第3章 『日本書紀』と中国史書の一致(Historical)
をテンプレートにして作成
開始行:
[[九州王朝説批判-川村明(Historical)]]
第3章 『日本書紀』と中国史書の一致
12.遣唐使の矛盾はなかった
古田氏は『失われた九州王朝』の中で、対唐関係の国交記事...
まず、すべての遣唐使の年次について、彼我の文献の一致度...
まず一番古いのは(1),(2),(5),(7)に出てくる631年の遣唐使...
次は(4),(5),(7)に出てくる654年の遣唐使記事で、(9)の653...
次は(2)に出てくる648年の記事で、これは新羅の遣使を通し...
a (貞観)二十二(=648)年、眞徳遣其弟國相、伊賛干金春...
なぜなら、次の『日本書紀』孝徳紀の記事によれば、aに出...
b 春正月戊子朔壬寅、射於朝庭。是日、高麗・新羅、並遣使...
是歳、…新羅遣上臣大阿飡金春秋等、送博士小徳高向黒麻呂・...
次は(7)に出てくる659年の遣唐使で、(9)の同年の第4次遣唐...
次は(5),(7)に出てくる670年の遣唐使で、(9)の669年の第5...
次は(1),(3),(4),(5),(6),(7)に出てくる則天武后の時代(史...
次は(3),(7)に出てくる717年の遣唐使で、(9)の同年の第7次...
次は(3),(7)に出てくる753年の遣唐使で、(9)の752年の第9...
次は(4),(5)に出てくる777年の遣唐使で、(9)の同年の第10次...
次は(7)に出てくる780年の遣唐使で、(9)の779年の遣唐使(...
次は(3),(4),(7)に出てくる804年の遣唐使で、(9)の同年の第...
次は(3)の806年の記事である。その「…」の部分を省略しない...
c 元和元年、日本國使判官高階眞人上言「前件學生、藝業稍...
すなわち「前件学生」である橘逸勢と空海が、高階真人の上...
次は(3),(4),(5),(7)に出てくる838年又は839年の遣唐使で、...
最後は(4)に出てくる848年の遣使記事であるが、(9)には対応...
以上ですべてである。逐一確かめたとおり、『通典』『旧唐...
すなわち、中国史書に出て来る奈良時代以前の唐と倭・日本...
ところが、この冷淡な事実に対して古田氏は、両者の遣唐使...
まずは630年の第1次遣唐使と、632年の高表仁の来日記事に...
A 『旧唐書』によれば、高表仁は王子と礼を争い、朝命を宣...
実は、これは古田氏の大変な誤読なのである。Aでは舒明天...
d 則ち大伴連馬養を遣して、江口に迎へしむ。船三十二艘及...
すなわち「天子命ずる所の使、…」と発言したのは舒明天皇自...
ところがこの場合、単に矛盾していないというだけではない...
ところがAにもあるように、『旧唐書』には、まさに「高表...
また、古田氏は続けて次のように述べている。
B 『旧唐書』倭国伝には、高表仁の交渉相手は「王子」とあ...
確かに『旧唐書』には高表仁の交渉相手は「王子」と書いて...
e 大唐貞觀五年、遣新州刺史高仁表持節撫之。浮海數月方至...
f 表仁無綏遠之才、與王爭禮、不宣朝命而還。(唐會要 巻...
g 太宗貞觀五年、遣使者入朝。帝矜其遠、詔有司毋拘歳貢、...
h 唐高表仁、太宗時爲新州刺史。貞觀十一年十一月、倭國使...
i 倭國遣使入貢。上遣新州刺史高表仁、持節往撫之。表仁與...
このように『旧唐書』以外の史書ではすべて「王子」でなく...
古田氏はさらに述べる。
C 両者の年次も食い違う。『旧唐書』によれば、高表仁が倭...
確かに舒明紀の【資料12】βの冒頭には、“舒明4年8月に大...
実は、天智4(665)年9月の唐からの使者劉徳高らの遣使年次...
D 天智紀によれば、天智4年9月23日に、唐は劉徳高らをわ...
E ところがこの記事の注に、9月20日に筑紫に至り、22日に...
F 従って、劉徳高が唐を出発した9月23日の方が、表函を進...
G そこで、唐は劉徳高らを、天皇家に先立って、実は九州王...
古田氏は、Dを「9月23日に劉徳高らが唐を出発した」とい...
実は、Fで矛盾があるように見えた理由は、Dの9月23日を...
さてここで、Cの問題に戻ろう。【資料12】βも国内文献の記...
次は653年の第2次遣唐使と654年の第3次遣唐使についてで...
H 孝徳紀によれば、日本国の使節団は654年7月に唐の天子...
古田氏は、『旧唐書』本紀にある倭国の654年12月の遣使(【...
また古田氏は次のように述べる(『失われた九州王朝』第四...
I 孝徳紀白雉5年2月条の注(【資料12】εの後半部)に、伊...
古田氏は「伊吉博得の言」の中に現れる「不明の人物」を「...
次は『旧唐書』倭国伝最後の648年の貢献記事についてである...
J 『旧唐書』倭国伝の貞観22年(648)年の貢献記事に対し...
K また、同記事にあるような「新羅に附して表を奉ずる」と...
まずJであるが、既にaとbのところで触れたように、この...
また、Kについては、『日本書紀』には天皇家に不名誉な内...
次は659年の第4回遣唐使についてである。
斉明5(659)年7月条(【資料12】θ)に、次のような蝦夷の男...
j 秋七月の丙子の朔戊寅(=3日)に、小錦下坂合部連石布...
同じ年の倭国の遣使を記した中国史書の記事は次のとおりで...
k 大唐顯慶四(659)年十月、隨倭國使人入朝。(通典 邊防...
l 蝦夷國、隨倭國使入朝。(冊府元龜 外臣部 朝貢三 顯...
m 未幾、孝徳死、其子天豐財立。死、子天智立。明年、使者...
『新唐書』は、多利思比孤を用明天皇の代に当てたり(実際...
『日本書紀』のjと中国史書のk~mは、年次だけでなく、...
L 斉明5年条の「伊吉連博徳書」によると、「倭種」である...
M 『日本書紀』等には、天皇家が「倭種」の韓智興たちを使...
N 従って、韓智興らは九州王朝の使者である。つまり天皇家...
O 「伊吉連博徳書」によれば、その結果、両国の使節団は共...
まずMであるが、「伊吉連博徳書」がどのような素性の文献...
以上で、L~Oは、内容まで一致している彼我の史書の記事...
次は669年の第5次遣唐使である。古田氏は次のように述べて...
P 『冊府元龜』は、北宋の大中祥符6(1013)年に真宗の勅を...
Q この『冊府元龜』において、倭国の最終貢献記事と日本国...
ア 咸亨元(670)年三月、[罽-厂]賓国獻方物。倭國王遣使賀平...
イ (長安元(701)年)十月、日本國遣使、其大臣朝臣貢人、貢...
R アの咸亨元年は天智9年に当るが、天智紀天智9年条には...
S ゆえにアの「倭国」は天皇家ではない。
古田氏は『冊府元龜』を持ち出しているが、次の『唐會要』...
n 咸亨元年三月、遣使賀平高麗、爾後継來朝貢。(唐會要 ...
それはともかくとして、Rを読むと、事情を知らない人は、...
遣唐使のうち、古田氏が「内容が異なる」と主張しているの...
麟徳元(664)年7月、唐の高宗は、麟徳3(666)年に泰山に封...
o 麟徳二(665)年、封泰山。仁軌領新羅及百濟・耽羅・倭四...
p 於是、仁軌領新羅・百済・耽羅・倭人四國使、浮海西還、...
さらに、次の記事によれば、麟徳2(665)年10月に洛陽を発っ...
q 二年十月丁卯、帝發東都、赴東獄。從駕文武兵士及儀仗・...
十二月丙午、至齊州,停十日。丙辰、發靈巖頓、至於太嶽之...
(冊府元龜 巻三六 帝王部 封禪二 麟徳二(665)年条)
これに対して古田氏は次のように述べる(『失われた九州王...
T 麟徳2(665)年は天智4年に当るが、『日本書紀』天智紀...
U 天智紀の同年条には、12月14日以後に帰国した劉徳高等の...
Tで古田氏は“天智紀にはこれに関する記事がない”というが...
またUは、天智紀の12月という月が『冊府元亀』の記事と矛...
以上のように、中国史書に出てくる唐と倭・日本間の遣使記...
なお、本節の内容は、増村宏氏の「旧新両唐書日本伝の理解...
13.倭と日本の地理描写
前節では、日中双方の史書における唐代の国交記事を比較し...
『旧唐書』の倭国伝と日本伝には次の地理描写の記事がある。
a 在新羅東南大海中、依山島而居。東西五月行、南北三月行...
b 又云「其國界、東西南北各數千里、西界・南界咸至大海、...
これらによると、「倭」の方は島であるのに対し、「日本」...
ところが『唐会要』や『旧唐書』の地理関係記事を調べると...
永徽五年の遣使記事に続いて、太文字部分に地理的な記述が...
ところでγには一つの謎がある。地理関係の記事というのは、...
この疑問は『日本書紀』との比較によって解決する。耶古・...
このうち、1と2は隼人の由来に関する記事、3、4、7~...
これに対して、次の13では、隼人と蝦夷は「内属」してきた...
ところでこの655年という年次は、永徽五(654)年と咸亨元(67...
それでは『旧唐書』のa、bの違いの問題はどうなるのであ...
倭国の西や北に小島があるということは、魏や隋の時代に倭...
ところで『唐会要』【資料5】γの倭国は天皇家だったのであ...
結局、『旧唐書』の「日本国者、倭国之別種也」という記事...
古田氏はaとbの違いを「倭・日本別国説」の根拠とした。...
なお、最後に補足しておこう。孝徳紀によれば、白雉五(654)...
終了行:
[[九州王朝説批判-川村明(Historical)]]
第3章 『日本書紀』と中国史書の一致
12.遣唐使の矛盾はなかった
古田氏は『失われた九州王朝』の中で、対唐関係の国交記事...
まず、すべての遣唐使の年次について、彼我の文献の一致度...
まず一番古いのは(1),(2),(5),(7)に出てくる631年の遣唐使...
次は(4),(5),(7)に出てくる654年の遣唐使記事で、(9)の653...
次は(2)に出てくる648年の記事で、これは新羅の遣使を通し...
a (貞観)二十二(=648)年、眞徳遣其弟國相、伊賛干金春...
なぜなら、次の『日本書紀』孝徳紀の記事によれば、aに出...
b 春正月戊子朔壬寅、射於朝庭。是日、高麗・新羅、並遣使...
是歳、…新羅遣上臣大阿飡金春秋等、送博士小徳高向黒麻呂・...
次は(7)に出てくる659年の遣唐使で、(9)の同年の第4次遣唐...
次は(5),(7)に出てくる670年の遣唐使で、(9)の669年の第5...
次は(1),(3),(4),(5),(6),(7)に出てくる則天武后の時代(史...
次は(3),(7)に出てくる717年の遣唐使で、(9)の同年の第7次...
次は(3),(7)に出てくる753年の遣唐使で、(9)の752年の第9...
次は(4),(5)に出てくる777年の遣唐使で、(9)の同年の第10次...
次は(7)に出てくる780年の遣唐使で、(9)の779年の遣唐使(...
次は(3),(4),(7)に出てくる804年の遣唐使で、(9)の同年の第...
次は(3)の806年の記事である。その「…」の部分を省略しない...
c 元和元年、日本國使判官高階眞人上言「前件學生、藝業稍...
すなわち「前件学生」である橘逸勢と空海が、高階真人の上...
次は(3),(4),(5),(7)に出てくる838年又は839年の遣唐使で、...
最後は(4)に出てくる848年の遣使記事であるが、(9)には対応...
以上ですべてである。逐一確かめたとおり、『通典』『旧唐...
すなわち、中国史書に出て来る奈良時代以前の唐と倭・日本...
ところが、この冷淡な事実に対して古田氏は、両者の遣唐使...
まずは630年の第1次遣唐使と、632年の高表仁の来日記事に...
A 『旧唐書』によれば、高表仁は王子と礼を争い、朝命を宣...
実は、これは古田氏の大変な誤読なのである。Aでは舒明天...
d 則ち大伴連馬養を遣して、江口に迎へしむ。船三十二艘及...
すなわち「天子命ずる所の使、…」と発言したのは舒明天皇自...
ところがこの場合、単に矛盾していないというだけではない...
ところがAにもあるように、『旧唐書』には、まさに「高表...
また、古田氏は続けて次のように述べている。
B 『旧唐書』倭国伝には、高表仁の交渉相手は「王子」とあ...
確かに『旧唐書』には高表仁の交渉相手は「王子」と書いて...
e 大唐貞觀五年、遣新州刺史高仁表持節撫之。浮海數月方至...
f 表仁無綏遠之才、與王爭禮、不宣朝命而還。(唐會要 巻...
g 太宗貞觀五年、遣使者入朝。帝矜其遠、詔有司毋拘歳貢、...
h 唐高表仁、太宗時爲新州刺史。貞觀十一年十一月、倭國使...
i 倭國遣使入貢。上遣新州刺史高表仁、持節往撫之。表仁與...
このように『旧唐書』以外の史書ではすべて「王子」でなく...
古田氏はさらに述べる。
C 両者の年次も食い違う。『旧唐書』によれば、高表仁が倭...
確かに舒明紀の【資料12】βの冒頭には、“舒明4年8月に大...
実は、天智4(665)年9月の唐からの使者劉徳高らの遣使年次...
D 天智紀によれば、天智4年9月23日に、唐は劉徳高らをわ...
E ところがこの記事の注に、9月20日に筑紫に至り、22日に...
F 従って、劉徳高が唐を出発した9月23日の方が、表函を進...
G そこで、唐は劉徳高らを、天皇家に先立って、実は九州王...
古田氏は、Dを「9月23日に劉徳高らが唐を出発した」とい...
実は、Fで矛盾があるように見えた理由は、Dの9月23日を...
さてここで、Cの問題に戻ろう。【資料12】βも国内文献の記...
次は653年の第2次遣唐使と654年の第3次遣唐使についてで...
H 孝徳紀によれば、日本国の使節団は654年7月に唐の天子...
古田氏は、『旧唐書』本紀にある倭国の654年12月の遣使(【...
また古田氏は次のように述べる(『失われた九州王朝』第四...
I 孝徳紀白雉5年2月条の注(【資料12】εの後半部)に、伊...
古田氏は「伊吉博得の言」の中に現れる「不明の人物」を「...
次は『旧唐書』倭国伝最後の648年の貢献記事についてである...
J 『旧唐書』倭国伝の貞観22年(648)年の貢献記事に対し...
K また、同記事にあるような「新羅に附して表を奉ずる」と...
まずJであるが、既にaとbのところで触れたように、この...
また、Kについては、『日本書紀』には天皇家に不名誉な内...
次は659年の第4回遣唐使についてである。
斉明5(659)年7月条(【資料12】θ)に、次のような蝦夷の男...
j 秋七月の丙子の朔戊寅(=3日)に、小錦下坂合部連石布...
同じ年の倭国の遣使を記した中国史書の記事は次のとおりで...
k 大唐顯慶四(659)年十月、隨倭國使人入朝。(通典 邊防...
l 蝦夷國、隨倭國使入朝。(冊府元龜 外臣部 朝貢三 顯...
m 未幾、孝徳死、其子天豐財立。死、子天智立。明年、使者...
『新唐書』は、多利思比孤を用明天皇の代に当てたり(実際...
『日本書紀』のjと中国史書のk~mは、年次だけでなく、...
L 斉明5年条の「伊吉連博徳書」によると、「倭種」である...
M 『日本書紀』等には、天皇家が「倭種」の韓智興たちを使...
N 従って、韓智興らは九州王朝の使者である。つまり天皇家...
O 「伊吉連博徳書」によれば、その結果、両国の使節団は共...
まずMであるが、「伊吉連博徳書」がどのような素性の文献...
以上で、L~Oは、内容まで一致している彼我の史書の記事...
次は669年の第5次遣唐使である。古田氏は次のように述べて...
P 『冊府元龜』は、北宋の大中祥符6(1013)年に真宗の勅を...
Q この『冊府元龜』において、倭国の最終貢献記事と日本国...
ア 咸亨元(670)年三月、[罽-厂]賓国獻方物。倭國王遣使賀平...
イ (長安元(701)年)十月、日本國遣使、其大臣朝臣貢人、貢...
R アの咸亨元年は天智9年に当るが、天智紀天智9年条には...
S ゆえにアの「倭国」は天皇家ではない。
古田氏は『冊府元龜』を持ち出しているが、次の『唐會要』...
n 咸亨元年三月、遣使賀平高麗、爾後継來朝貢。(唐會要 ...
それはともかくとして、Rを読むと、事情を知らない人は、...
遣唐使のうち、古田氏が「内容が異なる」と主張しているの...
麟徳元(664)年7月、唐の高宗は、麟徳3(666)年に泰山に封...
o 麟徳二(665)年、封泰山。仁軌領新羅及百濟・耽羅・倭四...
p 於是、仁軌領新羅・百済・耽羅・倭人四國使、浮海西還、...
さらに、次の記事によれば、麟徳2(665)年10月に洛陽を発っ...
q 二年十月丁卯、帝發東都、赴東獄。從駕文武兵士及儀仗・...
十二月丙午、至齊州,停十日。丙辰、發靈巖頓、至於太嶽之...
(冊府元龜 巻三六 帝王部 封禪二 麟徳二(665)年条)
これに対して古田氏は次のように述べる(『失われた九州王...
T 麟徳2(665)年は天智4年に当るが、『日本書紀』天智紀...
U 天智紀の同年条には、12月14日以後に帰国した劉徳高等の...
Tで古田氏は“天智紀にはこれに関する記事がない”というが...
またUは、天智紀の12月という月が『冊府元亀』の記事と矛...
以上のように、中国史書に出てくる唐と倭・日本間の遣使記...
なお、本節の内容は、増村宏氏の「旧新両唐書日本伝の理解...
13.倭と日本の地理描写
前節では、日中双方の史書における唐代の国交記事を比較し...
『旧唐書』の倭国伝と日本伝には次の地理描写の記事がある。
a 在新羅東南大海中、依山島而居。東西五月行、南北三月行...
b 又云「其國界、東西南北各數千里、西界・南界咸至大海、...
これらによると、「倭」の方は島であるのに対し、「日本」...
ところが『唐会要』や『旧唐書』の地理関係記事を調べると...
永徽五年の遣使記事に続いて、太文字部分に地理的な記述が...
ところでγには一つの謎がある。地理関係の記事というのは、...
この疑問は『日本書紀』との比較によって解決する。耶古・...
このうち、1と2は隼人の由来に関する記事、3、4、7~...
これに対して、次の13では、隼人と蝦夷は「内属」してきた...
ところでこの655年という年次は、永徽五(654)年と咸亨元(67...
それでは『旧唐書』のa、bの違いの問題はどうなるのであ...
倭国の西や北に小島があるということは、魏や隋の時代に倭...
ところで『唐会要』【資料5】γの倭国は天皇家だったのであ...
結局、『旧唐書』の「日本国者、倭国之別種也」という記事...
古田氏はaとbの違いを「倭・日本別国説」の根拠とした。...
なお、最後に補足しておこう。孝徳紀によれば、白雉五(654)...
ページ名: