韓国略史
をテンプレートにして作成
開始行:
1.檀君誕生
古朝鮮の建国(紀元前2333年)
今から約4300年前、韓半島に朝鮮最初の部族国家が誕生する。...
古朝鮮の建国に関する記録としては古代中国北魏の歴史書《魏...
その三国遺事には次のように記されている。
『魏書によると、今から二千年前(魏の時代から見て)檀君王...
古記によれば、むかし神様(恒因=ハンイン)の庶子である恒雄...
恒因は恒雄の思いを見抜いて三危太伯山に降りてみると、収め...
恒雄は三千の獣を従えて太伯山の頂上、神檀樹の下に降り立つ...
ある時、熊と虎が恒雄に自分たちを人間にしてほしいと願い出...
あまりの熱心な懇願に恒雄はヨモギ一握りとニンニク20個を与...
忍耐心の弱い虎は途中で洞窟を出てしまうが、熊は我慢強く耐...
恒雄は熊女と結婚し、檀君王儉が生まれた。
檀君王儉は中国の堯王が王位について50年目の年に阿斯達を都...
檀君王儉は1500年の間国を治めたが、中国の周の武王が即位し...
以上が朝鮮民族の始祖である檀君王儉についての所謂『檀君神...
三国遺事以外にも李承休の帝王韻紀、権南の応製詩註等に王儉...
檀君神話から読み解く古朝鮮
檀君神話は永い間人々の口から口へと伝承されてきたものであ...
神話の内容をみると例えば当時の部族社会が熊や虎などを崇拝...
恒雄と熊や虎との関係は集団が統合される過程を表すもので、...
また、恒雄が風・雲・雨の扱いに長じていたということからは...
恒雄と熊女の間に生まれた檀君王儉は二つの部族が統合され建...
檀君についての話は永い間口頭でのみ伝えられて来たが、高麗...
古朝鮮が歴史として書物の中に登場するのは紀元前7~8世紀頃...
管子に依れば「朝鮮のまだらの獣の皮」は世の中の7つの宝物の...
古朝鮮の社会については同じく中国の漢書地理志に出てくる『...
1.人を殺したものは死刑に処する。
2.人に傷を負わせたものは穀物で賠償する。
3.盗みを犯したものはその家の奴婢とする。但し、奴婢を免...
この3項目を見ても当時の古朝鮮の社会が人の命を大切にしてい...
一方で、古朝鮮社会では人が死ねばその者が普段使っていた物...
これは当時の人たちが来世を信じ、死んだ者が生まれ変わった...
また檀君神話には、中国の周の武王が箕子を朝鮮の王に封じ、...
その内容は概ね次のようなものだ。
①「箕子東来説」とは漢の漢四郡(楽浪郡など)の支配を正当化...
②箕子朝鮮は中国からの渡来人によるものではなく古朝鮮の発展...
③東夷族の移動過程で箕子を称した部族が古朝鮮の権力を掌握し...
この他にも異論は多く存在し、どれが正しい箕子朝鮮の歴史で...
2.古朝鮮と中国の戦闘
衛満朝鮮の登場(紀元前194年)
韓半島で古朝鮮が平和に暮らすなか、中国では繰り返し新たな...
始皇帝は万里の長城と巨大な阿房宮を建てるべく過酷な税金を...
この後中国は5年の間戦争に明け暮れ、その余波から罹災民が多...
『・・・天下が秦に反し戦乱が起こると 難を逃れようとした多...
このようにして古朝鮮に入った多くの人たちの中に衛満(ウィマ...
自身の勢力が拡大した衛満は野心を抱くようになる。準王を追...
この時期を衛満朝鮮という。
追い出された準王は漢江以南の辰国に逃亡し、衛満朝鮮はさら...
古朝鮮の滅亡(紀元前108年)
一方、中国では劉邦(漢の高祖)が紀元前202年に漢を建国した...
これを聞いた右渠王は渉何を不届き者とし大軍に鴨緑江を越え...
漢武帝は樓船将軍・楊僕に7千の軍を与え王儉城(現在のピョン...
その後漢武帝は新たにより一層の軍を遼東に送ったが、やはり...
両国間の膠着状態が続くなか、先に逃げ帰っていた楊僕が再び...
そんな折、王儉城の中では和睦派と主戦派に分かれ意見が対立...
右渠王は亡き後も最後まで王儉城は陥落しなかった。大臣であ...
古朝鮮は結局漢により倒れたが、戦争に敗れた訳ではなかった。
中国の歴史家・司馬遷は古朝鮮と漢との戦争について
「・・・両軍ともに傷を負い生きながら功を建て諸侯(大臣)...
漢武帝は108年に古朝鮮の地に楽浪・真番・隣屯の3郡を置き、...
この中で楽浪郡は最も朝鮮の社会に影響を与え、その文化は急...
楽浪郡で発掘された多くの文化遺産からは当時の豊かな生活ぶ...
漢に対抗した古朝鮮の遺民たちは静かに力を蓄え、後にこれら...
3.東明聖王(朱蒙)とその子達
高句麗の建国(紀元前37年)
東扶余(トンプヨ)の王である解夫婁(ヘブル)は年を重ねても息...
そしてその通りに、解夫婁が亡くなると金蛙は王となった。
ある日、大きくなった金蛙王が太白山の南の優渤水に狩りに出...
金蛙王は柳花を気に入り宮に連れ帰ったが、ある時から陽の光...
そんな中しばらくすると柳花は懐妊し、やがて大きな卵を産む...
これを見た金蛙王は更に不審に思い、いっそ卵をたたき割って...
金蛙王には全部で7人の息子たちがいたが、柳花の息子に勝る...
金蛙王の長男・帯素(テソ)はそんな朱蒙を疎ましく思い、王に...
王子やその家臣たちの多くが朱蒙を疎ましく、恨めしく思う様...
それを知った扶余の人々はすぐに軍隊に朱蒙一行を追い掛けさ...
朱蒙は奄利水(今の鴨緑江の東北部)に着くと「我は天帝の子...
無事に奄利水を越えた朱蒙一行は鴨緑江の中流地域である卒本...
卒本は高い山と渓谷の多い所であったが河川沿いに広がる土地...
沸流と温祚 百済の建国(紀元前18年)
高句麗(コグリョ)・百済(ペクチェ)・新羅(シンラ)の三国の中...
北扶余を出て南下した朱蒙が卒本扶余に入ると、その地の王は...
ある時、沸流と温祚は烏干・馬黎など10余名の臣下を連れ新...
二人の王子は漢山(現在の北漢山)と負兒嶽(三角山)に来て...
温祚は臣下の申し出を受け入れ河南を都にしようと決めたが兄...
温祚は河南の慰禮城(現在のソウル市江東区一帯)を都と決め...
ある時沸流は弟がどの様に国作りをしているのか気になり様子...
以上が百済の建国に関する話である。この話と一緒に伝えられ...
『卒本扶余の部族長である延陀勃の娘である召西奴(ソソノ)は...
兎にも角にも、百済を建国した温祚は熱心に領土を拡大させ建...
4.新羅建国と卵の秘密
新羅の建国(紀元前57年?)
韓半島で建国された国家には各々独自の説話や神話などが伝え...
新羅の建国は紀元前57年ということになっているが、これは...
新羅は〈三国志〉に見られる“斯盧(サロ)”と〈三国史記〉〈三...
当時の慶州地方では6つの部族が一団の様に集まって暮らして...
指導者探しに苦心するある日、楊山の井にある井戸の傍らで白...
不思議に思った部族長たちがそこに近づくと、馬はどこかに消...
朴赫居世は常人より早く成長し周囲の人々を驚かせた。彼は非...
彼は国号を徐羅伐(ソラボル)とし都を金城(現在の慶州)と定...
永年の願いであった王を迎えた部族長たちは一安心するが、間...
昔脱解と金閼智
この他にも誕生説話が伝えられている人物として新羅の第4代...
『昔脱解は多婆那国の王と女人国の王女との間の子であるが、...
櫃は海を漂い新羅のある東海岸まで流され、阿珍浦(現在の迎...
昔脱解は第2代の王である南解次次雄(ナムヘチャチャウング)...
昔脱解が王となって9年が経ったある日の晩、王は金城の西方...
臣下は王に「始林に行きますと、ある木の下にこの箱が置いて...
王が直接箱を開けてみると箱の中には男の子が入っており王は...
それから時は流れ慶州金氏の始祖である金閼智の7代後の孫が...
当時、新羅の王の称号は定まっておらず“居西干”“次次雄”“尼師...
“麻立干”は第19代の訥祗(ヌルジ)王から第22代の智證(ヂジ...
建国の始祖は皆卵から生まれた?
王についての様々な名称は“指導者”“年長者”を意味するもので...
南解次次雄が死に臨んで自身の息子と儒理と、婿である昔脱解...
儒理と昔脱解はどちらが王になるべきか議論し、昔脱解が「智...
元々新羅は三韓と言われた馬韓・辰韓・弁韓の中の辰韓に属す...
この事は王権が体系的に整っていなかったことを意味し、政権...
また政権を取った一族は、政権の神聖さを強調し一族の優越性...
国や部族に関係なく伝えられている誕生説話を見ると、どの話...
5.伽の建国
亀旨歌を歌え
紀元42年、韓半島の漢江以南地域では百済と新羅が成長し、...
そうしたある日、9干達が集まり指導者を探す方法について議...
「そこに誰かいないか?」
声が繰り返し聞こえると、9干達は声の方角である亀旨峰(グジ...
「そこに誰かいないか?」
また、声がした。
「はい、ここに私達がいます」
「ここは何処だ?」
「ここは亀旨と申す所です」
そう答えると天からまた声が聞こえて来た。
「天は私に、ここに国を建て王になれと命じられた。
お前達にもし王が必要ならば、亀旨峰の頂を掘りながら“亀よ、...
人々が天から聞こえた通りにしてみると、果たして紫色の綱が...
彼らはその箱を持ち帰り、9干の最年長者である阿刀干(アドガ...
人々は一番初めに生まれた子を首露(スロ)と名付け、姓は金と...
紀元48年のある日、金首露王は臣下である留天干に海に出て...
この女人は阿踰陀(アユタ)国(インドの国の一つ)の王女で名...
以上が伽の建国説話であり〈三国遺事〉の駕洛国記に記された...
華やかに咲き消えて行く
伽は加羅(伽羅、迦羅)・加洛(駕洛)・六伽などと呼ばれ、...
中国の漢の影響を受けた伽は、百済と新羅の間で独特の文化に...
6つの伽の関係を見ると、先ず先に生まれた金官伽が最も強力...
その後、新羅で名を建てた代表的な伽の遺民としては金信(キム...
伽は500余年の間存続したが中央集権国家としては発達しな...
6.高句麗の発展
名宰相・乙巴素
韓半島で成長する三国の中で最初に発展した高句麗(ゴグリョ)...
太祖王の後を継いだのは彼の弟である遂成(スソング)で第7代...
新大王が死ぬと大臣たちは、長男より英得な次男の男武(ナンム...
高句麗が徐々に強大になると中国では高句麗をけん制する目的...
一方、朝廷では王の外戚たちが幅を利かせていた。故国川王は...
「私は身分卑しく御命をお受けすることが出来ません。もっと...
「王様!それはいけません。政治を全く知らないものに最高の...
「そうです。あの様な卑しいものに国事を任されてはなりませ...
王の登用に大臣たちの反対が相次いだ。しかし、故国川王の心...
「今後、乙巴素の指示に従わない者は、私の指示に従わなかっ...
国相となった乙巴素は賑貸法を作った。そして故国川王が賑貸...
これ以外にも故国川王は乙巴素とともに賢明な政治を施し太...
すると、故国川王の別の弟である発岐(パルギ)が遼東に逃げた...
当時の高句麗の都には二つの城があり、王たちは平常時には...
その後、山上王が亡くなると憂位居(ウウィゴ)が王と就き東川(...
忠臣 密友と紐由
ある年東川王は臣下たちを引き連れて狩りに出かけ、そこで虎...
「虎が死んだぞ!」
見ていた人達がいっせいに歓声を上げた。
「誰が矢を射ったのか?」
東川王が問うと若い軍官が前に出てきた。この若い軍官こそが...
彼らは魏の丘儉が高句麗を攻めて来ると東川王を護衛して戦争...
これを見た魏軍はそれ以上戦う意欲を失い、これを契機に高句...
7.三国の仏教
近肖古王
高句麗から分かれて漢江を中心に根拠地を構えた百済(ペクチェ...
近肖古(クンチョゴ)王は肖古王とも言われ比流(ピユ)王の2番...
313年楽浪郡の滅亡で西海の海上権は高句麗に移っていたが...
京畿(キョングギ)道・忠清(チュングチョング)道・全羅(チョル...
領土の拡張以外にも国外の国々と積極的に外交活動を繰り広げ...
近肖古王は部族連盟の百済を古代国家の形態に作り変え、王権...
こうした中、仏教が韓半島に伝来する。高句麗には372年に...
百済は日本へ仏教を含め様々な文化・技術を伝え、日本では飛...
韓半島の仏教
紀元前500年ごろにインドで生まれた仏教はインド中部を中...
最初に韓半島に仏教が伝えられたのは高句麗の小獣林(ソスリム...
小獣林王は仏教だけではなく儒教も受け入れ太学を建て、貴族...
国が発展して社会が複雑化していくと王が成すべき仕事は肥大...
こうした状況を解決すべく小獣林王は果敢に仏教と儒教を受け...
高句麗の仏教は大いに発展し金剛砂・平壌九寺・磐龍寺などが...
高句麗に仏教が伝わって12年後の384年、東晋から来たイ...
異次頓の殉教
後に三国を統一した新羅は三国の中では一番あとに仏教を受け...
異次頓、姓は朴氏で一名を居次頓ともいい、葛文(カルムン)王...
阿道が仏教をつたえるため新羅に入って来ると、多くの臣下た...
「私は仏法の為に死ぬのだから、本当に仏法に神がいるのなら...
法興王は栢栗寺を建て、石憧を作るがこれは異次頓を称える為...
異次頓の殉教については幾つかの伝説があるが、彼が死ぬ時首...
法興王の時代、新羅は百済と高句麗の影響で仏教が伝来し多く...
難しい事情を乗り越え新羅に入った仏教であったが、新羅が三...
8.高句麗 二人の王
広開土大王
紀元前37年に朱蒙(ジュモン)が高句麗を建国して以来ずっと...
それから4年後に生まれた談徳(タンドック=公開土王)は幼い時...
広開土王は常日頃から臣下たちと国事を論じる度に「我々は檀...
広開土王は、まず祖父の復讐をするとともに今後再び高句麗を...
当時の中国は晋が滅亡し五胡(匈奴、、羯、羌、鮮卑)の五民族...
これを好機と考えた広開土王は百済の10余城を奪った後、...
その間に百済は高句麗に奪われた漢江以北の地を取り戻そうと...
百済の阿(アシン)王は、慌てて直接広開土王の前に出て膝を屈...
広開土王は百済がこれ以上高句麗に攻撃して来ないことを確認...
こうした高句麗の動きを警戒したのが中国の後燕であった。後...
《5世紀の高句麗の領土》
長寿王
広開土王の後を継いだ長男の巨連(コヨン)は、高句麗の第20...
長寿王は472年に首都を国内城から平壌城に移し、強力な南...
話を聞いた蓋鹵王は道林を自分のそばに置き、毎日の様に共に...
道林が高句麗に戻りこの事を長寿王に告げると、長寿王は軍を...
国の内外を整備した長寿王は先王である広開土王の業績を称え...
この碑は1882年になって発見されるが、これを発見した日...
倭以辛卯年来渡海破百残○○○羅以為臣民
これを削り取ることで日本人は「日本が辛卯年(391年)に...
《広開土王碑》
広開土王の業績を称える為に長寿王が414年に建てた碑石で...
#style(class=box_black_dsm){{
□碑文改竄説
この記述に関しては、1884年に大日本帝国陸軍砲兵大尉の酒...
その主張は、「而るに」以降の「倭」や「来渡海」の文字が...
百残新羅舊是属民由来朝貢而後以辛卯年不貢因破百残倭寇新羅...
百済新羅はそもそも高句麗の属民であり朝貢していたが、や...
という表記であって、「破百済」の主語を高句麗とみなして...
しかし、百済などを破った主体が高句麗であるとすると、か...
これに対して、高句麗が不利となる状況を強調した上で永楽...
2005年6月23日に酒匂本以前に作成された墨本が中国で発見さ...
さらに2006年4月には中国社会科学院の徐建新により、1881年...
これにより、旧日本陸軍による改竄・捏造説が成立しないこ...
■まとめ、感想など
この改竄説は、韓国系および朝鮮系の学者の学者たる資質を...
倭国に過去、征服されていたという事実を認めたくないとい...
改竄したとされる酒匂氏こそ、迷惑極まりない。
学問とは、事実のみの上に立脚するものである。
}}
9.発展する新羅
高句麗で広開土王の後を継いだ長寿王は強力な南下政策を取り...
百済で有王の後を継いだ蓋鹵(ケロ)王は高句麗の長寿王の送っ...
知(ソジ)麻立干の時代からそれまでにない成長を始める新羅は...
新羅の復興期-法興王と真興王
514年智證王が亡くなり後を継ぎ即位した法興(ポブング)王...
一方、金官伽(クムグァンカヤ)の王は自身の勢力を堅固にす...
更に527年、異次頓(イチャドン)の殉教で仏教を承認し国教...
国が安定すると法興王は534年に大興寺と永興寺を建て、5...
法興王の後を継いだ真興(チヌン)王は仏教をさらに奨励し興輪...
高句麗との戦闘に勝利した真興王は更に領土拡大の手を伸ばし...
三国統一の一等功臣・花朗
この様に新羅が全盛期を迎えることが出来たのは真興王の優れ...
〈三国史記〉を見ると「真興王 37年(576年)に南毛(ナ...
新羅で民間狩猟団体から始まった花朗は貴山(キィサン)と箒項(...
世俗五戒を根本に生きた花朗たちは新羅躍進の重要な役割を果...
10.高句麗と中国の戦争
12.高句麗の戦争
高句麗と隋の16年戦争
中国と国境を接する高句麗は建国当初より中国と戦争・和睦を...
隋の台頭を知った韓半島の国々は次々に隋へ使臣を送り友好関...
いつ来るかわからない隋の攻撃に備えていた高句麗は、靺鞨の...
隋がしばらく高句麗を攻撃しないと見るや、百済は隋へ使臣...
新羅もまた百済と同じように、隋に盛んに使臣を送った。その...
薩水大捷(612年)
隋で文帝の後を継いだ煬帝は612年1月に宇文述、宇仲文、...
まず、隋軍は遼東城を包囲したが3ヶ月が過ぎても高句麗は堅...
高句麗軍を率いた乙支文徳(ウルチムンドク)は宇仲文の軍と...
隋軍の士気が上がっていないことを知った乙支文徳は更に隋軍...
神策究天文 神妙なあなたの作戦をどの様に形容しようか
妙算窮地理 妙略の天分が地理に至らせたか
戦勝功既高 戦うたびに勝ち、戦功はすでに高いのに
知足願云止 不足のあることを知り戦の終わることを望め
乙支文徳がわざと敗走したことを後から知った宇仲文は慌てて...
隋から唐へ
隋の煬帝は雪辱戦を期して様々な新兵器を開発し翌年613年...
4度にわたり敢行された高句麗との戦争で多くの死傷者を出し...
中国の動きに敏感に対応せざるを得ない高句麗は唐に対抗する...
淵蓋蘇文は早くに父の後を継いで高い官職に就くこととなった...
これに高句麗の各城は城門を固く閉ざし唐の攻撃をしのいだ。...
安市城の攻防
太宗は高句麗の二将が降伏すると意気軒昂に安市城に総攻撃を...
安市城を落とすことなど到底出来まいと判断した唐軍はふた月...
11.百済滅亡
滅亡の足音
羅済同盟により百済と新羅は互いに力を合わせ、ある時は共に...
これにより百済は危機に陥り、これを見た高句麗が百済の熊川...
威徳王が亡くなったその後は、恵(へ)王と法(ボッブ)王が即位...
武王は新羅をしきりに攻撃しながら同時に隋に朝貢し、高句麗...
この様に武王は国の勢力を回復させるために中国(隋・唐)に...
悲運の義慈王
641年武王が亡くなり義慈(ウィジャ)王が即位した。義慈王...
義慈王は王位に就いた翌年には新羅を攻め40余城を陥落させ...
連勝を続けた義慈王は次第に傲慢になり贅沢を好み享楽にふけ...
佐平の役職にいた成忠(ソングチュング)は泣きながら義慈王を...
「王様!今は国がどうなるかわからないとても厳しい状況にあ...
「何!何だと?お前が私にああしろこうしろと命令するのか?」
「王様に指図をしようと言うのではありません。早くから海東...
「ええい、お前の顔なぞ見たくもない。下がれ!」
成忠が下がると奸臣たちや後宮の女官たちは、先を争ってつぎ...
「王様、成忠の話は事実ではありません。御心配には及びませ...
「成忠はうそを言って王様のお心を傷つけました。彼に罰を与...
奸臣たちや後宮の女官たちは様々な言葉で成忠を非難し、また...
『…万一他国が攻めて来たら水軍は伎伐浦(ギバルポ=錦江の入...
しかし、成忠の遺書は途中で奸臣たちの手により義慈王へ伝え...
その間に新羅では真徳(チンドク)女王が亡くなり、新羅で最初...
この様な周辺の状況も知らないまま義慈王は更に放蕩生活に溺...
百済最後の将軍-階伯
羅唐連合軍が堰を切ったように押し寄せてくると、ようやく自...
唐の蘇定方が率いた13万の大軍は既に伎伐浦に到着し、金庚...
5万の新羅軍を前にして階伯の旗下には僅か5000の兵が全...
この時、新羅軍にいた若い兵士で花朗の官昌(クァンチャング)...
一方、義慈王は熊津城に避難したが泗城が陥落したことを知り...
唐は義慈王を始め、太子や大臣たち、更に多くの百済人たちを...
この時百済の遺民の中には新たの地を求めて日本に渡るものや...
12.新羅による三国統一
Ⅲ.統一新羅時代
《慶州 仏国寺》
高句麗の滅亡(668年)
中国の隋とその後の唐による繰り返しの攻撃に疲弊した高句麗...
しかし、戦闘に勝利した高句麗の内部では徐々に亀裂が生じ始...
男生は弟たちに追い出され唐の太宗に降伏してしまい、淵蓋蘇...
高句麗が内紛に陥ってふら付いている時、軍を再整備した羅唐...
南北から巨大な大軍が押し寄せると高句麗はひと月で降伏し、...
半分の成功
唐の李世勣は宝蔵(ポジャング)王を始めとして高句麗の遺民2...
いまや新羅にとっては唐をどの様にこの韓半島から追い出すか...
新羅が強硬な姿勢がはっきりすると唐は本格的に新羅への攻撃...
完全な三国統一を果たした文武王は百済と高句麗の遺民たちを...
その上で、文武王が最初に行ったことは王権を強化する為の改...
681年文武王が亡くなり神文(シンムン)王が即位すると金欽...
神文王は更に王権を強化するため全国を九州五小京に分け、軍...
15.高句麗は生きている
大祚栄-渤海建国(699年)
高句麗が滅亡した後、高句麗の多くの遺民たちは唐へ強制的に...
そうした696年遼東地方の朝陽で契丹人・李盡忠が反乱を起...
反乱が起こると高句麗人・大乞乞仲象(デェゴルゴルチュングサ...
大祚栄は唐軍に対抗して懸命に闘い、ついに唐を退けると李楷...
その後、大祚栄は698年東牟山(吉林省)に本拠を置いて国を...
大祚栄が渤海を建国した目的は他でもなく高句麗の再興であ...
また、その意志は後継者にも受け継がれ大祚栄の後を継いだ武(...
忘れられた歴史
14代228年続いた渤海は長い間我が国の歴史の記憶から忘...
渤海が新羅と関係を持たなかったのは新羅に対する警戒からだ...
第10代・宣(ソン)王が即位した時期(818年~830年)の...
907年に唐が滅亡すると中国は一時的な混乱期に陥る。その...
渤海は急変する国際情勢に何ら対処せず朝廷では相変わらず権...
渤海の滅亡により我が国の国境は豆満江と鴨緑江を越えること...
現在、渤海に関する研究は活発に行われており、中国と共に渤...
13.張保皐と崔致遠
揺れる新羅
太平聖代はいつの間にか幕を下ろし新羅は徐々に慌ただしくな...
こうした建築に使用された資材や資金には庶民たちの募金が当...
その上、飢饉が起こり生活の厳しさから盗みを働く者が出たり...
そうしたことから統一新羅以降に建てられた塔や鐘、仏像など...
国の中が騒がしくなると沿岸防御が弱体して、中国や日本の海...
また、官職に就くことが出来たのは貴族だけで一般の庶民達は...
無敵の海の男・張保皐
清海(現在の全羅南道・莞島)で漁夫の息子として生まれた張保...
826年張保皐は興徳(フングドク)王に諫言し、鎮の設置を願...
張保皐が海上を掌握する間にも新羅の内部では王位の争奪戦が...
こうして王位争奪戦は一段落するが838年1月上大等(新羅の...
839年閏1月、金祐徴は軍を率いて閔哀王を攻撃して殺し、...
娘が王妃になるのを今か今かと待ち望んでいた張保皐は、大臣...
張保皐の軍は訓練が行き届いており、王宮ではこれに立ち向か...
天才・崔致遠
張保皐が死んだ11年後、慶州では一人の天才が生まれた。彼...
そうした状況で崔致遠は黄巣の乱を鎮圧する任務に就いた高弁...
唐に来て当初の目的を果たした崔致遠は唐の官職を辞め885...
当時の新羅の王は政治に関心がなく贅沢と享楽に溺れており、...
894年、崔致遠は六頭品者の最高官職である阿(アチャン)と...
崔致遠はこの様な社会に落胆して官職を捨て全国各地を巡る放...
僧乎莫道青山好 僧よ、青山が良いと言わないでくれ
山好阿事更出山 山が良いと言うなら、なぜまた山を降りる...
試看他日吾踪跡 よく見なさい、いつか私がどうするかを
一入青山更不還 一度青山に入れば二度と出ないであろう
14.新羅滅亡
後三国の建国と没落(892年~963年)
新羅が混乱して国に対する庶民の不満が高くなると全国各地で...
甄萱はまず武珍州(現在の光州)を占領した後に完山州(現在...
その後、弓裔(クングエ)が901年に後高句麗(フコグリョ)...
もともと弓裔は新羅の憲安(ホンアン)王の庶子として生まれた...
その後、弓裔は世達寺という寺の僧になるがこれに満足せず、...
更にその後勢力を伸ばした弓裔は自立して王建(ワングコン)等...
またたく間に後高句麗の領土は、江原・京畿・黄海道の大部分...
申崇謙たちは新しい指導者として王建を推戴し王建は首都を松...
一方、後百済の甄萱には何人かの母親の違う息子たちがいたが...
高麗の王建とは?
高麗の太祖(王建)は後百済から来た甄萱を尚父と呼んで丁重に...
王建は877年に王隆(ワングリュング)の息子として生まれた...
王隆は当時松嶽(現在の開城)地方の豪族で、結婚してすぐに家...
王隆に家を建てるべき場所を教えた僧が、後に多くの仏学徒か...
15.韓半島統一
高麗の建国(918年)
新羅時代末期、新羅の弱体化などによって三つに分かれていた...
高麗を建国した後、王建は高麗の初代王・太祖(テジョ)となる...
新羅が滅びると同時に身分制度である骨品制もなくなったが高...
太祖は国家体制を確立するため様々な政策をとったが、大きな...
高麗の建国理念の一つである北進政策の一環で926年に渤海...
太祖の遺訓‐訓要十條
3つわかれていた韓半島の国々を改めて統一した太祖は943年...
一. 仏教を良く慈しむこと ...
二. 寺院は道の決めたもの以外建てぬこと
三. 王位の継承は嫡子が原則ではあるが長子が不肖である場...
四. 契丹の風習には従わぬこと
五. 西京(平壌)を重視すること
高麗三京 :西京(平壌)、開京(開城)= 首都、東京...
六. 燃燈会や八関会などの祭礼行事は大切に行うこと
七. 信賞必罰を公正に行うこと
八. 車以南、光州江(錦江)以外の山形地域は背逆するので
この地方の者は登用しないこと
九. 良く歴史を学びいつでも警戒を怠らないこと
などである。
しかし、この頃の高麗はまだ基盤が強力とは言えず第2代の恵...
国家の礎を築く光宗
光宗は王権を強化し豪族たちの力を弱めるため、地方の産業な...
更に、958年には中国人の雙冀の建議で科挙(国家の官吏を...
勿論それ以前も官吏選抜試験は存在しており代表的なものには...
読書出身科は科挙と違い貴族の子弟だけが受験を許され、左傳...
当時の社会は試験によって官職を得ることは極めて稀で大部分...
しかし、庶民たちにとって科挙はまだ高い障壁であった。なぜ...
光宗は王権をもっと強化しようと王権を脅かすすべての勢力を...
光宗の後を継いだ景宗(キョングジョング=在位期間976~9...
田柴科とは田とは農地の意味で柴は林野を意味し科は等級を意...
16.高麗の統治
成宗の改革
草創期に活発であった景宗(キョングジョング)の政治も暫くす...
成宗は浪費癖のついた国家財政を本来あるべき姿に戻すため崔...
時務策では太祖以来の歴代王の治世を検証し、行き過ぎた仏教...
時務策の主たる内容は次の通りである。
- 寺院による高利の金貸行為を禁じ庶民の被害をなくす...
- 百官の公服制度と平民の衣服は秩序を持って定めること
- 禮楽と詩書(詩経と書経)の教訓、君臣と金持ちの道...
中国にならい、衣服制度は我々独自の風習に従う
- 贅沢と倹約を適切に行うこと
- 過重な負担を与える霊灯と八関などの仏教行事を慎む...
- 王は下の者に対し謙虚に振る舞い法に従い公平に論罪...
国家の体系を守ること
- 家屋制度を作り身分の貴賤に従い遵守すること
- 良民と賤民の区別を明確にし、賤民である者が上の者を
凌辱出来ないようにすること
- 僧侶が客館(旅館)や駅舎に宿泊することを禁じ、仏像...
成宗は、先ず贅沢を助長しているとして仏教行事の八関会を禁...
そもそも八関会の“関”とは“禁”を意味し一日を殺生や盗み・
淫行など8つの事柄を禁じ、ただ一度の食事だけを持って仏さ...
社会が贅沢と享楽に溺れる状況を見た成宗は行き過ぎた贅沢な...
そうした一方で成宗は崔承老の提案した時務策に立脚して官制...
その後、成宗は地方の財源に充てるため公須田、紙田、長田な...
仏教のあらゆる行事を簡素化しようとした成宗は、それとは反...
また、成宗は農業の重要性を強調し豪族たちが持っていた武器...
また、一方では国子監を設置してより体系的に儒教を教える人...
契丹との戦争(993~1018年)
こうした中、中国では契丹族が建てた国である遼(ヨ)が東進政...
この時、契丹と宋は激しく対立していて、契丹が高句麗の子孫...
契丹の将軍・蕭遜寧が80万の大軍を率いて初めて高麗に侵攻...
「私は高麗の将軍徐熙だ。何故お前達が高麗を侵略するのか確...
「我が遼(契丹)は中国の多くの国々を統一した大国であるの...
蕭遜寧が自分の言い分だけを言って席を立ってしまうと、堂々...
ところが成宗と文武百官達は契丹の繰り返しの脅迫に耐えられ...
徐熙が国書を携えつつ高麗の立場を細かく説明すると、蕭遜寧...
その後、徐熙は蕭遜寧との約束を守るため先鋒将となり咸鏡道...
成宗の後を継いだ穆宗(モクジョング=在期間997~1009...
契丹の聖宗は高麗が朝貢をして来ないことを不満に思っていた...
すると、聖宗はこれを受け入れ河拱辰を人質にして撤退した。
契丹の聖宗は撤退にあたり顕宗が直接契丹を朝貢する様に要求...
月日が流れ1018年、契丹の聖宗は将軍・蕭排押に10万の...
姜邯贊は寧州(安州)に待機していて契丹の動向を探っていたが...
それまで、25年の間に3度にわたって侵略を敢行した契丹は...
この間、高麗朝廷では契丹の度重なる侵略に仏力にすがろうと...
17.八萬大蔵経
高麗大蔵経(八萬大蔵経)の完成(1251年)
高麗時代には王たちの仏教の更なる布教への意欲と、それに加...
顕宗(ヒョンジョング=高麗の8代王)は太祖(テジョ=高麗の初...
この大蔵経は文宗(ムンジョング=在位期間1046~1083...
父・顕宗の遺志を継いで大蔵経を完成させた文宗はその信仰心...
義天は宋や契丹などからも仏書と経典を取り寄せた後、興王寺...
高麗で3番目に作られた大蔵経は八萬大蔵経(パルマンデェジャ...
先行する活字文化
16年の永い月日を掛けて完成したこの大蔵経は全6529巻...
蒙古に侵略され首都・開城(ケソング)は蹂躙され江華島への...
詳定古今禮文は高麗の仁宗(インジョング=在位期間1123~...
(但し、この事実は世界的には認められておらず、世界最初の...
多くの人々が詳定古今禮文の印刷本を見たことがなく世界最初...
この様に世界で最初に作られた金属活字は朝鮮時代になって更...
《八萬大蔵経=海印寺貯蔵》
18.妙清の乱
高麗の黄金時代
文宗が1083年7月に亡くなるとその後を長子である順宗(ス...
1094年に宣宗が亡くなると国がまとまりを欠く様になる。...
宣宗の時代に高官を努めた李資義(イジャウィ)は、幼い時から...
獻宗は李資義の乱を平定した後に叔父である鶏林公(後の粛宗)...
獻宗の病が理由であったとはいえ幼い甥から結果として王位を...
国の経済を安定させると弟である義天(ウィチョン)の勧めもあ...
女真の侵略
徐熙将軍の江東6州の開拓以来、なりを潜めていた女真族が1...
その結果、定州長城(平安北道西南海岸に位置した江東6州の一...
尹は粛宗に軍を再編することを建議して、騎兵と歩兵とにより...
高麗と和睦を結んだ女真族が3年後の1107年に再び侵略し...
李資謙の反乱
粛宗の後を継いだ睿宗(エジョング=在位期間1105~112...
李資謙はこれに満足することなく自身の誕生日を仁寿節(インス...
その後、李資謙はそれまで共に気脈を通じあっていた同じ一味...
拓俊京は李資謙を捕らえた功で功臣として推戴されるが、鄭知...
国の内外が混乱する隙に乗じるかの様に、図讖説(トチャムソル...
1127年王室の顧問となった妙清は白寿翰などと首都を平壌...
妙清一党は隠れて大きな餅を作ってその中に油を入れて大同江...
妙清の乱(1135年)
1135年、妙清は西京の分司侍郎の職にあった趙匡(チョグァ...
金富軾も大変な文才の持ち主でもあり後世に多くの史書などを...
金富軾は反乱軍を鎮める為に幾度となく降伏を促すと、反乱軍...
妙清の乱を鎮圧した金富軾はその後、1145年に全50巻か...
中国・宋の露允迪は高麗を訪問した際に金富軾の書を見て感嘆...
19.高麗の武臣政変
武臣政変(1170年)
1170年8月のある日、毅宗(ウィジョング)は武臣たちに護...
王は上機嫌で「今日はとても天気が良いな、武臣たちはシル...
それを見ていた文臣の韓頼(ハンレィ)という者が李紹膺を不甲...
高麗の始祖・太祖(テジョ)は自らも武力で国を起こしたことも...
武臣たちに対する待遇は歳月が経つほどひどくなり何度か武臣...
鄭仲夫の乱が成功して以後、朝廷に文臣の姿が消えて多くの官...
その後、政権は李義(イウィミン)が執るところとなるが、これ...
奴婢・萬積の乱
鄭仲夫が武臣の乱を成功させた以後、高麗の社会は安定せず甚...
武臣の乱以後、最も特徴的な現象は下級武人や賤民が高い官職...
崔忠獻は代々上将軍を排出する家柄の出身で、1174年に趙...
自身の政敵を全て退けた崔忠獻は明宗に当時の社会の矛盾点と...
崔忠獻は封事十條を書いた翌年の1197年に明宗を王位から...
奴婢萬積は崔忠獻の私奴(サノ)で鄭仲夫(チョングチュウブ)の...
「みんな!みんなも良く知っている様に今の朝廷では俺たちと...
萬積の言葉に私奴たちは心を一つにして数千枚の黄紙(粗末な紙...
彼らの計画では先ず崔忠獻を殺し、その後各自が自らの主人...
これにより萬積は捕らえられ、彼と共に行動した百余人も捕ら...
神宗の在位期間中、萬積の乱を始めとして江原道溟州(ミュング...
蜂起者に対して朝廷は大変過酷な処分をしたにも拘らず乱が引...
反面、権力を保ち続ける為に実の弟まで殺した崔忠獻は李義が...
また、康宗が即位して3年で亡くなるとその太子を即位させ高...
崔忠獻が擁立した6人の王の中で明宗と熙宗は廃位させられ、...
20.蒙古の影響
6度にわたる蒙古の攻撃(1231~1259年)
高麗の武臣たちが互いに政権を奪い合う混乱の続く中、中国で...
チンギスハンは廊号を太祖言い、名前はテムジン、チンギスハ...
チンギスハンが死んでオゴタイ(太宗)が即位して蒙古の領土は...
翌年、蒙古がまた侵略して来て符印寺(プインサ)に保管されて...
王と朝廷が江華島に移り蒙古軍に対抗する為に城を築いたりす...
1234年に中国で金を征服した蒙古は再び高麗侵略を強行し...
一度は兵を引いた蒙古であったが、いつまた攻撃してくるかも...
しばらく高麗に対して攻撃をして来なかった蒙古が1247年...
蒙古に降伏した1259年の夏、高宗は急逝して戦後処理の為...
三別抄の抗蒙闘争
父の死により蒙古から戻り即位した元宗(ウォンジョング=在位...
三別抄の勢力は全羅道から慶尚道にまで広がり、海を越えて耽...
その後、元は高麗の政治・経済・文化・風俗などあらゆるとこ...
その結果、高麗には蒙古式の髪型(辮髪)と衣服が流行し、元...
この時代、文化は急速度で発展して新しい視覚による歴史書が...
また、雙花店(サングファジョム)、満殿春(マンジョンチュン)...
留まる事を知らない内政干渉
元の内政干渉により高麗朝廷には幾つかの新たな機関が設置さ...
6度にわたって高麗を侵略した元は若い女達を捕まえて行った...
元が奪ったのは貢女だけに留まらず、全国各地の特産物もその...
元の内政干渉は限度を知らず元の指示での王が即位し、廃位と...
21.高麗の衰退
恭愍王の反元政治(1356~1371年)
高麗の王が元の意思によって実質的に定められるように成った...
一方、高麗朝廷内では奇轍(キ・チョル)が権力を握り親族たち...
こうした元の圧力を見過ごすことが出来ない恭愍王はまず最初...
更に恭愍王の14年に王妃が出産途中に難産により亡くなって...
辛は身分は本来高いものではなかったが金元命(キムウォンミョ...
そうした中、恭愍王の17年に中国では朱元璋が明を起こすと...
1369年、辛は風水を理由に首都を忠州(チュングジュ)遷都...
1372年に恭愍王は宮中に子弟衛という機関を設置し、侍女...
崔萬生は王の言葉に従うべきか悩んだ末に少年達と共謀して恭...
綿花栽培の始まり(1363年)
高麗では元の属国状態が続き穀物や各地の特産品は元に献じな...
綿花はインドが原産地で実が熟すと綿の花が咲き、綿で布地を...
当時、庶民達は寒かろうが暑かろうが常に同じ服を着なければ...
高麗に戻った文益漸は舅の鄭天益(チョングチョニク)と綿花の...
火薬の発明(1377年)
そうした中、高麗の海岸部では倭寇が頻繁に侵入し南海岸一帯...
朝廷では倭寇を抑える為に水軍を整備したが、水軍も力は弱く...
すると火薬を自力で作ってみせるという若者が現れる。この若...
崔茂宣は李元を自宅に招き丁重にもてなすが、李元は火薬の製...
二人は火薬を作る為の研究に昼夜を分けず没頭し、いよいよ完...
高麗から外敵を追い出す事が夢だった崔茂宣は、先ず役所に行...
1377年、崔茂宣は王(ウワング)に建議して火筒都監を設置...
この後、高麗軍は崔茂宣が作った火薬武器を使って多くの敵を...
ところで、後に高麗を滅亡させ朝鮮を建国する李成桂(イソンゲ...
火筒都監の廃止で失意のどん底に落ちた崔茂宣は自分の知識を...
22.威化島回軍と朝鮮建国
威化島回軍(1388年)
1388年3月、王(ウワング)は崔(チェヨング)将軍を八道都...
これと同時に王は高麗でも使用していた明の年号である洪武を...
5月になると崔将軍と李成桂等が5万の軍を率いて王の命に従...
一. 小国が大国を攻めることは有ってはならない。
二. 人手の必要な農繁期に軍使を動員する事は良くない。
三. 挙国的な遠征のすきに倭寇が侵入する可能性が大きい。
四. 蒸し暑い梅雨の時期で軍内に伝染病流行の恐れがある。
李成桂は四不可論を理由に2度にわたり王に使臣を送って回軍...
すると、崔将軍は王の命に背いた回軍を許す事が出来ず李成桂...
浮上する新勢力-新進士大夫
李成桂が威化島回軍(イファドフェグン)を成功させることが出...
ところが王の即位の問題で新進士大夫たちは穏健派と急進派で...
紆余曲折の末、穏健派の推す昌が即位したが結局その在位した...
廃位された昌王の後を恭譲王(コングヤングワング、在位期間1...
こうした中、鄭夢周などの穏健派は趙浚・南誾(ナムウン)・鄭...
李成桂と李芳遠は自分達の主導権を確固たるものとする為に何...
朝鮮の建国(1392年)
すると李芳遠は門客の趙英珪(チョヨングギュ)を使い鄭夢周の...
太祖は庶民の混乱を最小限に抑えようと初めは国号も変えずに...
一方、クーデターに成功した新進士大夫たちであったが朝鮮の...
太祖は杜門洞に入った者たちを外へ出そうと様々な懐柔を行っ...
《善竹橋=黄海道・開城》
23. 李成桂と李芳遠
無学大師との出会い
高麗(コリョ)を建国した王建(ワングゴン)に道国師(ドソンクッ...
李成桂は幼い時から聡明であり、また豪胆で弓の扱いがうまく...
その上に性格もとても穏やかで自家の使用人であった継母を大...
ある日、李成桂は妻の実家を訪ねる途中の咸境南道安辺の近く...
「そんなに偉い方とはお見受けしませんでした。どうぞお許し...
「上人様、何をなさいますか?」
「今後、この夢の話は誰にも話してはいけません。万一、話を...
李成桂の問いには何も答えずに僧は訳の解らない話を繰り返し...
どうにも気になる李成桂が
「絶対に他の人には話しませんので夢のなぞ解きをして下さい」
と言うと、僧は
「あなたは後日、必ず王になる筈だ」と答えた。
「な、何と言われましたか?」
「夢で崩れて行く家は高麗を指すもので、柱は家の最も重要な材
木が落ちて来たということは国を背負って立つという意味であ...
即ちそれは王の姿につながるものです」と言うのだ。
この夢のなぞ解きをした僧こそが無学大師(ムハクテサ)であ...
当初、太祖は高麗の国号と法制をそのまま使って国を治めよう...
最初に首都として決まりかけたのは鶏龍山であったが様々な条...
王子の乱
太祖・李成桂には二人の夫人との間に8人の息子がいたが、そ...
李成桂が王になると誰を太子とするかが問題となった。
なぜなら、長男である芳雨(バングウ)が、李成桂が高麗を滅ぼ...
これに芳遠と彼の兄弟達が不満を表わし、特に功労者の芳遠と...
何年かの歳月が過ぎて1398年になると太祖が床に伏せるよ...
乱を主導し成功裏に終わらせた芳遠は太子の席を自身の兄であ...
一方、太祖は子供たちが互いに殺し合う事件が起きると、慌て...
定宗は官制を改革して学校を建て、楮幣(チョペ=と呼ばれた貨...
この時、前の“王子の乱”の際に功を立てながら評価に不満のあ...
この事件の後、定宗は急ぎ王位を芳遠に譲位し、芳遠は朝鮮第...
太宗の改革政治
太宗は王位に就くと先ず、これまで乱の起きる原因ともなって...
1413年太宗は全国を8道に分けて管理することとするが、...
忠州、清州、慶州、尚州、晋州、全州、羅州、黄州、海州、江...
地方制度をおおむね改編した太宗は庶民達も容易に把握でき...
更に、庶民を世帯単位で5戸を1統という単位で編成して互い...
また、太宗は国力の向上を目的として身分の上下に拘わらず1...
この時代までの長い間、僧侶たちは寺院田と呼ばれる私田を保...
王になる為に兄弟たちと命懸けの争いをした太宗であったが国...
24.歴史上最も偉大な王ー世宗大王
世宗の即位
朝鮮の第4代王・世宗(セジョング=在位期間1418~145...
太宗が忠寧大君を世子となった理由は世子であった長男の譲寧...
庶民を思って・・・
世宗大王が32年の長きにわたり王位に就くなかで最も偉大で...
それまでの韓国で文字と言えば中国から伝えられた漢字を使っ...
身分に関係なく人材を登用して学問が如何にあるべきかを議論...
また、軍事訓練、兵書刊行、武器製造、城鎮修築などにも力を...
一生を庶民の為にささげた世宗大王は晩年、大部分の政事を世...
当時は治療法も薬も多くなく景観が良くきれいな所の水を使う...
28.奴婢から高官へ
科学者 ・英實
早くから庶民のくらしを思う心が格別であった世宗大王は庶民...
日頃から英實に目を掛けていた東来県監は王の命が下るとすぐ...
しかし、世宗大王の熱意はそうした者たちの誰にも曲げさせる...
自撃漏と測雨器の発明
新たな物事を学ぶ為に中国にも出かけた英實は太宗時代に作ら...
自撃漏は朝鮮で作られた最初の自動時計で一切、人の手を必要...
世宗大王はこの発明に大変喜び慶福宮の南に報漏閣を建て設置...
その後、英實は引き続き研究を重ねた末に天体の姿と一年の四...
25.民族固有の文字“ハングル“
訓民正音の創製(1443年)
「我が国の言葉は中国とは違い漢字だけを持って意志の伝達が...
これは、1443年(世宗25)に世宗(セジョング)大王が訓民...
早くから読書を好んだ世宗大王は多くの庶民たちが文字を読む...
今日、多くの人たちはハングルを世宗大王の命令によって集賢...
「この月、王様に於かれては諺文28字を自ら作られた。この...
「癸亥の年の冬、わが殿下におかれては正音28字を創製され...
癸亥の年とは世宗25年で、世宗実録と鄭趾の序文の内容が一...
等の上疏文に対する世宗大王の回答を上げることが出来る。
崔萬理は世宗大王がハングルの創製を全国に告げると、その2...
「・・・我が国は昔から大国である中国の制度を模範として実...
これに世宗大王は崔萬理などに直接会って彼らの気持ちを変え...
「私が訓民正音を作るのは難しい漢字を学ぶことが出来ないま...
また、成俔(ソングヒョン)が書いた慵齋叢話(ヨングジェチョン...
「世宗が諺文庁を設置して申高霊(シンゴヨング)、成三問(ソン...
ここで言う“聖人”とは世宗大王を指しており、ここでもハング...
学問の勧め
世宗大王はハングルの創成後は集賢殿を拡大して文臣達を選ん...
ある年の寒い冬の夜、世宗大王はいつもの習慣の様に集賢殿に...
時間は夜中の12時をはるかに過ぎていたが集賢殿の灯りはと...
「今日の宿直者は誰か見て来なさい。そして何をしているのか...
「はっ!すぐに確認してまいります。」
内官は集賢殿の中に行き動静を見極めると世宗大王のところへ...
「今、集賢殿では申叔舟(シンシュクジュ)学者殿が本を読んで...
「そうか。では、何時まで本を読んでいるか良く見て報告しな...
世宗大王がこの様に命じたのは、集賢殿の学者達が日頃からど...
いつの間にか深い冬の夜が更け、新しい朝の到来を告げる鶏の...
また、王宮の中に諺文庁を置いて本格的にハングルを研究する...
訓民正音を完成させて3年の周知期間を経た1446年9月、...
26.死六臣-忠義を貫いて死す
癸酉靖難(1453年)
自らの生涯を庶民達の為に尽くして様々な業績を残した世宗(セ...
晩年の世宗大王は自身の亡き後に兄弟の間で王位継承の為に争...
世宗大王の後を継いだ文宗は民意を把握して文武の均衡を保っ...
文宗が亡くなり、端宗が即位すると首陽大君は鄭趾(チョングイ...
反対勢力を完全に取り除いた首陽大君は端宗に対しては、金宗...
乱を成功させた首陽大君は領議政府事・吏曹兵曹判書・内外兵...
叔父である首陽大君の威勢に圧倒された端宗は恐れ震えていた...
端宗復位運動(1455年)
例え世祖が王位禅譲の形式を取ったとは言え、これは明確に計...
世祖も直接出て成三問たち6人を尋問するなど、取り調べは昼...
世祖は6人の中の成三問の才能を認めて自分の言う通りにすれ...
このことで世祖は更に酷い拷問を指示し成三問は足と腕を切り...
朴彭年もまた成三問と同じ様に世祖を王と認めず、逮捕の前に...
人々は彼らを、その意志の強さと忠誠心を讃えて死六臣と呼ん...
この端宗廃位事件は後に起こる事件や文人・学者間の対立と反...
命を掛けた死六臣の無惨にさらされていた死骸を回収したのは...
27.朝鮮第7代王・世祖
黄標を変えろ
1417年、世宗(セジョング)大王の2番目の息子として生ま...
幼い時から聡明で勇猛な首陽大君は世宗大王の命を受け釈迦の...
しかし世宗大王は晩年になると幾つかの心配事が出来るが、そ...
世宗大王の後を継いだ文宗は王位について僅か2年でこの世を...
韓明との出会い
この様に国の大事・小事が3人の高官の意志で左右されるよう...
一方、首陽大君の弟である安平大君(アンピョングテグン)は3...
準備された乱
癸酉の年(1453年)、穏やかな秋の日々を送っていた端宗で...
「王様、金宗瑞や皇甫仁らは以前から国の政事を自分勝手に操...
「そんな筈が!伯父上、金宗瑞は謀反を起こす様な者ではあり...
「金宗瑞らは王様がまだ幼い事にかこつけて安平大君を立てて...
「殿下、余り驚かれないで下さい。殿下のお側にはこの首陽が...
「私は伯父上だけを信じます。お任せ致します。」
首陽大君は御命を受けて大臣たちを宮に引き入れると、先に用...
癸酉靖難により首陽大君は政権と宮権の両方を掌中に収めた事...
そうして端宗が広い宮廷の中で孤立した生活を始めて2年が過...
世祖が譲位を受けると端宗への礼節から官位を捨てて隠居する...
李施愛の乱(1467年)
世祖の即位する過程で様々な理由で多くの功臣達が朝廷から抜...
その様な世祖の政策に不満を持つ北道の豪族の一人である李施...
奪い取る様にして手にした王位であったが、世祖は自らの行い...
28.成文法“経国大典”
経国大典の完成(1485年)
世祖(セジョ)が残した業績の中で最も高い評価を得るものとし...
高麗末に実権を握った李成桂は固有の法を作ろうと趙浚(チョジ...
経国大典は6か条の行政法をその基礎に置き、国を治める指針...
- 息子と孫、妻と妾または奴婢が父母やその家の家長を告発...
- 土地と家屋の売買ではその後15日以内は内容の変更が出...
- 奴婢の売買も同様とし、馬と牛の場合は5日以内は変更が...
- 男子は15歳、女子は14歳にならないと結婚できず、結...
- 父母の死後、その財産は男女均分相続をする代わりに、祖...
- 官庁と個人に債務を負う者が死亡しても、妻や子等に財産...
- 士大夫は妻が死亡した場合は3年経たなければ再婚を認め...
- 本妻に息子がいない場合は妾の息子である庶子へは科挙を...
- 寡婦は再婚する事が出来ず、やむなく再婚する場合はその...
- 七去之悪(儒教で妻を離縁できる七つの理由)と三不去(七去...
この様に庶民が暮らす上で必要となるあらゆる事の規範として...
儒教の発展
経国大典は朝鮮の建国理念の一つである抑仏崇儒に立脚していて
基本骨子は儒学(儒教)に従ったものと言える。儒教は中国の孔...
儒教が韓国に入って来た年代は明確ではないが三国時代に中国
の唐へ留学生を送り儒学を学ぶことの出来る機関が創設された...
や日本の歴史書に、285年に百済から王仁(ワングイン)博士...
高麗時代となると中国の宋で儒教の一学派である性理学が伝来し
て儒教が更に発展することとなる。しかし、儒教が高麗の国教...
こうした時代に中国の宋から性理学が伝わるが、性理学は宋の...
性理学とは何か?
中国では自然や天地などあらゆる物が物質とその形成から成り...
具体的な内容としては儒教の基本倫理である三綱五倫を上げる...
高麗時代に安(アンヒャング)によって我が国に紹介された性理...
儒教を土台にした経国大典が完成された後《三綱行實圖》《家...
29.事件の連続
戊午士禍(1498年)から乙巳士禍(1545年)まで
朝鮮第7代王・世祖(セジョ)が王の権力を強化しようと中央集...
ところが、こうして世祖の側近・功臣と呼ばれる者達が国政を...
世祖の後を継いだ世祖の孫の成宗(ソングジョング=在位期間1...
成宗の子の燕山君(在位期間1494~1506年)は朝鮮10...
そうした中、勲旧派と新たに登場した士林派(サリムパ)が対立...
1498年、成宗時代の歴史書である《成宗実録》の編纂がは...
燕山君は直接、金孫等を尋問し全ての罪が既に死んでいる金宗...
甲子士禍(1504年)
戊午士禍で多くの役人たちが死ぬと燕山君の横暴は益々増長し...
自身の母が宮廷を追われ悲惨な死を遂げたことを知った燕山君...
中宗反正(1506年)
その後も燕山君の行いは留まるところを知らず、高麗時代から...
己卯士禍(1519年)
燕山君の廃位後に即位した中宗は政治改革の為に新しい気風を...
次第に中宗も趙光祖の行き過ぎた言動に嫌気を感じるようにな...
こうした状況を見守っていた領議政の鄭光弼(チョンググァング...
卑賤な家の出身である宋祀連(ソングサリョン)が勲旧派の沈貞...
灼鼠の変(1527年)
一方、己卯士禍の際に流罪となった後に再起用された金安老(キ...
流配生活をしながらも金安老は沈貞、柳子光等を排除する機会...
金安老は1534年に右議政となりその翌年には左議政となる...
更に、金安老は文定王后(ムンジョングワンフ)の廃位を画策す...
こうして引き続いて起きた国内の混乱の合い間にも、1510...
中宗は初期には庶民が昔から信じていた迷信を打破する為に昭...
乙巳士禍(1545年)
中宗は3人の王妃を迎えたが、最初の王妃の端敬王妃(タンギョ...
中宗の後を仁宗が継ぐと亡き母の章敬王妃の兄である尹任(ユン...
30.朝鮮の義族たち
洪吉童
朝鮮第10代王・燕山君(ヨンサングン=1494年即位、成宗...
洪吉童は燕山君の時代に活動した義族だが、その後約100年...
小説では、「洪吉童は父と父の家の奴婢であった母との間に生...
実際の洪吉童の出生となぜ盗賊になったのかについては明らか...
林巨正の蜂起(1559~1562年)
洪吉童の逮捕から59年後のある日、また一人の義族が誕生す...
彼らは白昼に官庁を襲撃しては囚人を解き放しや略奪を続け、...
朝廷の懐柔と脅迫に耐えきれず変節した徐林は林巨正の計画を...
1561年(明宗6)朝廷では黄海道討捕使に南致勤(ナムチグン...
官吏たちからは「凶悪な盗賊団の親玉」と、そして庶民からは...
伝説の人物・張吉山
張吉山(チャングキルサン)は1692年(粛宗18)《粛宗実録...
後に、1700年代に入り学者であった李(イイク)の書いた《...
誰が彼らを盗賊にしたのか?
国からは極悪非道の盗賊として追跡を受けた洪吉童、林巨正、...
この様な社会状況の中で洪吉童、林巨正、張吉山等は腐敗した...
31.李珥の奮闘-壬辰倭乱-李舜臣
壬辰の倭乱の前夜-李珥の奮闘もむなしく
1592年(宣祖25)4月14日の朝、釜山は突然の悲劇に襲...
これに対し朝鮮では黄允吉(ファングユンギル)、金誠一(キムソ...
それとは反対に日本では朝鮮侵略の為に万全の準備を行ってい...
朝廷では事がここまで及んで初めて過ぎし日の賢人の進言を受...
豊臣軍の攻撃を受けると李珥の忠告に従わなかったことへ後悔...
一方、当時の民心は甚だしく乱れ宣祖が平壌へ避難しようとす...
李舜臣-海は俺に任せろ!
だが、海上では壬辰倭乱の1年前に柳成龍(ユソングヨング)の...
しかし、陸戦においては時間が過ぎるほどに朝鮮軍の戦況は厳...
趙憲(チョホン)は忠清道沃川で義兵を起こして敵を倒し錦山の...
全羅道の長興では高敬命(コギョングミョング)、湖南では金千...
全羅監使の権慄(クォンユル)は水原で倭軍に大勝した後に明軍...
一方、咸鏡道に進撃した豊臣軍はその後の周辺の状況から身動...
丁酉再乱(1597年)
豊臣軍が撤退を始め明軍も自国へ戻っていくと宣祖は急ぎ漢城...
1. 明の皇女を日本へ后妃としてだすこと
2. 勘合貿易を復活させること
3. 朝鮮8道の内の4道を差し出すこと
4. 朝鮮の王子と大臣12名を人質としてだすこと
などであった。沈惟敬はこれを偽って、“豊臣は倭王に冊封され...
豊臣軍は釜山の東来城・蔚山城を陥落させると、またたく間に...
また、朝廷では李舜臣の必要性を感じて右議政・鄭琢(チョング...
1597年7月李舜臣は鳴梁(ミョンニャング)で僅か12隻の...
豊臣軍の退却を見た朝鮮軍は明の水軍と連合して豊臣軍を追いか
けて大勝利するが、この時の戦闘中に数々の海戦に於いて輝か...
ようやくにして豊臣軍の追い出しには成功したものの、朝鮮の...
32.光海君は暴君だったか?
廃母事件(1618年)
1392年に太祖の李成桂が朝鮮を建国して朝鮮は518年に...
朝鮮27代の王の中で燕山君(ヨンサングン)と光海君(クァング...
光海君(在位期間1608~1623年)は宣祖(ソンジョ)の2...
1600年に懿仁王后が亡くなり、1602年に仁穆王后(イン...
この時の朝鮮は壬辰倭乱によって国中の山河が被害を受け庶民...
最初の犠牲者は光海君の実の兄である臨海君であった。大北派...
壬辰倭乱(イムジンウェラン)の際に直接全国を回り戦争の状況...
その後、ようやく社会秩序が以前の様に戻ると焼失してしまっ...
しかし光海君にとっての平和な時期も永くは続かず大北派たち...
1614年(光海君6)には江華府使(カングファブサ)の鄭沆(チ...
実利外交を広げて見たが・・・
この頃、中国では新しい勢力である後金(フグム=清)が161...
これにより朝鮮は明との関係を断つこともなく、また後金から...
ところがこうした光海君の外交政策を批判する者が出て来る。...
しかし司諌院によって1623年初め、李貴・金自點等は謀反...
一方、自分たちの計画が露見するかもしれないと知った西人た...
一方、安国臣の家に身を寄せていた光海君は3月14日に逮捕...
光海君は暴君だったのか?
永い間、暴君との認識をされて来た光海君に対する評価は現代...
33.中国・清からの干渉と屈辱
李の乱(1624年)
仁祖が仁祖反正(インジョパンジョング)によって王位に上がっ...
李の朝廷に対する不満は次第に大きくなると世間では李が反逆...
「今、朝廷では私の息子を捕らえた上で私に反逆の罪を着せ捕...
「そうです。大きな事をして見ようじゃありませんか。先ず、...
あちこちから李の言葉に賛同する声が響き渡った。
1624年(仁祖2)1月、李は自軍を率いて漢城へと向かった...
これにより李の乱は成功するかに思われた。しかし李の漢城入...
当初は反乱軍に有利に戦いが進められた。ところが官軍の劣勢...
これに、李は戦況の不利を悟ると三田渡(漢江上流の渡し場=サ...
丁卯胡乱(1627年)
仁祖が漢城に戻ると、仁祖反正を成功させた西人(ソイン)た...
3万の軍を与えて朝鮮への攻撃を命じたのであった。これによ...
この時、朝鮮ではこうした後金の情勢に全く気付かず、朝鮮建...
ところが後金が攻撃して来た時に、彼は女色に溺れていて城が...
しかし、こうした事態となっても朝鮮の大臣たちは結論の出な...
結局は後金の差し迫る勢いの前に和議を受け入れる以外なかっ...
丙子胡乱(1636~1637年)
朝鮮のこうした決断の間も後金の太宗は着実に勢力の拡大を続...
清から来た二人の使者の仁祖に対する傲慢無礼な態度に朝鮮の...
この時、国境を守る義州府尹・林慶業(イムギョングオブ)は白...
しかし、仁祖が避難した南漢山城は程なく清軍に包囲されてし...
これを聞いた仁祖は、最初こそ固辞したものの城門を開いて王...
これ以外にも清は、①朝鮮は清に臣下の礼を執ること②朝鮮は明...
34.粛宗の二人の王后(仁顕王后と張禧嬪)
仁顕王后と張禧嬪
朝鮮第10代王・燕山君の時代頃から朝鮮末期までの約360...
粛宗は1671年に結婚し何人かの王子たちが生まれたが皆が...
するとこの時、朝廷内の権力を握っていた宋時烈(ソングシヨル...
権力を握った南人たちは自分たちの勢力を確固たるものとする...
しかし、この事件から暫らく過ぎると粛宗は仁顕王后に対して...
少論と老論の葛藤
ところが甲戊換局により再登用され南人たちとの党争に勝利し...
しかし張禧嬪はこの事件の後も仁顕王后を追い落とそうと呪詛...
粛宗の行き過ぎた愛憎の露出が朝鮮時代でも最も激烈な党争を...
元々が病弱であった景宗は後継ぎの出来ない身であった。これ...
この決定に少論派の金一鏡(キムイルギョング)は老論派から少...
英祖の即位(1724年)
1724年、即位した英祖(1724~1776年)は粛宗の4...
英祖は善政を施そうとの思いが強く政治から党争を取り除こう...
思悼世子の惨死
しかし幸福の後には常に不幸がついて来るもので、英祖にも暗...
1749年(英祖25)に老論派の建議によって荘獻世子が代理...
日頃から世子の行動を良く思っていなかった英祖の継妃・貞純...
こうした英祖の煮え切らない態度に失望した貞純王后と意を共...
「おじい様!どうかお父様をお許し下さい。どうかお命だけは...
僅か10歳の王世孫が涙を流しながらの懇願をしても英祖の気...
35.学問と共に進む正祖の治世
正祖の即位(1777年)
朝鮮21代王・英祖(ヨングジョ)は後継に決めていた思悼世...
洪国栄を朝廷から追い出した正祖は、祖父・英祖の意志を継い...
正祖は活字にも関心が高く、新しい活字を作って印刷術の発達...
実学の隆盛
正祖は24年に渡る在位の間、好んで学問を楽しんだ。特に南...
1791年(正祖15)全羅道珍山郡に住んでいた両班で天主学...
正祖は制度改革にも力を注いで悪刑(残酷な刑)を禁止して庶民...
天主教の伝来(18世紀末)
17世紀の朝鮮は壬申倭乱や丙子胡乱などの外国からの侵略に...
実学の先駆者は李光(イスグァング)で、1614年(光海君6)...
(世界地図)と天主真理などの内容が紹介されている。その後、...
しかし彼らよりも先に天主学に関心を持った者がいた。それは...
1783年(正祖7)には李東郁(イドングウク)が使臣となり清...
正祖は天主教に対してはなるべく弾圧などはしない様にと考え...
迫害が始まって
最初の弾圧は正祖9年の1785年に始まり、金範禹らが遠島...
1800年に正祖が急死すると11歳の幼い純宗(スンジョング...
辛酉邪獄とは天主教徒への迫害事件で、天主教が朝鮮の伝統文...
天主教弾圧の理由
1882年(高宗19)にアメリカとの修好条約が結ばれるまで...
宣教師たちは自らの名前を東洋式に変え、先ずは西洋の進んだ...
36.平安道を無視するな!
洪景来の乱(1811年)
この頃の朝鮮は小さな騒乱の連続であった。これは政事を担っ...
幼い純祖が即位した時の宮中では、純祖の曽祖母である貞純大...
そうした時、平安道の洪景来(ホングギョングレ)は何度か科挙...
“関西(平安道)地方は檀君朝鮮の中心地で昔から産業が盛んで有...
国に緊迫した事態が生じれば我々西北人の力を頼りにしながら...
洪景来は軍隊を二つに分けた後に自らを平西大元帥と称し禹軍...
洪景来の乱は当初は社会の不条理に反抗する単純な反乱であっ...
この様な状況が4ヶ月ほど続くと城内では食糧が不足し始める...
1812年4月19日深夜、トンネルから大量の火薬を爆発...
また、洪景来の乱に呼応するかの様に同じ時期に漢城でも乱を...
洪景来が乱を起こした理由は先にも述べた様に平安道出身者に...
37.農民から国王へ
哲宗の即位(1849年)
いつの時代でも民乱は起こっていたが朝鮮第23代王・純祖時...
幼い世孫が朝鮮第24代・憲宗(ホンジョング=在位期間183...
この時代は社会全般で早婚の習慣があり、特に王たちは10歳...
憲宗が崩御すると朝廷では誰を後継王とすべきかが大きな問題...
最初に注目された人物は南延君(ナミョングン:12代王・仁宗...
ところが1844年に閔晋鏞(ミンジニョング)、朴醇寿(パクス...
血税を返してくれ
一夜にして農民から国王となった哲宗は名前だけの王であり、...
役人の横暴の最も代表的なものは過大な税金の取り立てであっ...
税金を納める義務が無い子供と老人の歳を上げ下げし、甚だし...
同じ年、慶尚道晋州では晋州兵使(チンジュビョンサ)に赴任...
一度湧き上がった農民の怒りは容易に鎮まることはなく、国王...
一方、王になったものの一度も王権を行使したことが無い哲宗...
38.民衆の為の新しい宗教・東学
崔済愚-東学創始(1860年)
勢道政治に起因する両班階級の不正腐敗と過酷な搾取から全国...
この時、崔済愚(チェチェウ)が済世救民(世の中を救う事で民を...
そうした生活を永く続けた後に故郷に戻った崔済愚は山奥で隠...
東学の基本教義は侍天主(シチョンジュ=我が身に神を迎えたと...
“・・・庚申年になって伝え聞いたことだが、西洋人たちは天主...
我が国にあっては悪質どもがこの世の中を埋め尽くし、庶民は...
今、世の人々は時運をわからずにいる。私の話を聞けば心から...
天主教が西洋という巨大な後ろ盾を持って東洋に接近いると考...
東学は人即ち天であるとする“人乃天”(インネェチョン)を実践...
民衆の中に根を下ろす
そうした中で哲宗がこの世を去るが後を継ぐ王子がいなかった...
一方で興宣大院君は崔済愚を死刑にさせ東学への弾圧を始め...
崔時亨は漢文を知らずハングルをかろうじて読み書きする程度...
初代教主であった崔済愚が布教した当時の東学信徒は大部分が...
崔時亨の努力で民衆の中に根を下ろし始めた東学であったが1...
39.文無しゴロツキから興宣大院君に
高宗の即位(1863年)
在位の期間中に何の権力も行使することが出来なかった哲宗(チ...
興宣君・李應はこの数年前、憲宗(ホンジョング=24代王)の...
朝鮮では国王が王子や兄弟が無いままこの世を去ることとなっ...
1. 王の前では臣下の礼を取る必要はない。
2. 大臣たちは私邸の前を通る際は馬から降りること。
3. 外出時は軍使が警護すること。
4. 地位は国王の下で、三政丞(宰相)の上とする。
5. 私邸の警護は王の警護隊が担当する。
興宣大院君は不正腐敗を永く続けて来た安東金氏を朝廷から粛...
興宣大院君の改革政治
興宣大院君は積極的に不正を行った官吏に対する調査を実施し...
鎖国だけが生きる道?
その一方で、朝鮮の沿岸には外国船が再三に渡り現われては略...
1866年の火災以後も大院君の景福宮再建意欲は少しも衰え...
一方、高宗が王の地位に就くと誰よりも勢道政治の幣害を知る...
自分の意志に反して朝廷から退ぞかざるを得なかった大院君は...
40.鎖国か!開国か!
押し寄せる列強たち
1840年(憲宗6)には清とイギリスとの間でアヘン戦争が起...
この時代の朝鮮は純祖・憲宗・哲宗の3代に渡る勢道政治の余...
ジェネラルシャーマン号事件(1866年)
1866年7月、大同江に一隻の見知らぬ船が現れ通商を要求...
それをきっかけにシャーマン号と朝鮮の官民たちが互いに火砲...
丙寅洋擾(1866年)
興宣大院君による天主教弾圧から身を隠して生き残ったフラン...
この提示を朝鮮が応じないとわかると、当時の朝鮮にはなかっ...
辛未洋擾(1871年)
一方、アメリカでは東洋で消えてしまったジェネラルシャーマ...
西洋の野蛮人は出ていけ!
アメリカ艦船がいきなり江華島の広城鎮(クァンソングジン)に...
“洋夷侵犯 非戦則和 主和売国 戒我萬年子孫 丙寅作 辛未立
:西洋の野蛮人が侵犯して来るのに戦わずに和議を結ぼうとす...
大院君が強力に鎖国政策を進めると、日本では朝鮮が将来の...
朝鮮の門が開く
大院君に代わって閔妃等が政権を握ると朝鮮社会は急変し、閔...
日本としては大院君が再び勢いづく前に何らかの手を打つ必要...
日本は黒田清隆を全権大使に井上馨を副使として朝鮮に派遣す...
1. 朝鮮は自主国家として日本と同等の権利を持つ。(第1条)
2. 20か月以内に朝鮮は釜山以外の3港を開港し日本の商人...
3. 日本は朝鮮の沿海、周辺の島々を自由に測量して海図を作...
4. 日本は朝鮮が指定する港に領事を派遣し、朝鮮に居住する...
41.大院君と閔妃の対立・混乱
押し寄せる日本
江華島条約締結から5ヶ月後に朝鮮と日本は修好条約の付録1...
朝鮮第26代王・高宗(コジョング)はこれらの報告を大臣たち...
壬午軍乱(1882年)
開化の荒々しい風は、固く閉ざされた扉も物ともせず押し寄せ...
1882年(高宗19)6月、湖南(全羅道)から税として集めら...
俺たちはどうすれば良いのか?
軍卒たちは“このまま捕まって獄につながれ殺されるなら、庶民...
軍卒たちは獄に繋がれている同僚たちを救うのに先立ち武器を...
軍卒たちはその二日後には閔妃派で親日派の李最應(イチェウン...
王命により再び執権となった大院君は別技軍と二営をなくし...
政権を取り戻す閔妃
こうした中、清国は朝鮮における日本の勢力が大きくなること...
大院君が清軍によって排除されると宮殿に戻った閔妃は再び...
この時の日本の要求は次の様であった。
1. 朝鮮政府の正式の謝罪
2. 損害賠償
3. 犯人の逮捕と処刑とその背後にいる者の処刑
4. 被害者に対する弔慰金の支給
5. 場合により巨済島または鬱陵島を割譲する
6. 朝鮮が誠意を見せない場合は武力で仁川を占領する
こうした日本の要求を朝廷は到底受け容れることが出来ず、事...
朴泳孝-太極旗を作る
1882年7月17日、朝鮮は日本が提示した本条約6箇条と...
42.金玉均の三日天下
開国だけが生きる道だ
1882年に起きた壬午軍乱をきっかけに朝鮮への影響力を巡...
事大党と開化党の若者たちの中には最初は同じ思いから共に学...
甲申政変(1884年)
しかし壬午軍乱が彼等を穏健派と急進派に分けるきっかけとな...
洪英植・金允植などは穏健派に、金玉均・朴泳孝・徐光範など...
平素より開化党を快く思っていなかった閔妃は金玉均等の話を...
1. 門閥を廃して四民平等を確立する。
2. 清に大院君の送還を要求する。
3. 内侍府・奎章閣など不必要な機関を廃止し税法を改正する。
4. 4営を1営に統合して巡査を設置する。
5. 行商人の団体である恵商公局を廃止する。
他方、郵政局での事件で刺客に襲われ重体となっていた閔泳翊...
たった一度の失敗で掴み掛けた政権を放り出すこととなっただけ
でなく、追われる身となった金玉均・朴泳孝・徐光範等は日本...
両国の軍隊は立ち去ったが
この政変後、日本政府は日本人被害者の賠償金と日本公使館の新
築にかかる費用及び関係者の処罰を求めて来た。これに対し朝...
1. 清・日両国は朝鮮から撤退する。
2. 朝鮮国王に建議して朝鮮の自衛軍を養成することとし、訓...
3. 朝鮮に派兵する場合は両国は互いに通告する事とし、事態が
終結した際には撤兵する。
天津条約により清国と日本の軍隊は全て朝鮮から撤退した。朝...
他方、1884年ウエベル公使を朝鮮に送って韓露修好通商条...
43.東学と共に立ち上がれ!
東学革命(1894年)
開国して間もない朝鮮は日本・清・ロシア・イギリス・アメリ...
庶民の中には朝廷に不満を持つものが続出し、これ以上は朝廷...
東学は主に両班階級に対する反発心と外国勢力に対する抵抗心...
これに朝廷では按覈使(アンヘクサ)として李容泰(イヨングテ)...
東学軍の持つ武器は粗末な竹槍であったが士気は高く全州から...
朝廷では全羅道の53箇村に執綱所(幣政改革を達成する為に設...
① 東学教徒と政府の間にわだかまりを無くし改革に協力する。
② 不正官吏はその罪状を子細に調査して罰する。
③ 横暴な振る舞いをする富豪は厳罰に処す。
④ 不良行為をする儒学生と両班を懲罰する。
⑤ 奴婢文書を焼却(奴婢を開放)する。
⑥ 賤人の待遇を改善し、白丁(牛馬の屠殺を生業とした賤民)の...
⑦ 若くして未亡人となったものの再婚を認める。
⑧ 規定外の雑税を一切廃止する。
⑨ 官吏の採用は門閥を打破して人材本位で登用する。
⑩ 日本人と密通するものは厳罰に処す。
⑪ 公・私債を問わず既存のものは全て免除する。
⑫ 土地を平均に分作する。
革命から戦争に
これより少し前の1894年5月31日、東学軍が簡単に全州...
こうして清軍と日本軍の対峙が始まると朝鮮の状況は急変する...
全準は5回に渡り尋問を受けた後、1895年3月29日に処...
時来天地 皆同力 運去英雄 不自謀
(時を得て天が味方しても 運が去れば英雄も 更なる策が...
愛民正義 我無失 愛国丹心 誰有知
(民を愛し正義の為の 道に迷いはない 愛国一途の心を ...
東学革命は結局失敗には終わったが、永い間続いた両班中心の...
44.甲午更張と乙未事変
甲午更張(1894年)
東学革命の鎮圧を口実に朝鮮に武力侵入した日本は朝鮮の政治...
1.中央と地方制度の改正及び人材登用
2.財政整理と財源開発
3.法律の整頓及び裁判法の改正
4.安寧秩序の保護及び兵備施設の拡充
5.教育制度の確立
日本の強硬な姿勢を目のあたりにした清の袁世凱は情勢の不利...
一方、清では朝鮮に駐在していた袁世凱が本国に戻ると朝鮮対...
最初の憲法 洪範14条
日本は甲午改革が失敗に終わると今度は大院君に対し清と内通...
1. 清国に依存しない自主独立の基盤を確立する。
2. 王室と国政事務の分離
3. 予算編成による財政確立
4. 地方の行政区域を13道に改編
5. 司法権の独立
6. 警察権の一元化
7. 連座制と拷問の禁止
8. 科挙制度の廃止
9. 小学校の設立
10.役所の職務の権限の区分
11.徴兵法の再訂と実施
12.官制改革と公正な人材登用
13.民法と刑法の制定
14.税法による税金徴収
日本がこの時期に洪範14条を発表したことは清と大院君の干...
乙未事変-王妃暗殺事件(1895年)
日本は朝鮮の民心が排日感情を露骨に現わすだけでなく高宗と...
日本からの様々な圧迫を受けた朝鮮政府は日本の操り人形と化...
45.俄館播遷と大韓帝国の宣布
俄館播遷(1896年)
日本の露骨な内政干渉に嫌気を感じた高宗と閔妃が親日派を除...
一方の高宗は閔妃の悲惨な最後を目にして不安を感じていた所...
ロシアは着実に朝鮮に対する内政干渉の準備を進め、その手始...
大韓帝国宣布(1897年)
この様な状況の中で甲申政変(カプシンジョングビョン)の主導...
独立協会が最初に行った事業としては迎恩門の取り壊しを上げ...
毒茶事件
日清戦争が終わると朝鮮から清の勢力は消えることなったが、...
1898年(光武2)8月18日、高宗の誕生日である萬寿節の...
46.平等な発言権を求めた独立協会
萬民共同会運動(1898年)
1898年10月29日、京城の中心地である鐘路は1万人以...
“私はこの大韓で最も身分が低く無知無学の者です。しかし私は...
彼等はロシア・日本などの外国の侵略政策を糾弾し6箇条の建...
1. 外国人(日本・ロシア)に依附しないこと。
2. 外国との利権契約を大臣が単独で行わないこと。
3. 財政を公正に執り行い予算を公表すること。
4. 重大犯人の公判実施と言論・集会の自由を保障すること。
5. 勅任官(大臣の要請で王が任命する官職)の任命に複数の意...
6. 別項の規則(甲午改革の際に制定された)を実践すること。
献議六組を受けた高宗はその正当性を認めその通り実施するこ...
独立協会と皇国協会の対立
結成して2年足らずの独立協会が活発な活動を展開して民衆か...
その後、独立協会は再び警務庁の前で萬民共同会を開いて公示...
独立協会の活動
1896年に作られた独立協会が創られたきっかけは大韓帝国...
独立協会の約3年の活動を要約すると、それは自主国権思想、...
更に、政治・経済・社会・文化など国政のあらゆる分野に渡っ...
47.日露戦争から乙巳保護条約まで
日露戦争(1904年)
日清戦争以降、日本が着々と朝鮮での地位を確固たるものとす...
日露戦争は既に何年か前から予測されたものだった。日清戦争...
馬脚を現した日本
日本はロシアに対し最後通牒を送ると直ちに仁川沖に停泊中の...
1. 日本以外の浸透に対する防備の保全
2. 外政監督
3. 財政監督
4. 交通機関の完備
5. 通信機関の統一
6. 拓殖事業の計画
7. 警察権の拡張
一方、この間の日露戦争の戦況は明確にどちら優位であると言...
乙巳保護条約(1905年)
ロシア・アメリカ・イギリスなど世界の強国の承認を受けた日...
日本側の代表である伊藤博文は高宗の居る宮殿を軍隊で包囲...
1. 日本の外相が大韓帝国の外国に対する関係及び事務を統括...
2. 今後、大韓帝国政府は日本政府を通さなければ、いかなる...
3. 大韓帝国皇帝のもとに1名の統監を置いて大韓帝国の外交...
この乙巳保護条約により大韓帝国は日本の保護国となり、条約...
48.国の為に散って行った人々
韓日義兵戦争(1907~1909年)
これまでも朝鮮では戦争が起き、国が危うくなると全国各地か...
1905年に乙巳保護条約が締結されると皇城新聞の主筆の張...
ハーグ密使事件(1907年)
1907年6月、オランダの首都ハーグで第2次万国平和会議...
こうした動きを察知した日本はオランダ政府と平和会議の議...
最後の皇帝 純宗
一方、ハーグ密使事件の背後には高宗の存在があると考えた日...
日本によって譲位を余儀なくされた高宗は太皇帝となり、大韓...
国を取り戻せ
1907年、義兵運動が始まるが義兵を率いた人物は李麟栄と...
国の危機に際して両班と常民の区別なく多くの人々が義兵に...
義兵軍たちの反外国勢力と反封建を掲げた抗争の主な攻撃の対...
国が危機に接する度に、国を救おうとの一念から命を奉げた名...
49.安重根の義挙と大韓帝国の滅亡
安重根の義挙(1909年)
1908年のアメリカで起こったスティーブンス狙撃事件は朝...
そしてついに決行の日である1909年10月26日を迎える...
この後も憂国之士たちの義挙は引き続いて起きたが、日本に国...
韓国併合(1910年)
1909年の安重根の伊藤博文暗殺の義挙においても、李在明...
自決でも果たせない国を失った鬱憤
次の文は韓日合邦調印書である。
日本国皇帝陛下と韓国皇帝陛下は両国間の特殊で緊密な関係を...
第1条 韓国皇帝陛下は韓国全部に関わる一切の統治権を完全永...
第2条 日本国皇帝陛下は1条に記載された譲与を受諾し、完全...
第3条 日本国皇帝陛下は韓国皇帝陛下、太皇帝陛下、皇太子殿...
第4条 日本国皇帝陛下は3条以外の韓国皇族及びその後裔につ...
第5条 日本国皇帝陛下は勲功のある韓国人として特に表彰する...
第6条 日本国政府は併合の結果として全般的に韓国の施政を担...
第7条 日本国政府は誠意を持って忠実に新制度を尊重し韓国人...
第8条 本条約は日本国皇帝陛下と韓国皇帝陛下の裁可を経て公...
上記の証拠として両国全権委員は本条に記名調印する。
明治43年8月22日、統監・子爵 寺内正毅
隆熙 4年8月22日、内閣総理大臣 李完用
これにより大韓帝国は幕を下ろし日本の植民地となった。13...
50.こうして土地は奪われた
武力を盾に土地を奪う(1910~1918年)
韓日合邦条約の成立で大韓帝国が日本の植民地となると、日本...
土地調査実施
日本の行った土地の調査方法は土地調査例の第4条に依拠した...
民有地は所有者が、国有地は官庁が申告することとされたが誰...
総督府はこうして得たすべての土地を東洋拓殖株式会社や日本...
山までも奪う
1918年土地調査を終えた日本は次に目を山に向け林野調査...
51.大韓独立萬歳!三一独立運動
湧き上がる独立運動
韓日併合が発表されて間もなくすると事の真相が明らかになり...
安昌浩(アンチャングホ)・李承晩(イスングマン)・閔鎬(ミンチ...
これに因り彼等は日本警察に逮捕されるのだが、この「独立宣...
3・1独立運動
1919年3月1日。いよいよ待望の日がやって来た。人々は...
“我等は此処に我が朝鮮が独立国であることと、朝鮮人が自由民...
鄭在鎔が独立宣言書の朗読を終えるとあちこちから萬歳の声が...
この“大韓独立萬歳”を唱える人波はソウルだけに留まらず、開...
堤岩里虐殺事件
萬歳運動を何としても鎮圧したい日本軍は老若男女を問わない...
52.三一運動から-柳寛順そして大韓臨時政府
一緒に独立萬歳を叫びましょう!
1919年陰暦3月1日、忠清道天安のアオネ市場は普段の市...
“皆さん!私たちは5千年の歴史を持つ独立国民でした。ところ...
少女の言葉を聞いた観衆たちの間では“そうだ!その通り!”な...
“今世界ではアメリカの大統領が唱えた「全ての民族は自らが自...
少女が太極旗を高々に掲げ“大韓独立萬歳!”を唱えると集まっ...
アオネ市場に集まった多くの人々は柳寛順の演説が終わると揃...
この日、日本憲兵によって死んだ人は30人を超え負傷した者...
大韓のジャンヌダルク
柳寛順はその後、天安警察署から公州刑務所に移送され裁判を...
その後、公州裁判所で3年刑の宣告を受けた柳寛順はソウル覆...
上海臨時政府(1919~1945年)出帆
アメリカのウィルソン大統領が提唱した民族自決主義に力を得...
これに続いて4月11日、上海で1千余の志士たちが参席して...
また、ロシア革命の直後であり各国に社会主義の風が吹き荒れ...
臨時政府は何をしたのか?
臨時政府は内部の葛藤で揺れながらも1919年から解放を勝...
-交通路:内外の全ての同胞を管轄する為に全国に交通局と交...
-連通制:全国に地方組織を形成した。
-財政:財政を整備する為に救急義捐金・人頭税・国内公債・...
-軍使:1920年、陸軍武官学校を設置したが大きな成果を...
-史料編纂部設置:外国に派遣された特使たちに韓国独立の理...
-言論機関:独立新聞、新大韓報、新韓青年報を刊行した。
-外交活動:1919年4月に金奎植を全権大使に任命してパ...
-対日独宣戦布告:1941年臨時政府は日本とドイツに宣戦...
-施政方針:当初は、臨時政府は国務院領によって施政方法を...
53.抗日戦闘の英雄・洪範図と金佐鎮
北路軍政署の発足
3・1独立宣言の以後、独立の為に立ち上がった多くの若者た...
満州で活動した韓国独立軍たちが始めの頃の小部隊から次第に...
鳳悟洞の戦闘(1920年)
1920年5月、各地で活躍していた幾つかの独立軍が中国満...
青山里の戦闘(1920年)
北路軍政署に洪範図が参加すると北路軍政署は独立軍最高の軍...
金佐鎮と洪範図
一方、大敗を喫した日本軍はこれに対する報復をするかの様に...
鳳悟洞の戦闘並びに青山里の戦闘を率いた洪範図は、その後は...
また、もう一人の青山里の戦闘の英雄である金佐鎮は1925...
54.関東大震災の朝鮮人への迫害
関東大震災
1923年9月1日11時58分、日本の関東地方を中心に大...
日本を取り巻く周辺状況
話は少し前にさかのぼるが関東大震災前夜の国際情勢は次の様...
これによりドイツに占領されていた幾つかの国々が独立を勝ち...
震災が何故朝鮮人の弾圧へ向かったのか?
この様に国際的に危機を感じていた日本であったが、植民地で...
地震の起きた翌日から日本人の口から“朝鮮人が集団で襲ってく...
この朝鮮人大虐殺の火付け役となった流言飛語の出所は他でも...
55.命をかけた抗日運動
6・10萬歳運動(1926年)
1920年代、朝鮮人たち特に年若い学生たちは国内外におい...
韓人愛国団結成(1931年)
世界大恐慌の波が日本にも押し寄せて来ると国内の不満勢力の...
李奉昌殉国(1932年)
行動隊員たちは国の為に命を奉げる覚悟をして韓人愛国団に入...
日本の(昭和)天皇が満州国の王である溥儀と1932年1月8...
尹奉吉の義挙(1932年)
4月29日は日本の(昭和)天皇の誕生日で天長節と言われ日本...
この事件により中国駐屯の日本軍司令官・白川義則は重傷を負...
56.孫基禎と崔承喜
孫基禎-マラソン優勝(1936年)
1936年8月、第2次世界大戦直前の状況下のドイツのベル...
1930年代、民族性抹消政治によって朝鮮民族に対する抑圧...
平安北道新義州で生まれた孫基禎は貧しい家庭状況から、早く...
ベルリンオリンピックでの孫基禎の記録は2時間29分19秒...
孫基禎の金メダル獲得の事実は8月13日になって一般市民に...
崔承喜-欧州公演(1938年)
それから2年後、もう一人の韓国人が世界を驚かせることとな...
これを見た西洋の評論家たちは“百年に一人でるか出ないかの芸...
安弼承が出獄すると再び日本へ渡った崔承喜は師匠である石井...
4年に渡る海外公演を終えて日本に戻った崔承喜は、1945...
57.臨時政府と光復軍
光復軍創設(1940年)
1937年7月、日中戦争が勃発すると中国各地に散在してい...
日中戦争で中国国民党軍は敗退を繰り返すと重慶を臨時の首都...
“大韓民国臨時政府は中華民国総統である蒋介石元首の許諾を受...
これに先立って金九は日本軍との戦闘に共に協力しようと蒋介...
配した。彼等から完全に完全に独立したのは1945年に入っ...
光復軍の活動
光復軍は1941年12月8日〈大韓民国臨時政府対日宣戦布...
その後、光復軍は1945年まで活動を続けビルマ戦線での輝...
国軍の土台であったが
この間、金九はアメリカ軍の特殊部隊であるOSS(アメリカ軍...
約3ヶ月間の訓練を受けた光復軍は8月9日、アメリカの提供...
これに金九は連合国に対し臨時政府の存在を改めて知らせ、承...
朝鮮半島を信託統治しようと考えるアメリカは臨時政府の訴え...
リカの狙い通りに“臨時政府=金九勢力”という考えが国民に注...
一方、朝鮮義勇軍と韓国光復軍は祖国が解放されると一刻も...
58.新たな悲劇の始まり
8・15解放(1945年)
1945年8月15日の正午、ラジオでは日本の天皇による国...
日本の無条件降伏を知った人々は路上になだれ込み自ら描いた...
呂運亨-建国準備委員会組織
一部の知識人の中には解放のかなり以前から日本の敗戦を予見...
① 政治・経済犯は釈放する。
② 3か月間の食糧の保証を確約する。
③ 治安維持と独立の為の活動に干渉しないこと。
④ 学生訓練と青年組織に干渉しないこと。
⑤ 各事業の作業場の労務者を建設作業に協力させること。
解放になると呂運亨は建国準備委員会を組織して総督府から行...
1. 我々は完全な独立国家の建設を期する。
2. 我々は全民族の政治的・社会的基本要求を実践できる民主...
3. 我々は臨時的な過渡期にあって国内秩序を自主的に維持し...
建国準備委員会が組織的に拡大していくと委員会内部は左右の...
二つに割られた半島
一方、ソ連軍は半島全体を占領する勢いであったが、38度線...
日本の無条件降伏直後からアメリカ軍は朝鮮半島に駐屯する為...
この時、38度線以北でも同様にソ連が軍政を宣布したが南と...
59.信託統治に対する賛否
モスクワ3相会議(1945年)
1945年12月27日、すべての国民が解放による新しい国...
東亜日報が28日から30日まで続けて信託統治に関する記事...
① 朝鮮の産業、交通、農業、民族文化の発展に必要な処置を執...
② 朝鮮臨時政府の構成の為、米ソ両軍司令部代表で構成する共...
③米ソ共同委員会は朝鮮の政治、経済、社会的進歩と民主的自治...
④米ソ行動委員会を2週間以内に召集する
などであった。こうして3相会議の結果は発表されたが、既に...
北にも親米派が
しかし、北にも親米派が存在し反託を唱える人たちもいた。そ...
左右が一つにまとまっても出来るかどうかの時に南側では右寄...
この様な間にもアメリカとソ連は着実に信託統治への施策を行...
国際連合は11月14日に総会を開き韓国問題を解決する為の...
60.民族解放の為に生きた男たち
呂運享暗殺事件(1947年)
解放(第2次大戦終了)直後、朝鮮半島の政治、経済、社会は...
高宗の22年(1885年)京畿道の楊平で生まれた呂運享は...
1946年8月になると韓国は信託か反託かの岐路に立ち、南...
呂運享は朝鮮人民共和国がアメリカ軍政から認められないと判...
済州4・3抗争(1948年)
米ソ共同委員会が妥協点を探れずにいると、アメリカ軍政は朝...
韓国の各地でこれに反対する示威運動が起こることとなるが、...
国連で5月10日に総選挙の実施が決められると、済州島では...
「米軍は即時撤退せよ!単独選挙・単独政府は決死反対!国連...
済州島民の3千人余りは武装した人民自衛隊と共に島内各地の...
4・3抗争が起こるとアメリカ軍政は各道から募った警察討伐...
「・・当初、我々の部隊は鎮圧に動いていなかった。ところが...
この二つの事件を警察とアメリカ軍政は「武装集団の仕業と断...
選挙が終わると討伐隊は大々的な鎮圧に乗り出すが暴動に何の...
この時に済州島で起きた事件は暴動と記録され歪曲されたまま...
南北統一政府を目指す金九
朝鮮半島を北緯38度線で《信託統治》していたアメリカとソ...
生涯を祖国の独立の為に活動した金九(キムグ)はこの決定を...
南から自らの命を担保してまで多くの人々が38度線を越えた...
しかし、連席会議が北側の脚本によって一方的に進められるこ...
南だけの総選挙
結局、何らの成果も得ぬまま5月5日に戻った金九は金奎植と...
多くに人々は強く望んだ統一政府の樹立が、最後の最後で南だ...
61.一国2政府と6・25戦争
大韓民国政府樹立(1948年)
統一国家の建設を夢見た国民の願いも虚しく1948年5月1...
李承晩は韓国が日本から開放された日である8月15日の記念...
李承晩-アメリカの後押しを受けて
解放前の上海臨時政府でも弾劾されたことがあり、国内におい...
この様な事実は支持基盤を見るとすぐにわかる。解放直後、ア...
朝鮮民主主義人民共和国の誕生
一方の北側でも、もう一つの政府が誕生する事となる。194...
38度線以北を信託統治したソ連が全ての行政権を人民委員会...
6・25勃発(1950年)
1950年6月25日、日曜日の明け方であった。北朝鮮軍が...
一方、この時の韓国軍は北朝鮮とは比較にならない程に劣って...
国連の決議に従い、先ず韓国に到着したアメリカ軍・第24師...
仁川上陸作戦
開戦以来、制海権は国連軍が掌握したが格別な活躍は無かった...
この結果、ソウルが奪還される。マッカーサー総司令官は30...
1・4後退から休戦へ
国連軍が朝鮮半島のほぼ全域を掌握した事で祖国の統一は目前...
一方、アメリカでは中国共産党軍が参戦した時から原子爆弾を...
国連軍総司令官の交代のすきを衝く様に北朝鮮軍は大々的な反...
62.李承晩の独裁政治と国民の反発
長期政権を目論む李承晩
6・25(朝鮮戦争)が勃発すると瞬く間にソウルが陥落し北...
11月27日に国会が始まると改憲案の採決を前に賛成票の取...
「昨日の否決は算出解釈の理解に誤りがあったもので、在籍議...
この自由党の主張に続いて政府からも広報処長の談話と通して...
独裁を望まない学生と市民
釜山政治波動と四捨五入改憲などを強行するなど政権への執着...
この改正案が発表されると野党は勿論のこと多くの国民や李承...
不正選挙と4・19学生運動(1960)
1960年3月15日に予定される第4代大統領選挙を前に国...
それから20日余り過ぎた4月11日、馬山沖で片方の目を...
一方、アメリカは3月15日に馬山でデモが起きた時点でいち...
①全国各地での学生デモは主権を奪われた国民の鬱憤を代弁して...
②このデモを共産党や野党の謀りごととするのは学生たちの正義...
③平和的で合法的な学生たちのデモに銃弾を浴びせ流血惨劇を起...
④この様な大惨劇を引き起こした大統領を始めとする与野党国会...
⑤3・15選挙は不正選挙であり再選挙をしなければならない。
宣言文を発表した教授たちが市内行進を始めると市民たちも共...
その後、6月15日に国会で内閣責任制に改憲した上で7月2...
63.軍事統治の始まり
5・16クーデター(1961年)
前年の4・19以後、国民の意識は民主主義を望む声が高まり...
1.反共を国是の第一義としてこれまで形式的に過ぎなかった...
2.国連憲章を遵守し国際協約を忠実に履行し、アメリカを始...
3.この国の社会のあらゆる腐敗と旧悪を一掃し退廃した国民...
4.絶望と飢餓にあえぐ民生苦を急ぎ解決して国家自主経済の...
5.民族の宿願である国土統一の為に共産主義者と対決する事...
6.こうした我々の課業が成就すれば斬新且つ良心的な政治家...
朴正煕、金鐘泌等が数千人の武装軍人を動員して起こした軍事革
命であった。ソウルを掌握した革命軍は軍事革命委員会を構成...
民主共和党の誕生
翌年の1962年に国家再建最高会議は、慈善・学術・宗教を...
第3共和国
こうして出来た民主共和党は朴正煕を党の総裁に選出すると、...
64.永久政権の布石-10月維新
10月維新(1972年)
1970年代に入ると韓国では民主化を望む動きが活発になり...
① 大統領は経済規制を命令する事が出来る。
② 大統領は国家動員令を宣布することが出来る。
③ 大統領は屋外集会とデモを規制する事が出来る。
④ 大統領は言論・出版に対して特別措置をとることが出来る。
⑤ 大統領は労働者たちの団体行動権を規制する事が出来る。
⑥ 大統領は軍事上の目的の為に歳出額を調整する事が出来る。
こうして民主化の要求が「特別措置法」によって大統領に格別...
10月維新は祖国の平和的統一の志向と韓国的民主主義の定着...
① 全ての政治活動目的の室内外の集会及びデモは一切禁止す...
② 言論・出版・報道及び放送は事前検閲を受けること。
③ 各大学は当分の間、休校措置をとること。
④ 正当な理由の無い職場離脱と怠業行為を禁じる。
⑤ 流言飛語の捏造及び流布を禁じる。
⑥ 夜間通行禁止は従来どおり施行する。
この布告に違反した者は「令状なしに捜索並びに拘束する」と...
国会を解散した朴正煕政権は、自信に協力的な者だけを集めた...
維新憲法によって大統領は立法・司法・行政の3権全てを掌握...
何故維新か?
アメリカの支援を受けあらゆる特別法を作り独裁政治を合法化...
① 南北は自主的・平和的・民族的統一原則を合意。
② 思想と理念、制度の違いを離れ一民族の大団結を図る。
③ 中傷・誹謗をせず武力挑発を排除。
④ 多方面的な様々な交流を実施。
⑤ 南北赤十字会談に積極的に協力。
⑥ ソウル・平壌間の常設直通電話の開設。
⑦ 南北調整委員会の設置など。
南北共同声明により発足した南北調整委員会は共同声明内容の...
この様に南北調整委員会において活発に会談を進めながらも、...
65.朴正煕永久政権への反発と崩壊
金大中拉致事件(1973年)
南北会談に多くの離散家族や知識人たちが大きな期待を寄せる...
後に明らかにされた所に依れば、この事件は朴政権の指示で韓...
翌年の1974年の春になると動きは更に活発になり全国各地...
①腐敗、特権、族閥の財を成す為の経済政策を是正し、不正腐...
②庶民の税金を減免して勤労大衆の最低生活を保障する。
③労働悪法を撤廃して労働運動の自由を保障する。
④維新体制を廃して拘束された愛国の士を釈放して正しい民主...
⑤中央情報部を解体する。
⑥反民族的な対外依存経済を清算して自立経済体制の確立をす...
などであった。そして、学生たちは行動綱領に《ソウル市内の...
の大学生と市民は午後2時にソウル市庁前広場に集結すること...
掲示したが、この情報が流出したことで当局の弾圧に合いデモ...
なわれないまま挫折する事となる。
独裁下で繰り広げられる民主化闘争
しかしこの後も大小の市民たちのデモが繰り返されると、朴政...
その結果、1978年12月に実施された第10回国会議員選...
66.再び起きた軍事クーデター
5・17クーデター(1980年)
朴正煕(パクチョングヒ)が1961年5月16日のクーデタ...
全斗煥のクーデター
朴大統領の暗殺を金載圭の単独犯行であると明らかにした保安...
非常戒厳の宣布
維新体制の崩壊で本当の民主化を夢見た多くの国民たちは全斗...
更に、金大中(キムデジュング)・文益煥(ムンイックァン)...
一方、朴正煕を暗殺した金載圭(キムジェギュ)は、事件翌年...
これにより、朴正煕暗殺事件は永遠に真相が明らかにされない...
立法・行政・司法の三権を掌握した新軍部は全斗煥大統領を誕...
67.果かなく消えた民主化の夢
光州民衆抗争(1980年)
朴正煕(パクチョングヒ)の暗殺後、今度こそはと国民が夢見...
無法地帯となった光州
午後3時30分、銃剣で武装した空挺部隊が厳粛な姿で全羅南...
命令を受けた軍人たちは直ちに路上にいる市民の逮捕を始めた...
すると軍人たちの銃剣は市民に向かって振り回され、想像もで...
5月20日、運送労働者が200台余りの車で光州市内で車両...
これに対し新軍部ではデモに対する対応が消極的であったとの...
金大中内乱陰謀(1980年)
一方、5・17クーデターの起きた前日にあたる1980年5...
「金大中は10・26事態(朴正煕暗殺事件)の発生が自身の...
しかし、戒厳本部が明らかにした内乱陰謀は前後の辻褄が合っ...
68.全斗煥大統領の第5共和国
第5共和国
崔圭夏(チェギュハ)大統領の辞任を迫った全斗煥(チョンドゥ...
1980年9月29日、第5共和国の基礎となる改正憲法が公...
更にその数日後の25日は第11回国会議員選挙が実施され、...
この結果、国会運営上では全斗煥大統領による安定政権が始ま...
新民党創党(1985年)
1984年5月18日、野党と在野勢力が中心となり民主化推...
国会が始まると大きな勢力となった新民党は憲法改正を主張し...
69.全斗煥から盧泰愚への政権移行
6・29宣言(1987年)=大統領直接選挙へ
全斗煥(チョンドゥファン)大統領がその任期を僅かに残して...
これに慌てた与党であったが、それ以上は何の手を打つことも...
3党合同(1990年)
盧泰愚大統領は大統領就任後の国会議員選挙の結果から少数与...
70.成功したクーデターの終末
文民政府の出帆(1993年)
第13代・盧泰愚(ノテウ)大統領は5年の任期を数ヶ月ほど...
翌年の1993年2月25日、大統領に就任した金永三は自身...
失敗した改革・金融実名制
金永三大統領が就任して5ヶ月が過ぎた8月12日、ひときわ...
前職大統領たちの秘密資金疑獄
1995年10月19日、国会質疑の中である事件が表面化す...
1996年8月26日、過去のクーデターに関する一連の捜査...
71.初めての政権交代
金大中大統領の国民の政府(1998年)
1997年12月19日、第15代大統領選挙が行われ金大中...
IFM金融危機の克服
金大中大統領が就任後、最優先で取り組まなければならなかっ...
6・15南北首脳会談とノーベル平和賞
就任当初より南北間の交流を唱えていた金大中大統領は200...
1.南北の統一問題はその当事者である我々民族間で力を合...
2.南北統一に関する南側の連合提案と北側の連邦制案は共...
3.南北は8月15日に離散家族の相互訪問団を交換し、非...
4.南北は経済協力を通して民族経済を均衡的に発展させ、...
5.南北は以上の合意事項を迅速に実践に移す為に早期に当...
これ以外にも実際に実現することは無かったが、金正日国防委...
平壌で歴史的な南北首脳会談が行われた年のおよそ半年後、ま...
った。民主主義と人権の擁護に傾けられた40余年の長い闘争...
の改革・開放へ協力することを要請した。また、この受賞は朝...
72.女性大統領の就任
民主主義の定着
2002年12月に行われた第16代の大統領選挙では、金大...
1948年の大韓民国建国以来、李承晩(イスングマン)・尹...
韓国最初の女性大統領の就任
2012年12月19日、2000年代に入って3回目の大統...
一方、同じく1948年に建国された北の朝鮮民主主義人民共...
2013年2月25日の大統領就任式において、朴槿恵大統領...
- 完-
----
http://ezkorea.biz/inf8.cgi
http://tamrhyouka.hiho.jp/reki-4koukai.html
終了行:
1.檀君誕生
古朝鮮の建国(紀元前2333年)
今から約4300年前、韓半島に朝鮮最初の部族国家が誕生する。...
古朝鮮の建国に関する記録としては古代中国北魏の歴史書《魏...
その三国遺事には次のように記されている。
『魏書によると、今から二千年前(魏の時代から見て)檀君王...
古記によれば、むかし神様(恒因=ハンイン)の庶子である恒雄...
恒因は恒雄の思いを見抜いて三危太伯山に降りてみると、収め...
恒雄は三千の獣を従えて太伯山の頂上、神檀樹の下に降り立つ...
ある時、熊と虎が恒雄に自分たちを人間にしてほしいと願い出...
あまりの熱心な懇願に恒雄はヨモギ一握りとニンニク20個を与...
忍耐心の弱い虎は途中で洞窟を出てしまうが、熊は我慢強く耐...
恒雄は熊女と結婚し、檀君王儉が生まれた。
檀君王儉は中国の堯王が王位について50年目の年に阿斯達を都...
檀君王儉は1500年の間国を治めたが、中国の周の武王が即位し...
以上が朝鮮民族の始祖である檀君王儉についての所謂『檀君神...
三国遺事以外にも李承休の帝王韻紀、権南の応製詩註等に王儉...
檀君神話から読み解く古朝鮮
檀君神話は永い間人々の口から口へと伝承されてきたものであ...
神話の内容をみると例えば当時の部族社会が熊や虎などを崇拝...
恒雄と熊や虎との関係は集団が統合される過程を表すもので、...
また、恒雄が風・雲・雨の扱いに長じていたということからは...
恒雄と熊女の間に生まれた檀君王儉は二つの部族が統合され建...
檀君についての話は永い間口頭でのみ伝えられて来たが、高麗...
古朝鮮が歴史として書物の中に登場するのは紀元前7~8世紀頃...
管子に依れば「朝鮮のまだらの獣の皮」は世の中の7つの宝物の...
古朝鮮の社会については同じく中国の漢書地理志に出てくる『...
1.人を殺したものは死刑に処する。
2.人に傷を負わせたものは穀物で賠償する。
3.盗みを犯したものはその家の奴婢とする。但し、奴婢を免...
この3項目を見ても当時の古朝鮮の社会が人の命を大切にしてい...
一方で、古朝鮮社会では人が死ねばその者が普段使っていた物...
これは当時の人たちが来世を信じ、死んだ者が生まれ変わった...
また檀君神話には、中国の周の武王が箕子を朝鮮の王に封じ、...
その内容は概ね次のようなものだ。
①「箕子東来説」とは漢の漢四郡(楽浪郡など)の支配を正当化...
②箕子朝鮮は中国からの渡来人によるものではなく古朝鮮の発展...
③東夷族の移動過程で箕子を称した部族が古朝鮮の権力を掌握し...
この他にも異論は多く存在し、どれが正しい箕子朝鮮の歴史で...
2.古朝鮮と中国の戦闘
衛満朝鮮の登場(紀元前194年)
韓半島で古朝鮮が平和に暮らすなか、中国では繰り返し新たな...
始皇帝は万里の長城と巨大な阿房宮を建てるべく過酷な税金を...
この後中国は5年の間戦争に明け暮れ、その余波から罹災民が多...
『・・・天下が秦に反し戦乱が起こると 難を逃れようとした多...
このようにして古朝鮮に入った多くの人たちの中に衛満(ウィマ...
自身の勢力が拡大した衛満は野心を抱くようになる。準王を追...
この時期を衛満朝鮮という。
追い出された準王は漢江以南の辰国に逃亡し、衛満朝鮮はさら...
古朝鮮の滅亡(紀元前108年)
一方、中国では劉邦(漢の高祖)が紀元前202年に漢を建国した...
これを聞いた右渠王は渉何を不届き者とし大軍に鴨緑江を越え...
漢武帝は樓船将軍・楊僕に7千の軍を与え王儉城(現在のピョン...
その後漢武帝は新たにより一層の軍を遼東に送ったが、やはり...
両国間の膠着状態が続くなか、先に逃げ帰っていた楊僕が再び...
そんな折、王儉城の中では和睦派と主戦派に分かれ意見が対立...
右渠王は亡き後も最後まで王儉城は陥落しなかった。大臣であ...
古朝鮮は結局漢により倒れたが、戦争に敗れた訳ではなかった。
中国の歴史家・司馬遷は古朝鮮と漢との戦争について
「・・・両軍ともに傷を負い生きながら功を建て諸侯(大臣)...
漢武帝は108年に古朝鮮の地に楽浪・真番・隣屯の3郡を置き、...
この中で楽浪郡は最も朝鮮の社会に影響を与え、その文化は急...
楽浪郡で発掘された多くの文化遺産からは当時の豊かな生活ぶ...
漢に対抗した古朝鮮の遺民たちは静かに力を蓄え、後にこれら...
3.東明聖王(朱蒙)とその子達
高句麗の建国(紀元前37年)
東扶余(トンプヨ)の王である解夫婁(ヘブル)は年を重ねても息...
そしてその通りに、解夫婁が亡くなると金蛙は王となった。
ある日、大きくなった金蛙王が太白山の南の優渤水に狩りに出...
金蛙王は柳花を気に入り宮に連れ帰ったが、ある時から陽の光...
そんな中しばらくすると柳花は懐妊し、やがて大きな卵を産む...
これを見た金蛙王は更に不審に思い、いっそ卵をたたき割って...
金蛙王には全部で7人の息子たちがいたが、柳花の息子に勝る...
金蛙王の長男・帯素(テソ)はそんな朱蒙を疎ましく思い、王に...
王子やその家臣たちの多くが朱蒙を疎ましく、恨めしく思う様...
それを知った扶余の人々はすぐに軍隊に朱蒙一行を追い掛けさ...
朱蒙は奄利水(今の鴨緑江の東北部)に着くと「我は天帝の子...
無事に奄利水を越えた朱蒙一行は鴨緑江の中流地域である卒本...
卒本は高い山と渓谷の多い所であったが河川沿いに広がる土地...
沸流と温祚 百済の建国(紀元前18年)
高句麗(コグリョ)・百済(ペクチェ)・新羅(シンラ)の三国の中...
北扶余を出て南下した朱蒙が卒本扶余に入ると、その地の王は...
ある時、沸流と温祚は烏干・馬黎など10余名の臣下を連れ新...
二人の王子は漢山(現在の北漢山)と負兒嶽(三角山)に来て...
温祚は臣下の申し出を受け入れ河南を都にしようと決めたが兄...
温祚は河南の慰禮城(現在のソウル市江東区一帯)を都と決め...
ある時沸流は弟がどの様に国作りをしているのか気になり様子...
以上が百済の建国に関する話である。この話と一緒に伝えられ...
『卒本扶余の部族長である延陀勃の娘である召西奴(ソソノ)は...
兎にも角にも、百済を建国した温祚は熱心に領土を拡大させ建...
4.新羅建国と卵の秘密
新羅の建国(紀元前57年?)
韓半島で建国された国家には各々独自の説話や神話などが伝え...
新羅の建国は紀元前57年ということになっているが、これは...
新羅は〈三国志〉に見られる“斯盧(サロ)”と〈三国史記〉〈三...
当時の慶州地方では6つの部族が一団の様に集まって暮らして...
指導者探しに苦心するある日、楊山の井にある井戸の傍らで白...
不思議に思った部族長たちがそこに近づくと、馬はどこかに消...
朴赫居世は常人より早く成長し周囲の人々を驚かせた。彼は非...
彼は国号を徐羅伐(ソラボル)とし都を金城(現在の慶州)と定...
永年の願いであった王を迎えた部族長たちは一安心するが、間...
昔脱解と金閼智
この他にも誕生説話が伝えられている人物として新羅の第4代...
『昔脱解は多婆那国の王と女人国の王女との間の子であるが、...
櫃は海を漂い新羅のある東海岸まで流され、阿珍浦(現在の迎...
昔脱解は第2代の王である南解次次雄(ナムヘチャチャウング)...
昔脱解が王となって9年が経ったある日の晩、王は金城の西方...
臣下は王に「始林に行きますと、ある木の下にこの箱が置いて...
王が直接箱を開けてみると箱の中には男の子が入っており王は...
それから時は流れ慶州金氏の始祖である金閼智の7代後の孫が...
当時、新羅の王の称号は定まっておらず“居西干”“次次雄”“尼師...
“麻立干”は第19代の訥祗(ヌルジ)王から第22代の智證(ヂジ...
建国の始祖は皆卵から生まれた?
王についての様々な名称は“指導者”“年長者”を意味するもので...
南解次次雄が死に臨んで自身の息子と儒理と、婿である昔脱解...
儒理と昔脱解はどちらが王になるべきか議論し、昔脱解が「智...
元々新羅は三韓と言われた馬韓・辰韓・弁韓の中の辰韓に属す...
この事は王権が体系的に整っていなかったことを意味し、政権...
また政権を取った一族は、政権の神聖さを強調し一族の優越性...
国や部族に関係なく伝えられている誕生説話を見ると、どの話...
5.伽の建国
亀旨歌を歌え
紀元42年、韓半島の漢江以南地域では百済と新羅が成長し、...
そうしたある日、9干達が集まり指導者を探す方法について議...
「そこに誰かいないか?」
声が繰り返し聞こえると、9干達は声の方角である亀旨峰(グジ...
「そこに誰かいないか?」
また、声がした。
「はい、ここに私達がいます」
「ここは何処だ?」
「ここは亀旨と申す所です」
そう答えると天からまた声が聞こえて来た。
「天は私に、ここに国を建て王になれと命じられた。
お前達にもし王が必要ならば、亀旨峰の頂を掘りながら“亀よ、...
人々が天から聞こえた通りにしてみると、果たして紫色の綱が...
彼らはその箱を持ち帰り、9干の最年長者である阿刀干(アドガ...
人々は一番初めに生まれた子を首露(スロ)と名付け、姓は金と...
紀元48年のある日、金首露王は臣下である留天干に海に出て...
この女人は阿踰陀(アユタ)国(インドの国の一つ)の王女で名...
以上が伽の建国説話であり〈三国遺事〉の駕洛国記に記された...
華やかに咲き消えて行く
伽は加羅(伽羅、迦羅)・加洛(駕洛)・六伽などと呼ばれ、...
中国の漢の影響を受けた伽は、百済と新羅の間で独特の文化に...
6つの伽の関係を見ると、先ず先に生まれた金官伽が最も強力...
その後、新羅で名を建てた代表的な伽の遺民としては金信(キム...
伽は500余年の間存続したが中央集権国家としては発達しな...
6.高句麗の発展
名宰相・乙巴素
韓半島で成長する三国の中で最初に発展した高句麗(ゴグリョ)...
太祖王の後を継いだのは彼の弟である遂成(スソング)で第7代...
新大王が死ぬと大臣たちは、長男より英得な次男の男武(ナンム...
高句麗が徐々に強大になると中国では高句麗をけん制する目的...
一方、朝廷では王の外戚たちが幅を利かせていた。故国川王は...
「私は身分卑しく御命をお受けすることが出来ません。もっと...
「王様!それはいけません。政治を全く知らないものに最高の...
「そうです。あの様な卑しいものに国事を任されてはなりませ...
王の登用に大臣たちの反対が相次いだ。しかし、故国川王の心...
「今後、乙巴素の指示に従わない者は、私の指示に従わなかっ...
国相となった乙巴素は賑貸法を作った。そして故国川王が賑貸...
これ以外にも故国川王は乙巴素とともに賢明な政治を施し太...
すると、故国川王の別の弟である発岐(パルギ)が遼東に逃げた...
当時の高句麗の都には二つの城があり、王たちは平常時には...
その後、山上王が亡くなると憂位居(ウウィゴ)が王と就き東川(...
忠臣 密友と紐由
ある年東川王は臣下たちを引き連れて狩りに出かけ、そこで虎...
「虎が死んだぞ!」
見ていた人達がいっせいに歓声を上げた。
「誰が矢を射ったのか?」
東川王が問うと若い軍官が前に出てきた。この若い軍官こそが...
彼らは魏の丘儉が高句麗を攻めて来ると東川王を護衛して戦争...
これを見た魏軍はそれ以上戦う意欲を失い、これを契機に高句...
7.三国の仏教
近肖古王
高句麗から分かれて漢江を中心に根拠地を構えた百済(ペクチェ...
近肖古(クンチョゴ)王は肖古王とも言われ比流(ピユ)王の2番...
313年楽浪郡の滅亡で西海の海上権は高句麗に移っていたが...
京畿(キョングギ)道・忠清(チュングチョング)道・全羅(チョル...
領土の拡張以外にも国外の国々と積極的に外交活動を繰り広げ...
近肖古王は部族連盟の百済を古代国家の形態に作り変え、王権...
こうした中、仏教が韓半島に伝来する。高句麗には372年に...
百済は日本へ仏教を含め様々な文化・技術を伝え、日本では飛...
韓半島の仏教
紀元前500年ごろにインドで生まれた仏教はインド中部を中...
最初に韓半島に仏教が伝えられたのは高句麗の小獣林(ソスリム...
小獣林王は仏教だけではなく儒教も受け入れ太学を建て、貴族...
国が発展して社会が複雑化していくと王が成すべき仕事は肥大...
こうした状況を解決すべく小獣林王は果敢に仏教と儒教を受け...
高句麗の仏教は大いに発展し金剛砂・平壌九寺・磐龍寺などが...
高句麗に仏教が伝わって12年後の384年、東晋から来たイ...
異次頓の殉教
後に三国を統一した新羅は三国の中では一番あとに仏教を受け...
異次頓、姓は朴氏で一名を居次頓ともいい、葛文(カルムン)王...
阿道が仏教をつたえるため新羅に入って来ると、多くの臣下た...
「私は仏法の為に死ぬのだから、本当に仏法に神がいるのなら...
法興王は栢栗寺を建て、石憧を作るがこれは異次頓を称える為...
異次頓の殉教については幾つかの伝説があるが、彼が死ぬ時首...
法興王の時代、新羅は百済と高句麗の影響で仏教が伝来し多く...
難しい事情を乗り越え新羅に入った仏教であったが、新羅が三...
8.高句麗 二人の王
広開土大王
紀元前37年に朱蒙(ジュモン)が高句麗を建国して以来ずっと...
それから4年後に生まれた談徳(タンドック=公開土王)は幼い時...
広開土王は常日頃から臣下たちと国事を論じる度に「我々は檀...
広開土王は、まず祖父の復讐をするとともに今後再び高句麗を...
当時の中国は晋が滅亡し五胡(匈奴、、羯、羌、鮮卑)の五民族...
これを好機と考えた広開土王は百済の10余城を奪った後、...
その間に百済は高句麗に奪われた漢江以北の地を取り戻そうと...
百済の阿(アシン)王は、慌てて直接広開土王の前に出て膝を屈...
広開土王は百済がこれ以上高句麗に攻撃して来ないことを確認...
こうした高句麗の動きを警戒したのが中国の後燕であった。後...
《5世紀の高句麗の領土》
長寿王
広開土王の後を継いだ長男の巨連(コヨン)は、高句麗の第20...
長寿王は472年に首都を国内城から平壌城に移し、強力な南...
話を聞いた蓋鹵王は道林を自分のそばに置き、毎日の様に共に...
道林が高句麗に戻りこの事を長寿王に告げると、長寿王は軍を...
国の内外を整備した長寿王は先王である広開土王の業績を称え...
この碑は1882年になって発見されるが、これを発見した日...
倭以辛卯年来渡海破百残○○○羅以為臣民
これを削り取ることで日本人は「日本が辛卯年(391年)に...
《広開土王碑》
広開土王の業績を称える為に長寿王が414年に建てた碑石で...
#style(class=box_black_dsm){{
□碑文改竄説
この記述に関しては、1884年に大日本帝国陸軍砲兵大尉の酒...
その主張は、「而るに」以降の「倭」や「来渡海」の文字が...
百残新羅舊是属民由来朝貢而後以辛卯年不貢因破百残倭寇新羅...
百済新羅はそもそも高句麗の属民であり朝貢していたが、や...
という表記であって、「破百済」の主語を高句麗とみなして...
しかし、百済などを破った主体が高句麗であるとすると、か...
これに対して、高句麗が不利となる状況を強調した上で永楽...
2005年6月23日に酒匂本以前に作成された墨本が中国で発見さ...
さらに2006年4月には中国社会科学院の徐建新により、1881年...
これにより、旧日本陸軍による改竄・捏造説が成立しないこ...
■まとめ、感想など
この改竄説は、韓国系および朝鮮系の学者の学者たる資質を...
倭国に過去、征服されていたという事実を認めたくないとい...
改竄したとされる酒匂氏こそ、迷惑極まりない。
学問とは、事実のみの上に立脚するものである。
}}
9.発展する新羅
高句麗で広開土王の後を継いだ長寿王は強力な南下政策を取り...
百済で有王の後を継いだ蓋鹵(ケロ)王は高句麗の長寿王の送っ...
知(ソジ)麻立干の時代からそれまでにない成長を始める新羅は...
新羅の復興期-法興王と真興王
514年智證王が亡くなり後を継ぎ即位した法興(ポブング)王...
一方、金官伽(クムグァンカヤ)の王は自身の勢力を堅固にす...
更に527年、異次頓(イチャドン)の殉教で仏教を承認し国教...
国が安定すると法興王は534年に大興寺と永興寺を建て、5...
法興王の後を継いだ真興(チヌン)王は仏教をさらに奨励し興輪...
高句麗との戦闘に勝利した真興王は更に領土拡大の手を伸ばし...
三国統一の一等功臣・花朗
この様に新羅が全盛期を迎えることが出来たのは真興王の優れ...
〈三国史記〉を見ると「真興王 37年(576年)に南毛(ナ...
新羅で民間狩猟団体から始まった花朗は貴山(キィサン)と箒項(...
世俗五戒を根本に生きた花朗たちは新羅躍進の重要な役割を果...
10.高句麗と中国の戦争
12.高句麗の戦争
高句麗と隋の16年戦争
中国と国境を接する高句麗は建国当初より中国と戦争・和睦を...
隋の台頭を知った韓半島の国々は次々に隋へ使臣を送り友好関...
いつ来るかわからない隋の攻撃に備えていた高句麗は、靺鞨の...
隋がしばらく高句麗を攻撃しないと見るや、百済は隋へ使臣...
新羅もまた百済と同じように、隋に盛んに使臣を送った。その...
薩水大捷(612年)
隋で文帝の後を継いだ煬帝は612年1月に宇文述、宇仲文、...
まず、隋軍は遼東城を包囲したが3ヶ月が過ぎても高句麗は堅...
高句麗軍を率いた乙支文徳(ウルチムンドク)は宇仲文の軍と...
隋軍の士気が上がっていないことを知った乙支文徳は更に隋軍...
神策究天文 神妙なあなたの作戦をどの様に形容しようか
妙算窮地理 妙略の天分が地理に至らせたか
戦勝功既高 戦うたびに勝ち、戦功はすでに高いのに
知足願云止 不足のあることを知り戦の終わることを望め
乙支文徳がわざと敗走したことを後から知った宇仲文は慌てて...
隋から唐へ
隋の煬帝は雪辱戦を期して様々な新兵器を開発し翌年613年...
4度にわたり敢行された高句麗との戦争で多くの死傷者を出し...
中国の動きに敏感に対応せざるを得ない高句麗は唐に対抗する...
淵蓋蘇文は早くに父の後を継いで高い官職に就くこととなった...
これに高句麗の各城は城門を固く閉ざし唐の攻撃をしのいだ。...
安市城の攻防
太宗は高句麗の二将が降伏すると意気軒昂に安市城に総攻撃を...
安市城を落とすことなど到底出来まいと判断した唐軍はふた月...
11.百済滅亡
滅亡の足音
羅済同盟により百済と新羅は互いに力を合わせ、ある時は共に...
これにより百済は危機に陥り、これを見た高句麗が百済の熊川...
威徳王が亡くなったその後は、恵(へ)王と法(ボッブ)王が即位...
武王は新羅をしきりに攻撃しながら同時に隋に朝貢し、高句麗...
この様に武王は国の勢力を回復させるために中国(隋・唐)に...
悲運の義慈王
641年武王が亡くなり義慈(ウィジャ)王が即位した。義慈王...
義慈王は王位に就いた翌年には新羅を攻め40余城を陥落させ...
連勝を続けた義慈王は次第に傲慢になり贅沢を好み享楽にふけ...
佐平の役職にいた成忠(ソングチュング)は泣きながら義慈王を...
「王様!今は国がどうなるかわからないとても厳しい状況にあ...
「何!何だと?お前が私にああしろこうしろと命令するのか?」
「王様に指図をしようと言うのではありません。早くから海東...
「ええい、お前の顔なぞ見たくもない。下がれ!」
成忠が下がると奸臣たちや後宮の女官たちは、先を争ってつぎ...
「王様、成忠の話は事実ではありません。御心配には及びませ...
「成忠はうそを言って王様のお心を傷つけました。彼に罰を与...
奸臣たちや後宮の女官たちは様々な言葉で成忠を非難し、また...
『…万一他国が攻めて来たら水軍は伎伐浦(ギバルポ=錦江の入...
しかし、成忠の遺書は途中で奸臣たちの手により義慈王へ伝え...
その間に新羅では真徳(チンドク)女王が亡くなり、新羅で最初...
この様な周辺の状況も知らないまま義慈王は更に放蕩生活に溺...
百済最後の将軍-階伯
羅唐連合軍が堰を切ったように押し寄せてくると、ようやく自...
唐の蘇定方が率いた13万の大軍は既に伎伐浦に到着し、金庚...
5万の新羅軍を前にして階伯の旗下には僅か5000の兵が全...
この時、新羅軍にいた若い兵士で花朗の官昌(クァンチャング)...
一方、義慈王は熊津城に避難したが泗城が陥落したことを知り...
唐は義慈王を始め、太子や大臣たち、更に多くの百済人たちを...
この時百済の遺民の中には新たの地を求めて日本に渡るものや...
12.新羅による三国統一
Ⅲ.統一新羅時代
《慶州 仏国寺》
高句麗の滅亡(668年)
中国の隋とその後の唐による繰り返しの攻撃に疲弊した高句麗...
しかし、戦闘に勝利した高句麗の内部では徐々に亀裂が生じ始...
男生は弟たちに追い出され唐の太宗に降伏してしまい、淵蓋蘇...
高句麗が内紛に陥ってふら付いている時、軍を再整備した羅唐...
南北から巨大な大軍が押し寄せると高句麗はひと月で降伏し、...
半分の成功
唐の李世勣は宝蔵(ポジャング)王を始めとして高句麗の遺民2...
いまや新羅にとっては唐をどの様にこの韓半島から追い出すか...
新羅が強硬な姿勢がはっきりすると唐は本格的に新羅への攻撃...
完全な三国統一を果たした文武王は百済と高句麗の遺民たちを...
その上で、文武王が最初に行ったことは王権を強化する為の改...
681年文武王が亡くなり神文(シンムン)王が即位すると金欽...
神文王は更に王権を強化するため全国を九州五小京に分け、軍...
15.高句麗は生きている
大祚栄-渤海建国(699年)
高句麗が滅亡した後、高句麗の多くの遺民たちは唐へ強制的に...
そうした696年遼東地方の朝陽で契丹人・李盡忠が反乱を起...
反乱が起こると高句麗人・大乞乞仲象(デェゴルゴルチュングサ...
大祚栄は唐軍に対抗して懸命に闘い、ついに唐を退けると李楷...
その後、大祚栄は698年東牟山(吉林省)に本拠を置いて国を...
大祚栄が渤海を建国した目的は他でもなく高句麗の再興であ...
また、その意志は後継者にも受け継がれ大祚栄の後を継いだ武(...
忘れられた歴史
14代228年続いた渤海は長い間我が国の歴史の記憶から忘...
渤海が新羅と関係を持たなかったのは新羅に対する警戒からだ...
第10代・宣(ソン)王が即位した時期(818年~830年)の...
907年に唐が滅亡すると中国は一時的な混乱期に陥る。その...
渤海は急変する国際情勢に何ら対処せず朝廷では相変わらず権...
渤海の滅亡により我が国の国境は豆満江と鴨緑江を越えること...
現在、渤海に関する研究は活発に行われており、中国と共に渤...
13.張保皐と崔致遠
揺れる新羅
太平聖代はいつの間にか幕を下ろし新羅は徐々に慌ただしくな...
こうした建築に使用された資材や資金には庶民たちの募金が当...
その上、飢饉が起こり生活の厳しさから盗みを働く者が出たり...
そうしたことから統一新羅以降に建てられた塔や鐘、仏像など...
国の中が騒がしくなると沿岸防御が弱体して、中国や日本の海...
また、官職に就くことが出来たのは貴族だけで一般の庶民達は...
無敵の海の男・張保皐
清海(現在の全羅南道・莞島)で漁夫の息子として生まれた張保...
826年張保皐は興徳(フングドク)王に諫言し、鎮の設置を願...
張保皐が海上を掌握する間にも新羅の内部では王位の争奪戦が...
こうして王位争奪戦は一段落するが838年1月上大等(新羅の...
839年閏1月、金祐徴は軍を率いて閔哀王を攻撃して殺し、...
娘が王妃になるのを今か今かと待ち望んでいた張保皐は、大臣...
張保皐の軍は訓練が行き届いており、王宮ではこれに立ち向か...
天才・崔致遠
張保皐が死んだ11年後、慶州では一人の天才が生まれた。彼...
そうした状況で崔致遠は黄巣の乱を鎮圧する任務に就いた高弁...
唐に来て当初の目的を果たした崔致遠は唐の官職を辞め885...
当時の新羅の王は政治に関心がなく贅沢と享楽に溺れており、...
894年、崔致遠は六頭品者の最高官職である阿(アチャン)と...
崔致遠はこの様な社会に落胆して官職を捨て全国各地を巡る放...
僧乎莫道青山好 僧よ、青山が良いと言わないでくれ
山好阿事更出山 山が良いと言うなら、なぜまた山を降りる...
試看他日吾踪跡 よく見なさい、いつか私がどうするかを
一入青山更不還 一度青山に入れば二度と出ないであろう
14.新羅滅亡
後三国の建国と没落(892年~963年)
新羅が混乱して国に対する庶民の不満が高くなると全国各地で...
甄萱はまず武珍州(現在の光州)を占領した後に完山州(現在...
その後、弓裔(クングエ)が901年に後高句麗(フコグリョ)...
もともと弓裔は新羅の憲安(ホンアン)王の庶子として生まれた...
その後、弓裔は世達寺という寺の僧になるがこれに満足せず、...
更にその後勢力を伸ばした弓裔は自立して王建(ワングコン)等...
またたく間に後高句麗の領土は、江原・京畿・黄海道の大部分...
申崇謙たちは新しい指導者として王建を推戴し王建は首都を松...
一方、後百済の甄萱には何人かの母親の違う息子たちがいたが...
高麗の王建とは?
高麗の太祖(王建)は後百済から来た甄萱を尚父と呼んで丁重に...
王建は877年に王隆(ワングリュング)の息子として生まれた...
王隆は当時松嶽(現在の開城)地方の豪族で、結婚してすぐに家...
王隆に家を建てるべき場所を教えた僧が、後に多くの仏学徒か...
15.韓半島統一
高麗の建国(918年)
新羅時代末期、新羅の弱体化などによって三つに分かれていた...
高麗を建国した後、王建は高麗の初代王・太祖(テジョ)となる...
新羅が滅びると同時に身分制度である骨品制もなくなったが高...
太祖は国家体制を確立するため様々な政策をとったが、大きな...
高麗の建国理念の一つである北進政策の一環で926年に渤海...
太祖の遺訓‐訓要十條
3つわかれていた韓半島の国々を改めて統一した太祖は943年...
一. 仏教を良く慈しむこと ...
二. 寺院は道の決めたもの以外建てぬこと
三. 王位の継承は嫡子が原則ではあるが長子が不肖である場...
四. 契丹の風習には従わぬこと
五. 西京(平壌)を重視すること
高麗三京 :西京(平壌)、開京(開城)= 首都、東京...
六. 燃燈会や八関会などの祭礼行事は大切に行うこと
七. 信賞必罰を公正に行うこと
八. 車以南、光州江(錦江)以外の山形地域は背逆するので
この地方の者は登用しないこと
九. 良く歴史を学びいつでも警戒を怠らないこと
などである。
しかし、この頃の高麗はまだ基盤が強力とは言えず第2代の恵...
国家の礎を築く光宗
光宗は王権を強化し豪族たちの力を弱めるため、地方の産業な...
更に、958年には中国人の雙冀の建議で科挙(国家の官吏を...
勿論それ以前も官吏選抜試験は存在しており代表的なものには...
読書出身科は科挙と違い貴族の子弟だけが受験を許され、左傳...
当時の社会は試験によって官職を得ることは極めて稀で大部分...
しかし、庶民たちにとって科挙はまだ高い障壁であった。なぜ...
光宗は王権をもっと強化しようと王権を脅かすすべての勢力を...
光宗の後を継いだ景宗(キョングジョング=在位期間976~9...
田柴科とは田とは農地の意味で柴は林野を意味し科は等級を意...
16.高麗の統治
成宗の改革
草創期に活発であった景宗(キョングジョング)の政治も暫くす...
成宗は浪費癖のついた国家財政を本来あるべき姿に戻すため崔...
時務策では太祖以来の歴代王の治世を検証し、行き過ぎた仏教...
時務策の主たる内容は次の通りである。
- 寺院による高利の金貸行為を禁じ庶民の被害をなくす...
- 百官の公服制度と平民の衣服は秩序を持って定めること
- 禮楽と詩書(詩経と書経)の教訓、君臣と金持ちの道...
中国にならい、衣服制度は我々独自の風習に従う
- 贅沢と倹約を適切に行うこと
- 過重な負担を与える霊灯と八関などの仏教行事を慎む...
- 王は下の者に対し謙虚に振る舞い法に従い公平に論罪...
国家の体系を守ること
- 家屋制度を作り身分の貴賤に従い遵守すること
- 良民と賤民の区別を明確にし、賤民である者が上の者を
凌辱出来ないようにすること
- 僧侶が客館(旅館)や駅舎に宿泊することを禁じ、仏像...
成宗は、先ず贅沢を助長しているとして仏教行事の八関会を禁...
そもそも八関会の“関”とは“禁”を意味し一日を殺生や盗み・
淫行など8つの事柄を禁じ、ただ一度の食事だけを持って仏さ...
社会が贅沢と享楽に溺れる状況を見た成宗は行き過ぎた贅沢な...
そうした一方で成宗は崔承老の提案した時務策に立脚して官制...
その後、成宗は地方の財源に充てるため公須田、紙田、長田な...
仏教のあらゆる行事を簡素化しようとした成宗は、それとは反...
また、成宗は農業の重要性を強調し豪族たちが持っていた武器...
また、一方では国子監を設置してより体系的に儒教を教える人...
契丹との戦争(993~1018年)
こうした中、中国では契丹族が建てた国である遼(ヨ)が東進政...
この時、契丹と宋は激しく対立していて、契丹が高句麗の子孫...
契丹の将軍・蕭遜寧が80万の大軍を率いて初めて高麗に侵攻...
「私は高麗の将軍徐熙だ。何故お前達が高麗を侵略するのか確...
「我が遼(契丹)は中国の多くの国々を統一した大国であるの...
蕭遜寧が自分の言い分だけを言って席を立ってしまうと、堂々...
ところが成宗と文武百官達は契丹の繰り返しの脅迫に耐えられ...
徐熙が国書を携えつつ高麗の立場を細かく説明すると、蕭遜寧...
その後、徐熙は蕭遜寧との約束を守るため先鋒将となり咸鏡道...
成宗の後を継いだ穆宗(モクジョング=在期間997~1009...
契丹の聖宗は高麗が朝貢をして来ないことを不満に思っていた...
すると、聖宗はこれを受け入れ河拱辰を人質にして撤退した。
契丹の聖宗は撤退にあたり顕宗が直接契丹を朝貢する様に要求...
月日が流れ1018年、契丹の聖宗は将軍・蕭排押に10万の...
姜邯贊は寧州(安州)に待機していて契丹の動向を探っていたが...
それまで、25年の間に3度にわたって侵略を敢行した契丹は...
この間、高麗朝廷では契丹の度重なる侵略に仏力にすがろうと...
17.八萬大蔵経
高麗大蔵経(八萬大蔵経)の完成(1251年)
高麗時代には王たちの仏教の更なる布教への意欲と、それに加...
顕宗(ヒョンジョング=高麗の8代王)は太祖(テジョ=高麗の初...
この大蔵経は文宗(ムンジョング=在位期間1046~1083...
父・顕宗の遺志を継いで大蔵経を完成させた文宗はその信仰心...
義天は宋や契丹などからも仏書と経典を取り寄せた後、興王寺...
高麗で3番目に作られた大蔵経は八萬大蔵経(パルマンデェジャ...
先行する活字文化
16年の永い月日を掛けて完成したこの大蔵経は全6529巻...
蒙古に侵略され首都・開城(ケソング)は蹂躙され江華島への...
詳定古今禮文は高麗の仁宗(インジョング=在位期間1123~...
(但し、この事実は世界的には認められておらず、世界最初の...
多くの人々が詳定古今禮文の印刷本を見たことがなく世界最初...
この様に世界で最初に作られた金属活字は朝鮮時代になって更...
《八萬大蔵経=海印寺貯蔵》
18.妙清の乱
高麗の黄金時代
文宗が1083年7月に亡くなるとその後を長子である順宗(ス...
1094年に宣宗が亡くなると国がまとまりを欠く様になる。...
宣宗の時代に高官を努めた李資義(イジャウィ)は、幼い時から...
獻宗は李資義の乱を平定した後に叔父である鶏林公(後の粛宗)...
獻宗の病が理由であったとはいえ幼い甥から結果として王位を...
国の経済を安定させると弟である義天(ウィチョン)の勧めもあ...
女真の侵略
徐熙将軍の江東6州の開拓以来、なりを潜めていた女真族が1...
その結果、定州長城(平安北道西南海岸に位置した江東6州の一...
尹は粛宗に軍を再編することを建議して、騎兵と歩兵とにより...
高麗と和睦を結んだ女真族が3年後の1107年に再び侵略し...
李資謙の反乱
粛宗の後を継いだ睿宗(エジョング=在位期間1105~112...
李資謙はこれに満足することなく自身の誕生日を仁寿節(インス...
その後、李資謙はそれまで共に気脈を通じあっていた同じ一味...
拓俊京は李資謙を捕らえた功で功臣として推戴されるが、鄭知...
国の内外が混乱する隙に乗じるかの様に、図讖説(トチャムソル...
1127年王室の顧問となった妙清は白寿翰などと首都を平壌...
妙清一党は隠れて大きな餅を作ってその中に油を入れて大同江...
妙清の乱(1135年)
1135年、妙清は西京の分司侍郎の職にあった趙匡(チョグァ...
金富軾も大変な文才の持ち主でもあり後世に多くの史書などを...
金富軾は反乱軍を鎮める為に幾度となく降伏を促すと、反乱軍...
妙清の乱を鎮圧した金富軾はその後、1145年に全50巻か...
中国・宋の露允迪は高麗を訪問した際に金富軾の書を見て感嘆...
19.高麗の武臣政変
武臣政変(1170年)
1170年8月のある日、毅宗(ウィジョング)は武臣たちに護...
王は上機嫌で「今日はとても天気が良いな、武臣たちはシル...
それを見ていた文臣の韓頼(ハンレィ)という者が李紹膺を不甲...
高麗の始祖・太祖(テジョ)は自らも武力で国を起こしたことも...
武臣たちに対する待遇は歳月が経つほどひどくなり何度か武臣...
鄭仲夫の乱が成功して以後、朝廷に文臣の姿が消えて多くの官...
その後、政権は李義(イウィミン)が執るところとなるが、これ...
奴婢・萬積の乱
鄭仲夫が武臣の乱を成功させた以後、高麗の社会は安定せず甚...
武臣の乱以後、最も特徴的な現象は下級武人や賤民が高い官職...
崔忠獻は代々上将軍を排出する家柄の出身で、1174年に趙...
自身の政敵を全て退けた崔忠獻は明宗に当時の社会の矛盾点と...
崔忠獻は封事十條を書いた翌年の1197年に明宗を王位から...
奴婢萬積は崔忠獻の私奴(サノ)で鄭仲夫(チョングチュウブ)の...
「みんな!みんなも良く知っている様に今の朝廷では俺たちと...
萬積の言葉に私奴たちは心を一つにして数千枚の黄紙(粗末な紙...
彼らの計画では先ず崔忠獻を殺し、その後各自が自らの主人...
これにより萬積は捕らえられ、彼と共に行動した百余人も捕ら...
神宗の在位期間中、萬積の乱を始めとして江原道溟州(ミュング...
蜂起者に対して朝廷は大変過酷な処分をしたにも拘らず乱が引...
反面、権力を保ち続ける為に実の弟まで殺した崔忠獻は李義が...
また、康宗が即位して3年で亡くなるとその太子を即位させ高...
崔忠獻が擁立した6人の王の中で明宗と熙宗は廃位させられ、...
20.蒙古の影響
6度にわたる蒙古の攻撃(1231~1259年)
高麗の武臣たちが互いに政権を奪い合う混乱の続く中、中国で...
チンギスハンは廊号を太祖言い、名前はテムジン、チンギスハ...
チンギスハンが死んでオゴタイ(太宗)が即位して蒙古の領土は...
翌年、蒙古がまた侵略して来て符印寺(プインサ)に保管されて...
王と朝廷が江華島に移り蒙古軍に対抗する為に城を築いたりす...
1234年に中国で金を征服した蒙古は再び高麗侵略を強行し...
一度は兵を引いた蒙古であったが、いつまた攻撃してくるかも...
しばらく高麗に対して攻撃をして来なかった蒙古が1247年...
蒙古に降伏した1259年の夏、高宗は急逝して戦後処理の為...
三別抄の抗蒙闘争
父の死により蒙古から戻り即位した元宗(ウォンジョング=在位...
三別抄の勢力は全羅道から慶尚道にまで広がり、海を越えて耽...
その後、元は高麗の政治・経済・文化・風俗などあらゆるとこ...
その結果、高麗には蒙古式の髪型(辮髪)と衣服が流行し、元...
この時代、文化は急速度で発展して新しい視覚による歴史書が...
また、雙花店(サングファジョム)、満殿春(マンジョンチュン)...
留まる事を知らない内政干渉
元の内政干渉により高麗朝廷には幾つかの新たな機関が設置さ...
6度にわたって高麗を侵略した元は若い女達を捕まえて行った...
元が奪ったのは貢女だけに留まらず、全国各地の特産物もその...
元の内政干渉は限度を知らず元の指示での王が即位し、廃位と...
21.高麗の衰退
恭愍王の反元政治(1356~1371年)
高麗の王が元の意思によって実質的に定められるように成った...
一方、高麗朝廷内では奇轍(キ・チョル)が権力を握り親族たち...
こうした元の圧力を見過ごすことが出来ない恭愍王はまず最初...
更に恭愍王の14年に王妃が出産途中に難産により亡くなって...
辛は身分は本来高いものではなかったが金元命(キムウォンミョ...
そうした中、恭愍王の17年に中国では朱元璋が明を起こすと...
1369年、辛は風水を理由に首都を忠州(チュングジュ)遷都...
1372年に恭愍王は宮中に子弟衛という機関を設置し、侍女...
崔萬生は王の言葉に従うべきか悩んだ末に少年達と共謀して恭...
綿花栽培の始まり(1363年)
高麗では元の属国状態が続き穀物や各地の特産品は元に献じな...
綿花はインドが原産地で実が熟すと綿の花が咲き、綿で布地を...
当時、庶民達は寒かろうが暑かろうが常に同じ服を着なければ...
高麗に戻った文益漸は舅の鄭天益(チョングチョニク)と綿花の...
火薬の発明(1377年)
そうした中、高麗の海岸部では倭寇が頻繁に侵入し南海岸一帯...
朝廷では倭寇を抑える為に水軍を整備したが、水軍も力は弱く...
すると火薬を自力で作ってみせるという若者が現れる。この若...
崔茂宣は李元を自宅に招き丁重にもてなすが、李元は火薬の製...
二人は火薬を作る為の研究に昼夜を分けず没頭し、いよいよ完...
高麗から外敵を追い出す事が夢だった崔茂宣は、先ず役所に行...
1377年、崔茂宣は王(ウワング)に建議して火筒都監を設置...
この後、高麗軍は崔茂宣が作った火薬武器を使って多くの敵を...
ところで、後に高麗を滅亡させ朝鮮を建国する李成桂(イソンゲ...
火筒都監の廃止で失意のどん底に落ちた崔茂宣は自分の知識を...
22.威化島回軍と朝鮮建国
威化島回軍(1388年)
1388年3月、王(ウワング)は崔(チェヨング)将軍を八道都...
これと同時に王は高麗でも使用していた明の年号である洪武を...
5月になると崔将軍と李成桂等が5万の軍を率いて王の命に従...
一. 小国が大国を攻めることは有ってはならない。
二. 人手の必要な農繁期に軍使を動員する事は良くない。
三. 挙国的な遠征のすきに倭寇が侵入する可能性が大きい。
四. 蒸し暑い梅雨の時期で軍内に伝染病流行の恐れがある。
李成桂は四不可論を理由に2度にわたり王に使臣を送って回軍...
すると、崔将軍は王の命に背いた回軍を許す事が出来ず李成桂...
浮上する新勢力-新進士大夫
李成桂が威化島回軍(イファドフェグン)を成功させることが出...
ところが王の即位の問題で新進士大夫たちは穏健派と急進派で...
紆余曲折の末、穏健派の推す昌が即位したが結局その在位した...
廃位された昌王の後を恭譲王(コングヤングワング、在位期間1...
こうした中、鄭夢周などの穏健派は趙浚・南誾(ナムウン)・鄭...
李成桂と李芳遠は自分達の主導権を確固たるものとする為に何...
朝鮮の建国(1392年)
すると李芳遠は門客の趙英珪(チョヨングギュ)を使い鄭夢周の...
太祖は庶民の混乱を最小限に抑えようと初めは国号も変えずに...
一方、クーデターに成功した新進士大夫たちであったが朝鮮の...
太祖は杜門洞に入った者たちを外へ出そうと様々な懐柔を行っ...
《善竹橋=黄海道・開城》
23. 李成桂と李芳遠
無学大師との出会い
高麗(コリョ)を建国した王建(ワングゴン)に道国師(ドソンクッ...
李成桂は幼い時から聡明であり、また豪胆で弓の扱いがうまく...
その上に性格もとても穏やかで自家の使用人であった継母を大...
ある日、李成桂は妻の実家を訪ねる途中の咸境南道安辺の近く...
「そんなに偉い方とはお見受けしませんでした。どうぞお許し...
「上人様、何をなさいますか?」
「今後、この夢の話は誰にも話してはいけません。万一、話を...
李成桂の問いには何も答えずに僧は訳の解らない話を繰り返し...
どうにも気になる李成桂が
「絶対に他の人には話しませんので夢のなぞ解きをして下さい」
と言うと、僧は
「あなたは後日、必ず王になる筈だ」と答えた。
「な、何と言われましたか?」
「夢で崩れて行く家は高麗を指すもので、柱は家の最も重要な材
木が落ちて来たということは国を背負って立つという意味であ...
即ちそれは王の姿につながるものです」と言うのだ。
この夢のなぞ解きをした僧こそが無学大師(ムハクテサ)であ...
当初、太祖は高麗の国号と法制をそのまま使って国を治めよう...
最初に首都として決まりかけたのは鶏龍山であったが様々な条...
王子の乱
太祖・李成桂には二人の夫人との間に8人の息子がいたが、そ...
李成桂が王になると誰を太子とするかが問題となった。
なぜなら、長男である芳雨(バングウ)が、李成桂が高麗を滅ぼ...
これに芳遠と彼の兄弟達が不満を表わし、特に功労者の芳遠と...
何年かの歳月が過ぎて1398年になると太祖が床に伏せるよ...
乱を主導し成功裏に終わらせた芳遠は太子の席を自身の兄であ...
一方、太祖は子供たちが互いに殺し合う事件が起きると、慌て...
定宗は官制を改革して学校を建て、楮幣(チョペ=と呼ばれた貨...
この時、前の“王子の乱”の際に功を立てながら評価に不満のあ...
この事件の後、定宗は急ぎ王位を芳遠に譲位し、芳遠は朝鮮第...
太宗の改革政治
太宗は王位に就くと先ず、これまで乱の起きる原因ともなって...
1413年太宗は全国を8道に分けて管理することとするが、...
忠州、清州、慶州、尚州、晋州、全州、羅州、黄州、海州、江...
地方制度をおおむね改編した太宗は庶民達も容易に把握でき...
更に、庶民を世帯単位で5戸を1統という単位で編成して互い...
また、太宗は国力の向上を目的として身分の上下に拘わらず1...
この時代までの長い間、僧侶たちは寺院田と呼ばれる私田を保...
王になる為に兄弟たちと命懸けの争いをした太宗であったが国...
24.歴史上最も偉大な王ー世宗大王
世宗の即位
朝鮮の第4代王・世宗(セジョング=在位期間1418~145...
太宗が忠寧大君を世子となった理由は世子であった長男の譲寧...
庶民を思って・・・
世宗大王が32年の長きにわたり王位に就くなかで最も偉大で...
それまでの韓国で文字と言えば中国から伝えられた漢字を使っ...
身分に関係なく人材を登用して学問が如何にあるべきかを議論...
また、軍事訓練、兵書刊行、武器製造、城鎮修築などにも力を...
一生を庶民の為にささげた世宗大王は晩年、大部分の政事を世...
当時は治療法も薬も多くなく景観が良くきれいな所の水を使う...
28.奴婢から高官へ
科学者 ・英實
早くから庶民のくらしを思う心が格別であった世宗大王は庶民...
日頃から英實に目を掛けていた東来県監は王の命が下るとすぐ...
しかし、世宗大王の熱意はそうした者たちの誰にも曲げさせる...
自撃漏と測雨器の発明
新たな物事を学ぶ為に中国にも出かけた英實は太宗時代に作ら...
自撃漏は朝鮮で作られた最初の自動時計で一切、人の手を必要...
世宗大王はこの発明に大変喜び慶福宮の南に報漏閣を建て設置...
その後、英實は引き続き研究を重ねた末に天体の姿と一年の四...
25.民族固有の文字“ハングル“
訓民正音の創製(1443年)
「我が国の言葉は中国とは違い漢字だけを持って意志の伝達が...
これは、1443年(世宗25)に世宗(セジョング)大王が訓民...
早くから読書を好んだ世宗大王は多くの庶民たちが文字を読む...
今日、多くの人たちはハングルを世宗大王の命令によって集賢...
「この月、王様に於かれては諺文28字を自ら作られた。この...
「癸亥の年の冬、わが殿下におかれては正音28字を創製され...
癸亥の年とは世宗25年で、世宗実録と鄭趾の序文の内容が一...
等の上疏文に対する世宗大王の回答を上げることが出来る。
崔萬理は世宗大王がハングルの創製を全国に告げると、その2...
「・・・我が国は昔から大国である中国の制度を模範として実...
これに世宗大王は崔萬理などに直接会って彼らの気持ちを変え...
「私が訓民正音を作るのは難しい漢字を学ぶことが出来ないま...
また、成俔(ソングヒョン)が書いた慵齋叢話(ヨングジェチョン...
「世宗が諺文庁を設置して申高霊(シンゴヨング)、成三問(ソン...
ここで言う“聖人”とは世宗大王を指しており、ここでもハング...
学問の勧め
世宗大王はハングルの創成後は集賢殿を拡大して文臣達を選ん...
ある年の寒い冬の夜、世宗大王はいつもの習慣の様に集賢殿に...
時間は夜中の12時をはるかに過ぎていたが集賢殿の灯りはと...
「今日の宿直者は誰か見て来なさい。そして何をしているのか...
「はっ!すぐに確認してまいります。」
内官は集賢殿の中に行き動静を見極めると世宗大王のところへ...
「今、集賢殿では申叔舟(シンシュクジュ)学者殿が本を読んで...
「そうか。では、何時まで本を読んでいるか良く見て報告しな...
世宗大王がこの様に命じたのは、集賢殿の学者達が日頃からど...
いつの間にか深い冬の夜が更け、新しい朝の到来を告げる鶏の...
また、王宮の中に諺文庁を置いて本格的にハングルを研究する...
訓民正音を完成させて3年の周知期間を経た1446年9月、...
26.死六臣-忠義を貫いて死す
癸酉靖難(1453年)
自らの生涯を庶民達の為に尽くして様々な業績を残した世宗(セ...
晩年の世宗大王は自身の亡き後に兄弟の間で王位継承の為に争...
世宗大王の後を継いだ文宗は民意を把握して文武の均衡を保っ...
文宗が亡くなり、端宗が即位すると首陽大君は鄭趾(チョングイ...
反対勢力を完全に取り除いた首陽大君は端宗に対しては、金宗...
乱を成功させた首陽大君は領議政府事・吏曹兵曹判書・内外兵...
叔父である首陽大君の威勢に圧倒された端宗は恐れ震えていた...
端宗復位運動(1455年)
例え世祖が王位禅譲の形式を取ったとは言え、これは明確に計...
世祖も直接出て成三問たち6人を尋問するなど、取り調べは昼...
世祖は6人の中の成三問の才能を認めて自分の言う通りにすれ...
このことで世祖は更に酷い拷問を指示し成三問は足と腕を切り...
朴彭年もまた成三問と同じ様に世祖を王と認めず、逮捕の前に...
人々は彼らを、その意志の強さと忠誠心を讃えて死六臣と呼ん...
この端宗廃位事件は後に起こる事件や文人・学者間の対立と反...
命を掛けた死六臣の無惨にさらされていた死骸を回収したのは...
27.朝鮮第7代王・世祖
黄標を変えろ
1417年、世宗(セジョング)大王の2番目の息子として生ま...
幼い時から聡明で勇猛な首陽大君は世宗大王の命を受け釈迦の...
しかし世宗大王は晩年になると幾つかの心配事が出来るが、そ...
世宗大王の後を継いだ文宗は王位について僅か2年でこの世を...
韓明との出会い
この様に国の大事・小事が3人の高官の意志で左右されるよう...
一方、首陽大君の弟である安平大君(アンピョングテグン)は3...
準備された乱
癸酉の年(1453年)、穏やかな秋の日々を送っていた端宗で...
「王様、金宗瑞や皇甫仁らは以前から国の政事を自分勝手に操...
「そんな筈が!伯父上、金宗瑞は謀反を起こす様な者ではあり...
「金宗瑞らは王様がまだ幼い事にかこつけて安平大君を立てて...
「殿下、余り驚かれないで下さい。殿下のお側にはこの首陽が...
「私は伯父上だけを信じます。お任せ致します。」
首陽大君は御命を受けて大臣たちを宮に引き入れると、先に用...
癸酉靖難により首陽大君は政権と宮権の両方を掌中に収めた事...
そうして端宗が広い宮廷の中で孤立した生活を始めて2年が過...
世祖が譲位を受けると端宗への礼節から官位を捨てて隠居する...
李施愛の乱(1467年)
世祖の即位する過程で様々な理由で多くの功臣達が朝廷から抜...
その様な世祖の政策に不満を持つ北道の豪族の一人である李施...
奪い取る様にして手にした王位であったが、世祖は自らの行い...
28.成文法“経国大典”
経国大典の完成(1485年)
世祖(セジョ)が残した業績の中で最も高い評価を得るものとし...
高麗末に実権を握った李成桂は固有の法を作ろうと趙浚(チョジ...
経国大典は6か条の行政法をその基礎に置き、国を治める指針...
- 息子と孫、妻と妾または奴婢が父母やその家の家長を告発...
- 土地と家屋の売買ではその後15日以内は内容の変更が出...
- 奴婢の売買も同様とし、馬と牛の場合は5日以内は変更が...
- 男子は15歳、女子は14歳にならないと結婚できず、結...
- 父母の死後、その財産は男女均分相続をする代わりに、祖...
- 官庁と個人に債務を負う者が死亡しても、妻や子等に財産...
- 士大夫は妻が死亡した場合は3年経たなければ再婚を認め...
- 本妻に息子がいない場合は妾の息子である庶子へは科挙を...
- 寡婦は再婚する事が出来ず、やむなく再婚する場合はその...
- 七去之悪(儒教で妻を離縁できる七つの理由)と三不去(七去...
この様に庶民が暮らす上で必要となるあらゆる事の規範として...
儒教の発展
経国大典は朝鮮の建国理念の一つである抑仏崇儒に立脚していて
基本骨子は儒学(儒教)に従ったものと言える。儒教は中国の孔...
儒教が韓国に入って来た年代は明確ではないが三国時代に中国
の唐へ留学生を送り儒学を学ぶことの出来る機関が創設された...
や日本の歴史書に、285年に百済から王仁(ワングイン)博士...
高麗時代となると中国の宋で儒教の一学派である性理学が伝来し
て儒教が更に発展することとなる。しかし、儒教が高麗の国教...
こうした時代に中国の宋から性理学が伝わるが、性理学は宋の...
性理学とは何か?
中国では自然や天地などあらゆる物が物質とその形成から成り...
具体的な内容としては儒教の基本倫理である三綱五倫を上げる...
高麗時代に安(アンヒャング)によって我が国に紹介された性理...
儒教を土台にした経国大典が完成された後《三綱行實圖》《家...
29.事件の連続
戊午士禍(1498年)から乙巳士禍(1545年)まで
朝鮮第7代王・世祖(セジョ)が王の権力を強化しようと中央集...
ところが、こうして世祖の側近・功臣と呼ばれる者達が国政を...
世祖の後を継いだ世祖の孫の成宗(ソングジョング=在位期間1...
成宗の子の燕山君(在位期間1494~1506年)は朝鮮10...
そうした中、勲旧派と新たに登場した士林派(サリムパ)が対立...
1498年、成宗時代の歴史書である《成宗実録》の編纂がは...
燕山君は直接、金孫等を尋問し全ての罪が既に死んでいる金宗...
甲子士禍(1504年)
戊午士禍で多くの役人たちが死ぬと燕山君の横暴は益々増長し...
自身の母が宮廷を追われ悲惨な死を遂げたことを知った燕山君...
中宗反正(1506年)
その後も燕山君の行いは留まるところを知らず、高麗時代から...
己卯士禍(1519年)
燕山君の廃位後に即位した中宗は政治改革の為に新しい気風を...
次第に中宗も趙光祖の行き過ぎた言動に嫌気を感じるようにな...
こうした状況を見守っていた領議政の鄭光弼(チョンググァング...
卑賤な家の出身である宋祀連(ソングサリョン)が勲旧派の沈貞...
灼鼠の変(1527年)
一方、己卯士禍の際に流罪となった後に再起用された金安老(キ...
流配生活をしながらも金安老は沈貞、柳子光等を排除する機会...
金安老は1534年に右議政となりその翌年には左議政となる...
更に、金安老は文定王后(ムンジョングワンフ)の廃位を画策す...
こうして引き続いて起きた国内の混乱の合い間にも、1510...
中宗は初期には庶民が昔から信じていた迷信を打破する為に昭...
乙巳士禍(1545年)
中宗は3人の王妃を迎えたが、最初の王妃の端敬王妃(タンギョ...
中宗の後を仁宗が継ぐと亡き母の章敬王妃の兄である尹任(ユン...
30.朝鮮の義族たち
洪吉童
朝鮮第10代王・燕山君(ヨンサングン=1494年即位、成宗...
洪吉童は燕山君の時代に活動した義族だが、その後約100年...
小説では、「洪吉童は父と父の家の奴婢であった母との間に生...
実際の洪吉童の出生となぜ盗賊になったのかについては明らか...
林巨正の蜂起(1559~1562年)
洪吉童の逮捕から59年後のある日、また一人の義族が誕生す...
彼らは白昼に官庁を襲撃しては囚人を解き放しや略奪を続け、...
朝廷の懐柔と脅迫に耐えきれず変節した徐林は林巨正の計画を...
1561年(明宗6)朝廷では黄海道討捕使に南致勤(ナムチグン...
官吏たちからは「凶悪な盗賊団の親玉」と、そして庶民からは...
伝説の人物・張吉山
張吉山(チャングキルサン)は1692年(粛宗18)《粛宗実録...
後に、1700年代に入り学者であった李(イイク)の書いた《...
誰が彼らを盗賊にしたのか?
国からは極悪非道の盗賊として追跡を受けた洪吉童、林巨正、...
この様な社会状況の中で洪吉童、林巨正、張吉山等は腐敗した...
31.李珥の奮闘-壬辰倭乱-李舜臣
壬辰の倭乱の前夜-李珥の奮闘もむなしく
1592年(宣祖25)4月14日の朝、釜山は突然の悲劇に襲...
これに対し朝鮮では黄允吉(ファングユンギル)、金誠一(キムソ...
それとは反対に日本では朝鮮侵略の為に万全の準備を行ってい...
朝廷では事がここまで及んで初めて過ぎし日の賢人の進言を受...
豊臣軍の攻撃を受けると李珥の忠告に従わなかったことへ後悔...
一方、当時の民心は甚だしく乱れ宣祖が平壌へ避難しようとす...
李舜臣-海は俺に任せろ!
だが、海上では壬辰倭乱の1年前に柳成龍(ユソングヨング)の...
しかし、陸戦においては時間が過ぎるほどに朝鮮軍の戦況は厳...
趙憲(チョホン)は忠清道沃川で義兵を起こして敵を倒し錦山の...
全羅道の長興では高敬命(コギョングミョング)、湖南では金千...
全羅監使の権慄(クォンユル)は水原で倭軍に大勝した後に明軍...
一方、咸鏡道に進撃した豊臣軍はその後の周辺の状況から身動...
丁酉再乱(1597年)
豊臣軍が撤退を始め明軍も自国へ戻っていくと宣祖は急ぎ漢城...
1. 明の皇女を日本へ后妃としてだすこと
2. 勘合貿易を復活させること
3. 朝鮮8道の内の4道を差し出すこと
4. 朝鮮の王子と大臣12名を人質としてだすこと
などであった。沈惟敬はこれを偽って、“豊臣は倭王に冊封され...
豊臣軍は釜山の東来城・蔚山城を陥落させると、またたく間に...
また、朝廷では李舜臣の必要性を感じて右議政・鄭琢(チョング...
1597年7月李舜臣は鳴梁(ミョンニャング)で僅か12隻の...
豊臣軍の退却を見た朝鮮軍は明の水軍と連合して豊臣軍を追いか
けて大勝利するが、この時の戦闘中に数々の海戦に於いて輝か...
ようやくにして豊臣軍の追い出しには成功したものの、朝鮮の...
32.光海君は暴君だったか?
廃母事件(1618年)
1392年に太祖の李成桂が朝鮮を建国して朝鮮は518年に...
朝鮮27代の王の中で燕山君(ヨンサングン)と光海君(クァング...
光海君(在位期間1608~1623年)は宣祖(ソンジョ)の2...
1600年に懿仁王后が亡くなり、1602年に仁穆王后(イン...
この時の朝鮮は壬辰倭乱によって国中の山河が被害を受け庶民...
最初の犠牲者は光海君の実の兄である臨海君であった。大北派...
壬辰倭乱(イムジンウェラン)の際に直接全国を回り戦争の状況...
その後、ようやく社会秩序が以前の様に戻ると焼失してしまっ...
しかし光海君にとっての平和な時期も永くは続かず大北派たち...
1614年(光海君6)には江華府使(カングファブサ)の鄭沆(チ...
実利外交を広げて見たが・・・
この頃、中国では新しい勢力である後金(フグム=清)が161...
これにより朝鮮は明との関係を断つこともなく、また後金から...
ところがこうした光海君の外交政策を批判する者が出て来る。...
しかし司諌院によって1623年初め、李貴・金自點等は謀反...
一方、自分たちの計画が露見するかもしれないと知った西人た...
一方、安国臣の家に身を寄せていた光海君は3月14日に逮捕...
光海君は暴君だったのか?
永い間、暴君との認識をされて来た光海君に対する評価は現代...
33.中国・清からの干渉と屈辱
李の乱(1624年)
仁祖が仁祖反正(インジョパンジョング)によって王位に上がっ...
李の朝廷に対する不満は次第に大きくなると世間では李が反逆...
「今、朝廷では私の息子を捕らえた上で私に反逆の罪を着せ捕...
「そうです。大きな事をして見ようじゃありませんか。先ず、...
あちこちから李の言葉に賛同する声が響き渡った。
1624年(仁祖2)1月、李は自軍を率いて漢城へと向かった...
これにより李の乱は成功するかに思われた。しかし李の漢城入...
当初は反乱軍に有利に戦いが進められた。ところが官軍の劣勢...
これに、李は戦況の不利を悟ると三田渡(漢江上流の渡し場=サ...
丁卯胡乱(1627年)
仁祖が漢城に戻ると、仁祖反正を成功させた西人(ソイン)た...
3万の軍を与えて朝鮮への攻撃を命じたのであった。これによ...
この時、朝鮮ではこうした後金の情勢に全く気付かず、朝鮮建...
ところが後金が攻撃して来た時に、彼は女色に溺れていて城が...
しかし、こうした事態となっても朝鮮の大臣たちは結論の出な...
結局は後金の差し迫る勢いの前に和議を受け入れる以外なかっ...
丙子胡乱(1636~1637年)
朝鮮のこうした決断の間も後金の太宗は着実に勢力の拡大を続...
清から来た二人の使者の仁祖に対する傲慢無礼な態度に朝鮮の...
この時、国境を守る義州府尹・林慶業(イムギョングオブ)は白...
しかし、仁祖が避難した南漢山城は程なく清軍に包囲されてし...
これを聞いた仁祖は、最初こそ固辞したものの城門を開いて王...
これ以外にも清は、①朝鮮は清に臣下の礼を執ること②朝鮮は明...
34.粛宗の二人の王后(仁顕王后と張禧嬪)
仁顕王后と張禧嬪
朝鮮第10代王・燕山君の時代頃から朝鮮末期までの約360...
粛宗は1671年に結婚し何人かの王子たちが生まれたが皆が...
するとこの時、朝廷内の権力を握っていた宋時烈(ソングシヨル...
権力を握った南人たちは自分たちの勢力を確固たるものとする...
しかし、この事件から暫らく過ぎると粛宗は仁顕王后に対して...
少論と老論の葛藤
ところが甲戊換局により再登用され南人たちとの党争に勝利し...
しかし張禧嬪はこの事件の後も仁顕王后を追い落とそうと呪詛...
粛宗の行き過ぎた愛憎の露出が朝鮮時代でも最も激烈な党争を...
元々が病弱であった景宗は後継ぎの出来ない身であった。これ...
この決定に少論派の金一鏡(キムイルギョング)は老論派から少...
英祖の即位(1724年)
1724年、即位した英祖(1724~1776年)は粛宗の4...
英祖は善政を施そうとの思いが強く政治から党争を取り除こう...
思悼世子の惨死
しかし幸福の後には常に不幸がついて来るもので、英祖にも暗...
1749年(英祖25)に老論派の建議によって荘獻世子が代理...
日頃から世子の行動を良く思っていなかった英祖の継妃・貞純...
こうした英祖の煮え切らない態度に失望した貞純王后と意を共...
「おじい様!どうかお父様をお許し下さい。どうかお命だけは...
僅か10歳の王世孫が涙を流しながらの懇願をしても英祖の気...
35.学問と共に進む正祖の治世
正祖の即位(1777年)
朝鮮21代王・英祖(ヨングジョ)は後継に決めていた思悼世...
洪国栄を朝廷から追い出した正祖は、祖父・英祖の意志を継い...
正祖は活字にも関心が高く、新しい活字を作って印刷術の発達...
実学の隆盛
正祖は24年に渡る在位の間、好んで学問を楽しんだ。特に南...
1791年(正祖15)全羅道珍山郡に住んでいた両班で天主学...
正祖は制度改革にも力を注いで悪刑(残酷な刑)を禁止して庶民...
天主教の伝来(18世紀末)
17世紀の朝鮮は壬申倭乱や丙子胡乱などの外国からの侵略に...
実学の先駆者は李光(イスグァング)で、1614年(光海君6)...
(世界地図)と天主真理などの内容が紹介されている。その後、...
しかし彼らよりも先に天主学に関心を持った者がいた。それは...
1783年(正祖7)には李東郁(イドングウク)が使臣となり清...
正祖は天主教に対してはなるべく弾圧などはしない様にと考え...
迫害が始まって
最初の弾圧は正祖9年の1785年に始まり、金範禹らが遠島...
1800年に正祖が急死すると11歳の幼い純宗(スンジョング...
辛酉邪獄とは天主教徒への迫害事件で、天主教が朝鮮の伝統文...
天主教弾圧の理由
1882年(高宗19)にアメリカとの修好条約が結ばれるまで...
宣教師たちは自らの名前を東洋式に変え、先ずは西洋の進んだ...
36.平安道を無視するな!
洪景来の乱(1811年)
この頃の朝鮮は小さな騒乱の連続であった。これは政事を担っ...
幼い純祖が即位した時の宮中では、純祖の曽祖母である貞純大...
そうした時、平安道の洪景来(ホングギョングレ)は何度か科挙...
“関西(平安道)地方は檀君朝鮮の中心地で昔から産業が盛んで有...
国に緊迫した事態が生じれば我々西北人の力を頼りにしながら...
洪景来は軍隊を二つに分けた後に自らを平西大元帥と称し禹軍...
洪景来の乱は当初は社会の不条理に反抗する単純な反乱であっ...
この様な状況が4ヶ月ほど続くと城内では食糧が不足し始める...
1812年4月19日深夜、トンネルから大量の火薬を爆発...
また、洪景来の乱に呼応するかの様に同じ時期に漢城でも乱を...
洪景来が乱を起こした理由は先にも述べた様に平安道出身者に...
37.農民から国王へ
哲宗の即位(1849年)
いつの時代でも民乱は起こっていたが朝鮮第23代王・純祖時...
幼い世孫が朝鮮第24代・憲宗(ホンジョング=在位期間183...
この時代は社会全般で早婚の習慣があり、特に王たちは10歳...
憲宗が崩御すると朝廷では誰を後継王とすべきかが大きな問題...
最初に注目された人物は南延君(ナミョングン:12代王・仁宗...
ところが1844年に閔晋鏞(ミンジニョング)、朴醇寿(パクス...
血税を返してくれ
一夜にして農民から国王となった哲宗は名前だけの王であり、...
役人の横暴の最も代表的なものは過大な税金の取り立てであっ...
税金を納める義務が無い子供と老人の歳を上げ下げし、甚だし...
同じ年、慶尚道晋州では晋州兵使(チンジュビョンサ)に赴任...
一度湧き上がった農民の怒りは容易に鎮まることはなく、国王...
一方、王になったものの一度も王権を行使したことが無い哲宗...
38.民衆の為の新しい宗教・東学
崔済愚-東学創始(1860年)
勢道政治に起因する両班階級の不正腐敗と過酷な搾取から全国...
この時、崔済愚(チェチェウ)が済世救民(世の中を救う事で民を...
そうした生活を永く続けた後に故郷に戻った崔済愚は山奥で隠...
東学の基本教義は侍天主(シチョンジュ=我が身に神を迎えたと...
“・・・庚申年になって伝え聞いたことだが、西洋人たちは天主...
我が国にあっては悪質どもがこの世の中を埋め尽くし、庶民は...
今、世の人々は時運をわからずにいる。私の話を聞けば心から...
天主教が西洋という巨大な後ろ盾を持って東洋に接近いると考...
東学は人即ち天であるとする“人乃天”(インネェチョン)を実践...
民衆の中に根を下ろす
そうした中で哲宗がこの世を去るが後を継ぐ王子がいなかった...
一方で興宣大院君は崔済愚を死刑にさせ東学への弾圧を始め...
崔時亨は漢文を知らずハングルをかろうじて読み書きする程度...
初代教主であった崔済愚が布教した当時の東学信徒は大部分が...
崔時亨の努力で民衆の中に根を下ろし始めた東学であったが1...
39.文無しゴロツキから興宣大院君に
高宗の即位(1863年)
在位の期間中に何の権力も行使することが出来なかった哲宗(チ...
興宣君・李應はこの数年前、憲宗(ホンジョング=24代王)の...
朝鮮では国王が王子や兄弟が無いままこの世を去ることとなっ...
1. 王の前では臣下の礼を取る必要はない。
2. 大臣たちは私邸の前を通る際は馬から降りること。
3. 外出時は軍使が警護すること。
4. 地位は国王の下で、三政丞(宰相)の上とする。
5. 私邸の警護は王の警護隊が担当する。
興宣大院君は不正腐敗を永く続けて来た安東金氏を朝廷から粛...
興宣大院君の改革政治
興宣大院君は積極的に不正を行った官吏に対する調査を実施し...
鎖国だけが生きる道?
その一方で、朝鮮の沿岸には外国船が再三に渡り現われては略...
1866年の火災以後も大院君の景福宮再建意欲は少しも衰え...
一方、高宗が王の地位に就くと誰よりも勢道政治の幣害を知る...
自分の意志に反して朝廷から退ぞかざるを得なかった大院君は...
40.鎖国か!開国か!
押し寄せる列強たち
1840年(憲宗6)には清とイギリスとの間でアヘン戦争が起...
この時代の朝鮮は純祖・憲宗・哲宗の3代に渡る勢道政治の余...
ジェネラルシャーマン号事件(1866年)
1866年7月、大同江に一隻の見知らぬ船が現れ通商を要求...
それをきっかけにシャーマン号と朝鮮の官民たちが互いに火砲...
丙寅洋擾(1866年)
興宣大院君による天主教弾圧から身を隠して生き残ったフラン...
この提示を朝鮮が応じないとわかると、当時の朝鮮にはなかっ...
辛未洋擾(1871年)
一方、アメリカでは東洋で消えてしまったジェネラルシャーマ...
西洋の野蛮人は出ていけ!
アメリカ艦船がいきなり江華島の広城鎮(クァンソングジン)に...
“洋夷侵犯 非戦則和 主和売国 戒我萬年子孫 丙寅作 辛未立
:西洋の野蛮人が侵犯して来るのに戦わずに和議を結ぼうとす...
大院君が強力に鎖国政策を進めると、日本では朝鮮が将来の...
朝鮮の門が開く
大院君に代わって閔妃等が政権を握ると朝鮮社会は急変し、閔...
日本としては大院君が再び勢いづく前に何らかの手を打つ必要...
日本は黒田清隆を全権大使に井上馨を副使として朝鮮に派遣す...
1. 朝鮮は自主国家として日本と同等の権利を持つ。(第1条)
2. 20か月以内に朝鮮は釜山以外の3港を開港し日本の商人...
3. 日本は朝鮮の沿海、周辺の島々を自由に測量して海図を作...
4. 日本は朝鮮が指定する港に領事を派遣し、朝鮮に居住する...
41.大院君と閔妃の対立・混乱
押し寄せる日本
江華島条約締結から5ヶ月後に朝鮮と日本は修好条約の付録1...
朝鮮第26代王・高宗(コジョング)はこれらの報告を大臣たち...
壬午軍乱(1882年)
開化の荒々しい風は、固く閉ざされた扉も物ともせず押し寄せ...
1882年(高宗19)6月、湖南(全羅道)から税として集めら...
俺たちはどうすれば良いのか?
軍卒たちは“このまま捕まって獄につながれ殺されるなら、庶民...
軍卒たちは獄に繋がれている同僚たちを救うのに先立ち武器を...
軍卒たちはその二日後には閔妃派で親日派の李最應(イチェウン...
王命により再び執権となった大院君は別技軍と二営をなくし...
政権を取り戻す閔妃
こうした中、清国は朝鮮における日本の勢力が大きくなること...
大院君が清軍によって排除されると宮殿に戻った閔妃は再び...
この時の日本の要求は次の様であった。
1. 朝鮮政府の正式の謝罪
2. 損害賠償
3. 犯人の逮捕と処刑とその背後にいる者の処刑
4. 被害者に対する弔慰金の支給
5. 場合により巨済島または鬱陵島を割譲する
6. 朝鮮が誠意を見せない場合は武力で仁川を占領する
こうした日本の要求を朝廷は到底受け容れることが出来ず、事...
朴泳孝-太極旗を作る
1882年7月17日、朝鮮は日本が提示した本条約6箇条と...
42.金玉均の三日天下
開国だけが生きる道だ
1882年に起きた壬午軍乱をきっかけに朝鮮への影響力を巡...
事大党と開化党の若者たちの中には最初は同じ思いから共に学...
甲申政変(1884年)
しかし壬午軍乱が彼等を穏健派と急進派に分けるきっかけとな...
洪英植・金允植などは穏健派に、金玉均・朴泳孝・徐光範など...
平素より開化党を快く思っていなかった閔妃は金玉均等の話を...
1. 門閥を廃して四民平等を確立する。
2. 清に大院君の送還を要求する。
3. 内侍府・奎章閣など不必要な機関を廃止し税法を改正する。
4. 4営を1営に統合して巡査を設置する。
5. 行商人の団体である恵商公局を廃止する。
他方、郵政局での事件で刺客に襲われ重体となっていた閔泳翊...
たった一度の失敗で掴み掛けた政権を放り出すこととなっただけ
でなく、追われる身となった金玉均・朴泳孝・徐光範等は日本...
両国の軍隊は立ち去ったが
この政変後、日本政府は日本人被害者の賠償金と日本公使館の新
築にかかる費用及び関係者の処罰を求めて来た。これに対し朝...
1. 清・日両国は朝鮮から撤退する。
2. 朝鮮国王に建議して朝鮮の自衛軍を養成することとし、訓...
3. 朝鮮に派兵する場合は両国は互いに通告する事とし、事態が
終結した際には撤兵する。
天津条約により清国と日本の軍隊は全て朝鮮から撤退した。朝...
他方、1884年ウエベル公使を朝鮮に送って韓露修好通商条...
43.東学と共に立ち上がれ!
東学革命(1894年)
開国して間もない朝鮮は日本・清・ロシア・イギリス・アメリ...
庶民の中には朝廷に不満を持つものが続出し、これ以上は朝廷...
東学は主に両班階級に対する反発心と外国勢力に対する抵抗心...
これに朝廷では按覈使(アンヘクサ)として李容泰(イヨングテ)...
東学軍の持つ武器は粗末な竹槍であったが士気は高く全州から...
朝廷では全羅道の53箇村に執綱所(幣政改革を達成する為に設...
① 東学教徒と政府の間にわだかまりを無くし改革に協力する。
② 不正官吏はその罪状を子細に調査して罰する。
③ 横暴な振る舞いをする富豪は厳罰に処す。
④ 不良行為をする儒学生と両班を懲罰する。
⑤ 奴婢文書を焼却(奴婢を開放)する。
⑥ 賤人の待遇を改善し、白丁(牛馬の屠殺を生業とした賤民)の...
⑦ 若くして未亡人となったものの再婚を認める。
⑧ 規定外の雑税を一切廃止する。
⑨ 官吏の採用は門閥を打破して人材本位で登用する。
⑩ 日本人と密通するものは厳罰に処す。
⑪ 公・私債を問わず既存のものは全て免除する。
⑫ 土地を平均に分作する。
革命から戦争に
これより少し前の1894年5月31日、東学軍が簡単に全州...
こうして清軍と日本軍の対峙が始まると朝鮮の状況は急変する...
全準は5回に渡り尋問を受けた後、1895年3月29日に処...
時来天地 皆同力 運去英雄 不自謀
(時を得て天が味方しても 運が去れば英雄も 更なる策が...
愛民正義 我無失 愛国丹心 誰有知
(民を愛し正義の為の 道に迷いはない 愛国一途の心を ...
東学革命は結局失敗には終わったが、永い間続いた両班中心の...
44.甲午更張と乙未事変
甲午更張(1894年)
東学革命の鎮圧を口実に朝鮮に武力侵入した日本は朝鮮の政治...
1.中央と地方制度の改正及び人材登用
2.財政整理と財源開発
3.法律の整頓及び裁判法の改正
4.安寧秩序の保護及び兵備施設の拡充
5.教育制度の確立
日本の強硬な姿勢を目のあたりにした清の袁世凱は情勢の不利...
一方、清では朝鮮に駐在していた袁世凱が本国に戻ると朝鮮対...
最初の憲法 洪範14条
日本は甲午改革が失敗に終わると今度は大院君に対し清と内通...
1. 清国に依存しない自主独立の基盤を確立する。
2. 王室と国政事務の分離
3. 予算編成による財政確立
4. 地方の行政区域を13道に改編
5. 司法権の独立
6. 警察権の一元化
7. 連座制と拷問の禁止
8. 科挙制度の廃止
9. 小学校の設立
10.役所の職務の権限の区分
11.徴兵法の再訂と実施
12.官制改革と公正な人材登用
13.民法と刑法の制定
14.税法による税金徴収
日本がこの時期に洪範14条を発表したことは清と大院君の干...
乙未事変-王妃暗殺事件(1895年)
日本は朝鮮の民心が排日感情を露骨に現わすだけでなく高宗と...
日本からの様々な圧迫を受けた朝鮮政府は日本の操り人形と化...
45.俄館播遷と大韓帝国の宣布
俄館播遷(1896年)
日本の露骨な内政干渉に嫌気を感じた高宗と閔妃が親日派を除...
一方の高宗は閔妃の悲惨な最後を目にして不安を感じていた所...
ロシアは着実に朝鮮に対する内政干渉の準備を進め、その手始...
大韓帝国宣布(1897年)
この様な状況の中で甲申政変(カプシンジョングビョン)の主導...
独立協会が最初に行った事業としては迎恩門の取り壊しを上げ...
毒茶事件
日清戦争が終わると朝鮮から清の勢力は消えることなったが、...
1898年(光武2)8月18日、高宗の誕生日である萬寿節の...
46.平等な発言権を求めた独立協会
萬民共同会運動(1898年)
1898年10月29日、京城の中心地である鐘路は1万人以...
“私はこの大韓で最も身分が低く無知無学の者です。しかし私は...
彼等はロシア・日本などの外国の侵略政策を糾弾し6箇条の建...
1. 外国人(日本・ロシア)に依附しないこと。
2. 外国との利権契約を大臣が単独で行わないこと。
3. 財政を公正に執り行い予算を公表すること。
4. 重大犯人の公判実施と言論・集会の自由を保障すること。
5. 勅任官(大臣の要請で王が任命する官職)の任命に複数の意...
6. 別項の規則(甲午改革の際に制定された)を実践すること。
献議六組を受けた高宗はその正当性を認めその通り実施するこ...
独立協会と皇国協会の対立
結成して2年足らずの独立協会が活発な活動を展開して民衆か...
その後、独立協会は再び警務庁の前で萬民共同会を開いて公示...
独立協会の活動
1896年に作られた独立協会が創られたきっかけは大韓帝国...
独立協会の約3年の活動を要約すると、それは自主国権思想、...
更に、政治・経済・社会・文化など国政のあらゆる分野に渡っ...
47.日露戦争から乙巳保護条約まで
日露戦争(1904年)
日清戦争以降、日本が着々と朝鮮での地位を確固たるものとす...
日露戦争は既に何年か前から予測されたものだった。日清戦争...
馬脚を現した日本
日本はロシアに対し最後通牒を送ると直ちに仁川沖に停泊中の...
1. 日本以外の浸透に対する防備の保全
2. 外政監督
3. 財政監督
4. 交通機関の完備
5. 通信機関の統一
6. 拓殖事業の計画
7. 警察権の拡張
一方、この間の日露戦争の戦況は明確にどちら優位であると言...
乙巳保護条約(1905年)
ロシア・アメリカ・イギリスなど世界の強国の承認を受けた日...
日本側の代表である伊藤博文は高宗の居る宮殿を軍隊で包囲...
1. 日本の外相が大韓帝国の外国に対する関係及び事務を統括...
2. 今後、大韓帝国政府は日本政府を通さなければ、いかなる...
3. 大韓帝国皇帝のもとに1名の統監を置いて大韓帝国の外交...
この乙巳保護条約により大韓帝国は日本の保護国となり、条約...
48.国の為に散って行った人々
韓日義兵戦争(1907~1909年)
これまでも朝鮮では戦争が起き、国が危うくなると全国各地か...
1905年に乙巳保護条約が締結されると皇城新聞の主筆の張...
ハーグ密使事件(1907年)
1907年6月、オランダの首都ハーグで第2次万国平和会議...
こうした動きを察知した日本はオランダ政府と平和会議の議...
最後の皇帝 純宗
一方、ハーグ密使事件の背後には高宗の存在があると考えた日...
日本によって譲位を余儀なくされた高宗は太皇帝となり、大韓...
国を取り戻せ
1907年、義兵運動が始まるが義兵を率いた人物は李麟栄と...
国の危機に際して両班と常民の区別なく多くの人々が義兵に...
義兵軍たちの反外国勢力と反封建を掲げた抗争の主な攻撃の対...
国が危機に接する度に、国を救おうとの一念から命を奉げた名...
49.安重根の義挙と大韓帝国の滅亡
安重根の義挙(1909年)
1908年のアメリカで起こったスティーブンス狙撃事件は朝...
そしてついに決行の日である1909年10月26日を迎える...
この後も憂国之士たちの義挙は引き続いて起きたが、日本に国...
韓国併合(1910年)
1909年の安重根の伊藤博文暗殺の義挙においても、李在明...
自決でも果たせない国を失った鬱憤
次の文は韓日合邦調印書である。
日本国皇帝陛下と韓国皇帝陛下は両国間の特殊で緊密な関係を...
第1条 韓国皇帝陛下は韓国全部に関わる一切の統治権を完全永...
第2条 日本国皇帝陛下は1条に記載された譲与を受諾し、完全...
第3条 日本国皇帝陛下は韓国皇帝陛下、太皇帝陛下、皇太子殿...
第4条 日本国皇帝陛下は3条以外の韓国皇族及びその後裔につ...
第5条 日本国皇帝陛下は勲功のある韓国人として特に表彰する...
第6条 日本国政府は併合の結果として全般的に韓国の施政を担...
第7条 日本国政府は誠意を持って忠実に新制度を尊重し韓国人...
第8条 本条約は日本国皇帝陛下と韓国皇帝陛下の裁可を経て公...
上記の証拠として両国全権委員は本条に記名調印する。
明治43年8月22日、統監・子爵 寺内正毅
隆熙 4年8月22日、内閣総理大臣 李完用
これにより大韓帝国は幕を下ろし日本の植民地となった。13...
50.こうして土地は奪われた
武力を盾に土地を奪う(1910~1918年)
韓日合邦条約の成立で大韓帝国が日本の植民地となると、日本...
土地調査実施
日本の行った土地の調査方法は土地調査例の第4条に依拠した...
民有地は所有者が、国有地は官庁が申告することとされたが誰...
総督府はこうして得たすべての土地を東洋拓殖株式会社や日本...
山までも奪う
1918年土地調査を終えた日本は次に目を山に向け林野調査...
51.大韓独立萬歳!三一独立運動
湧き上がる独立運動
韓日併合が発表されて間もなくすると事の真相が明らかになり...
安昌浩(アンチャングホ)・李承晩(イスングマン)・閔鎬(ミンチ...
これに因り彼等は日本警察に逮捕されるのだが、この「独立宣...
3・1独立運動
1919年3月1日。いよいよ待望の日がやって来た。人々は...
“我等は此処に我が朝鮮が独立国であることと、朝鮮人が自由民...
鄭在鎔が独立宣言書の朗読を終えるとあちこちから萬歳の声が...
この“大韓独立萬歳”を唱える人波はソウルだけに留まらず、開...
堤岩里虐殺事件
萬歳運動を何としても鎮圧したい日本軍は老若男女を問わない...
52.三一運動から-柳寛順そして大韓臨時政府
一緒に独立萬歳を叫びましょう!
1919年陰暦3月1日、忠清道天安のアオネ市場は普段の市...
“皆さん!私たちは5千年の歴史を持つ独立国民でした。ところ...
少女の言葉を聞いた観衆たちの間では“そうだ!その通り!”な...
“今世界ではアメリカの大統領が唱えた「全ての民族は自らが自...
少女が太極旗を高々に掲げ“大韓独立萬歳!”を唱えると集まっ...
アオネ市場に集まった多くの人々は柳寛順の演説が終わると揃...
この日、日本憲兵によって死んだ人は30人を超え負傷した者...
大韓のジャンヌダルク
柳寛順はその後、天安警察署から公州刑務所に移送され裁判を...
その後、公州裁判所で3年刑の宣告を受けた柳寛順はソウル覆...
上海臨時政府(1919~1945年)出帆
アメリカのウィルソン大統領が提唱した民族自決主義に力を得...
これに続いて4月11日、上海で1千余の志士たちが参席して...
また、ロシア革命の直後であり各国に社会主義の風が吹き荒れ...
臨時政府は何をしたのか?
臨時政府は内部の葛藤で揺れながらも1919年から解放を勝...
-交通路:内外の全ての同胞を管轄する為に全国に交通局と交...
-連通制:全国に地方組織を形成した。
-財政:財政を整備する為に救急義捐金・人頭税・国内公債・...
-軍使:1920年、陸軍武官学校を設置したが大きな成果を...
-史料編纂部設置:外国に派遣された特使たちに韓国独立の理...
-言論機関:独立新聞、新大韓報、新韓青年報を刊行した。
-外交活動:1919年4月に金奎植を全権大使に任命してパ...
-対日独宣戦布告:1941年臨時政府は日本とドイツに宣戦...
-施政方針:当初は、臨時政府は国務院領によって施政方法を...
53.抗日戦闘の英雄・洪範図と金佐鎮
北路軍政署の発足
3・1独立宣言の以後、独立の為に立ち上がった多くの若者た...
満州で活動した韓国独立軍たちが始めの頃の小部隊から次第に...
鳳悟洞の戦闘(1920年)
1920年5月、各地で活躍していた幾つかの独立軍が中国満...
青山里の戦闘(1920年)
北路軍政署に洪範図が参加すると北路軍政署は独立軍最高の軍...
金佐鎮と洪範図
一方、大敗を喫した日本軍はこれに対する報復をするかの様に...
鳳悟洞の戦闘並びに青山里の戦闘を率いた洪範図は、その後は...
また、もう一人の青山里の戦闘の英雄である金佐鎮は1925...
54.関東大震災の朝鮮人への迫害
関東大震災
1923年9月1日11時58分、日本の関東地方を中心に大...
日本を取り巻く周辺状況
話は少し前にさかのぼるが関東大震災前夜の国際情勢は次の様...
これによりドイツに占領されていた幾つかの国々が独立を勝ち...
震災が何故朝鮮人の弾圧へ向かったのか?
この様に国際的に危機を感じていた日本であったが、植民地で...
地震の起きた翌日から日本人の口から“朝鮮人が集団で襲ってく...
この朝鮮人大虐殺の火付け役となった流言飛語の出所は他でも...
55.命をかけた抗日運動
6・10萬歳運動(1926年)
1920年代、朝鮮人たち特に年若い学生たちは国内外におい...
韓人愛国団結成(1931年)
世界大恐慌の波が日本にも押し寄せて来ると国内の不満勢力の...
李奉昌殉国(1932年)
行動隊員たちは国の為に命を奉げる覚悟をして韓人愛国団に入...
日本の(昭和)天皇が満州国の王である溥儀と1932年1月8...
尹奉吉の義挙(1932年)
4月29日は日本の(昭和)天皇の誕生日で天長節と言われ日本...
この事件により中国駐屯の日本軍司令官・白川義則は重傷を負...
56.孫基禎と崔承喜
孫基禎-マラソン優勝(1936年)
1936年8月、第2次世界大戦直前の状況下のドイツのベル...
1930年代、民族性抹消政治によって朝鮮民族に対する抑圧...
平安北道新義州で生まれた孫基禎は貧しい家庭状況から、早く...
ベルリンオリンピックでの孫基禎の記録は2時間29分19秒...
孫基禎の金メダル獲得の事実は8月13日になって一般市民に...
崔承喜-欧州公演(1938年)
それから2年後、もう一人の韓国人が世界を驚かせることとな...
これを見た西洋の評論家たちは“百年に一人でるか出ないかの芸...
安弼承が出獄すると再び日本へ渡った崔承喜は師匠である石井...
4年に渡る海外公演を終えて日本に戻った崔承喜は、1945...
57.臨時政府と光復軍
光復軍創設(1940年)
1937年7月、日中戦争が勃発すると中国各地に散在してい...
日中戦争で中国国民党軍は敗退を繰り返すと重慶を臨時の首都...
“大韓民国臨時政府は中華民国総統である蒋介石元首の許諾を受...
これに先立って金九は日本軍との戦闘に共に協力しようと蒋介...
配した。彼等から完全に完全に独立したのは1945年に入っ...
光復軍の活動
光復軍は1941年12月8日〈大韓民国臨時政府対日宣戦布...
その後、光復軍は1945年まで活動を続けビルマ戦線での輝...
国軍の土台であったが
この間、金九はアメリカ軍の特殊部隊であるOSS(アメリカ軍...
約3ヶ月間の訓練を受けた光復軍は8月9日、アメリカの提供...
これに金九は連合国に対し臨時政府の存在を改めて知らせ、承...
朝鮮半島を信託統治しようと考えるアメリカは臨時政府の訴え...
リカの狙い通りに“臨時政府=金九勢力”という考えが国民に注...
一方、朝鮮義勇軍と韓国光復軍は祖国が解放されると一刻も...
58.新たな悲劇の始まり
8・15解放(1945年)
1945年8月15日の正午、ラジオでは日本の天皇による国...
日本の無条件降伏を知った人々は路上になだれ込み自ら描いた...
呂運亨-建国準備委員会組織
一部の知識人の中には解放のかなり以前から日本の敗戦を予見...
① 政治・経済犯は釈放する。
② 3か月間の食糧の保証を確約する。
③ 治安維持と独立の為の活動に干渉しないこと。
④ 学生訓練と青年組織に干渉しないこと。
⑤ 各事業の作業場の労務者を建設作業に協力させること。
解放になると呂運亨は建国準備委員会を組織して総督府から行...
1. 我々は完全な独立国家の建設を期する。
2. 我々は全民族の政治的・社会的基本要求を実践できる民主...
3. 我々は臨時的な過渡期にあって国内秩序を自主的に維持し...
建国準備委員会が組織的に拡大していくと委員会内部は左右の...
二つに割られた半島
一方、ソ連軍は半島全体を占領する勢いであったが、38度線...
日本の無条件降伏直後からアメリカ軍は朝鮮半島に駐屯する為...
この時、38度線以北でも同様にソ連が軍政を宣布したが南と...
59.信託統治に対する賛否
モスクワ3相会議(1945年)
1945年12月27日、すべての国民が解放による新しい国...
東亜日報が28日から30日まで続けて信託統治に関する記事...
① 朝鮮の産業、交通、農業、民族文化の発展に必要な処置を執...
② 朝鮮臨時政府の構成の為、米ソ両軍司令部代表で構成する共...
③米ソ共同委員会は朝鮮の政治、経済、社会的進歩と民主的自治...
④米ソ行動委員会を2週間以内に召集する
などであった。こうして3相会議の結果は発表されたが、既に...
北にも親米派が
しかし、北にも親米派が存在し反託を唱える人たちもいた。そ...
左右が一つにまとまっても出来るかどうかの時に南側では右寄...
この様な間にもアメリカとソ連は着実に信託統治への施策を行...
国際連合は11月14日に総会を開き韓国問題を解決する為の...
60.民族解放の為に生きた男たち
呂運享暗殺事件(1947年)
解放(第2次大戦終了)直後、朝鮮半島の政治、経済、社会は...
高宗の22年(1885年)京畿道の楊平で生まれた呂運享は...
1946年8月になると韓国は信託か反託かの岐路に立ち、南...
呂運享は朝鮮人民共和国がアメリカ軍政から認められないと判...
済州4・3抗争(1948年)
米ソ共同委員会が妥協点を探れずにいると、アメリカ軍政は朝...
韓国の各地でこれに反対する示威運動が起こることとなるが、...
国連で5月10日に総選挙の実施が決められると、済州島では...
「米軍は即時撤退せよ!単独選挙・単独政府は決死反対!国連...
済州島民の3千人余りは武装した人民自衛隊と共に島内各地の...
4・3抗争が起こるとアメリカ軍政は各道から募った警察討伐...
「・・当初、我々の部隊は鎮圧に動いていなかった。ところが...
この二つの事件を警察とアメリカ軍政は「武装集団の仕業と断...
選挙が終わると討伐隊は大々的な鎮圧に乗り出すが暴動に何の...
この時に済州島で起きた事件は暴動と記録され歪曲されたまま...
南北統一政府を目指す金九
朝鮮半島を北緯38度線で《信託統治》していたアメリカとソ...
生涯を祖国の独立の為に活動した金九(キムグ)はこの決定を...
南から自らの命を担保してまで多くの人々が38度線を越えた...
しかし、連席会議が北側の脚本によって一方的に進められるこ...
南だけの総選挙
結局、何らの成果も得ぬまま5月5日に戻った金九は金奎植と...
多くに人々は強く望んだ統一政府の樹立が、最後の最後で南だ...
61.一国2政府と6・25戦争
大韓民国政府樹立(1948年)
統一国家の建設を夢見た国民の願いも虚しく1948年5月1...
李承晩は韓国が日本から開放された日である8月15日の記念...
李承晩-アメリカの後押しを受けて
解放前の上海臨時政府でも弾劾されたことがあり、国内におい...
この様な事実は支持基盤を見るとすぐにわかる。解放直後、ア...
朝鮮民主主義人民共和国の誕生
一方の北側でも、もう一つの政府が誕生する事となる。194...
38度線以北を信託統治したソ連が全ての行政権を人民委員会...
6・25勃発(1950年)
1950年6月25日、日曜日の明け方であった。北朝鮮軍が...
一方、この時の韓国軍は北朝鮮とは比較にならない程に劣って...
国連の決議に従い、先ず韓国に到着したアメリカ軍・第24師...
仁川上陸作戦
開戦以来、制海権は国連軍が掌握したが格別な活躍は無かった...
この結果、ソウルが奪還される。マッカーサー総司令官は30...
1・4後退から休戦へ
国連軍が朝鮮半島のほぼ全域を掌握した事で祖国の統一は目前...
一方、アメリカでは中国共産党軍が参戦した時から原子爆弾を...
国連軍総司令官の交代のすきを衝く様に北朝鮮軍は大々的な反...
62.李承晩の独裁政治と国民の反発
長期政権を目論む李承晩
6・25(朝鮮戦争)が勃発すると瞬く間にソウルが陥落し北...
11月27日に国会が始まると改憲案の採決を前に賛成票の取...
「昨日の否決は算出解釈の理解に誤りがあったもので、在籍議...
この自由党の主張に続いて政府からも広報処長の談話と通して...
独裁を望まない学生と市民
釜山政治波動と四捨五入改憲などを強行するなど政権への執着...
この改正案が発表されると野党は勿論のこと多くの国民や李承...
不正選挙と4・19学生運動(1960)
1960年3月15日に予定される第4代大統領選挙を前に国...
それから20日余り過ぎた4月11日、馬山沖で片方の目を...
一方、アメリカは3月15日に馬山でデモが起きた時点でいち...
①全国各地での学生デモは主権を奪われた国民の鬱憤を代弁して...
②このデモを共産党や野党の謀りごととするのは学生たちの正義...
③平和的で合法的な学生たちのデモに銃弾を浴びせ流血惨劇を起...
④この様な大惨劇を引き起こした大統領を始めとする与野党国会...
⑤3・15選挙は不正選挙であり再選挙をしなければならない。
宣言文を発表した教授たちが市内行進を始めると市民たちも共...
その後、6月15日に国会で内閣責任制に改憲した上で7月2...
63.軍事統治の始まり
5・16クーデター(1961年)
前年の4・19以後、国民の意識は民主主義を望む声が高まり...
1.反共を国是の第一義としてこれまで形式的に過ぎなかった...
2.国連憲章を遵守し国際協約を忠実に履行し、アメリカを始...
3.この国の社会のあらゆる腐敗と旧悪を一掃し退廃した国民...
4.絶望と飢餓にあえぐ民生苦を急ぎ解決して国家自主経済の...
5.民族の宿願である国土統一の為に共産主義者と対決する事...
6.こうした我々の課業が成就すれば斬新且つ良心的な政治家...
朴正煕、金鐘泌等が数千人の武装軍人を動員して起こした軍事革
命であった。ソウルを掌握した革命軍は軍事革命委員会を構成...
民主共和党の誕生
翌年の1962年に国家再建最高会議は、慈善・学術・宗教を...
第3共和国
こうして出来た民主共和党は朴正煕を党の総裁に選出すると、...
64.永久政権の布石-10月維新
10月維新(1972年)
1970年代に入ると韓国では民主化を望む動きが活発になり...
① 大統領は経済規制を命令する事が出来る。
② 大統領は国家動員令を宣布することが出来る。
③ 大統領は屋外集会とデモを規制する事が出来る。
④ 大統領は言論・出版に対して特別措置をとることが出来る。
⑤ 大統領は労働者たちの団体行動権を規制する事が出来る。
⑥ 大統領は軍事上の目的の為に歳出額を調整する事が出来る。
こうして民主化の要求が「特別措置法」によって大統領に格別...
10月維新は祖国の平和的統一の志向と韓国的民主主義の定着...
① 全ての政治活動目的の室内外の集会及びデモは一切禁止す...
② 言論・出版・報道及び放送は事前検閲を受けること。
③ 各大学は当分の間、休校措置をとること。
④ 正当な理由の無い職場離脱と怠業行為を禁じる。
⑤ 流言飛語の捏造及び流布を禁じる。
⑥ 夜間通行禁止は従来どおり施行する。
この布告に違反した者は「令状なしに捜索並びに拘束する」と...
国会を解散した朴正煕政権は、自信に協力的な者だけを集めた...
維新憲法によって大統領は立法・司法・行政の3権全てを掌握...
何故維新か?
アメリカの支援を受けあらゆる特別法を作り独裁政治を合法化...
① 南北は自主的・平和的・民族的統一原則を合意。
② 思想と理念、制度の違いを離れ一民族の大団結を図る。
③ 中傷・誹謗をせず武力挑発を排除。
④ 多方面的な様々な交流を実施。
⑤ 南北赤十字会談に積極的に協力。
⑥ ソウル・平壌間の常設直通電話の開設。
⑦ 南北調整委員会の設置など。
南北共同声明により発足した南北調整委員会は共同声明内容の...
この様に南北調整委員会において活発に会談を進めながらも、...
65.朴正煕永久政権への反発と崩壊
金大中拉致事件(1973年)
南北会談に多くの離散家族や知識人たちが大きな期待を寄せる...
後に明らかにされた所に依れば、この事件は朴政権の指示で韓...
翌年の1974年の春になると動きは更に活発になり全国各地...
①腐敗、特権、族閥の財を成す為の経済政策を是正し、不正腐...
②庶民の税金を減免して勤労大衆の最低生活を保障する。
③労働悪法を撤廃して労働運動の自由を保障する。
④維新体制を廃して拘束された愛国の士を釈放して正しい民主...
⑤中央情報部を解体する。
⑥反民族的な対外依存経済を清算して自立経済体制の確立をす...
などであった。そして、学生たちは行動綱領に《ソウル市内の...
の大学生と市民は午後2時にソウル市庁前広場に集結すること...
掲示したが、この情報が流出したことで当局の弾圧に合いデモ...
なわれないまま挫折する事となる。
独裁下で繰り広げられる民主化闘争
しかしこの後も大小の市民たちのデモが繰り返されると、朴政...
その結果、1978年12月に実施された第10回国会議員選...
66.再び起きた軍事クーデター
5・17クーデター(1980年)
朴正煕(パクチョングヒ)が1961年5月16日のクーデタ...
全斗煥のクーデター
朴大統領の暗殺を金載圭の単独犯行であると明らかにした保安...
非常戒厳の宣布
維新体制の崩壊で本当の民主化を夢見た多くの国民たちは全斗...
更に、金大中(キムデジュング)・文益煥(ムンイックァン)...
一方、朴正煕を暗殺した金載圭(キムジェギュ)は、事件翌年...
これにより、朴正煕暗殺事件は永遠に真相が明らかにされない...
立法・行政・司法の三権を掌握した新軍部は全斗煥大統領を誕...
67.果かなく消えた民主化の夢
光州民衆抗争(1980年)
朴正煕(パクチョングヒ)の暗殺後、今度こそはと国民が夢見...
無法地帯となった光州
午後3時30分、銃剣で武装した空挺部隊が厳粛な姿で全羅南...
命令を受けた軍人たちは直ちに路上にいる市民の逮捕を始めた...
すると軍人たちの銃剣は市民に向かって振り回され、想像もで...
5月20日、運送労働者が200台余りの車で光州市内で車両...
これに対し新軍部ではデモに対する対応が消極的であったとの...
金大中内乱陰謀(1980年)
一方、5・17クーデターの起きた前日にあたる1980年5...
「金大中は10・26事態(朴正煕暗殺事件)の発生が自身の...
しかし、戒厳本部が明らかにした内乱陰謀は前後の辻褄が合っ...
68.全斗煥大統領の第5共和国
第5共和国
崔圭夏(チェギュハ)大統領の辞任を迫った全斗煥(チョンドゥ...
1980年9月29日、第5共和国の基礎となる改正憲法が公...
更にその数日後の25日は第11回国会議員選挙が実施され、...
この結果、国会運営上では全斗煥大統領による安定政権が始ま...
新民党創党(1985年)
1984年5月18日、野党と在野勢力が中心となり民主化推...
国会が始まると大きな勢力となった新民党は憲法改正を主張し...
69.全斗煥から盧泰愚への政権移行
6・29宣言(1987年)=大統領直接選挙へ
全斗煥(チョンドゥファン)大統領がその任期を僅かに残して...
これに慌てた与党であったが、それ以上は何の手を打つことも...
3党合同(1990年)
盧泰愚大統領は大統領就任後の国会議員選挙の結果から少数与...
70.成功したクーデターの終末
文民政府の出帆(1993年)
第13代・盧泰愚(ノテウ)大統領は5年の任期を数ヶ月ほど...
翌年の1993年2月25日、大統領に就任した金永三は自身...
失敗した改革・金融実名制
金永三大統領が就任して5ヶ月が過ぎた8月12日、ひときわ...
前職大統領たちの秘密資金疑獄
1995年10月19日、国会質疑の中である事件が表面化す...
1996年8月26日、過去のクーデターに関する一連の捜査...
71.初めての政権交代
金大中大統領の国民の政府(1998年)
1997年12月19日、第15代大統領選挙が行われ金大中...
IFM金融危機の克服
金大中大統領が就任後、最優先で取り組まなければならなかっ...
6・15南北首脳会談とノーベル平和賞
就任当初より南北間の交流を唱えていた金大中大統領は200...
1.南北の統一問題はその当事者である我々民族間で力を合...
2.南北統一に関する南側の連合提案と北側の連邦制案は共...
3.南北は8月15日に離散家族の相互訪問団を交換し、非...
4.南北は経済協力を通して民族経済を均衡的に発展させ、...
5.南北は以上の合意事項を迅速に実践に移す為に早期に当...
これ以外にも実際に実現することは無かったが、金正日国防委...
平壌で歴史的な南北首脳会談が行われた年のおよそ半年後、ま...
った。民主主義と人権の擁護に傾けられた40余年の長い闘争...
の改革・開放へ協力することを要請した。また、この受賞は朝...
72.女性大統領の就任
民主主義の定着
2002年12月に行われた第16代の大統領選挙では、金大...
1948年の大韓民国建国以来、李承晩(イスングマン)・尹...
韓国最初の女性大統領の就任
2012年12月19日、2000年代に入って3回目の大統...
一方、同じく1948年に建国された北の朝鮮民主主義人民共...
2013年2月25日の大統領就任式において、朴槿恵大統領...
- 完-
----
http://ezkorea.biz/inf8.cgi
http://tamrhyouka.hiho.jp/reki-4koukai.html
ページ名: