究が進められているといっていいでしょう。 例えば、『日本書紀』における先行テクストの影響(例えば、『芸文類聚』など)や「原典研究」などがその一例です。 『魏志倭人伝』に対する『魏略』などもそのひとつでしょうか。 ですが、我々は「作者」つまり「書くこと」について、もうひとつの認識を手にしています。 それは、「我々は書くと同時に読む」ということです。 もしくは「作品の最初の読者は作者である」と言い換えてもいいでしょう。 この作用によって、土田=デーレンバックの言う第3の審級、もしくは、デリダの言う「差延」、ジョンソンの言う「批評的差異」は生まれるのです。 他ならぬ『日本書紀』が『日本書紀』に影響を及ぼす、という可能性があるのです。 ましてや、『日本書紀』は個人の著作ではありません。 より複雑な「内的差異」を持つテクストであろう事は容易に想像できますし、事実、指摘されていることです。 この差異を「著者」の違いに真っ直ぐに還元することは、以上のような視点にまったく配慮していないものだということができます。 同一の著者であっても差異が生じることは大いにありうることなのです。 これが、「間テクスト性」の問題の第2点。 さらに、「作者は、作者であると同時に読者である」という点も忘れてはいけません。 「書くこと」に作者の知識が影響を及ぼすことは容易に想像できることです。 そして、その「知識」が他のテクストによってもたらされたことはいうまでもありません。 ですが、作者にとっては、その「他のテクストの読み」が、すでに「間テクスト性」によって、「他のテクストの影響を受けたもの」であることは、以外に忘れられてしまいます。 単純な「誤読」で片付けられるもの(例えば、范曄の『魏志倭人伝』の読解に関しては、賛否両論のあるところですが、これも范曄の「知識」による影響と見られることに、異論は無いでしょう。問題はその「知識」が妥当であるかということになります)もありますが、そうではないものもあります。 また、その読解によるテクストが、もとのテクストよりも大きな影響力を持ち、逆にもとのテクストに「反逆」するような影響関係を持つにいたることもあります。 『後漢書』の范曄による『魏志倭人伝』読解が、『魏志倭人伝』そのものに与えた影響を考えてみればよいでしょう。 さて、最後に「メタフィクション」もしくは「パロディ」研究の成果を見ておくことにします。 これは、「作者の立場」からの「間テクスト性」研究に大きな影響力を持つと言えます。 所謂「狭義のメタフィクション」「パロディ」は、「引用」「引喩」「変形」「(狭義の)パロディ(諧謔的な模倣)」「文体模倣」「風刺」などの要素を持つ第2次的な文学のことです。 これらの研究は、例えば、『日本書紀』研究においてもなされてはいます。 他にも中国側史書の多くが先行する史書の「模倣」もしくは「引用」によって、作文していることは、著名な話です。 ここで重要なのは、「パロディ」における「読者の役割」です。 「パロディ」が「パロディ」として成り立つ為には、「読者」の存在が不可欠です。 「読者」は、「パロディ」として「テクスト」を読むと同時に、「もとのテクスト」を知らなければならないのです。 そして、「パロディ作品」が「もとのテクストのパロディである」ことを認めなければ、「パロディ作品」は成立しません。 これは、何も「大々的なパロディ作品」のことを言っているのではありません。 例えば、万葉集において、同じような文句が、歌として現れますが、これも、「パロディ」の一部として、「読者の役割」を必要とします。 『日本書紀』が『芸文類聚』の文を採ったことに、どのような意味を見出すか、は、実は重要な問題です。 単に「修飾」の為、というだけの評価しか下せないのでは、実は『記紀』の半分も理解したことにならないのではないか、という気さえします。 こういった点への配慮は、もちろん、今までの「記紀研究」に皆無だったとは思いません。 改めて重要性を痛感している、というところです。 ・・・やっと、「古代史」の話に戻ってこれましたね。 今後は、更に「文献批判の方法」を詰めていきたいと思います。 では。 16-Sep-2002 「文献批判について」第6回です。 今回は、「知識」というものについて、考えて見ます。 今まで、私は「読む」という行為、「書く」という行為が各々の「知識」の影響を受ける、という図を紹介しました。 ここで言う「知識」とは、非常に広範な概念だと思ってください。 「慣習」「経験」「常識」「他者の目」「価値判断」「類推」「思考」・・・。 私は今、ブルデューの「ハビトゥス」、ホールの「オーディエンス」、オースティンの「慣習」、ウィトゲンシュタインの「言語ゲームの規則」、フーコーの「エピステーメ」、ベッカーの「ラベリング理論」、マルクスの「交通」、ソシュールの「交通」、サピアの「ドリフト」、デリダの「差延」、クリステヴァの「間テクスト性」、フィッシュの「解釈共同体」・・・といった概念を念頭においています。 要するに、純粋に自己の内部にある(と見なされている)個人的な経験や知識、考え方といったもの「だけ」ではなく、その属する社会の常識や規範、慣習が大いに影響します。 そして、この「知識」は、読むことによって「変容」します。 あるときは新たな発見として、あるときは既有知識を補強するものとして。 肝心なことは、「読む」ことによって起こる「変容」は、「書き手」の意図したとおりのものでは、必ずしもない、ということです。 「意味は読み手が決める」のです。 むしろ、書き手とは反対の意見を強めることもあります。 いずれにせよ、「読む」ことによって、知識は変容するのです。 つまり、「読む」ことには「知識」が関わり、そして、「読む」ことによって「知識」が変容する。 こういう両方の関係があります。 さて、「知識」は、どのようにして形成されていくのでしょうか。 ひとつには、今申し上げたとおり、「読む」もしくは「聞く」ことによって、得られます。 他には、「見る」「味わう」「嗅ぐ」「体験する」などが考えられます。 しかし、もうひとつあります。 「書く」「話す」ことです。 私たちは、「書く」ときに、必ず、「読んで」います。 もしくは、「聞いて」います。 これを行わないと、「書け」ないのです。 まず、自分の書いたことを読んでいないと、自分の文章の誤りに気づくことはできません。 これは、「モニタリング機能」といって、必ず自身の作り出す文章が間違っていないか、おかしくないか、常にチェックしているものです。 もちろん、「推敲」といわれるチェックも行われます。 ですから、「書く」には必ず「読む」が含まれるといっていいでしょう。 ここで、「自らの文章を読む」という作業でも、知識の変容は起こりえます。 よく「書くことで思考が深まる」といいますが、つまり、そういうことなのです。 こう書いてくると、デリダの言う「差延(deferance)」なる概念が何を示すのか、それが少し見えてきます。 つまり、「人の知識は書いている間にも変容する」のですから、テクストの始めのほうと終わりのほうでは、かなり「知識」が変わっていることがあります。 問題意識がハッキリしたり、ちょっとだけ問題に対する「温度」が変わったり、というような微妙な差でしょうが。 (余談ですが、よく「一人で愚痴って最後には一人で納得すること」ありません?) そしてその「変容」は必ず「書いた」後に起こるのですから、「遅延」させられているわけです。 この「差異」+「遅延」の概念がデリダの言う「差延」でした。 さて、私たちは常に何かを見ています。何かを聞いています。そして何かを話します。 これらすべてが「知識の変容」に関わるのだとすれば、「知識」というものは、一瞬たりとも「一定の形に留まる」ことがないのだということに気づきます。 すでに言語に対してはそのような見方がされています。 ソシュールは、「通時態」という概念により、これを表現しました。 また、サピアは「ドリフト」という概念により、これを示しました。 いずれも、「言語は常に変化する。一定の形をとどめていることなどない」という見方です。 これは当然ながら(言語=思考という極端な言語相対性仮説に拠らずとも)思考、あるいは「知識」にも言えます。 このような「知識変容のダイナミズム」を所謂「ポスト構造主義」は、志向したのでした。 ですから、そのような見地から、クリステヴァの「間テクスト性」の問題は重要です。 「間テクスト性」とは、つまり、「他のテクストがあるテクストの読みに関わる影響」のことです。 これについては、また述べることにします。 さて、「思考」についても、少し考えて見ます。 ズバリ言うと「考えることは自分に話すこと」です。 もちろん、視覚的な思考というものは存在しています。 心理学的にも多くの実験により確かめられています。 それを否定はしません。 結局は何かを「イメージする」ということは、「頭の中で」同じ経験を繰り返すことなのです。 たとえば「イメージトレーニング」も同様です。 訓練をすると、「イメージする」ことによって、運動神経・筋肉にも影響を及ぼすことができるのだといいます。 (「運動準備」という状態に神経をさらすことによって、実際に運動するのと同じような効果を得られる) そして、私たちにとって、たいていの経験は言語を伴って記憶されます。 とくに、冷静に、論理的にものを考えようとすれば、「言語」抜きにはほとんど無理でしょう。 こう考えると、思考(内言)は、常に「対話的」でなければならない、というバフチンの指摘は重要です。 また、「考える為には二人でなければならない」といったヴァレリーの言葉も、参考になります。 (「『私が』『私に』話すのである以上、前の『私』は後の『私』が知らないことを知っているということになる。内部状態の差異というものが存在するのである」Cahiers I、立川健二・山田広昭『現代言語理論』による) ですが、先ほども申し上げたとおり、「書く」「話す」という行為自体に実は、「読む」「聞く」という行為が含まれているとすれば、やはり、「考えることは自分に話すことである」と言っていいと思います。 要するにヴァレリーの言う「内的差異」は、結局はデリダの言う「差延」なのです。 ふむ。 「古代史」の話からはだいぶそれました。 次は本当に、ここまでのお話を踏まえての「史料批判」の方法について、考えることにします。 お題目を決めておきます。 「テクストとテクストの影響について」です。 お楽しみに(笑)。 08-Sep-2002 昨日今日(2002.9.7~9.8)と、西さんトコの「考古文化研究会」主催の河上邦彦さんの講演会に参加するため、奈良県に行ってきました。 ・・・というわけで、旅日記風に書いてみたいと思います。 2002.9.7 朝、9:00に神奈川県大和市の自宅より出発。 10:36発の新幹線「のぞみ」にて、京都へ。 12:37、京都に到着。ここから近鉄に乗り換え、奈良県橿原に向う。 西さんとの待ち合わせは、14:00。 ここまでは、予定通り。順調だけど、天気予報で降水確率50%となっていたのが心配。 近鉄西大寺駅で、橿原線に乗り換え。 しばらくすると、予報どおりの雨。しかも、大雨。 ・・・とおもったら、この雨はすぐに止んで、日差しがさしてきた。 変な天気。 待ち合わせていた「八木駅」に到着。 西さんの携帯に連絡する。ちょっとすれ違ったりしてるうちに、また大雨。まさに豪雨。 西さんご夫婦と合流し、早速、西さんの車で移動。 この雨だから、古墳めぐりの予定を変更して、資料館に案内してくださるとのこと。 「田原本町郷土資料展示室」(「中央体育館」内)に到着。 有名な唐子・鍵遺跡の展示を行っている。 西さんの解説つきで、展示を閲覧。土器の編年の見わけ方など、とても参考になった。 また、展示では何も書いていなかったが、西さんに拠れば、「吉備」のものもいくつかあるという。 見ている間に雨が上がった。 おまけ:展示室の方も、親切な方で、たっぷり「解説」していただきました。 次に、「桜井市埋蔵文化財センター」へ。 須恵器の古いものの見わけ方を、西さんの奥さんから教えてもらった。 雨も上がったことだし、箸墓を見る。 車でぐるっと回りながら、見た。その後、車を停めて、全体を見た。 実は、私、箸墓見たの初めてなのです。 ふむ、思った以上に、木が生い茂って、何もない感じなのね・・・。 近くの「ホケノ山」に移動。 ホケノ山古墳の上に登って、三輪山→箸墓を180度見渡す。 三輪山、ホケノ山、箸墓・・・。 西さんが興味深いお話をしてくれた。 でも、ここではひみつ(笑)。 今度は、「金屋の石仏」。 でも、「石仏」は今回の目的ではなく、目的は、石仏のあるお堂の下。 肥後ピンク石の石棺の蓋が、「転がって」いた。 こんなところに、無造作に。 西さんから、肥後ピンク石の摂関のお話を聞いた。 肥後ピンク石の石棺はいくつか例があるけれど、本場の肥後にはないのだという。 でも明らかに九州の工人の手によるものだという。 「製品」を九州から持ってきた・・・らしい。 詳しくは、西さんが書いているからそちらを参考。 いろいろ想像が掻き立てられるけど、慎重に調べないと、ね。 面白い話に発展しそうな感じはする。 西さんの論考をもう一回読んでみようっと。 1日目はこれで終わり。 ・・・なわけはなく、飲みに行った。 例によって、飲みすぎる。 2002.9.8 6:30起床。 頭痛。やっぱり飲みすぎましたね。 7:30朝食。 8:30出発。 あ、ちなみに、西さんとは同じホテルに泊まってました。 西さんが私に合わせてくれたのです。 で、西さんと一緒にタクシーで出発。 橿原考古学研究所付属博物館に到着。 物怪守屋さんに会った。 で、河上邦彦さんの講演。 なんでも、河上さん、同博物館の館長になって、「営業」も気にしなくちゃいけないらしい。 ま、どこ行っても仕事は大変なものです。 河上さんの講演の内容は、「條ウル神古墳と巨勢谷について」。 スライドを使って、発掘の裏話から、未発表情報まで、楽しい講演だった。 12:00に講演は終わり。 西さんに誘われ、河上さんや研究会のスタッフの昼食会にお邪魔させていただいた。 ほとんど河上さんの独演状態。 ざっくばらんな気さくな方で、楽しい昼食でした。 「まずいビールの飲み方」から「南朝文化の影響について」まで、いろんな話を聞かせていただいた。 あっという間に15:00。 ここでお開きとなり、西さんたちと別れ、帰途につく。 西さん、ありがとうございました。 さて、これで終わらなかったのです。 帰りの新幹線「のぞみ」が、なぜか静岡に停車。 「あれ?」と思っていると、アナウンスが。 「富士川付近で大雨の為、しばらく運転を見合わせます」 結局、1時間37分遅れで新横浜に到着。 参った・・・。 ふぅ、というわけですので、もう寝ます。 おやすみなさい。 01-Sep-2002 今日も、「文献批判とは」です。もう5回目ですね。 ここまで、20世紀の思想界の状況をざっとですが、見てきました。 そろそろ、「本業(?)」である、「古代史」のほうへ向って進んで生きたいと思いますが、まだまだ道のりは長そうです(笑)。 はじめに、いつかの図を見ていただきたいと思います。 図参照 この図は、書くこと、そして読むことを一般的な通信モデルを基に、かわにしが書いたものです。 実は、すでに似たような図がたくさんあることを知りました。 たとえば、ブルデューは、「ハビトゥス」という概念を用いて、やはり同じような図を描いています。 また、ヤコブソンは、かわにしの図において「テキスト」とされる部分を更に細かく分析し、メッセージやコードといった概念を提出しています。 参考としてあげておきます。 図参照 さて、この図において、著者と読者の知識の違いによって、意味の違いが生じる、と以前言いました。 この点をより深く分析してみます。 まず、「意味」とは何でしょうか。 これについては、意味=言及(指示)対象説(意味はそれが指示する対象のことである)、意味=観念(概念)説(意味は「心像」あるいは「概念」である)、意味=行動説(意味は、その発話の状況と、それによって引き起こされる行動である)、意味=用法説(意味は言語の中におけるその使用である)という、主に4つの説があります。 私は、これらの全てが(意味の一部を言い表しているという意味で)正しく、またいずれも(意味の一部しか言い表していないという意味で)正しくないと思います。 最近注目されるスペルベル&ウィルソンによる「関連性理論」による「意味」の解釈が適当でしょう。 それは、意味は聞き手にとってより重要な、興味を惹く効果をもたらすものである、という解釈です。 「昨日の地震で学校がつぶれた」の意味は、 地震により学校の建物が倒壊した。 学校の経営が行き詰まっており、昨日の地震で(何らかの)決定的な損失を被り、破産した。 の、いずれもありえます。この場合、聞き手が「地震があった」という事実を知っていれば、それによって「学校が倒壊したことによって、児童に犠牲者が出たのではないか」という点に関心を示すでしょう。 だから、1)の解釈を採ります。もしかしたら、「地震があった」ことによって、経済的な損失を被り、破産したのかもしれませんが、通常聞き手が関心を示すのは、1)のほうでしょう。 実は、同じようなことをすでにブルームフィールドが述べています。 なんにせよ見かけは重要でない物事が、ヨリ重要な物事と密接な関係にあるとわかったとき、われわれは前者がけっきょく、『意味』("meaning")をもっているという。すなわち、それは後者―ヨリ重要な物事を『意味する』("means")のである。したがって、ことば発話は、それ自身は些末で重要では無いが、それが意味("meaning")を有するがゆえに重要であるとわれわれはいう。ブルームフィールド『言語』1933(三宅鴻・日野資純訳、大修館書店1971) さて、この立場を突き詰めてみると、結局、このようにいえます。 「意味は聞き手が決めるものである」。 したがって、多くの言語学者が、意識する/しないに関わらず「聴く立場」からの分析を中心にすえていたことは、無理もないことなのかもしれません。 これに対し、たとえば、柄谷行人はウィトゲンシュタインの言語ゲーム理論を援用して、「教える立場」の重要性を指摘します。(『探究I』) また、立川健二も「誘惑する立場」として、「聴く立場」に対置する概念を強調します。(『現代言語論』) 彼らの主張は、「意味は聞き手が決めるものである」という概念を突き詰め、それによって生じる「話し手の側の、(意味を発する側でありながら決定することの出来ない)不安定な状況」を鮮明に映し出すものと言うことが出来ます。 また、ウィトゲンシュタインは「意味は聞き手が決めるものである」にもかかわらず、話し手と聞き手の間にコミュニケーションが成立する状態をこそ、「言語ゲーム」として、描き出したのでした。 (ここらへんは、あくまで「かわにしによる理解」によって、「可能性の中心」(立川による)を引き出した理解といってもいいかもしれません。) 反対に、話し手の立場を強調するのが、「言語行為論」だと、ひとまずは言っていいでしょう。 その担い手はオースティンやサールです。 オースティンは、全ての発言は、「行為遂行的だ」と言います。 これは、例えば、「わたしは明日9時に会社に行く」と発言した場合、そのこと自体で「宣言」という行為を行っていることになります。 また、「危ない」と道路で叫んだら、おそらく、道路を横断しようとしている歩行者に「警告」という行為を行っているでしょう。 そういう意味で、全ての発言は、何らかの行為を含むのです。 端的な例は、「約束」です。 「明日の5時に○○で会いましょう」という、ありふれた約束は、考えてみると、非常に難しい概念です。 まず、この発言は相手に聞かれなくては「約束」として成立しません。 これは当たり前ですね。 次に、これは、相手が「約束」として受け取らなくては、「約束」として成立しません。 (あまり遠まわしなプロポーズでは、相手が結婚の約束と受け取ってくれないかもしれません。笑) また、この発言をしたからには、少なくとも「明日の5時に○○に行く」意思がないといけません。 ところが、仮にこの意思を持たなかったとしたら・・・。 翌日の5時に○○に彼が現れなければ、「約束違反」として彼は責められるでしょう。 そのときに彼が「昨日はああ言ったが、そんな意思はなかった。俺の言ったことを真に受けたのか」と言ったとしたら・・・。 それでも、「約束違反」は「約束違反」です。彼の言い訳は通常通用しません。 これが言葉の持つ威力というものです。 本人の意思とは無関係に、発した瞬間に、威力を持つ、という、そら恐ろしいような威力を持ちます。 さて、「約束」には、それこそ「お約束」の決まり文句が付き物です。 それは、自他共に確実に「約束」であることを認識する為に、必要なものです。 オースティンは、これを慣習として、重視しました。 わたしは、単なる言葉のほかにも、「指きり」や「婚約指輪」等といった行為もそれを補うものだという気がしています。 この慣習は、なにも「約束」という限られた行為にのみ存在するのではありません。 オースティンに拠れば、これは行為遂行的発言において、非常に重要なものであるとします。 結局は、話し手と聞き手が、意思の疎通を行う際に、共通の慣習、というものが重要である、という、言ってみれば、普通の話なのですが、このことが重要です。 (ウィトゲンシュタインに言わせれば、それが言語ゲームの規則というものです) また、現代語用論(pragmatics)の中心をなす、グライスは、次のような「意図」の重要性を説きます。 発話の内容が発話者にとって何らかの意味があること。 発話の相手がその発話に何らかの意味があることを了承すること。 相手がその意味を了承すること。 これらのことを、発話者は了解している必要があるというのです。 この「再帰的」な関係は、重要だと思います。 つまり、「発言をするからには、自分にとって意味があることで、かつ、「相手にとって意味がある」と発話者がわかっていること、そして相手にそれが伝わることを満たすように、発現をしなくてはならない」のです。 実際はそんなに難しいことではありません。 いつもやっているのですから。 現に、わたしも今、それを考慮して、この文章を組み立てているところです。 整理しましょう。 もう一度、例の図を見てください。 ここで、必要なのは、 <著者(話し手)から見ると> 1)発話の内容が発話者にとって何らかの意味があること。 2)発話の相手がその発話に何らかの意味があることを了承すること。 3)相手がその意味を了承すること。 <読者(聞き手)から見ると> 話し手が以上のことを考慮して発した言葉であることを認識しつつ、自己にとって「意味のある(より重要な)」解釈を選ぶ。 ということになるかと思います。 ここで、もうひとつの概念を追加したいと思います。 ホールの「オーディエンス」という概念です。 これは、主に社会学で、マスコミ研究・大衆文化研究などで使われる言葉です。 文字通り、「聴衆」です。 マスコミにしても、著作物にしても、「読み手」はたくさん存在します。 ここが通常の言語学が対象とする「会話」とは違う点です。 もちろん、送り手は、同じようにして、メッセージを送ります。 ところが、受け手は一人ではないのですから、そこに様々な解釈が生まれます。 当然、受け手は、それぞれに、それぞれにとって「意味のある」解釈を行うわけですから、みんな同じというわけには行きません。 そうすると、受け手は受け手同士で、「解釈のぶつかり合い」「せめぎあい」が行われることになります。 これはこのままジェンダー・エスニシティといった、ポストモダン的な重要な概念や、知に潜む権力性、エピステーメといった概念、それに、ブルデューのハビトゥスという概念ともつながっていきますが、今はここまでにしておきましょう。 (この問題は、カルチュラル・スタディーズという、ホールを中心とした研究活動の主な問題意識に直結しています) 「古代史となんの関係があるんだ」と思った方、いらっしゃいますか。 でも、よく考えてみると、「史料を読む」という、「歴史学」にとって最重要な作業は、まさに、今言った受け手の活動に他ならないのです。 この点をよく踏まえたうえで、なおかつ、「大衆化されたポストモダニズム」の陥った、安直な議論に進むことなく、「史料を読む」という作業を私たちはどのようにして行うのがいいのかを考える必要があるのです。 端的に言うと、私は「読者であることをやめなければならない」と思います。 まぁ、続きは、またの機会に・・・。 25-Aug-2002 今日は「文献批判とは―第4回」です。 先日は、記号学・構造主義から、ポストモダニズムまでお話しました。 まぁ、あの説明でよくわかったかどうか、不安ですが…。 なんにせよ、「よくわからん」とかでも、広い意味で興味をもたれた方は、ご自分でこれらの著書にあたってみるのが良いかと思います。 そして、私の説明の間違い、もしくは、鋭い批判やツッコミなどしていただければ、幸いです。 さて、今回は、そのポストモダニズム批判に転じたいと思います。 この批判の急先鋒は、マルクス主義文学批評家にして、哲学者のテリー・イーグルトンです。 彼は、ジャック・デリダ、ミシェル・フーコー、ジル・ドゥルーズらが登場してきた1960年代~1970年代には、彼らの問題意識を積極的に自身のマルクス主義に取り入れようとしてきました。 イーグルトンには、『文学とは何か』という、構造主義批判にして、文学理論の概説書でもある書物がありますが、この頃には、デリダらの思想を積極的に認めていたのだといいます(イーグルトン『ポストモダニズムの幻想』森田典正訳、大月書店、1998、「訳者あとがき」による)。 さて、イーグルトンに拠れば、ポストモダニズムは、1980年代以降の熱狂的な流行の過程で、極度に歪曲され、単純化され、すでに、弊害を生むものとなっているといいます。 私の理解により、私の言葉で説明してみたいと思います。 たとえば、デリダが行ったのは、「形而上学批判」ですが、これは、プラトン以来、ルソーそしてヘーゲルにいたるまで、哲学を支配し続けた「絶対的な理性」に対する批判です。 哲学は、物事の様々な問題を捉え、考えてきました。何によって・・・理性によって、です。 「人間とは何か」「国家とは何か」「歴史とは何か」「世界とは何か」「自然とは何か」「学問とは何か」・・・。 これらの問いを発し、考え、解決するのは「理性」であり「知」です。 そして、哲学は、「知の体系」として確立していきます。 もちろん、考える主体と客体についての考察がないわけではなく、この問題に「同一性」というかたちで決着をつけたのがヘーゲルだといえます(これを「現前性(presence)」といいます)。そうして、絶対的な知の体系をいったん完成させたのでした。 この「知の体系」に疑問を持つものがいました。 それが、ニーチェであり、ハイデガーであり、デリダです。 ここで、デリダは「脱構築」という考えを提示して、現前性の形而上学を批判します。 「脱構築」で行おうとしているのは、哲学者たちの記述がいかに、「現前性」の欲望によって支えられているか、いかに「差延(deferance)」の動きにさらされているか、といったことを、彼らの定義に従い、徹底的に追及することで、彼らの持つ構造がいかに軋み、解体していくかを見届ける作業ですが、これは、デリダのキーワードになりました。 このような次第ですから、デリダの問題意識は、決して単純なものではないのです。 もう、これ以上突っ込まれても私には説明できません(笑)。 また、フーコーは、エピステーメという概念によって、「権力と知との共犯関係」を暴きだしました。 ドゥルーズは、形而上学的な樹形図(tree)構造の概念に対し、リゾーム(根茎)的な構造を提出します。 ツリー構造という言い方をするとわかりやすい方もいるかと思いますが、「基点」から次々に枝分かれしていくというあの構造です。 たとえば、生物の進化の樹形図とか、チョムスキー的な文法の樹形図とか、○○家の家系図とか、はたまた、Microsoftのエクスプローラ風のフォルダ構造とか・・・。 これに対し、リゾームとは、任意のある一点が別の任意の一点に接合するような、不規則で反系譜的な構造です。 もちろん、構造そのものが問題・・・というよりは、むしろ、そういう思考形式が問題なのです。 彼らの考えを積極的に取り入れることで、「大衆化されたポストモダニズム」は、独り歩きを始めます。 たとえば、「脱構築」「現前の形而上学」「知の権力」「エピステーメ」といった彼らのキーワードは、独り歩きを始め、極度に単純化されます。 その結果、ポストモダニズムは以下のスローガンとも言えるテーマを共通して持つようになりました。 反本質主義(anti-essentialsm):たとえば、ジェンダー(社会的な性)にしても、ナショナリズムにしても、エスニシティ(民族性、人種性)にしても、階級にしても、逸脱者(outsider)にしても、彼らの本質的な部分によって形成されるのではなく、社会によって構築される概念である、とする考え。 客観的言説の否定:全ての言説は、あらゆる価値判断に影響される。したがって価値判断を伴わない客観的な言説など存在しない。 政治性、権力への関心:言説の持つ権力構造に注目し、あらゆる言説の持つ政治性を暴きだす。 これらは、「批判勢力」として存在する分には、それほど問題ではありません。 ですが、ひとたび、隆盛すれば様々な弊害を生むことになります。 たとえば、1の概念は、それ自体としては重要な概念です。また、これによって「少数派」もしくは「従属的な立場に追いやられた人々」への関心、視野が広がったことは間違いありません。 ですがひとたび「全てのものは反本質的(社会により構築された概念である)である」と主張した瞬間、自己撞着に陥ります。 なぜなら、この発言は「全てのものは反本質的という本質を持つ」と言っているからです。 また、形而上学はだめだ、とか、真理などない、とか、中心を据えて物を見るのはだめだ(脱中心主義)、とか、というポストモダニズム論者がよく口にするテーマは、実は、安直な2項対立(真実と虚構、中心と周辺など)に身をおく態度なのです。 この2項対立は、まさにデリダの批判した「現前の形而上学」の賜物なのです。 さて、本筋の話に入ります。 歴史学の方法とは、というテーマです。 そもそも私が統計学→言語学→文学理論→哲学と旅をしてきたのは、これを見出す為でした。 もっと切実には、「日本書紀をどう読んだらいいのか」という問題が原点でした。 今後、少しずつ、私の考えを述べていきたいと思います。 とりあえず、今日はここまでにしておきましょうか。 では。 18-Aug-2002 今日も「文献批判とは―第3回」です。 今日は、20世紀になって発展してきた哲学・思想的状況を見てみようと思います。 なぜ、そんなことをするのか、というと、当然ですが、史料とは何か、とか、歴史認識とは・・・といった根本的な問いを考える為には、現在の思想状況を把握しておくことも重要なことです。 私も、ここ数ヶ月の間で学び取ったことを、少しずつですが、消化して吸収していきたいと思っているところです。 しばらく、お付き合いくださいませ。 さて、20世紀の思想状況を反映する言葉として、「言語論的転回」(linguistic turn)というものがあります。 伝統的な経験論、観念論の哲学体系は、観念と実在、あるいは主観と客観、もしくは現実と精神という対立関係を基にし、実在・客観・現実というものは、精神の外に確固として存在しているものと考えていました。 これに対し、フッサールの現象学に代表されるように、実在・事実・客観には、直接には達することが出来ず、精神に表象されることによってのみ近づくことが出来る、だから、われわれは事実そのものを記述しようとすることをやめ、精神の表象を記述することに努めよう、という考えが生まれました。 目の前にあるりんごは、本当に目の前に実在しているかは知らん。少なくともわかっているのは、「りんごが見えている」という精神の表象だけだ。 こういう考え方です。 このような次第で、哲学の記述の対象は、観念から(精神の表象としての)言語・意味論を中心にすえるようになっていきます。 これが、第1の意味での「言語論的転回」です。 その後、スイスのソシュールという言語学者が、画期的な言語観を打ち立てました。 ソシュール以前の言語観は「言語名称目録観」あるいは「博物館の神話」と言われています。 どのようなものかというと、「世界には先に意味があり、それを表す為のラベルとして言葉がある」という見方です。 「ワンワンと吠える人間に飼いならされた動物」という意味・概念・実物がすでにそこにあり、日本語を使う人々は、これをイヌと名づけたという見方です。 ソシュールはそうではなくて、「イヌ」という言葉を使うようになったから、「イヌ」を指し示す概念が分化して、意味が生まれるのだ、と考えました。 つまり、こういうことです。 「イヌ」と「オオカミ」の違いは、「イヌ」と「オオカミ」が生物として決定的に異なるから、別の語が割り当てられたのではなく、「イヌ」「オオカミ」という言葉の区別があるから、「イヌ」と「オオカミ」という概念は区別されるのだ、と。 このことによって、言語学は飛躍的に発展しました。 また、この考え方は、言葉に限らず、「記号」という概念として、様々なものを考える時の概念装置として重宝するようになります。 これを「記号論」と呼びます。 ソシュールは「記号」について、構造的な理解を進めました。 まず記号(シーニュ、sign)には、記号表現(シニフィアン、signifiant、「意味するもの」)と、記号内容(シニフィエ、signifie、「意味されるもの」)とがあり、これが不可分な形で結びついたものであるとしました。 これは、言葉と実物の関係では決してなく、あくまで心的なものです。 このシーニュは、言語システムを構成する重要な要素です。 ここで重要なのですが、この言語システムは、シーニュの総和として存在するのではなく、あるシーニュと他のシーニュとの関係(差異)に基づくシステムだということです。 シーニュの単体は実体を持つものではなく、他のシーニュとの関係によってのみ定義される、と言い換えてもいいかもしれません。 このような「差異のシステム」として言語構造を形作ったのがソシュールでした。 さて、このような「差異のシステム」「関係のシステム」という捉え方は、重要なキー概念になります。 このように、物事の構造を捉えようとする試みは、主にフランスにて構造主義としてひとつの潮流を築き上げていきます。 レヴィ=ストロースは、「構造人類学」という学問を打ち立てました。これは、古代史にも関係がありますので、ご存知の方もおられるでしょう。(ちなみに、日本では小松和彦等が記号論的な民話の分析を試みています) 他にジャック・ラカンは「精神分析」で、ヤコブソンは「音韻論」の分野で構造主義を確立しました。 また、ロラン・バルトは「物語の構造分析」を行ったし、アルチュセールは「マルクス主義」において構造主義を確立しました。 それぞれ重要な人物なのですが、いずれお話したいと思います。 実は構造主義という潮流には、もうひとつの概念が内在しています。 これがポスト構造主義という概念で、構造主義の作り出す構造(静態的になりやすい)を解体し、混沌とした生成・変動の過程を見る、という考えです。 なんのこっちゃとお思いかもしれません。 私も理解した限りで説明させていただきます。 そもそもソシュールは言語研究の持つ二つの側面を提示していました。 「共時態」「通時態」と言われるもので、よく「記述的」「歴史的」と言われますが、これは大体合ってますが誤解をはらみます。 「ぱっと見」「ぱっと聞き」はそんな感じだと思ってください。 詳しく言うと、言語というのは長い時間の流れで見ると、すこしずつ変わっていきます。 ですが、わたしたちは自分の使っている言語が変化しているとは思っていません。 言語はすこしずつ、しかし常に変化します。使っている本人も気づかないうちに。 この「ある人が使っている(変化していない)言語」について研究する視点が「共時態」。 「長いスパンで変化していく言語」を研究するのが「通時態」。 ということです。 構造主義はこの「共時態」研究に対応するものです。 ポスト構造主義は「通時態」研究に対応します。「ポスト」なんていうと、構造主義の対立概念と見られがちですが、そうではなく、いわば双子なのです。 (この名称はアメリカがフランスからこの潮流を輸入した際に、アメリカに影響を与えた順で名づけられたもの、と言われています) ですから、ラカンもバルトもポスト構造主義者とも呼ばれます。 このポスト構造主義の影響を受け、デリダ・オースティン・クリステヴァ・フーコーなどは、言語の持つ「力」に目を向けます。 彼らの影響を受け、社会学などの人文系の学問で、認識論の転回が起こりました。 これが、第2の「言語論的転回」です。 「読むという行為、書くという行為は、社会的・個人的価値観から自由になれない」 「ジェンダー(社会的に構築される性、「男らしさ」「女らしさ」)をはじめとする諸概念は、言語によって形成される」 といった点に注意を払うのが、「言語派」「ポスト・モダン」といわれる人々です。 これにより、社会学をはじめとする人文系学問は、様々な認識の転換を迫られることになります。 歴史学も例外ではありません。 このような歴史学の認識論の転換を求める論者に上野千鶴子、野家啓一などがいます。 彼らについては、またお話します。 今日はここまで!! あ、「かわにしの、かわにしによる、かわにしのための用語集」(笑)を作りました。 暫定公開しておきます。よろしければ、ご覧ください。 04-Aug-2002 今日は、「文献批判とは―第2回」です。 何回まで続くかわかりません(笑)。 今回は、「歴史の史料とは」ということで、考えてみます。 ラングロア&セニョボスは、『歴史学研究入門』という本のなかで、このように言っています。 「歴史は史料で作られる。史料とは、むかしの人間が残した思想や行動の跡である。…史料がなければ歴史はない、ということである」<ラングロア&セニョボス『歴史学研究入門』> これは、近代実証主義歴史学における根本的概念といっていいでしょう。 「歴史」というのは、つまり「史料」なのです。 さて、ラングロア&セニョボスは、史料について以下のように分類しました。 (1)直接的な体験・・・今日地震がおきた、とか、昨日の天気は晴れとか。NYのテロをNYで直接見た、とか。戦争体験者の証言など。 (2)間接的な伝達・・・自分の目では見ていないけれども、何らかの形で知っている歴史上の事件。 (2.1)物理的史料・・・地震の残骸やNYテロの残骸、アフガニスタンの石仏の跡など。考古学的な発見。 (2.2)精神的史料・・・歴史書や日記、手記、碑文、手紙、外交記録、メモなど。 大方、このような分類で、たしかに、正しいでしょう。 所謂文献史学が対象とするのは、2.2の精神的史料です。 さて、これもさらに細分化することが出来ます。 (編年史、日記・・・という分類もありますが、今は、私なりの分類をして見ます) (2.2.1)「過去に起こった事実」の記述を意図しているもの。 (2.2.2)「過去に起こった事実」の記述を意図していないもの。 このような分類です。 「過去に起こった事実」というのは、読んでのとおりで、どんなに個人的なことであろうと、また、世界的なことであろうと、同様です。 つまり、日記・歴史書・新聞などの事件報道などです。 また、より厳密に考えれば、「現在の出来事」も同じであるといえます。 なぜなら、「今」という概念は、私たちの通常の意味では一定の期間をさしているかのようですが、厳密には「点」だからです。 1秒前でも一瞬でも刹那でも、過去は過去、というわけです。 また、書いた本人が体験したか否か、によって更に下位区分が出来ます。 (2.2.1.1)書き手が体験したもの (2.2.1.2)書き手は体験していないもの さて、過去に起こった事実の記述を意図していないものとは、どういうものでしょうか。 これは当然、小説や詩などの文学作品や、あるいは、論文や演説など、また、エッセイのようなものでしょう。 ほかには、命令書や立て札・荷札などもこの類のものでしょう。 しかし、論文にしてもエッセイにしても、手紙にしても、「過去の事実」を引き合いに出すことがあります。 ですから、ひとつの文書の中でも、この区分は分かれるのだと考えたほうがいいでしょう。 最初のセンテンスは2.2.1に、次のセンテンスは2.2.2に・・・といった具合に。 さて、「過去の事実を記述する意図が無い」ものは、歴史資料として価値は無いでしょうか。 そんなことはありません。 当然ながら、そこには、史料として価値のある記述が含まれています。 むしろ、「直接史料」として価値があると見ることも可能です。 (古田武彦が『万葉集』の歌に価値を見出すように) どのような部分に含まれるのかといえば、たとえば、「漱石」や「鴎外」などを読めば、すぐにわかるでしょう。 どうしたって、当時の時代背景が私たちの前に浮かんできます。 漱石にしても鴎外にしても、歴史事実の記述をする意図は無く、作品の世界を描き出しているだけなのですが、私たちは、そこに「歴史性」を見出すことが出来るのです。 私たちが「歴史」を感じるのは、どんなときでしょうか。 テレビドラマの再放送を見て、「歴史」を感じたことはありませんか。 たとえば、主人公の使っている携帯電話が異常に大きく感じたり、100円玉ひとつで缶ジュースを買っていたり、そんな些細なことでも「歴史性」は潜んでいるものです。 「黒電話」や「ガチャガチャ回すチャンネルのテレビ」や、「白黒テレビ」ならなおさらでしょう。 (いまに、「分厚いテレビ」もその仲間入り・・・でしょうかね) もうすこし、突っ込んで言うと、この文章も、おそらく何十年、何百年か後に読むと、「難解な文章」になっている可能性があります。 なぜなら、「携帯電話が異常に大きく感じ」る背景には、「2002年ごろの携帯電話はもっと小さい」という事実があることを前提とした表現だからです。 このような現象が起こるのは、先日の「モデル」が関わります。 あの図で「著者の知識」と「読者の知識」のギャップ・・・そのうちの、著者と読者の住む「時代」の違いによるギャップ・・・これが、「歴史性」をかもし出しているのです。 理論的には、ミハイル・バフチンのディアローグ(対話)主義、ジャック・デリダの差延(defferance―デリダの造語、相違する+遅延する)、ジュリア・クリステヴァの間テクスト性、ミカエル・リファテールの文体論、バーバラ・ジョンソンの批評的差異などの概念が参考になるだろうと思いますが、目下勉強中ですので、あしからず(笑)。 さて、今回は、「形而上学的」に分類を行ってみました。 しかし、実は、「歴史史料」は、もう少し、深く考えてみようと思っています。 「体験する/しない」の区分は・・・とか、「書く/読む」と「聞く/話す」とか・・・。 とりあえず、今日はここまで! 23-Jul-2002 今日は、「文献批判とは」ということで考えてみようと思います。 実は、ここのところ、「日本書紀に立ち向かうための方法」を模索していて、その中で、この設問が避けられなかった、というのが正直なところです。 まず、「文献批判」ということは、対象とするのは「文献(テキスト)」です。 「テキスト」ということは、つまり、「文字で書かれた情報」です。 すなわち、極論をすれば、「文字を媒介としたコミュニケーション」の一つだということが出来ます。 「文献」の著者は、「何か」を伝えたくて、書いたのです。読者は、その「何か」を掴もうとする存在だということが出来ます。 さて、認知心理学の知見に拠れば、「読み」も「書き」も本質的には同様の作業であり、 「こうして書き手は読み手の理解過程をシミュレートしながら文章を組み立てていく。読み手の方は書き手がどんな方法で組み立てたかを手がかりにして意味を構成しようとするのである。いわば書き手と読み手の共同作業によって意味は構成されていく。まったく同一の文章であっても読み手のいだいている知識や関心によって、異なる意味がもたらされることになる。」内田伸子「談話過程」大津由紀雄編『認知心理学3言語』所収 と、いうことができます。 少し、言い換えると、我々は、「読み」という作業においても、「書き」という作業においても、それぞれの持っている知識の影響を十分に受けながら、また、受けることを予想しながら、意味を構成しているということが言えます。 ところが、たとえば「読み手」によって、知識に違いがあれば、その結果、同じ文章でも構成される意味が異なる、ということはあり得ることです。 では、これを「歴史学の史料」に当てはめて見ましょう。 たとえば、陳寿(三世紀中国)の『三国志』を考えてみればよいと思います。 当然ながら、陳寿は、「読み手」の知識を予想しながら、『三国志』を書きます。 ですが、予想する「読み手」というのは、あくまで同時代の同じ文化の中にある人々でしょう。 これは、想像のつく事だと思います。いくらなんでも「二十一世紀の日本人」を想定して書いたはずはありません。 また、「読み手」である我々は、当然「三世紀の中国人」とまったく同じ知識を有しているわけではありません。 ある部分では、「三世紀の中国人」の知らない知識を有していますし、「三世紀の中国人」の常識的な知識を知らないこともあります。 「書き手」の想定したものと「読み手」のそれでは、ギャップがあるわけです。 これを図示すると、このようになります。 図参照 さて、我々は今、何を知ろうとしているのかといえば、究極的には、「歴史」が知りたいわけです。 従って、当然ながら、まず「テキスト→読者」間において、「知識」によって付加されたり、除去されたりする情報をなくす必要があります。 つまり、「テキスト」には、何が書かれているのか、ということを忠実に読み取らねばならないのです。 このための方法は、実は、いくつかすでに存在しています。 たとえば、「計量的(今まで「統計的」と言ってきましたが、こちらのほうがよりよい表現かもしれません)」な手法などです。 また、「構造主義的な文学理論」も参考になるでしょう(直接的にはロラン・バルトの「物語の構造分析」やミハエル・リファテールの「文体論」など。またクリステヴァの「間テキスト性」などの概念も…)。 他にも言語学的な諸理論が有用なのかもしれません。 その後、「著者→テキスト」間で、「知識」によって、付加・削除される情報をなくす努力をせねばなりません。 こちらについては、「書く」という作業について、より認識を深めた上で、考えていかなければならないでしょう。 これを詰めることによって、より良い方法論が考え出せるのだろうという気がしています。 ま、のんびりやりやしょう(笑)。 29-Jun-2002 最近、「統計学」「認知心理学」「言語学」などに少し寄り道してました。 そういった中で、少し考えたことを、お話します。 1.文献(テキスト)に対するときの標本・母集団の関係について 文献研究に統計学を適用するということは、文献史料の一部を標本として扱う、ということに他なりません。 一般的な社会統計調査や実験結果とは、少し違います。 その前に、「標本」と「母集団」について、少し説明しておきましょう。 「統計」という言葉のイメージと馴染みやすい例を挙げましょう。 たとえば、「日本人全体の何らかのデータ」を調査したいと思ったとします。 「収入はどのくらいか」とか「家族は何人」とか「恋愛観」や「人生観」でもいいと思います。 本当に「正確な」データを収集するとすれば、当然ながら、「日本人」全員を調査する必要があります。 ですが、実際問題として、それは不可能ですので、「無作為」にいくつかのデータを抽出して(百人とか千人とか)、それによって、「日本人の収入」だとか、「日本人の家族構成」だとかを調べようとします。 この場合、「日本人」全体が「母集団」で、「抽出された百人とか千人」が「標本」です。 ・・・で、この「標本」を基にして、平均(平均とは、データ全体の代表となる値(代表値)のひとつです。他には中央値-ミディアンや最頻値-モードなど)を算出したり、標準偏差や分散(分散は、データの「散らばり具合」を表す値(散布度)のひとつです。他には「範囲」「四分位数」「散らばり指数」など)を算出したり して、データ全体がどのようになっているのか、調べたり、同じようにして手に入れたたとえば米国や韓国のデータと比較したりするわけです。 もちろん、本当に調べたいデータの一部分を取ってきているわけですから、本当に調べたい「日本人」全体とは、厳密には一緒ではありません。 ですが、ちゃんと抽出さえ行えば、だいたい一致するといって、間違いではありません。 一般的には標本の数を増やせば、かなり一致すると見て差し支えは無いといわれています。 さて、では、今度は古田氏が行った、「魏志倭人伝の「壹」の数の調査」を見て見ましょう。 この場合、「母集団」は何でしょうか。 古田氏は、「母集団」は、「魏志倭人伝全体に現れた全ての「壹」」だといいます。 だから、これは全数調査だ、と。 誰だったか忘れましたが、これに対し、これは「標本」だと、批判した論者がいました。 歴史上存在した全ての版本の「壹」が母集団だ、というわけです。 要は、母集団の設定の仕方が、非常に難しいのです。 たとえば、「隋書の「達」」の用例調査を行った場合、その「母集団」は何でしょうか。 これは、「全数調査」にあたるでしょうか。 用例調査を行う意味を考えると、つまり、隋書執筆当時に使われていた「達」の用法を知りたいわけです。 さらに、言葉の使い方の「個人差」や、文章の種類(歴史書とか詩とか)による用法の違いを考慮すると、厳密には、隋書の執筆者の「達」の用法を知りたいのです。 そうすると、「母集団」は、「隋書執筆者が隋書(のような書物)を書くときに用いた全ての達」と見なすことも出来ます。 これは、「隋書」に実際に現れた「達」の数と一致する、という見方も出来るのかもしれません。 そのように見なすとすれば、これは「全数調査」だと言い得るのかも知れません。 ですが、言語学では、「隋書執筆者が隋書(のような書物)を書くときに用いた(用いるであろう)全ての達」を母集団と見るようです。 そうすると、「隋書」に実際に現れた「達」は「標本」だ、ということになります。 ですが、この場合、注意すべきことは、この「標本」の抽出は、「無作為」ではない、ということです。 このような点は、非常に微妙な問題をはらみます。 十分注意が必要です。 2.切断の効果 たとえば、こういう調査結果があります。 大学入試時の成績と、大学入学後の成績には相関関係は無い、だから、入試は有効ではない、と。 これは正しい議論でしょうか。 実は、そうではありません。 「大学入学後の成績」は、実際のところ、「大学入試時の成績」が良かった人だけの集団の成績です。 もしも、「大学に不合格の人が、同じ教育を受けた場合の成績」をも含めれば、やっぱり相関は認められると予想できます。 「大学入学後の成績」は、決して、「大学入試時の成績」と同じ母集団からの値では無いと同時に、本来の母集団のうちの一部で切断して、それ以上や以下のものだけの集団で、統計を行うと、正しい結果が得られないことがあります。 それを、統計学的には「切断の効果」と言ったりしますが、この点にも注意が必要です。 たとえば、調べたわけではありませんが、『漢書』の中で、皇帝以外に没年齢が記されている場合、これを用いて、「漢代の平均寿命がわかる」でしょうか。 多分、無理です。 なぜなら、『漢書』という歴史書に「没年齢」が載るとすれば、全員に記載があるわけではなく、「特別長寿だから」とか「あまりに若くして亡くなったから」とかという理由があるだろうと考えられます。 従って、ここでも、「切断の効果」を気にする必要があるのです。 こういう間違いは、しやすいものです。 これも十分注意が必要でしょう。 3.統計学の方法 さて、そうすると、文献資料というのは、統計にとって、かなり制限された状況だということがわかります。 とくに、標本抽出の作業が、容易ではない。 「母集団」の設定の仕方を慎重に行い、「切断の効果」を十分注意すると、標本抽出は、非常に限られたものとなります。 おそらく、そうなると、「正規分布」を必要とする推定・検定の方法(パラメトリック法といわれる)は、難しいのかもしれません。 ですから、「ノンパラメトリック法」が重視されるべきなのかもしれません。 回帰分析や多変量解析も、微妙な方法です。 なぜなら、それは、「多数の標本抽出によって正規分布が十分認められる」場合に、使いやすい方法だからです(たしか)。 ふむ。 今のところ、こんな感じに考えています。 また、そのうち、まとまったお話が出来るかもしれません。 今日のところはこの辺で。 1-Jun-2002 今日は、今後の研究のひとつの指針について、書きたいと思います。 ・・・と、言うと、何か大事のようですが、まぁ、今もっている構想というか、こんなことをやってみたらどうだろうという、そういうお話です。 時間が掛かりそうなことなので、予め「ぶっちゃけ」てしまおう、というわけです。 さて、先日もお話したとおり、「九州王朝説」を抜きにして記紀を批判する、というテーマですが、それだけでは、具体的な成果は恐らく得られないでしょう。 なぜなら、すでに、「九州王朝説抜き」という研究は多数あります。そこには、「天皇家一元」と古田氏が非難する立場からの解釈もありましたが、そうでもないものも、たくさんあります。 とはいえ、そういう中へ、なんの「方位磁針」も持たずに踏み込めば、迷子になること間違いなしです。 森博達氏は、『日本書紀の謎を解く』の中で、書紀を「森」に喩えていましたが、まさに、そのとおりです。 森氏の場合、方位磁針となったのは、音韻論でした。 これと、書紀の区分論とを組み合わせ、「森」を歩く。 これは大事なことだと思います。 付け加えれば、古田氏はまさに、「九州王朝」を方位磁針にして、「森」を歩いたのでした。 森氏の研究には、なぜ価値があるのか。それは、出発点が徹底した「音韻研究」だからです。 記紀歌謡の仮名を抜き出し、それを分類するという、一種地味な作業を基盤にしたものであるから、方法として非常に安定しています。 小川清彦氏の暦日研究も、同じ意味で、重要なのです。 「古代史ブーム」と言われる中で、よく、いきなり大きな「世界観」の構築をしてしまう論者がいます。 アマチュア論者の陥りやすい困った点なのですが、実は、それが「古代史の魅力」ともされている。 でも、本当に「実証的」で「客観的」な研究成果というのは、なかなか「スケールの大きな結論」にいたることは出来ません。 「ささやかな発見」に見えるものです。 西さんが「文献史学は、絵筆で絵を描くようなもので、考古学はドット(点)で絵を描くようなもの」というようなことをおっしゃっていましたが、本当は、文献史学も「ドットで」描かなければいけないのです。 少なくとも、そういう研究は大事だと思います。 さて、私は、かつて「心理学」をかじったことがあります。 本当に「ちょっとかじった」程度ですが。 その中で、「統計学」というものを学びました。 実は、「数理統計学」という学問の、かなりの部分で、「心理学」が関与しています。「心理学の要請にこたえる形で、心理学者の手によって」統計学が進歩した面があります。 心理学実験の効果の検定や、標本調査・因子分析などです。 そういうわけですから、「心理学」を勉強する際には「統計学」は必須項目となります。 「統計学」を「歴史学」に利用した例としては、古代史では安本美典氏が著名です。 (実は、彼は心理学者でもあります。学生時代の統計の教科書に、彼の名前があったときには、ビックリしました(笑)。 安本美典・本田正久『因子分析法』は、その名のとおり、因子分析の入門書として良書です) 安本氏は、統計学を駆使して、「古代の天皇の在位年数は十年程度だ」としました。 私はその結論には疑問を持っていますが、彼の方法自体には、問題は無いと思っています。 彼の方法について、多くの反論がありましたが、私の目から見ても、「統計学を知らない」批判もあり、また、安本氏の結論自体にも問題があり、このことで「数理統計学を古代史に適用する」気運が盛り下がってしまうとすれば、残念です。 私は、統計学上の方法を、記紀批判に応用できないか、と考えています。 もちろん、そのような試みは決して少なくは無かった。 少なくは無かったけれども、注目はされなかった。 むしろ、「あやしい」と見られがちだった。 それは、確固とした、「方法論」として確立できなかったため、と考えます。 歴史学、特に文献研究に「統計学」を応用することは、世論調査や社会調査といった所謂「統計」とも、心理学における「統計学」とも、同じではありません。 それなりに、「歴史学」「文献史学」に適合する形の「統計理論」の確立を目指さなくてはいけないでしょう。 「借り物の統計学」のまま、文献にぶつかっても、「戦う」ことは出来ないでしょう。 ・・・大きなテーマですね。 だから、予め「ぶっちゃけて」しまおうと思ったわけです。 こっそり研究して、一気に発表してみんなを驚かす・・・なーんてテーマじゃないですもの。 というわけで、まずは、「統計学マスター」を目指さなくてはいけないことになりました(笑)。 これとは別に、世界的な「統計学の歴史学への適用」の実際を、収集しなくてはなりませんね。 情報をお持ちの方がおられましたら、よろしくお願いします。 21-May-2002 今日は、「九州王朝説と記紀」について、です。 古田氏が、「九州王朝説」という概念を提出したのは、古田氏の第二著『失われた九州王朝』でした。 これは、第一著『「邪馬台国」はなかった』を受けて、魏志倭人伝の分析で得た、その到達地点を基に他の「中国側史料の分析」によってたどり着いた概念だと思っています。 ここで貫かれていたのは、「中国側同時代文献から後代文献である記紀を見る」という立場でした。 思えば、松下見林に始まり、それまでの歴史家たちは、「記紀を基に中国側文献を見る」という立場でした。 だからこそ、多くの矛盾を、中国側の誤りとして処理しえたのでした。 ところが、津田左右吉氏以降、記紀をも疑うのが主流となった。 しかし、それでも記紀は主要文献であり続けたのです。 記紀を一切無視し、中国側文献だけに拠ったとき、どのような結論が得られるのか、それが「九州王朝説」だと思っています。 これが、「九州王朝説」論者の立つべき基本認識だと思っています。 もちろん、『失われた九州王朝』という本の中では、記紀についても触れられています。 ですが、古田氏の「九州王朝説」の骨組みは、あくまで、前半の「連鎖の論理」までで、組みあがっているのです。 私はそのように理解しています。 だから、私は古田氏の「九州王朝説」を要約して「九州王朝とは」という文章を書きましたが、あのような構成となっているのです。 それまでの諸説の矛盾を洗い出し、記紀と中国文献を「切り離す」ときにだけ、記紀は登場するのです。 これが基本認識だと思っています。 決して「記紀の解釈」から生まれた説ではない、ということです。 さて、古田氏は記紀に対しても多くの見解を提示しています。 第三著『盗まれた神話』はその基礎となるものです。 ですが、古田氏は『盗まれた神話』の時点では、もうすでに「九州王朝説」の立場に、どっしりと腰を落ち着けているのです。 基本的には「九州王朝説の立場から、記紀はこのように解釈しうる」。 それを提示したものです。 決して、記紀の史料批判の中から「九州王朝説」という帰結を得たのではない。 『盗まれた神話』の構成からも、古田氏の立場は明らかです。 「第一章 謎にみちた二書」で記紀の持つ矛盾点・疑問点を提示し、「第二章 いわゆる戦後史学への批判」でそれまでの説に疑問を投げかけ、「第三章 『記・紀』に見る九州王朝」で、九州王朝説からの解釈を図る。 こういう構成です。 「盗用説」という、あるいは「古田氏の説の代名詞」とも、見なされる説は、あくまで、「九州王朝説」を前提にした議論なのです。 もちろん、私が言うまでも無く、古田氏にとっても、これは当然のことです。 論理的には、このような「構成」を持つのが「九州王朝説」です。 ですから、記紀に対するときの古田氏は、時に主観主義に走りやすい、という危険があります。 特に「盗用説」は、九州王朝側の史書が残されていない以上、事実上、フリーハンドです。 証明不可能、だが事実。 これは、「造作説」が陥った甘いワナでした。 また、「盗用説」による解釈を進めていって、それによって「だから九州王朝説が正しいんだ」という論法は、「盗用説」の論理的基盤はあくまで「九州王朝説」であるという根本の関係を忘れたものといえます。 むしろ、「今まで謎とされてきたところに、九州王朝という視点を導入してみたら、どのような理解が可能か」という立場であるべきだと、私は思います。 少なくとも、古田氏はそういう立場で『盗まれた神話』を書いたはずです。 古田氏は、基本的には、この作業を重視してきたのでした。 「一つの仮説を立て、それが多くの現象(歴史学では史料事実や遺物の事実)をいかに過不足なく説明できるか―その検証こそ学問だからである」という『失われた九州王朝』の「結び」の言葉を、まさに、実践してきた・・・そういうことです。 もっとも、最近の『壬申大乱』あたりでは、もはやすっかり、「九州王朝説」に腰を落ち着けすぎている感がありますが・・・。 このような「九州王朝説と記紀」の関係ですが、私は、もう一度、記紀を「九州王朝説抜き」で捉えなおしてみるのも、ひとつの方法では無いかと思っています。 古田氏の「九州王朝説」の、もうひとつの功績として、「天皇家以外に日本列島を統一し、たとえば、天皇家を支配した勢力もありうる」という、言葉で書くと、あまりに当たり前ですが、その可能性を提示した点があると思います。 この点を重視して、あくまで記紀を中心に、「記紀だけから言えること」を積み重ねる必要もあると思うのです。 「九州王朝説から見た記紀への解釈」と「記紀自身の史料批判」とは、別個に扱われるべきだ、ということです。 まぁ、こうやって「書いてみる」と、何てことは無い話ですね(笑)。 最近、改めてそのように思った・・・ということです。 09-May-2002 最近、ほうぼうで、森博達氏『古代音韻と日本書紀の成立』『日本書紀の謎を解く』、小川清彦氏「日本書紀の暦日に就て」(内田正男『日本暦日原典』所収)を紹介しています。 特に、意図があってのことではなく、まぁ、たまたま、なのですが。 私は、両研究については、5~6年ほど前、古代史に興味を持ち始め、調べ始めた頃に、偶然大学(当時、学生でした)の図書館で見つけ、目を輝かせた記憶があります。 そんなことはさておき、最近になって、ようやく、というか、この両研究が、「九州王朝説」に与える影響、というのを考えるようになって来ました。 古田氏は、わりと、冷めた、というか、あまり関心を払った様子がないのですが、私は、この両説が「九州王朝説」に与える影響は、多大だ、ということに今更ながら気づいてきました。 私は始め、 「これは画期的な研究だ。でも、九州王朝説を抜きにして、研究を続けたら、うまくいかないかもしれない。 どこかで、九州王朝説の観点からの解釈を導入せざるを得ないのではないか」 と思っていました。 ちょうど、古田氏も似たような見解だったようです。 最近は、むしろ逆に、 「九州王朝説は、森氏や小川氏の研究を抜きにしては、限界がある」 と思い始めています。 「盗用説」です。 もしも、両研究が示すごとく、雄略紀以前が、八世紀にほど近い時代に書き下ろされたものであるなら、 「九州王朝史書を近畿天皇家が盗用した」 という仮説は、成り立たないのです。 もしくは、非常に成り立ちにくい。 また、以前、川村明氏との間で、「推古紀の十二年のずれ」問題を論じ合いましたが、私は、今また、揺れています。 川村氏はくしくも、森氏の所説を引いておられましたが(川村氏の論点は「推古紀は、雄略紀以前と性質が似ており(β群)、倭文臭の濃い漢文である。だから、「から」と読ませるつもりで「(本来の国号は隋だが)唐」と記したのだ」というものでした)、私は、別の論点から、「十二年のずれ」にとって不利な、状況を見出すこととなりました。 それは、「推古紀は正しく元嘉暦である」ということです。 暦は「十二年」ずれていないのです。 これも、ひとつの史料事実として(以前唱えた自説に大変不利ですが)、提示させていただこうと思います。 ただ、まだ、いろいろな可能性が考えられる段階です。 たとえば、 ・推古紀の原史料は、干支で年月を示しただけのもので、あとから、「元嘉暦」で正しく暦が割り振られた。 →だとすると、雄略紀以降も、後のいずれかの段階で、暦が割り当てられたと見ざるを得ません。 →九州王朝側史料は元嘉暦、近畿天皇家側は干支ということも、あるのかもしれません。 →推古朝の金石文では、干支だけの表示が、一般的です。(法皇年号もありますが) などです。 こういった点は、「ずれ」以前に、「日本書紀の成立過程」をより深く詳細に、明らかにしなければ、語れないだろうと、思うようになってきました。 もちろん、「景行九州遠征」などに関しても、見直す必要があるのかもしれません。 私が提示した「欽明紀」も、再検討を要します。 ただ、私は、「盗用説はもうだめだ」と思っているのではないのです。 まだそこまでは踏み込んでいません。 なぜなら、森氏の研究の基礎は「万葉仮名」であり、小川氏の研究は「暦日」です。 そして、あくまで「日本書紀編纂過程」に対する、見解であるということが重要です。 「ネタ本としての九州王朝史書の盗用」という可能性もまた、十分にあります。 これはむしろ当然なのかもしれません。 古くから、「日本書紀は芸文類聚などによる修飾が多い」とされてきたわけです。 古田氏は近年、「盗用=文面どおり、九州王朝史料」と見なす向きがありますが、これは誤りだろうと思います。 森氏の研究に関しても、やはり「α群は中国人の手による」と見るにしても、そこに九州王朝の関与は考えられないだろうか、という観点は必要だという気がしています。 これは、大きなテーマです。 今まで以上に、慎重にひとつひとつ吟味していきたいと思います。 03-May-2002 今日は、「知」の続報です。 といっても、まだ、問題を整理しているだけですが。 まず、「知」の用例ですが、漢字としての「知」の意味としては、大方、以下のようです。 【知】 しる。 言葉として口から発し得る心内の認識。 知、詞也。从口矢。説文 心える。みとめる。認知する。 さとる。感づく。覚識する。 見わける。弁別する。 おぼえる。記憶する。 きく。聞きしる。 見る。見てしる。 したしむ。まじはる。 あらはれる。 つかさどる。治める。とりしまる。 知、主也。<字彙> 乾、知大始。<易経、繁辞上> 子産、其将知政矣。<左氏春秋、襄公、二十六年>知、国政<注> 三年而知鄭国之政也。<呂覧、長見>知、猶為也。<注> 左伝、襄二十六年、公孫揮曰、子産、其将知政矣。魏了翁、読書雑鈔、後世官制上知字、如知府知県、始此。<通俗編、政治、知> しらす。しらしめる。告げる。 しらせ。しらせること。 しること。 しる所の多いこと。 ちゑ。 しりあひ。交友。 まじはり。交游。 もてなし。あしらひ。 欲。むさぼる心。 たぐひ。たぐふ。あひかた。 病いえる。 知事。 諸橋大漢和辞典 さて、「つかさどる」の用例ですが、少し吟味したいと思います。 左氏春秋の例です。 ここに登場する「子産」という人物、彼は、鄭の宰相(大夫?卿?うろ覚えです。ごめんなさい)です。 ここのお話は、鄭伯が、(宰相として国政を預かる前の)子産らに、領土を与えたときに、子産は、礼儀を重んじてこれを辞退しました。 結局は鄭伯に説得され、受けるのですが、このやりとりを聞いていた公孫揮という人物が、彼を評して言った言葉だとされています。 「子産は、きっと政治をつかさどる人物になるだろう」ということです。 ですから、これは必ずしも「王として支配する」の用例では無いと思います。 ちょうど、「聴」にもおなじような用法があります(聴政)。 これも、「摂政」などと同じように、「王に代わって政務を担当する」という意味で「つかさどる」「治める」の意味があるのだと見るべきです。 (もっとも、鄭は伯爵の国ですので、「伯」に代わって・・・ということですが) 通俗編に載せる、「魏了翁」の説明が、参考になるでしょう。 「知初国」も、漢字としての用例は、この「つかさどる」の用例にあたるでしょう。 次に、「古語」としての意味を見てみます。 【しる】(知・領) 対象を支配下のものにする。 土地や国を治める。 那賀美古夜、都毘邇斯良牟登、加理波古牟良斯。 (汝が御子や、終にしらむと、雁は卵生(む)らし)<仁徳記、歌謡七四> 土地を領有する。 葛城乃、高間草野、早知而、標指益乎、今悔拭。 (葛城の、高間の草野、はや知りて、標(しめ)指さましを、今ぞ悔しき)<万葉集、一三三七> (他に、伊勢物語第一段の例もあります) 対象を意識の中のものにする。 知覚する。 阿摩[イ襄]霧、箇留[小宛]等売、異[口多]儺介麼、臂等資利奴陪瀰、幡舎能夜摩能、波刀能、資[口多]儺企邇奈勾。 (天飛(あまだ)む、軽嬢子(かるをとめ)、甚(いた)泣かば、人知りぬべみ、幡舎の山の、鳩の、下泣きに泣く)<允恭紀、二十四年、歌謡七一> 認識する。 烏麼野始[イ爾]、倭例烏比岐例底、制始比騰能、於謀提母始羅孺、伊幣母始羅孺母。 (小林に、我を引入て、せし人の、面も知らず、家も知らずも)<皇極紀、三年、歌謡一一一> さとる。 白珠者、人爾不所知、不知友縦、雖不知、吾之知有者、不知友任意。 (白珠は、人に知らえず、知らずともよし、知らずとも、吾し知れらば、知らずともよし)<万葉集、一〇一八> 角川古語大辞典 さて、1の用法のうち、ロの用法は、漢字としての「知」に近いものがあります。 「王の支配」ではないという点です。 問題は、仁徳記の用法です。 同じような用例として、以下のようなものもあります。 不念乎、思常云者、天地之、神祇毛知寒、邑礼左変。 (念はずを、思ふと云ふは、天地の、神祇も知らさむ、邑礼左変(訓未詳))万葉集、六五五 今所知、久邇乃京爾、妹二不相、久成、行而早見奈。 (今知らす、久邇の京に、妹に相はず、久しくなりぬ、行きて早見な)万葉集、七六八 「しらす」と尊敬の接尾語がついていますが、同じです。 そして、古事記の「日継を知る」という用法。 これらがポイントになるだろうと思っています。 んー、やや中途半端ですが・・・今のところ、こんな感じに考えています。 (Vtecさん(の依拠した辞書)では、「占有・領有」が原義で、そこから「知識として得る」の用法に転じた、とのことでしたが、上記のような史料状況からいうと、なんともいえない気がします。 「知識として得る」の用法のほうが新しい・・・という史料状況ではありません) 28-Apr-2002 先日、Satoshiさんから、二編の論文を送っていただきました。 1つは古賀達也「盗まれた降臨神話」(古田史学会報No.48)。 もう1つは伊東義彰「『神武が来た道』について」(古田史学会報No.49)。 まず、古賀氏の論文では、古事記の「神武東征」説話のうち、熊野以降は、九州王朝説話の盗用であるとします。 以下の点を根拠に挙げています。 1)神武の呼び名 神武記では、神武は3通りの呼び名で描かれています。 「神倭伊波礼毘古命」「天神御子」「天皇」です。 このうち、「神倭伊波礼毘古」は、東征説話のうち、熊野以前に現れます。 ここまでの部分は古田武彦氏が、論じたとおり、当時の説話としてリアリティを持つと考えられています。 (『盗まれた神話』他参照) 「天皇」は橿原宮での「即位」以降の説話に現れます。 ですが、「天神御子」が突如として現ることに、古賀氏は疑問を持ったのでした。 そこで、「天神御子」が他にどのように使われているか検証すると、「邇邇芸」(と天忍穂耳)の「天孫降臨」説話でだけ使われているとのことでした。 したがって、神武記の「天神御子」も「邇邇芸」のことである、と。 簡単に言うと、こういうことです。 2)「吉野河の河尻」 次に、古賀氏は、熊野以降の「天神御子」説話部分は、前後の「神倭伊波礼毘古」説話、「天皇」説話にくらべて、問題が多いといいます。 そのひとつが、「吉野河の河尻」問題です。 まぁ、本居宣長以来、ずっと指摘されてきたことではあります。 東征のルートからいえば、吉野川の上流に出るはずなのに、「河尻(=下流)」はおかしい。 というわけです。 ここで、古田氏の『壬申大乱』の説(吉野=佐賀県)を取り上げて、ここも・・・と推測しています。 また、熊野で「天照大神」や「健御雷神」という「天孫降臨当時の人物(神)」が登場することから、これも「天孫降臨説話盗用」の痕跡とみなされます。 さて、私の疑問を書きたいと思います。 1)について。 私は、これは、本当にそうかなあというのが、率直な感想です。 なぜなら、「天神御子」の古事記自体での用例は決して多くないからです。 そこには、2群あります。 1)神代記で「邇邇芸」を指す用例 2)神武記で「神武」を指す用例 このふたつです。 前者と後者の関係は、厳密には不明です。 いくらでも、可能性があります。 たとえば、 ・神武は自らを「邇邇芸」の再来と位置づけ、自称した・・・。 ・神武東征の結果、近畿天皇家は、神武を「邇邇芸」と同等に位置づけ、「邇邇芸」と同じ呼称を与えて伝承した。 などです。 古賀氏の挙げた「盗用説」もそのひとつの可能性に過ぎません。 これは古賀氏に限ったことではありませんが、可能性をひとつ提示して、それで、論証が終わった、というのは、良くない傾向です。 (それにもまして、「解釈はいくらでも可能だから・・・」と、反論をかわすのは最悪ですね) 古賀氏にとって、必要なのは、他の可能性に対する徹底的な検証です。 私が、今思いついた程度の可能性に対しての検証は、最低水準として必要なのでは無いか、と思います。 (私は今そんなに「奇想天外」な可能性を考えたつもりはありません) 要するに古賀氏の挙げた論点から、本当に、「盗用説」しかありえないのか、というと、はなはだ疑問なのです。 もう少し、吟味が必要なのだという気がします。 ・・・と、これを踏まえて、伊東論文に目を向けると、早速「吉野河の河尻」に対する、再吟味が提示されています。 私も、「河尻」について少し考えて見ますと、まず、「河尻」ってどういう意味だ、という気がします。 確かに、なんとなく「下流」のような気もしますが、「河口」といった場合もやっぱり「下流」です。 日中の感覚の違いなのかもしれませんが。 伊東氏が模索していたように、吉野川上流域に「河尻」と呼ばれる地域があってもおかしくは無い、という気がします。 あと、Satoshiさんからは、和田高明「大和朝廷の成立」(『古代に真実を求めて』第四集)もご紹介いただきましたが、後日、改めて論じさせていただくことにします。 (今のところ、読む限り、「諡号」の盗用ではなくて、存在そのものの盗用説のようです) 2-Apr-2002 今回は、「ハツクニシラス」番外編です。 実は、「ハツクニシラス考」を書き上げる際に、気がついていたことではありますが、ひとつ、触れていない問題があります。 それは、「しる(しらす)」の語義です。 現在、われわれは、「しる」という言葉を、「統治する」の意味には使っていません。 では、古代では、どうだったのでしょうか。 実は、それが、あまり「明らか」とは言えないようなのです。 調べてみたのですが、ハッキリ明記されているもの(「しる」は「統治の意味」と)は、ありませんでした。 あるとしても、その出典は記紀であって、「同語反復」となりますから、今はおいておきます。 「所知初国」を「はつくにしらす」と言われても、ねぇ。 「知」という漢語には「統治」の意味はないわけです。 じゃぁ、「しる」という倭語にはあるのか、というと、わからないのです。 たとえば、「治天下」を「あめのしたしらしめしき」と読むことが多いのですが、 じゃぁ、「治」を「しる」と読むのか?というと、その出典は必ずしも明らかではない。 むしろ、「ハツクニシラス」や「所知日継」が出典であるのかもしれません。 古事記です。 記紀前後の言葉にはこういった問題は常につきまとっていて、「しる」だけの問題ではないと思いますが、 それにしても「所知初国」の意味を「はつくにを統治した」と捉えて、本当に良いのだろうか、という懸念があります。 ちなみに、ちょっとこわいような話ですが、「知」の意味には、こんなのがあります。 <知> ある領地を任され支配する。・・・「知行」「知事」 むむむ。 18-Mar-2002 久しぶりの「独り言」です。 今回も、時事ネタです。 最近、時事ネタ比率が大きくなってるような…。 それはさておき、例の鈴木宗男議員の関係で、話題に上ることの多い、「北方領土」問題について、簡単に考えてみます。 「北方領土」とは、基本的には国後・色丹・択捉・歯舞の四島を指しており、日本が領有を主張するものの、ロシアとの間で主張が全く食い違っている。 そういう領域です。 で、所謂「領土問題」に当るわけですが、日本は「武力」を持たないわけですから、領土問題といってもそれほど緊迫した情勢があるわけではありません。 血生臭い解決ではなく、友好的な解決を迎えることが出来れば、それは日本としても、誇るべきことでしょう。 そのために、宗男さんも「努力」なさったのだろう、と思います。 まぁ、宗男さんのやってきたことは、言ってみれば、自民党政治の「王道」なわけで、それを変えなきゃいけない、という気がします。 それはさておき、「北方領土」問題の発端は、1951(昭和26)年のサンフランシスコ平和条約でした。 このとき、日本は「千島列島」を放棄しました。 この千島列島は、1875(明治8)年の樺太・千島交換条約によって、ロシアとの間で交換されたものでした。 ですが、ここで「千島列島」といっている中には、例の四島は含まれていません。 四島はそれ以前から日本の領土、というのが日本の主張です。 だから、サンフランシスコでも放棄していないのだ、と。 樺太と言えば、間宮林蔵が有名ですが、四島には最上徳内という人物が訪れていて、江戸時代から日本の周知の土地だったわけです。 樺太は1854(安政元)年の日露和新条約で、日露の国境が確定した際、日露雑居地とされましたが、四島はそうではありませんでした(というのが日本の主張です)。 で、だから、本来は日本の土地だ、という主張は、よくわかります。 でも、ね。 よくよく考えてみれば、「本来」ってどういうことでしょう。 所謂「日本民族(倭人)」は、本来、樺太や四島はおろか、北海道にさえも住んではいなかった。 住んでいたのはアイヌです。 そう言えば、宗男さんが「北方領土返還は日本民族の悲願」と言っていたのを聞いて、少し、寒気がしました。 彼の言う「日本民族」って、何でしょう。 アイヌをも含めてでしょうか、それともアイヌは含まないのでしょうか。 (「日本は単一民族国家だ」とつい言ってしまいますが、これはちょっと気をつけるべきだと思います) 含めるなら、それはそれで、アイヌの方はどう思うのでしょうね。 それはわかりませんが、少なくとも「倭人」は「本来の住人ではない」ということです。 ロシア人と、本質的には一緒です。 さて、北方四島には、既に多くのロシア人の方々が、長い間生活しています。 「北方領土返還」と言っても、彼等を追い出すことが、本当に正しいのか、という視点もあります。 彼等の中には、既にあの土地で生まれ育ち、唯一の故郷だという人もいるはずです。 一方には、あの土地を故郷としている日本人もいる。 難しいですね。 10-Jan-2002 2002年の1回目は、「理屈」のお話です。 抽象論になるので、気軽に読んでください。 近年(といっても、10年以上前から、そうだと思いますが)、「地方史」というのが盛んになっていて、古代史の分野でも、地方や地域密着型の研究が盛んに行われています。 これはこれとして、非常に重要なことだと思います。 ですが、こと「古代史」に関しては、それ以前に、「地方」とか「中央」とか「国家」とか「地域」とか「王朝」とか、そういう概念に対して考えておかなければならない。 なぜなら、それらが形成されていく時期を対象にしているからです。 勿論、そのようなことは、早くから考慮されていて、有名な「教科書用語」-「ムラからクニ」などは、その点に対する一般的な理解と言うことが出来るのかもしれません。 少しだけ、研究史を紐解いて見ましょう。 (私もただいま「勉強中」の身で、或は誤解があるかもしれませんし、抜け漏れもあるかもしれません。ご容赦願います) まず、近代の日本古代史において、「国家形成」を論じる上で重要な役割を担ったのは、「唯物史観」でした。 マルクス・エンゲルス(と対にして言いますが、「国家形成」に関してはエンゲルス個人の業績らしいですね)の有名な理論です。 階級闘争と革命を経て、国家が発展していくと言う、アレです。 古代史は、まさにその「国家形成」の段階として、注目されていました。 先の「ムラからクニ」というのは、階級の発生と「国家形成」を弥生時代と見なした上でのものです。 稲作や金属器の普及がその要因であると教科書で教わった記憶があります。 これが戦後の古代史の通説でした。 ただ、現在では、律令国家として成立した八世紀をもって、「(統一)国家」の成立と見なすようになっています。 「大化改新」や「近江令」などをその前史として見るのです。 また、考古学の目覚しい成果により、縄文時代に対する見方が一変したことも重要です。 以前のように「平和で争いの無い狩猟生活」を想定することは難しくなりました。 ですが、このように、「発展の段階」によって「国家」かどうかを定めることには、無理があると思います。 極論をすると、「独自の力で自国を防衛できる」段階を「国家」の条件にいれたら、現在の日本はどうなの?という話です。 また、いわゆる「国家」以前の共同体の間や内部では、「紛争」「講和」「友好」「支配」「従属」「交渉」「交易」といった関係はなかったのかと問われれば、そのようには考えられないでしょう。 我々にとって重要なのは、むしろそういう「関係」や「しくみ」ではないでしょうか。 さて、「地域国家」という言葉があります。 これは、門脇貞二氏がよく使っている言葉ですが、いわゆる「統一国家」に対する概念だと理解しています。 門脇氏は早くから出雲や吉備などにおいて、「国家」と呼び得る、自立した政権が存在したのだと主張していました。 その出雲や吉備などが「地域国家」というわけです。 (個々の議論に関しては、疑問もありますが、ここでは省略します) 門脇氏は、「国家」に関して次のような基準を設けています。 1)王権とその支配機構を持っていること 2)独自の支配領域を持っていること 3)それぞれの支配理念あるいは独自の文化を持っていること これを満たせば、「国家」と呼んでもいいのではないか、ということです。 また、出雲にしても吉備にしても大和にしても筑紫にしても、各々、対立ばかりしていたわけではなくて、連携や交渉があったと考えなければならないことなども指摘しています。 (最近の著書では『古代日本の「地域王国」と「ヤマト王国」(上・下)』が参考になります) また、古田武彦氏は、「王朝」について何度か定義を試みています。 (これは以前の「独り言」-原田実氏の『幻想の多元的古代』のお話で取り上げました) <王朝の定義>(古田武彦「邪馬壹国論争(上)」による) 1)一つの領域が一定の文化特徴を共有する政治的な文明圏を構成しているとき 2)そのなかで質量ともにもっとも集中して、政治的な文化特徴をもつ一中心地があれば、 3)それがその圏内の焦点、すなわち王朝の存在を示す。 原田氏は、この定義が極めて「考古学の成果」に基づいた定義であるのに対して、実際に古田氏が「王朝」を命名したのは、別の基準によるのではないかと指摘していましたが、私は、それも「古田氏の王朝観の発展」の結果なのだろうと思います。 ここで古田氏が「王朝」の語を用いているのも、それほど厳格な意味ではなく、「国家」と同義だろうと思います。 古田氏が中国側文献の記載に基づき、九州王朝という概念を生み出したことには、重要な意味があると思います。 勿論、「国家」をどう考えるか、という問題に対してです。 古田氏は、中国側史料から九州王朝と言う概念を創出した際、それを単なる「地域国家」という位置付けとは考えず、「統一国家」というか、「倭国統一の王者」と見なしました。 少なくとも古田氏には、「中国側が(卑弥呼や五王、多利思北孤らを)倭国統一の王者と見なしている」と考えたからです。 勿論、このような「倭国統一の王者」という見方は何も古田氏に始まったわけではなく、古くから言われてきたことではありました。 ですから、「卑弥呼や五王、多利思北孤は、九州に本拠を置いている」という概念と、「中国側は彼等を倭国統一の王者と見なしている」という概念が結びついた結果が、九州王朝説である、と言えます。 この点、他ならぬ古田氏自身も、「近畿天皇家一元史観」と自ら命名した「敵」を意識し過ぎたせいか、自説に対して正当な評価を与えていないように思えます。 さて、少し現代に目を向けてみましょう。 「国家」を語る上で興味深い「素材」があります。 一つは台湾です。 台湾は、「国家」ではありません。 なぜでしょうか。 理由は簡単です。 中華人民共和国は勿論のこと、むしろ「国際社会」が認めていないからです。 ところが、門脇氏の提起したような項目を見てみましょう。 いずれも一応、満たしているとは思いませんか。 1)王権とその支配機構を持っていること 2)独自の支配領域を持っていること 3)それぞれの支配理念あるいは独自の文化を持っていること 勿論、「王政」ではないのですが、台湾は台湾独自の統治機構を持っていますし、支配領域もハッキリしています。 支配理念も、中華人民共和国のそれとは、異なっています。 台湾という地域を冷静に分析すれば、誰であっても同じような結論に至ると思います。 でも台湾は「国家」ではない。 台湾だけに限った話ではありません。 そういう「地域」は今も数多く存在しています。 何が言いたいのかと言えば、つまるところ、「国際社会」の目も、「国家」を左右する重要なキーであると言うことです。 今、二つの対照的な「地域国家」を挙げてみたいと思います。 一つは「九州王朝」。 古田氏の分析通り、卑弥呼や倭の五王、多利思北孤が、九州に都する王者だとすれば、彼等は国際的に認められた王者です。 これと同じ時期に、例えば近畿に王者があったとしても、彼には国際社会の認知は無いとすれば、この点が両者の関係に影響しないとは考えられません。 ですから、古田氏がこの点を強調するのは、当然のことだと考えられます。 「関係」と言っても、それは単なる「支配・従属」関係だけではありません。 「対立」や「反発」「抵抗」、或は「妥協」や「連携」などの様々な関係が複雑に絡み合っていたと考えるのは、当然のことです。 もう一つは「蝦夷」です。 現代の古代史においても、蝦夷をれっきとした「国家」と見なす論者は、多くはありません。 なぜでしょうか。 先の門脇氏の項目を考慮しても、やはり、蝦夷はれっきとした「地域国家」であると考えるべきです。 さらには、中国側からも「蝦夷国」<新唐書など>として「国」として認知されていたことは確実です。 ところが記紀や続日本紀は、蝦夷を国家とは認めません。 このことが、当時の「日本」と「蝦夷」という「両国」の関係に影響しないはずは無いのですが、同時に、私達は「蝦夷」に対して正当な評価をする必要があるということも事実です。 話が散漫になってしまいましたが、要するに、色々複雑な問題なわけですね(笑)。 何を以って「統一」なのか、とか。 これも、例えば「北海道」や「沖縄」に支配が及ばない八世紀の律令国家を「統一」と呼ぶココロは?と問われると、なかなか回答は難しいのではないでしょうか。 「日本人とは何ぞや」という問いも、同じような問題をはらんでいますね。 考え出したらキリは無いのですが、たまにはこういうことも考えておかなくちゃいけないと思います。
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