韓国併合 岩波
をテンプレートにして作成
開始行:
韓国併合
(海野福寿著、岩波新書388 1995年刊)
第一章 朝鮮の開国
第二章 “軍乱”とクーデター
第三章 日清戦争前後
第四章 日露戦争下の韓国侵略
第五章 保護国化をめぐる葛藤
第六章 韓国併合への道
あとがき
参考文献
付 録 江華島(カンファド)事件を口実に朝鮮の開国に成功...
それは同時に、朝鮮政府・人民の粘り強い抵抗を排除する過...
朝鮮植民地化の全過程を、最新の研究成果にもとづいて叙述...
海野福寿(うんの・ふくじゅ) 1931年東京に生まれる、196...
専攻-日本近代史、近代日朝関係史、現在-明治大学文学部...
著書-「明治の貿易」(塙書房) 「恨――朝鮮人軍夫の沖縄戦」(...
あとがき 1995年4月 海野福寿 top
本書は、朝鮮の開国から韓国併合までの日朝・日韓関係を外...
外交史の専門家でもないわたしがその気になった契機は、一...
その討論会でわたしたちは、「従軍慰安婦」や強制連行問題...
それは「従軍慰安婦」や強制連行があったから日本の「植民...
日本が謝罪を求められているのは個々の不法行為にたいして...
しかも、わたしたちが歴史的事実として自明のことのように...
韓国でも同じような意見が少なくないが、日本の朝鮮支配を...
歴史学のうえでもとりあげられるに違いない。
本書の主要テーマもこの点にかかわる。
しかし、にわか勉強のわたしかたどりついた結論は、共和国...
韓国併合は形式的適法性を有していた、つまり国際法上合法...
だが誤解しないでほしい。
合法であることは、日本の韓国併合や植民地支配が正当であ...
当時、帝国主義諸国は、紛争解決手段としての戦争や他民族...
彼らの申し合わせの表現である国際法・国際慣習に照らして...
日本はその適法の糸をたぐって、国際的干渉を回避しながら...
わたしたちにとって考えるべき問題の本質は、併合にいたる...
ところで、「韓国併合」はしばしば「日韓併合」とよばれる。
山辺健太郎氏も自著を『日韓併合小史』と題された(一九六...
しかし、正確には「韓国併合」とよぶべきではないだろうか。
なぜなら、日本“が”韓国“を”併呑(へいどん=飲込む)した...
国定教科書の場合を少しくわしくみてみよう。
併合の翌一九一〇年発行の第二期国定教科書の表現は「韓国...
第六期(一九四三年発行)では、「〔韓国皇帝が〕統治権を...
戦後の第七期(一九四六年発行『国のあゆみ』)では、「わ...
改訂のたびに、そのときどきの時代的要請をうけて、さまざ...
おそらくは、今日ひろく使われている「日韓併合」「日韓併...
わたしはいま、これ以上この問題をつまびらかにする材料を...
語感としてそのような印象が生ずるのは否めまい(ただし、...
本書を『韓国併合』と題したゆえんである。
朝鮮史について晩学のわたしに根気よくつきあい、ときには...
また、編集部の井上一夫・大山美佐子両氏との韓国料理をつ...
井上氏とは『日本近代思想大系』についで二度目のおつきあ...
参考文献
日本で刊行された主な関係書(史料集を除く)のみを掲...
浅田喬二編『“帝国”日本とアジア』(近代日本の軌跡10)吉川...
井口和起編『日清・日露戦争』(近代日本の軌跡3)吉川弘文館...
石井寛治『開国と維新』(大系日本の歴史12)小学館、一九八...
石坂浩一『近代日本の社会主義と朝鮮』社会評論社、一九九三年
海野福寿『日清・日露戦争』(日本の歴史18)集英社、一九九...
海野福寿編『日韓協約と韓国併合条約』明石書店、一九九五年
大江志乃夫『日露戦争の軍事史的研究』岩波書店、一九七六年
『日露戦争と日本軍隊』立風書房、一九八七年
梶村秀樹著作集刊行委員会編『梶村秀樹著作集』一~六巻、別...
姜在彦『朝鮮近代史研究』日本評論社、一九七〇年
『近代朝鮮の変革思想』日本評論社、一九七三年
『朝鮮の攘夷と開化』平凡社、一九七七年
『朝鮮近代史』平凡社、一九八六年
姜東鎮『日本言論界と朝鮮』法政大学出版局、一九八四年
姜萬吉著、小川晴久訳『韓国近代史』高麗書林、一九八六年
君島和彦・坂井俊樹編『朝鮮・韓国は日本の教科書にどう書か...
金義煥『近代朝鮮東学農民運動史の研究』和泉書院、一九八六年
金圭昇『日本の朝鮮侵略と法制史』社会評論社、一九九一年
琴秉洞『金玉均と日本-その滞日の軌跡』緑蔭書房、一九九一年
芝原拓自『日本近代の世界史的位置』岩波書店、一九八一年
芝原拓自解説『対外観』(日本近代思想大系12)岩波書店、一...
須川英徳『李朝商業政策史研究』東京大学出版会、一九九四年
高崎宗司『“妄言”の原形――日本人の朝鮮観』木犀社、一九九〇年
『“反日感情”韓国・朝鮮人と日本人』講談社、一九...
武田幸男編『朝鮮史』山川出版社、一九八五年
武田幸男・宮嶋博史・馬淵貞利『朝鮮』(地域からの世界史1)...
田保橋潔『近代日鮮関係の研究』上下、朝鮮総督府中枢院、一...
鄭在貞著、石渡延男・鈴木信昭・横田安司訳『新しい韓国近現...
藤間生大『壬午軍乱と近代東アジア世界の成立』春秋社、一九...
中塚明『日清戦争の研究』青木書店、一九六八年
『近代日本の朝鮮認識』研文出版、一九九三年
『近代日本と朝鮮』(第三版)三省堂、一九九四年
中村哲・堀和生・安乗直・金泳鎬編『朝鮮近代の歴史像』日本...
中村哲・梶村秀樹・安来直・李大根編『朝鮮近代の経済構造』...
西尾陽太郎『李容九小伝』葦書房、一九七八年
朴殷植著、美徳相訳『朝鮮独立運動の血史』1・2、平凡社、一...
朴宗根。『日清戦争と朝鮮』青木書店、一九八二年
旗田巍『日本人の朝鮮観』勁草書房、一九六九年
『朝鮮と日本人』動草書房、一九八三年
旗田巍編『朝鮮の近代史』大和書房、一九八七年
旗田巍先生古稀記念会編『朝鮮歴史論集』下巻、龍渓書舎、一...
浜下武志『近代中国の国際的契機』東京大学出版会、一九九〇年
韓相一著、衛藤瀋吉ほか訳『日韓近代史の空間』日本経済評論...
阪東宏『ポーランド人と日露戦争』青木書店、一九九五年
藤村道生『日清戦争』岩波書店、一九七三年
『日清戦争前後のアジア政策』岩波書店、一九九五年
古屋哲夫『日露戦争』中央公論社、一九六六年
彭沢周『明治初期日韓清関係の研究』塙書房、一九六九年
マッケンジー著、渡部学訳『朝鮮の悲劇』平凡社、一九七二年
宮嶋博史『朝鮮土地調査事業史の研究』東京大学東洋文化研究...
森山茂徳『近代日韓関係史研究』東京大学出版会、一九八七年
『日韓併合』吉川弘文館、一九九二年
山中速人『ハワイ』岩波書店、一九九三年
山辺健太郎『日韓併合小史』岩波書店、一九六六年
『日本の韓国併合』太平出版社、一九七三年
渡辺勝美『朝鮮開国外交史研究』東光堂書店、一九四一年
岩波講座『近代日本と植民地』1~8、岩波書店、一九九二~九...
岩波講座『日本通史』近代1~4、岩波書店、一九九四年~九五年
朝鮮史研究会編『新版・朝鮮の歴史』三省堂、一九九五年
日韓歴史教科書研究会編『教科書を日韓協力で考える』大月書...
歴史学研究会編『日朝関係史を考える』青木書店、一九八九年
溝口雄三・浜下武志・平石直昭・宮嶋博史編『アジアから考え...
付録 top
1 日韓議定書 2 第一次日韓協約 3 第二次日韓協約 4 ...
原文は片仮名。現代仮名遣いとし、句読点・振仮名を付した。
1 日韓議定書(『官報』明治三七年二月二七日)
日韓議定書 日韓両国政府代表者は、本月二十三日、次の議定...
議定書
大日本帝国皇帝陛下の特命全権公使林権助及(および)大韓...
李址鎔は各(おのおの)相当の委任を受け、次の条款を協定...
第一条 日韓両帝国間に恒久不易の親交を保持し、東洋の平和...
大日本帝国政府を確信し、施政の改善に関し其忠告...
第二条 大日本帝国政府は大韓帝国の皇室を確実なる親誼を以...
第三条 大日本帝国政府は大韓帝国の独立及領土保全を確実に...
第四条 第三国の侵害により若(もし)くは内乱の為め、大韓...
大日本帝国政府は速に臨機必要の拑置を取るべし。
而(しこう)して大韓帝国政府は右大日本帝国政府の...
大日本帝国政府は前項の目的を達する為め、軍略上必...
第五条 両国政府は相互の承認を経ずして、後来、本協約の趣...
得ざること。
第六条 本協約に関連する未悉の細条は大日本帝国代表者と大...
明治三十七年二月二十三日 特命全権公使 ...
光武八年二月二十三日 外部大臣臨時署理陸軍...
2 第一次日韓協約(『官報』明治三七年九月五日)
日韓協約 去月二十二日、日韓両国政府代表者は次の協約に調...
一、韓国政府は日本政府の推薦する日本人一名を財務顧問とし...
総て其意見を詢(と)い施行すべし。
二、韓国政府は日本政府の推薦する外国人一名を外交顧問とし...
総て其意見を詢(と)い施行すべし。
三、韓国政府は外国との条約締結其他、重要なる外交案件即(...
契約等の処理に関しては予(あらかじ)め日本政府と協議...
3 第二次日韓協約(『官報』明治三八年一一月三二日号外)
外務省告示第六号
本月十七日、韓国駐箚帝国特命全権公使及同国外部大臣は下...
明治三十八年十一月二十三日 外務大臣 伯爵 桂 太郎
日本国政府及韓国政府は、両帝国を結合する利害共通の主義...
韓国の富強の実を認むる時に至る迄、此の目的を以て下の条...
第一条 日本国政府は、在東京外務省に由り今後韓国の外国に...
日本国の外交代表者及領事は外国に於ける韓国の臣民...
第二条 日本国政府は、韓国と他国との間に現存する条約の実...
日本国政府の仲介に由らずして国際的性質を有する何...
第三条 日本国政府は、其の代表者として韓国皇帝陛下の闕下...
統監は専(もっぱ)ら外交に関する事項を管理する為...
親しく韓国皇帝陛下に内謁するの権利を有す。
日本国政府は又、韓国の各開港場及其の他日本国政府...
権利を有す。理事官は統監の指揮の下に、従来、在韓...
並に本協約の条款を完全に実行する為め必要とすべき...
第四条 日本国と韓国との間に現存する条約及約束は、本協約...
継続するものとす。
第五条 日本国政府は、韓国皇室の安寧と尊厳を維持すること...
この証拠として下名は各本国政府より相当の委任を受...
明治三十八年十一月十七日 特命全権公使 林 権助
光武九年十一月十七日 外部大臣 朴斉純
4 第三次日韓協約(『官報』明治四〇年七月二五日号外)
日韓協約 明治四十年七月二十四日、韓国京城に於て伊藤統...
日本国政府及韓国政府は、速に韓国の富強を図り韓国民の幸...
第一条 韓国政府は施政改善に関し統監の指導を受くること。
第二条 韓国政府の法令の制定及重要なる行政上の処分は、予...
第三条 韓国の司法事務は普通行政事務と之を区別すること。
第四条 韓国高等官吏の任免は統監の同意を以て之を行うこと。
第五条 韓国政府は統監の推薦する日本人を韓国官吏に任命す...
第六条 韓国政府は統監の同意なくして外国人を傭聘せざるこ...
第七条 明治三十七年八月二十二日調印日韓協約第一項は之を...
この証拠として下名は各本国政府より相当の委任を受け本協...
明治四十年七月二十四日 統監 侯爵 伊藤博文
光武十一年七月二四日 内閣総理大臣勳二等 李完用
5 韓国併合に関する条約(『官報』明治四三年八月二九日号外)
朕、枢密顧問の諮詢を経たる韓国併合に関する条約を裁可し...
御名 御璽
明治四十三年八月二十九日
内閣総理大臣 侯爵 桂 太郎
外務大臣 伯爵 小村寿太郎
条約第四号
日本国皇帝陛下及韓国皇帝陛下は、両国間の特殊にして親密...
因てこの全権委員は会同協議の上、次の諸条を協定せり。
第一条 韓国皇帝陛下は、韓国全部に関する一切の統治権を完...
第二条 日本国皇帝陛下は、前条に掲げたる譲与を受諾し、且...
第三条 日本国皇帝陛下は、韓国皇帝陛下・太皇帝陛下・皇太...
各其の地位に応じ相当なる尊称、威厳及名誉を享有せ...
第四条 日本国皇帝陛下は、前条以外の韓国皇族及其の後裔に...
且之を維持するに必要なる資金を供与することを約...
第五条 日本国皇帝陛下は、勲功ある韓大にして特に表彰を為...
栄爵を授け且恩金を与うべし。
第六条 日本国政府は、前記併合の結果として全然韓国の施政...
身体及財産に対し十分なる保護を与え、且其の福利の...
第七条 日本国政府は、誠意忠実に新制度を尊重する韓大にし...
韓国に於ける帝国官吏に登用すべし。
第八条 本条約は、日本国皇帝陛下及韓国皇帝陛下の裁可を経...
この証拠として両全権委員は本条約に記名調印するものなり。
明治四十三年八月二十二日 統監 子爵 寺内正毅
隆熈四年八月二十二日 内閣総理大臣 李完用
第一章 朝鮮の開国
一 外交慣例をめぐる紛糾
二 江華島事件――軍事力による開国強要
三 砲艦外交――「修好条規」の締結
四 解釈をめぐる対立
一 外交慣例をめぐる紛糾 top
江華島(カンファド)に刻まれた戦いの跡
ソウル市内を貫流する漢江(ハンガン)に沿って北西へ七〇...
臨津江(イムジンガン)と合流して大河となった漢江が島の...
しかし現在では、全長七〇〇メートルの江華橋でむすばれて...
思いのほか南北朝鮮の境界線に近く、朝鮮にんじんの名産地...
そういえば江華島にも、日除けの寒冷紗(かんれいしゃ)で...
朝鮮戦争のとき、開城方面から避難してきた農民がもたらし...
この静かな、ひなびた農村には、古くからの戦いの歴史が刻...
江華島は天然の嶮に守られた首都防衛の戦略的要地だった。
高麗時代の一三世紀、高麗全土がモンゴル軍の馬蹄に蹂躙さ...
高宗はここで、焼失した高麗大蔵経の版木を再版彫造し(一...
1854(嘉永7、安政元、哲宗5)年 3月、日米和親条約調印。
1860(万延3、哲宗11)年 この年、崔済愚が東学を創唱。
1864(文久4、元治元、高宗元)年 4月、崔済愚処刑。
1866(慶応2、高宗3)年 10月、フランス艦隊江華島攻撃(丙...
1868(慶応4、明治元、高宗5)年 1月、王政復古宣言。4月、...
1869(明治2、高宗6)年 1月、樋口鉄四郎(対馬藩家老)を朝...
1870(明治3、高宗7)年 1月、佐田白茅を朝鮮へ派遣。10月、...
1871(明治4、高宗8)年 6月、アタリカ艦隊江華島攻撃(辛未...
1872(明治5、高宗9)年 9月、花房義質を朝鮮へ派遣、朝鮮政...
1873(明治6、高宗10)年 8月、閣議、参議西郷隆盛の朝鮮派...
1874(明治7、高宗11)年 5~10月、日本軍、台湾出兵。9月、...
1875(明治8、高宗12)年 2月、森山茂理事官、釜山着任、朝...
9月、「雲揚」、江華島・永宗島攻撃(江華島事件)。10月、参...
1876(明治9、高宗13)年 1月、森有礼公使、李鴻章と会談。...
1877{明治10、高宗14)年 9月、花房義質代理公使を開港交渉...
1878(明治11、高宗15)年 9月、朝鮮政府、釜山港輸出入品に...
1879(明治12、高宗16)年 4月、琉球藩廃止、沖縄県設置。6...
ちなみに、井上靖の歴史小説『風涛』は、太子?(チョン)、...
一七世紀には、朝鮮の臣属を求めて侵入してきた清の大軍に...
フランス人神父殺害の責任追及を名目としたフランス艦隊の...
ともに真の目的は、朝鮮の開国強要であった。
清国・日本についで、朝鮮も開国させようという列強の飢え...
江華水道を臨む江華島の砲台(復元)
鎖国攘夷政策の強化
江華島(カンファド)には、一七世紀から一八世紀にかけて...
洋擾(ヤンヨ)などで、それらの要塞の多くが破壊されたが...
模造ではあるが、いかにも古めかしい砲口装填式の「紅夷砲...
しかし、照準装置のない旧式大砲の性能が劣ることは、のち...
せいぜい二○○~三〇〇メートルしかない幅の水道とはいえ、...
劣悪な旧式兵器であるにもかかわらず、朝鮮軍兵士は勇敢に...
魚在淵(オジェヨン)将軍以下、朝鮮軍の将兵は旧式兵器で...
十数人の死傷者を出したアメリカ軍は、いったんは広城堡を...
丙寅・辛未洋擾でフランスーアメリカの侵略行為をしりぞけ...
危機を回避することができたのは排外攘夷主義の正しさによ...
欧米諸国を夷狄(いてき)として排斥し、伝統的な朝鮮支配...
慣例無視の外交文書
丙寅、辛未洋擾のあいだに、日本では維新政府が成立した。
不平等条約の重荷をせおって誕生した新政府は、早々に対外...
そのひとつは文明開化・富国強兵の線にそいながら条約改正...
とくに朝鮮にたいしては、当初から侵略の志向をのぞかせて...
たとえば外交通の木戸孝允(たかよし)は一八六八年(明治...
その根底にあるのは、江戸時代に醸成された朝鮮蔑視にまみ...
新政府は、王政復古を通告するための使節を朝鮮に派遣する...
その任にあたったのは以前から対朝鮮外交の窓口であった対...
六八年一二月、対馬藩家老樋口鉄四郎らが使節として釜山(...
だが彼らが持参した書契(しょけい=外交文書)に、「皇室...
朝鮮にとって、「皇」「勅」は宗主国である清国皇帝のみが...
それをあえて用いて朝鮮に迫るのは、日本が朝鮮を隷属させ...
また、署名・印章も従来とことなったものを使用しており、...
朝鮮側は、「規外」であり「違格」であるとして反発する。
その後も維新政府は朝鮮に外交使節を送り、釜山での交渉は...
このような朝鮮の措置を「無礼」「侮日(ぶにち)」と受け...
アジア朝貢(ちょうこう)体制とは
前近代のアジアには歴史的に形成された朝貢体制があった。...
李氏朝鮮(一三九一~一九一〇年)はその典型であり、清国...
宗属関係という。
しかし、ここでいう朝貢体制はもっとふくらみをもった多元...
アジア的世界の国際的秩序の外交・交易原理として作用し、...
宗属というきびしい上下の縦糸と地域結合のゆるやかな横糸...
それは近代的な支配-被支配の権力関係、搾取-被搾取の経...
一八七三年(明治六)、日清修好条規の批准書交換のため清...
外交事務担当機関である総理衙門(がもん)をおとずれた副...
朝貢体制下の宗主国と藩属国との伝統的関係にもとづく見解...
その意味では、日清両国に両属していた琉球はもちろん、朝...
いま、日本政府は条約改正のために小西洋をめざして出発し...
朝貢体制を前提にして国家対等の関係を再編していくか。
それとも朝貢体制を否定してアジア的世界から離脱し、これ...
歴史的事実としては後者の道を歩んだことになるが、それが...
後述するように、欧米諸国は朝鮮との開国に際して、一方で...
西欧世界の論理をもって一方的にアジア的秩序に変革を迫る...
日本もまた。清国とのあいだに七一年九月、日清修好条規を...
これを清国側からみれば、従来の中華的秩序における「対等...
対朝鮮政策の基本姿勢
そのとき、すでに日本政府は、朝鮮にたいしては清国に向き...
一八七〇年四月、外務省から太政官(だじょうかん)あてに...
その第一の策は、「御国力充実迄(まで)」朝鮮との交際を...
第二の策は、まず皇使として木戸孝允を派遣し、王政復古通...
そして第三の策は、朝鮮「懐撫」のため、宗主国である清国...
前述の「日清修好条規」締結は、この第三の策を実行する手...
七三年七月、清国出張から帰国した副島外務卿の、清国の対...
しかし、欧米巡遊から九月一三日に帰国した右大臣岩倉具視...
岩倉に同調した参議は木戸孝允と大久保利通。結局は岩倉の...
いわゆる明治六年十月の政変である。だがこのとき、岩倉・...
政府内部の指導権争いが両派を決定的対立に追いやったので...
対朝鮮外交の一元化
これより先の一八七一年八月、廃藩置県により統一的中央集...
翌七二年九月には、釜山の草梁倭館(チョリヤンウェグァン...
のちの日本領事館である。
草梁倭館とは日本からの使客を接待するために設けられた客...
こうした新政府の外交権一元化を朝鮮政府は認めなかった。
とくに、草梁倭館の接収・整理のため、軍艦「春日」に乗り...
旧慣の礼を尊ぶ朝鮮側は、対馬藩吏以外の外交使節を「規外...
交渉再開の気運
一八七三年末、大院君にかわって高宗と王妃一族との閔(ミ...
大院君が固執してきた強列な鎖国攘夷政策はあらためられ、...
しかし、新政権が開国政策に転じたのではない。旧来の日朝...
軟化のうごきに拍車をかけたのが清国の総理衙門からもたら...
それは七四年五月の台湾事件(日本の台湾出兵)を報じ、朝...
征韓論の余燼がくすぶっていたが、日本に出兵準備の具体的...
だが、その知らせは朝鮮政府に動揺をあたえるだけの影響力...
武力衝突を避けたいのである。
七四年九月、朝鮮政情視察の命をうけて釜山の日本公館長に...
その主要点は、国書の交換を避け、大臣相当の日本外務卿-...
森山は一〇月、いったん帰国し、翌七五年二月、外務少丞・...
太政大臣と外務卿から訓令を受けた正式代表使節である。
森山理事官が携えてきた寺島外務卿の書契には、やはり「“皇...
その謄本に接した朝鮮政府は、とりあえず東莢府使の理事官...
宴享は三月三一日とされたが、森山は洋式大礼服の着用と宴...
一方的な交渉放棄
朝鮮政府が固陋(ころう)というわけにはいかない。
従来どおりの宴享、しかも今回にかぎって旧例にもとづきお...
むしろ非妥協的な態度は森山理事官の側にあった。
一八七五年四月、軍事的威嚇を背景にした交渉の必要を政府...
最後通牒にひとしい。
尊大な日本側の姿勢は朝鮮政府の反発をかったが、なおも交...
しかし、森山理事官は金継運との会見すら拒否した。
朝鮮側からすれば、森山が宴享儀礼の末節をあらそい、かん...
森山は、平和的解決を指示した外務卿訓令の趣旨にもそむい...
本書を書くうえで参考にした名著『近代日鮮関係の研究』(...
森山理事官にして、若(も)し朝鮮の政情を理解し、明治八...
朝鮮政府がさらに譲歩して外務卿書契受理の方針を決定し、...
黒田全権派遣を予告する先報使の任で釜山に来ていた広津弘...
もしここで、書契の受理を契機として外交交渉を展開し、旧...
日朝関係のスタートラインをただす最後の機会が失われた。
二 江華島事件――軍事力による開国強要 top
軍艦派遣を決定する
話を少しもどそう。
強硬派の森山理事官は、一八七五年(明治八)四月、広津副...
交渉のゆきづまりを打開するため、“軍艦一、二隻を派遣して...
寺島外務卿は、ひそかに三条太政大臣、岩倉右大臣の了承を...
出動を命ぜられた「雲揚」が釜山に入港したのは五月二五日。
つづいて「第二丁卯(ていぼう)」も入港した。
軍艦といっても「雲揚」は排水量二四五トン、「第二丁卯」...
ともに山口藩から新政府がひきついだ政府艦であった(雲揚...
予告なしの入港にたいし、東莢府は国交開始交渉中の突然の...
そのうえ観覧のため来艦した東莢府官員一八人の目のまえで...
その後「雲揚」は朝鮮東海岸を北上して試鏡道永興(ヨンフ...
「雲揚」が江華水道河口に到着したのは九月二〇日朝である。
艦長は海軍少佐井上良馨(よしか)(のちに佐世保・呉・横...
井上艦長らは江華水道河口からボートで遡上し、草芝鎮に近...
飲料水を求めるためと報告書はいうが、許可を求めることも...
これは日本政府が了解した計画的なものであった。
それは、九月三日に釜山の森山理事官らに帰国を指示し、事...
江華島・永宗島の攻撃
まず草芝鎮の砲台から砲撃が開始されたという。これで応戦...
小砲艦とはいえ、イギリス製一一〇斤・四〇斤砲を有する「...
交戦一時間半、正午におよぶと、やがて干満差のはげしい京...
黄濁した江華水道の流れがひくと、葦で覆われた岸辺が川幅...
接岸が不可能になったため、井上艦長は草芝鎮への上陸を断...
いまでも草芝鎮の城塞には、えぐられた石垣や幹を折られた...
ついで午後二時半ごろ、「雲揚」は永宗島の要塞を急襲した。
永宗島は江華島から南ヘ一〇キロ、仁川の一角をなす月尾島...
永宗鎮には六〇〇人の守兵がいたが、不意の砲撃に周章狼狽...
井上艦長は二二人の将兵に上陸を命じ、城内の建物・民家を...
遺棄死体三五、俘虜一六人。のこされていた銃砲などの兵器...
日本側は二人の水兵が負傷、その一人は二二日に死亡した。...
朝鮮侵略戦争最初の戦死者だろう。
九月二八日朝、「雲揚」は長崎に帰着。
井上艦長は、「端艇を卸(おろ)し探水せし剋へ、彼より大...
条約交渉へ向けて
洋擾のばあいもそうであるが、加害者が被害者になりすまし...
朝鮮の攘夷政策を逆手にとり、挑発して事をかまえ、砲艦外...
だが日本政府は、江華島事件をひきおこして絶好の攻めの機...
その理由は、ひとつには決着ずみの征韓論を再燃させ、政府...
事件発生の報告を受信した翌二九日の御前会議は、事態の推...
出動命令をうけた「春日」は、「雲揚」や「第二丁卯」とは...
派遣の目的が朝鮮にたいする軍事的威圧であることはいうま...
一〇月三日釜山に入港した「春日」は、そのまま湾内に停泊...
釜山へ到着した中牟田は、儀仗兵をしたがえて上陸し、それ...
いんいんたる砲声は湾内に響きわたり、朝鮮官民を畏怖させ...
政府が対朝鮮政策の方針を決定したのは一一月に入ってから...
すでに前月、島津左大臣・板垣退助参議が辞職し、大久保・...
木戸孝允の意見書
一〇月五日、木戸参議は対朝鮮政策の政府決定を求める意見...
それは、“江華島事件について、まず宗主国である清国に「中...
もちろん、事件の責任といっても、それ自体が問題なのでは...
朝鮮と清国との宗属関係をたちきり、朝鮮を清国からひきは...
もし対応をあやまれば、清国の干渉、妨害はもとより、武力...
そこで、まず最初に宗主国清国に仲介を依頼するかたちをと...
政府は木戸の意見を承認し、彼の朝鮮派遣を内定した。
しかし、木戸は一一月一三日病にたおれ、使節任命を辞退し...
森有札の構想
清国との交渉のための特命全権公使には外務少輔(しよう)...
若き日、欧米に学び、維新後は駐米外交官の経験をつんだ森...
国際法に通じ、西欧風に染めあがった森の頭脳は、近代的な...
公使拝命の一八七五年一一月一四日以降、森は三回にわたっ...
そのなかで、江華島事件は「暴に対する暴を以て」生じたも...
そうではなく朝鮮を独立国として認めたうえで、朝鮮沿海の...
江華島事件の問責は交渉の「副言」にとどめ、朝鮮の開国交...
森が危惧するのは「妄(みだり)に事を起」こしたばあいの...
それは懸案の条約改正の障害にもなりかねない。
だから万国が認める「公正の条理」にもとづく「平和使節」...
これが楽観的な、西欧近代主義者森の主張だった。
不調に終わった対清交渉
森公使は一一月二四日、特務艦「高尾丸」で東京品川を出立...
北京に入京したのは年を越した一八七六(明治九)年一月五...
森はただちに行動をおこすが、協力を期待した駐清イギリス...
清国は、列強の干渉を誘いこむような、東アジアの武力衝突...
李鴻章(りこうしょう)との会見
交渉の展望をもてないまま、森公使は一月二四日、保定(パ...
五三歳の李鴻章は、二八歳の新進気鋭の森をたしなめながら...
清国の朝鮮への仲介要請についてはことばをにごして明言し...
しかし、開戦を避けたい李鴻章は、すでに一九日に総理衙門...
それにしたがって清国政府は、朝鮮国王に勧告したのである。
この勧告が日朝交渉に決定的な影響をあたえることになるが...
二月一二日、森が清国政府からうけとった公文には、朝鮮は...
対清交渉は、清国政府から対朝鮮勧告をひきだしたといえな...
明治政府は清朝間の宗属関係につよい関心をもっていた。
朝鮮は清の属国か、それとも条約締結権(外交権)をもつ独...
朝鮮を清国への服属からきりはなすためである。森公使は交...
しかし、他方で朝鮮に条約交渉に応ずるよう勧告することを...
清朝宗属関係を観念的に抹殺しても、現実の宗属関係に依存...
三 砲艦外交――“修好条規”の締結 top
黒田清隆の特派
急病の木戸にかわって特派大使(特命全権弁理大臣)になっ...
独断専行型の里田の派遣をあやぶむむきもあったが、木戸・...
三条太政大臣が黒田全権にあたえた訓令は、江華島事件の「...
実際、開戦にふみきる財政的うらづけもなかったのである。
のちに、釜山に到着した黒田が、応戦態勢強化のため二個大...
国際的非難に神経をとがらせていたのである。
もっとも開戦にそなえて、広島・熊本鎮台の出兵準備は交渉...
一八七六年(明治九)一月六日、黒田特派大使は、井上副使...
これにしたがう艦船は六隻。
これらに「警衛」として「日進」艦長伊東祐亨(ゆうこう)...
視察名目の海軍佐官二人も「高雄丸」に同乗した。のりくみ...
江華府にのりこむ
一行を乗せた艦船団は対馬に寄港したのち、一月一五日に釜...
これよりさき、日本政府は釜山の東莢府使を通じて朝鮮政府...
一月二三日、一行は釜山を出航、江華島へむかう。
朝鮮半島の西海岸沿いに北上して黄海の京畿湾の奥深く進入...
しかし、朝鮮の官民はこれを妨害しなかった。飲料水を求め...
それにひきかえ日本側の態度は高圧的だった。異国船来航の...
ただ江華島に上陸し、江華府をあずかる留守(長官)と交渉...
朝鮮政府は一月三〇日、接見大官に御営大将申憲(シンホン...
しかし二月四日、日本艦隊は問情官の制止をふりきって北進...
翌五日、森山外務権大丞は小艇二隻で江華水道を北上して甲...
同夜、尹滋承接見副官と予備交渉を開始した。
尹滋承は、江華府における本交渉開始を避け、接見大官・副...
しかし森山はこれをしりぞけ、交渉は江華府の役所内でおこ...
二月八日、森山は尹滋承に、黒田特派大使が一〇日上陸し、...
条約交渉の開始
一八七六年二月一〇日午後三時ごろ、黒田特派大使らは江華...
気温は三度、薄日のもれる寒い日だった。
翌二月一一日。この日は七三年から施行された紀元節にあた...
交渉開始直前の正午に、停泊艦はいっせいに礼砲を放った。
つまりは示威である。
午後一時、江華府武人の訓練場である錬武堂で第一回会談が...
冒頭、黒田特派大使は日本政府の修好申し入れに対する朝鮮...
接見大官は日朝間のくいちがいを釈明したうえ、永宗島にた...
また、黒田は接見大官・副官への国王の全権委任の有無をた...
朝鮮には前例がなく、近代国家間の条約締結に必要な全権委...
そればかりか締結すべき条約そのものの必要性さえ認めなか...
国交再開を中断していた交隣関係の修復と考える朝鮮にとっ...
それとは反対に、近代国際法にもとづく条約形式とその締結...
黒田が強要した、接見大官・副官への国王の全権付与は二月...
二月一二日の第二回会談で、日本側は条約案と批准書案を提...
期限は一〇日間である。同日、済物浦へ来航した補給船「品...
条約交渉の展開
日本側が提示した条約案を朝鮮政府は甘受したわけではない...
二月一九・二〇日に接見大官と主席随員の宮本小一外務大丞...
原案前文には、「大日本国皇帝陛下」に対する「朝鮮国王殿...
朝鮮側は、これでは対等の礼を欠くとして「大」字と尊号削...
協議のすえ、尊号をとり、両国号に「大」字を付すことで合...
日本政府が細心の注意をはらい、かつて清国にも問い合わせ...
ただし、日本側が、朝鮮国は国際法王の主体として外交権を...
このズレが日清戦争にいたる日朝清関係のすきまを広げるこ...
そのほか、日本人集住地域(居留地)設置(第四款)、遭難...
問題があったのは日本使節(公使)の京城(漢城)常駐(第...
このうち開港は具体的な地名を特定するにいたらず、たんに...
また、最恵国待遇については、朝鮮政府が“将来他国と条約を...
ちなみに最恵国待遇が規定されるのは、朝鮮が清・アメリカ...
朝鮮側が公使の首都常駐を拒否した理由は、“江戸時代の通信...
日本の最大目標は、旧来の交隣関係を条約にもとづく国家間...
それゆえ、個別条項の不一致で交渉が不調に終わることを避...
帰国後の黒田・井上両全権の復命書でも、「和好の大局」の...
また、細目については調印六ヵ月以内に再度協議し、決定す...
批准書の親署問題
一九日の会談ではげしく意見が対立したのは、批准書の形式...
日本側は、国王の親署と玉璽捺印を要求した。
これにたいし、朝鮮側は、国法に国王親署の規定がないとし...
二〇日夜、再開された第四回会談に出席した黒田全権は、批...
しかし、接見大官・副官ともに“臣下が国王に署名を乞うこと...
批准書が国家元首の署名捺印を必要とすることは一般的にい...
清国では批准書に「大清国大皇帝」と記し、玉璽を押すだけ...
それにもかかわらず、なぜ黒田は固執したのか。
伝統にこだわる朝鮮の外交手法を近代的条約形式と国際法的...
二二日、黒田は江華府から撤収することを通告した。
交渉決裂を意味する。だが、これはポーズにすぎない。
接見大官の要請をいれて、黒田はなお五日間停泊艦で待機す...
軍事力をちらつかせながら危機状況をつくりだし、我意を通...
接見大官と宮本との協議が急速にすすみ、
①剛国王親署をおこなわず、「為政以徳」の印章にかえて「朝...
②批准書交付は条約調印と同時におこなうこと、
③江華島事件にたいして謝意を示す「叙事冊子」(覚書)を作...
修好条約の調印
条約書を国王が裁可し、その調印式は二月二七日ときまった。
急遽、本艦から江華府へもどった里田全権゜井上副全権は、...
つづいて朝鮮国王の批准書と朝鮮国「叙事冊子」が黒田全権...
批准書には「大朝鮮国主上」と記され、「大朝鮮国主上之宝...
日本天皇の批准は三月二二日。このとき、「修好条規」が発...
調印後、双方から贈答品目録が交換された。
朝鮮国王へは弾薬二〇〇〇発をつけた回転砲一門のほか紅白...
接見大官以下随員、江華府官員へそれぞれ刀・短銃・絹・史...
また、朝鮮側からも儒書・布帛(ふはく=織物)・虎皮など...
朝鮮国王へ贈った回転砲は、前日の試射で八〇発中六〇発余...
日本の軍事力を誇示したのであるが、調印を終えて黒田全権...
西洋製ならば献上品として不適当である。
だが、おそらく輸入砲だったのであろう、砲には横文字が刻...
答えに窮した野村は、よくはわがらぬが、と前置きしながら...
二月一一日にはじまった「日朝修好条規」交渉は、こうして...
近代朝鮮の悲劇の幕明けであるが、調印の二七日の天気は皮...
交渉にあけくれた二週間が季節を変え、春をふくんだ微風が...
「雲一、風一、寒暖計五〇度(華氏)、晴雨計三〇四五」と...
四 解釈をめぐる対立
修好条規付録をめぐって
さきに調印された「日朝修好条規」は、あたらしい日朝関係...
そのひとつが「日朝修好条規付録」の協定であり、もうひと...
日本側の交渉委員には理事官として外務大丞宮本小一が任じ...
以下、八人の外務省官吏が随行することになった。
一行を乗せた軍艦「浅間」は、対馬厳原(いずはら)・釜山...
これより宮本理事官らは小艇に乗りかえて江華水道に入り、...
八月一日、大礼服を着用した宮本理事官は、はじめて朝鮮国...
交渉は当初から難航した。
日本側が提起した「公使の漢城駐在」「家族同伴」「公使館...
修好条約による国交成立を旧来の交隣関係の復活・修正と考...
宮本理事官の国際的外交慣例と外交官職務の意義の説明にも...
清国の使臣にも前例がなく、通商に関する交渉は開港場の管...
はてしない応酬のすえ、宮本理事官はこの問題をとりさげざ...
日本公使の首都駐在問題は、その後も尾を引いた。
一八七七年九月、“代理”公使花房義質の朝鮮「差遣」(駐在...
したがって花房の宿所であった漢城西大門(ソデムン)外の...
要するに、朝鮮政府はアジア朝貢体制下の日朝交隣関係の維...
このため、三〇〇年の歴史をもつ草梁倭館の日本人専住区域...
しかし、あらたに日本側の地代あるいは地租負担を明記する...
居留地では広範な自治権が認められ、それが領事裁判権とむ...
それはともかく、修好条規付録交渉で問題となったのは、居...
日本側は日本里程で一〇里四方とし、その区域内における商...
これにたいし朝鮮側はつよく拒否し、朝鮮里程で一〇里(日...
日本の商人資本の国内侵入、日本人との抗争を危惧したため...
遊歩区域問題は調印前日にあたる八月二三日の第一一回会談...
だが、交渉結果は日本の要求どおりにはいかなかったとはい...
貿易規則をめぐる問題
修好条約付録の交渉にひきかえ、貿易章程である「朝鮮国議...
当初から朝鮮側が日本側提示案の大要を簡単に受け入れたが...
たとえば、貿易規制品とした米穀について朝鮮側が、“例外と...
帰国後、宮本は報告書のなかで、「[朝鮮側は]各港居留の...
あるいは、三条太政大臣が与えた指示で「通商章程中の要旨...
そのうえで宮本は、貿易規則調印と同時に趙寅煕あてに送っ...
貿易規則を修好条約付録に比して「小事と認」めた朝鮮政府...
たしかに一八七六年当時の貿易額は少なかったが、修好条約...
たまりかねた朝鮮政府は、輸出入品の国内課税をこころみた...
朝鮮が日本との輸出人品に課税するのは、後述する一八八三...
第二章 “軍乱”とクーデター
一 不平等条約体制の成立
二 壬午軍乱――清国の影響力が強まる
三 甲申政変――内政干渉のクーデター
四 宗属関係の変質と朝鮮の抵抗
一 不平等条約体制の成立 top
「日朝修好条規」は、まぎれもなく不平等条約であり、朝鮮...
しかし、条約締結をもって、ただちにアジア朝貢体制の東の...
むしろ、日本の性急な国権外交政策は、長い伝統がはめこま...
たとえば、外交代表の首都漢城への常駐は拒否されたし、釜...
日本の朝鮮侵略の橋頭堡となる居留地設置さえも、国内通商...
「日朝修好条規」は鎖国朝鮮の重い扉をこじあけたとはいえ...
朝鮮政府が認めたのは、旧来のアジア朝貢体制に決定的な亀...
このような状況が反転し、不平等条約が実効化されるのは一...
それには日本の実力による再挑戦というよりも、欧米列国の...
朝鮮にたいする各国不平等条約が体制として成立するなかで...
1880(明治13、高宗17)年 4月、花房義質、弁理公使となる。...
1881(明治14、高宗18)年 1月、朝鮮統理機務衛門設置。2月...
1882(明治15、高宗19)年 3月、金玉均来日(8月まで滞在)...
1883(明治16、高宗20)年 6月、金玉均来日、借款を求めるが...
1884(明治17、高宗21)年 6月、朝伊修好通商条約調印。7月...
1885(明治18、高宗22)年 1月、漢城条約調印。竹添公使召還...
1886(明治19、高宗23)年 6月、朝仏修好通商条約調印。
1889(明治22、高宗26)年 2月、大日本帝国憲法公布。5月、...
1890(明治23、高宗27)年 3月、黄海道で防穀令施行。11月、...
アメリカの朝鮮接近
アメリカの朝鮮進出の野望は、辛未洋擾(シンミヤンヨ)の...
アメリカは当初、朝鮮の唯一の条約締結国である目本の仲介...
これは修好条規さえまだ思うとおりには実体化できないでい...
通商独占の野心があったからである。
アメリカの要請にたいし積極的な対応をしなかった。
一八八〇年(明治二一)五月、釜山(プサン)へ入港したシ...
シュウフェルトが天津に着いたのは八月二五日。
以後、李鴻章とのあいたに朝米通商条約の実質的な締結交渉...
李鴻章の朝鮮開国政策
李鴻章がシュウフェルトの要請にすぐ応じたのは、すでに朝...
それは、朝鮮と東三省(中国東北部の奉天省・吉林省・黒竜...
朝鮮の危急はすなわち清国の危急ととらえる、自国本位の戦...
ロシアとは八〇年春以降、イリ紛争(中国新疆省西北のイリ...
開戦となれば、ロシアは清国防衛の前線である東三省・朝鮮...
一方、日本は一八七九年、沖縄県設置(琉球処分)を強行し...
日清両属の歴史を有する琉球の日本への併合は、中華的アジ...
日本の矛先がつぎには朝鮮にむけられるのは必至とみられた。
清国政府は李鴻章に、朝鮮政府にたいして開国するよう説得...
李鴻章が数年来交友関係にあった朝鮮保守派の重鎮李裕元(...
少し長いが、李鴻章の考えが明確に示されているので引用し...
貴国は既に已(や)むを得ずして、日本と通商条約を締結し...
只今(ただいま)之を計るに、宜(よろ)しく敵を以て敵を...
彼の日本は其(その)詐力を恃(たのみ)み、四隣を蚕食鯨...
然して日本の畏(おそ)るる所は西洋人にして、朝鮮の力を...
また、ロシアについてもこういう。
露国の拠れる樺太(サハリン)・綏芬河(スイフェン河)・...
「敵を以て敵を制する(以夷制夷)」、この李鴻章戦略の手...
そのるつぼのなかで朝鮮は従属の苦しみを受けなければなら...
朝鮮開国論の形成
一八八〇年八月、二回目の修信使が来日した。
修信使とは修好条規第二款により、朝鮮が日本に派遣する使...
このときの修信使は礼曹参議金弘集(キムホンジブ)で、の...
東京滞在中に彼は、駐日清国公使何如璋(かじょしょう)、...
何如璋は黄遵憲に指示して「朝鮮策略」を書かせ、金弘集に...
その要点は、ロシアの侵略を防ぐため、朝鮮が“中国と親しみ...
つまり李鴻章の方針が、対ロシア対策を増幅させながら、駐...
「朝鮮策略」を持ち帰った金弘集が国王に奏上した防露・開...
これにより李鴻章は、朝鮮政府にかわって対米条約交渉をお...
だが、これはそれまでたびたび表明してきた「属国自主」の...
「自主」のたてまえを保ちつつ、実質的な介入にふみ出した...
八二年一月には、天津へ来た朝鮮代表使節が、李鴻章に交渉...
アメリカとの修好通商条約締結
一八八一年七月、シュウフェルトと第二回会談をおこなった...
馬建忠はフランス留学の経験をもち、国際法に通じ、李鴻章...
李鴻章は馬建忠草案などをもとに最終案を作成したが、彼が...
伝統的宗属関係の明記である。
だが八二年三月二五日から天津でおこなわれた第三回会談で...
結局、条約とは別に、つぎのような朝鮮国王のアメリカ大絖...
朝鮮はもともと中国の属邦ではあるが、内治、外交は従来す...
大朝鮮国が中国の属国であり、その従属関係の結果として、...
条約には、暫定的ながら領事裁判権の容認、仁川(インチョ...
しかし、関税については朝鮮の自主権を原則としたうえで、...
こうして「朝米修好通商条約」は五月二二日仁川で調印され...
調印者は全権大臣申樓(シンホン)、全権副官金弘集とシュ...
調印日は「大朝鮮国開国四百九十一年」(李朝の建国暦)と...
李鴻章は、欧米諸国との朝鮮開国にあたって、「日朝修好条...
李鴻章は皇帝への上奏文のなかで、「朝鮮に駐剳(ちゅうさ...
朝米条約についで六月六日、馬建忠の仲介で朝鮮とイギリス...
イギリスの調印者は極東艦隊司令官のウィルズ中将。
駐清ドイツ公使ブラントが六月三〇日に調印した「朝独修好...
不平等条約体制の成立
だが、ウィルズが調印した「朝英仁川条約」をイギリス政府...
ドイツでもブラント調印の「朝独修好通商条約」の批准は拒...
駐日イギリス公使として東京にいたパークスもひどく不満だ...
パークスは一八六五年(慶応元)、オールコックの後任公使...
八三年九月に駐清公使に転じたパークスは、一〇月、横浜駐...
それぞれ、本国政府から条約再交渉の命をうけた全権委員と...
朝鮮側の全権大臣は督弁交渉事務閔泳穆(ミンヨンモク)で...
彼は壬午軍乱(次節参照)のあと、李鴻章の推薦で朝鮮政府...
一一月二六日に調印された「朝英修好通商条約」(京城条約...
朝鮮政府は日本と「日朝修好条規続約」「朝鮮国に於て日本...
パークスが「イギリスの東アジア諸国とむすぶ条約のモデル...
以後、各国との修好通商条約がこれにならう。
ロシア(一八八四年)、イタリア(一八八四年)、そしてフ...
アメリカと日本も、最恵国待遇により、朝英・朝独条約が朝...
ここに朝鮮をめぐる列国の不平等条約体制が成立した。
李鴻章が意図した、朝米条約基準の朝鮮開国政策は失敗した...
しかし、パークスはアジア朝貢体制-清朝宗属関係にはまっ...
朝英条約調印の日付けに「大朝鮮国開国四百九十二年、即中...
他国のばあいも同様である。
また、イギリスは外交代表(公使)の首都駐在を条約に明記...
宗属関係に敬意を表したため、といわれている。
駐清公使で駐朝公使を兼ねたワルシャムは、八七年二月、駐...
清朝宗属関係をイギリスは承認していたのである。
実は、この不平等条約体制が成立するまえに、朝鮮国内では...
壬午(じんご)軍乱である。
二 壬午軍乱――清国の影響力が強まる top
朝鮮の内部葛藤
開国の衝撃を受けた清朝宗属関係のあり方をめぐって、朝鮮...
大ざっぱに分類すると、つぎの三派になる。
第一は、清朝宗属関係の維持に重きをおき、事大(大国に事...
彼らは、日本や欧米諸国との国交も、アジア朝貢体制の部分...
第二は、現実に進行しつつある、日本をふくむ欧米列強によ...
第三は、以上の二派の中間に位置する穏健派で、清朝宗属関...
彼らは、国際情勢のめまぐるしい変化にふりまわされる一方...
軍乱と大院君の政権復帰
一八八二年(明治一五、壬午の年)七月二三日、漢城で兵士...
ことのおこりは、兵士にたいする給米の不正支給である。閔...
それがこの事件を契機として爆発したのだった。
この暴動を失脚中の大院君が利用し、閔氏政権の転覆を企て...
いきおいづいた旧軍兵士たちは、まず兵器庫を破って武器を...
前年五月創設された新式軍隊(別技軍)の教官堀本礼造少尉...
日本公使館が、一般民衆もくわわって数千にふくれあがった...
投石・銃撃・放火のため防衛不能と判断した花房義質(よし...
しかし軍乱のしらせが到着すると、仁川府を守る朝鮮兵から...
二四日は早朝から反乱の軍民が昌徳宮(チャンドククン)に...
昌徳宮は李朝第三代王の太宗(テジョン)が一四〇五年に造...
その亭々(じょうじょう)とそびえる老木の下で、軍乱の原...
国王高宗(コジョン)は、やむなく大院君を昌徳宮に迎え、...
王妃(閔妃=ミンピ)は王宮を脱して忠清北道忠州(チュン...
壬午軍乱・甲信申政変の舞台となった昌徳宮の昌徳宮(ソウル)
日本政府の対応
花房公使は仁川沖でイギリス測量艦に収容され、同艦で七月...
政府はとりあえず事実経過の調査、謝罪・賠償要求のため花...
朝鮮政府との交渉を命ぜられた花房公使にあたえられた訓令...
①朝鮮政府の公式謝罪、
②被害者遺族への扶助料支給、
③犯人および責任者処罰、
④損害賠償、
⑤朝鮮軍による公使館警備、
⑥朝鮮政府に重大責任あるばあいは巨済島(コジェド)または...
⑦朝鮮政府が誠意を示さないばあいは仁川を占領し後命を待つ...
⑧咸興(ハムフン)・大邱(テダ)・楊花津(ヤンファジン)...
⑨外交使節の内地旅行権、
⑩通商条約上の権益拡大、などが追加された。
そして、陸軍は熊本鎮台の一個大隊派遣、海軍は軍艦四隻、...
迅速な対応をはかったのは、事件の重大性のためというより...
八月五日、駐日清国公使は、清国政府の派兵をともなう調停...
これにたいし外務卿代理吉田清成は、再三、「自主の国」朝...
政府法律顧問のボアソナードも、“日本は朝鮮を独立国と認め...
工部省汽船「明治丸」で済物浦(チェムルポ)に入港した花...
先遣の近藤真鋤(しんすけ)書記官らと陸軍兵三〇〇人を輸...
この軍事力を背景に、花房は、軍乱で破壊されたままの漢城...
二〇日、花房は二個中隊を率いて昌徳宮にむかい、王宮内で...
このとき、日本政府の要求七項目を記した冊子を領議政洪淳...
朝鮮政府は日本の過大な要求に回答をためらったのであろう...
花房は約束違反をとがめ、二三日には護衛兵を率いて漢城を...
仁川に滞在した花房は、清国政府から急派されて漢城に到着...
馬建忠の干渉
清国政府が軍乱発生のしらせを最初にえたのは、八月一日、...
李鴻章は生母の死去服喪中だったので、かわって北洋大臣代...
ふたりは、事件が国王高宗の開国政策に反対する勢力のクー...
張樹声はただちに北洋水師提督の丁汝昌(ていじょしょう)...
八月七日に「派兵して保護すべし」という光緒帝の命令が下...
藩属国の朝鮮の保護だけでなく、朝鮮で被害をうけた日本を...
丁汝昌の率いる「威遠」「超勇」「揚威」の三隻の軍艦は、...
上陸した馬建忠は、情報収集にあたるとともに日朝の要人と...
また、事態の展開に軍事的に対処するため、兵員の増派を上...
呉長慶提督が三〇〇〇人の兵を率い、三隻の軍艦に守られて...
これにより日本軍にまさる兵力配置をととのえた馬建忠は、...
二四日には仁川の花房全権をおとずれ意見交換。二五日の再...
このとき、ふたりのあいだで大院君排斥問題が話されたかど...
翌二六日、大院君拉致事件がおこる。
大院君排斥・国王復権の基本方針は張樹声の指示によるもの...
王宮はじめ城門を清国軍兵が固め、おびき出した大院君を捕...
“清国皇帝が冊封した朝鮮国王をしりぞけて政権をとるのは、...
高宗・閔氏政権は復活し、閔妃は忠州からにぎにぎしく迎え...
済物浦条約と修好条規続約
復権した高宗・閔氏政権は、外交面ではまったく馬建忠に依...
馬建忠は、先に日本側が提示した要求項目について、受諾す...
朝鮮側の全権大臣李裕元、副官金弘集らが、済物浦に停泊す...
交渉は同夜と翌二九日に集中的におこなわれ、三〇日にはは...
交渉案件が短時間で決着したのは、馬建忠が事前に朝鮮側に...
軍乱の犯人・責任者処罰、日本人官吏被害者の慰霊、被害遺...
また、日本側が要求した開港場遊歩地域の拡大(内地通商権...
朝鮮側かもっともつよく反対したのは、賠償金五〇万円と公...
しかし、花房は強引につきはなし、文言の修正と但し書きの...
こうした交渉結果はふたつの条約にまとめられ、三〇日に調...
ひとつは、壬午軍乱の善後処置としての「済物浦条約」、も...
前者は批准を要さなかったが、後者は修好条規の一部をなす...
批准書交換は三一日、謝罪特使として来日し、東京滞在中の...
清国宗主権の強化
「済物浦条約」調印直後の九月二日、花房全権は「大満足に...
しかし、それは花房の外交手腕によるのではなく、宗主権を...
「大満足」の成果は、日本政府が嫌ったはずの清国の介入に...
結果的には清朝宗属関係の頑強な存在をあらためて印象づけ...
朝鮮側の譲歩による条約締結は、この年五~六月にアメリカ...
その穴埋めのためには、日本にまさる力による清国の朝鮮従...
彼らは、そのとき、この新方針を胸にたたみこんだに違いな...
それを実現する機会が眼前にあるのだ。
九月一三日、光緒帝は大院君の保定(中国河北省)拘留と呉...
もともと宗属関係は藩属国の内治外交に干渉しない原則であ...
変質である。
清国にすがって国を守ろうとする閔氏政権の親清政策もこれ...
一八八二年一〇月、軍乱後の政策について李鴻章の指導を請...
これにより一二月、趙寧夏の帰国(趙は弁理統理衙門事務と...
馬建常は馬建忠の兄で、ヨーロッパに留学しており、神戸大...
ドイツ人ノレンドルフは、六九年に清国へ来て(当時二一歳...
メレンドルフは参議統理倚門事務として迎えられた。
ふたりは一二月二七日、高宗に謁見した。
メレンドルフは朝鮮国王が召見した最初のヨーロッパ人であ...
軍隊養成と軍制改革を依頼された呉長慶は、そのころめきめ...
一年半後には彼のもとで養成された二〇〇〇人を擁する新式...
こうして宗主国清国は藩属国朝鮮の外交・軍事に深く介入す...
「水陸貿易章程」の調印
「済物浦条約」調印直後の一八八二年一〇月四日、「中国朝...
清朝間にむすばれた近代的形式をぶんだ最初の条約である。
だが、その前文で、「朝鮮は久しく藩封に列す。典礼の関す...
また、「此次訂する所の水陸貿易章程は、中国の属邦を優待...
つまり朝鮮あるいは清国と通商条約をむすんでいる諸外国は...
したがって章程の「属邦優待」とは、清国が朝鮮貿易上の特...
貿易章程はまず、相互に商務委員を派遣(ただし清国の商務...
名目は自国商人の管理であるが、清国商務委員は朝鮮の通商...
このほか章程は、両国の「商民貿易」を建前としながら、朝...
桟とは倉庫業・運送業・問屋業を兼営する店舗の営業権であ...
これは、それまでに朝鮮が外国とむすんだ通商条約にはない...
領事裁判権に相当する商務委員の裁判管轄権は、清国側にの...
要するに章程は、宗属関係をたてに、清国の朝鮮貿易独占、...
朝鮮経済を外国にたいしてはひらかずに、両国間だけの「商...
清国商人を朝鮮国内にひきいれることによって、日本や欧米...
しかしそれは、もはや理念的な伝統的宗属関係とは異質のも...
清朝宗属関係の特殊性の強調とはうらはらに、内容は近代的...
三 甲申政変――内政干渉のクーデター top
金玉均(キムオクキュン)という人物
金玉均が壬午軍乱を知ったのは、彼が最初の訪日(一八八二...
開化派を代表するひとりである彼は、大院君と敵対する立場...
そのとき大院君拉致のしらせを聞いたのである。
訪日で深く印象づけられた日本の「近代」を背にしてこの事...
国王の実父を連行し、外国に拘禁するとは許しがたい国辱で...
それを宗主権というのなら、近代化のために宗属関係から離...
金玉均は、近代的技術導入・軍事力強化のための洋務開化論...
朴圭寿は一八七七年に没したので八〇年代の指導者とはなら...
清国との関係を保持しつつ「近代」への軟着陸を志向した穏...
こうした若手開化派にたいする国王の信頼も厚く、彼らは外...
壬午軍乱の謝罪をかねた修信使朴泳孝・金晩植・徐光範一行...
天皇に謁見した朴泳孝らは、政府高官とも接触し、朝鮮独立...
朝鮮の自主独立を標榜してきた日本としては進出の好機では...
だが、軍乱後の朝鮮は清国の大軍の制圧下にあった。政府内...
閣議は対清開戦につながりかねない積極的援助論をしりぞけ...
折衷論である。
償金支払い年限の緩和、横浜正金銀行から一七万円の借款供...
朴泳孝が一二月に帰国したのちも、金玉均は東京にとどまり...
日本側の対朝鮮策の不統一、さまざまな思惑のなかから、金...
クーデター計画
八三年六月、金玉均は三回目の訪日の途についた。
前回の訪日時に会見した日本政府高官らは、朝鮮国王の委任...
留学生尹致昊(ユンチホ)の帰国にあたっても、大蔵大輔吉...
だが、国王からあたえられた三〇〇万円の国債借り入れの委...
いまやふり向こうともしないのである。
三〇〇万円といえば朝鮮財政一ヵ年分に匹敵する巨額である。
財政を監督するメレンドルフの妨害工作もあったが、日本政...
日本についでフランス・アメリカからの借款工作にも失敗し...
彼が“非常手段に訴えても”と思いをめぐらすようになったの...
彼は第一回訪日以来、福沢諭吉と密接な交流があり、福沢も...
彼は福沢のすすめで自由党の後藤象二郎にも会った。彼は金...
この退潮期民権運動の指導者は、あやしい目配りを朝鮮半島...
八四年五月、帰国した金玉均の目に映った朝鮮は、以前にも...
開化派の同志たちの活動の場はせばめられている。
越南(ベトナム)問題をめぐる清国とフランスとの緊張の高...
しかし、越南における清国の劣勢が権威をゆさぶる。
清国の朝鮮駐留軍の半数が移駐したことも頭上にのしかかる...
日本も、清国勢力の後退を喜んだ。壬午軍乱以後、無為に過...
井上外務卿は帰国中の弁理公使竹添進一郎に因果をふくめ、...
竹添は軍乱賠償金残金の返還解消を申し出るなどして国王の...
クーデターの強行
クーデター実行計画は粗末に過ぎる。粗い計画の布目からこ...
クーデターに動員できる軍事力はといえば、公使館警備の仙...
これをもって、半減したとはいえ一五〇〇人の兵力をもつ清...
清国の武力干渉を抑止するにいたっては無力にひとしい。
決行日は一二月四日と決定した。
この日の夜ひらかれる郵征局(中央郵便局)開局祝賀晩餐会...
襲撃用の武器は、福沢諭吉の弟子で、漢城でハングル新聞『...
しかし、放火などに失敗したため、金玉均・朴泳孝らは王宮...
あらかじめ待機していた竹添公使と日本軍はただちにこれに...
国王の安否を気づかって景祐宮にかけつけだ守旧派の重臣、...
いずれも殺害者リストにあがっていた人物だった。
1884年開局の郵征局(ソウル)
五日、開化派は新政権の樹立を宣言。新政府の中核には右議...
同日夕、国王は昌徳宮へ還宮。新政府、が夜を徹して作成し...
敗北と逃亡
開化派クーデターに対し、清国軍は出動をひかえていた。
朝鮮国王が日本公使の保護を命じていたことと、日清衝突に...
清国軍を統轄する統領呉兆有(ごちょうゆう)は、袁世凱ら...
王宮護衛の任についていたはずの政府軍兵士の多くもこれに...
戦闘開始は午後三時ごろ。広大な昌徳宮を防衛するにはあま...
包囲の環がせばめられるなかで、国王と閔妃らは逃げまどっ...
国王を奉じて避難する、という金玉均らの提案は国王が拒否...
竹添公使と日本軍は昌徳宮裏門から脱出して、七時半ごろ公...
朴泳孝・金玉均ら九人も行動をともにしたが、洪英植・朴泳...
竹添らの公使館帰着まえに、市中は混乱状態におちいり、暴...
その数は二九人、うち女性一人をふくむ。
居留民保護を放棄した竹添公使の責任でもある。
この年七月新築落成したばかりの、校洞(キョドン)の公使...
もはや公使館維持を不可能とみた竹添は、七日午後、公使館...
西大門をぬけ、郊外の麻浦から漢江を下った。
降雪のなか、凍える夜を送った一行が仁川領事館に着いたの...
ここで一行は停泊中の「千歳丸」に収容され、日本に帰還す...
主謀者と自分との連繋があきらかになることをおそれたので...
彼らがひそかに乗船できたのは船長辻覚三郎の義侠による。
しかし、日本へ着いた亡命者に対する日本政府の態度は冷た...
関与を否定し通す
甲申政変は、日本の国家権力が朝鮮の内政に干渉し、しかも...
それにもかかわらず日本政府は、“竹添公使が金玉均らと通謀...
これが牽強附会の論理であることは、当の日本政府が熟知し...
一八八四年一二月三〇日、軍艦三隻・護衛兵二個大隊をとも...
交渉は井上全権大使、随員の井上毅(こわし)参事院議官ら...
「漢城条約」(「明治十七年京城暴徒事変ニ関スル日韓善後...
条約は、朝鮮が日本に公式謝罪し、被害者遺族の救恤と財産...
調印後のことであるが、井上は、近藤真鋤駐朝臨時代理公使...
日朝間の事後処理は、こうして真相究明と責任問題をたなあ...
朝鮮問題とくに駐兵について、朝鮮ぬきで日清両国が協定す...
三条太政大臣が井上にあてた内訓には、日清両国軍の朝鮮撤...
清国政府は、事件のしらせを受けると、宗主国として藩属国...
呉大澂は八五年一月一日、随員四〇人、護衛兵二五〇人を率...
しかし、撤兵問題について井上全権は、清国との交渉を避け...
「天津条約」による撤兵
参議・宮内卿伊藤博文を特派全権大使とし、参議・農商務卿...
徳宗皇帝(光緒帝)への謁見はできなかったが、国書を奉呈...
井上外務卿が伊藤全権に指示した訓令(二月二五日)による...
前者は清国軍がとった行動の不当を問うもので、容易に承諾...
共同撤兵といえば相互対等にきこえるが、日本側が公使館警...
駐清公使榎本武揚は、後者について、将来、緊急時の出兵権...
伊藤-李鴻章交渉は四月一五日まで六回にわたっておこなわ...
事件参加の清国軍の行動責任について清国側は、逆に竹添公...
結局は条約とは別に、李鴻章が、清国兵の居留日本人にたい...
かろうじて伊藤は面目をたもった。
共同撤兵については、清国の兵力配置上の都合もあり、イギ...
しかし、非常時の臨時出兵については、李鴻章は宗主国の本...
榎本公使の予想どおりである。
結局、四月一八日調印の「天津条約」に、つぎのような一項...
将来、朝鮮国若(も)し変乱重大の事件ありて、日中両国或...
其の事定まるに於ては仍即(すなわ)ち撤回し、再(ふた)...
日清両国は、朝鮮への派兵にあたって互いに「行文知照」、...
のちの日清開戦直前の九四年六月七日、清国政府が派兵の公...
「天津条約」締結にあたった伊藤への全権委任状には「批准...
五月二一日天皇批准。日清両国軍の漢城撤収はともに七月で...
四 宗属関係の変質と朝鮮の抵抗 top
属国から保護国へ
朝鮮へ出兵の「行文知照」を規定した「天津条約」について...
しかし、「天津条約」後の清国は、朝鮮にたいする干渉を緩...
むしろ、内政外交不干渉の宗属原理をかなぐり捨てたかのよ...
たとえばつぎの一例は、従来の清朝関係にはなかったもので...
一八八五年一〇月、清国は朝鮮派遣の商務委員陳樹棠を更迭...
このとき、李鴻章は諸外国の例にならって外務担当の総理衙...
三年まえ、馬建常とメレッドルフが政府顧問に就任したのは...
今回はそれとは異なり、清国政府が任命した袁世凱が、総理...
朝鮮はなお形式的には国際法上の主体として外交権を保持す...
八七年におきた朝鮮の公使派遣にたいする清国の干渉も、朝...
この年六月、朝鮮政府は、修好条約締結後の最初の派遣公使...
これにたいし清国は、公使派遣にあたっては清国皇帝の承認...
また、李鴻章は朝鮮の派遣公使は三等(代理)公使とするこ...
公使には全権・弁理・代理の三種類があり、三等の代理公使...
これにより宗主国清国派遣の公使と藩属国朝鮮派遣の公使と...
近代的国際関係とは別次元の宗属関係は、条約による規定が...
清国が根拠として宗属関係を強調すればするほど、本来の理...
清国のはたした役割
朝鮮にたいする清国の宗主権強化について、介入の正当性を...
しかも、柬アジアの秩序維持に清国がはたす役割は認めざる...
一八八五年四月、イギリスは朝鮮半島と済州島(チェジュド...
アフガンでイギリスと緊迫した関係にあったロシアの太平洋...
もし、イギリスとロシアのあいだに戦争がおこれば、巨文島...
この事件について八六年、李鴻章は駐清ロシア公使との交渉...
ここでは、アジアの国際調停機関として宗主権が有効に機能...
その間に日本は、清国にたいして日清両国による朝鮮の共同...
八五年六月に井上外務卿が駐日清国公使徐承祖(じょしょう...
ただし実施にあたっては井上が李鴻章と協議する、という規...
日清提携によってロシア勢力の朝鮮への進出をはばもうとい...
李鴻章が日本政府の提案を拒否したのはいうまでもない。朝...
対朝鮮政策の手がかりを失った井上外務卿は「自然の成行を...
「引俄反清」策の登場
支配と抑圧の体系と化した宗属関係は、藩属国の抵抗をよび...
清国の支配から離脱して朝鮮自主化をめざす方向の模索がは...
つぎつぎに国家主権が蚕食(さんしょく)されていく朝鮮の...
計画は国王とメレンドルフとのあいだだけで進められた。
一八八五年二月、甲申政変謝罪の遣日使節の全権副官として...
スペエルは甲申政変直後にも来朝し、国王に謁見、メレンド...
軍事教官の傭聘はたんに軍隊教育の問題ではない。軍事権へ...
あたらしい朝露関係の展開を意味するロシア軍人傭聘案を朝...
はじめて計画をしらされた朝鮮政府は、すでに国王の承認が...
清国は同年九月、保定府に幽閉していた大院君の赦免を決定...
清国から離反しようとする朝鮮国王に対して、政敵である大...
しかし、抑圧によってロシアに通ずる道を遮断することはで...
「朝露修好通商条約」(八四年七月調印)が批准(八五年一...
「引俄反清」とよばれる朝鮮の政策は、朝鮮が清国や日本と...
「俄」は俄羅斯(オロス)の略、つまりロシアをさす。
そのための秘密交渉は八六年八月ごろまで続けられたが、動...
袁世凱の問責に窮した朝鮮国王・政府は、ウェーバー公使に...
李鴻章は軍艦派遣の威迫を背景に、朝鮮の政情調査とロシア...
しかし、清国との正面衝突を望まないロシアは、密約の事実...
こうして朝鮮のロシア接近政策は封じこめられ、国王にもま...
日本の対清軍拡張論
清国の朝鮮保護国化政策によって、日本の朝鮮進出の野望は...
壬午軍乱後にえた通商権益の拡大も、いわば清国の承認あっ...
清朝宗属関係を観念的に抹殺したとしても、現実の、アジア...
やや後のことだが、八九年以降、朝鮮で凶作のため施行した...
いわゆる防穀令事件である。
防穀令発令一ヵ月まえに日本領事に予告して施行する、とい...
賠償請求交渉は難航し、九三年五月には大石駐朝公使が最後...
現実の外交面では、日本も朝鮮における清国の指導的立場を...
その一方で、壬午軍乱を契機として、日本は陸海軍大拡張に...
しかしそれは、将来おこりうる日清軍事対決に備えてのこと...
福沢諭吉が主宰する『時事新報』などがあおり立てて国内に...
一八八二年一〇月、右大臣岩倉具視は、三条太政大臣あての...
そのうえで日清対立の根本にある、朝鮮が独立国であるか、...
日本政府の年来の主張である朝鮮独立国論が国際的に支持さ...
また岩倉は、この意見書で、清国に「猜疑心」をおこさせる...
ところが岩倉が危惧したとおりの事態が、彼の死(八三年七...
一歩ゆずって、清国優位指導権を前提にした日清共同改革論...
中島雄書記官編「日清交際史提要」(「日本外交文書」明治...
このような状況を反転させるのが、アジアにおける帝国主義...
一八八六年(明治一九)を転機として、外戦(侵略戦争)に...
九〇年一二月、最初の帝国議会における山県有朋首相の施政...
山県は日本の領域にあたる「主権線」の守護と国家の安全に...
ここに、日清戦争は予告されたのである。
第三章 日清戦争前後
一 東学と甲午農民戦争
二 日清開戦への道
三 日清講和条約と王妃殺害事件
四 開化派のたどった運命
五 大韓帝国の成立と中立化構想の挫折
一 東学と甲午農民戦争 top
東学とは何か
東学は一八六〇年、慶尚道慶州(キョンジュ)の没落両班(...
民間信仰を基礎に儒教・仏教・道教などをとりまぜた独自の...
基本教理の「人乃(すなわち)天」は平等主義、人間主義思...
民族的・民衆的性格をもつ東学が忠清道・全羅道・慶尚道地...
しかし第二代教主となった崔時亨(チェシヒョン)は、布教...
重学教団の幹部たちは、弾圧に抗しながら、教祖の冤罪(え...
九三年には、幹部四〇人が教祖伸冤を国王に直接訴えるため...
1891 <明治24、高宗28)年 12月、朝鮮政府に防穀損害賠償要...
1892(明治25、高宗29)年 12月、東学教徒、崔済愚の伸寃運...
1893(明治26、高宗30)年 3月、東学教徒報恩集会。
1894(明治27、高宗31)年 4月、甲午農民戦争。6月、朝鮮政...
1895(明治28、高宗32)年 2月、北洋艦隊降伏。3月、日本銀...
1896(明治29、建陽元)年 1月、各地に義兵闘争おこる(乙未...
1897(明治30、光武元)年 10月、大韓帝国成立。
1898(明治31、光武2)年 4月、西・ロ-ゼソ協定調印。米西...
1899(明治32、光武3)年 9月、韓清通商条約調印。12月、「独...
1900(明治33、光武4)年 6月、義和団事件。11月、満州に関...
1901(明治34、光武5)年 6月、桂太郎内閣成立、政綱に韓国...
1902(明治35、光武6)年 1月、第1回日英同盟協約調印。
日本人居留民は仁川(インチョン)へ避難した。
「伏閤上疏」の人びとは解散させられ、請願は失敗したが、...
彼らの要求はもはや「教祖伸冤」をこえて、日本や西洋諸国...
同じころ、全羅道金溝(キムグ)でも全奉準(チョンボンジ...
最近の研究では教団主導の報恩集会よりも、より農民的色彩...
いずれにせよ東学教徒の宗教闘争から広範な農民闘争への転...
全奉準の蜂起
全奉準は全羅道の穀倉である湖南平野の古阜(コブ)の農民...
そのころ古阜郡守は趙秉甲(チョウビョンカブ)で、不当に...
全奉準はその非を唱え、弊政改革を求めたが、請願がことご...
そして趙秉甲を追放、悪徳役人を懲罰し、糧穀を奪い返し、...
農民軍の優勢に驚いた政府は、趙秉甲を処罰し郡守を更迭、...
このため古阜の民乱(地域的な農民騒擾)は一時収束された...
全奉準が大将、孫和中(ソンファジュン)・金開南(キムケ...
古阜の農民蜂起にたいして政府は、王妃の腹心洪啓薫(ホン...
しかし意気あがる農民軍は五月二七日、長城で政府軍の前衛...
農民軍は一万大にのぼるといわれる。
この農民戦争を、当時は、反国家的秘密結社である東学教団...
闘争は宗教的幻想とがらみあいながらも、農民の世直し的生...
最近では日清戦争下の第二次蜂起をふくめ、九四年の干支(...
壬午農民戦争関係図
執綱所コンミューン
李王家本貫(ほんがん)の地である全州を農民軍に制圧され...
全奉準は弊政改革を求める請願書を提出し、洪啓薫と交渉し...
弊政改革案は封建的身分の否定、封建的収奪の制限、土地の...
「全州和約」前後から全羅道五〇郡余に農民軍の執綱所が設...
全奉準は金溝を本拠として全羅右道を統轄し、金開南は南原...
そして執綱所を通じて貪官汚吏の処罰、身分制廃止、税制改...
大都所-執綱所による農民の自治民政組織は、のちに全羅道...
それは金鶴鎮の道内安定策だったのでもなければ、弊政改革...
執綱所組織は国家機構から分離しつつ、ひとつの独立した公...
政治的・軍事的・社会的権力として農村コンミューンを形成...
深刻な危機におちいった政府は反革命的な弾圧にのりだし、...
二 日清開戦への道 top
日清両国が出兵
農民軍の全州占領にあわてた朝鮮政府は一八九四年(明治二...
これをうけて漢城(ハンソン)駐在の清国軍は即日出動し、...
清国出兵のしらせは、同時出兵の機をうかがっていた日本政...
駐日清国公使汪鳳藻(おうほうそう)からの正式出兵通告が...
さらに五日には大本営を設置し、広島の第五師団に内命を下...
そして出兵通告を受けた七日には、日本政府も八五年の「天...
急遽、軍艦「八重山」に搭乗して帰任した大鳥圭介公使が、...
大鳥公使と日本軍は朝鮮側の制止をふりきって、その日のう...
派遣旅団の仁川上陸完了は一六日である。
しかし、一一日には「全州和議」が成立し、日清両軍は朝鮮...
「天津条約」には変乱などが解決したら、ただちに兵を「撤...
大鳥公使と袁世凱とのあいだで一二日から始められた共同撤...
だが、日本政府は駐兵と兵員増派計画をかえようとしなかっ...
駐兵の口実づくり
六月一五日の閣議は、朝鮮駐兵の口実づくりに腐心し、農民...
どちらも、駐兵の理由としては陸奥外相が決定をためらうほ...
大鳥公使からの報告も、牙山の清国軍は動かず、農民軍は平...
清国に提案した共同改革案は、朝鮮の内政干渉になるという...
そのうえ朝鮮政府およびロシア・イギリスをはじめとする各...
しかし、日本側はこれを拒否、またしても同時撤兵の機は失...
このとき日清両国の撤兵が実現していたら、日清戦争はおこ...
だが、賽(さい)は投げられた。
のちに陸奥が書いた『蹇蹇録(けんけんろく)』には「何と...
大量出兵した以上、無成果のまま撤兵することは国内世論の...
六月二七日、陸奥は大鳥公使に開戦の口実作成を命ずる指示...
大鳥は清国勢力を排除した後でなければ内政改革の実行は不...
大鳥は七月三日、外務督弁に改革綱領を提示したのについで...
このとき大鳥は、改革勧告を朝鮮政府が拒絶したばあいには...
一六日、朝鮮政府は日本側提示の改革案にたいし、日本軍の...
王宮占領事件
朝鮮政府の拒否回答は予想されていた。これにたいする処置...
「公使が自ら正当と認むる手段を執らるべし」と。
ただし「我兵を以て王宮及漢城を囲むるは得策に非ずと思わ...
しかし二二日を回答期限とした日本側公文による要求(清国...
漢城郊外の竜山(ヨンサン)に駐屯していた歩兵一連隊など...
この王宮占領事件は、参謀本部の公式戦史『明治廿七八年日...
しかし近年、中塚明氏による福島県立図書館「佐藤文庫」所...
すなわち、あらかじめ計画された筋書きどおりに、七月二三...
この事件は、八月二〇日調印の「暫定合同条款」で「両国兵...
そのうえ清国から送還されて蟄居(ちっきょ)中の大院君を...
閔氏政権の追放をはかったのである(甲午政変)。
七月二七日領議政(首相相当)に任命された金弘集(キムホ...
軍国機務処は国政全般を合議決定する権限をもつ臨時の政府...
金弘集は一八八〇年の第二次修信使として渡日以来、親日的...
甲申政変で開化派が弾圧されたのちも、穏健開化派ゆえに、...
日清戦争はじまる
周到な計画のもとに実行された王宮占領は、開戦の狼煙(の...
漢城の大島旅団長が参謀総長あてに事件発生の第一報を送っ...
一一時には連合艦隊の先発隊として第一遊撃隊が佐世保を発...
黄海を北上し、二四日に牙山湾を偵察した第一遊撃隊の「吉...
豊島(ブンド)沖海戦という。「済遠」は敗走し、「広乙」...
この海戦中、「浪速」艦長東郷平八郎大佐は、清国砲艦「操...
捕獲宣言にたいし、「操江」は降伏したが、清国将兵一〇〇...
「浪速」は救命ボートで船長ら四人の西洋人を救助したが、...
国際法違反の疑いがある「高陞」撃沈はイギリスの世論を刺...
一方、二六日(二五日ともいう)に漢城駐屯の日本軍は朝鮮...
清国軍は牙山の東北二〇キロの成歓(ソンファン)に布陣し...
翌三〇日、日本軍は牙山を制する。
豊島沖海戦の二五日、大鳥公使は朝鮮政府から「清朝商民水...
これは二〇日以来、大鳥公使が属邦条項をふくむ清朝条約は...
八月一日、天皇は宣戦の詔勅(しょうちょく=お詞)を渙発...
詔勅は、朝鮮を属邦として内政に干渉し、内乱にかこつけて...
戦争遂行の名分としての朝鮮の「独立自主」扶助は、日清戦...
日本側に立つことを強要
対清宣戦布告から一二日後の八月一三日、陸奥外相は大鳥公...
陸奥は戦争が日清間の交戦にとどまり、朝鮮が「中立国の如...
清国の勝利を信じて疑わぬ大院君らが反発したことは想像に...
これにより朝鮮は日本側に立つことを義務づけられ、親清行...
大鳥公使と金允植外相が調印した「暫定合同条款」は、つぎ...
①朝鮮内政改革の施行、
②漢城-釜山、漢城-仁川間鉄道の早期敷設、
③漢城-釜山、漢城-仁川間の軍用電信(開戦前に無断架設)...
④全羅道内に貿易港開港、
⑤王宮占領事件の不問、
⑥朝鮮「独立自主」のための日朝委員による合同会議開催、
⑦王宮警備の日本軍の撤収、である。
侵略の事実を覆い隠すかのように、その前文には、「朝鮮国...
ついで六日後の八月二六日、「大日本大朝鮮両国盟約」が調...
それは第二条で「日本国は清国に対し攻守の戦争に任じ、朝...
大鳥公使・金允植外相ともに正式の全権委員の資格で調印し...
日清戦争の「戦場若くは戦場に達すべき通路」である朝鮮に...
朝鮮を日本の同盟国に擬して、国際的批判の目をそらさせよ...
攻守同盟により日本軍は朝鮮で思いのままの人馬・糧食の徴...
第二次農民戦争
日清開戦による日本の朝鮮侵略に憤激した農民軍は、ふたた...
一八九四年一〇月、全奉準・孫和中が一〇万といわれる全州...
農民軍は南下した朝鮮政府軍・日本軍と忠清道各地で交戦し...
決戦を公州(コンジュ)入城にかけた農民軍が公州南方の牛...
五〇回にもおよぶ攻防戦がくり返されたが、兵器に劣る農民...
全羅道・忠清道をはじめ農民軍が蜂起した各地では、政府軍...
捕えられた全奉準は漢城で日本領事もくわわった審問を受け...
金開南も捕えられ、その翌日処刑された。
こうして甲午農民戦争は鎮圧され、農民革命の灯は消された...
牛金峙の戦跡に建つ「東学革命軍慰霊塔」(忠清南道)
三 日清講和条約と王妃殺害事件 top
大勢が決する
清国の優勢を確信した世界の予想を裏切って、戦局は日本軍...
一八九四年(明治二七)九月一六日の平壌(ピョンヤン)会...
また、平壌占領の翌一七日には、連合艦隊が清国北洋艦隊に...
そしてあらたに編成された第二軍(司令官大山巌大将)は、...
こうして日清戦争の大勢は決した。勢いに乗る日本は清国の...
講和条約の調印
三月二〇日から下関で李鴻章との休戦条約、講和条約交渉が...
交渉は日本側の法外な賠償要求のため難航した。
日本側全権伊藤博文・陸奥宗光と清国側全権李鴻章・李経方...
清国は朝鮮国の完全無欠なる独立自主の国たることを確認す。
因(よつ)て右独立自主を損害すべき朝鮮国より清国に対す...
日本が開戦の理由とした清朝宗属関係の廃棄を明文化し、「...
思えば、日清戦争とは朝鮮支配をめぐる日本と清国との争い...
両国とも不平等条約をかかえる従属国であったにもかかわら...
そして、その勝者日本が帝国主義へ転化し、敗者清国と戦争...
講和条約にいう朝鮮の「独立自主」とは、清国の影響を排除...
閔氏派のまきかえし
「日清講和条約」が締結されたときの内閣は、第二次金弘集...
一八九四年一〇月に大鳥公使にかわって着任した井上馨の要...
この内閣には、アメリカ亡命中だった徐光範(ソダワンボム...
井上は急進開化派を中軸にすえるとともに、改革資金として...
しかし、日清講和条約締結直後におきた三国干渉の衝撃のな...
「日清講和条約」は、遼東半島・澎湖島・台湾の割譲、賠償...
日本はあらためて、清国にまさる強大国ロシアの圧力が頭上...
井上の改革構想が崩れるなか、第二次金弘集内閣は崩壊した。
あらたに領議政となったのは朴定陽(パクジョンヤン)。
実権はまだ急進派の朴泳孝にあったが、朴泳孝は七月、王宮...
八月に成立した第三次金弘集内閣では、第二次内閣とは異な...
日本の干渉に反発していた支配層である閔氏派が権力奪還を...
親日的改革をリードしようと意気ごんだ井上公使は、九月、...
三浦梧楼の陰謀
井上公使にかわって駐朝公使になったのは三浦梧楼陸軍中将...
三浦公使の着任は一八九五年九月一日。
彼が親露米派を排除するため、国王高宗の妃(閔氏)の殺害...
計画は、王妃と敵対していた大院君(国王の実父)をかつぎ...
ただし実行主力は漢城駐在の日本軍守備隊、領事館員および...
一〇月八日未明、計画は実行にうつされた。
漢城郊外の孔徳里(コンドクリ)に隠棲していた大院君の連...
光化門(クァンファムン)から侵入した第一中隊は、王宮を...
壮士の一群は王妃を求めて探しまわり、常殿で王妃を斬殺し...
乙未(ウルミ)事変という。
事件はどう処理されたか
三浦公使は、事件は解散命令を受けた訓練隊が大院君と結託...
現場で、なりゆきを目撃していたアメリカ大侍衛隊教官のゼ...
国際的に苦境に立たされた日本政府は、三浦公使の解任召還...
二〇日の広島地裁の予審終結決定もまた、王妃殺害状況の証...
被告のひとり杉村濬元書記官は、予審の陳述で、朝鮮内政改...
なぜならば、前年の王宮占領を政府は「是認」しており、そ...
たびたびの暴挙で道義心を失った、朝鮮通の外交官杉村に罪...
広島監獄から放免された三浦も「沿道到る処、多人数群して...
三浦にも日本国民にも罪責の意識が欠けていた。
四 開化派のたどった運命 top
復活した開化派
王妃殺害事件のあと、大幅な内閣改造がおこなわれ、第四次...
親露米派の李範晋・李完用’李允用(イユンヨン)と閔氏派の...
だが、朝鮮の人びとはこの内閣を信用しなかった。
乙未(ウルミ)事変の処理にあたって、日本側の責任を追及...
彼らが推進した甲午改革といわれる近代化政策をみてみよう。
甲午改革をめぐって
わずか一年半ほどの間に四たび組織された金弘集内閣のもと...
彼らは祖国の近代国家への転換をみずからの課題とした。
自己利益のために親日家だったのではない。親日的であった...
しかし、開化派政権の成立そのものが自前の政治的力量によ...
生まれながらに親日の母斑をつけた、反民族的な政権を民衆...
金弘集の軍国機務処は、一八九四年一二月に廃止されるまで...
翌年にかけて実施した改革をふくめて甲午改革(甲午更張=...
その範囲は政治・財政・経済・司法・教育・社会などにわた...
〔政治〕 宮中と府中との分離、清朝宗属関係の廃止、近代...
〔財政・経済〕 財政の度支衙門への一元化、予算制度の採...
〔司法〕 司法権の独立、近代的裁判制度の導入、縁坐法の...
〔教育〕 近代的学校制度の導入、実業教育の重視、外国語...
〔社会〕 封建的身分制度の廃止、太陽暦の採用、女子の再...
これらのなかには農民軍が求めた弊政改革を吸収、反映させ...
そのような意味で画期的な「上からの」ブルジョア革命を志...
この改革が朝鮮民衆の支持をうることができたとすれば、改...
しかし、政府と民衆とのよじれた関係のもとでは、改革は民...
その理由のひとつは、前述のように開化派政権成立の自主的...
何よりも王妃殺害事件に関して、政府が日本の責任を不問に...
開化派が一掃される
「国母復讎(ふくしゅう)」を叫ぶ反日義兵闘争の直接の契...
朝鮮人は長髪と髻(サントゥ)を結う伝統をもつ。
この年一二月から翌年四月にかけて朝鮮南部を旅行したロシ...
そして断髪令が「彼らの伝統的な神聖観を侵したのみならず...
即ち、日本人は髷(まげ)を切らせることで、同時にまた、...
義兵闘争が高揚する九六年二月一一日、義兵「討伐」のため...
「俄(露)館播遷(はせん)」という。
政権の座から追われただけでなく、国王から「逆党」「国賊...
金允植は捕えられて終身流刑に処せられ、倉吉濬・張博・張...
こうして開化派は一掃され、改革は流産した。
五 大韓帝国の成立と中立化構想の挫折 top
初期義兵の成立
開化派政権による改革の進行に辟易(へきえき=尻込み)し...
すでに述べたように、王妃殺害のしらせがまず、彼らに決起...
一八九六年の義兵闘争は、一九〇五~一四年のそれとの対比...
日本の侵略にたいする反対と侵略者に追従する金弘集政権に...
もっとも有名な義兵は、忠清道堤川(チェチョン)で挙兵し...
京畿道砥平(チビョン)、江原道原州(ウォンジュ)、慶尚...
主要な活動地域は、堤川を中心に、忠清・江原・慶尚三道が...
柳麟錫部隊のほか、江原道・忠清道・京畿道・黄海道などの...
京畿道利川(イチョン)の義兵は漢城の南二〇キロの広州郡...
九六年二月政変で政権を握った親露派を背景に、国王は断髪...
運動が終息するのは一〇月である(糟谷憲一「初期義兵運動...
独立協会のナショナリズム運動
日本政府の対朝鮮政策の失敗によって、その勢力は大きく後...
親露派の金炳始(キムビョンシ)政権は、開化にたいする反...
そのような政治的空白期に登場したのが独立協会の自主独立...
独立協会は、甲申政変後アメリカへ亡命していた徐載弼(ソ...
徐載弼は同年四月から近代市民(ブルジョア)思想を紹介す...
独立協会は、かつて清国の勅使を迎えた迎恩門(ヨンウンム...
1896年に建設された独立門(ソウル)
政治的にも財政的にも弱体な政府は、当時、ロシアや日本に...
九八年一〇月、朴定陽内閣との合意で漢城の鐘路(チョンロ...
そこで採択された献議を受け入れた政府が公布した中枢院官...
独立協会は、この時期のナショナリズム運動を象徴するもの...
だが、独立協会の急進化をおそれる守旧派は、独立協会の政...
これに抗議して万民共同会が結成され、国民の広い支持をう...
皇帝は独立協会の復活をいったん認めざるをえなかった。
しかし一二月、加藤増雄公使の建言を入れた皇帝は、独立協...
独立協会運動は二年半にしてやんだ。
独立協会を弾圧した政府は、民衆がめざした民権の伸長と国...
大韓帝国の成立
これより先、ロシア公使館に「播遷」していた国王は、独立...
これを契機に君主を皇帝と称する問題が浮上した。
官僚と儒者が皇帝と称すべきことを建言したので、国王高宗...
中国皇帝をはじめ各国君主と同格の独立国の元首であること...
独立協会などの市民的改革路線を切り捨てて政権を担当した...
それは立法機関である校典所を改組した校正所でつくられた...
絶対主義君主支配の国家統治体制の基本法である。
三権分立や国民の市民的諸権利の保障はなかった。
光武改革の内容
清朝宗属関係を廃棄した韓国が国際状況に対応していくため...
それは旧来の封建王朝体制の反動的再編ではなく、近代国家...
大韓帝国成立から日露戦争、そして「第二次日韓協約」締結...
その基調は旧法をもとにして新法を参酌する「旧本新参」で...
諸改革のうち特筆されるのは、「光武量田事業」とよばれる...
一八九八年「量地衙門」設置により開始された量田事業は、...
量田により土地台帳(量案)が作成され、一筆ごとの土地登...
このことは、一方では国家による土地生産力に応じた近代的...
量田事業と並行して政府財政確立のために税源の拡大をはか...
そして植民地侵略をはかる外国にたいし、鉱山と鉄道に関す...
また、日清戦争期に日本の円銀の朝鮮国内自由流通を容認し...
しかし、鉱山・鉄道利権は日本・ロシア・イギリス・アメリ...
中立化構想をめぐる動き
大韓帝国の外交方針は、東アジアに集中した帝国主義列国相...
宗属関係を破棄した清国とは一八九九年九月「韓清通商条約...
そのころイギリスが韓国の永世中立国化を提唱した。
それ以前にも駐朝ドイツ副領事ブドラーによる中立化論(一...
日本政府内にも、日本・清国・アメリカ・イギリス・ドイツ...
それらはいずれも提唱国の利害関係からロシアの朝鮮侵略を...
一八九六年のイギリス提唱案が親露派主導の朝鮮政府の同意...
一九〇〇年八月ごろ、駐日韓国公使趙秉式(チョウビョンシ...
ロシアがこの韓国の中立化構想に便乗した。
一九〇一年一月七日、本国政府から訓令をうけた駐日ロシア...
韓国に関して協定をもつ日露間でまず調整の交渉をおこない...
韓国にたいする独占的支配を構想する日本側は、韓国中立化...
ロシアはその後も欧米諸国に韓国中立化の承認をはたらきか...
しかし日本政府はすでにはじまっていた満韓交換交渉のゆく...
満韓交換論の登場
三国干渉によって日本に遼東半島を放棄させたロシアは、不...
南下を阻止しようとするイギリスの妨害にあいながらも、ロ...
朝鮮政府とも、ロシア軍による国王の保護、軍事教官・財政...
その勢いを脅威と感じながらも政治的後退を余儀なくされて...
守勢にあった日本が巻き返しをはかるべく案出されたのが満...
ロシアにたいする最初の提案は九八年三月、第三次伊藤内閣...
日本が朝鮮にたいして「助言及助力を与うるの義務」を負う...
つまりロシアの満州支配とひきかえに日本の朝鮮支配を認め...
その後も伊藤は満韓交換論を持論とし、一九〇一年一一~一...
結局、一九〇二年一月三〇日「日英同盟協約」が調印され、...
日露協商
しかし、一九〇三年におこなわれた対露交渉も実は満韓交換...
六月二三日の閣議は、「日露両国は互に其韓国又は満州に於...
これにもとづき八月三日、小村外相が駐露公使栗野慎一郎に...
韓国あるいは清国領土である満州の内政について日露両国が...
情報をつかんだ『皇城(ファンソン)新聞』(九月一〇日付...
交渉は、対案を携えて帰任したローゼン公使と小村外相との...
ロシアの対案は、日本の満州進出拒否、韓国の独立尊重と領...
折衝と妥協のすえ、一〇月三〇日にいたって、「満州は日本...
しかしロシア政府は、極東総督府太守(総督)アレクセーエ...
侵略者同士の話し合いが決裂したとき、日露戦争がはじまる。
局外中立宣言の試み
日露の緊張がたかまるなかで、内蔵院卿・度支部協弁李容翊...
一九〇三年八月、韓国政府もその方針をとり対外工作を開始...
諸国の承認をうるためである。
九月三日、駐日韓国公使高永喜(コヨンヒ)から韓国中立保...
事実上の拒否である。
一方、ヨーロッパ諸国へ特使として派遣された玄尚健(ヒョ...
皇帝はただちに密使を芝罘(シーフー)に派遣し、一月二一...
韓国政府の中立声明にたいしイギリス・フランス・ドイツ・...
そのころ日本政府は、韓国と次節で述べる秘密同盟締結交渉...
中立を承認しなかったのである。
ロシアもまた回答しなかった。
中立国が国際的に認知されれば、交戦国はその国の中立を尊...
同時に中立国は交戦国にたいし不偏不党であらねばならなし...
したがって韓国が中立国となることは、対露戦を準備中の日...
韓国の局外中立声明を黙殺した日本は、声明発表一八日後の...
韓国は中立国としての不偏不党義務を放棄させられた。
中立国が中立を維持できる条件は、他国による領土侵犯を排...
韓国の局外中立を承認したヨーロッパ諸国は、日露開戦にと...
ロシアだけが日本を非難したが。
中立の国際法的うらづけは弱かった。
中立を宣言した清国(二月一二日)にたいしても日露両国は...
第四章 日露戦争下の韓国侵略
一 日韓議定書の締結
二 植民地経営のマスタープラン
三 列強の合意をとりつける
一 日韓議定書の締結 top
日韓秘密協定締結工作
韓国の局外中立は何としても阻止しなければならない、と小...
対ロシア戦の陸軍作戦は、朝鮮半島南部に上陸、北上して北...
そのためには、日清戦争時の「暫定合同条款」「大日本大朝...
小村外相が駐韓公使林権助にあて「韓国皇帝を我方に引付け...
これにたいして林公使は、密約締結の困難なことを述べなが...
林が難航するとみたのは、排日的な高宗皇帝をささえる中立...
小村外相は、その李容翊と密接な関係にあり、招かれて韓国...
1903(明治36、光武7)年 8月、日本政府、日露協商基礎条項...
1904(明治37、光武8)年 1月、林公使・李址鎔外相聞に日韓...
1905(明治38、光武9)年 1月、旅順開城。駐剳軍司令官、漢...
一一月三〇日、林公使は皇帝に謁見し、日韓協定の必要を「...
局外中立化を考慮中の皇帝はためらったが、一二月末にいた...
ただし、それは韓国皇室の安全・独立保持にたいする日本の...
一方、三〇日の日本政府閣議は「往年日清戦役の場合に於け...
独立保障を求める韓国側と攻守同盟または保護条約を求める...
林公使と大三輪とのあいだも呼吸の一致を欠いたが、韓国政...
最終段階で協定は「日韓議定書」と名づけられ、皇帝からの...
内容は、まず相互対等の「緩急互(たがい)に相扶掖(あい...
林原案にあった軍事協力を直接規定する条項は除外された。
調印は一月二三日と予定されたが、二日まえの二一日、韓国...
窮地に立たされた小村外相は調印を見送らざるをえない、と...
韓国では、交渉にあたってきた李址鎔外相、閔泳喆軍相が罷...
中立政策が「日韓議定書」締結を葬り去ったかにみえた。
保護国化方針の登場
日本政府が韓国保護国化を政策として掲げたのは、一九〇一...
ここで「韓国は保護国となす目的を達すること」とされたの...
九月に外相として入閣した小村寿太郎のもとの外務省には、...
それまでにも韓国保護国化か論じられたことがあった。
日清戦後の対朝鮮基本構想を議した一八九四年八月一七日の...
〔甲案〕朝鮮の自主独立放任、〔乙案〕日本による保護国化、
〔丙案〕日清両国による朝鮮の共同担保、
〔丁案〕永世中立国化、である。
閣議は結論をうることができず、乙案つまり朝鮮保護国化の...
国際的非難また干渉のおそれがあり、ロシア・清国の侵攻を...
朝鮮保護国化は将来の、そのまた将来の、夢のような「目的...
しかし、日清戦後も対露戦にそなえて軍拡をつづけた政府は...
韓国の中立国化は日本の地位、威信の喪失につながる、とい...
小村が駐日ロシア公使ローゼンとのあいだに交渉した、満州...
保護国とは何か
歴史学のうえでいう保護国は、ある国による他国の政治的保...
そのため、宗属関係にある宗主国と藩属国との関係について...
しかし、近代帝国主義の保護国支配と、前近代の宗属関係と...
壬午軍乱以後、日清戦争にいたるあいだの清国の朝鮮支配は...
ベトナムにたいする清国の宗主権を清仏戦争によりフランス...
あるいはイギリスがオスマン帝国の宗主権を否定してエジプ...
本書では、帝国主義国の植民地獲得過程での支配の一手段、...
外交用語としての保護関係は、第三国から独立を脅かされる...
外交権は、国家が国際法上の権利能力、法的人格を有するこ...
宗属関係のもとでの藩属国は独立国であるが、近代的保護関...
保護国化は被保護国の外交権を侵害することによって成立す...
一方で独立を保障しながら、他方で独立を否定する保護関係...
日露開戦
対露宣戦の詔勅が発せられたのは一九〇四年二月一〇日であ...
ロシアの宣戦布告も同じ日だった。しかし、このときすでに...
二月四日の御前会議はロシアとの交渉打ち切りと軍事行動開...
その二日後の八日夜から九日にかけて、旅順では連合艦隊が...
臨時派遣隊の先遣部隊の漢城入京は、韓国皇帝、政府や漢城...
当時、漢城には「小村・ウェーバー協定」にもとづいて、歩...
元山・釜山などに配置されていた部隊をふくめて統轄する韓...
その兵力を補強し、漢城を占領制圧することをはかったので...
ロシア公使と警備兵は二一日に漢城から撤退したが、動員命...
韓国の局外中立宣言はひとたまりもなく蹂躙された。
日韓交渉再開
このような日本軍の軍事的制圧下で、一九〇四年二月一三日...
李址鎔は外相を罷免されたが、後任の朴斉純(パクジェスン...
再開といっても継続ではない。
開戦前とは日韓の状況がちがう。一三日に林が作成した日本...
また、前案にはなかった軍事協力条項をあらたに設け、
「第三国の侵害に依り、若(もし)くは内乱の為め大韓帝国...
而(しこう)して大韓帝国政府は、右大日本帝国政府の行動...
日本軍の不当な軍事占領を合法化するとともに、以後の戦略...
さらに日本政府は、林案第四条に「大日本帝国政府は、前項...
韓国政府内では、李容翊度支相らが、日露戦争にロシアが勝...
韓国皇帝・政府内外の反対のたかまりと外国の干渉をおそれ...
二二日、李址鎔外相署理は、記名調印した「日韓議定書」を...
日本では政府決定と天皇裁可だけで処理し、枢密院への諮問...
日韓議定書
調印に反対した李容翊は、この日の夜、日本軍に拉致され、...
度支部大臣兼内蔵院卿らの要職はすべて解任された。
このほか、鎮衛第四連隊長吉永洙(キルヨンス)、参将李学...
「日韓議定書」(全文はIndex付録参照)はもともと密約とす...
開戦により、もはや秘密の必要はなく、むしろ公表を有利と...
韓国官報への条約文掲載の初例である。
韓国内では反対の声がたかまり、中枢院(内閣諮問機関)副...
李址鎔らの私宅には爆弾が投げこまれ、漢城の街は騒然とし...
こうした抵抗を威圧するかのように、三月一七日、枢密院議...
名目は天皇名代の韓国皇室慰問である。一八日慶雲宮(キョ...
帰国に際しての謁見で、天皇への伝言をうながした伊藤にた...
「今や日韓両国の関係は、議定書に由って確定せり。
我国の執るべき主義方針も亦(また)之に一致するを要す。
朕は我臣僚を率いて此主義の下に日韓提携の実を挙げんこと...
「第一次日韓協約」締結の記念写真、前列中央が伊藤博文、そ...
二 植民地経営のマスタープラン top
対韓施設綱領
日本政府は「日韓議定書」によって「或る程度に於て保護権...
それを拡張し「保護の実権を確立」するため、一九〇四年五...
綱領は軍事、外交、財政、交通・通信、産業開発など多面に...
以下、具体的にみてみよう。
〔軍事〕 戦争終了後の日本軍の韓国常駐、軍用地収用は、...
〔外交〕 韓国政府がおこなう外国との条約締結などの重要...
〔財政〕 日本人顧問官を入れ、徴税法や幣制改革、財政再...
〔交通〕 主として軍事的観点から建設中の京釜鉄道(漢城...
〔通信〕 韓国政府から日本政府に郵便電信、電話事業の管...
〔産業〕 韓国内の日本人の土地所有権、用地権、豆満江・...
韓国の独立保障とはうらはらに、韓国の主権を完全に無視し...
開戦からまだ半年とたたない七月、小村外相ははやくも戦後...
彼は、戦争に勝利したとしてもロシアから賠償金を獲得でき...
「文明を平和に求め、列国と友誼を篤(あつ)くして、以て...
韓国駐箚軍の改編
開戦時、漢城付近に集結していた第一軍主力は北進を開始し...
兵力四万。対岸はロシアの大軍が待ちうける満州である。
鴨緑江渡河作戦は五月一日に決行された。
ロシア軍の新兵器の機関銃に悩まされ、多数の死傷者を出し...
やや遅れて第二軍が遼東半島の塩大襖に上陸すると、九連城...
こうして日本軍主力は主戦場の満州に踏みこみ、国境を越え...
韓国内における日露交戦は、兵站線を突破して平安南道安州...
それにもかかわらず韓国内の日本軍は、「日韓議定書」第四...
一九〇四年三月一〇日、韓国駐箚(ちゅうさつ)隊から韓国...
韓国駐箚軍が対露戦兵力としてだけでなく、韓国内民衆の弾...
しかも、日本軍は日露戦後も二個師団程度の韓国常駐を計画...
実際、戦争が終結し、戦時編成の韓国駐箚軍の諸部隊の帰還...
抵抗と弾圧
韓国民にとっての日露戦争は、ロシア軍との戦いではなく、...
鉄道用地・軍用地の強制収用をはじめ、人馬・食糧徴発が民...
一九〇四年九月一四日、京畿道始興(シマン)郡で数千の群...
二五日には黄海道谷山(コクサン)郡でも建設中の京義鉄道...
収穫をひかえた秋の農繁期の労働力強制徴発を契機とした反...
始興民擾(ミンヨ=一揆)・谷山民擾として知られる、これ...
電信線切断、鉄道建設妨害などは各地で日常的に頻発した。
駐箚憲兵隊の配置や一般部隊派遣もそれらの防止のためだが...
軍律とは占領軍が公布する一般住民にたいする取り締まり令...
一週間後の七月九日には、この軍律の韓国全土への適用と電...
『朝鮮駐箚軍歴史』によると、一九〇四年七月から一九〇六...
駐箚軍司令官がまがりなりにも「軍律違犯審判規定」を公布...
反日活動家が逃避し「露国党の巣窟」といわれた咸鏡道につ...
これにより駐箚軍司令官および駐在部隊長は、韓国の地方行...
また一九〇五年一月、駐箚軍司令官は漢城とその付近の治安...
日本軍の横暴な軍事制圧のまえに、韓国政府はなすすべがな...
保護国実質化がすすむ
「日韓議定書」締結にあたり、林公使は「約条は主義を明(...
具体的な個別事項の交渉にてまどって調印を遅らせるよりも...
第六条は堤を崩す蟻(あり)の穴であった。
軍事的制圧のもとで、さきの「対韓施設綱領」に示された侵...
戦時下、日韓間にむすばれた協定にはっぎのようなものがあ...
1、一九〇四年二月二五日「義州開市に関する韓国外務大臣の...
2、一九〇四年三月二三日「竜岩浦(ヨンアンポ)開市に関す...
3、一九〇四年三月二二日~六月四日「忠清・黄海・平安道に...
(「日韓両国通漁規則」による漁業権適用範囲を全国に...
4、一九〇四年八月二二日「第一次日韓協約」(後述)
5、一九〇五年四月一日「韓国通信機関委托に関する取極書」
(韓国郵便電信電話事業の日本政府へ管理委託の名目で...
6、一九〇五年八月一三日「韓国沿海及内河の航行に関する約...
この間、韓国が日本以外の外国と締結した条約は、多国間条...
韓国内政への介入もいちじるしく進行した。
一九〇四年に荒蕪地(こうぶち)開墾権要求(六月)、軍事...
第一次日韓協約をめぐって
韓国植民地化か着々と進行するなかで、外交上の画期をなす...
日露戦局が満州へ展開し、大本営陸軍部の分身として創設さ...
これをうけて林は、六日、外部大臣李夏栄(イハヨン)につ...
①日本政府が推薦する「財務監督」一人を度支部に雇聘(こへ...
②日本政府が推薦する外国人一人を「外交顧問」として外部に...
③韓国政府は外国との条約締結や外国人への特権付与にあたり...
李夏栄外相が承諾すると、一二日には皇帝に謁見して許可を...
皇帝が本心から承諾したのではないことは閣議の反対となっ...
とくに①項の「財務監督」と③項の事前協議にむけられた。
「監督」は大臣より上位にあるというのが理由である。日本...
一九日、李夏栄外相・朴定陽(パタジオンヤン)度支相が調...
事前協議問題については、二二日、公使館書記官と韓国駐箚...
財務・外交顧問
「第一次日韓協約」が『官報』に公示された九月五日、日本...
そこでは「日韓議定書」により韓国外交について監督の義務...
しかし、それは日本の韓国侵略から外国の目をそらさせる偽...
林公使が「議定書の各条を広義に且(か)つ我が利益に解釈...
財政顧問には、調印まえから名前があかっていた大蔵省主税...
目賀田は携えてきた改革プランをもとに、ただちに貨幣整理...
しかし、韓国政府内外のねづよい反対が目賀田のまえに立ち...
「どうも事毎(ことごと)に思うように行かぬ」、「日本の...
事情を説明すると、桂は「それなら保護国までにしようじゃ...
外交顧問には、アメリカ人スティーブンスがえらばれた。
外国人を顧問としたのは、日本の介入を外国の環視から遮蔽...
スティーブンスは駐米日本公使館の顧問をしていた親日家で...
スティーブソスは一九〇八年まで韓国に滞在し、保護条約の...
三 列強の合意をとりつける top
「惨憺たる勝利」
満州攻略の担当部隊として編成され、一九〇四年五月に遼東...
これに平行して朝鮮半島から鴨緑江を越えて満州入りした第...
日本軍は激戦のすえ、クロポトキンの率いるロシア軍を九月...
拙攻をかさね、作戦計画から大幅に遅れをとっていた第三軍...
だが、厳寒が戦線を凍結するあいだに、ロシア軍はシベリア...
逆転を期したロシア軍は、奉天(瀋陽)を拠点に全戦線の戦...
これにたいして日本軍は、旅順戦を終えた第三軍を改編した...
日本軍二五万、ロシア軍三二万。
二〇世紀に入って世界最大規模の奉天会戦は三月一日に開始...
しかし退路を断つことに失敗した日本軍は、ロシア軍を殲滅...
補給線は伸びきったゴムひもだった。
奉天会戦の日本軍死傷者約七万、ロシア軍死傷者約九万、俘...
日本は、人も物も金も、持てるものすべてを使いはたしてつ...
満州軍総参謀長児玉源太郎の生涯を伝記小説『天辺の椅子』...
日露陸戦史は奉天会戦で年表から消える。
が、日本軍はいまだロシア領に一歩も踏み入っていない。
至近のウラジオストクさえ健在である。
講和条約を目前にひかえた七月、防備の手薄なサハリンを侵...
韓国保護権確定方針の決定
奉天会戦のあやしげな勝利の幻想に国民が酔っていた一九〇...
四月八日の閣議で決定し、一〇日に天皇が裁可した「韓国保...
軍事、行財政の実権掌握と並列ではなく、外交権の奪取を第...
韓国と締結すべき保護条約は、つぎの四点をふくむものとす...
第一 韓国の対外関係は全然(すべて)帝国に於て之を担...
第二 韓国は直接に外国と条約を締結することを得ざるこ...
第三 韓国と列国との条約の実行は、帝国に於て其(その...
第四 帝国は韓国に駐剳官を置き、該国施政の監督及帝国...
ここでいう保護権の設定は、国家間のあいまいな保護関係で...
つまり韓国の国際法上の独立を否定することを意味する。
しかしそれは、日韓間で保護条約をむすべばよい、というも...
したがって「之が実行に関しては、深く列国の態度如何(い...
列国の支持がえられる機会をとらえなければならない、とい...
その「適当の時機」こそ日露戦争勝利のときである。
日英同盟協定の改定
「韓国保護権確立の件」を決定した同じ日の閣議は、「日英...
日英同盟は、極東におけるロシアの進出に対抗して日英両国...
一九〇二年一月三〇日に調印した第一回協約は、前文で清国...
日露戦争にさきだって調印された、この「第一回日英同盟協...
日本政府案には、別款として、日本が韓国で「優勢なる利益...
韓国における日本の「自由行動」が「侵略の方針」に転じ、...
イギリス側は、第一条冒頭に「両締約国は、相互に清国及韓...
日露戦争は、日本の侵略主義を隠蔽するために、ロシアを侵...
日英同盟の改定が急がれた。一九〇五年八月一二日調印の「...
そこでは第一回協約で明記された、韓国の独立保障、領土保...
日本国は韓国に於て政事上、軍事上及経済上の卓絶なる利益...
ここでいう「指導 guidance」「監理 control」「保護 prote...
この模糊(もこ=あいまい)とした文言が意味するところは...
つまりイギリスは、日本による韓国保護国化を認めたのであ...
新日英同盟に対する抗議
「第二回日英同盟協約」は、すでにはじまっていた日露講和...
新協約が林公使から朴斉純外相に通知されたのは一〇月五日...
日露戦争中、韓国内に駐屯した日本軍にかわって、あらたに...
講和後に韓国内各地に大量に配置された日本兵土の銃口が、...
『朝鮮駐箚軍歴史』にはつぎのような記述がある。
日露媾和条約成立し、日英同盟条約更新せらるるにおよび、...
外部(外務大臣)は、英国公使に迫りて日英新条約は英韓条...
日本の韓国保護国支配を承認したイギリスと日本にたいする...
韓国外相の駐韓イギリス公使への抗議とは、朴斉純外相が皇...
一八八三年調印の「韓英修好通商条約」で定めた友好の趣旨...
同日、朴斉純外相は萩原守一臨時代理公使(林公使は帰国中...
前年の「日韓議定書」は、第三条で韓国の独立を保障し、さ...
それにもかかわらず、日本政府は韓国政府に承認はおろか、...
朴外相はそれをするどくついたのだった。
先行条約に違反する新条約は無効となるか、韓国が先行条約...
ジョーダン公使と萩原代理公使はただちに協議し、「何等の...
ポーツマス交渉
日露講和交渉は一九〇五年八月一〇日からアメリカのポーツ...
日本側全権委員は小村外相と駐米公使高平(たかひら)小五...
派遣にさきだって、六月三〇日の閣議は、全権委員にたいす...
そこでは「絶対的必要条件」として、韓国を「全然我自由処...
賠償金獲得、サハリン割譲などは「許す限り之が貫徹を努め...
韓国にたいする日本の支配、つまり保護権設定の承認がまず...
韓国問題は交渉開始後まもなくとりあげられた。
ヴィッテは、韓国における日本の「自由行動」を容認しなが...
韓国の独立と主権にかかわる重要事項を日露間で協定するこ...
小村全権との論争のすえ、「日本国が将来、韓国に於て執る...
日本の韓国保護国化には、韓国政府との「合意」が前提であ...
しかし、九月五日調印の「日露講和条約」第二条には、日本...
ロシア帝国政府は、日本国が韓国に於て政事上、軍事上及経...
韓国に於けるロシア国臣民は、他の外国の臣民又は人民と全...
前段では「日英同盟協約」と同じく、「指導、保護及監理」...
後段では、あたかも日本が韓国の主権者であるかのように、...
「日露講和条約」は、ヴィッテの巧妙なかけひきによって外...
アメリカの了承
日露講和交渉開始直前の一九〇五年七月二九日、桂首相は来...
それは、アメリカのフィリピン統治と日本の韓国にたいする...
ルーズヴェルト大統領がこの協定を承認した通告を日本政府...
こうして日露戦争中、終始日本に好意的だったアメリカもま...
小村は韓国と保護条約をむすぶ計画を述べ、あらためてアメ...
これにたいしルーズヴェルト大統領は賛意を表し、「充分我...
イギリス・アメリカ・ロシアの承認をとりつけた政府は、他...
“講和条約で賠償請求を放棄するなど譲歩した日本が獲得した...
ロシアのツケを韓国に転嫁することによって日露戦争に決着...
日本政府にとって、日韓保護条約の締結は、この機をおいて...
第五章 保護国化をめぐる葛藤
一 外交権を奪うI第二次日韓協約
二 皇帝の孤独なたたかい
三 植民地権力の成立――内政権をも掌握する
四 高揚する義兵闘争
一 外交権を奪う 第二次日韓協約 top
実行計画の閣議決定
一九〇五年(明治三八)一〇月二七日の閣議は、韓国にたい...
一六日にアメリカから帰国したばかりの小村外相が原案作成...
閣議決定の内容は、
①条約文原案、
②調印後、公表まえに英米はもちろん独仏政府に通知し、各国...
③一一月初句実行、
④条約交渉全権の林公使への委任、
⑤韓国皇帝へ親書奉呈の勅使派遣、
⑥長谷川好道韓国駐箚軍司令官への協力命令、
⑦日本軍隊の漢城集結、
⑧韓国政府の同意がえられないばあい、一方的に韓国にたいし...
ただちに天皇は閣議決定の実行を裁可した。
これにより小村外相は、条約締結の権限と訓令を上京中の林...
関係略年表(5) 明治39~41
1906(明治39、光武10)年 1月、韓帝、イギリス人ストーリー...
1907(明治40、光武11・隆煕元)年 2月、ロシア外相、日露協...
1908(明治41、隆煕2)年 1月、裁判所構成法施行。3月、韓国...
また、閣議にさきだち小村は、神奈川県大磯の伊藤博文を二...
一回目は林が同行し、二回目は元老山県有朋が同席した。
小村は、政府の満韓経営方針を説明し、伊藤から渡韓の内諾...
一一月一日、天皇は伊藤に特派大使として韓国派遣を命じた...
しかし条約締結を主導したのは伊藤だった。
伊藤特派大使と皇帝のやりとり
一一月九日漢城へ入京した伊藤は、翌一〇日慶雲宮(キョヌ...
そして伊藤は、一五日の内謁見で皇帝に保護条約承認を強要...
やりとりの大要を、「日本外交文書」三八巻一冊に収録され...
皇帝は終始外交権の移譲、すなわち国際法上の独立国家の地...
それはアフリカの植民地にひとしい、とさえいった。
しかし伊藤は、皇帝の「哀訴的情実談」をしりぞけ、保護条...
皇帝は「朕が政府臣僚に諮詢(しじゅん)し、又一般人民の...
一六日、伊藤は朴斉純(パクジェスン)外相を除く各大臣を...
一方、林公使は朴斉純外相を招き、条約の日本政府案を正式...
韓圭萵への参政任命は、林公使の「勧告」によるものであり...
それにもかかわらず、多くの大臣もまた、保護条約締結に反...
反対のまま内閣総辞職の事態を招き、交渉不能となることを...
銃剣で威嚇しつつ調印
一一月一七~一八日、歩兵一大隊・砲兵中隊・騎兵連隊が王...
一七日午前一一時、林公使は大臣たちを泥見(チンコゲ)(...
午後三時ごろ、大臣の途中逃亡を防止するため、護衛の名目...
御前会議は夜におよんだが、条約反対の意見がつよく、結論...
「事の遷延を不得策」とみた伊藤は、あらかじめ打ち合わせ...
しかし、皇帝が病気を理由に出席を拒否したので、閣議形式...
外国の使臣である伊藤・林が武官とともにこれに出席するこ...
慶雲宮内も日本兵が満ちていた。
『大韓季年史』は「銃刀森列すること鉄桶(てつとう)の如...
窓に映る銃剣の影が大臣たちを戦慄(せんりつ)させたこと...
伊藤は大臣一人ひとりに賛否を尋問した。
韓圭萵参政と閔泳綺度支相は明確に反対を表明した。
朴斉純外相も「断然不同意」と拒否したが、ことばじりをと...
その他の肩を落とした四人の大臣のあいまいな発言も、伊藤...
こうして、国民から「乙巳五賊(ウルサオジョク)」と非難...
しかし、あくまで反対の韓圭高参政は、涕泣(ていきゅう)...
伊藤は「余り駄々を捏(こ)ねる様だったら殺(や)ってし...
大臣たちに聞こえる程度の声でいった、という意味だろう。
協約案は若干の文言修正ののち、午後一一時半、林公使と朴...
一八日午前一時半ごろである。
第二次日韓協約の内容
「第二次日韓協約」(韓国・北朝鮮で乙巳(ウルサ)条約と...
修正の主な点はつぎの文言である。
①皇帝の要請により、前文に「韓国の富強の実を認める時に至...
②第三条中に「統監は専(もっぱら)外交に関する事項を管理...
③権重顕農相の意見により、第五条「日本国政府は韓国皇室の...
②は統監の職務権限を外交面に限定し「内政に干渉せず」とい...
英文では「専ら」をprimary(主要な)と訳している。
外交上の正式代表の資格がない伊藤が、韓国大臣と交渉する...
林公使がそのことをただすと、伊藤は「俺が命じたと言った...
「第二次日韓協約」(全文は Index付録参照)は、一一月二...
協約無効論の根拠
一九九一年からはじまった日朝国交正常化交渉において、北...
「条約法に関するウィーン条約」(一九六九年採択、八一年...
この原則は今だからそういえる、というものではなく、一九...
たとえば、外務省参事官で、併合時の政務局長倉地(くらち...
したがって、韓国の代表個人にたいする「強暴、脅迫」によ...
ただし前述の強制行為を国家代表者にむけられた脅迫とみる...
無効論は北朝鮮がはじめて主張したのではない。
日韓交渉(一九五二~六五年)でも最大の係争点だった。
韓国側か「韓国併合条約」等の当初からの無効・不存在の確...
結局は旧条約の性格や植民地支配の歴史的責任についての問...
これでは一九六五年調印時における無効を確認しただけで、...
それから三〇年をへた今日、韓国でも「第二次日韓協約」の...
形式論からの無効論
無効論のもうひとつの論拠は、「第二次日韓協約」正本に皇...
一九九二年五月三日の韓国紙が、ソウル大学奎章閣(キュジ...
北朝鮮の歴史家もこれにならった。
また一一月五日の第八回日朝交渉の席上、北朝鮮の李三魯(...
しかし、この見解には誤りがある。
条約書正本に記名調印するのは特命全権大使・公使または外...
なお、新聞発表にあたった杢章閣図書管理室長の李泰鎮(イ...
だが、批准書もまた、すべての国際協定にあるとはかぎらず...
戦前日本では、国際協定締結の手続きに三種あった。
第一種 批准を要する条約(「日朝修好条規」「日露講和条...
第二種 批准を要せず、天皇裁可だけの協定(「日英同盟協...
第三種 裁可を要せず、政府限りで締結する国際約束。
もしも「第二次日韓協約」など特定の日韓間協定については...
しかし、「韓国併合条約」までに日朝(韓)間に結ばれ九五...
「第二次日韓協約」は、韓国皇帝の承認をうるのが難かしい...
したがって、批准書がないことをもって無効とする主張は再...
二 皇帝の孤独なたたかい top
上疏と殉国
「第二次日韓協約」強制調印が伝わると、重臣たちはいっせ...
もと議政府議政(首相相当)で特進官の趙来世(チョウピョ...
彼はいう。
「日清講和条約」以来、日本政府はたびたび韓国の独立を保...
この要求を無視された趙乗世は、各国公使への援助を求める...
先行条約等における韓国独立保障宣言にたいする日本の違約...
のちに伊藤博文を暗殺した安重根(アンジュングン)も、取...
もと参政で侍従武官長の閔泳煥(ミンヨンファン)も憂国の...
のちに流血の下衣から九本の細竹が生えた、という。
その枯れ葉がソウルの高麗大学校博物館に遺品とともに展示...
その昔、高麗から李氏朝鮮への王朝交替のとき、鄭夢周(チ...
血竹は堅固な節義の象徴である。
そのほか、甲申政変で開化派にくみし死んだ洪英植(ホンヨ...
いた洪万植(ホンマンシク)が自決するなど、元政府高官から...
閔泳煥の銅像(ソウル)。「第2次日韓協約」の
強制締結に抗議して自決した。
義兵の蜂起
一一月一七日強制調印の夜、「乙巳五賊」のひとり、李完用...
翌一八日には王宮正門の大漢門(テハンムン)に押しかけた...
二〇日付けの『皇城(ファンソン)新聞』は張志淵(チャン...
二二日には林公使とともに近郊に出かけた伊藤が乗った列車...
国中が騒然とするなかで、日露戦争下の抗日運動の流れを汲...
一九〇六年五月、協約締結に反対して官職を捨てたもと参判...
藍浦・保寧(ポリヨン)郡守の協力をえて武器弾薬、軍資金...
閔宗植を倡儀軍大将とする部隊は整然とした編制組織をもち...
だが、漢城から急派された日本軍歩兵一個中隊、騎兵一個小...
しかし、その閔宗植も一一月に逮捕される。
崔益鉉の殉節
閔宗植の蜂起とならんで有名な崔益鉉(チェイタヒョン)の...
崔益鉉は名高い老儒者である。
若いころ官途についたが、後年にはたびたびの高官就任の王...
「日韓議定書」についで「第一次日韓協約」を強制され、侵...
そして、ようやく皇帝の招きに応じて上京すると、日本と対...
崔益鉉が漢城に在ることを嫌った日本は、彼を捕えて生地の...
「第二次日韓協約」の強制調印を亡国条約と的確にとらえた...
六月、ついに挙兵の決意を表明、皇帝にその志を告げ、国権...
義兵とともに上京して伊藤統監・長谷川軍司令官と会見し、...
また「棄信背義十六罪」の問罪状を日本政府に送った。
そこでもいう。日本はしばしば韓国の独立・自主を明言して...
その主なものとして甲申政変、日清開戦時の王宮占領、閔妃...
六月四日泰仁で決起した義兵は、全羅南道に踏み入り、兵を...
だが、一週間後の一一日には、全州と南原(ナムウォン)の...
崔益鉉は、“皇帝の軍隊と戦うことはできない”といって抗戦...
日本軍に引き渡された彼は、禁固三年の刑に処せられ、対馬...
衰弱のはて、皇帝への遺疏をのこして命が尽きたのは一九〇...
七三歳たった。
ハルバートのアメリカ派遣
高宗皇帝は、多くの上疏が求めた協約破棄、「五賊」処罰な...
補弼(ほひつ)する忠臣を排除され、日本軍の虜囚同然の身...
皇帝にのこされた唯一の道は、密使を通じて協約の不承認と...
外国の干渉をよびこむことによって、自国につかみかかろう...
一八八二年調印の「朝米修好通商条約」第一款に、「若(も...
示すべし」という条文がある。
朝鮮にたいし第三国の不当、強圧的な圧迫があったばあい、...
「善為調処」の英訳は good offices (周旋)であり、media...
また、朝米条約に特有のものでもない。「日米修好通商条約...
皇帝は、この条項にもとづいてアメリカの斡旋を期待した。
アメリカをえらんだのは友好的な朝米関係を信頼し、公正な...
要請を伝える使者にはハルバートがえらばれた。韓国高官派...
ハルバートは一八八六年朝鮮政府の招聘で来朝し、九一年ま...
韓国に理解を示したアメリカ人である。
アメリカ大統領にあてだ皇帝の親書を携えた彼が、ワシント...
ただちにルーズベルト大統領との会見を申し入れたが断わら...
アメリカへの密使たち
皇帝はまた、駐仏公使閔泳贊(ミンヨンチャン)に密旨を下...
しかし、ワシントンに急行した閔泳現にたいするルート国務...
韓国に好意的だった前駐韓アメリカ公使アレンに託した、ア...
すでに日本の韓国支配を承認していたアメリカは、密使たち...
密使たちがなしえたことは、強制調印された保護条約が無効...
かつて甲申政変後の日朝間の調停依頼、日清戦争直前の日清...
条約をむすんだ欧米諸国がアジアの被侵略国の側に立つこと...
国を守る軍事力はなく、友好国はなく、皇帝を支える側近も...
高宗がすがる思いで差しのべた手をアメリカ政府はつき放し...
国書と親書
ハルバート・閔泳贊・アレンを通じての対米工作が足ぶみ状...
国書には、保護条約を皇帝は承認しておらず、主権の一部た...
共同保護の内容は不明だが、日本の統監府開庁(二月一日)...
国書を伝達したのは、中国にいた『ロンドン・トリビューソ...
彼は上海で亡命中のある韓国高官から依頼され、漢城の宿所...
身を挺して中国に渡り、芝罘(シーフー)駐在イギリス総領...
国書がイギリス政府に届いたかどうかあきらかでないが、ス...
皇帝の懸命の「主権守護」秘密外交については、近年、金基...
その全貌が解明されるのもそう遠くはあるまい。
つぎの一九〇六年六月二二日付けの皇帝親書も、金基夾副教...
皇帝は、対米工作に失敗して韓国へもどったハルバートを「...
高宗皇帝の親書発見を報ずる1993年10月24日付け『東亜日報』
親書は、不法に締結された協約が無効であり、皇帝として承...
万国裁判所とは、一八九九年の第一回万国平和会議で作成さ...
ハルバートは翌一九〇七年五月漢城をたち、シベリア経由で...
七月はじめにパリに現われ、パークではつぎに述べる三人の...
しかし、同日、皇帝退位を知ったハルバートは、親書が無効...
親書が各国元首に届かなかったことは、親書原本の多くが「...
ハーグ密使
一九〇七年六~一〇月、第二回万国平和会議がパークで開催...
韓国皇帝はこの会議に代表を送り、日本の国際法違反行為を...
二人の密使はペテルブルグで前駐露公使李範晋(イボムジン...
彼らは会議議長であるロシア代表のネフリュードフをはじめ...
しかし前年、新任の韓国駐在ロシア総領事にたいする認可状...
参加を認められなかった彼らは、オランダのジャーナリスト...
日本政府は、五月ごろから万国平和会議への密使派遣の情報...
事後も両者を関連づけてハルバート主謀説をとり、それが研...
両者はそれぞれ別個の任務を帯びていた。パーク密使が国際...
皇帝は国際仲裁機関に着目し、仲裁裁判によって日韓協約の...
しかし、世界の風潮が国家間紛争を国際裁判・調停で解決す...
日本の侵略に対抗する軍事力をもたなかった韓国皇帝は、ア...
それでも皇帝の日韓協約不承認の態度は一貫して変わること...
三 植民地権力の成立-内政権をも掌握する top
統監府の建言とは
一九〇五年(明治三八)一二月二〇日、勅令二六七号で「統...
「京城」に設けられる統監府の長である統監は、天皇に直隷...
韓国において日本官憲がおこなう政務の監督(第三条)、
韓国守備軍司令官への兵力使用の命令(第四条)、
韓国政府にたいし条約義務履行、執行の請求(第五条)、
韓国政府傭聘の日本人官吏(財政・外交・宮内府・軍部・警...
統監府令の公布(第七条)、
条約または法令に違反する、所轄官庁の命令・処分の停止あ...
強大な権限が統監にあたえられた。
しかも、これらの執行にあたっては日本政府の承認を必要と...
つまりは統監は天皇の名代として韓国に君臨したのである。
ただし、「第二次日韓協約」第三条に、「統監は専ら外交に...
統監が統轄する外交事務の範囲は、韓国における外国領事館...
国家間の外交問題は、韓国から外交権行使の移譲をうけた日...
統監府が扱う外交事務を「地方的事務」にとどめ、韓国外交...
竣工直後の統監府
植民地権力の成立
保護条約には、保護をあたえる国が被保護国の内政にどこま...
韓国皇帝に保護条約受諾を強要したとき、伊藤博文は、「内...
それが虚言であることは、調印に際しての文言修正をめぐる...
協約文に内政不干渉を明記することを求めた韓国側の要求に...
「第二次日韓協約」には内政干渉の規定はない。具体的事項...
ただし、第四条で先行協約の有効を確認していたから、韓国...
東京帝国大学法科大学の立(たち)作太郎教授(国際法)は...
こうして韓国内政全般にわたる監督と支配のための植民地機...
初代統監は伊藤博文が任命された。
一九〇六年二月二〇日、東京をたった伊藤が、伊勢神宮に詣...
統監府はすでに二月一日、景福宮(キョンボククン)まえの...
統監府はその後、さらに内政監督権を強化した。その肥大傾...
一九〇七年六月におこなわれた内閣官制改編では、皇帝権限...
そのうえで、つぎに述べる「第三次日韓協約」を利用して、...
こうして韓国行政の細部にいたるまで、統監が直接指導・監...
皇帝の強制譲位
国権横奪の不法を訴えるため、皇帝がハーグ万国平和会議に...
「此際、韓国に対して局面一変の行動を執るの好時機なりと...
短い電文のなかで二度も絶好の機会である、とくり返したと...
その四日後の七日、伊藤はふたたび林外相に電報を送り、対...
ただちに閣議がひらかれ、つぎのような要綱案を決定し、一...
①高宗皇帝の皇太子への譲位、
②皇帝・政府の政務決裁に統監の副署を必要とさせる、
③統監は「副王」あるいは「摂政」の権限を有するものとする、
④主要部(省)の大臣または次官に日本政府派遣の官僚をあて...
皇帝の譲位問題について元老たちの多数意見は「否」であっ...
一八日、林外相が漢城へ入京した。
譲位の実行責任を負わされたのは李完用とその内閣である。...
一八日夜、閣僚一同のかさねての譲位奏請にたいしても、皇...
窮した李完用首相は、林外相の入京を告げ、ことは急を要す...
純宗の即位強行
詔勅は、高宗四四ヵ年の治世の困難を回顧しながら、最後に...
「伝禅」とは皇位を譲るという意味だが、高宗皇帝は「譲位...
皇帝退位ではなく、皇太子純宗(スンジョン)の代理政を承...
あくまで帝位交替を求める日本側は、李完用に命じて、二〇...
虚構の譲位式場の窓からは、群衆が焼き打ちをかけた李完用...
二一日夜には、侍衛隊の陰謀から宮中を守るという口実で、...
「新皇帝」として大韓帝国最後の皇帝となる純宗の即位式は...
また一一月には、旧帝の影響から新帝を遮断するため、純宗...
第三次日韓協定
西園寺公望首相が伊藤統監に指示した「対韓処理方針」は、...
それを具体的に展開したのが前述の統監による法令制定等の...
すでに外交権を奪われて独立を失った韓国が、いままた内政...
それにもかかわらず、この段階では日本政府は韓国合併を選...
元老・大臣にたいする、韓国皇帝が日本の天皇に「譲位」す...
合併推進派と目される元老山県有朋、陸軍大臣寺内正毅も「...
韓国合併について国際的同意をとりつけられない、とみたた...
大韓帝国の名をのこしつつ、日本が韓国内政権を全面的に掌...
協約案は、渡韓した林外相と伊藤統監が作成したが、調印さ...
皇帝が発布する詔勅を統監が検閲する、というあからさまな...
七月二四日、伊藤から李完用首相に協約書がわたされ、その...
また、協約調印と同時に、非公表の覚書が伊藤統監と李完用...
覚書は協約にもとづき、つぎの事項を漸次実施するとした。
①大審院・控訴院・地方裁判所を新設し、その主要ポストに日...
②監獄を地方裁判所所在地などに新設し、典獄(刑務所長)に...
③韓国軍隊を整理する(後述)。
④韓国政府傭聘の顧問、参与官を解傭する。
⑤韓国各部次官、内部警務局長を日本人とするほか、地方庁官...
協約第二条は、立法・行政権の根幹を統監が直接掌握するこ...
調印にさきだち、伊藤は韓国閣僚に協定事項を提示したとこ...
締結交渉なしの協約、覚書の押しつけである。
譲位の詔勅と同時に、皇帝から治安維持の任務を「委任」す...
二一日に混成一個旅団の急派を要請した伊藤は、回答の遅延...
「我に於て極端手段を執るの已むなきに至るやも計られず」...
二四日、歩兵第一二旅団派遣の報が届いた。
新皇帝の玉座に座らされた純宗は、一八九七年の「毒茶事件...
純宗がかたちだけの皇帝に推戴されたと同じように、この国...
四 高揚する義兵闘争 top
軍隊解散の詔勅
秘密覚書第三項は、「下記の方法に依りて軍備を整理す」と...
①皇居守衛のための一個大隊を除き、その他の軍隊を解散する。
②韓国軍隊にとどまる必要のある者をのぞき、士官は日本軍に...
③日本が韓国士官養成機関を設ける、とした。
武力抵抗素となる軍隊の牙(きば)を抜くことがさしあたり...
軍隊解散の詔勅は、覚書調印から一週間しかただない七月三...
詔勅は 「軍制の刷新を図り、士官の養成に力を専らにし、...
徴兵制施行にもふれていることから推測すると、植民地軍隊...
この詔勅は内閣が起案し皇帝が裁可・公布した形式をふみな...
『週刊朝日』一九八二年一〇月一日号に伊藤自筆の詔勅の下...
前述のように、統監への詔勅発布の事前諮詢は「第三次日韓...
ましてや統監自身が詔勅を起草することはありえないはずで...
いまや伊藤が韓国皇帝だった。
解散軍隊の叛兵
詔勅発布の翌八月一日午前一〇時、練兵場で解散命令が下達...
廃止されるのは侍衛隊・騎兵隊・砲兵隊・工兵隊・地方鎮衛...
このしらせを受けた歩兵第一連隊第一大隊長朴星煥(パクシ...
そのため機関銃二丁を携帯して出動した日本軍歩兵大隊とは...
交戦二時間、ようやく日本軍は兵舎を占領したが、韓国兵は...
兵士の反乱は軍隊解散だけがその理由ではない。
すでに譲位の詔勅がだされた七月一九日夕、侍衛隊第三大隊...
このとき、第二大隊の兵士数人も兵営を出て警務庁に発砲し...
さらに同夜には宮中に乱入し、売国的な国務大臣殺害をはか...
こうした反日武装決起の兆しをみた伊藤は、「目下、京城に...
叛兵の翌夜、皇帝の交替を印象づける、もうひとつの儀式が...
改元式である。
あたらしい年号は隆煕(ユンヒ)だった。
丁未義兵
侍衛隊にはじまる軍隊解散は地方鎮衛隊におよび、九月はじ...
しかし、解散命令をこばみ、民衆とともに決起した鎮衛隊が...
そのひとつは江原道原州(ウォンジュ)鎮衛隊である。ここ...
また、原州の日本人居留民、警務分遣所を襲い、鎮圧のため...
鎮衛隊大隊長の逃亡後は、兵営を脱した将兵が小集団にわか...
これを制圧するため、朝鮮駐箚軍司令官はつぎつぎに「膺懲...
朝鮮駐箚軍司令部編『朝鮮駐箚軍歴史』はつぎのように述べ...
暴徒討伐は尋常の戦闘と其の軌を同うせず。毫(ごう)も抵...
蓋(けだ)し彼等暴徒は其の服装の良民と異らざるのみなら...
其の隠現出没の巧妙なる、討伐隊をして殆(ほとん)ど奔命...
もうひとつの反乱は、水原(スウオン)鎮衛隊江華島分遣隊...
鎮衛隊将校劉明奎(ユウミョンギュ=柳明啓ともいう)が、...
日本軍は八月一〇日、機関銃二丁をもつ歩兵一個小隊を漢城...
郡守を殺害した「首魁(しゅかい)」の劉明奎は日本軍との...
軍隊反乱は、干支(えと)でいえば丁未(チョンミ)にあた...
日本にたいするうらみと伊藤統監と手をむすんだ傀儡政権に...
義兵闘争が全国的に広がる。
朝鮮駐剳軍司令部編『朝鮮暴徒討伐誌』によれば、一九〇七...
このうち一万七六八八人の義兵の血が山野を染めた。とくに...
義兵将李麟栄
蜂起した義兵を指導したのは旧軍人とはかぎらない。偶発的...
初期義兵以来の抗日組織が地下茎のように張りめぐらされて...
一九〇九年六月、忠清北道永同(ヨンドン)郡黄澗(ファン...
彼は甲午農民戦争のとき柳麟錫(ユインソク)らと兵をあげ...
その後、慶尚北道聞慶(ムンギョン)で田二斗落(トーラク...
彼は江原道で兵を集め、一万人を率いる関東倡義大将となっ...
関東とは大関嶺の東にあたる江原道、倡義とは義を唱えると...
一二月、漢城上京をめざして京畿道楊州に旧兵士三〇〇〇人...
全羅・湖西(忠清道)・嶋南(慶尚道)・鎮東(京畿道、黄...
李麟栄はその全軍の大将にも推され、漢城進攻を指揮した。
彼らは、漢城の各国領事館に書を送り、“日本が約束を破って...
先遣隊二〇〇〇大は漢城の東大門外三里の地点にまで迫った...
一年半後に捕えられた李麟栄は、一九〇九年六月一九日から...
死を決意した彼は悪びれず堂々と尋問に答えている。
問 京城へ侵入する目的なりしや。
答 統監府に交渉して侵入の上は死を決し、勝敗を決せん覚...
問 如何なることを交渉せんと思いしか。
答 馬関条約(日清講和条約)通り、韓国の独立及皇帝の安...
問 汝(なんじ)の主とする倡義の目的はそれなるや。
答「復我国権、鞏固(きょうこ)独立」で、然る後奸臣を殺...
義兵闘争関係図
李麟栄は起訴され、絞首刑の判決をうけた。
刑法大全第一九五条「政府を傾覆し、其他政事の変更を為さ...
弾圧の体系
皇帝譲位、「第三次日韓協約」締結当時の朝鮮駐箚軍の兵力...
それでは不足とみた伊藤統監が混成旅団増派を要請したことは...
また一九〇七年一〇月、憲兵隊の編制を改正して明石元二郎...
翌一九〇八年六月創設の韓国人憲兵補助員制度を加えると、...
さらに一九一〇年には併合にさきだって、警務機関統一の名...
軍事警察をうけもつ憲兵が司法、行政警察をも担当する憲兵...
地域ぐるみの抹殺を図る
こうした弾圧機構の整備拡充を背景として、義兵闘争の高揚...
義兵のゲリラ戦に苦しんだ軍司令官は、「責を現犯の村邑(...
たとえば、義兵の拠点であり、町を囲む山地に散兵壕をめぐ...
その後、取材のため焦土と化した堤川を訪れたイギリスの『...
このような根こそぎ弾圧は、仕掛け人である伊藤統監さえ、...
一九〇六年八月から英字新聞『コリア・デイリー・ニース』...
以前からベセルの言動に困惑しながらも、イギリス人である...
ペセルはイギリス枢密院令にもとづき、「教唆煽動」の罪に...
「南韓暴徒大討伐作戦」
日本軍の執拗(しつよう)な討伐のため、義兵運動の環はせ...
後退傾向のもとでもっとも活発なゲリラ活動を広範囲にわた...
一九〇八年から○九年前半にかけての道別義兵交戦状況をみる...
彼らの「行動たるや頗(すこぶ)る巧にして」官憲の隙をつ...
このため日本軍の討伐は、「〔いかに〕日夜掃蕩(そうとう...
著ならざりし」状態にとめおかれた。
そこで日本軍は「効力微少なりし大討伐」の方式を変え、「...
それは討伐隊を警備隊と行動隊とにわけ、警備隊が包囲陣形...
南部守備管区司令官渡辺水哉少将は、一九〇九年九月一日か...
派遣兵は歩兵二個連隊と工兵一個小隊の大がかりな部隊編成...
討伐隊は包囲地域の面長(村長)、洞長(部落長)をよびだ...
変装隊、密偵を放っての情報収集も効果をあげたという。
この「暴徒大討伐」作戦により、沈南一(シムナムイル)、...
さしもの全羅道義兵も退潮を避けられなかった。
こうした日本軍の弾圧に弾圧をかさねた討伐戦により、併合...
併合後の一九一〇年一一月以降も江原・忠清・慶尚比道の道...
国内における抗日闘争が困難になった義兵たちは、鴨緑江(...
第六章 韓国併合への道
一 保護か併合か――伊藤博文の「改宗」
二 併合の条件づくりがすすむ
三 「韓国併合条約」の論理
一 保護か併合か――伊藤博文の「改宗」
併合論の台頭
ハーグ密使事件を契機として、日本の対韓政策があらたな段...
国家主義団体玄洋社(げんようしゃ)の頭山満(とうやまみ...
その意見は、“韓国皇帝に主権を日本に「禅譲」させ両国が合...
“現皇帝である高宗を譲位させ、統治権を日本に委任させる”...
第一案を「上策」とするが、それが不可能な場合でも第二案...
河野・小川らが所属した猶興会(ゆうこうかい)は、日露戦...
1909(明治42、隆熈3)年 1月、韓帝地方巡幸、伊藤統監陪従...
1910(明治43、隆熈4)年 2月、小村外相、在外使臣に韓国併...
憲政本党も韓国処分について政府の「勇断」を求め、山県・...
新聞・雑誌も事件を好機ととらえ、対韓強硬措置を説く論説...
朝鮮総督府編『朝鮮ノ保護及併合』は「我が国上下輿論(よ...
西園寺首相は、韓国へ派遣した林董(ただす)外相にあてて...
伊藤の保護国論
しかし、伊藤統監は強硬論に耳をかたむけず、合併論をしり...
伊藤は統治の実権を掌握しながらも、韓国閣僚に日本人を送...
持論の保護国としての韓国支配を、よりいっそう徹底してお...
「第三次日韓協約」調印翌日の統監府幹部にたいする談話の...
記者会見でも伊藤は、日本の政策は韓国を富強ならしめ、「...
さらにつづけて合併問題に言及し、「合併は却(かえ)って...
「厄介」とは、外国の反対や批判をうけかねないという意味...
伊藤は統監就任以来、しばしば韓国の「独立富強」を口にし...
保護の名における韓国内外政の主権侵奪と韓国の独立とが矛...
韓国の独立をおびやかし主権を蚕食しているのが、ほかなら...
したがって名分を捨てる併合は避けたいのである。
伊藤はそのような保護国論者だった。
保護国経営
「第三次日韓協約」強制締結以後、伊藤統監は保護国として...
イギリスのエジプト占領下の経営をになったクローマー提督...
第一は司法制度整備である。東京帝国大学教授・法政大学総...
法治国家としての体裁を整え、それまでに韓国が諸外国とむ...
第二は韓国中央銀行の設立である。一九〇五年以来、日本の...
第三は教育振興である。韓国が儒教一辺倒の教育からぬけだ...
伊藤は、東京高等師範学校教授三上(みつち)忠造(のち文...
第四は殖産興業である。
「独立富強」をスローガンに掲げた伊藤の産業振興、資源開...
日本政府が八年間毎年三〇万円を補助して社債二〇〇〇万円...
「東拓」が併合後、小作制大農場経営と貸金事業を発展させ...
また、同時期に日本からの資本輸出も積極化した。
日本政府からの施政改善経費借款一九六八万円(一九〇八年...
このうち興業銀行からの借款は、日本政府が利息支払いを保...
日本の朝鮮支配の国際的了解が前提になっている。これらの...
こうした植民地政策は結果的には併合の地ならしとなったが...
併合を前提としたのであれば、法典編纂などは不必要だった...
統監政治への批判
一九〇九年、「施政改善」政策をひっさげた伊藤は、純宗皇...
行くさきざきで妨害にあいながらも、目的は抵抗する民衆の...
伊藤は着手した保護国経営政策が結実すれば、民衆は日本に...
しかし、伊藤の甘い見通しを裏切って義兵闘争はますます激...
伊藤が北韓巡幸から漢城(ハンソン)へ帰着したばかりの二...
大竹はのちに普選運動でも活躍するが、対外強硬派で鳴らし...
彼は、伊藤の失政を逐一とりあげ、「宗主国たる我帝国の威...
伊藤の統監辞任直前の六月一日にも、大竹は「公の統監辞任...
漢城の邦字新聞『京城新聞』なども、統監府設置以来の政策...
実行の時期はともかく、併合の機会をうかがっていた元老山...
韓国の「独立富強」を掲げる伊藤の施策が成功し、保護国と...
一進会の動向
韓国で併合推進を唱える一進会も伊藤にゆさぶりをかけた。
一進会は一九〇四年、宋秉唆(ソンビョンジュン)が組織し...
これを利用した日本人、とくに陸軍の支援により政治団体と...
それは政社としては第二位の、穏健な排日自主主義の大韓協...
一進会が日本の国家主義団体黒竜会主幹の内田良平を通じて...
宋秉峻・李容九と内田は、「韓日合邦」の一点で気脈を通じ...
一九〇七年五月の李完用(イワンヨン)内閣の組閣にあたっ...
伊藤は李完用派と一進会の連立内閣で政権を操縦しようとし...
たしかに宋秉峻も高宗譲位問題では伊藤の期待にこたえる役...
一九〇八年六月、宋秉唆は農商工相辞任を申し出た。
自分の辞職によって内閣を崩壊させ、混乱の責任を負う伊藤...
しかし、伊藤の巧妙な説得と、内閣改造による宋秉峻の内相...
政局混乱の事態は回避されたが、伊藤は一進会との絶縁を決...
たとえ「親日」にせよ「韓日合邦」を高唱する一進会は保護...
そればかりでなく、しばしば義兵から狙われ、統監府設置以...
伊藤は、李完用首相の宋秉峻追放工作に同意をあたえた。
一九〇九年二月、宋秉唆は内相を解任された。
伊藤の統監辞任
保護国経営をめざした統監政治が思わぬ障害に遭遇して、伊...
一九〇八年一一月ごろには統監辞任の意向をもらすようにな...
その理由はさまざまであろうが、最大の理由は、弾圧をかさ...
統監の権力は、韓国の「天」と「地」とを奪うことはできて...
栄達の頂点に立った男の自負と自信が音をたてて崩れていく。
『伊藤博文伝』によると、一九〇九年四月一〇日、桂首相と...
すると「公は両相の説を聞くや、意外にもこれに異存なき旨...
そればかりか、桂・小村が提示した「併合の方針」について...
保護国論から併合論への改宗である。
それから二週間後に東京上野の精養軒でひらかれた、京城日...
併合論への飛躍は、三年半にわたった統監政治の失敗を自認...
五月下旬、伊藤は統監の辞表を天皇に提出した。天皇は一度...
六月一四日付けで四度目の枢密院議長に転じた伊藤は、事務...
漢城滞在中、みずから指揮して「韓国司法及監獄事務委托に...
韓国の司法・監獄事務の日本への委託は、伊藤が韓国の法治...
これにより韓国法部(法務省)は廃止され、かわってあらた...
また、軍隊解散によって皇宮警衛の歩兵一個大隊、騎兵一個...
こうして伊藤は、つみあげてきた保護国構想をみずからの手...
二 併合の条件づくりがすすむ top
併合計画の発進
一九〇九年(明治四二)四月一〇日、伊藤の併合路線への転...
それは小村が、外務省政務局長倉地鉄吉に命じて作成させた...
まず、韓国における日本勢力の現状は「未だ十分に充実する...
第一、適当の時機に於て韓国の併合を断行すること。
第二、併合の時機到来する迄は、併合の方針に基き、充分に...
そして当面の具体的「施設」として、
①秩序維持のため軍隊駐屯と憲兵・警察力の強化、
②外交権の掌握、圓韓国鉄道と満鉄との連絡、
③日本人の殖民、をあげている。
ちなみに「併合」ということばは、草案作成にあたった倉地...
彼は日韓対等合併の印象を与えず、国家廃滅・領土編入であ...
合併でもなく、併呑でもないという意味だろう。
以後、「併合」は公用語として使用されたばかりでなく、一...
この対韓方針案は七月六日の閣議で決定され、同日天皇の裁...
その実施は「適当の時機」ではあるが、政府方針として韓国...
これにより小村外相は、一歩すすめて併合実施の順序方法と...
内容はあきらかでないが、両国の国家意思の合意を示す条約...
一進会の合邦運動
この年九月、宋秉峻と李容九が率いる一進会は、大韓協会と...
反李完用内閣の一点で三派は連繋したが、一進介が「韓日合...
一二月四日、一進会は会長李容九の名前で声明を発表すると...
上奏文が却下されたのはもちろんであるが、曽禰統監も言を...
当時、漢城で雑誌を主宰していた釈尾東邦の『朝鮮併合史』...
一進会が求めた合邦とは、日本との対等合併ないしは連邦形...
しかし、曽禰が一進会の合邦提唱を歓迎しなかったのはその...
もはや日本にとって韓国内における併合推進の世論操作の必...
予想どおり一進会の声明にたいして大韓協会・西北学会はも...
声明発表の翌五日には漢城西大門(ソデムン)で李完用きも...
この機会をとらえた曽禰は、一進会に演説・集会を禁じ、さ...
併合反対であれ賛成であれ、併合を既定方針とした日本政府...
ロシアの併合承認
一九一〇年(明治四三)二月、小村外相は在外大使らに前年...
ただし併合実行の「時機」は「内外形勢に照らし決定を為す...
列国の干渉を誘うような併合であってはならないのである。
在外大使への通知には、それぞれの任国の反応を探知するよ...
日露戦争期を境とする国際情勢の変化、すなわち英仏協商(...
一九〇七年七月三〇日調印の「第一回日露協約」はその産物...
日露両国はハルビンと長春・吉林の中間で満州を南北に分割...
交渉の過程で林外相や伊藤統監は、日韓関係の将来の「発展...
しかし「日露講和条約」に記した、日本の韓国における「卓...
韓国併合直前の一九一〇年七月四日に調印された「第二回日...
三ヵ条の本協約と六ヵ条の秘密協約に韓国事項を明記するこ...
満蒙地域における利権の拡大を狙うロシアもまた、日本との...
たとえば調印直後に、ロシアが以前から主張していた松花江...
のちに「韓国併合条約」調印をロシア政府へ通知するため訪...
日露両国は韓国、清国を材料に取引したのである。
イギリスの併合同意
日英同盟下で友好関係にあったイギリスの大勢は、日本の韓...
一九一〇年五月一九日、駐日大使マクドナルドは小村外相を...
小村が実行の時期は未定ながら併合の方針であると答えたの...
実行まえに併合によってイギリスがこうむる不利益について...
イギリスは韓国とむすんだ条約によってえていた既得権を併...
その最大関心は関税問題である。関税自主権を欠く韓国の対...
六月三日の日本政府閣議は、はやばやと関税は「当分の内現...
併合実行を目前にひかえた八月一四日、小村外相は駐英大使...
「韓国併合条約」公布の八月二九日に発表した政府宣言で、...
それにしても韓国併合問題についての欧米列強にたいする日...
天皇・総督と植民地
ロシア・イギリス両国から韓国併合の同意をえたことは、帝...
対外関係処理の見通しをつかんだ政府は、一九一〇年六月三...
そこにはつぎのようにある。
一、朝鮮には当分の内、憲法を施行せず、大権に依り之を統...
一、総督は天皇に直隷し、朝鮮に於ける一切の政務を統轄す...
一、総督には大権の委任に依り、法律事項に関する命令を発...
但、本命令は別に法令又は律令等、適当の名称を付するこ...
この三項は天皇とその名代である総督の、植民地朝鮮にたい...
ここでは日本の朝鮮統治権は憲法によって規定されるのでは...
したがって憲法の効力がおよばない朝鮮には「大日本帝国憲...
もしも日本の韓国併合に、朝鮮の未開と停滞をひらく文明史...
だが、朝鮮は天皇大権にもとづき植民地統治の委任をうけた...
こうして天皇にたいしてのみ責任をもつ朝鮮総督は、本国政...
併合後の九月二九日の勅令「朝鮮総督府官制」は、総督は陸...
朝鮮総督府の植民地行政は本国政府省庁の監督をうけないの...
寺内正毅の統監就任
これよりさきの一九一〇年五月、寺内正毅が第三代統監とな...
寺内は陸軍大将。一九〇二年第一次桂内閣の陸相として入閣...
統監職は陸相兼任であった。
併合実行の責をとることになった寺内は、併合準備委員会を...
原案作成は倉地外務省政務局長と統監府外務部長小松緑がお...
そこでは併合後の国称、朝鮮人の国法上の地位、朝鮮におけ...
七月八日の閣議は、この併合準備委員会の結論とともに、併...
後藤新平は「高麗」説をとった。
高麗はコリアに通ずるからであろう。
朝鮮は古い呼称で、「朝日が鮮明なところ」(『東国輿地勝...
いずれにしても、併合後になお一国が存続しているような印...
一方、韓国では政府の警察機構を統監府に吸収する作業がお...
寺内新統監は六日、韓国駐箚軍参謀長から憲兵隊司令官に復...
いわゆる憲兵警察制度がこれであり、軍事警察との一体化だ...
明石は統監府警務総長を兼任する。
こうして国際的にも国内的にも併合の準備が整った七月二三...
ただちに執務を開始した寺内は、八月一三日、小村外相につ...
予(かね)て内命を受け居れる時局の解決は、来週より着手...
別段の故障なく進行するに於ては、其週末には総(すべ)て...
三 「韓国併合条約」の論理 top
「韓国併合に関する条約」正本(韓文)
合意の強要
一九一〇年(明治四三)八月一六日、寺内統監は李完用首相...
寺内はその理由をつぎのように述べたという。
日本政府は韓国を擁護せんがため、既に二回の大戦を賭し、...
虚言を弄(ろう)するのもはなはだしいが、“日本が韓国「扶...
は施政改善の目的を達成できないので韓国皇室と韓国民のため...
外務省編『小村外交史≒が認めるとおり、日清戦争以来、日本...
それゆえ、寺内は李完用にくり返して、日本の韓国併合は他...
植民地権力の後ろ盾でからくも政権の座を守ってきた李完用...
ただ国号として「韓国」の存続と、退位する皇帝に王称をあ...
せめてかたもだけでも「国」「王」を維持したかったのであ...
日本案は現皇帝純宗(スンジョン)、太皇帝高宗(コジョン...
同夜、李完用首相とひそかに打ち合わせた趙重応(チョウジ...
寺内は、朝鮮への改称は変更できないが、趙重応が提案した...
この点で妥協しても調印を急いだ方が得策とみたためである。
寺内は、この皇帝称号を桂首相に稟請(りんせい)し、一八...
ほかに条約内容についての交渉はなかった。
あっても寺内ははねつけただろう。
韓国併合に関する条約
八月一八日の韓国閣議で、李容植(イヨンシク)学相だけは...
だが、大勢は調印やむなしとした。
李完用首相は、閣外の閔丙夾(ミンピョンソク)宮相、尹徳...
寺内は即刻条約案全文を付して天皇裁可の上奏を稟請した。
二二日、天皇は枢密院に諮詢のうえ、「韓国併合条約」を裁...
同日、韓国御前会議も、反対意見の李容植学相欠席のままひ...
李完用と寺内の条約書への記名調印もその日のうちにおこな...
『京城新報』によると、この日の漢城の最高気温は二九度。...
「韓国併合に関する条約」は全八条(全文は Index付録参照...
イギリス・ロシアには調印まえに併合条約締結の見通しを予...
しかし日韓両国内には公布までは秘密とし、統監府は、新聞...
「韓国併合条約」は二九日の『官報』号外で公示され、同時...
併合の形式をめぐって
戦争が紛争解決の一手段として正当視されていた当時の国際...
「強制的併合」とは、併合する国が戦争により被併合国を征...
国際法学者の阿部浩己氏は、日本の韓国併合は「強制的併合...
阿部氏は、義兵闘争にたいする弾圧を植民地戦争になぞらえ...
しかし日本軍の義兵弾圧は、たてまえ上は韓国皇帝から治安...
保護条約である「第二次日韓協約」により韓国を保護するこ...
ましてや保護をあたえる国である日本が、被保護国である韓...
伊藤統監が保護国にこだわり、容易に併合論に同調しなかっ...
ただし、その伊藤も一度だけ日韓開戦を望んだことがある。
一九〇七年パーク密使事件に際して、七月三日皇帝に謁見し...
これがたんなる威嚇でなかったことは、伊藤がかさねて李完...
韓国側から開戦を宜し、戦争の正当な理由をつかんだとすれ...
ただちに韓国を征服し、「強制的併合」を実現したであろう。
だが皇帝は伊藤の挑発にのらなかった。
そうだとすれば、日本は国家間合意形式の「任意的併合」を...
閣議が併合手続きを決定した際、「強制的併合」の措置につ...
韓国皇帝が統治権を譲与し、天皇がこれを受諾するという、...
一九六五年一一月五日の衆議院日韓条約特別委員会で、当時...
「強制」を「任意」に、黒を白にいいくるめた併合条約の論...
アメリカのハワイ併合の場合
統一国家形成以前の保護領ならばともかく、近代国家にして...
ハワイ先住民による近代国家は、一七九五年に初代カメハメ...
諸外国とも公式の外交関係をもつ独立国家であった。ところ...
そのうえで白人たちによる臨時政府はアメリカ政府に併合を...
しかし、あたらしく大統領となった民主党のクリーヴランド...
四年後の九七年、大統領が共和党のマッキンレーにかわると...
日本が高宗皇帝を強制譲位させ、傀儡の李完用政権や一進会...
どちらも不当な併合である。
いま、ハワイではアメリカ連邦政府に自治権確立、ハワイア...
併合の世論
こうして韓国併合が実行されたが、それにたいして日本人の...
併合直後の一九一〇年八~一〇月の『東京朝日』『大阪朝日...
姜東鎮氏の整理にしたがって併合正当化論の論調を列挙する...
①古代においても朝鮮が日本に併合されたことがあるから、併...
②同祖同根論にもとづく自然的趨勢だとするもの、
③朝鮮人の幸福増進のためとする植民地エセ幸福論、
④旧朝鮮王朝の悪政強調と朝鮮独立不能論にもとづく併合不可...
⑤併合が日本にとっての利益よりは負担になるとするもの、
⑥天皇の赤子(せきし)慈愛論と主権譲渡論、
⑦日清・日露戦争での犠牲の代価が併合だとするもの、
⑧朝鮮人が日本の保護政治を支持した結果が併合だとするもの...
いずれの論拠によっても、日本の侵略の事実を歪曲(わいき...
マス・メディアが送りつける大量の併合賛美論は、「韓国領...
自由主義者・植民政策学者として令名高く、現在の五千円札...
一九一〇年九月一三日、第一高等学校入学式での校長演説で...
次に忘れることの出来ないのは朝鮮併合の事である。
之は実に文字通り千載一遇である。
我が国は一躍してドイツ、フランス、スペインなどよりも広...
とにかく今や我が国はヨーロッパの諸国よりも大国となった...
諸君は急に大きくなったのである。
一九〇六年一〇月、統監府嘱託として韓国農業事情を視察...
いくらかなりと韓国植民地化を批判していた社会主義者もま...
たとえば片山潜(せん)派の『社会新聞』(一九一〇年九月...
「為政者は固(もと)より、全日本国民は個人とし、社会団...
その論説「日韓合併と我責任」は、独立心を欠いた「土台の...
社会主義に近づいた石川啄木は併合公表から一一日目の九月...
「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨をぬりつつ秋風を聴く」と...
この有名な歌にしても、地図の上から抹消された亡国への憐...
歴史家と日朝関係史
新聞・雑誌にもまして国民に大きな影響をあたえたのは、国...
併合直後の一九一〇年一一月、日本歴史地理学会は『歴史地...
巻頭に韓国併合の詔書を掲げ、一流の歴史・地理学者ら二二...
彼らはこぞって併合を礼賛、正当化した。
その執筆者のひとりでもある喜田貞吉(きたさだきち)は、...
これは八月に日本歴史地理学会が主催した併合に関する記念...
喜田は日本古代史・民族史の大家で、当時、文部省図書審査...
日本の朝鮮植民地政策の理念である「同化主義」を歴史的に...
従って今回の併合は韓国を滅ぼしたものではなくして、其の...
喜田によれば「韓国は貧弱なる分家で、我が国は実に富強な...
このような民族史観にもとづく併合の正当化は、喜田にかぎ...
したがって国史教科書にも映し出された。
大正デモクラシーの影響をうけたといわれる、一九二〇~二...
韓国は、我が保護の下にあること既に数年に及び、政治おい...
ここに於て韓国皇帝は統治の権を天皇に譲り、帝国の新政に...
かくて半島の民は悉(ことごと)く帝国の臣民となり、東洋...
韓国併合は韓国の「国利民福」のため、韓国側の申し出でお...
「三韓征伐」神話から併合神話にいたる日朝関係史のパター...
このように歴史事実から遊離した歴史教育の押しつけが、日...
以上のような過程をふんで韓国併合を手にし、朝鮮民族の抹...
支配民族である日本人と被支配民族である朝鮮人との民族的...
その「外地」意識は、朝鮮の解放後も消えなかった。
日韓会談の席上、日本側主席代表久保田貫一郎が「日本の朝...
それから四〇年以上にもなるが、その間にも、いくたび「久...
日本の首相がはじめて公式に朝鮮の「植民地支配」を「陳謝...
これでは韓国・北朝鮮ばかりでなく、アジアの人びとから、...
今日求められている日朝国交正常化問題にしても、補償問題...
いいかえれば、誤った歴史認識からは誤った解答しかえられ...
消し去ることのできない過去の「清算」はむずかしい。
しかし、それができるとすれば、まず、日本と朝鮮との関係...
http://ktymtskz.my.coocan.jp/meiji/heigo/kankoku0.htm
終了行:
韓国併合
(海野福寿著、岩波新書388 1995年刊)
第一章 朝鮮の開国
第二章 “軍乱”とクーデター
第三章 日清戦争前後
第四章 日露戦争下の韓国侵略
第五章 保護国化をめぐる葛藤
第六章 韓国併合への道
あとがき
参考文献
付 録 江華島(カンファド)事件を口実に朝鮮の開国に成功...
それは同時に、朝鮮政府・人民の粘り強い抵抗を排除する過...
朝鮮植民地化の全過程を、最新の研究成果にもとづいて叙述...
海野福寿(うんの・ふくじゅ) 1931年東京に生まれる、196...
専攻-日本近代史、近代日朝関係史、現在-明治大学文学部...
著書-「明治の貿易」(塙書房) 「恨――朝鮮人軍夫の沖縄戦」(...
あとがき 1995年4月 海野福寿 top
本書は、朝鮮の開国から韓国併合までの日朝・日韓関係を外...
外交史の専門家でもないわたしがその気になった契機は、一...
その討論会でわたしたちは、「従軍慰安婦」や強制連行問題...
それは「従軍慰安婦」や強制連行があったから日本の「植民...
日本が謝罪を求められているのは個々の不法行為にたいして...
しかも、わたしたちが歴史的事実として自明のことのように...
韓国でも同じような意見が少なくないが、日本の朝鮮支配を...
歴史学のうえでもとりあげられるに違いない。
本書の主要テーマもこの点にかかわる。
しかし、にわか勉強のわたしかたどりついた結論は、共和国...
韓国併合は形式的適法性を有していた、つまり国際法上合法...
だが誤解しないでほしい。
合法であることは、日本の韓国併合や植民地支配が正当であ...
当時、帝国主義諸国は、紛争解決手段としての戦争や他民族...
彼らの申し合わせの表現である国際法・国際慣習に照らして...
日本はその適法の糸をたぐって、国際的干渉を回避しながら...
わたしたちにとって考えるべき問題の本質は、併合にいたる...
ところで、「韓国併合」はしばしば「日韓併合」とよばれる。
山辺健太郎氏も自著を『日韓併合小史』と題された(一九六...
しかし、正確には「韓国併合」とよぶべきではないだろうか。
なぜなら、日本“が”韓国“を”併呑(へいどん=飲込む)した...
国定教科書の場合を少しくわしくみてみよう。
併合の翌一九一〇年発行の第二期国定教科書の表現は「韓国...
第六期(一九四三年発行)では、「〔韓国皇帝が〕統治権を...
戦後の第七期(一九四六年発行『国のあゆみ』)では、「わ...
改訂のたびに、そのときどきの時代的要請をうけて、さまざ...
おそらくは、今日ひろく使われている「日韓併合」「日韓併...
わたしはいま、これ以上この問題をつまびらかにする材料を...
語感としてそのような印象が生ずるのは否めまい(ただし、...
本書を『韓国併合』と題したゆえんである。
朝鮮史について晩学のわたしに根気よくつきあい、ときには...
また、編集部の井上一夫・大山美佐子両氏との韓国料理をつ...
井上氏とは『日本近代思想大系』についで二度目のおつきあ...
参考文献
日本で刊行された主な関係書(史料集を除く)のみを掲...
浅田喬二編『“帝国”日本とアジア』(近代日本の軌跡10)吉川...
井口和起編『日清・日露戦争』(近代日本の軌跡3)吉川弘文館...
石井寛治『開国と維新』(大系日本の歴史12)小学館、一九八...
石坂浩一『近代日本の社会主義と朝鮮』社会評論社、一九九三年
海野福寿『日清・日露戦争』(日本の歴史18)集英社、一九九...
海野福寿編『日韓協約と韓国併合条約』明石書店、一九九五年
大江志乃夫『日露戦争の軍事史的研究』岩波書店、一九七六年
『日露戦争と日本軍隊』立風書房、一九八七年
梶村秀樹著作集刊行委員会編『梶村秀樹著作集』一~六巻、別...
姜在彦『朝鮮近代史研究』日本評論社、一九七〇年
『近代朝鮮の変革思想』日本評論社、一九七三年
『朝鮮の攘夷と開化』平凡社、一九七七年
『朝鮮近代史』平凡社、一九八六年
姜東鎮『日本言論界と朝鮮』法政大学出版局、一九八四年
姜萬吉著、小川晴久訳『韓国近代史』高麗書林、一九八六年
君島和彦・坂井俊樹編『朝鮮・韓国は日本の教科書にどう書か...
金義煥『近代朝鮮東学農民運動史の研究』和泉書院、一九八六年
金圭昇『日本の朝鮮侵略と法制史』社会評論社、一九九一年
琴秉洞『金玉均と日本-その滞日の軌跡』緑蔭書房、一九九一年
芝原拓自『日本近代の世界史的位置』岩波書店、一九八一年
芝原拓自解説『対外観』(日本近代思想大系12)岩波書店、一...
須川英徳『李朝商業政策史研究』東京大学出版会、一九九四年
高崎宗司『“妄言”の原形――日本人の朝鮮観』木犀社、一九九〇年
『“反日感情”韓国・朝鮮人と日本人』講談社、一九...
武田幸男編『朝鮮史』山川出版社、一九八五年
武田幸男・宮嶋博史・馬淵貞利『朝鮮』(地域からの世界史1)...
田保橋潔『近代日鮮関係の研究』上下、朝鮮総督府中枢院、一...
鄭在貞著、石渡延男・鈴木信昭・横田安司訳『新しい韓国近現...
藤間生大『壬午軍乱と近代東アジア世界の成立』春秋社、一九...
中塚明『日清戦争の研究』青木書店、一九六八年
『近代日本の朝鮮認識』研文出版、一九九三年
『近代日本と朝鮮』(第三版)三省堂、一九九四年
中村哲・堀和生・安乗直・金泳鎬編『朝鮮近代の歴史像』日本...
中村哲・梶村秀樹・安来直・李大根編『朝鮮近代の経済構造』...
西尾陽太郎『李容九小伝』葦書房、一九七八年
朴殷植著、美徳相訳『朝鮮独立運動の血史』1・2、平凡社、一...
朴宗根。『日清戦争と朝鮮』青木書店、一九八二年
旗田巍『日本人の朝鮮観』勁草書房、一九六九年
『朝鮮と日本人』動草書房、一九八三年
旗田巍編『朝鮮の近代史』大和書房、一九八七年
旗田巍先生古稀記念会編『朝鮮歴史論集』下巻、龍渓書舎、一...
浜下武志『近代中国の国際的契機』東京大学出版会、一九九〇年
韓相一著、衛藤瀋吉ほか訳『日韓近代史の空間』日本経済評論...
阪東宏『ポーランド人と日露戦争』青木書店、一九九五年
藤村道生『日清戦争』岩波書店、一九七三年
『日清戦争前後のアジア政策』岩波書店、一九九五年
古屋哲夫『日露戦争』中央公論社、一九六六年
彭沢周『明治初期日韓清関係の研究』塙書房、一九六九年
マッケンジー著、渡部学訳『朝鮮の悲劇』平凡社、一九七二年
宮嶋博史『朝鮮土地調査事業史の研究』東京大学東洋文化研究...
森山茂徳『近代日韓関係史研究』東京大学出版会、一九八七年
『日韓併合』吉川弘文館、一九九二年
山中速人『ハワイ』岩波書店、一九九三年
山辺健太郎『日韓併合小史』岩波書店、一九六六年
『日本の韓国併合』太平出版社、一九七三年
渡辺勝美『朝鮮開国外交史研究』東光堂書店、一九四一年
岩波講座『近代日本と植民地』1~8、岩波書店、一九九二~九...
岩波講座『日本通史』近代1~4、岩波書店、一九九四年~九五年
朝鮮史研究会編『新版・朝鮮の歴史』三省堂、一九九五年
日韓歴史教科書研究会編『教科書を日韓協力で考える』大月書...
歴史学研究会編『日朝関係史を考える』青木書店、一九八九年
溝口雄三・浜下武志・平石直昭・宮嶋博史編『アジアから考え...
付録 top
1 日韓議定書 2 第一次日韓協約 3 第二次日韓協約 4 ...
原文は片仮名。現代仮名遣いとし、句読点・振仮名を付した。
1 日韓議定書(『官報』明治三七年二月二七日)
日韓議定書 日韓両国政府代表者は、本月二十三日、次の議定...
議定書
大日本帝国皇帝陛下の特命全権公使林権助及(および)大韓...
李址鎔は各(おのおの)相当の委任を受け、次の条款を協定...
第一条 日韓両帝国間に恒久不易の親交を保持し、東洋の平和...
大日本帝国政府を確信し、施政の改善に関し其忠告...
第二条 大日本帝国政府は大韓帝国の皇室を確実なる親誼を以...
第三条 大日本帝国政府は大韓帝国の独立及領土保全を確実に...
第四条 第三国の侵害により若(もし)くは内乱の為め、大韓...
大日本帝国政府は速に臨機必要の拑置を取るべし。
而(しこう)して大韓帝国政府は右大日本帝国政府の...
大日本帝国政府は前項の目的を達する為め、軍略上必...
第五条 両国政府は相互の承認を経ずして、後来、本協約の趣...
得ざること。
第六条 本協約に関連する未悉の細条は大日本帝国代表者と大...
明治三十七年二月二十三日 特命全権公使 ...
光武八年二月二十三日 外部大臣臨時署理陸軍...
2 第一次日韓協約(『官報』明治三七年九月五日)
日韓協約 去月二十二日、日韓両国政府代表者は次の協約に調...
一、韓国政府は日本政府の推薦する日本人一名を財務顧問とし...
総て其意見を詢(と)い施行すべし。
二、韓国政府は日本政府の推薦する外国人一名を外交顧問とし...
総て其意見を詢(と)い施行すべし。
三、韓国政府は外国との条約締結其他、重要なる外交案件即(...
契約等の処理に関しては予(あらかじ)め日本政府と協議...
3 第二次日韓協約(『官報』明治三八年一一月三二日号外)
外務省告示第六号
本月十七日、韓国駐箚帝国特命全権公使及同国外部大臣は下...
明治三十八年十一月二十三日 外務大臣 伯爵 桂 太郎
日本国政府及韓国政府は、両帝国を結合する利害共通の主義...
韓国の富強の実を認むる時に至る迄、此の目的を以て下の条...
第一条 日本国政府は、在東京外務省に由り今後韓国の外国に...
日本国の外交代表者及領事は外国に於ける韓国の臣民...
第二条 日本国政府は、韓国と他国との間に現存する条約の実...
日本国政府の仲介に由らずして国際的性質を有する何...
第三条 日本国政府は、其の代表者として韓国皇帝陛下の闕下...
統監は専(もっぱ)ら外交に関する事項を管理する為...
親しく韓国皇帝陛下に内謁するの権利を有す。
日本国政府は又、韓国の各開港場及其の他日本国政府...
権利を有す。理事官は統監の指揮の下に、従来、在韓...
並に本協約の条款を完全に実行する為め必要とすべき...
第四条 日本国と韓国との間に現存する条約及約束は、本協約...
継続するものとす。
第五条 日本国政府は、韓国皇室の安寧と尊厳を維持すること...
この証拠として下名は各本国政府より相当の委任を受...
明治三十八年十一月十七日 特命全権公使 林 権助
光武九年十一月十七日 外部大臣 朴斉純
4 第三次日韓協約(『官報』明治四〇年七月二五日号外)
日韓協約 明治四十年七月二十四日、韓国京城に於て伊藤統...
日本国政府及韓国政府は、速に韓国の富強を図り韓国民の幸...
第一条 韓国政府は施政改善に関し統監の指導を受くること。
第二条 韓国政府の法令の制定及重要なる行政上の処分は、予...
第三条 韓国の司法事務は普通行政事務と之を区別すること。
第四条 韓国高等官吏の任免は統監の同意を以て之を行うこと。
第五条 韓国政府は統監の推薦する日本人を韓国官吏に任命す...
第六条 韓国政府は統監の同意なくして外国人を傭聘せざるこ...
第七条 明治三十七年八月二十二日調印日韓協約第一項は之を...
この証拠として下名は各本国政府より相当の委任を受け本協...
明治四十年七月二十四日 統監 侯爵 伊藤博文
光武十一年七月二四日 内閣総理大臣勳二等 李完用
5 韓国併合に関する条約(『官報』明治四三年八月二九日号外)
朕、枢密顧問の諮詢を経たる韓国併合に関する条約を裁可し...
御名 御璽
明治四十三年八月二十九日
内閣総理大臣 侯爵 桂 太郎
外務大臣 伯爵 小村寿太郎
条約第四号
日本国皇帝陛下及韓国皇帝陛下は、両国間の特殊にして親密...
因てこの全権委員は会同協議の上、次の諸条を協定せり。
第一条 韓国皇帝陛下は、韓国全部に関する一切の統治権を完...
第二条 日本国皇帝陛下は、前条に掲げたる譲与を受諾し、且...
第三条 日本国皇帝陛下は、韓国皇帝陛下・太皇帝陛下・皇太...
各其の地位に応じ相当なる尊称、威厳及名誉を享有せ...
第四条 日本国皇帝陛下は、前条以外の韓国皇族及其の後裔に...
且之を維持するに必要なる資金を供与することを約...
第五条 日本国皇帝陛下は、勲功ある韓大にして特に表彰を為...
栄爵を授け且恩金を与うべし。
第六条 日本国政府は、前記併合の結果として全然韓国の施政...
身体及財産に対し十分なる保護を与え、且其の福利の...
第七条 日本国政府は、誠意忠実に新制度を尊重する韓大にし...
韓国に於ける帝国官吏に登用すべし。
第八条 本条約は、日本国皇帝陛下及韓国皇帝陛下の裁可を経...
この証拠として両全権委員は本条約に記名調印するものなり。
明治四十三年八月二十二日 統監 子爵 寺内正毅
隆熈四年八月二十二日 内閣総理大臣 李完用
第一章 朝鮮の開国
一 外交慣例をめぐる紛糾
二 江華島事件――軍事力による開国強要
三 砲艦外交――「修好条規」の締結
四 解釈をめぐる対立
一 外交慣例をめぐる紛糾 top
江華島(カンファド)に刻まれた戦いの跡
ソウル市内を貫流する漢江(ハンガン)に沿って北西へ七〇...
臨津江(イムジンガン)と合流して大河となった漢江が島の...
しかし現在では、全長七〇〇メートルの江華橋でむすばれて...
思いのほか南北朝鮮の境界線に近く、朝鮮にんじんの名産地...
そういえば江華島にも、日除けの寒冷紗(かんれいしゃ)で...
朝鮮戦争のとき、開城方面から避難してきた農民がもたらし...
この静かな、ひなびた農村には、古くからの戦いの歴史が刻...
江華島は天然の嶮に守られた首都防衛の戦略的要地だった。
高麗時代の一三世紀、高麗全土がモンゴル軍の馬蹄に蹂躙さ...
高宗はここで、焼失した高麗大蔵経の版木を再版彫造し(一...
1854(嘉永7、安政元、哲宗5)年 3月、日米和親条約調印。
1860(万延3、哲宗11)年 この年、崔済愚が東学を創唱。
1864(文久4、元治元、高宗元)年 4月、崔済愚処刑。
1866(慶応2、高宗3)年 10月、フランス艦隊江華島攻撃(丙...
1868(慶応4、明治元、高宗5)年 1月、王政復古宣言。4月、...
1869(明治2、高宗6)年 1月、樋口鉄四郎(対馬藩家老)を朝...
1870(明治3、高宗7)年 1月、佐田白茅を朝鮮へ派遣。10月、...
1871(明治4、高宗8)年 6月、アタリカ艦隊江華島攻撃(辛未...
1872(明治5、高宗9)年 9月、花房義質を朝鮮へ派遣、朝鮮政...
1873(明治6、高宗10)年 8月、閣議、参議西郷隆盛の朝鮮派...
1874(明治7、高宗11)年 5~10月、日本軍、台湾出兵。9月、...
1875(明治8、高宗12)年 2月、森山茂理事官、釜山着任、朝...
9月、「雲揚」、江華島・永宗島攻撃(江華島事件)。10月、参...
1876(明治9、高宗13)年 1月、森有礼公使、李鴻章と会談。...
1877{明治10、高宗14)年 9月、花房義質代理公使を開港交渉...
1878(明治11、高宗15)年 9月、朝鮮政府、釜山港輸出入品に...
1879(明治12、高宗16)年 4月、琉球藩廃止、沖縄県設置。6...
ちなみに、井上靖の歴史小説『風涛』は、太子?(チョン)、...
一七世紀には、朝鮮の臣属を求めて侵入してきた清の大軍に...
フランス人神父殺害の責任追及を名目としたフランス艦隊の...
ともに真の目的は、朝鮮の開国強要であった。
清国・日本についで、朝鮮も開国させようという列強の飢え...
江華水道を臨む江華島の砲台(復元)
鎖国攘夷政策の強化
江華島(カンファド)には、一七世紀から一八世紀にかけて...
洋擾(ヤンヨ)などで、それらの要塞の多くが破壊されたが...
模造ではあるが、いかにも古めかしい砲口装填式の「紅夷砲...
しかし、照準装置のない旧式大砲の性能が劣ることは、のち...
せいぜい二○○~三〇〇メートルしかない幅の水道とはいえ、...
劣悪な旧式兵器であるにもかかわらず、朝鮮軍兵士は勇敢に...
魚在淵(オジェヨン)将軍以下、朝鮮軍の将兵は旧式兵器で...
十数人の死傷者を出したアメリカ軍は、いったんは広城堡を...
丙寅・辛未洋擾でフランスーアメリカの侵略行為をしりぞけ...
危機を回避することができたのは排外攘夷主義の正しさによ...
欧米諸国を夷狄(いてき)として排斥し、伝統的な朝鮮支配...
慣例無視の外交文書
丙寅、辛未洋擾のあいだに、日本では維新政府が成立した。
不平等条約の重荷をせおって誕生した新政府は、早々に対外...
そのひとつは文明開化・富国強兵の線にそいながら条約改正...
とくに朝鮮にたいしては、当初から侵略の志向をのぞかせて...
たとえば外交通の木戸孝允(たかよし)は一八六八年(明治...
その根底にあるのは、江戸時代に醸成された朝鮮蔑視にまみ...
新政府は、王政復古を通告するための使節を朝鮮に派遣する...
その任にあたったのは以前から対朝鮮外交の窓口であった対...
六八年一二月、対馬藩家老樋口鉄四郎らが使節として釜山(...
だが彼らが持参した書契(しょけい=外交文書)に、「皇室...
朝鮮にとって、「皇」「勅」は宗主国である清国皇帝のみが...
それをあえて用いて朝鮮に迫るのは、日本が朝鮮を隷属させ...
また、署名・印章も従来とことなったものを使用しており、...
朝鮮側は、「規外」であり「違格」であるとして反発する。
その後も維新政府は朝鮮に外交使節を送り、釜山での交渉は...
このような朝鮮の措置を「無礼」「侮日(ぶにち)」と受け...
アジア朝貢(ちょうこう)体制とは
前近代のアジアには歴史的に形成された朝貢体制があった。...
李氏朝鮮(一三九一~一九一〇年)はその典型であり、清国...
宗属関係という。
しかし、ここでいう朝貢体制はもっとふくらみをもった多元...
アジア的世界の国際的秩序の外交・交易原理として作用し、...
宗属というきびしい上下の縦糸と地域結合のゆるやかな横糸...
それは近代的な支配-被支配の権力関係、搾取-被搾取の経...
一八七三年(明治六)、日清修好条規の批准書交換のため清...
外交事務担当機関である総理衙門(がもん)をおとずれた副...
朝貢体制下の宗主国と藩属国との伝統的関係にもとづく見解...
その意味では、日清両国に両属していた琉球はもちろん、朝...
いま、日本政府は条約改正のために小西洋をめざして出発し...
朝貢体制を前提にして国家対等の関係を再編していくか。
それとも朝貢体制を否定してアジア的世界から離脱し、これ...
歴史的事実としては後者の道を歩んだことになるが、それが...
後述するように、欧米諸国は朝鮮との開国に際して、一方で...
西欧世界の論理をもって一方的にアジア的秩序に変革を迫る...
日本もまた。清国とのあいだに七一年九月、日清修好条規を...
これを清国側からみれば、従来の中華的秩序における「対等...
対朝鮮政策の基本姿勢
そのとき、すでに日本政府は、朝鮮にたいしては清国に向き...
一八七〇年四月、外務省から太政官(だじょうかん)あてに...
その第一の策は、「御国力充実迄(まで)」朝鮮との交際を...
第二の策は、まず皇使として木戸孝允を派遣し、王政復古通...
そして第三の策は、朝鮮「懐撫」のため、宗主国である清国...
前述の「日清修好条規」締結は、この第三の策を実行する手...
七三年七月、清国出張から帰国した副島外務卿の、清国の対...
しかし、欧米巡遊から九月一三日に帰国した右大臣岩倉具視...
岩倉に同調した参議は木戸孝允と大久保利通。結局は岩倉の...
いわゆる明治六年十月の政変である。だがこのとき、岩倉・...
政府内部の指導権争いが両派を決定的対立に追いやったので...
対朝鮮外交の一元化
これより先の一八七一年八月、廃藩置県により統一的中央集...
翌七二年九月には、釜山の草梁倭館(チョリヤンウェグァン...
のちの日本領事館である。
草梁倭館とは日本からの使客を接待するために設けられた客...
こうした新政府の外交権一元化を朝鮮政府は認めなかった。
とくに、草梁倭館の接収・整理のため、軍艦「春日」に乗り...
旧慣の礼を尊ぶ朝鮮側は、対馬藩吏以外の外交使節を「規外...
交渉再開の気運
一八七三年末、大院君にかわって高宗と王妃一族との閔(ミ...
大院君が固執してきた強列な鎖国攘夷政策はあらためられ、...
しかし、新政権が開国政策に転じたのではない。旧来の日朝...
軟化のうごきに拍車をかけたのが清国の総理衙門からもたら...
それは七四年五月の台湾事件(日本の台湾出兵)を報じ、朝...
征韓論の余燼がくすぶっていたが、日本に出兵準備の具体的...
だが、その知らせは朝鮮政府に動揺をあたえるだけの影響力...
武力衝突を避けたいのである。
七四年九月、朝鮮政情視察の命をうけて釜山の日本公館長に...
その主要点は、国書の交換を避け、大臣相当の日本外務卿-...
森山は一〇月、いったん帰国し、翌七五年二月、外務少丞・...
太政大臣と外務卿から訓令を受けた正式代表使節である。
森山理事官が携えてきた寺島外務卿の書契には、やはり「“皇...
その謄本に接した朝鮮政府は、とりあえず東莢府使の理事官...
宴享は三月三一日とされたが、森山は洋式大礼服の着用と宴...
一方的な交渉放棄
朝鮮政府が固陋(ころう)というわけにはいかない。
従来どおりの宴享、しかも今回にかぎって旧例にもとづきお...
むしろ非妥協的な態度は森山理事官の側にあった。
一八七五年四月、軍事的威嚇を背景にした交渉の必要を政府...
最後通牒にひとしい。
尊大な日本側の姿勢は朝鮮政府の反発をかったが、なおも交...
しかし、森山理事官は金継運との会見すら拒否した。
朝鮮側からすれば、森山が宴享儀礼の末節をあらそい、かん...
森山は、平和的解決を指示した外務卿訓令の趣旨にもそむい...
本書を書くうえで参考にした名著『近代日鮮関係の研究』(...
森山理事官にして、若(も)し朝鮮の政情を理解し、明治八...
朝鮮政府がさらに譲歩して外務卿書契受理の方針を決定し、...
黒田全権派遣を予告する先報使の任で釜山に来ていた広津弘...
もしここで、書契の受理を契機として外交交渉を展開し、旧...
日朝関係のスタートラインをただす最後の機会が失われた。
二 江華島事件――軍事力による開国強要 top
軍艦派遣を決定する
話を少しもどそう。
強硬派の森山理事官は、一八七五年(明治八)四月、広津副...
交渉のゆきづまりを打開するため、“軍艦一、二隻を派遣して...
寺島外務卿は、ひそかに三条太政大臣、岩倉右大臣の了承を...
出動を命ぜられた「雲揚」が釜山に入港したのは五月二五日。
つづいて「第二丁卯(ていぼう)」も入港した。
軍艦といっても「雲揚」は排水量二四五トン、「第二丁卯」...
ともに山口藩から新政府がひきついだ政府艦であった(雲揚...
予告なしの入港にたいし、東莢府は国交開始交渉中の突然の...
そのうえ観覧のため来艦した東莢府官員一八人の目のまえで...
その後「雲揚」は朝鮮東海岸を北上して試鏡道永興(ヨンフ...
「雲揚」が江華水道河口に到着したのは九月二〇日朝である。
艦長は海軍少佐井上良馨(よしか)(のちに佐世保・呉・横...
井上艦長らは江華水道河口からボートで遡上し、草芝鎮に近...
飲料水を求めるためと報告書はいうが、許可を求めることも...
これは日本政府が了解した計画的なものであった。
それは、九月三日に釜山の森山理事官らに帰国を指示し、事...
江華島・永宗島の攻撃
まず草芝鎮の砲台から砲撃が開始されたという。これで応戦...
小砲艦とはいえ、イギリス製一一〇斤・四〇斤砲を有する「...
交戦一時間半、正午におよぶと、やがて干満差のはげしい京...
黄濁した江華水道の流れがひくと、葦で覆われた岸辺が川幅...
接岸が不可能になったため、井上艦長は草芝鎮への上陸を断...
いまでも草芝鎮の城塞には、えぐられた石垣や幹を折られた...
ついで午後二時半ごろ、「雲揚」は永宗島の要塞を急襲した。
永宗島は江華島から南ヘ一〇キロ、仁川の一角をなす月尾島...
永宗鎮には六〇〇人の守兵がいたが、不意の砲撃に周章狼狽...
井上艦長は二二人の将兵に上陸を命じ、城内の建物・民家を...
遺棄死体三五、俘虜一六人。のこされていた銃砲などの兵器...
日本側は二人の水兵が負傷、その一人は二二日に死亡した。...
朝鮮侵略戦争最初の戦死者だろう。
九月二八日朝、「雲揚」は長崎に帰着。
井上艦長は、「端艇を卸(おろ)し探水せし剋へ、彼より大...
条約交渉へ向けて
洋擾のばあいもそうであるが、加害者が被害者になりすまし...
朝鮮の攘夷政策を逆手にとり、挑発して事をかまえ、砲艦外...
だが日本政府は、江華島事件をひきおこして絶好の攻めの機...
その理由は、ひとつには決着ずみの征韓論を再燃させ、政府...
事件発生の報告を受信した翌二九日の御前会議は、事態の推...
出動命令をうけた「春日」は、「雲揚」や「第二丁卯」とは...
派遣の目的が朝鮮にたいする軍事的威圧であることはいうま...
一〇月三日釜山に入港した「春日」は、そのまま湾内に停泊...
釜山へ到着した中牟田は、儀仗兵をしたがえて上陸し、それ...
いんいんたる砲声は湾内に響きわたり、朝鮮官民を畏怖させ...
政府が対朝鮮政策の方針を決定したのは一一月に入ってから...
すでに前月、島津左大臣・板垣退助参議が辞職し、大久保・...
木戸孝允の意見書
一〇月五日、木戸参議は対朝鮮政策の政府決定を求める意見...
それは、“江華島事件について、まず宗主国である清国に「中...
もちろん、事件の責任といっても、それ自体が問題なのでは...
朝鮮と清国との宗属関係をたちきり、朝鮮を清国からひきは...
もし対応をあやまれば、清国の干渉、妨害はもとより、武力...
そこで、まず最初に宗主国清国に仲介を依頼するかたちをと...
政府は木戸の意見を承認し、彼の朝鮮派遣を内定した。
しかし、木戸は一一月一三日病にたおれ、使節任命を辞退し...
森有札の構想
清国との交渉のための特命全権公使には外務少輔(しよう)...
若き日、欧米に学び、維新後は駐米外交官の経験をつんだ森...
国際法に通じ、西欧風に染めあがった森の頭脳は、近代的な...
公使拝命の一八七五年一一月一四日以降、森は三回にわたっ...
そのなかで、江華島事件は「暴に対する暴を以て」生じたも...
そうではなく朝鮮を独立国として認めたうえで、朝鮮沿海の...
江華島事件の問責は交渉の「副言」にとどめ、朝鮮の開国交...
森が危惧するのは「妄(みだり)に事を起」こしたばあいの...
それは懸案の条約改正の障害にもなりかねない。
だから万国が認める「公正の条理」にもとづく「平和使節」...
これが楽観的な、西欧近代主義者森の主張だった。
不調に終わった対清交渉
森公使は一一月二四日、特務艦「高尾丸」で東京品川を出立...
北京に入京したのは年を越した一八七六(明治九)年一月五...
森はただちに行動をおこすが、協力を期待した駐清イギリス...
清国は、列強の干渉を誘いこむような、東アジアの武力衝突...
李鴻章(りこうしょう)との会見
交渉の展望をもてないまま、森公使は一月二四日、保定(パ...
五三歳の李鴻章は、二八歳の新進気鋭の森をたしなめながら...
清国の朝鮮への仲介要請についてはことばをにごして明言し...
しかし、開戦を避けたい李鴻章は、すでに一九日に総理衙門...
それにしたがって清国政府は、朝鮮国王に勧告したのである。
この勧告が日朝交渉に決定的な影響をあたえることになるが...
二月一二日、森が清国政府からうけとった公文には、朝鮮は...
対清交渉は、清国政府から対朝鮮勧告をひきだしたといえな...
明治政府は清朝間の宗属関係につよい関心をもっていた。
朝鮮は清の属国か、それとも条約締結権(外交権)をもつ独...
朝鮮を清国への服属からきりはなすためである。森公使は交...
しかし、他方で朝鮮に条約交渉に応ずるよう勧告することを...
清朝宗属関係を観念的に抹殺しても、現実の宗属関係に依存...
三 砲艦外交――“修好条規”の締結 top
黒田清隆の特派
急病の木戸にかわって特派大使(特命全権弁理大臣)になっ...
独断専行型の里田の派遣をあやぶむむきもあったが、木戸・...
三条太政大臣が黒田全権にあたえた訓令は、江華島事件の「...
実際、開戦にふみきる財政的うらづけもなかったのである。
のちに、釜山に到着した黒田が、応戦態勢強化のため二個大...
国際的非難に神経をとがらせていたのである。
もっとも開戦にそなえて、広島・熊本鎮台の出兵準備は交渉...
一八七六年(明治九)一月六日、黒田特派大使は、井上副使...
これにしたがう艦船は六隻。
これらに「警衛」として「日進」艦長伊東祐亨(ゆうこう)...
視察名目の海軍佐官二人も「高雄丸」に同乗した。のりくみ...
江華府にのりこむ
一行を乗せた艦船団は対馬に寄港したのち、一月一五日に釜...
これよりさき、日本政府は釜山の東莢府使を通じて朝鮮政府...
一月二三日、一行は釜山を出航、江華島へむかう。
朝鮮半島の西海岸沿いに北上して黄海の京畿湾の奥深く進入...
しかし、朝鮮の官民はこれを妨害しなかった。飲料水を求め...
それにひきかえ日本側の態度は高圧的だった。異国船来航の...
ただ江華島に上陸し、江華府をあずかる留守(長官)と交渉...
朝鮮政府は一月三〇日、接見大官に御営大将申憲(シンホン...
しかし二月四日、日本艦隊は問情官の制止をふりきって北進...
翌五日、森山外務権大丞は小艇二隻で江華水道を北上して甲...
同夜、尹滋承接見副官と予備交渉を開始した。
尹滋承は、江華府における本交渉開始を避け、接見大官・副...
しかし森山はこれをしりぞけ、交渉は江華府の役所内でおこ...
二月八日、森山は尹滋承に、黒田特派大使が一〇日上陸し、...
条約交渉の開始
一八七六年二月一〇日午後三時ごろ、黒田特派大使らは江華...
気温は三度、薄日のもれる寒い日だった。
翌二月一一日。この日は七三年から施行された紀元節にあた...
交渉開始直前の正午に、停泊艦はいっせいに礼砲を放った。
つまりは示威である。
午後一時、江華府武人の訓練場である錬武堂で第一回会談が...
冒頭、黒田特派大使は日本政府の修好申し入れに対する朝鮮...
接見大官は日朝間のくいちがいを釈明したうえ、永宗島にた...
また、黒田は接見大官・副官への国王の全権委任の有無をた...
朝鮮には前例がなく、近代国家間の条約締結に必要な全権委...
そればかりか締結すべき条約そのものの必要性さえ認めなか...
国交再開を中断していた交隣関係の修復と考える朝鮮にとっ...
それとは反対に、近代国際法にもとづく条約形式とその締結...
黒田が強要した、接見大官・副官への国王の全権付与は二月...
二月一二日の第二回会談で、日本側は条約案と批准書案を提...
期限は一〇日間である。同日、済物浦へ来航した補給船「品...
条約交渉の展開
日本側が提示した条約案を朝鮮政府は甘受したわけではない...
二月一九・二〇日に接見大官と主席随員の宮本小一外務大丞...
原案前文には、「大日本国皇帝陛下」に対する「朝鮮国王殿...
朝鮮側は、これでは対等の礼を欠くとして「大」字と尊号削...
協議のすえ、尊号をとり、両国号に「大」字を付すことで合...
日本政府が細心の注意をはらい、かつて清国にも問い合わせ...
ただし、日本側が、朝鮮国は国際法王の主体として外交権を...
このズレが日清戦争にいたる日朝清関係のすきまを広げるこ...
そのほか、日本人集住地域(居留地)設置(第四款)、遭難...
問題があったのは日本使節(公使)の京城(漢城)常駐(第...
このうち開港は具体的な地名を特定するにいたらず、たんに...
また、最恵国待遇については、朝鮮政府が“将来他国と条約を...
ちなみに最恵国待遇が規定されるのは、朝鮮が清・アメリカ...
朝鮮側が公使の首都常駐を拒否した理由は、“江戸時代の通信...
日本の最大目標は、旧来の交隣関係を条約にもとづく国家間...
それゆえ、個別条項の不一致で交渉が不調に終わることを避...
帰国後の黒田・井上両全権の復命書でも、「和好の大局」の...
また、細目については調印六ヵ月以内に再度協議し、決定す...
批准書の親署問題
一九日の会談ではげしく意見が対立したのは、批准書の形式...
日本側は、国王の親署と玉璽捺印を要求した。
これにたいし、朝鮮側は、国法に国王親署の規定がないとし...
二〇日夜、再開された第四回会談に出席した黒田全権は、批...
しかし、接見大官・副官ともに“臣下が国王に署名を乞うこと...
批准書が国家元首の署名捺印を必要とすることは一般的にい...
清国では批准書に「大清国大皇帝」と記し、玉璽を押すだけ...
それにもかかわらず、なぜ黒田は固執したのか。
伝統にこだわる朝鮮の外交手法を近代的条約形式と国際法的...
二二日、黒田は江華府から撤収することを通告した。
交渉決裂を意味する。だが、これはポーズにすぎない。
接見大官の要請をいれて、黒田はなお五日間停泊艦で待機す...
軍事力をちらつかせながら危機状況をつくりだし、我意を通...
接見大官と宮本との協議が急速にすすみ、
①剛国王親署をおこなわず、「為政以徳」の印章にかえて「朝...
②批准書交付は条約調印と同時におこなうこと、
③江華島事件にたいして謝意を示す「叙事冊子」(覚書)を作...
修好条約の調印
条約書を国王が裁可し、その調印式は二月二七日ときまった。
急遽、本艦から江華府へもどった里田全権゜井上副全権は、...
つづいて朝鮮国王の批准書と朝鮮国「叙事冊子」が黒田全権...
批准書には「大朝鮮国主上」と記され、「大朝鮮国主上之宝...
日本天皇の批准は三月二二日。このとき、「修好条規」が発...
調印後、双方から贈答品目録が交換された。
朝鮮国王へは弾薬二〇〇〇発をつけた回転砲一門のほか紅白...
接見大官以下随員、江華府官員へそれぞれ刀・短銃・絹・史...
また、朝鮮側からも儒書・布帛(ふはく=織物)・虎皮など...
朝鮮国王へ贈った回転砲は、前日の試射で八〇発中六〇発余...
日本の軍事力を誇示したのであるが、調印を終えて黒田全権...
西洋製ならば献上品として不適当である。
だが、おそらく輸入砲だったのであろう、砲には横文字が刻...
答えに窮した野村は、よくはわがらぬが、と前置きしながら...
二月一一日にはじまった「日朝修好条規」交渉は、こうして...
近代朝鮮の悲劇の幕明けであるが、調印の二七日の天気は皮...
交渉にあけくれた二週間が季節を変え、春をふくんだ微風が...
「雲一、風一、寒暖計五〇度(華氏)、晴雨計三〇四五」と...
四 解釈をめぐる対立
修好条規付録をめぐって
さきに調印された「日朝修好条規」は、あたらしい日朝関係...
そのひとつが「日朝修好条規付録」の協定であり、もうひと...
日本側の交渉委員には理事官として外務大丞宮本小一が任じ...
以下、八人の外務省官吏が随行することになった。
一行を乗せた軍艦「浅間」は、対馬厳原(いずはら)・釜山...
これより宮本理事官らは小艇に乗りかえて江華水道に入り、...
八月一日、大礼服を着用した宮本理事官は、はじめて朝鮮国...
交渉は当初から難航した。
日本側が提起した「公使の漢城駐在」「家族同伴」「公使館...
修好条約による国交成立を旧来の交隣関係の復活・修正と考...
宮本理事官の国際的外交慣例と外交官職務の意義の説明にも...
清国の使臣にも前例がなく、通商に関する交渉は開港場の管...
はてしない応酬のすえ、宮本理事官はこの問題をとりさげざ...
日本公使の首都駐在問題は、その後も尾を引いた。
一八七七年九月、“代理”公使花房義質の朝鮮「差遣」(駐在...
したがって花房の宿所であった漢城西大門(ソデムン)外の...
要するに、朝鮮政府はアジア朝貢体制下の日朝交隣関係の維...
このため、三〇〇年の歴史をもつ草梁倭館の日本人専住区域...
しかし、あらたに日本側の地代あるいは地租負担を明記する...
居留地では広範な自治権が認められ、それが領事裁判権とむ...
それはともかく、修好条規付録交渉で問題となったのは、居...
日本側は日本里程で一〇里四方とし、その区域内における商...
これにたいし朝鮮側はつよく拒否し、朝鮮里程で一〇里(日...
日本の商人資本の国内侵入、日本人との抗争を危惧したため...
遊歩区域問題は調印前日にあたる八月二三日の第一一回会談...
だが、交渉結果は日本の要求どおりにはいかなかったとはい...
貿易規則をめぐる問題
修好条約付録の交渉にひきかえ、貿易章程である「朝鮮国議...
当初から朝鮮側が日本側提示案の大要を簡単に受け入れたが...
たとえば、貿易規制品とした米穀について朝鮮側が、“例外と...
帰国後、宮本は報告書のなかで、「[朝鮮側は]各港居留の...
あるいは、三条太政大臣が与えた指示で「通商章程中の要旨...
そのうえで宮本は、貿易規則調印と同時に趙寅煕あてに送っ...
貿易規則を修好条約付録に比して「小事と認」めた朝鮮政府...
たしかに一八七六年当時の貿易額は少なかったが、修好条約...
たまりかねた朝鮮政府は、輸出入品の国内課税をこころみた...
朝鮮が日本との輸出人品に課税するのは、後述する一八八三...
第二章 “軍乱”とクーデター
一 不平等条約体制の成立
二 壬午軍乱――清国の影響力が強まる
三 甲申政変――内政干渉のクーデター
四 宗属関係の変質と朝鮮の抵抗
一 不平等条約体制の成立 top
「日朝修好条規」は、まぎれもなく不平等条約であり、朝鮮...
しかし、条約締結をもって、ただちにアジア朝貢体制の東の...
むしろ、日本の性急な国権外交政策は、長い伝統がはめこま...
たとえば、外交代表の首都漢城への常駐は拒否されたし、釜...
日本の朝鮮侵略の橋頭堡となる居留地設置さえも、国内通商...
「日朝修好条規」は鎖国朝鮮の重い扉をこじあけたとはいえ...
朝鮮政府が認めたのは、旧来のアジア朝貢体制に決定的な亀...
このような状況が反転し、不平等条約が実効化されるのは一...
それには日本の実力による再挑戦というよりも、欧米列国の...
朝鮮にたいする各国不平等条約が体制として成立するなかで...
1880(明治13、高宗17)年 4月、花房義質、弁理公使となる。...
1881(明治14、高宗18)年 1月、朝鮮統理機務衛門設置。2月...
1882(明治15、高宗19)年 3月、金玉均来日(8月まで滞在)...
1883(明治16、高宗20)年 6月、金玉均来日、借款を求めるが...
1884(明治17、高宗21)年 6月、朝伊修好通商条約調印。7月...
1885(明治18、高宗22)年 1月、漢城条約調印。竹添公使召還...
1886(明治19、高宗23)年 6月、朝仏修好通商条約調印。
1889(明治22、高宗26)年 2月、大日本帝国憲法公布。5月、...
1890(明治23、高宗27)年 3月、黄海道で防穀令施行。11月、...
アメリカの朝鮮接近
アメリカの朝鮮進出の野望は、辛未洋擾(シンミヤンヨ)の...
アメリカは当初、朝鮮の唯一の条約締結国である目本の仲介...
これは修好条規さえまだ思うとおりには実体化できないでい...
通商独占の野心があったからである。
アメリカの要請にたいし積極的な対応をしなかった。
一八八〇年(明治二一)五月、釜山(プサン)へ入港したシ...
シュウフェルトが天津に着いたのは八月二五日。
以後、李鴻章とのあいたに朝米通商条約の実質的な締結交渉...
李鴻章の朝鮮開国政策
李鴻章がシュウフェルトの要請にすぐ応じたのは、すでに朝...
それは、朝鮮と東三省(中国東北部の奉天省・吉林省・黒竜...
朝鮮の危急はすなわち清国の危急ととらえる、自国本位の戦...
ロシアとは八〇年春以降、イリ紛争(中国新疆省西北のイリ...
開戦となれば、ロシアは清国防衛の前線である東三省・朝鮮...
一方、日本は一八七九年、沖縄県設置(琉球処分)を強行し...
日清両属の歴史を有する琉球の日本への併合は、中華的アジ...
日本の矛先がつぎには朝鮮にむけられるのは必至とみられた。
清国政府は李鴻章に、朝鮮政府にたいして開国するよう説得...
李鴻章が数年来交友関係にあった朝鮮保守派の重鎮李裕元(...
少し長いが、李鴻章の考えが明確に示されているので引用し...
貴国は既に已(や)むを得ずして、日本と通商条約を締結し...
只今(ただいま)之を計るに、宜(よろ)しく敵を以て敵を...
彼の日本は其(その)詐力を恃(たのみ)み、四隣を蚕食鯨...
然して日本の畏(おそ)るる所は西洋人にして、朝鮮の力を...
また、ロシアについてもこういう。
露国の拠れる樺太(サハリン)・綏芬河(スイフェン河)・...
「敵を以て敵を制する(以夷制夷)」、この李鴻章戦略の手...
そのるつぼのなかで朝鮮は従属の苦しみを受けなければなら...
朝鮮開国論の形成
一八八〇年八月、二回目の修信使が来日した。
修信使とは修好条規第二款により、朝鮮が日本に派遣する使...
このときの修信使は礼曹参議金弘集(キムホンジブ)で、の...
東京滞在中に彼は、駐日清国公使何如璋(かじょしょう)、...
何如璋は黄遵憲に指示して「朝鮮策略」を書かせ、金弘集に...
その要点は、ロシアの侵略を防ぐため、朝鮮が“中国と親しみ...
つまり李鴻章の方針が、対ロシア対策を増幅させながら、駐...
「朝鮮策略」を持ち帰った金弘集が国王に奏上した防露・開...
これにより李鴻章は、朝鮮政府にかわって対米条約交渉をお...
だが、これはそれまでたびたび表明してきた「属国自主」の...
「自主」のたてまえを保ちつつ、実質的な介入にふみ出した...
八二年一月には、天津へ来た朝鮮代表使節が、李鴻章に交渉...
アメリカとの修好通商条約締結
一八八一年七月、シュウフェルトと第二回会談をおこなった...
馬建忠はフランス留学の経験をもち、国際法に通じ、李鴻章...
李鴻章は馬建忠草案などをもとに最終案を作成したが、彼が...
伝統的宗属関係の明記である。
だが八二年三月二五日から天津でおこなわれた第三回会談で...
結局、条約とは別に、つぎのような朝鮮国王のアメリカ大絖...
朝鮮はもともと中国の属邦ではあるが、内治、外交は従来す...
大朝鮮国が中国の属国であり、その従属関係の結果として、...
条約には、暫定的ながら領事裁判権の容認、仁川(インチョ...
しかし、関税については朝鮮の自主権を原則としたうえで、...
こうして「朝米修好通商条約」は五月二二日仁川で調印され...
調印者は全権大臣申樓(シンホン)、全権副官金弘集とシュ...
調印日は「大朝鮮国開国四百九十一年」(李朝の建国暦)と...
李鴻章は、欧米諸国との朝鮮開国にあたって、「日朝修好条...
李鴻章は皇帝への上奏文のなかで、「朝鮮に駐剳(ちゅうさ...
朝米条約についで六月六日、馬建忠の仲介で朝鮮とイギリス...
イギリスの調印者は極東艦隊司令官のウィルズ中将。
駐清ドイツ公使ブラントが六月三〇日に調印した「朝独修好...
不平等条約体制の成立
だが、ウィルズが調印した「朝英仁川条約」をイギリス政府...
ドイツでもブラント調印の「朝独修好通商条約」の批准は拒...
駐日イギリス公使として東京にいたパークスもひどく不満だ...
パークスは一八六五年(慶応元)、オールコックの後任公使...
八三年九月に駐清公使に転じたパークスは、一〇月、横浜駐...
それぞれ、本国政府から条約再交渉の命をうけた全権委員と...
朝鮮側の全権大臣は督弁交渉事務閔泳穆(ミンヨンモク)で...
彼は壬午軍乱(次節参照)のあと、李鴻章の推薦で朝鮮政府...
一一月二六日に調印された「朝英修好通商条約」(京城条約...
朝鮮政府は日本と「日朝修好条規続約」「朝鮮国に於て日本...
パークスが「イギリスの東アジア諸国とむすぶ条約のモデル...
以後、各国との修好通商条約がこれにならう。
ロシア(一八八四年)、イタリア(一八八四年)、そしてフ...
アメリカと日本も、最恵国待遇により、朝英・朝独条約が朝...
ここに朝鮮をめぐる列国の不平等条約体制が成立した。
李鴻章が意図した、朝米条約基準の朝鮮開国政策は失敗した...
しかし、パークスはアジア朝貢体制-清朝宗属関係にはまっ...
朝英条約調印の日付けに「大朝鮮国開国四百九十二年、即中...
他国のばあいも同様である。
また、イギリスは外交代表(公使)の首都駐在を条約に明記...
宗属関係に敬意を表したため、といわれている。
駐清公使で駐朝公使を兼ねたワルシャムは、八七年二月、駐...
清朝宗属関係をイギリスは承認していたのである。
実は、この不平等条約体制が成立するまえに、朝鮮国内では...
壬午(じんご)軍乱である。
二 壬午軍乱――清国の影響力が強まる top
朝鮮の内部葛藤
開国の衝撃を受けた清朝宗属関係のあり方をめぐって、朝鮮...
大ざっぱに分類すると、つぎの三派になる。
第一は、清朝宗属関係の維持に重きをおき、事大(大国に事...
彼らは、日本や欧米諸国との国交も、アジア朝貢体制の部分...
第二は、現実に進行しつつある、日本をふくむ欧米列強によ...
第三は、以上の二派の中間に位置する穏健派で、清朝宗属関...
彼らは、国際情勢のめまぐるしい変化にふりまわされる一方...
軍乱と大院君の政権復帰
一八八二年(明治一五、壬午の年)七月二三日、漢城で兵士...
ことのおこりは、兵士にたいする給米の不正支給である。閔...
それがこの事件を契機として爆発したのだった。
この暴動を失脚中の大院君が利用し、閔氏政権の転覆を企て...
いきおいづいた旧軍兵士たちは、まず兵器庫を破って武器を...
前年五月創設された新式軍隊(別技軍)の教官堀本礼造少尉...
日本公使館が、一般民衆もくわわって数千にふくれあがった...
投石・銃撃・放火のため防衛不能と判断した花房義質(よし...
しかし軍乱のしらせが到着すると、仁川府を守る朝鮮兵から...
二四日は早朝から反乱の軍民が昌徳宮(チャンドククン)に...
昌徳宮は李朝第三代王の太宗(テジョン)が一四〇五年に造...
その亭々(じょうじょう)とそびえる老木の下で、軍乱の原...
国王高宗(コジョン)は、やむなく大院君を昌徳宮に迎え、...
王妃(閔妃=ミンピ)は王宮を脱して忠清北道忠州(チュン...
壬午軍乱・甲信申政変の舞台となった昌徳宮の昌徳宮(ソウル)
日本政府の対応
花房公使は仁川沖でイギリス測量艦に収容され、同艦で七月...
政府はとりあえず事実経過の調査、謝罪・賠償要求のため花...
朝鮮政府との交渉を命ぜられた花房公使にあたえられた訓令...
①朝鮮政府の公式謝罪、
②被害者遺族への扶助料支給、
③犯人および責任者処罰、
④損害賠償、
⑤朝鮮軍による公使館警備、
⑥朝鮮政府に重大責任あるばあいは巨済島(コジェド)または...
⑦朝鮮政府が誠意を示さないばあいは仁川を占領し後命を待つ...
⑧咸興(ハムフン)・大邱(テダ)・楊花津(ヤンファジン)...
⑨外交使節の内地旅行権、
⑩通商条約上の権益拡大、などが追加された。
そして、陸軍は熊本鎮台の一個大隊派遣、海軍は軍艦四隻、...
迅速な対応をはかったのは、事件の重大性のためというより...
八月五日、駐日清国公使は、清国政府の派兵をともなう調停...
これにたいし外務卿代理吉田清成は、再三、「自主の国」朝...
政府法律顧問のボアソナードも、“日本は朝鮮を独立国と認め...
工部省汽船「明治丸」で済物浦(チェムルポ)に入港した花...
先遣の近藤真鋤(しんすけ)書記官らと陸軍兵三〇〇人を輸...
この軍事力を背景に、花房は、軍乱で破壊されたままの漢城...
二〇日、花房は二個中隊を率いて昌徳宮にむかい、王宮内で...
このとき、日本政府の要求七項目を記した冊子を領議政洪淳...
朝鮮政府は日本の過大な要求に回答をためらったのであろう...
花房は約束違反をとがめ、二三日には護衛兵を率いて漢城を...
仁川に滞在した花房は、清国政府から急派されて漢城に到着...
馬建忠の干渉
清国政府が軍乱発生のしらせを最初にえたのは、八月一日、...
李鴻章は生母の死去服喪中だったので、かわって北洋大臣代...
ふたりは、事件が国王高宗の開国政策に反対する勢力のクー...
張樹声はただちに北洋水師提督の丁汝昌(ていじょしょう)...
八月七日に「派兵して保護すべし」という光緒帝の命令が下...
藩属国の朝鮮の保護だけでなく、朝鮮で被害をうけた日本を...
丁汝昌の率いる「威遠」「超勇」「揚威」の三隻の軍艦は、...
上陸した馬建忠は、情報収集にあたるとともに日朝の要人と...
また、事態の展開に軍事的に対処するため、兵員の増派を上...
呉長慶提督が三〇〇〇人の兵を率い、三隻の軍艦に守られて...
これにより日本軍にまさる兵力配置をととのえた馬建忠は、...
二四日には仁川の花房全権をおとずれ意見交換。二五日の再...
このとき、ふたりのあいだで大院君排斥問題が話されたかど...
翌二六日、大院君拉致事件がおこる。
大院君排斥・国王復権の基本方針は張樹声の指示によるもの...
王宮はじめ城門を清国軍兵が固め、おびき出した大院君を捕...
“清国皇帝が冊封した朝鮮国王をしりぞけて政権をとるのは、...
高宗・閔氏政権は復活し、閔妃は忠州からにぎにぎしく迎え...
済物浦条約と修好条規続約
復権した高宗・閔氏政権は、外交面ではまったく馬建忠に依...
馬建忠は、先に日本側が提示した要求項目について、受諾す...
朝鮮側の全権大臣李裕元、副官金弘集らが、済物浦に停泊す...
交渉は同夜と翌二九日に集中的におこなわれ、三〇日にはは...
交渉案件が短時間で決着したのは、馬建忠が事前に朝鮮側に...
軍乱の犯人・責任者処罰、日本人官吏被害者の慰霊、被害遺...
また、日本側が要求した開港場遊歩地域の拡大(内地通商権...
朝鮮側かもっともつよく反対したのは、賠償金五〇万円と公...
しかし、花房は強引につきはなし、文言の修正と但し書きの...
こうした交渉結果はふたつの条約にまとめられ、三〇日に調...
ひとつは、壬午軍乱の善後処置としての「済物浦条約」、も...
前者は批准を要さなかったが、後者は修好条規の一部をなす...
批准書交換は三一日、謝罪特使として来日し、東京滞在中の...
清国宗主権の強化
「済物浦条約」調印直後の九月二日、花房全権は「大満足に...
しかし、それは花房の外交手腕によるのではなく、宗主権を...
「大満足」の成果は、日本政府が嫌ったはずの清国の介入に...
結果的には清朝宗属関係の頑強な存在をあらためて印象づけ...
朝鮮側の譲歩による条約締結は、この年五~六月にアメリカ...
その穴埋めのためには、日本にまさる力による清国の朝鮮従...
彼らは、そのとき、この新方針を胸にたたみこんだに違いな...
それを実現する機会が眼前にあるのだ。
九月一三日、光緒帝は大院君の保定(中国河北省)拘留と呉...
もともと宗属関係は藩属国の内治外交に干渉しない原則であ...
変質である。
清国にすがって国を守ろうとする閔氏政権の親清政策もこれ...
一八八二年一〇月、軍乱後の政策について李鴻章の指導を請...
これにより一二月、趙寧夏の帰国(趙は弁理統理衙門事務と...
馬建常は馬建忠の兄で、ヨーロッパに留学しており、神戸大...
ドイツ人ノレンドルフは、六九年に清国へ来て(当時二一歳...
メレンドルフは参議統理倚門事務として迎えられた。
ふたりは一二月二七日、高宗に謁見した。
メレンドルフは朝鮮国王が召見した最初のヨーロッパ人であ...
軍隊養成と軍制改革を依頼された呉長慶は、そのころめきめ...
一年半後には彼のもとで養成された二〇〇〇人を擁する新式...
こうして宗主国清国は藩属国朝鮮の外交・軍事に深く介入す...
「水陸貿易章程」の調印
「済物浦条約」調印直後の一八八二年一〇月四日、「中国朝...
清朝間にむすばれた近代的形式をぶんだ最初の条約である。
だが、その前文で、「朝鮮は久しく藩封に列す。典礼の関す...
また、「此次訂する所の水陸貿易章程は、中国の属邦を優待...
つまり朝鮮あるいは清国と通商条約をむすんでいる諸外国は...
したがって章程の「属邦優待」とは、清国が朝鮮貿易上の特...
貿易章程はまず、相互に商務委員を派遣(ただし清国の商務...
名目は自国商人の管理であるが、清国商務委員は朝鮮の通商...
このほか章程は、両国の「商民貿易」を建前としながら、朝...
桟とは倉庫業・運送業・問屋業を兼営する店舗の営業権であ...
これは、それまでに朝鮮が外国とむすんだ通商条約にはない...
領事裁判権に相当する商務委員の裁判管轄権は、清国側にの...
要するに章程は、宗属関係をたてに、清国の朝鮮貿易独占、...
朝鮮経済を外国にたいしてはひらかずに、両国間だけの「商...
清国商人を朝鮮国内にひきいれることによって、日本や欧米...
しかしそれは、もはや理念的な伝統的宗属関係とは異質のも...
清朝宗属関係の特殊性の強調とはうらはらに、内容は近代的...
三 甲申政変――内政干渉のクーデター top
金玉均(キムオクキュン)という人物
金玉均が壬午軍乱を知ったのは、彼が最初の訪日(一八八二...
開化派を代表するひとりである彼は、大院君と敵対する立場...
そのとき大院君拉致のしらせを聞いたのである。
訪日で深く印象づけられた日本の「近代」を背にしてこの事...
国王の実父を連行し、外国に拘禁するとは許しがたい国辱で...
それを宗主権というのなら、近代化のために宗属関係から離...
金玉均は、近代的技術導入・軍事力強化のための洋務開化論...
朴圭寿は一八七七年に没したので八〇年代の指導者とはなら...
清国との関係を保持しつつ「近代」への軟着陸を志向した穏...
こうした若手開化派にたいする国王の信頼も厚く、彼らは外...
壬午軍乱の謝罪をかねた修信使朴泳孝・金晩植・徐光範一行...
天皇に謁見した朴泳孝らは、政府高官とも接触し、朝鮮独立...
朝鮮の自主独立を標榜してきた日本としては進出の好機では...
だが、軍乱後の朝鮮は清国の大軍の制圧下にあった。政府内...
閣議は対清開戦につながりかねない積極的援助論をしりぞけ...
折衷論である。
償金支払い年限の緩和、横浜正金銀行から一七万円の借款供...
朴泳孝が一二月に帰国したのちも、金玉均は東京にとどまり...
日本側の対朝鮮策の不統一、さまざまな思惑のなかから、金...
クーデター計画
八三年六月、金玉均は三回目の訪日の途についた。
前回の訪日時に会見した日本政府高官らは、朝鮮国王の委任...
留学生尹致昊(ユンチホ)の帰国にあたっても、大蔵大輔吉...
だが、国王からあたえられた三〇〇万円の国債借り入れの委...
いまやふり向こうともしないのである。
三〇〇万円といえば朝鮮財政一ヵ年分に匹敵する巨額である。
財政を監督するメレンドルフの妨害工作もあったが、日本政...
日本についでフランス・アメリカからの借款工作にも失敗し...
彼が“非常手段に訴えても”と思いをめぐらすようになったの...
彼は第一回訪日以来、福沢諭吉と密接な交流があり、福沢も...
彼は福沢のすすめで自由党の後藤象二郎にも会った。彼は金...
この退潮期民権運動の指導者は、あやしい目配りを朝鮮半島...
八四年五月、帰国した金玉均の目に映った朝鮮は、以前にも...
開化派の同志たちの活動の場はせばめられている。
越南(ベトナム)問題をめぐる清国とフランスとの緊張の高...
しかし、越南における清国の劣勢が権威をゆさぶる。
清国の朝鮮駐留軍の半数が移駐したことも頭上にのしかかる...
日本も、清国勢力の後退を喜んだ。壬午軍乱以後、無為に過...
井上外務卿は帰国中の弁理公使竹添進一郎に因果をふくめ、...
竹添は軍乱賠償金残金の返還解消を申し出るなどして国王の...
クーデターの強行
クーデター実行計画は粗末に過ぎる。粗い計画の布目からこ...
クーデターに動員できる軍事力はといえば、公使館警備の仙...
これをもって、半減したとはいえ一五〇〇人の兵力をもつ清...
清国の武力干渉を抑止するにいたっては無力にひとしい。
決行日は一二月四日と決定した。
この日の夜ひらかれる郵征局(中央郵便局)開局祝賀晩餐会...
襲撃用の武器は、福沢諭吉の弟子で、漢城でハングル新聞『...
しかし、放火などに失敗したため、金玉均・朴泳孝らは王宮...
あらかじめ待機していた竹添公使と日本軍はただちにこれに...
国王の安否を気づかって景祐宮にかけつけだ守旧派の重臣、...
いずれも殺害者リストにあがっていた人物だった。
1884年開局の郵征局(ソウル)
五日、開化派は新政権の樹立を宣言。新政府の中核には右議...
同日夕、国王は昌徳宮へ還宮。新政府、が夜を徹して作成し...
敗北と逃亡
開化派クーデターに対し、清国軍は出動をひかえていた。
朝鮮国王が日本公使の保護を命じていたことと、日清衝突に...
清国軍を統轄する統領呉兆有(ごちょうゆう)は、袁世凱ら...
王宮護衛の任についていたはずの政府軍兵士の多くもこれに...
戦闘開始は午後三時ごろ。広大な昌徳宮を防衛するにはあま...
包囲の環がせばめられるなかで、国王と閔妃らは逃げまどっ...
国王を奉じて避難する、という金玉均らの提案は国王が拒否...
竹添公使と日本軍は昌徳宮裏門から脱出して、七時半ごろ公...
朴泳孝・金玉均ら九人も行動をともにしたが、洪英植・朴泳...
竹添らの公使館帰着まえに、市中は混乱状態におちいり、暴...
その数は二九人、うち女性一人をふくむ。
居留民保護を放棄した竹添公使の責任でもある。
この年七月新築落成したばかりの、校洞(キョドン)の公使...
もはや公使館維持を不可能とみた竹添は、七日午後、公使館...
西大門をぬけ、郊外の麻浦から漢江を下った。
降雪のなか、凍える夜を送った一行が仁川領事館に着いたの...
ここで一行は停泊中の「千歳丸」に収容され、日本に帰還す...
主謀者と自分との連繋があきらかになることをおそれたので...
彼らがひそかに乗船できたのは船長辻覚三郎の義侠による。
しかし、日本へ着いた亡命者に対する日本政府の態度は冷た...
関与を否定し通す
甲申政変は、日本の国家権力が朝鮮の内政に干渉し、しかも...
それにもかかわらず日本政府は、“竹添公使が金玉均らと通謀...
これが牽強附会の論理であることは、当の日本政府が熟知し...
一八八四年一二月三〇日、軍艦三隻・護衛兵二個大隊をとも...
交渉は井上全権大使、随員の井上毅(こわし)参事院議官ら...
「漢城条約」(「明治十七年京城暴徒事変ニ関スル日韓善後...
条約は、朝鮮が日本に公式謝罪し、被害者遺族の救恤と財産...
調印後のことであるが、井上は、近藤真鋤駐朝臨時代理公使...
日朝間の事後処理は、こうして真相究明と責任問題をたなあ...
朝鮮問題とくに駐兵について、朝鮮ぬきで日清両国が協定す...
三条太政大臣が井上にあてた内訓には、日清両国軍の朝鮮撤...
清国政府は、事件のしらせを受けると、宗主国として藩属国...
呉大澂は八五年一月一日、随員四〇人、護衛兵二五〇人を率...
しかし、撤兵問題について井上全権は、清国との交渉を避け...
「天津条約」による撤兵
参議・宮内卿伊藤博文を特派全権大使とし、参議・農商務卿...
徳宗皇帝(光緒帝)への謁見はできなかったが、国書を奉呈...
井上外務卿が伊藤全権に指示した訓令(二月二五日)による...
前者は清国軍がとった行動の不当を問うもので、容易に承諾...
共同撤兵といえば相互対等にきこえるが、日本側が公使館警...
駐清公使榎本武揚は、後者について、将来、緊急時の出兵権...
伊藤-李鴻章交渉は四月一五日まで六回にわたっておこなわ...
事件参加の清国軍の行動責任について清国側は、逆に竹添公...
結局は条約とは別に、李鴻章が、清国兵の居留日本人にたい...
かろうじて伊藤は面目をたもった。
共同撤兵については、清国の兵力配置上の都合もあり、イギ...
しかし、非常時の臨時出兵については、李鴻章は宗主国の本...
榎本公使の予想どおりである。
結局、四月一八日調印の「天津条約」に、つぎのような一項...
将来、朝鮮国若(も)し変乱重大の事件ありて、日中両国或...
其の事定まるに於ては仍即(すなわ)ち撤回し、再(ふた)...
日清両国は、朝鮮への派兵にあたって互いに「行文知照」、...
のちの日清開戦直前の九四年六月七日、清国政府が派兵の公...
「天津条約」締結にあたった伊藤への全権委任状には「批准...
五月二一日天皇批准。日清両国軍の漢城撤収はともに七月で...
四 宗属関係の変質と朝鮮の抵抗 top
属国から保護国へ
朝鮮へ出兵の「行文知照」を規定した「天津条約」について...
しかし、「天津条約」後の清国は、朝鮮にたいする干渉を緩...
むしろ、内政外交不干渉の宗属原理をかなぐり捨てたかのよ...
たとえばつぎの一例は、従来の清朝関係にはなかったもので...
一八八五年一〇月、清国は朝鮮派遣の商務委員陳樹棠を更迭...
このとき、李鴻章は諸外国の例にならって外務担当の総理衙...
三年まえ、馬建常とメレッドルフが政府顧問に就任したのは...
今回はそれとは異なり、清国政府が任命した袁世凱が、総理...
朝鮮はなお形式的には国際法上の主体として外交権を保持す...
八七年におきた朝鮮の公使派遣にたいする清国の干渉も、朝...
この年六月、朝鮮政府は、修好条約締結後の最初の派遣公使...
これにたいし清国は、公使派遣にあたっては清国皇帝の承認...
また、李鴻章は朝鮮の派遣公使は三等(代理)公使とするこ...
公使には全権・弁理・代理の三種類があり、三等の代理公使...
これにより宗主国清国派遣の公使と藩属国朝鮮派遣の公使と...
近代的国際関係とは別次元の宗属関係は、条約による規定が...
清国が根拠として宗属関係を強調すればするほど、本来の理...
清国のはたした役割
朝鮮にたいする清国の宗主権強化について、介入の正当性を...
しかも、柬アジアの秩序維持に清国がはたす役割は認めざる...
一八八五年四月、イギリスは朝鮮半島と済州島(チェジュド...
アフガンでイギリスと緊迫した関係にあったロシアの太平洋...
もし、イギリスとロシアのあいだに戦争がおこれば、巨文島...
この事件について八六年、李鴻章は駐清ロシア公使との交渉...
ここでは、アジアの国際調停機関として宗主権が有効に機能...
その間に日本は、清国にたいして日清両国による朝鮮の共同...
八五年六月に井上外務卿が駐日清国公使徐承祖(じょしょう...
ただし実施にあたっては井上が李鴻章と協議する、という規...
日清提携によってロシア勢力の朝鮮への進出をはばもうとい...
李鴻章が日本政府の提案を拒否したのはいうまでもない。朝...
対朝鮮政策の手がかりを失った井上外務卿は「自然の成行を...
「引俄反清」策の登場
支配と抑圧の体系と化した宗属関係は、藩属国の抵抗をよび...
清国の支配から離脱して朝鮮自主化をめざす方向の模索がは...
つぎつぎに国家主権が蚕食(さんしょく)されていく朝鮮の...
計画は国王とメレンドルフとのあいだだけで進められた。
一八八五年二月、甲申政変謝罪の遣日使節の全権副官として...
スペエルは甲申政変直後にも来朝し、国王に謁見、メレンド...
軍事教官の傭聘はたんに軍隊教育の問題ではない。軍事権へ...
あたらしい朝露関係の展開を意味するロシア軍人傭聘案を朝...
はじめて計画をしらされた朝鮮政府は、すでに国王の承認が...
清国は同年九月、保定府に幽閉していた大院君の赦免を決定...
清国から離反しようとする朝鮮国王に対して、政敵である大...
しかし、抑圧によってロシアに通ずる道を遮断することはで...
「朝露修好通商条約」(八四年七月調印)が批准(八五年一...
「引俄反清」とよばれる朝鮮の政策は、朝鮮が清国や日本と...
「俄」は俄羅斯(オロス)の略、つまりロシアをさす。
そのための秘密交渉は八六年八月ごろまで続けられたが、動...
袁世凱の問責に窮した朝鮮国王・政府は、ウェーバー公使に...
李鴻章は軍艦派遣の威迫を背景に、朝鮮の政情調査とロシア...
しかし、清国との正面衝突を望まないロシアは、密約の事実...
こうして朝鮮のロシア接近政策は封じこめられ、国王にもま...
日本の対清軍拡張論
清国の朝鮮保護国化政策によって、日本の朝鮮進出の野望は...
壬午軍乱後にえた通商権益の拡大も、いわば清国の承認あっ...
清朝宗属関係を観念的に抹殺したとしても、現実の、アジア...
やや後のことだが、八九年以降、朝鮮で凶作のため施行した...
いわゆる防穀令事件である。
防穀令発令一ヵ月まえに日本領事に予告して施行する、とい...
賠償請求交渉は難航し、九三年五月には大石駐朝公使が最後...
現実の外交面では、日本も朝鮮における清国の指導的立場を...
その一方で、壬午軍乱を契機として、日本は陸海軍大拡張に...
しかしそれは、将来おこりうる日清軍事対決に備えてのこと...
福沢諭吉が主宰する『時事新報』などがあおり立てて国内に...
一八八二年一〇月、右大臣岩倉具視は、三条太政大臣あての...
そのうえで日清対立の根本にある、朝鮮が独立国であるか、...
日本政府の年来の主張である朝鮮独立国論が国際的に支持さ...
また岩倉は、この意見書で、清国に「猜疑心」をおこさせる...
ところが岩倉が危惧したとおりの事態が、彼の死(八三年七...
一歩ゆずって、清国優位指導権を前提にした日清共同改革論...
中島雄書記官編「日清交際史提要」(「日本外交文書」明治...
このような状況を反転させるのが、アジアにおける帝国主義...
一八八六年(明治一九)を転機として、外戦(侵略戦争)に...
九〇年一二月、最初の帝国議会における山県有朋首相の施政...
山県は日本の領域にあたる「主権線」の守護と国家の安全に...
ここに、日清戦争は予告されたのである。
第三章 日清戦争前後
一 東学と甲午農民戦争
二 日清開戦への道
三 日清講和条約と王妃殺害事件
四 開化派のたどった運命
五 大韓帝国の成立と中立化構想の挫折
一 東学と甲午農民戦争 top
東学とは何か
東学は一八六〇年、慶尚道慶州(キョンジュ)の没落両班(...
民間信仰を基礎に儒教・仏教・道教などをとりまぜた独自の...
基本教理の「人乃(すなわち)天」は平等主義、人間主義思...
民族的・民衆的性格をもつ東学が忠清道・全羅道・慶尚道地...
しかし第二代教主となった崔時亨(チェシヒョン)は、布教...
重学教団の幹部たちは、弾圧に抗しながら、教祖の冤罪(え...
九三年には、幹部四〇人が教祖伸冤を国王に直接訴えるため...
1891 <明治24、高宗28)年 12月、朝鮮政府に防穀損害賠償要...
1892(明治25、高宗29)年 12月、東学教徒、崔済愚の伸寃運...
1893(明治26、高宗30)年 3月、東学教徒報恩集会。
1894(明治27、高宗31)年 4月、甲午農民戦争。6月、朝鮮政...
1895(明治28、高宗32)年 2月、北洋艦隊降伏。3月、日本銀...
1896(明治29、建陽元)年 1月、各地に義兵闘争おこる(乙未...
1897(明治30、光武元)年 10月、大韓帝国成立。
1898(明治31、光武2)年 4月、西・ロ-ゼソ協定調印。米西...
1899(明治32、光武3)年 9月、韓清通商条約調印。12月、「独...
1900(明治33、光武4)年 6月、義和団事件。11月、満州に関...
1901(明治34、光武5)年 6月、桂太郎内閣成立、政綱に韓国...
1902(明治35、光武6)年 1月、第1回日英同盟協約調印。
日本人居留民は仁川(インチョン)へ避難した。
「伏閤上疏」の人びとは解散させられ、請願は失敗したが、...
彼らの要求はもはや「教祖伸冤」をこえて、日本や西洋諸国...
同じころ、全羅道金溝(キムグ)でも全奉準(チョンボンジ...
最近の研究では教団主導の報恩集会よりも、より農民的色彩...
いずれにせよ東学教徒の宗教闘争から広範な農民闘争への転...
全奉準の蜂起
全奉準は全羅道の穀倉である湖南平野の古阜(コブ)の農民...
そのころ古阜郡守は趙秉甲(チョウビョンカブ)で、不当に...
全奉準はその非を唱え、弊政改革を求めたが、請願がことご...
そして趙秉甲を追放、悪徳役人を懲罰し、糧穀を奪い返し、...
農民軍の優勢に驚いた政府は、趙秉甲を処罰し郡守を更迭、...
このため古阜の民乱(地域的な農民騒擾)は一時収束された...
全奉準が大将、孫和中(ソンファジュン)・金開南(キムケ...
古阜の農民蜂起にたいして政府は、王妃の腹心洪啓薫(ホン...
しかし意気あがる農民軍は五月二七日、長城で政府軍の前衛...
農民軍は一万大にのぼるといわれる。
この農民戦争を、当時は、反国家的秘密結社である東学教団...
闘争は宗教的幻想とがらみあいながらも、農民の世直し的生...
最近では日清戦争下の第二次蜂起をふくめ、九四年の干支(...
壬午農民戦争関係図
執綱所コンミューン
李王家本貫(ほんがん)の地である全州を農民軍に制圧され...
全奉準は弊政改革を求める請願書を提出し、洪啓薫と交渉し...
弊政改革案は封建的身分の否定、封建的収奪の制限、土地の...
「全州和約」前後から全羅道五〇郡余に農民軍の執綱所が設...
全奉準は金溝を本拠として全羅右道を統轄し、金開南は南原...
そして執綱所を通じて貪官汚吏の処罰、身分制廃止、税制改...
大都所-執綱所による農民の自治民政組織は、のちに全羅道...
それは金鶴鎮の道内安定策だったのでもなければ、弊政改革...
執綱所組織は国家機構から分離しつつ、ひとつの独立した公...
政治的・軍事的・社会的権力として農村コンミューンを形成...
深刻な危機におちいった政府は反革命的な弾圧にのりだし、...
二 日清開戦への道 top
日清両国が出兵
農民軍の全州占領にあわてた朝鮮政府は一八九四年(明治二...
これをうけて漢城(ハンソン)駐在の清国軍は即日出動し、...
清国出兵のしらせは、同時出兵の機をうかがっていた日本政...
駐日清国公使汪鳳藻(おうほうそう)からの正式出兵通告が...
さらに五日には大本営を設置し、広島の第五師団に内命を下...
そして出兵通告を受けた七日には、日本政府も八五年の「天...
急遽、軍艦「八重山」に搭乗して帰任した大鳥圭介公使が、...
大鳥公使と日本軍は朝鮮側の制止をふりきって、その日のう...
派遣旅団の仁川上陸完了は一六日である。
しかし、一一日には「全州和議」が成立し、日清両軍は朝鮮...
「天津条約」には変乱などが解決したら、ただちに兵を「撤...
大鳥公使と袁世凱とのあいだで一二日から始められた共同撤...
だが、日本政府は駐兵と兵員増派計画をかえようとしなかっ...
駐兵の口実づくり
六月一五日の閣議は、朝鮮駐兵の口実づくりに腐心し、農民...
どちらも、駐兵の理由としては陸奥外相が決定をためらうほ...
大鳥公使からの報告も、牙山の清国軍は動かず、農民軍は平...
清国に提案した共同改革案は、朝鮮の内政干渉になるという...
そのうえ朝鮮政府およびロシア・イギリスをはじめとする各...
しかし、日本側はこれを拒否、またしても同時撤兵の機は失...
このとき日清両国の撤兵が実現していたら、日清戦争はおこ...
だが、賽(さい)は投げられた。
のちに陸奥が書いた『蹇蹇録(けんけんろく)』には「何と...
大量出兵した以上、無成果のまま撤兵することは国内世論の...
六月二七日、陸奥は大鳥公使に開戦の口実作成を命ずる指示...
大鳥は清国勢力を排除した後でなければ内政改革の実行は不...
大鳥は七月三日、外務督弁に改革綱領を提示したのについで...
このとき大鳥は、改革勧告を朝鮮政府が拒絶したばあいには...
一六日、朝鮮政府は日本側提示の改革案にたいし、日本軍の...
王宮占領事件
朝鮮政府の拒否回答は予想されていた。これにたいする処置...
「公使が自ら正当と認むる手段を執らるべし」と。
ただし「我兵を以て王宮及漢城を囲むるは得策に非ずと思わ...
しかし二二日を回答期限とした日本側公文による要求(清国...
漢城郊外の竜山(ヨンサン)に駐屯していた歩兵一連隊など...
この王宮占領事件は、参謀本部の公式戦史『明治廿七八年日...
しかし近年、中塚明氏による福島県立図書館「佐藤文庫」所...
すなわち、あらかじめ計画された筋書きどおりに、七月二三...
この事件は、八月二〇日調印の「暫定合同条款」で「両国兵...
そのうえ清国から送還されて蟄居(ちっきょ)中の大院君を...
閔氏政権の追放をはかったのである(甲午政変)。
七月二七日領議政(首相相当)に任命された金弘集(キムホ...
軍国機務処は国政全般を合議決定する権限をもつ臨時の政府...
金弘集は一八八〇年の第二次修信使として渡日以来、親日的...
甲申政変で開化派が弾圧されたのちも、穏健開化派ゆえに、...
日清戦争はじまる
周到な計画のもとに実行された王宮占領は、開戦の狼煙(の...
漢城の大島旅団長が参謀総長あてに事件発生の第一報を送っ...
一一時には連合艦隊の先発隊として第一遊撃隊が佐世保を発...
黄海を北上し、二四日に牙山湾を偵察した第一遊撃隊の「吉...
豊島(ブンド)沖海戦という。「済遠」は敗走し、「広乙」...
この海戦中、「浪速」艦長東郷平八郎大佐は、清国砲艦「操...
捕獲宣言にたいし、「操江」は降伏したが、清国将兵一〇〇...
「浪速」は救命ボートで船長ら四人の西洋人を救助したが、...
国際法違反の疑いがある「高陞」撃沈はイギリスの世論を刺...
一方、二六日(二五日ともいう)に漢城駐屯の日本軍は朝鮮...
清国軍は牙山の東北二〇キロの成歓(ソンファン)に布陣し...
翌三〇日、日本軍は牙山を制する。
豊島沖海戦の二五日、大鳥公使は朝鮮政府から「清朝商民水...
これは二〇日以来、大鳥公使が属邦条項をふくむ清朝条約は...
八月一日、天皇は宣戦の詔勅(しょうちょく=お詞)を渙発...
詔勅は、朝鮮を属邦として内政に干渉し、内乱にかこつけて...
戦争遂行の名分としての朝鮮の「独立自主」扶助は、日清戦...
日本側に立つことを強要
対清宣戦布告から一二日後の八月一三日、陸奥外相は大鳥公...
陸奥は戦争が日清間の交戦にとどまり、朝鮮が「中立国の如...
清国の勝利を信じて疑わぬ大院君らが反発したことは想像に...
これにより朝鮮は日本側に立つことを義務づけられ、親清行...
大鳥公使と金允植外相が調印した「暫定合同条款」は、つぎ...
①朝鮮内政改革の施行、
②漢城-釜山、漢城-仁川間鉄道の早期敷設、
③漢城-釜山、漢城-仁川間の軍用電信(開戦前に無断架設)...
④全羅道内に貿易港開港、
⑤王宮占領事件の不問、
⑥朝鮮「独立自主」のための日朝委員による合同会議開催、
⑦王宮警備の日本軍の撤収、である。
侵略の事実を覆い隠すかのように、その前文には、「朝鮮国...
ついで六日後の八月二六日、「大日本大朝鮮両国盟約」が調...
それは第二条で「日本国は清国に対し攻守の戦争に任じ、朝...
大鳥公使・金允植外相ともに正式の全権委員の資格で調印し...
日清戦争の「戦場若くは戦場に達すべき通路」である朝鮮に...
朝鮮を日本の同盟国に擬して、国際的批判の目をそらさせよ...
攻守同盟により日本軍は朝鮮で思いのままの人馬・糧食の徴...
第二次農民戦争
日清開戦による日本の朝鮮侵略に憤激した農民軍は、ふたた...
一八九四年一〇月、全奉準・孫和中が一〇万といわれる全州...
農民軍は南下した朝鮮政府軍・日本軍と忠清道各地で交戦し...
決戦を公州(コンジュ)入城にかけた農民軍が公州南方の牛...
五〇回にもおよぶ攻防戦がくり返されたが、兵器に劣る農民...
全羅道・忠清道をはじめ農民軍が蜂起した各地では、政府軍...
捕えられた全奉準は漢城で日本領事もくわわった審問を受け...
金開南も捕えられ、その翌日処刑された。
こうして甲午農民戦争は鎮圧され、農民革命の灯は消された...
牛金峙の戦跡に建つ「東学革命軍慰霊塔」(忠清南道)
三 日清講和条約と王妃殺害事件 top
大勢が決する
清国の優勢を確信した世界の予想を裏切って、戦局は日本軍...
一八九四年(明治二七)九月一六日の平壌(ピョンヤン)会...
また、平壌占領の翌一七日には、連合艦隊が清国北洋艦隊に...
そしてあらたに編成された第二軍(司令官大山巌大将)は、...
こうして日清戦争の大勢は決した。勢いに乗る日本は清国の...
講和条約の調印
三月二〇日から下関で李鴻章との休戦条約、講和条約交渉が...
交渉は日本側の法外な賠償要求のため難航した。
日本側全権伊藤博文・陸奥宗光と清国側全権李鴻章・李経方...
清国は朝鮮国の完全無欠なる独立自主の国たることを確認す。
因(よつ)て右独立自主を損害すべき朝鮮国より清国に対す...
日本が開戦の理由とした清朝宗属関係の廃棄を明文化し、「...
思えば、日清戦争とは朝鮮支配をめぐる日本と清国との争い...
両国とも不平等条約をかかえる従属国であったにもかかわら...
そして、その勝者日本が帝国主義へ転化し、敗者清国と戦争...
講和条約にいう朝鮮の「独立自主」とは、清国の影響を排除...
閔氏派のまきかえし
「日清講和条約」が締結されたときの内閣は、第二次金弘集...
一八九四年一〇月に大鳥公使にかわって着任した井上馨の要...
この内閣には、アメリカ亡命中だった徐光範(ソダワンボム...
井上は急進開化派を中軸にすえるとともに、改革資金として...
しかし、日清講和条約締結直後におきた三国干渉の衝撃のな...
「日清講和条約」は、遼東半島・澎湖島・台湾の割譲、賠償...
日本はあらためて、清国にまさる強大国ロシアの圧力が頭上...
井上の改革構想が崩れるなか、第二次金弘集内閣は崩壊した。
あらたに領議政となったのは朴定陽(パクジョンヤン)。
実権はまだ急進派の朴泳孝にあったが、朴泳孝は七月、王宮...
八月に成立した第三次金弘集内閣では、第二次内閣とは異な...
日本の干渉に反発していた支配層である閔氏派が権力奪還を...
親日的改革をリードしようと意気ごんだ井上公使は、九月、...
三浦梧楼の陰謀
井上公使にかわって駐朝公使になったのは三浦梧楼陸軍中将...
三浦公使の着任は一八九五年九月一日。
彼が親露米派を排除するため、国王高宗の妃(閔氏)の殺害...
計画は、王妃と敵対していた大院君(国王の実父)をかつぎ...
ただし実行主力は漢城駐在の日本軍守備隊、領事館員および...
一〇月八日未明、計画は実行にうつされた。
漢城郊外の孔徳里(コンドクリ)に隠棲していた大院君の連...
光化門(クァンファムン)から侵入した第一中隊は、王宮を...
壮士の一群は王妃を求めて探しまわり、常殿で王妃を斬殺し...
乙未(ウルミ)事変という。
事件はどう処理されたか
三浦公使は、事件は解散命令を受けた訓練隊が大院君と結託...
現場で、なりゆきを目撃していたアメリカ大侍衛隊教官のゼ...
国際的に苦境に立たされた日本政府は、三浦公使の解任召還...
二〇日の広島地裁の予審終結決定もまた、王妃殺害状況の証...
被告のひとり杉村濬元書記官は、予審の陳述で、朝鮮内政改...
なぜならば、前年の王宮占領を政府は「是認」しており、そ...
たびたびの暴挙で道義心を失った、朝鮮通の外交官杉村に罪...
広島監獄から放免された三浦も「沿道到る処、多人数群して...
三浦にも日本国民にも罪責の意識が欠けていた。
四 開化派のたどった運命 top
復活した開化派
王妃殺害事件のあと、大幅な内閣改造がおこなわれ、第四次...
親露米派の李範晋・李完用’李允用(イユンヨン)と閔氏派の...
だが、朝鮮の人びとはこの内閣を信用しなかった。
乙未(ウルミ)事変の処理にあたって、日本側の責任を追及...
彼らが推進した甲午改革といわれる近代化政策をみてみよう。
甲午改革をめぐって
わずか一年半ほどの間に四たび組織された金弘集内閣のもと...
彼らは祖国の近代国家への転換をみずからの課題とした。
自己利益のために親日家だったのではない。親日的であった...
しかし、開化派政権の成立そのものが自前の政治的力量によ...
生まれながらに親日の母斑をつけた、反民族的な政権を民衆...
金弘集の軍国機務処は、一八九四年一二月に廃止されるまで...
翌年にかけて実施した改革をふくめて甲午改革(甲午更張=...
その範囲は政治・財政・経済・司法・教育・社会などにわた...
〔政治〕 宮中と府中との分離、清朝宗属関係の廃止、近代...
〔財政・経済〕 財政の度支衙門への一元化、予算制度の採...
〔司法〕 司法権の独立、近代的裁判制度の導入、縁坐法の...
〔教育〕 近代的学校制度の導入、実業教育の重視、外国語...
〔社会〕 封建的身分制度の廃止、太陽暦の採用、女子の再...
これらのなかには農民軍が求めた弊政改革を吸収、反映させ...
そのような意味で画期的な「上からの」ブルジョア革命を志...
この改革が朝鮮民衆の支持をうることができたとすれば、改...
しかし、政府と民衆とのよじれた関係のもとでは、改革は民...
その理由のひとつは、前述のように開化派政権成立の自主的...
何よりも王妃殺害事件に関して、政府が日本の責任を不問に...
開化派が一掃される
「国母復讎(ふくしゅう)」を叫ぶ反日義兵闘争の直接の契...
朝鮮人は長髪と髻(サントゥ)を結う伝統をもつ。
この年一二月から翌年四月にかけて朝鮮南部を旅行したロシ...
そして断髪令が「彼らの伝統的な神聖観を侵したのみならず...
即ち、日本人は髷(まげ)を切らせることで、同時にまた、...
義兵闘争が高揚する九六年二月一一日、義兵「討伐」のため...
「俄(露)館播遷(はせん)」という。
政権の座から追われただけでなく、国王から「逆党」「国賊...
金允植は捕えられて終身流刑に処せられ、倉吉濬・張博・張...
こうして開化派は一掃され、改革は流産した。
五 大韓帝国の成立と中立化構想の挫折 top
初期義兵の成立
開化派政権による改革の進行に辟易(へきえき=尻込み)し...
すでに述べたように、王妃殺害のしらせがまず、彼らに決起...
一八九六年の義兵闘争は、一九〇五~一四年のそれとの対比...
日本の侵略にたいする反対と侵略者に追従する金弘集政権に...
もっとも有名な義兵は、忠清道堤川(チェチョン)で挙兵し...
京畿道砥平(チビョン)、江原道原州(ウォンジュ)、慶尚...
主要な活動地域は、堤川を中心に、忠清・江原・慶尚三道が...
柳麟錫部隊のほか、江原道・忠清道・京畿道・黄海道などの...
京畿道利川(イチョン)の義兵は漢城の南二〇キロの広州郡...
九六年二月政変で政権を握った親露派を背景に、国王は断髪...
運動が終息するのは一〇月である(糟谷憲一「初期義兵運動...
独立協会のナショナリズム運動
日本政府の対朝鮮政策の失敗によって、その勢力は大きく後...
親露派の金炳始(キムビョンシ)政権は、開化にたいする反...
そのような政治的空白期に登場したのが独立協会の自主独立...
独立協会は、甲申政変後アメリカへ亡命していた徐載弼(ソ...
徐載弼は同年四月から近代市民(ブルジョア)思想を紹介す...
独立協会は、かつて清国の勅使を迎えた迎恩門(ヨンウンム...
1896年に建設された独立門(ソウル)
政治的にも財政的にも弱体な政府は、当時、ロシアや日本に...
九八年一〇月、朴定陽内閣との合意で漢城の鐘路(チョンロ...
そこで採択された献議を受け入れた政府が公布した中枢院官...
独立協会は、この時期のナショナリズム運動を象徴するもの...
だが、独立協会の急進化をおそれる守旧派は、独立協会の政...
これに抗議して万民共同会が結成され、国民の広い支持をう...
皇帝は独立協会の復活をいったん認めざるをえなかった。
しかし一二月、加藤増雄公使の建言を入れた皇帝は、独立協...
独立協会運動は二年半にしてやんだ。
独立協会を弾圧した政府は、民衆がめざした民権の伸長と国...
大韓帝国の成立
これより先、ロシア公使館に「播遷」していた国王は、独立...
これを契機に君主を皇帝と称する問題が浮上した。
官僚と儒者が皇帝と称すべきことを建言したので、国王高宗...
中国皇帝をはじめ各国君主と同格の独立国の元首であること...
独立協会などの市民的改革路線を切り捨てて政権を担当した...
それは立法機関である校典所を改組した校正所でつくられた...
絶対主義君主支配の国家統治体制の基本法である。
三権分立や国民の市民的諸権利の保障はなかった。
光武改革の内容
清朝宗属関係を廃棄した韓国が国際状況に対応していくため...
それは旧来の封建王朝体制の反動的再編ではなく、近代国家...
大韓帝国成立から日露戦争、そして「第二次日韓協約」締結...
その基調は旧法をもとにして新法を参酌する「旧本新参」で...
諸改革のうち特筆されるのは、「光武量田事業」とよばれる...
一八九八年「量地衙門」設置により開始された量田事業は、...
量田により土地台帳(量案)が作成され、一筆ごとの土地登...
このことは、一方では国家による土地生産力に応じた近代的...
量田事業と並行して政府財政確立のために税源の拡大をはか...
そして植民地侵略をはかる外国にたいし、鉱山と鉄道に関す...
また、日清戦争期に日本の円銀の朝鮮国内自由流通を容認し...
しかし、鉱山・鉄道利権は日本・ロシア・イギリス・アメリ...
中立化構想をめぐる動き
大韓帝国の外交方針は、東アジアに集中した帝国主義列国相...
宗属関係を破棄した清国とは一八九九年九月「韓清通商条約...
そのころイギリスが韓国の永世中立国化を提唱した。
それ以前にも駐朝ドイツ副領事ブドラーによる中立化論(一...
日本政府内にも、日本・清国・アメリカ・イギリス・ドイツ...
それらはいずれも提唱国の利害関係からロシアの朝鮮侵略を...
一八九六年のイギリス提唱案が親露派主導の朝鮮政府の同意...
一九〇〇年八月ごろ、駐日韓国公使趙秉式(チョウビョンシ...
ロシアがこの韓国の中立化構想に便乗した。
一九〇一年一月七日、本国政府から訓令をうけた駐日ロシア...
韓国に関して協定をもつ日露間でまず調整の交渉をおこない...
韓国にたいする独占的支配を構想する日本側は、韓国中立化...
ロシアはその後も欧米諸国に韓国中立化の承認をはたらきか...
しかし日本政府はすでにはじまっていた満韓交換交渉のゆく...
満韓交換論の登場
三国干渉によって日本に遼東半島を放棄させたロシアは、不...
南下を阻止しようとするイギリスの妨害にあいながらも、ロ...
朝鮮政府とも、ロシア軍による国王の保護、軍事教官・財政...
その勢いを脅威と感じながらも政治的後退を余儀なくされて...
守勢にあった日本が巻き返しをはかるべく案出されたのが満...
ロシアにたいする最初の提案は九八年三月、第三次伊藤内閣...
日本が朝鮮にたいして「助言及助力を与うるの義務」を負う...
つまりロシアの満州支配とひきかえに日本の朝鮮支配を認め...
その後も伊藤は満韓交換論を持論とし、一九〇一年一一~一...
結局、一九〇二年一月三〇日「日英同盟協約」が調印され、...
日露協商
しかし、一九〇三年におこなわれた対露交渉も実は満韓交換...
六月二三日の閣議は、「日露両国は互に其韓国又は満州に於...
これにもとづき八月三日、小村外相が駐露公使栗野慎一郎に...
韓国あるいは清国領土である満州の内政について日露両国が...
情報をつかんだ『皇城(ファンソン)新聞』(九月一〇日付...
交渉は、対案を携えて帰任したローゼン公使と小村外相との...
ロシアの対案は、日本の満州進出拒否、韓国の独立尊重と領...
折衝と妥協のすえ、一〇月三〇日にいたって、「満州は日本...
しかしロシア政府は、極東総督府太守(総督)アレクセーエ...
侵略者同士の話し合いが決裂したとき、日露戦争がはじまる。
局外中立宣言の試み
日露の緊張がたかまるなかで、内蔵院卿・度支部協弁李容翊...
一九〇三年八月、韓国政府もその方針をとり対外工作を開始...
諸国の承認をうるためである。
九月三日、駐日韓国公使高永喜(コヨンヒ)から韓国中立保...
事実上の拒否である。
一方、ヨーロッパ諸国へ特使として派遣された玄尚健(ヒョ...
皇帝はただちに密使を芝罘(シーフー)に派遣し、一月二一...
韓国政府の中立声明にたいしイギリス・フランス・ドイツ・...
そのころ日本政府は、韓国と次節で述べる秘密同盟締結交渉...
中立を承認しなかったのである。
ロシアもまた回答しなかった。
中立国が国際的に認知されれば、交戦国はその国の中立を尊...
同時に中立国は交戦国にたいし不偏不党であらねばならなし...
したがって韓国が中立国となることは、対露戦を準備中の日...
韓国の局外中立声明を黙殺した日本は、声明発表一八日後の...
韓国は中立国としての不偏不党義務を放棄させられた。
中立国が中立を維持できる条件は、他国による領土侵犯を排...
韓国の局外中立を承認したヨーロッパ諸国は、日露開戦にと...
ロシアだけが日本を非難したが。
中立の国際法的うらづけは弱かった。
中立を宣言した清国(二月一二日)にたいしても日露両国は...
第四章 日露戦争下の韓国侵略
一 日韓議定書の締結
二 植民地経営のマスタープラン
三 列強の合意をとりつける
一 日韓議定書の締結 top
日韓秘密協定締結工作
韓国の局外中立は何としても阻止しなければならない、と小...
対ロシア戦の陸軍作戦は、朝鮮半島南部に上陸、北上して北...
そのためには、日清戦争時の「暫定合同条款」「大日本大朝...
小村外相が駐韓公使林権助にあて「韓国皇帝を我方に引付け...
これにたいして林公使は、密約締結の困難なことを述べなが...
林が難航するとみたのは、排日的な高宗皇帝をささえる中立...
小村外相は、その李容翊と密接な関係にあり、招かれて韓国...
1903(明治36、光武7)年 8月、日本政府、日露協商基礎条項...
1904(明治37、光武8)年 1月、林公使・李址鎔外相聞に日韓...
1905(明治38、光武9)年 1月、旅順開城。駐剳軍司令官、漢...
一一月三〇日、林公使は皇帝に謁見し、日韓協定の必要を「...
局外中立化を考慮中の皇帝はためらったが、一二月末にいた...
ただし、それは韓国皇室の安全・独立保持にたいする日本の...
一方、三〇日の日本政府閣議は「往年日清戦役の場合に於け...
独立保障を求める韓国側と攻守同盟または保護条約を求める...
林公使と大三輪とのあいだも呼吸の一致を欠いたが、韓国政...
最終段階で協定は「日韓議定書」と名づけられ、皇帝からの...
内容は、まず相互対等の「緩急互(たがい)に相扶掖(あい...
林原案にあった軍事協力を直接規定する条項は除外された。
調印は一月二三日と予定されたが、二日まえの二一日、韓国...
窮地に立たされた小村外相は調印を見送らざるをえない、と...
韓国では、交渉にあたってきた李址鎔外相、閔泳喆軍相が罷...
中立政策が「日韓議定書」締結を葬り去ったかにみえた。
保護国化方針の登場
日本政府が韓国保護国化を政策として掲げたのは、一九〇一...
ここで「韓国は保護国となす目的を達すること」とされたの...
九月に外相として入閣した小村寿太郎のもとの外務省には、...
それまでにも韓国保護国化か論じられたことがあった。
日清戦後の対朝鮮基本構想を議した一八九四年八月一七日の...
〔甲案〕朝鮮の自主独立放任、〔乙案〕日本による保護国化、
〔丙案〕日清両国による朝鮮の共同担保、
〔丁案〕永世中立国化、である。
閣議は結論をうることができず、乙案つまり朝鮮保護国化の...
国際的非難また干渉のおそれがあり、ロシア・清国の侵攻を...
朝鮮保護国化は将来の、そのまた将来の、夢のような「目的...
しかし、日清戦後も対露戦にそなえて軍拡をつづけた政府は...
韓国の中立国化は日本の地位、威信の喪失につながる、とい...
小村が駐日ロシア公使ローゼンとのあいだに交渉した、満州...
保護国とは何か
歴史学のうえでいう保護国は、ある国による他国の政治的保...
そのため、宗属関係にある宗主国と藩属国との関係について...
しかし、近代帝国主義の保護国支配と、前近代の宗属関係と...
壬午軍乱以後、日清戦争にいたるあいだの清国の朝鮮支配は...
ベトナムにたいする清国の宗主権を清仏戦争によりフランス...
あるいはイギリスがオスマン帝国の宗主権を否定してエジプ...
本書では、帝国主義国の植民地獲得過程での支配の一手段、...
外交用語としての保護関係は、第三国から独立を脅かされる...
外交権は、国家が国際法上の権利能力、法的人格を有するこ...
宗属関係のもとでの藩属国は独立国であるが、近代的保護関...
保護国化は被保護国の外交権を侵害することによって成立す...
一方で独立を保障しながら、他方で独立を否定する保護関係...
日露開戦
対露宣戦の詔勅が発せられたのは一九〇四年二月一〇日であ...
ロシアの宣戦布告も同じ日だった。しかし、このときすでに...
二月四日の御前会議はロシアとの交渉打ち切りと軍事行動開...
その二日後の八日夜から九日にかけて、旅順では連合艦隊が...
臨時派遣隊の先遣部隊の漢城入京は、韓国皇帝、政府や漢城...
当時、漢城には「小村・ウェーバー協定」にもとづいて、歩...
元山・釜山などに配置されていた部隊をふくめて統轄する韓...
その兵力を補強し、漢城を占領制圧することをはかったので...
ロシア公使と警備兵は二一日に漢城から撤退したが、動員命...
韓国の局外中立宣言はひとたまりもなく蹂躙された。
日韓交渉再開
このような日本軍の軍事的制圧下で、一九〇四年二月一三日...
李址鎔は外相を罷免されたが、後任の朴斉純(パクジェスン...
再開といっても継続ではない。
開戦前とは日韓の状況がちがう。一三日に林が作成した日本...
また、前案にはなかった軍事協力条項をあらたに設け、
「第三国の侵害に依り、若(もし)くは内乱の為め大韓帝国...
而(しこう)して大韓帝国政府は、右大日本帝国政府の行動...
日本軍の不当な軍事占領を合法化するとともに、以後の戦略...
さらに日本政府は、林案第四条に「大日本帝国政府は、前項...
韓国政府内では、李容翊度支相らが、日露戦争にロシアが勝...
韓国皇帝・政府内外の反対のたかまりと外国の干渉をおそれ...
二二日、李址鎔外相署理は、記名調印した「日韓議定書」を...
日本では政府決定と天皇裁可だけで処理し、枢密院への諮問...
日韓議定書
調印に反対した李容翊は、この日の夜、日本軍に拉致され、...
度支部大臣兼内蔵院卿らの要職はすべて解任された。
このほか、鎮衛第四連隊長吉永洙(キルヨンス)、参将李学...
「日韓議定書」(全文はIndex付録参照)はもともと密約とす...
開戦により、もはや秘密の必要はなく、むしろ公表を有利と...
韓国官報への条約文掲載の初例である。
韓国内では反対の声がたかまり、中枢院(内閣諮問機関)副...
李址鎔らの私宅には爆弾が投げこまれ、漢城の街は騒然とし...
こうした抵抗を威圧するかのように、三月一七日、枢密院議...
名目は天皇名代の韓国皇室慰問である。一八日慶雲宮(キョ...
帰国に際しての謁見で、天皇への伝言をうながした伊藤にた...
「今や日韓両国の関係は、議定書に由って確定せり。
我国の執るべき主義方針も亦(また)之に一致するを要す。
朕は我臣僚を率いて此主義の下に日韓提携の実を挙げんこと...
「第一次日韓協約」締結の記念写真、前列中央が伊藤博文、そ...
二 植民地経営のマスタープラン top
対韓施設綱領
日本政府は「日韓議定書」によって「或る程度に於て保護権...
それを拡張し「保護の実権を確立」するため、一九〇四年五...
綱領は軍事、外交、財政、交通・通信、産業開発など多面に...
以下、具体的にみてみよう。
〔軍事〕 戦争終了後の日本軍の韓国常駐、軍用地収用は、...
〔外交〕 韓国政府がおこなう外国との条約締結などの重要...
〔財政〕 日本人顧問官を入れ、徴税法や幣制改革、財政再...
〔交通〕 主として軍事的観点から建設中の京釜鉄道(漢城...
〔通信〕 韓国政府から日本政府に郵便電信、電話事業の管...
〔産業〕 韓国内の日本人の土地所有権、用地権、豆満江・...
韓国の独立保障とはうらはらに、韓国の主権を完全に無視し...
開戦からまだ半年とたたない七月、小村外相ははやくも戦後...
彼は、戦争に勝利したとしてもロシアから賠償金を獲得でき...
「文明を平和に求め、列国と友誼を篤(あつ)くして、以て...
韓国駐箚軍の改編
開戦時、漢城付近に集結していた第一軍主力は北進を開始し...
兵力四万。対岸はロシアの大軍が待ちうける満州である。
鴨緑江渡河作戦は五月一日に決行された。
ロシア軍の新兵器の機関銃に悩まされ、多数の死傷者を出し...
やや遅れて第二軍が遼東半島の塩大襖に上陸すると、九連城...
こうして日本軍主力は主戦場の満州に踏みこみ、国境を越え...
韓国内における日露交戦は、兵站線を突破して平安南道安州...
それにもかかわらず韓国内の日本軍は、「日韓議定書」第四...
一九〇四年三月一〇日、韓国駐箚(ちゅうさつ)隊から韓国...
韓国駐箚軍が対露戦兵力としてだけでなく、韓国内民衆の弾...
しかも、日本軍は日露戦後も二個師団程度の韓国常駐を計画...
実際、戦争が終結し、戦時編成の韓国駐箚軍の諸部隊の帰還...
抵抗と弾圧
韓国民にとっての日露戦争は、ロシア軍との戦いではなく、...
鉄道用地・軍用地の強制収用をはじめ、人馬・食糧徴発が民...
一九〇四年九月一四日、京畿道始興(シマン)郡で数千の群...
二五日には黄海道谷山(コクサン)郡でも建設中の京義鉄道...
収穫をひかえた秋の農繁期の労働力強制徴発を契機とした反...
始興民擾(ミンヨ=一揆)・谷山民擾として知られる、これ...
電信線切断、鉄道建設妨害などは各地で日常的に頻発した。
駐箚憲兵隊の配置や一般部隊派遣もそれらの防止のためだが...
軍律とは占領軍が公布する一般住民にたいする取り締まり令...
一週間後の七月九日には、この軍律の韓国全土への適用と電...
『朝鮮駐箚軍歴史』によると、一九〇四年七月から一九〇六...
駐箚軍司令官がまがりなりにも「軍律違犯審判規定」を公布...
反日活動家が逃避し「露国党の巣窟」といわれた咸鏡道につ...
これにより駐箚軍司令官および駐在部隊長は、韓国の地方行...
また一九〇五年一月、駐箚軍司令官は漢城とその付近の治安...
日本軍の横暴な軍事制圧のまえに、韓国政府はなすすべがな...
保護国実質化がすすむ
「日韓議定書」締結にあたり、林公使は「約条は主義を明(...
具体的な個別事項の交渉にてまどって調印を遅らせるよりも...
第六条は堤を崩す蟻(あり)の穴であった。
軍事的制圧のもとで、さきの「対韓施設綱領」に示された侵...
戦時下、日韓間にむすばれた協定にはっぎのようなものがあ...
1、一九〇四年二月二五日「義州開市に関する韓国外務大臣の...
2、一九〇四年三月二三日「竜岩浦(ヨンアンポ)開市に関す...
3、一九〇四年三月二二日~六月四日「忠清・黄海・平安道に...
(「日韓両国通漁規則」による漁業権適用範囲を全国に...
4、一九〇四年八月二二日「第一次日韓協約」(後述)
5、一九〇五年四月一日「韓国通信機関委托に関する取極書」
(韓国郵便電信電話事業の日本政府へ管理委託の名目で...
6、一九〇五年八月一三日「韓国沿海及内河の航行に関する約...
この間、韓国が日本以外の外国と締結した条約は、多国間条...
韓国内政への介入もいちじるしく進行した。
一九〇四年に荒蕪地(こうぶち)開墾権要求(六月)、軍事...
第一次日韓協約をめぐって
韓国植民地化か着々と進行するなかで、外交上の画期をなす...
日露戦局が満州へ展開し、大本営陸軍部の分身として創設さ...
これをうけて林は、六日、外部大臣李夏栄(イハヨン)につ...
①日本政府が推薦する「財務監督」一人を度支部に雇聘(こへ...
②日本政府が推薦する外国人一人を「外交顧問」として外部に...
③韓国政府は外国との条約締結や外国人への特権付与にあたり...
李夏栄外相が承諾すると、一二日には皇帝に謁見して許可を...
皇帝が本心から承諾したのではないことは閣議の反対となっ...
とくに①項の「財務監督」と③項の事前協議にむけられた。
「監督」は大臣より上位にあるというのが理由である。日本...
一九日、李夏栄外相・朴定陽(パタジオンヤン)度支相が調...
事前協議問題については、二二日、公使館書記官と韓国駐箚...
財務・外交顧問
「第一次日韓協約」が『官報』に公示された九月五日、日本...
そこでは「日韓議定書」により韓国外交について監督の義務...
しかし、それは日本の韓国侵略から外国の目をそらさせる偽...
林公使が「議定書の各条を広義に且(か)つ我が利益に解釈...
財政顧問には、調印まえから名前があかっていた大蔵省主税...
目賀田は携えてきた改革プランをもとに、ただちに貨幣整理...
しかし、韓国政府内外のねづよい反対が目賀田のまえに立ち...
「どうも事毎(ことごと)に思うように行かぬ」、「日本の...
事情を説明すると、桂は「それなら保護国までにしようじゃ...
外交顧問には、アメリカ人スティーブンスがえらばれた。
外国人を顧問としたのは、日本の介入を外国の環視から遮蔽...
スティーブンスは駐米日本公使館の顧問をしていた親日家で...
スティーブソスは一九〇八年まで韓国に滞在し、保護条約の...
三 列強の合意をとりつける top
「惨憺たる勝利」
満州攻略の担当部隊として編成され、一九〇四年五月に遼東...
これに平行して朝鮮半島から鴨緑江を越えて満州入りした第...
日本軍は激戦のすえ、クロポトキンの率いるロシア軍を九月...
拙攻をかさね、作戦計画から大幅に遅れをとっていた第三軍...
だが、厳寒が戦線を凍結するあいだに、ロシア軍はシベリア...
逆転を期したロシア軍は、奉天(瀋陽)を拠点に全戦線の戦...
これにたいして日本軍は、旅順戦を終えた第三軍を改編した...
日本軍二五万、ロシア軍三二万。
二〇世紀に入って世界最大規模の奉天会戦は三月一日に開始...
しかし退路を断つことに失敗した日本軍は、ロシア軍を殲滅...
補給線は伸びきったゴムひもだった。
奉天会戦の日本軍死傷者約七万、ロシア軍死傷者約九万、俘...
日本は、人も物も金も、持てるものすべてを使いはたしてつ...
満州軍総参謀長児玉源太郎の生涯を伝記小説『天辺の椅子』...
日露陸戦史は奉天会戦で年表から消える。
が、日本軍はいまだロシア領に一歩も踏み入っていない。
至近のウラジオストクさえ健在である。
講和条約を目前にひかえた七月、防備の手薄なサハリンを侵...
韓国保護権確定方針の決定
奉天会戦のあやしげな勝利の幻想に国民が酔っていた一九〇...
四月八日の閣議で決定し、一〇日に天皇が裁可した「韓国保...
軍事、行財政の実権掌握と並列ではなく、外交権の奪取を第...
韓国と締結すべき保護条約は、つぎの四点をふくむものとす...
第一 韓国の対外関係は全然(すべて)帝国に於て之を担...
第二 韓国は直接に外国と条約を締結することを得ざるこ...
第三 韓国と列国との条約の実行は、帝国に於て其(その...
第四 帝国は韓国に駐剳官を置き、該国施政の監督及帝国...
ここでいう保護権の設定は、国家間のあいまいな保護関係で...
つまり韓国の国際法上の独立を否定することを意味する。
しかしそれは、日韓間で保護条約をむすべばよい、というも...
したがって「之が実行に関しては、深く列国の態度如何(い...
列国の支持がえられる機会をとらえなければならない、とい...
その「適当の時機」こそ日露戦争勝利のときである。
日英同盟協定の改定
「韓国保護権確立の件」を決定した同じ日の閣議は、「日英...
日英同盟は、極東におけるロシアの進出に対抗して日英両国...
一九〇二年一月三〇日に調印した第一回協約は、前文で清国...
日露戦争にさきだって調印された、この「第一回日英同盟協...
日本政府案には、別款として、日本が韓国で「優勢なる利益...
韓国における日本の「自由行動」が「侵略の方針」に転じ、...
イギリス側は、第一条冒頭に「両締約国は、相互に清国及韓...
日露戦争は、日本の侵略主義を隠蔽するために、ロシアを侵...
日英同盟の改定が急がれた。一九〇五年八月一二日調印の「...
そこでは第一回協約で明記された、韓国の独立保障、領土保...
日本国は韓国に於て政事上、軍事上及経済上の卓絶なる利益...
ここでいう「指導 guidance」「監理 control」「保護 prote...
この模糊(もこ=あいまい)とした文言が意味するところは...
つまりイギリスは、日本による韓国保護国化を認めたのであ...
新日英同盟に対する抗議
「第二回日英同盟協約」は、すでにはじまっていた日露講和...
新協約が林公使から朴斉純外相に通知されたのは一〇月五日...
日露戦争中、韓国内に駐屯した日本軍にかわって、あらたに...
講和後に韓国内各地に大量に配置された日本兵土の銃口が、...
『朝鮮駐箚軍歴史』にはつぎのような記述がある。
日露媾和条約成立し、日英同盟条約更新せらるるにおよび、...
外部(外務大臣)は、英国公使に迫りて日英新条約は英韓条...
日本の韓国保護国支配を承認したイギリスと日本にたいする...
韓国外相の駐韓イギリス公使への抗議とは、朴斉純外相が皇...
一八八三年調印の「韓英修好通商条約」で定めた友好の趣旨...
同日、朴斉純外相は萩原守一臨時代理公使(林公使は帰国中...
前年の「日韓議定書」は、第三条で韓国の独立を保障し、さ...
それにもかかわらず、日本政府は韓国政府に承認はおろか、...
朴外相はそれをするどくついたのだった。
先行条約に違反する新条約は無効となるか、韓国が先行条約...
ジョーダン公使と萩原代理公使はただちに協議し、「何等の...
ポーツマス交渉
日露講和交渉は一九〇五年八月一〇日からアメリカのポーツ...
日本側全権委員は小村外相と駐米公使高平(たかひら)小五...
派遣にさきだって、六月三〇日の閣議は、全権委員にたいす...
そこでは「絶対的必要条件」として、韓国を「全然我自由処...
賠償金獲得、サハリン割譲などは「許す限り之が貫徹を努め...
韓国にたいする日本の支配、つまり保護権設定の承認がまず...
韓国問題は交渉開始後まもなくとりあげられた。
ヴィッテは、韓国における日本の「自由行動」を容認しなが...
韓国の独立と主権にかかわる重要事項を日露間で協定するこ...
小村全権との論争のすえ、「日本国が将来、韓国に於て執る...
日本の韓国保護国化には、韓国政府との「合意」が前提であ...
しかし、九月五日調印の「日露講和条約」第二条には、日本...
ロシア帝国政府は、日本国が韓国に於て政事上、軍事上及経...
韓国に於けるロシア国臣民は、他の外国の臣民又は人民と全...
前段では「日英同盟協約」と同じく、「指導、保護及監理」...
後段では、あたかも日本が韓国の主権者であるかのように、...
「日露講和条約」は、ヴィッテの巧妙なかけひきによって外...
アメリカの了承
日露講和交渉開始直前の一九〇五年七月二九日、桂首相は来...
それは、アメリカのフィリピン統治と日本の韓国にたいする...
ルーズヴェルト大統領がこの協定を承認した通告を日本政府...
こうして日露戦争中、終始日本に好意的だったアメリカもま...
小村は韓国と保護条約をむすぶ計画を述べ、あらためてアメ...
これにたいしルーズヴェルト大統領は賛意を表し、「充分我...
イギリス・アメリカ・ロシアの承認をとりつけた政府は、他...
“講和条約で賠償請求を放棄するなど譲歩した日本が獲得した...
ロシアのツケを韓国に転嫁することによって日露戦争に決着...
日本政府にとって、日韓保護条約の締結は、この機をおいて...
第五章 保護国化をめぐる葛藤
一 外交権を奪うI第二次日韓協約
二 皇帝の孤独なたたかい
三 植民地権力の成立――内政権をも掌握する
四 高揚する義兵闘争
一 外交権を奪う 第二次日韓協約 top
実行計画の閣議決定
一九〇五年(明治三八)一〇月二七日の閣議は、韓国にたい...
一六日にアメリカから帰国したばかりの小村外相が原案作成...
閣議決定の内容は、
①条約文原案、
②調印後、公表まえに英米はもちろん独仏政府に通知し、各国...
③一一月初句実行、
④条約交渉全権の林公使への委任、
⑤韓国皇帝へ親書奉呈の勅使派遣、
⑥長谷川好道韓国駐箚軍司令官への協力命令、
⑦日本軍隊の漢城集結、
⑧韓国政府の同意がえられないばあい、一方的に韓国にたいし...
ただちに天皇は閣議決定の実行を裁可した。
これにより小村外相は、条約締結の権限と訓令を上京中の林...
関係略年表(5) 明治39~41
1906(明治39、光武10)年 1月、韓帝、イギリス人ストーリー...
1907(明治40、光武11・隆煕元)年 2月、ロシア外相、日露協...
1908(明治41、隆煕2)年 1月、裁判所構成法施行。3月、韓国...
また、閣議にさきだち小村は、神奈川県大磯の伊藤博文を二...
一回目は林が同行し、二回目は元老山県有朋が同席した。
小村は、政府の満韓経営方針を説明し、伊藤から渡韓の内諾...
一一月一日、天皇は伊藤に特派大使として韓国派遣を命じた...
しかし条約締結を主導したのは伊藤だった。
伊藤特派大使と皇帝のやりとり
一一月九日漢城へ入京した伊藤は、翌一〇日慶雲宮(キョヌ...
そして伊藤は、一五日の内謁見で皇帝に保護条約承認を強要...
やりとりの大要を、「日本外交文書」三八巻一冊に収録され...
皇帝は終始外交権の移譲、すなわち国際法上の独立国家の地...
それはアフリカの植民地にひとしい、とさえいった。
しかし伊藤は、皇帝の「哀訴的情実談」をしりぞけ、保護条...
皇帝は「朕が政府臣僚に諮詢(しじゅん)し、又一般人民の...
一六日、伊藤は朴斉純(パクジェスン)外相を除く各大臣を...
一方、林公使は朴斉純外相を招き、条約の日本政府案を正式...
韓圭萵への参政任命は、林公使の「勧告」によるものであり...
それにもかかわらず、多くの大臣もまた、保護条約締結に反...
反対のまま内閣総辞職の事態を招き、交渉不能となることを...
銃剣で威嚇しつつ調印
一一月一七~一八日、歩兵一大隊・砲兵中隊・騎兵連隊が王...
一七日午前一一時、林公使は大臣たちを泥見(チンコゲ)(...
午後三時ごろ、大臣の途中逃亡を防止するため、護衛の名目...
御前会議は夜におよんだが、条約反対の意見がつよく、結論...
「事の遷延を不得策」とみた伊藤は、あらかじめ打ち合わせ...
しかし、皇帝が病気を理由に出席を拒否したので、閣議形式...
外国の使臣である伊藤・林が武官とともにこれに出席するこ...
慶雲宮内も日本兵が満ちていた。
『大韓季年史』は「銃刀森列すること鉄桶(てつとう)の如...
窓に映る銃剣の影が大臣たちを戦慄(せんりつ)させたこと...
伊藤は大臣一人ひとりに賛否を尋問した。
韓圭萵参政と閔泳綺度支相は明確に反対を表明した。
朴斉純外相も「断然不同意」と拒否したが、ことばじりをと...
その他の肩を落とした四人の大臣のあいまいな発言も、伊藤...
こうして、国民から「乙巳五賊(ウルサオジョク)」と非難...
しかし、あくまで反対の韓圭高参政は、涕泣(ていきゅう)...
伊藤は「余り駄々を捏(こ)ねる様だったら殺(や)ってし...
大臣たちに聞こえる程度の声でいった、という意味だろう。
協約案は若干の文言修正ののち、午後一一時半、林公使と朴...
一八日午前一時半ごろである。
第二次日韓協約の内容
「第二次日韓協約」(韓国・北朝鮮で乙巳(ウルサ)条約と...
修正の主な点はつぎの文言である。
①皇帝の要請により、前文に「韓国の富強の実を認める時に至...
②第三条中に「統監は専(もっぱら)外交に関する事項を管理...
③権重顕農相の意見により、第五条「日本国政府は韓国皇室の...
②は統監の職務権限を外交面に限定し「内政に干渉せず」とい...
英文では「専ら」をprimary(主要な)と訳している。
外交上の正式代表の資格がない伊藤が、韓国大臣と交渉する...
林公使がそのことをただすと、伊藤は「俺が命じたと言った...
「第二次日韓協約」(全文は Index付録参照)は、一一月二...
協約無効論の根拠
一九九一年からはじまった日朝国交正常化交渉において、北...
「条約法に関するウィーン条約」(一九六九年採択、八一年...
この原則は今だからそういえる、というものではなく、一九...
たとえば、外務省参事官で、併合時の政務局長倉地(くらち...
したがって、韓国の代表個人にたいする「強暴、脅迫」によ...
ただし前述の強制行為を国家代表者にむけられた脅迫とみる...
無効論は北朝鮮がはじめて主張したのではない。
日韓交渉(一九五二~六五年)でも最大の係争点だった。
韓国側か「韓国併合条約」等の当初からの無効・不存在の確...
結局は旧条約の性格や植民地支配の歴史的責任についての問...
これでは一九六五年調印時における無効を確認しただけで、...
それから三〇年をへた今日、韓国でも「第二次日韓協約」の...
形式論からの無効論
無効論のもうひとつの論拠は、「第二次日韓協約」正本に皇...
一九九二年五月三日の韓国紙が、ソウル大学奎章閣(キュジ...
北朝鮮の歴史家もこれにならった。
また一一月五日の第八回日朝交渉の席上、北朝鮮の李三魯(...
しかし、この見解には誤りがある。
条約書正本に記名調印するのは特命全権大使・公使または外...
なお、新聞発表にあたった杢章閣図書管理室長の李泰鎮(イ...
だが、批准書もまた、すべての国際協定にあるとはかぎらず...
戦前日本では、国際協定締結の手続きに三種あった。
第一種 批准を要する条約(「日朝修好条規」「日露講和条...
第二種 批准を要せず、天皇裁可だけの協定(「日英同盟協...
第三種 裁可を要せず、政府限りで締結する国際約束。
もしも「第二次日韓協約」など特定の日韓間協定については...
しかし、「韓国併合条約」までに日朝(韓)間に結ばれ九五...
「第二次日韓協約」は、韓国皇帝の承認をうるのが難かしい...
したがって、批准書がないことをもって無効とする主張は再...
二 皇帝の孤独なたたかい top
上疏と殉国
「第二次日韓協約」強制調印が伝わると、重臣たちはいっせ...
もと議政府議政(首相相当)で特進官の趙来世(チョウピョ...
彼はいう。
「日清講和条約」以来、日本政府はたびたび韓国の独立を保...
この要求を無視された趙乗世は、各国公使への援助を求める...
先行条約等における韓国独立保障宣言にたいする日本の違約...
のちに伊藤博文を暗殺した安重根(アンジュングン)も、取...
もと参政で侍従武官長の閔泳煥(ミンヨンファン)も憂国の...
のちに流血の下衣から九本の細竹が生えた、という。
その枯れ葉がソウルの高麗大学校博物館に遺品とともに展示...
その昔、高麗から李氏朝鮮への王朝交替のとき、鄭夢周(チ...
血竹は堅固な節義の象徴である。
そのほか、甲申政変で開化派にくみし死んだ洪英植(ホンヨ...
いた洪万植(ホンマンシク)が自決するなど、元政府高官から...
閔泳煥の銅像(ソウル)。「第2次日韓協約」の
強制締結に抗議して自決した。
義兵の蜂起
一一月一七日強制調印の夜、「乙巳五賊」のひとり、李完用...
翌一八日には王宮正門の大漢門(テハンムン)に押しかけた...
二〇日付けの『皇城(ファンソン)新聞』は張志淵(チャン...
二二日には林公使とともに近郊に出かけた伊藤が乗った列車...
国中が騒然とするなかで、日露戦争下の抗日運動の流れを汲...
一九〇六年五月、協約締結に反対して官職を捨てたもと参判...
藍浦・保寧(ポリヨン)郡守の協力をえて武器弾薬、軍資金...
閔宗植を倡儀軍大将とする部隊は整然とした編制組織をもち...
だが、漢城から急派された日本軍歩兵一個中隊、騎兵一個小...
しかし、その閔宗植も一一月に逮捕される。
崔益鉉の殉節
閔宗植の蜂起とならんで有名な崔益鉉(チェイタヒョン)の...
崔益鉉は名高い老儒者である。
若いころ官途についたが、後年にはたびたびの高官就任の王...
「日韓議定書」についで「第一次日韓協約」を強制され、侵...
そして、ようやく皇帝の招きに応じて上京すると、日本と対...
崔益鉉が漢城に在ることを嫌った日本は、彼を捕えて生地の...
「第二次日韓協約」の強制調印を亡国条約と的確にとらえた...
六月、ついに挙兵の決意を表明、皇帝にその志を告げ、国権...
義兵とともに上京して伊藤統監・長谷川軍司令官と会見し、...
また「棄信背義十六罪」の問罪状を日本政府に送った。
そこでもいう。日本はしばしば韓国の独立・自主を明言して...
その主なものとして甲申政変、日清開戦時の王宮占領、閔妃...
六月四日泰仁で決起した義兵は、全羅南道に踏み入り、兵を...
だが、一週間後の一一日には、全州と南原(ナムウォン)の...
崔益鉉は、“皇帝の軍隊と戦うことはできない”といって抗戦...
日本軍に引き渡された彼は、禁固三年の刑に処せられ、対馬...
衰弱のはて、皇帝への遺疏をのこして命が尽きたのは一九〇...
七三歳たった。
ハルバートのアメリカ派遣
高宗皇帝は、多くの上疏が求めた協約破棄、「五賊」処罰な...
補弼(ほひつ)する忠臣を排除され、日本軍の虜囚同然の身...
皇帝にのこされた唯一の道は、密使を通じて協約の不承認と...
外国の干渉をよびこむことによって、自国につかみかかろう...
一八八二年調印の「朝米修好通商条約」第一款に、「若(も...
示すべし」という条文がある。
朝鮮にたいし第三国の不当、強圧的な圧迫があったばあい、...
「善為調処」の英訳は good offices (周旋)であり、media...
また、朝米条約に特有のものでもない。「日米修好通商条約...
皇帝は、この条項にもとづいてアメリカの斡旋を期待した。
アメリカをえらんだのは友好的な朝米関係を信頼し、公正な...
要請を伝える使者にはハルバートがえらばれた。韓国高官派...
ハルバートは一八八六年朝鮮政府の招聘で来朝し、九一年ま...
韓国に理解を示したアメリカ人である。
アメリカ大統領にあてだ皇帝の親書を携えた彼が、ワシント...
ただちにルーズベルト大統領との会見を申し入れたが断わら...
アメリカへの密使たち
皇帝はまた、駐仏公使閔泳贊(ミンヨンチャン)に密旨を下...
しかし、ワシントンに急行した閔泳現にたいするルート国務...
韓国に好意的だった前駐韓アメリカ公使アレンに託した、ア...
すでに日本の韓国支配を承認していたアメリカは、密使たち...
密使たちがなしえたことは、強制調印された保護条約が無効...
かつて甲申政変後の日朝間の調停依頼、日清戦争直前の日清...
条約をむすんだ欧米諸国がアジアの被侵略国の側に立つこと...
国を守る軍事力はなく、友好国はなく、皇帝を支える側近も...
高宗がすがる思いで差しのべた手をアメリカ政府はつき放し...
国書と親書
ハルバート・閔泳贊・アレンを通じての対米工作が足ぶみ状...
国書には、保護条約を皇帝は承認しておらず、主権の一部た...
共同保護の内容は不明だが、日本の統監府開庁(二月一日)...
国書を伝達したのは、中国にいた『ロンドン・トリビューソ...
彼は上海で亡命中のある韓国高官から依頼され、漢城の宿所...
身を挺して中国に渡り、芝罘(シーフー)駐在イギリス総領...
国書がイギリス政府に届いたかどうかあきらかでないが、ス...
皇帝の懸命の「主権守護」秘密外交については、近年、金基...
その全貌が解明されるのもそう遠くはあるまい。
つぎの一九〇六年六月二二日付けの皇帝親書も、金基夾副教...
皇帝は、対米工作に失敗して韓国へもどったハルバートを「...
高宗皇帝の親書発見を報ずる1993年10月24日付け『東亜日報』
親書は、不法に締結された協約が無効であり、皇帝として承...
万国裁判所とは、一八九九年の第一回万国平和会議で作成さ...
ハルバートは翌一九〇七年五月漢城をたち、シベリア経由で...
七月はじめにパリに現われ、パークではつぎに述べる三人の...
しかし、同日、皇帝退位を知ったハルバートは、親書が無効...
親書が各国元首に届かなかったことは、親書原本の多くが「...
ハーグ密使
一九〇七年六~一〇月、第二回万国平和会議がパークで開催...
韓国皇帝はこの会議に代表を送り、日本の国際法違反行為を...
二人の密使はペテルブルグで前駐露公使李範晋(イボムジン...
彼らは会議議長であるロシア代表のネフリュードフをはじめ...
しかし前年、新任の韓国駐在ロシア総領事にたいする認可状...
参加を認められなかった彼らは、オランダのジャーナリスト...
日本政府は、五月ごろから万国平和会議への密使派遣の情報...
事後も両者を関連づけてハルバート主謀説をとり、それが研...
両者はそれぞれ別個の任務を帯びていた。パーク密使が国際...
皇帝は国際仲裁機関に着目し、仲裁裁判によって日韓協約の...
しかし、世界の風潮が国家間紛争を国際裁判・調停で解決す...
日本の侵略に対抗する軍事力をもたなかった韓国皇帝は、ア...
それでも皇帝の日韓協約不承認の態度は一貫して変わること...
三 植民地権力の成立-内政権をも掌握する top
統監府の建言とは
一九〇五年(明治三八)一二月二〇日、勅令二六七号で「統...
「京城」に設けられる統監府の長である統監は、天皇に直隷...
韓国において日本官憲がおこなう政務の監督(第三条)、
韓国守備軍司令官への兵力使用の命令(第四条)、
韓国政府にたいし条約義務履行、執行の請求(第五条)、
韓国政府傭聘の日本人官吏(財政・外交・宮内府・軍部・警...
統監府令の公布(第七条)、
条約または法令に違反する、所轄官庁の命令・処分の停止あ...
強大な権限が統監にあたえられた。
しかも、これらの執行にあたっては日本政府の承認を必要と...
つまりは統監は天皇の名代として韓国に君臨したのである。
ただし、「第二次日韓協約」第三条に、「統監は専ら外交に...
統監が統轄する外交事務の範囲は、韓国における外国領事館...
国家間の外交問題は、韓国から外交権行使の移譲をうけた日...
統監府が扱う外交事務を「地方的事務」にとどめ、韓国外交...
竣工直後の統監府
植民地権力の成立
保護条約には、保護をあたえる国が被保護国の内政にどこま...
韓国皇帝に保護条約受諾を強要したとき、伊藤博文は、「内...
それが虚言であることは、調印に際しての文言修正をめぐる...
協約文に内政不干渉を明記することを求めた韓国側の要求に...
「第二次日韓協約」には内政干渉の規定はない。具体的事項...
ただし、第四条で先行協約の有効を確認していたから、韓国...
東京帝国大学法科大学の立(たち)作太郎教授(国際法)は...
こうして韓国内政全般にわたる監督と支配のための植民地機...
初代統監は伊藤博文が任命された。
一九〇六年二月二〇日、東京をたった伊藤が、伊勢神宮に詣...
統監府はすでに二月一日、景福宮(キョンボククン)まえの...
統監府はその後、さらに内政監督権を強化した。その肥大傾...
一九〇七年六月におこなわれた内閣官制改編では、皇帝権限...
そのうえで、つぎに述べる「第三次日韓協約」を利用して、...
こうして韓国行政の細部にいたるまで、統監が直接指導・監...
皇帝の強制譲位
国権横奪の不法を訴えるため、皇帝がハーグ万国平和会議に...
「此際、韓国に対して局面一変の行動を執るの好時機なりと...
短い電文のなかで二度も絶好の機会である、とくり返したと...
その四日後の七日、伊藤はふたたび林外相に電報を送り、対...
ただちに閣議がひらかれ、つぎのような要綱案を決定し、一...
①高宗皇帝の皇太子への譲位、
②皇帝・政府の政務決裁に統監の副署を必要とさせる、
③統監は「副王」あるいは「摂政」の権限を有するものとする、
④主要部(省)の大臣または次官に日本政府派遣の官僚をあて...
皇帝の譲位問題について元老たちの多数意見は「否」であっ...
一八日、林外相が漢城へ入京した。
譲位の実行責任を負わされたのは李完用とその内閣である。...
一八日夜、閣僚一同のかさねての譲位奏請にたいしても、皇...
窮した李完用首相は、林外相の入京を告げ、ことは急を要す...
純宗の即位強行
詔勅は、高宗四四ヵ年の治世の困難を回顧しながら、最後に...
「伝禅」とは皇位を譲るという意味だが、高宗皇帝は「譲位...
皇帝退位ではなく、皇太子純宗(スンジョン)の代理政を承...
あくまで帝位交替を求める日本側は、李完用に命じて、二〇...
虚構の譲位式場の窓からは、群衆が焼き打ちをかけた李完用...
二一日夜には、侍衛隊の陰謀から宮中を守るという口実で、...
「新皇帝」として大韓帝国最後の皇帝となる純宗の即位式は...
また一一月には、旧帝の影響から新帝を遮断するため、純宗...
第三次日韓協定
西園寺公望首相が伊藤統監に指示した「対韓処理方針」は、...
それを具体的に展開したのが前述の統監による法令制定等の...
すでに外交権を奪われて独立を失った韓国が、いままた内政...
それにもかかわらず、この段階では日本政府は韓国合併を選...
元老・大臣にたいする、韓国皇帝が日本の天皇に「譲位」す...
合併推進派と目される元老山県有朋、陸軍大臣寺内正毅も「...
韓国合併について国際的同意をとりつけられない、とみたた...
大韓帝国の名をのこしつつ、日本が韓国内政権を全面的に掌...
協約案は、渡韓した林外相と伊藤統監が作成したが、調印さ...
皇帝が発布する詔勅を統監が検閲する、というあからさまな...
七月二四日、伊藤から李完用首相に協約書がわたされ、その...
また、協約調印と同時に、非公表の覚書が伊藤統監と李完用...
覚書は協約にもとづき、つぎの事項を漸次実施するとした。
①大審院・控訴院・地方裁判所を新設し、その主要ポストに日...
②監獄を地方裁判所所在地などに新設し、典獄(刑務所長)に...
③韓国軍隊を整理する(後述)。
④韓国政府傭聘の顧問、参与官を解傭する。
⑤韓国各部次官、内部警務局長を日本人とするほか、地方庁官...
協約第二条は、立法・行政権の根幹を統監が直接掌握するこ...
調印にさきだち、伊藤は韓国閣僚に協定事項を提示したとこ...
締結交渉なしの協約、覚書の押しつけである。
譲位の詔勅と同時に、皇帝から治安維持の任務を「委任」す...
二一日に混成一個旅団の急派を要請した伊藤は、回答の遅延...
「我に於て極端手段を執るの已むなきに至るやも計られず」...
二四日、歩兵第一二旅団派遣の報が届いた。
新皇帝の玉座に座らされた純宗は、一八九七年の「毒茶事件...
純宗がかたちだけの皇帝に推戴されたと同じように、この国...
四 高揚する義兵闘争 top
軍隊解散の詔勅
秘密覚書第三項は、「下記の方法に依りて軍備を整理す」と...
①皇居守衛のための一個大隊を除き、その他の軍隊を解散する。
②韓国軍隊にとどまる必要のある者をのぞき、士官は日本軍に...
③日本が韓国士官養成機関を設ける、とした。
武力抵抗素となる軍隊の牙(きば)を抜くことがさしあたり...
軍隊解散の詔勅は、覚書調印から一週間しかただない七月三...
詔勅は 「軍制の刷新を図り、士官の養成に力を専らにし、...
徴兵制施行にもふれていることから推測すると、植民地軍隊...
この詔勅は内閣が起案し皇帝が裁可・公布した形式をふみな...
『週刊朝日』一九八二年一〇月一日号に伊藤自筆の詔勅の下...
前述のように、統監への詔勅発布の事前諮詢は「第三次日韓...
ましてや統監自身が詔勅を起草することはありえないはずで...
いまや伊藤が韓国皇帝だった。
解散軍隊の叛兵
詔勅発布の翌八月一日午前一〇時、練兵場で解散命令が下達...
廃止されるのは侍衛隊・騎兵隊・砲兵隊・工兵隊・地方鎮衛...
このしらせを受けた歩兵第一連隊第一大隊長朴星煥(パクシ...
そのため機関銃二丁を携帯して出動した日本軍歩兵大隊とは...
交戦二時間、ようやく日本軍は兵舎を占領したが、韓国兵は...
兵士の反乱は軍隊解散だけがその理由ではない。
すでに譲位の詔勅がだされた七月一九日夕、侍衛隊第三大隊...
このとき、第二大隊の兵士数人も兵営を出て警務庁に発砲し...
さらに同夜には宮中に乱入し、売国的な国務大臣殺害をはか...
こうした反日武装決起の兆しをみた伊藤は、「目下、京城に...
叛兵の翌夜、皇帝の交替を印象づける、もうひとつの儀式が...
改元式である。
あたらしい年号は隆煕(ユンヒ)だった。
丁未義兵
侍衛隊にはじまる軍隊解散は地方鎮衛隊におよび、九月はじ...
しかし、解散命令をこばみ、民衆とともに決起した鎮衛隊が...
そのひとつは江原道原州(ウォンジュ)鎮衛隊である。ここ...
また、原州の日本人居留民、警務分遣所を襲い、鎮圧のため...
鎮衛隊大隊長の逃亡後は、兵営を脱した将兵が小集団にわか...
これを制圧するため、朝鮮駐箚軍司令官はつぎつぎに「膺懲...
朝鮮駐箚軍司令部編『朝鮮駐箚軍歴史』はつぎのように述べ...
暴徒討伐は尋常の戦闘と其の軌を同うせず。毫(ごう)も抵...
蓋(けだ)し彼等暴徒は其の服装の良民と異らざるのみなら...
其の隠現出没の巧妙なる、討伐隊をして殆(ほとん)ど奔命...
もうひとつの反乱は、水原(スウオン)鎮衛隊江華島分遣隊...
鎮衛隊将校劉明奎(ユウミョンギュ=柳明啓ともいう)が、...
日本軍は八月一〇日、機関銃二丁をもつ歩兵一個小隊を漢城...
郡守を殺害した「首魁(しゅかい)」の劉明奎は日本軍との...
軍隊反乱は、干支(えと)でいえば丁未(チョンミ)にあた...
日本にたいするうらみと伊藤統監と手をむすんだ傀儡政権に...
義兵闘争が全国的に広がる。
朝鮮駐剳軍司令部編『朝鮮暴徒討伐誌』によれば、一九〇七...
このうち一万七六八八人の義兵の血が山野を染めた。とくに...
義兵将李麟栄
蜂起した義兵を指導したのは旧軍人とはかぎらない。偶発的...
初期義兵以来の抗日組織が地下茎のように張りめぐらされて...
一九〇九年六月、忠清北道永同(ヨンドン)郡黄澗(ファン...
彼は甲午農民戦争のとき柳麟錫(ユインソク)らと兵をあげ...
その後、慶尚北道聞慶(ムンギョン)で田二斗落(トーラク...
彼は江原道で兵を集め、一万人を率いる関東倡義大将となっ...
関東とは大関嶺の東にあたる江原道、倡義とは義を唱えると...
一二月、漢城上京をめざして京畿道楊州に旧兵士三〇〇〇人...
全羅・湖西(忠清道)・嶋南(慶尚道)・鎮東(京畿道、黄...
李麟栄はその全軍の大将にも推され、漢城進攻を指揮した。
彼らは、漢城の各国領事館に書を送り、“日本が約束を破って...
先遣隊二〇〇〇大は漢城の東大門外三里の地点にまで迫った...
一年半後に捕えられた李麟栄は、一九〇九年六月一九日から...
死を決意した彼は悪びれず堂々と尋問に答えている。
問 京城へ侵入する目的なりしや。
答 統監府に交渉して侵入の上は死を決し、勝敗を決せん覚...
問 如何なることを交渉せんと思いしか。
答 馬関条約(日清講和条約)通り、韓国の独立及皇帝の安...
問 汝(なんじ)の主とする倡義の目的はそれなるや。
答「復我国権、鞏固(きょうこ)独立」で、然る後奸臣を殺...
義兵闘争関係図
李麟栄は起訴され、絞首刑の判決をうけた。
刑法大全第一九五条「政府を傾覆し、其他政事の変更を為さ...
弾圧の体系
皇帝譲位、「第三次日韓協約」締結当時の朝鮮駐箚軍の兵力...
それでは不足とみた伊藤統監が混成旅団増派を要請したことは...
また一九〇七年一〇月、憲兵隊の編制を改正して明石元二郎...
翌一九〇八年六月創設の韓国人憲兵補助員制度を加えると、...
さらに一九一〇年には併合にさきだって、警務機関統一の名...
軍事警察をうけもつ憲兵が司法、行政警察をも担当する憲兵...
地域ぐるみの抹殺を図る
こうした弾圧機構の整備拡充を背景として、義兵闘争の高揚...
義兵のゲリラ戦に苦しんだ軍司令官は、「責を現犯の村邑(...
たとえば、義兵の拠点であり、町を囲む山地に散兵壕をめぐ...
その後、取材のため焦土と化した堤川を訪れたイギリスの『...
このような根こそぎ弾圧は、仕掛け人である伊藤統監さえ、...
一九〇六年八月から英字新聞『コリア・デイリー・ニース』...
以前からベセルの言動に困惑しながらも、イギリス人である...
ペセルはイギリス枢密院令にもとづき、「教唆煽動」の罪に...
「南韓暴徒大討伐作戦」
日本軍の執拗(しつよう)な討伐のため、義兵運動の環はせ...
後退傾向のもとでもっとも活発なゲリラ活動を広範囲にわた...
一九〇八年から○九年前半にかけての道別義兵交戦状況をみる...
彼らの「行動たるや頗(すこぶ)る巧にして」官憲の隙をつ...
このため日本軍の討伐は、「〔いかに〕日夜掃蕩(そうとう...
著ならざりし」状態にとめおかれた。
そこで日本軍は「効力微少なりし大討伐」の方式を変え、「...
それは討伐隊を警備隊と行動隊とにわけ、警備隊が包囲陣形...
南部守備管区司令官渡辺水哉少将は、一九〇九年九月一日か...
派遣兵は歩兵二個連隊と工兵一個小隊の大がかりな部隊編成...
討伐隊は包囲地域の面長(村長)、洞長(部落長)をよびだ...
変装隊、密偵を放っての情報収集も効果をあげたという。
この「暴徒大討伐」作戦により、沈南一(シムナムイル)、...
さしもの全羅道義兵も退潮を避けられなかった。
こうした日本軍の弾圧に弾圧をかさねた討伐戦により、併合...
併合後の一九一〇年一一月以降も江原・忠清・慶尚比道の道...
国内における抗日闘争が困難になった義兵たちは、鴨緑江(...
第六章 韓国併合への道
一 保護か併合か――伊藤博文の「改宗」
二 併合の条件づくりがすすむ
三 「韓国併合条約」の論理
一 保護か併合か――伊藤博文の「改宗」
併合論の台頭
ハーグ密使事件を契機として、日本の対韓政策があらたな段...
国家主義団体玄洋社(げんようしゃ)の頭山満(とうやまみ...
その意見は、“韓国皇帝に主権を日本に「禅譲」させ両国が合...
“現皇帝である高宗を譲位させ、統治権を日本に委任させる”...
第一案を「上策」とするが、それが不可能な場合でも第二案...
河野・小川らが所属した猶興会(ゆうこうかい)は、日露戦...
1909(明治42、隆熈3)年 1月、韓帝地方巡幸、伊藤統監陪従...
1910(明治43、隆熈4)年 2月、小村外相、在外使臣に韓国併...
憲政本党も韓国処分について政府の「勇断」を求め、山県・...
新聞・雑誌も事件を好機ととらえ、対韓強硬措置を説く論説...
朝鮮総督府編『朝鮮ノ保護及併合』は「我が国上下輿論(よ...
西園寺首相は、韓国へ派遣した林董(ただす)外相にあてて...
伊藤の保護国論
しかし、伊藤統監は強硬論に耳をかたむけず、合併論をしり...
伊藤は統治の実権を掌握しながらも、韓国閣僚に日本人を送...
持論の保護国としての韓国支配を、よりいっそう徹底してお...
「第三次日韓協約」調印翌日の統監府幹部にたいする談話の...
記者会見でも伊藤は、日本の政策は韓国を富強ならしめ、「...
さらにつづけて合併問題に言及し、「合併は却(かえ)って...
「厄介」とは、外国の反対や批判をうけかねないという意味...
伊藤は統監就任以来、しばしば韓国の「独立富強」を口にし...
保護の名における韓国内外政の主権侵奪と韓国の独立とが矛...
韓国の独立をおびやかし主権を蚕食しているのが、ほかなら...
したがって名分を捨てる併合は避けたいのである。
伊藤はそのような保護国論者だった。
保護国経営
「第三次日韓協約」強制締結以後、伊藤統監は保護国として...
イギリスのエジプト占領下の経営をになったクローマー提督...
第一は司法制度整備である。東京帝国大学教授・法政大学総...
法治国家としての体裁を整え、それまでに韓国が諸外国とむ...
第二は韓国中央銀行の設立である。一九〇五年以来、日本の...
第三は教育振興である。韓国が儒教一辺倒の教育からぬけだ...
伊藤は、東京高等師範学校教授三上(みつち)忠造(のち文...
第四は殖産興業である。
「独立富強」をスローガンに掲げた伊藤の産業振興、資源開...
日本政府が八年間毎年三〇万円を補助して社債二〇〇〇万円...
「東拓」が併合後、小作制大農場経営と貸金事業を発展させ...
また、同時期に日本からの資本輸出も積極化した。
日本政府からの施政改善経費借款一九六八万円(一九〇八年...
このうち興業銀行からの借款は、日本政府が利息支払いを保...
日本の朝鮮支配の国際的了解が前提になっている。これらの...
こうした植民地政策は結果的には併合の地ならしとなったが...
併合を前提としたのであれば、法典編纂などは不必要だった...
統監政治への批判
一九〇九年、「施政改善」政策をひっさげた伊藤は、純宗皇...
行くさきざきで妨害にあいながらも、目的は抵抗する民衆の...
伊藤は着手した保護国経営政策が結実すれば、民衆は日本に...
しかし、伊藤の甘い見通しを裏切って義兵闘争はますます激...
伊藤が北韓巡幸から漢城(ハンソン)へ帰着したばかりの二...
大竹はのちに普選運動でも活躍するが、対外強硬派で鳴らし...
彼は、伊藤の失政を逐一とりあげ、「宗主国たる我帝国の威...
伊藤の統監辞任直前の六月一日にも、大竹は「公の統監辞任...
漢城の邦字新聞『京城新聞』なども、統監府設置以来の政策...
実行の時期はともかく、併合の機会をうかがっていた元老山...
韓国の「独立富強」を掲げる伊藤の施策が成功し、保護国と...
一進会の動向
韓国で併合推進を唱える一進会も伊藤にゆさぶりをかけた。
一進会は一九〇四年、宋秉唆(ソンビョンジュン)が組織し...
これを利用した日本人、とくに陸軍の支援により政治団体と...
それは政社としては第二位の、穏健な排日自主主義の大韓協...
一進会が日本の国家主義団体黒竜会主幹の内田良平を通じて...
宋秉峻・李容九と内田は、「韓日合邦」の一点で気脈を通じ...
一九〇七年五月の李完用(イワンヨン)内閣の組閣にあたっ...
伊藤は李完用派と一進会の連立内閣で政権を操縦しようとし...
たしかに宋秉峻も高宗譲位問題では伊藤の期待にこたえる役...
一九〇八年六月、宋秉唆は農商工相辞任を申し出た。
自分の辞職によって内閣を崩壊させ、混乱の責任を負う伊藤...
しかし、伊藤の巧妙な説得と、内閣改造による宋秉峻の内相...
政局混乱の事態は回避されたが、伊藤は一進会との絶縁を決...
たとえ「親日」にせよ「韓日合邦」を高唱する一進会は保護...
そればかりでなく、しばしば義兵から狙われ、統監府設置以...
伊藤は、李完用首相の宋秉峻追放工作に同意をあたえた。
一九〇九年二月、宋秉唆は内相を解任された。
伊藤の統監辞任
保護国経営をめざした統監政治が思わぬ障害に遭遇して、伊...
一九〇八年一一月ごろには統監辞任の意向をもらすようにな...
その理由はさまざまであろうが、最大の理由は、弾圧をかさ...
統監の権力は、韓国の「天」と「地」とを奪うことはできて...
栄達の頂点に立った男の自負と自信が音をたてて崩れていく。
『伊藤博文伝』によると、一九〇九年四月一〇日、桂首相と...
すると「公は両相の説を聞くや、意外にもこれに異存なき旨...
そればかりか、桂・小村が提示した「併合の方針」について...
保護国論から併合論への改宗である。
それから二週間後に東京上野の精養軒でひらかれた、京城日...
併合論への飛躍は、三年半にわたった統監政治の失敗を自認...
五月下旬、伊藤は統監の辞表を天皇に提出した。天皇は一度...
六月一四日付けで四度目の枢密院議長に転じた伊藤は、事務...
漢城滞在中、みずから指揮して「韓国司法及監獄事務委托に...
韓国の司法・監獄事務の日本への委託は、伊藤が韓国の法治...
これにより韓国法部(法務省)は廃止され、かわってあらた...
また、軍隊解散によって皇宮警衛の歩兵一個大隊、騎兵一個...
こうして伊藤は、つみあげてきた保護国構想をみずからの手...
二 併合の条件づくりがすすむ top
併合計画の発進
一九〇九年(明治四二)四月一〇日、伊藤の併合路線への転...
それは小村が、外務省政務局長倉地鉄吉に命じて作成させた...
まず、韓国における日本勢力の現状は「未だ十分に充実する...
第一、適当の時機に於て韓国の併合を断行すること。
第二、併合の時機到来する迄は、併合の方針に基き、充分に...
そして当面の具体的「施設」として、
①秩序維持のため軍隊駐屯と憲兵・警察力の強化、
②外交権の掌握、圓韓国鉄道と満鉄との連絡、
③日本人の殖民、をあげている。
ちなみに「併合」ということばは、草案作成にあたった倉地...
彼は日韓対等合併の印象を与えず、国家廃滅・領土編入であ...
合併でもなく、併呑でもないという意味だろう。
以後、「併合」は公用語として使用されたばかりでなく、一...
この対韓方針案は七月六日の閣議で決定され、同日天皇の裁...
その実施は「適当の時機」ではあるが、政府方針として韓国...
これにより小村外相は、一歩すすめて併合実施の順序方法と...
内容はあきらかでないが、両国の国家意思の合意を示す条約...
一進会の合邦運動
この年九月、宋秉峻と李容九が率いる一進会は、大韓協会と...
反李完用内閣の一点で三派は連繋したが、一進介が「韓日合...
一二月四日、一進会は会長李容九の名前で声明を発表すると...
上奏文が却下されたのはもちろんであるが、曽禰統監も言を...
当時、漢城で雑誌を主宰していた釈尾東邦の『朝鮮併合史』...
一進会が求めた合邦とは、日本との対等合併ないしは連邦形...
しかし、曽禰が一進会の合邦提唱を歓迎しなかったのはその...
もはや日本にとって韓国内における併合推進の世論操作の必...
予想どおり一進会の声明にたいして大韓協会・西北学会はも...
声明発表の翌五日には漢城西大門(ソデムン)で李完用きも...
この機会をとらえた曽禰は、一進会に演説・集会を禁じ、さ...
併合反対であれ賛成であれ、併合を既定方針とした日本政府...
ロシアの併合承認
一九一〇年(明治四三)二月、小村外相は在外大使らに前年...
ただし併合実行の「時機」は「内外形勢に照らし決定を為す...
列国の干渉を誘うような併合であってはならないのである。
在外大使への通知には、それぞれの任国の反応を探知するよ...
日露戦争期を境とする国際情勢の変化、すなわち英仏協商(...
一九〇七年七月三〇日調印の「第一回日露協約」はその産物...
日露両国はハルビンと長春・吉林の中間で満州を南北に分割...
交渉の過程で林外相や伊藤統監は、日韓関係の将来の「発展...
しかし「日露講和条約」に記した、日本の韓国における「卓...
韓国併合直前の一九一〇年七月四日に調印された「第二回日...
三ヵ条の本協約と六ヵ条の秘密協約に韓国事項を明記するこ...
満蒙地域における利権の拡大を狙うロシアもまた、日本との...
たとえば調印直後に、ロシアが以前から主張していた松花江...
のちに「韓国併合条約」調印をロシア政府へ通知するため訪...
日露両国は韓国、清国を材料に取引したのである。
イギリスの併合同意
日英同盟下で友好関係にあったイギリスの大勢は、日本の韓...
一九一〇年五月一九日、駐日大使マクドナルドは小村外相を...
小村が実行の時期は未定ながら併合の方針であると答えたの...
実行まえに併合によってイギリスがこうむる不利益について...
イギリスは韓国とむすんだ条約によってえていた既得権を併...
その最大関心は関税問題である。関税自主権を欠く韓国の対...
六月三日の日本政府閣議は、はやばやと関税は「当分の内現...
併合実行を目前にひかえた八月一四日、小村外相は駐英大使...
「韓国併合条約」公布の八月二九日に発表した政府宣言で、...
それにしても韓国併合問題についての欧米列強にたいする日...
天皇・総督と植民地
ロシア・イギリス両国から韓国併合の同意をえたことは、帝...
対外関係処理の見通しをつかんだ政府は、一九一〇年六月三...
そこにはつぎのようにある。
一、朝鮮には当分の内、憲法を施行せず、大権に依り之を統...
一、総督は天皇に直隷し、朝鮮に於ける一切の政務を統轄す...
一、総督には大権の委任に依り、法律事項に関する命令を発...
但、本命令は別に法令又は律令等、適当の名称を付するこ...
この三項は天皇とその名代である総督の、植民地朝鮮にたい...
ここでは日本の朝鮮統治権は憲法によって規定されるのでは...
したがって憲法の効力がおよばない朝鮮には「大日本帝国憲...
もしも日本の韓国併合に、朝鮮の未開と停滞をひらく文明史...
だが、朝鮮は天皇大権にもとづき植民地統治の委任をうけた...
こうして天皇にたいしてのみ責任をもつ朝鮮総督は、本国政...
併合後の九月二九日の勅令「朝鮮総督府官制」は、総督は陸...
朝鮮総督府の植民地行政は本国政府省庁の監督をうけないの...
寺内正毅の統監就任
これよりさきの一九一〇年五月、寺内正毅が第三代統監とな...
寺内は陸軍大将。一九〇二年第一次桂内閣の陸相として入閣...
統監職は陸相兼任であった。
併合実行の責をとることになった寺内は、併合準備委員会を...
原案作成は倉地外務省政務局長と統監府外務部長小松緑がお...
そこでは併合後の国称、朝鮮人の国法上の地位、朝鮮におけ...
七月八日の閣議は、この併合準備委員会の結論とともに、併...
後藤新平は「高麗」説をとった。
高麗はコリアに通ずるからであろう。
朝鮮は古い呼称で、「朝日が鮮明なところ」(『東国輿地勝...
いずれにしても、併合後になお一国が存続しているような印...
一方、韓国では政府の警察機構を統監府に吸収する作業がお...
寺内新統監は六日、韓国駐箚軍参謀長から憲兵隊司令官に復...
いわゆる憲兵警察制度がこれであり、軍事警察との一体化だ...
明石は統監府警務総長を兼任する。
こうして国際的にも国内的にも併合の準備が整った七月二三...
ただちに執務を開始した寺内は、八月一三日、小村外相につ...
予(かね)て内命を受け居れる時局の解決は、来週より着手...
別段の故障なく進行するに於ては、其週末には総(すべ)て...
三 「韓国併合条約」の論理 top
「韓国併合に関する条約」正本(韓文)
合意の強要
一九一〇年(明治四三)八月一六日、寺内統監は李完用首相...
寺内はその理由をつぎのように述べたという。
日本政府は韓国を擁護せんがため、既に二回の大戦を賭し、...
虚言を弄(ろう)するのもはなはだしいが、“日本が韓国「扶...
は施政改善の目的を達成できないので韓国皇室と韓国民のため...
外務省編『小村外交史≒が認めるとおり、日清戦争以来、日本...
それゆえ、寺内は李完用にくり返して、日本の韓国併合は他...
植民地権力の後ろ盾でからくも政権の座を守ってきた李完用...
ただ国号として「韓国」の存続と、退位する皇帝に王称をあ...
せめてかたもだけでも「国」「王」を維持したかったのであ...
日本案は現皇帝純宗(スンジョン)、太皇帝高宗(コジョン...
同夜、李完用首相とひそかに打ち合わせた趙重応(チョウジ...
寺内は、朝鮮への改称は変更できないが、趙重応が提案した...
この点で妥協しても調印を急いだ方が得策とみたためである。
寺内は、この皇帝称号を桂首相に稟請(りんせい)し、一八...
ほかに条約内容についての交渉はなかった。
あっても寺内ははねつけただろう。
韓国併合に関する条約
八月一八日の韓国閣議で、李容植(イヨンシク)学相だけは...
だが、大勢は調印やむなしとした。
李完用首相は、閣外の閔丙夾(ミンピョンソク)宮相、尹徳...
寺内は即刻条約案全文を付して天皇裁可の上奏を稟請した。
二二日、天皇は枢密院に諮詢のうえ、「韓国併合条約」を裁...
同日、韓国御前会議も、反対意見の李容植学相欠席のままひ...
李完用と寺内の条約書への記名調印もその日のうちにおこな...
『京城新報』によると、この日の漢城の最高気温は二九度。...
「韓国併合に関する条約」は全八条(全文は Index付録参照...
イギリス・ロシアには調印まえに併合条約締結の見通しを予...
しかし日韓両国内には公布までは秘密とし、統監府は、新聞...
「韓国併合条約」は二九日の『官報』号外で公示され、同時...
併合の形式をめぐって
戦争が紛争解決の一手段として正当視されていた当時の国際...
「強制的併合」とは、併合する国が戦争により被併合国を征...
国際法学者の阿部浩己氏は、日本の韓国併合は「強制的併合...
阿部氏は、義兵闘争にたいする弾圧を植民地戦争になぞらえ...
しかし日本軍の義兵弾圧は、たてまえ上は韓国皇帝から治安...
保護条約である「第二次日韓協約」により韓国を保護するこ...
ましてや保護をあたえる国である日本が、被保護国である韓...
伊藤統監が保護国にこだわり、容易に併合論に同調しなかっ...
ただし、その伊藤も一度だけ日韓開戦を望んだことがある。
一九〇七年パーク密使事件に際して、七月三日皇帝に謁見し...
これがたんなる威嚇でなかったことは、伊藤がかさねて李完...
韓国側から開戦を宜し、戦争の正当な理由をつかんだとすれ...
ただちに韓国を征服し、「強制的併合」を実現したであろう。
だが皇帝は伊藤の挑発にのらなかった。
そうだとすれば、日本は国家間合意形式の「任意的併合」を...
閣議が併合手続きを決定した際、「強制的併合」の措置につ...
韓国皇帝が統治権を譲与し、天皇がこれを受諾するという、...
一九六五年一一月五日の衆議院日韓条約特別委員会で、当時...
「強制」を「任意」に、黒を白にいいくるめた併合条約の論...
アメリカのハワイ併合の場合
統一国家形成以前の保護領ならばともかく、近代国家にして...
ハワイ先住民による近代国家は、一七九五年に初代カメハメ...
諸外国とも公式の外交関係をもつ独立国家であった。ところ...
そのうえで白人たちによる臨時政府はアメリカ政府に併合を...
しかし、あたらしく大統領となった民主党のクリーヴランド...
四年後の九七年、大統領が共和党のマッキンレーにかわると...
日本が高宗皇帝を強制譲位させ、傀儡の李完用政権や一進会...
どちらも不当な併合である。
いま、ハワイではアメリカ連邦政府に自治権確立、ハワイア...
併合の世論
こうして韓国併合が実行されたが、それにたいして日本人の...
併合直後の一九一〇年八~一〇月の『東京朝日』『大阪朝日...
姜東鎮氏の整理にしたがって併合正当化論の論調を列挙する...
①古代においても朝鮮が日本に併合されたことがあるから、併...
②同祖同根論にもとづく自然的趨勢だとするもの、
③朝鮮人の幸福増進のためとする植民地エセ幸福論、
④旧朝鮮王朝の悪政強調と朝鮮独立不能論にもとづく併合不可...
⑤併合が日本にとっての利益よりは負担になるとするもの、
⑥天皇の赤子(せきし)慈愛論と主権譲渡論、
⑦日清・日露戦争での犠牲の代価が併合だとするもの、
⑧朝鮮人が日本の保護政治を支持した結果が併合だとするもの...
いずれの論拠によっても、日本の侵略の事実を歪曲(わいき...
マス・メディアが送りつける大量の併合賛美論は、「韓国領...
自由主義者・植民政策学者として令名高く、現在の五千円札...
一九一〇年九月一三日、第一高等学校入学式での校長演説で...
次に忘れることの出来ないのは朝鮮併合の事である。
之は実に文字通り千載一遇である。
我が国は一躍してドイツ、フランス、スペインなどよりも広...
とにかく今や我が国はヨーロッパの諸国よりも大国となった...
諸君は急に大きくなったのである。
一九〇六年一〇月、統監府嘱託として韓国農業事情を視察...
いくらかなりと韓国植民地化を批判していた社会主義者もま...
たとえば片山潜(せん)派の『社会新聞』(一九一〇年九月...
「為政者は固(もと)より、全日本国民は個人とし、社会団...
その論説「日韓合併と我責任」は、独立心を欠いた「土台の...
社会主義に近づいた石川啄木は併合公表から一一日目の九月...
「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨をぬりつつ秋風を聴く」と...
この有名な歌にしても、地図の上から抹消された亡国への憐...
歴史家と日朝関係史
新聞・雑誌にもまして国民に大きな影響をあたえたのは、国...
併合直後の一九一〇年一一月、日本歴史地理学会は『歴史地...
巻頭に韓国併合の詔書を掲げ、一流の歴史・地理学者ら二二...
彼らはこぞって併合を礼賛、正当化した。
その執筆者のひとりでもある喜田貞吉(きたさだきち)は、...
これは八月に日本歴史地理学会が主催した併合に関する記念...
喜田は日本古代史・民族史の大家で、当時、文部省図書審査...
日本の朝鮮植民地政策の理念である「同化主義」を歴史的に...
従って今回の併合は韓国を滅ぼしたものではなくして、其の...
喜田によれば「韓国は貧弱なる分家で、我が国は実に富強な...
このような民族史観にもとづく併合の正当化は、喜田にかぎ...
したがって国史教科書にも映し出された。
大正デモクラシーの影響をうけたといわれる、一九二〇~二...
韓国は、我が保護の下にあること既に数年に及び、政治おい...
ここに於て韓国皇帝は統治の権を天皇に譲り、帝国の新政に...
かくて半島の民は悉(ことごと)く帝国の臣民となり、東洋...
韓国併合は韓国の「国利民福」のため、韓国側の申し出でお...
「三韓征伐」神話から併合神話にいたる日朝関係史のパター...
このように歴史事実から遊離した歴史教育の押しつけが、日...
以上のような過程をふんで韓国併合を手にし、朝鮮民族の抹...
支配民族である日本人と被支配民族である朝鮮人との民族的...
その「外地」意識は、朝鮮の解放後も消えなかった。
日韓会談の席上、日本側主席代表久保田貫一郎が「日本の朝...
それから四〇年以上にもなるが、その間にも、いくたび「久...
日本の首相がはじめて公式に朝鮮の「植民地支配」を「陳謝...
これでは韓国・北朝鮮ばかりでなく、アジアの人びとから、...
今日求められている日朝国交正常化問題にしても、補償問題...
いいかえれば、誤った歴史認識からは誤った解答しかえられ...
消し去ることのできない過去の「清算」はむずかしい。
しかし、それができるとすれば、まず、日本と朝鮮との関係...
http://ktymtskz.my.coocan.jp/meiji/heigo/kankoku0.htm
ページ名: