新羅本紀
をテンプレートにして作成
開始行:
『三国史記』第1~12巻<新羅本紀>
『三国史記』は「新羅本紀」「高句麗本紀」「百済本紀」から...
編集したのは高麗国(918~1392)の儒学者であり官...
「新羅本紀」は12巻からなり、その記述に従えば初代の<赫居...
「朝鮮史料に見える倭人」というテーマであるので、その中...
< 新羅本紀に見える倭人(倭・倭国) >
王名 紀年 倭人の記事
赫居世居西干
(初代=始祖) 8年
(前50) 国号は徐那伐という。
倭人が辺境に侵入しようとしたが、始祖の威徳を畏れ、引き返...
39年
(前19) 瓠公(重臣)はもともと倭人で、むかし瓢(ひさご...
南解次次雄
(第2代) 5年
(後8) 脱解(ダッカイ)が賢者であると知り、娘を娶わせ...
11年
(14) 倭人が兵船百艘あまりで海岸地方の民家を略奪した。
脱解尼師今
(第4代) 即位前紀 脱解は多婆那国で生まれた。その国...
3年
(59) 夏五月、倭国と国交を結び、互いに使者を交換した。
17年
(73) 倭人が木出島に侵入し、迎え撃った羽烏(ウウ)が...
祇摩尼師今
(第6代) 10年
(121) 夏四月、倭人が東部の辺境に侵入した。
11年
(122) 倭兵が攻めてきたという流言に人々が逃げ惑った...
阿達羅尼師今
(第8代) 20年
(173) 夏五月、倭の女王卑弥呼が使者を送ってきた。
伐休尼師今
(第9代) 10年
(193) 六月、倭人が飢饉に見舞われ、千人余りが食料を...
助賁尼師今
(第11代) 3年
(232) 夏四月、倭人が突然侵入し、金城を包囲した。軽...
沾解尼師今
(第12代) 3年
(249) 夏四月、倭人が舒弗邯の干老(ウロウ)を殺害し...
儒礼尼師今
(第14代) 4年
(287) 倭人が一礼部を襲い、千人もの人々を連れ去った。
6年
(289) 倭兵が攻めてくるとの情報が入り、船と兵器を修...
9年
(292) 倭兵が沙道城を攻め落とそうとしたので、一吉サ...
12年
(295) 王いわく「倭人が襲うので人々は安心して暮らせ...
基臨尼師今
(第15代) 3年
(300) 春正月、倭国と使者の交換をした。
10年
(307) 国号を新羅に戻した。
キッ解尼師今
(第16代) 3年
(312) 春三月、倭国王が王子の花嫁を求めてきたので、...
36年
(345) 春二月、倭王が国交断絶の国書を送ってきた。
37年
(346) 倭軍が突然襲来し、辺境地帯を侵した。さらに金...
奈勿尼師今
(第17代) 9年
(364) 夏四月、倭兵が大挙して侵入してきた。王は草人...
38年
(393) 夏五月、倭軍が侵入して金城を包囲して5日も解...
実聖尼師今
(第18代) 元年
(402) 倭国と国交を結び、奈勿王の王子・未斯欣(ミシ...
4年
(405) 夏四月、倭兵が侵入して明活城を攻めた。王は騎...
6年
(407) 春三月、倭人が東部を、また六月には南部を侵掠...
7年
(408) 春二月、倭人が対馬に軍営を置いて攻撃の準備を...
14年
(415) 八月、倭人と風島で戦って勝利した。
訥祇麻立干
(第19代) 2年
(418) 王の弟で倭国に人質に行っていた未斯欣が逃げ帰...
24年
(440) 倭人が南部と東部の辺境を侵掠した。
28年
(444) 夏四月、倭兵が10日も金城を包囲した。食料が...
慈悲麻立干
(第20代) 2年
(459) 倭人が兵船百艘余りで東海岸を襲撃、さらに進撃...
5年
(462) 夏五月、倭人が襲来して、活開城を陥れ、千人を...
6年
(463) 春二月、倭人が歃良(ソウリョウ)城を攻めたが...
19年
(476) 夏六月、倭人が東部の国境地帯を侵掠した。翌年...
ショウ知麻立干
(第21代) 4年
(482) 夏五月、倭人が辺境を侵した。
8年
(486) 夏四月、倭人が国境地帯を侵した。
19年
(497) 夏四月、倭人が辺地を侵した。
(注)
徐那伐という国号・・・本紀では新羅の原国号は「徐那伐」だ...
漢音では「ジョナバツ」だが、韓音では「ソラバル」と言う...
語呂合わせのようだが、神武天皇が南九州から大和へ東征し...
新羅という国号・・・魏志韓伝によれば、三世紀の半ばまで「...
最後の「ラ(羅)」は百済を「クダラ」という時の「ラ」と...
上の表では第15代基臨尼師今(キリン・二シキン)の10年に...
因みに「ナラ(奈良)」をこの「ラ」との共通性から、韓語...
始祖・赫居世居西干・・・56代の初代がこの赫居世居西干で...
しかし少なくとも15代の基臨尼師今の時に新羅国を名乗る...
ところで「赫居世居西干」は「カクコセ・コセカン」と音読...
その意味は「光り輝く・奇しき日(の大王)」だろう。これ...
瓠公・・・瓠(コ)すなわち瓢箪を身につけて海を渡って来た...
これは魏志韓伝に見える「辰韓・弁韓の人々は文身(入れ墨...
脱解・・・ダッカイとは音読みだが、タケと読んで「武」ある...
多婆那(タバナ)国がどこにあるかでは諸説がある。
タバナを「タンバ(丹波)」に読み替えて、文字通りの近畿...
しかし百歩譲って倭国の中心が畿内にあるとしても、肝心の...
私見では、半島史における「倭・倭国」とは九州島の倭・倭...
結論から言うとその比定地は「玉名(国)」である。まず「...
辰韓の認識では「倭国」といえば「南九州の建日別=熊曽国...
したがって第4代「脱解(タケ)尼師今」とは「玉名国出身...
同じ倭人の瓠公は、新羅(辰韓)初代の重臣になったが、脱...
女王卑弥呼の遣使・・・第8代の阿達羅尼師今の20年(17...
卑弥呼は魏王朝に対して景初2年(238)と正始4年(2...
したがってこの記事は眉唾物なのだが、干支を一巡遅らせた...
騎馬隊・・・第11代助賁尼師今の3年(232)に騎馬隊を...
倭人が大挙して侵入・・・第17代奈勿尼師今の9年(364...
もちろん神功皇后が実在したことを踏まえての説である。神...
その原則を破ってまでして神功皇后の出自は新羅である、と...
考え方は2通りだろう。一つは「白村江の戦い」で敗れた宿...
もう一つは、古事記は、新羅を祖国に持つ皇后が実在し、ま...
勢い、前者は「神功皇后造作説」であり、後者は「神功皇后...
私見では後者であり、神功皇后は実在した。ただ「息長」(...
「息長」を「おきなが」と読んで、近江の東部にある「息長...
「息長氏=近江の息長村ホームグラウンド説」は以上から不可...
私見では「壱岐国」である。「きなが」は「いきなが」の「...
倭軍が侵入し、金城を包囲・・・上と同じ第17代奈勿尼師今...
これは「高句麗広開土王碑」に刻まれている「倭が渡海して...
「高句麗本紀」の故国壌王9年(392)にも同様の記事が...
未斯欣を人質にする・・・ミシキンは書紀の「神功皇后紀・摂...
だが、新羅本紀ではその年代を402年とするので、私見の...
新羅は百済や高句麗との交渉でも、王子を人質に出すことを...
この第18代実聖尼師今から20代慈悲麻立干の時代(40...
九州の倭国が百済からの亡命者を受け入れたのもこの頃のこ...
※最後に登場する倭人
この後、500年代を迎えると、新羅本紀の倭・倭国の記事...
< 劉仁軌は、わが国の使者および百済・耽羅・倭人の四国...
ここに登場する倭人は、白村江の戦役で敗れた後、唐への降...
※倭国から日本へ
同じ文武王の記述の最後の所で、倭国が日本と改名したこと...
< 倭国は国号を日本と改めた。自ら日の出る所にに近い(...
これは西暦では670年のことになるが、中国史書『新唐書...
< (倭国が)使いを遣わして高麗(高句麗)を平ぐるを賀...
文武王10年の記事はこれに対応している。
(新羅本紀の項・終り)
終了行:
『三国史記』第1~12巻<新羅本紀>
『三国史記』は「新羅本紀」「高句麗本紀」「百済本紀」から...
編集したのは高麗国(918~1392)の儒学者であり官...
「新羅本紀」は12巻からなり、その記述に従えば初代の<赫居...
「朝鮮史料に見える倭人」というテーマであるので、その中...
< 新羅本紀に見える倭人(倭・倭国) >
王名 紀年 倭人の記事
赫居世居西干
(初代=始祖) 8年
(前50) 国号は徐那伐という。
倭人が辺境に侵入しようとしたが、始祖の威徳を畏れ、引き返...
39年
(前19) 瓠公(重臣)はもともと倭人で、むかし瓢(ひさご...
南解次次雄
(第2代) 5年
(後8) 脱解(ダッカイ)が賢者であると知り、娘を娶わせ...
11年
(14) 倭人が兵船百艘あまりで海岸地方の民家を略奪した。
脱解尼師今
(第4代) 即位前紀 脱解は多婆那国で生まれた。その国...
3年
(59) 夏五月、倭国と国交を結び、互いに使者を交換した。
17年
(73) 倭人が木出島に侵入し、迎え撃った羽烏(ウウ)が...
祇摩尼師今
(第6代) 10年
(121) 夏四月、倭人が東部の辺境に侵入した。
11年
(122) 倭兵が攻めてきたという流言に人々が逃げ惑った...
阿達羅尼師今
(第8代) 20年
(173) 夏五月、倭の女王卑弥呼が使者を送ってきた。
伐休尼師今
(第9代) 10年
(193) 六月、倭人が飢饉に見舞われ、千人余りが食料を...
助賁尼師今
(第11代) 3年
(232) 夏四月、倭人が突然侵入し、金城を包囲した。軽...
沾解尼師今
(第12代) 3年
(249) 夏四月、倭人が舒弗邯の干老(ウロウ)を殺害し...
儒礼尼師今
(第14代) 4年
(287) 倭人が一礼部を襲い、千人もの人々を連れ去った。
6年
(289) 倭兵が攻めてくるとの情報が入り、船と兵器を修...
9年
(292) 倭兵が沙道城を攻め落とそうとしたので、一吉サ...
12年
(295) 王いわく「倭人が襲うので人々は安心して暮らせ...
基臨尼師今
(第15代) 3年
(300) 春正月、倭国と使者の交換をした。
10年
(307) 国号を新羅に戻した。
キッ解尼師今
(第16代) 3年
(312) 春三月、倭国王が王子の花嫁を求めてきたので、...
36年
(345) 春二月、倭王が国交断絶の国書を送ってきた。
37年
(346) 倭軍が突然襲来し、辺境地帯を侵した。さらに金...
奈勿尼師今
(第17代) 9年
(364) 夏四月、倭兵が大挙して侵入してきた。王は草人...
38年
(393) 夏五月、倭軍が侵入して金城を包囲して5日も解...
実聖尼師今
(第18代) 元年
(402) 倭国と国交を結び、奈勿王の王子・未斯欣(ミシ...
4年
(405) 夏四月、倭兵が侵入して明活城を攻めた。王は騎...
6年
(407) 春三月、倭人が東部を、また六月には南部を侵掠...
7年
(408) 春二月、倭人が対馬に軍営を置いて攻撃の準備を...
14年
(415) 八月、倭人と風島で戦って勝利した。
訥祇麻立干
(第19代) 2年
(418) 王の弟で倭国に人質に行っていた未斯欣が逃げ帰...
24年
(440) 倭人が南部と東部の辺境を侵掠した。
28年
(444) 夏四月、倭兵が10日も金城を包囲した。食料が...
慈悲麻立干
(第20代) 2年
(459) 倭人が兵船百艘余りで東海岸を襲撃、さらに進撃...
5年
(462) 夏五月、倭人が襲来して、活開城を陥れ、千人を...
6年
(463) 春二月、倭人が歃良(ソウリョウ)城を攻めたが...
19年
(476) 夏六月、倭人が東部の国境地帯を侵掠した。翌年...
ショウ知麻立干
(第21代) 4年
(482) 夏五月、倭人が辺境を侵した。
8年
(486) 夏四月、倭人が国境地帯を侵した。
19年
(497) 夏四月、倭人が辺地を侵した。
(注)
徐那伐という国号・・・本紀では新羅の原国号は「徐那伐」だ...
漢音では「ジョナバツ」だが、韓音では「ソラバル」と言う...
語呂合わせのようだが、神武天皇が南九州から大和へ東征し...
新羅という国号・・・魏志韓伝によれば、三世紀の半ばまで「...
最後の「ラ(羅)」は百済を「クダラ」という時の「ラ」と...
上の表では第15代基臨尼師今(キリン・二シキン)の10年に...
因みに「ナラ(奈良)」をこの「ラ」との共通性から、韓語...
始祖・赫居世居西干・・・56代の初代がこの赫居世居西干で...
しかし少なくとも15代の基臨尼師今の時に新羅国を名乗る...
ところで「赫居世居西干」は「カクコセ・コセカン」と音読...
その意味は「光り輝く・奇しき日(の大王)」だろう。これ...
瓠公・・・瓠(コ)すなわち瓢箪を身につけて海を渡って来た...
これは魏志韓伝に見える「辰韓・弁韓の人々は文身(入れ墨...
脱解・・・ダッカイとは音読みだが、タケと読んで「武」ある...
多婆那(タバナ)国がどこにあるかでは諸説がある。
タバナを「タンバ(丹波)」に読み替えて、文字通りの近畿...
しかし百歩譲って倭国の中心が畿内にあるとしても、肝心の...
私見では、半島史における「倭・倭国」とは九州島の倭・倭...
結論から言うとその比定地は「玉名(国)」である。まず「...
辰韓の認識では「倭国」といえば「南九州の建日別=熊曽国...
したがって第4代「脱解(タケ)尼師今」とは「玉名国出身...
同じ倭人の瓠公は、新羅(辰韓)初代の重臣になったが、脱...
女王卑弥呼の遣使・・・第8代の阿達羅尼師今の20年(17...
卑弥呼は魏王朝に対して景初2年(238)と正始4年(2...
したがってこの記事は眉唾物なのだが、干支を一巡遅らせた...
騎馬隊・・・第11代助賁尼師今の3年(232)に騎馬隊を...
倭人が大挙して侵入・・・第17代奈勿尼師今の9年(364...
もちろん神功皇后が実在したことを踏まえての説である。神...
その原則を破ってまでして神功皇后の出自は新羅である、と...
考え方は2通りだろう。一つは「白村江の戦い」で敗れた宿...
もう一つは、古事記は、新羅を祖国に持つ皇后が実在し、ま...
勢い、前者は「神功皇后造作説」であり、後者は「神功皇后...
私見では後者であり、神功皇后は実在した。ただ「息長」(...
「息長」を「おきなが」と読んで、近江の東部にある「息長...
「息長氏=近江の息長村ホームグラウンド説」は以上から不可...
私見では「壱岐国」である。「きなが」は「いきなが」の「...
倭軍が侵入し、金城を包囲・・・上と同じ第17代奈勿尼師今...
これは「高句麗広開土王碑」に刻まれている「倭が渡海して...
「高句麗本紀」の故国壌王9年(392)にも同様の記事が...
未斯欣を人質にする・・・ミシキンは書紀の「神功皇后紀・摂...
だが、新羅本紀ではその年代を402年とするので、私見の...
新羅は百済や高句麗との交渉でも、王子を人質に出すことを...
この第18代実聖尼師今から20代慈悲麻立干の時代(40...
九州の倭国が百済からの亡命者を受け入れたのもこの頃のこ...
※最後に登場する倭人
この後、500年代を迎えると、新羅本紀の倭・倭国の記事...
< 劉仁軌は、わが国の使者および百済・耽羅・倭人の四国...
ここに登場する倭人は、白村江の戦役で敗れた後、唐への降...
※倭国から日本へ
同じ文武王の記述の最後の所で、倭国が日本と改名したこと...
< 倭国は国号を日本と改めた。自ら日の出る所にに近い(...
これは西暦では670年のことになるが、中国史書『新唐書...
< (倭国が)使いを遣わして高麗(高句麗)を平ぐるを賀...
文武王10年の記事はこれに対応している。
(新羅本紀の項・終り)
ページ名: