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9-Dec-2000
先週の日曜日(12/3)、「多元」という古田一派の団体主宰の、
古田武彦氏の講演に参加してきました。
えー、古田武彦というのは、
『「邪馬台国」はなかった』という、知る人ぞ知る本を書いて、
古代史の世界では、そこそこ有名な、かわにしのもっとも影響...
古代史家です。
…で、講演の内容は、というと、
藤村氏(捏造の人)の話と、藤村氏の捏造を看破できなか...
「大王(おほきみ)は神にしませば…」の歌の話。
「曲水の宴(歌詠みの遊び=天子の遊び)」の跡が九州と...
「天皇陵古墳」の軍事的意味の話。
などなどで、どれも、かなり面白い内容でしたが、それらにつ...
かわにし説を含めて、いずれお話します。
かわにしは、前から疑問に思っていることがありました。
その前に、その前提となるお話をしましょう。
「倭の五王」について。
倭の五王(讃・珍・済・興・武)について、歴代天皇...
五王、とくに倭王武の上表文に依れば、彼等が都した...
隋書について。
「日出づる処の天子」を称したのは、男性(「妻を鶏...
明確に「第一の王者」を称しており、聖徳太子(No.2...
隋書自体の地理描写により、「日出づる処の天子」が...
旧唐書について。
「倭国伝」と「日本伝」が別れている。
「倭国」と「日本」は、その領域についての記述が異...
「日本伝」の描写は、「続日本紀」とよく一致するが...
という点などから、いわゆる「倭国」は、九州を中心とした王...
…で、古田説の肝要の一点は、
「九州王朝は、白村江の敗北によって滅亡した」
ということにあります。
そして、その後の701年(大宝元年)、「日本国」が「倭国...
というのです。
つまり、「白村江」は、九州の「倭国」の王者が指揮して行っ...
つけくわえれば、「日本」はこの戦いには消極的だった、ので...
かわにしとしては、この説に、ほとんど賛成なのですが、
いまいち、よくわからない問題があります。
日本書紀には、「倭王」の果たした業績を、さも「日本国」の...
書かれた部分が多々あります。
それらの一つ一つにはここではふれませんが、
要は、「日本書紀」という本は、「倭王」の業績を全て「日本...
「倭国」の存在を極力消そう、という性格の本である、という...
で、ここでわからない。
「なぜ、日本書紀には、白村江の敗北が堂々と描かれているの...
白村江の戦いについて、あれだけの大敗北を喫しながら、「日...
中大兄皇子(天智天皇)・大海人皇子(天武天皇)・中臣鎌足...
このことから、「日本国」側は、白村江に出兵しなかった、と...
戦後の日本じゃないですが、あれだけの大敗北に、人々をミス...
国民みんなから総スカンをくらって、とてもとても、権力の座...
しかも、対戦国の唐・新羅とは、701年以降も、頻繁に外交...
「日本国」は、律令・制度などの多くを、唐を手本とし、模倣...
そういう外交上の立場からも、720年(日本書紀成立の年)...
「白村江」は「日本」の天皇の指揮の下に行われた、などと、...
古田氏は、
「記紀は天皇家にとって有利になるように加削されても、不利...
といいますが、この場合だけは、逆だということになります。
で、これを質問したんですが、
回答はこんな感じでした。
「本当は白村江には触れたくなかったんだが、国際的に触れな...
やむなく、天智天皇を天皇ではなく、「称制」として、責任者...
触れることにした」
ということでした。
うーん、ちょっと納得できません。
まぁ、疑問が解決したわけではありませんでしたが、かわにし...
よかったなぁと思っております。
また、機会があったら、行こうかな。
それまでに、この問題に対するかわにしなりの回答が得られれ...
と思う今日この頃です。(なんじゃそりゃ)
24-Nov-2000
えー、ずいぶん久しぶりですが、
急に古代史の話がしたくなりました。
今回のネタは、「日本の太陽神について」です。
さて、日本の神話に出てくる太陽の神様は、というと、ご存知...
「天照大神(あまてらすおおみかみ)」です。
まぁ、「てらす」とか「おおみかみ」という読み方は、皇国史...
とにかく、そういう流れの中から生まれてきた読み方で、要す...
ですから、素直に「あまてるおおかみ」と読んでも間違いでは...
(「あまてらすおおみかみ」という読み方は、古く室町くらい...
また、古事記や日本書紀でも、「天照大御神」という書き方を...
むしろこの場合は、「おおみかみ」が正しい。
でも、だからといって、「大神」を「おおみかみ」と読むのは...
…で、彼女(「天照大神」は女性です。知ってますよね?)は、...
天皇家にとってもっとも尊ばれた、主神であることは、ご存知...
さらに、彼女は「日神」として、太陽神としても、信仰を集め...
彼女には二人の弟がいて、一人は「月読命(つくよみのみこと...
もう一人は有名な「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」です。
「すさのお」は置いておいて、「つくよみ」の方は、文字通り...
「日神」と対を為す存在です。
ところで、「天照大神」には「又の名」があります。
「大日霊貴(おほひるめのむち)」です。
こちらの方が、古い名であると考えられています。
「むち」は、「みこと」よりも古い「尊称」だからです。
で、「大」は、尊称の類ですから、名前の本体は、「ひるめ」...
「昼女」あるいは「日る女」と考えられます。(「る」は「所...
で、これと対を為すのが、「蛭児(ひるこ)」。
不具の子供として、海に流されてしまう、哀れな子です。
親は同じ「いざなぎ・いざなみ」ですから、まぁ、「ひるめ」...
(とはいっても、ここらへんの神様はみんな「いざなぎ・いざ...
さて、日本の神話を読む時、「又の名」に遭ったら、どう考え...
「別々の神が習合されたもの」と見なすべきです。
「神神習合」です。
「神仏習合」は有名ですが、なぜ、日本の神と仏教の仏とを、...
この「神神習合」の古い伝統があったためだと考えられます。
話を元に戻すと、「おほひるめのむち」と「あまてるおほかみ...
さて、実は「天照大神」には、太陽神としての説話が少ない、...
記紀において、「天照大神」の役目は、「国譲り」で、「大国...
皇祖・「ににぎ」に指示を与え、「天孫降臨」せしめた、天皇...
(もちろん、「これこれこういうわけだから、我々天皇家が、...
人々に宣伝するのが、記紀神話の狙いです)
従って、「天照大神」は太陽神というよりも皇祖神という性格...
と言われるわけです。
すると、「天照大神」と「大日霊貴」の違いが明らかになって...
さて、かわにしは、「国譲り」「天孫降臨」といわれる事件、...
当たり前ですが、皇国史観から見たような、「華々しい偉業」...
もっと、生々しい、血みどろの事件だと考えています。
まぁ、アメリカの「開拓」と一緒です。
インディアンにとって見ればただの「侵略」でしょ?
(ちなみに「神武東征」も)
まぁ、そこらへんの話はいずれするとして、
この二つの実在の事件において、指揮を執ったのが「天照大神...
これは、どういうことでしょう。
素直に考えれば、「天照命(あまてるのみこと)」或は「天照...
女王です。
一方、「おおひるめのむち」の方は、正真証明の「太陽神」で...
んー、ちょっと話が飛躍した感もありますが、まぁ、おいおい...
23-Jul-2000
さて、今回は、古代史を知らない方にはあまり馴染みがないか...
これは何かといいますと、古代の天皇の名前によく付けられた...
例えば、
大足彦忍代別(オホタラシヒコオシロワケ・景行)天皇
稚足彦(ワカタラシヒコ・成務)天皇
足仲彦(タラシナカツヒコ・仲哀)天皇
気長足姫(オキナガタラシヒメ・神功)皇后
などです。
…で、景行天皇~神功皇后の間に集中的に現れる名前であること...
また、「隋書」に「多利思北孤」(タリシヒコ)とあることか...
とにかく、そんな「重要な」名前であると、従来見なされてい...
ですが、かわにしは、そのような解釈はしていません。
「入彦」もそうですが、「足彦」も、何も「天皇になったもの...
例えば、
天押帯日子(アメオシタラシヒコ・孝昭天皇皇子)
沼帯別(ヌタラシワケ・垂仁天皇皇子)
胆香足姫(イカタラシヒメ・垂仁天皇皇女)
五十日足彦(イカタラシヒコ・垂仁天皇皇子)
などは、ただの皇子・皇女でありながら、「タラシ」を名乗っ...
また、こんなのもいます。
鼻垂・耳垂(ハナタリ・ミミタリ)
これは、九州の熊襲の族長として描かれたものです。ここの「...
…で、このようなことを踏まえると、「足彦」は本当はなんて読...
「タラシ」とは「足る」の未然形「タラ」+尊敬の助動詞「ス」...
(尊敬の「ス」は未然形接続です。懐かしい…)
どちらにせよ、「タリ」より「タラシ」の方がえらい気がしま...
(「天照大神」は「アマテラスオホミカミ」、でも普通によん...
と考えると、「足彦」の本来の形は「タリヒコ」ではないか。...
…で「タリ」ってなんだ?ということになるでしょう。先ほど、...
じゃあ、
鎌足
これは?
「カマタリ」ですね。中臣鎌足です。この「カマタリ」をとっ...
何が言いたいのかというと、「足彦」の「タリ」も、同じこと...
やたらに「重要」がって、執着しすぎると、却って議論をやや...
もちろん、こんな問題もあります。
現在、皇族の名前は、「~仁」で統一されています。でも、じ...
そういうことです。
28-May-2000
今日(5/28)、「歴史学研究会大会・古代史部会」に出るため、
慶應大学に行ってきました。
朝9:30からということなので、今日は日曜日にもかかわらず早...
出かけました。
田町の駅につくと、何やら、それっぽい人の流れが。
とりあえず、その流れに乗っかっていると、難なく、慶應大学...
きょろきょろしながら、目的の「古代史部会」の会場517教室に...
今のかわにしには、そういう会話を交わすような「知人」もい...
まぁ、そのうち、そんなお仲間も出来ますわな。
とりあえず、割りと後ろの方の、通路側の席を確保して(ここ...
もうひとつの目的、「恒例の各書店の出店」巡りをしました。
さすがに、おえらい先生方もきているというだけあって、高そ...
でも、面白そうな本がたくさんありました。
オサイフサマともよーく相談して、いくつかの本を購入してし...
また、「歴研会員は2割引」という、予約はがきもたくさんも...
もらえるもんは、なんでももらっとかないとね。
さて、そうこうしているうちに、
「古代史部会2000年度報告『古代の王権と交通』(黒瀬之恵氏...
さて、どうやら、「歴史学研究会古代史部会」では、「王権」...
ここ数年の研究を行っているようです。
ひとつには、統一国家の成立(律令以降とする)の前史として...
「王権論」。
もうひとつには、各「地域」の独自の成立や発展を重視した
「地域論」。
この2つの流れを詳しく検討することで、古代史の持つ様々な...
その中で、今年の「古代の王権と交通」という報告は、
「地域」と「王権」の「関わり」を見る重要な視座だと言える...
黒瀬氏の報告は、以下のようなものでした。
まず、「王権」と「地域」との関係を見る上で、「ミヤケ」に...
した。
まず、6・7世紀の「ミヤケ」の構造について、「天皇・大王...
明瞭にされました。
このなかで、
「ミヤケの中には、大伴などの有力豪族の力を介しなければ、...
という指摘は大変貴重なものでした。(詳しい話は、またする...
また、8世紀の「長屋王家木簡」から、長屋王の持っていた「...
前代の「ミヤケ(天皇直属ではない)」との関わりをもつ、と...
主な論点だったのではないかと思います。
さて、ここで、お昼となり、
また、「出店」めぐりをしました。
いやー、見てるだけでも結構面白い。
その後、黒瀬報告に対する、コメント・討論が行われました。
黒瀬さんがまだ結構若い(といっても30代だろうけど)ので、
発表に結構足りない点が多かったのに対して、
さすが、顕学の先生方のコメントは、
その不備を補って余りあるものがあり、
大変、有意義でした。
細かいお話は、いずれ機を改めてすることにして、
今回の「お勉強」は、大変意義深く、面白いものだったと思い...
21-May-2000
さて、だいぶ、お久し振りになってしまいましたが、法隆寺の...
今回は、第2部として、かわにし説をお話させていただきたい...
まず、梅原さんが重視した「資財帳」に関して。
わたくしは、「資財帳」に対して、梅原さんの行ったような評...
ここで問題になるのは、「第2次史料」である「資財帳」の「...
さて、以前に、「日本書紀に法隆寺建立の記事がない」という...
「もしも、本当に、法隆寺が聖徳太子の手によって建てられた...
とも言いました。
これを踏まえると、少なくとも、書紀の編者の手にした史料に...
さて、では、日本書紀編者ですら出会えなかった史料に、法隆...
これも、絶対にない、とは言いきれません。お寺のどこかから...
そこで、「資財帳」の法隆寺建立記事がいったいどのようなも...
資材帳をご覧ください。
この文面、内容、どこかで見たことがあります。「薬師像銘」...
そうすると、「薬師像銘」には、「この本尊が安置されるべき...
つまり、「法隆寺と薬師如来像は用明天皇の為に推古天皇と聖...
これにて一件落着。…とはいきません。
この「資財帳」説には重大な欠陥があるのです。それは、「法...
また、「薬師像」の銘文も、推古朝の作と考えるべき点が多く...
また、当時の人間関係を知る最大の証拠は、「崇峻天皇(用明...
反対に考えてみましょう。「蘇我殺し」以前です。果たして、...
「崇峻はとってもいい人だったが、蘇我の横暴によって殺され...
こんなことを公に口にされて、政権に残ることが出来るほど、...
反対に、「中大兄のクーデター」以後にこの銘文が作られたの...
そういったわけで、銘文から言っても、やはり、これは推古朝...
だとすれば、この「薬師像」が安置されるべく造られた寺は、...
また、許勢徳太の寄進も、それほど不審がることはありません...
反対に、再建後の法隆寺は、聖徳太子との結びつきを求めてい...
もはや、長くなってしまったので、これ以上詳しくは語れませ...
5-May-2000
今回は、法隆寺シリーズ第2弾です。
今回は2部構成です。
第1部は、梅原説の解説です。
梅原さんはどんな風にこの史料を見、どのように解釈したのか...
さて、梅原さんが一番重きを置いた史料は、「法隆寺伽藍縁起...
その理由は、
1.日本書紀・続日本紀不信論。
日本書紀の撰者を、藤原不比等と考える梅原さんは、日本書紀...
2.資材帳の実質は「霊亀二年」成立論。
梅原さんは、「資材帳」について、「毎年官に提出し、その異...
3.資材帳の史料性格
また、梅原さんは、「資材帳」について、これは、官に提出す...
こういったわけで、梅原さんは、「資材帳」を中心に据えて、...
では、資材帳関連の史料から見ていきましょう。
縁起部分からです。
これは、多くの謎を持った文章でした。まず、「法隆寺建立」...
聖徳太子一家の寺に、聖徳太子一家を滅亡させた張本人が、寄...
これはおかしいと思ったわけです。
そこで、有名な「怨霊」説が出てくるわけです。「これは、許...
実際、梅原さんも、この記事を見た時に、「怨霊」説が浮かん...
最後の「聖徳太子の法華経・勝曼経講読」も、普通に考えれば...
さて、となると、ここで、「法隆寺全焼→再建」に触れないのは...
さて、次に薬師像の件です。
これは、この文章と「薬師像自身の光背銘」との矛盾があると...
です。構文上の理由とは、「奉為A年月日B敬造」という構文で...
続いては、釈迦三尊像です。
今度は、釈迦三尊像銘との矛盾です。「資財帳」では、「聖徳...
すると、またしても、釈迦三尊像の銘文と矛盾することになり...
ここで、釈迦三尊像に対しても疑いの目を向けます。まず、銘...
太子の病気の回復を願ったのは「王后」だが、この時点ではす...
こういった史料批判を通じて、梅原さんは、第1、第2、第4...
また、法隆寺再建の年代についても、「伽藍様式」などから、...
これによって、梅原さんの「怨霊鎮魂説」はその基礎を形作る...
かわにしとしては、その「史料批判」に対して、いくつか反論...
それについては、もう、時間がなくなってしまったので、また...
23-Apr-2000
今回は、「法隆寺」のお話です。
とりあえず、梅原猛氏の『隠された十字架』を中心にお話をし...
えー、実は、「法隆寺」とか「聖徳太子」…といった辺りは、わ...
ですんで、「七不思議」のすべてについて、語り尽くすことは...
(『隠された十字架』も、最初から最後まで読み尽くしたわけ...
それでも、いくつかの点に付いては、お話できるだろうと、思...
まず、梅原氏の挙げた、第1の謎、「日本書紀」「続日本紀」の...
これまた、古代史を知る人には余りに有名なことなのですが、...
結論は「再建されたものである」のですが、そもそもこんな論...
(天智九年、669年)、夏四月癸卯朔壬申(二十日)、...
という文面が原因でした。
つまり、この記述どおりなら、法隆寺は669年に全焼したこ...
…で、今、実際に法隆寺は存在するのですから、再建されたはず...
じゃあ、いつ、だれが、何の為に、となると、わかりません。...
じゃ、本当のところは、669年には全焼したわけではないの...
…で、長いこと、論争が繰り広げられたのですが、「若草伽藍跡...
さて、こういう背景を踏まえて、梅原氏は、「法隆寺を再建し...
さらに、「日本書紀」「続日本紀」という日本の正史が、なぜ...
これが、梅原氏のいう、一つめの「不思議」です。
ですが、もっと根本的な疑問があります。それは、「法隆寺建...
(推古十四年、607年)、是歳、皇太子(聖徳太子)、...
という記事であり、イキナリ斑鳩寺が登場してきます。やっぱ...
日本書紀にこういう事例は少なくありません。ここもか、とい...
当然、ここも疑ってしかるべきです。
まず、「(再建前の)法隆寺は誰が作ったのか」ここからです...
つまり、元々の法隆寺の建立に関して、聖徳太子は関わってい...
(ただし、聖徳太子は「斑鳩」の地に住んでいました。法隆寺...
次に、法隆寺の本尊について。
法隆寺には「2つの本尊」があります。
1つは、「薬師如来像」。
1つは、「釈迦三尊像」。
まぁ、後代にはもう1つ加えられたようですが(名前忘れた)...
まず、「薬師如来像」は、その光背銘に、「用明天皇の為に推...
(もっとも、この釈迦三尊像の光背銘には、「上宮法皇」とあ...
…で、最も重要なのは、この本尊は、現存する、ということです。
どういうことかというと、思い出してください。
法隆寺は天智九年に全焼しました。この時、「一屋余すこと無...
梅原氏の場合、橘寺だ、といいます。
まぁ、となると、確実に言えることは、「最初の法隆寺には、...
聖徳太子の為に造られたとされる仏像も、なかった」というこ...
梅原氏は、再建後の法隆寺にばかり、目を向けていますが、そ...
梅原説に従えば、再建を機に、法隆寺はガラッとイメージチェ...
「ほんとにぃーーーー??」
という気がします。
その辺りについても考えてみると面白いかと思います。
12-Mar-2000
さて、今回は、やっと本編です。
前回のながーい継体紀を参照しながら、読んでください。
まず、以前話に出てきた「欽明紀」と比較してみます。
たしか、あの中にこういうのがありました。
欽明紀の朝鮮半島記事はもっぱら、百済聖明王を中心とし...
同時に、もっぱら朝鮮半島を舞台とし、日本列島側の地名...
「天皇」はただ、「詔勅」を発すだけの存在だ。実際にど...
欽明朝ともなると、すでに飛鳥時代の大物がいる(蘇我稲...
任那日本府は明らかに新羅よりだ。一方、「天皇」は百済...
もっとも重大な疑点、それは「なぜか天皇は日本府の官人...
しかも、「天皇」の「詔勅」を「百済王が日本府に伝えて...
さらに、日本府官人は、「天皇」の言い分などに聞く耳を...
これが、「欽明紀」の持つ「疑点」でした。(05-Sep-99)
これと比較してみると一目瞭然。随分と様相が違うように思え...
天皇家側の重臣たちもかなり活躍しています。
さて、継体紀では、かなり多くの事件が、入り組んで、連続し...
それをまとめて見ましょう。
1)「四県割譲事件」6年4月~12月
主な登場人物:穂積臣押山・大伴金村・物部麁鹿火・勾大兄皇...
この事件は、非常に非古事記的な説話のように見えます。また...
いう感じを持ちます。これは明らかに、継体の頃から、現在(...
(古事記の説話は、「古典」を「古典」のまま収録したもので...
事件としては、大伴金村・物部麁鹿火の両雄が登場し、さらに...
「A天皇の説話は、次のBないしC天皇の時に作られる」
という原則に照らしてみると、興味深いものです。
ただし、継体紀の流れから言って、
「この時点で、磐井は健在だった」
ということも忘れないでおいてください。
磐井と継体では、磐井の方が上位者である、ということも。
それと、このとき「割譲」されたのは、「上多利・下多利・娑...
2)「己文・帯沙割譲事件」7年6月~10年9月
主な登場人物:穂積臣押山(委の意斯移麻岐弥)・姐弥文貴将...
さて、この事件はちょっと様子が変わります。もちろん、説話...
「百済本記」で補強を図っています。ですが、本当に穂積臣押...
ともあれ、この説話はどうも、九州くさい。とだけ言っておき...
この説話については、後でまた出てきます。
3)「磐井の乱」21年6月~22年11月
主な登場人物:継体天皇・筑紫君磐井・近江毛野臣・大伴金村...
さて、本題も本題、「磐井の乱」です。知っての通り、実際の...
それはともあれ、この事件の発端部に、いきなり矛盾と言うか...
よーく読んでみてください。
毛野臣の渡航目的です。
「新羅に滅ぼされた南加羅・喙己呑の再興」??
え?いつ滅んだの?と思っても、どこにも書いてありません。...
…で、この国が滅んだのは、532年のこと(『三国史記』)。...
まぁ、これだけでもって、継体紀の紀年がずれていると論じる...
とりあえず、ここでは、事件の発端となるはずの出来事に対し...
さて、第2には、近江毛野臣って誰だ?という疑問が沸き起こ...
ところで、物部麁鹿火と筑紫君磐井とは、筑紫御井郡(筑後、...
しょう。(「外は海路をふさぎ、高麗・百済・新羅・任那らの...
おそらく、その理由は、
「御井郡に至るまで、麁鹿火の軍勢は、磐井にとって、友軍だ...
こんなところだろうと思います。
だから、私は「暗殺事件」「謀殺事件」と位置付けたのです。
さて、この事件の顛末はというと、筑紫側から「糟屋屯倉」が...
ともあれ、この事件を境に、近畿は独立勢力としての確固たる...
そう言って過言ではないでしょう。(おそらく、それ以前は、...
それはそうと、毛野臣の六万の大軍は、この磐井との決戦のと...
4)「毛野臣の任那経営」23年3月~24年10月
この説話は、更に細かく分けられます。
(1)「多沙割譲事件」23年3月
主な登場人物:穂積臣押山・物部連父根・吉士老
これは、2)の「己文・帯沙割譲事件」にそっくりです。そこ...
なるほど、穂積臣押山といい、物部連父根といい、7年条の人...
ですが、別の事件と見なすことも出来ます。7年の時とは、事...
また、割譲を実行しに行った、「物部連」は、7年条では、伴...
別事件と見れば、見れなくもありません。
(2)「加羅と新羅の通婚」23年3月
主な登場人物:加羅王・新羅王・阿利斯等・己富利知伽
さて、(1)を受けて、加羅は新羅と結ぶことにしました。こ...
「新羅は刀伽・古跛・布那牟羅の三城を奪う。また、北境の五...
は、23年3月のことと見なせるでしょう。
むしろ、これを述べるに当っての前置き、と見るのが正しいの...
(3)「毛野臣の任那経営(in安羅)」23年3月
主な登場人物:近江臣毛野・将軍君尹貴・安羅国主
さて、ようやく、毛野臣の登場です。
この説話も、話上、長期間に及ぶ説話です。
「およそ数ヶ月に及び、再三、堂の上で会議が行われた」
とあるのがそれです。
おそらく、会議が始まったのが、23年3月なのでしょう。
ここでは、彼らの「位取り」が問題になっています。毛野と安...
ちなみに、関係ない話ですが、「国主」という語は、「くにの...
(4)「毛野臣の任那経営(in熊川)」23年4月
主な登場人物:己能末多干岐・大伴金村・近江臣毛野・久遅布...
さて、久し振りに大伴金村登場です。近畿側が一枚噛んでるな...
たのだ」系の解釈の仕方はしません。→全体について同じ)
その目的は、任那・新羅間の和平仲介の依頼のようです。
ところが、毛野臣は、なぜか百済王を呼んでいます。ここらへ...
…というよりも、毛野臣は、和平しようとしていたのでしょうか?
私には全然その気がなかったように見えます。
「毛野臣が無能だった」
で済む話か?という気もします。(結構、そう見ている歴史家...
ハナっからそんなつもりで百済・新羅王を呼んだんじゃないん...
また、ここには、毛野の言として、
「小が大に仕えるのは天の自然の道である」
というのがあって、これなら、天皇=大、百済・新羅=小と言...
「大木の端には大木で接木し、小木の端には小木で接木するの...
となると、少し意味が違ってきます。
これだと、天皇=大だとすれば、新羅・百済王も大で、何を怒...
「大木たる自分が来ているのだから、大木たる王自ら来い」
と考えなければ意味が通じません。
もし、こっちが正しいとすると、毛野は自らを「王」の地位に...
(5)「継体天皇の詔勅」24年2月
さて、書紀の中には、突然天皇がなんの脈絡もなく詔勅を述べ...
ここもそんなうちのひとつです。
ですが、大抵の場合、そういう詔勅には、これから行う政策の...
なにか、所信表明演説っぽい気がするのは私だけでしょうか。
(6)「毛野臣の最期」24年9月~10月
主な登場人物:近江臣毛野・河内母樹馬飼首御狩・調吉士・阿...
とうとう、毛野臣も、その行状がバレて、日本列島に強制送還...
やはり、この説話も九州の匂いがしてきました。
さて、ここまで見てきて、毛野臣の地位が少しだけ見えてきた...
「毛野臣は今でこそ使者となっているが、俺とは昔は仲間とし...
という磐井の言葉がありますが、案外、毛野と同じ釜の飯を食...
さて、少しまとめてみましょう。
まず、1)「四県割譲」は近畿での説話です。ですが、これは...
それから、2)の事件は九州での出来事と見なすべきです。ま...
3)、4)における、近江臣毛野は、おそらく九州側の、かな...
「磐井の命により、近江臣毛野を中心とした南加羅再興軍(新...
こんな感じでしょうか。
「その後、磐井の子・葛子は、父の遺命を継承し、近江臣毛野...
といった感じでしょうか。
多分、毛野にとっては、新羅は最初から「敵」だったように見...
いやー、長くなってしまいました。
まぁ、最期の方は結構想像に頼っているのでそのうちコロッと...
5-Mar-2000
今回は「磐井の乱」前後の継体紀について、お話したいと思い...
まず、今回は、継体紀(朝鮮関係・磐井関係だけ)を訳してみ...
とりあえず、ヒマな時にでもお読みくださいませ。
<日本書紀、巻第十七、継体天皇>
男大迹(をほど。継体)天皇(亦の名は彦太尊)は、誉田(ほ...
(中略)
(継体)天皇が五十七歳のとき、(武烈)八年十二月に小泊瀬...
(中略)
(そこで大伴金村大連らは、男大迹王を立てて天皇とした。説...
三年二月、百済に使者を送る。(百済本記には、「久羅麻致支...
五年十月、山背の筒城に遷都。
六年四月、穂積臣押山を百済に派遣し、筑紫国の馬四十匹を贈...
十二月、百済、遣使して調を貢る。別に上表文をもってきて、...
「この四県は百済に近接し、日本からは遠く隔たっています。...
という。
大伴金村大連もこの言葉を受けて、賛成した。そして、物部麁...
「住吉大神が初めて海外の金銀の国、高麗・百済・新羅・任那...
と固く諌めた。大連は、
「それはもっともなことであるけれども、どうして天勅に背く...
と答えた。
「病と称して、勅使を辞退しましょう」
と、妻は言った。大連は妻の言葉に従ったので、別の勅使が立...
大兄皇子(後の安閑)は、事情があって、先の割譲には関わっ...
「胎中之帝(応神)より、宮家を置いている国を、軽軽しく他...
という令旨を発した。
そして、日鷹吉士を遣わし、改めて百済の使者に令を伝えた。
使者は、
「父の天皇が既に勅命を下して、事は終わっているのに、子の...
と言って、聞かず、ついに百済に帰国していった。
「大伴大連と多利国守穂積臣押山とは、百済から賄賂をもらっ...
というウワサがながれた。
七年六月、百済は姐弥文貴将軍・州利即爾将軍を遣わし、穂積...
別に上表文を持ち、
「伴跛国(はへ。加羅諸国の一)がわたくしの国の己文(こも...
と、奏言する。
(中略)
十二月、朝廷にて、百済の姐弥文貴将軍、新羅の文得至、安羅...
この月に、伴跛国、輯支を遣わし、宝物を献じ、己文を請うも...
(中略)
八年三月、伴跛、子呑(しとん)・帯沙に城を築き、満奚(ま...
九年二月、百済の姐弥文貴将軍、帰国を申請、よって物部連(...
この月、沙都島に至り、人づてに、伴跛人の傍若無人振りを聞...
四月、物部連、帯沙港に停泊して六日。伴跛、挙兵する。物部...
十年五月、百済、前部木[力x3]不麻甲背(もくらふまかふはい...
九月、百済、州利即次将軍を遣わし、物部連にそえて来日。己...
(中略)
二十一年六月、近江毛野臣、衆六万を率い、任那へ行き、新羅...
「毛野臣は今でこそ使者となっているが、俺とは昔は仲間とし...
といって、とうとう戦おうとして毛野臣の言葉を聞こうとしな...
こうして、毛野臣の軍は釘付けとなり、任那への進軍は中途に...
天皇は、大伴金村大連・物部麁鹿火大連・許勢男人大臣らに、
「筑紫の磐井が反して西の地を保っている。今、誰か将となる...
と詔した。大伴大連らはみな、
「まさに、麁鹿火大連の右に出るものは無し」
といった。
天皇は「よし」といって、麁鹿火を将軍に任命した。
八月、(継体天皇は)「大連よ、例の磐井が従わない。おまえ...
「磐井は西戎の奸猾です。川によって阻まれていることを頼み...
と言った。
天皇は、
「良将が軍を指揮すれば、恩を施し、恵を推し、己を慮って人...
と言い、また、
「大将は民の命を司るものだ。社稷の存亡はここにかかってい...
という詔を下した。
天皇は自ら鉞(まさかり。天子が征伐の大将に賜う中国のなら...
「長門より東は私が統括しよう。筑紫より西はおまえが統括せ...
と言った。
二十二年十一月、大将軍物部麁鹿火が自ら賊帥・磐井と、筑紫...
ついに磐井を斬り、ついに彊場(キョウエキ。国境)を定める。
十二月、筑紫君葛子(ちくしのきみくずこ)、父の罪に連座し...
二十三年三月、百済王が、下多利国守穂積臣押山に、
「(日本への)朝貢の使者が、いつも嶋曲(海中の嶋の曲の崎...
と語った。これを受け、押山は朝廷に進言した。
この月、物部伊勢連父根・吉士老らを遣わし、津を百済王に賜...
「この港は、宮家の置かれて以来、我が国の朝貢の経由港とし...
と陳情し、勅使・父根は、このため、加羅の面前で百済に多沙...
加羅王は、新羅王の娘を娶り、子が生まれた。新羅は始め、娘...
「前にあなたが求めたから、わたしは娘との結婚を承諾したの...
といった。
加羅の己富利知伽(未詳)(こほりちか。人名)は、答えて
「夫婦としてめあわせておいて、いまさらどうして仲をさくこ...
といった。
ついに、新羅は刀伽(とか。地名)・古跛(こへ。地名)・布...
この月、近江臣毛野を遣わし、安羅への使者とする。勅を発し...
四月、任那王己能末多干岐(己能末多というのは、恐らく阿利...
「海外の諸蕃(「蕃」は「藩」に同じ)は胎中(応神)天皇が...
しばしば境を越えて、侵入してきます。どうか、天皇に申し上...
と陳情。大伴大連は、その通り上申した。
この月、使いを遣わして、己能末多干岐を送る。あわせて、任...
「任那王の奏上するところをよく問いただして、任那・新羅両...
という詔勅を下した。そこで毛野臣は、熊川(くまなれ。地名...
「小が大に仕えるのは天の自然の道である(ある本には、「大...
と言った。久遅布礼・恩率弥騰利は、恐れ、それぞれ帰って王...
こと、三ヶ月にもなった。しきりに勅を聴きたいと願い出たが...
「謹んで、三ヶ月も待って、勅旨を聞こうと待ち望んでいたの...
と言った。
そうしてあるがままに上臣に報告した。上臣は、四村を奪い(...
ある本には、「多多羅・須那羅・和多・費智を四村とする」と...
人々は、「多多羅など四村が奪われたのは、毛野臣の過失だ」...
九月、巨勢男人大臣、薨ず。
二十四年二月、詔勅に言う。
「磐余彦(いはれひこ。神武)帝・水間城(みまき。崇神)王...
九月、任那の使いが、
「毛野臣は、ついに久斯牟羅にして、舎宅を起こして赴任する...
といった。
天皇はその行状を聞き、人を遣わして毛野臣を召還したが、や...
「わたくしめは、いまだ勅旨をなさず、京に帰るのは、励まさ...
また、毛野臣は謀って、
「調吉士もまた、(自分と同じ使命を持った)天皇の使者だ。...
俺の罪は重くなってしまう」
といい、調吉士を伊斯枳牟羅城の守備につかせた。
こうして、阿利斯等は毛野臣が小さなくだらないことばかりし...
「毛野臣を出せ」
といった。
毛野臣は篭城して、守りを固めた。戦線は膠着し一月になった...
十月、調吉士が任那より至り、奏言するには、
「毛野臣のひととなりは理に背き、治体を習わず。ついに和解...
という。
ゆえに、目頬子を遣わして、毛野臣を召還する。(目頬子は未...
この年、毛野臣は召されて対馬にいたり、病を患って、死ぬ。...
ひらかたゆ 笛吹き上る 近江のや 毛野の若子い 笛吹...
目頬子が初めて任那に至る時に、任那在住の日本人の贈った歌。
韓国を いかにふことそ 目頬子来る むかさくる 壱岐...
二十五年二月、天皇の病は重く、磐余玉穂宮に崩ず。享年八十...
さて、本編はまた今度にします。
いやー、長かった…。
途中で後悔した(笑)。
13-Feb-2000
今回は、「卑弥呼は倭を統一していたか」というテーマで、お...
まず、関連する史料から。
(1) 楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国を為す。漢書、...
(2) 倭人は帯方の東南、大海の中に在り、山島に依りて国...
(3) 倭は韓の東南、大海の中に在り、山島に依りて居と為...
(4) 昔より祖禰(ソデイ。祖先)躬(みずか)ら甲冑を環...
(5) 倭国は古の倭奴国なり。京師を去ること一万四千里。...
さて、一つずつ見ていきましょう。
まず、1の漢書ですが、これが実は周以来のお話だということ...
ただし、これは、何も周代だけに限定しなくてはいけないわけ...
次に2ですが、ここで問題になることがあります。
それは、「旧百余国」と「今使訳所通三十国」の対比です。
この文面から、多数の論者は、
「昔は百余国あった。それが統合されて今は三十国になった」
と考えているようです。
本当でしょうか。
後漢書を見ても、大体同じです。
「許(ばかり)」がついて概数になっているのは、魏志のよう...
(魏志の場合、卑弥呼or壹与の上表文に三十国の名が記されて...
ちなみに、魏志にいう「漢時有朝見者」とは、後漢書に見える...
指しています。)
さて、百余国問題に一石を投じるのは、宋書の倭王武の上表文...
ここの「海北」とは朝鮮半島のことですが、「東」と「西」は...
五十五国と六十六国、足すと百二十一国です。
百余国と言うのは、概数ですから、まあ、合ってるといえば合...
ここでは、相変わらず、倭人(東夷)の国が百余国あります。
「毛人」「衆夷」をエミシ・クマソとして、倭人ではない、と...
多分、中国側から見れば大差ありません。
さらに、エミシ・クマソと、いわゆる倭人が異民族なわけでは...
(エミシがアイヌであれば、多少話は変わってきますが)
ハッキリ言えば、クマソが「衆夷」なら、倭人も「東夷」に過...
そしてその立場は、倭王武にとっても同じでした。
自らを「臣」と称し、「自分は東夷の王として、天子の為に、...
これがこの上表文の要旨です。
次に旧唐書を見てみましょう。
ここでは、倭国の「四面」には五十余国があるといいます。
ここで、倭国の本領域は、九州島です。
(東西五月行、南北三月行は、倭国天子自称の「畿」です)
つまり、九州島に五十余国あると言っているのです。
これも、倭人百余国の漢書、東西合わせて百二十一国の宋書に...
こう見てくると、卑弥呼の三十国とはどういう領域なのでしょ...
やはり、百余国中の三十国が彼女の領域だった、こう考えるし...
つまり、残り七十~八十国くらいは女王に属さなかったのです。
思えば、「狗奴国」は女王に属さない「倭人国」でした。
さらに、「朱儒国」「黒歯国」「裸国」も女王に属しません。
女王は倭の中で最も有力な王者だったかもしれませんが、いま...
陳寿が「倭国伝」とせずに「倭人伝」としたのには、こういう...
とすると、卑弥呼の領域は、凡そ、九州の半分くらい、北部九...
「筑紫」「豊」「火(肥)」の三国くらいでしょうか。
「日向(ひむか)」「襲(そ)」あたりはやはり「狗奴国」と...
また瀬戸内は「倭種」とされていますが、女王とは別領域です。
「多波那(たばな)国(三国史記に見える、倭人の新羅王脱解...
このようなことは、例えば古田の歴史観にも大きな影響を及ぼ...
「景行九州遠征」の話(九州王朝からの盗用)の位置付けなど...
これらについては、またお話したいと思います。
11-Feb-2000
えー、今回は黒歯国・裸国について、お話します。
「黒歯国」「裸国」というと、なんか原始人みたいですが、(...
しかし、「黒歯国」「裸国」ともに、魏志が初出ではありませ...
『山海経』(周~戦国・漢代にかけての成立)や、『淮南子』...
さて、これらを吟味してみましょう。
(A)
(女王国)東南船行一年、裸国黒歯国に至る。魏志、倭人...
是に於て、舟人漁子、南に徂(ゆ)き、東に極(いた)る。
或は[ゲンダ](海亀)の穴に屑没(セツボツ。チリとなる...
或は岑敖(敖は本当は山かんむり。シンゴウ。険しく鋭い...
挂涓(涓はさんずいナシ。ケイケン。ひっかかること)す。
或は裸人の国に掣掣洩洩(セイセイエイエイ。風に任せて...
或は黒歯の邦に氾氾悠悠(ハンハンユウユウ。流れに従う...
文撰、江海、海賦(晋・木華)
(B)
昔、舜は有苗(ユウビョウ。南蛮。一説にミャオ族)に舞...
:
是を以て聖人は、其の郷を観て宜しきに順ひ、其の事に因...
禹の裸国に入る、裸にして入り衣にして出づれば、衣服の...
(C)
下に湯谷(ヨウコク)有り。湯谷の上に扶桑有り。十日の...
東南自り東北方に至る、大人国・君子国・黒歯民・玄股民...
(黒歯国)其の人黒歯にして稲を食ひ蛇を啖(くら)ふ。...
さて、今、6つの史料を引用してみましたが、これらは3つの...
Aグループは、魏志倭人伝型です。黒歯国と裸国は1セットです。
存在する方角は東南。海のはるか彼方です。
次にBグループは、黒歯国と裸国は直接の関係は有りません。
確かにともに南蛮の一種ですが、関わりはそれほどでもありま...
裸国は禹のエピソードで有名なようです。
(このお話、戦国策では「郷に入ては郷に従え」よろしく、禹...
また、戦国策において、裸国は禹の時代の国、黒歯は、現代(...
Cグループは、東方の異民族の中に黒歯というのがいるというも...
ちなみに南方には裸国があります。
扶桑という太陽の昇る木のある湯谷という場所の近くに、黒歯...
さて、各グループの時代を見てみましょう。BとCはともに周か...
このように見ると、陳寿が倭人伝に「黒歯国」「裸国」と記し...
三国志の読者(陳寿にとっての)も、同じくB・Cのそれを連想...
つまり、倭から東南に船で1年行った所に、禹の赴いた「裸国...
思えば、陳寿は魏志東夷伝の序文に、
東、大海に臨む。長老説くに、異面の人有り。日の出づる...
と記していて、それが「日の出づる処」扶桑の近くにあるとい...
広大なロマンを感じる部分だと思いません?
ゾクゾクします。
シルクロードの漢書西域伝と同じくらい。
だから陳寿は、こんなに倭人伝に行数を費やしたのです。
里程記事をこんなに詳細に載せたのです。
目的地は倭の女王ではなく、その先の「日の出づる処」の近く...
さて、クールなお話に戻りましょう。
じゃあ、「裸国」はなんなんだ。「黒歯国」があるっていう根...
こういうことになります。
まず、「裸国」は倭人伝に出てくる意味がありませんね。
別に禹の話しを語るわけでもなく、名前しか書いていません。
また、「黒歯」と並んで称されるのも今まで(漢まで)に例が...
それから、「黒歯国」「裸国」に中国人が訪れたわけではない...
そう考えると、答えはひとつしかありません。
倭人からの情報です。
また、倭人伝に載っている以上、「黒歯」「裸国」は倭人の一...
では、その倭人からの情報とは、どんなものだったのでしょう...
「東南の海の彼方に、黒い歯をした連中や、服を着ない連中が...
こんな感じでしょうか。
でも、これじゃ、陳寿にとって、推定の域を出ません。
そういうことならば、陳寿はこう書くはずです。
「東南に、黒い歯をした人々の国や、裸で生活する人々の国が...
恐らく、われわれの言う黒歯国や裸国であろう。」
と。
それを「黒歯国・裸国有り」と単刀直入にズバッと言い切ると...
ならば、考えられるのはひとつ、
「倭人が『黒歯国』『裸国』という名称を用いていた」
この可能性です。当時の倭人の中には漢字の読み書きが出来る...
つまり、倭人が自ら、この名前を、この字面で、中国人に教え...
黒歯・裸国の国名(奴国や伊都国のような)が中国の古い東方...
6-Feb-2000
えっと、もう2月になってしまいました…。
今更ながら、2000年の記念すべき第1回の
ネタです。
さて、ではさっそく参りましょう。
…なんの話しでしたっけ?
「倭武天皇」でしたね。
詳しい話は前回(25-Dec-99)を読んでいただくとして、
今回は、「倭武天皇」という字面はいったいどこから来たのか?
というテーマでいきたいと思います。
さて、少なくとも常陸風土記編者(藤原宇合という説が有力)...
ですが、中央でさえ「天皇」扱いされていないヤマトタケルを...
(これも前回お話しました。)
だとすると、この「倭武天皇」、とくに「天皇」という表現は...
これが問題となります。
結論はただひとつです。
「もともとの史料に倭武天皇と書いてあった」
これしかないでしょう。
ですから、この場合は「倭武天皇」の「属性」「地域性」もさ...
ヤマトタケルと同一視された、そう考えられます。
(その一方で、前回のBの史料では、同一人物の事跡(ヒナラス...
この辺りについては、古田が既に論じております。
では、「倭武天皇」とはいったい誰なのか。
再三申しておりますように、「倭王武」ではありません。
そうすると、一応、2通りの解釈が出来るかと思われます。
1)「倭」の「武天皇(諡)」→漢語と見なす
2)「ちくしのたけるのすめらみこと」→倭語と見なす。「倭」...
私としては、1ではないかな?と思っております。
…で、そうすると、こんな史料に目を引かれます。
継体天皇十六年、武王、年を建て善記と云ふ。襲国偽僭考...
もちろん、以前(28-Nov-99)お話したとおり、これをどこまで...
要するに「九州王朝」の中に「武王」「武天皇」と諡された君...
なんとも歯切れの悪い結論ですが、まぁ、こんな感じだと思っ...
終了行:
[[独り言(Historical)]]
#menu(menu_Historical)
9-Dec-2000
先週の日曜日(12/3)、「多元」という古田一派の団体主宰の、
古田武彦氏の講演に参加してきました。
えー、古田武彦というのは、
『「邪馬台国」はなかった』という、知る人ぞ知る本を書いて、
古代史の世界では、そこそこ有名な、かわにしのもっとも影響...
古代史家です。
…で、講演の内容は、というと、
藤村氏(捏造の人)の話と、藤村氏の捏造を看破できなか...
「大王(おほきみ)は神にしませば…」の歌の話。
「曲水の宴(歌詠みの遊び=天子の遊び)」の跡が九州と...
「天皇陵古墳」の軍事的意味の話。
などなどで、どれも、かなり面白い内容でしたが、それらにつ...
かわにし説を含めて、いずれお話します。
かわにしは、前から疑問に思っていることがありました。
その前に、その前提となるお話をしましょう。
「倭の五王」について。
倭の五王(讃・珍・済・興・武)について、歴代天皇...
五王、とくに倭王武の上表文に依れば、彼等が都した...
隋書について。
「日出づる処の天子」を称したのは、男性(「妻を鶏...
明確に「第一の王者」を称しており、聖徳太子(No.2...
隋書自体の地理描写により、「日出づる処の天子」が...
旧唐書について。
「倭国伝」と「日本伝」が別れている。
「倭国」と「日本」は、その領域についての記述が異...
「日本伝」の描写は、「続日本紀」とよく一致するが...
という点などから、いわゆる「倭国」は、九州を中心とした王...
…で、古田説の肝要の一点は、
「九州王朝は、白村江の敗北によって滅亡した」
ということにあります。
そして、その後の701年(大宝元年)、「日本国」が「倭国...
というのです。
つまり、「白村江」は、九州の「倭国」の王者が指揮して行っ...
つけくわえれば、「日本」はこの戦いには消極的だった、ので...
かわにしとしては、この説に、ほとんど賛成なのですが、
いまいち、よくわからない問題があります。
日本書紀には、「倭王」の果たした業績を、さも「日本国」の...
書かれた部分が多々あります。
それらの一つ一つにはここではふれませんが、
要は、「日本書紀」という本は、「倭王」の業績を全て「日本...
「倭国」の存在を極力消そう、という性格の本である、という...
で、ここでわからない。
「なぜ、日本書紀には、白村江の敗北が堂々と描かれているの...
白村江の戦いについて、あれだけの大敗北を喫しながら、「日...
中大兄皇子(天智天皇)・大海人皇子(天武天皇)・中臣鎌足...
このことから、「日本国」側は、白村江に出兵しなかった、と...
戦後の日本じゃないですが、あれだけの大敗北に、人々をミス...
国民みんなから総スカンをくらって、とてもとても、権力の座...
しかも、対戦国の唐・新羅とは、701年以降も、頻繁に外交...
「日本国」は、律令・制度などの多くを、唐を手本とし、模倣...
そういう外交上の立場からも、720年(日本書紀成立の年)...
「白村江」は「日本」の天皇の指揮の下に行われた、などと、...
古田氏は、
「記紀は天皇家にとって有利になるように加削されても、不利...
といいますが、この場合だけは、逆だということになります。
で、これを質問したんですが、
回答はこんな感じでした。
「本当は白村江には触れたくなかったんだが、国際的に触れな...
やむなく、天智天皇を天皇ではなく、「称制」として、責任者...
触れることにした」
ということでした。
うーん、ちょっと納得できません。
まぁ、疑問が解決したわけではありませんでしたが、かわにし...
よかったなぁと思っております。
また、機会があったら、行こうかな。
それまでに、この問題に対するかわにしなりの回答が得られれ...
と思う今日この頃です。(なんじゃそりゃ)
24-Nov-2000
えー、ずいぶん久しぶりですが、
急に古代史の話がしたくなりました。
今回のネタは、「日本の太陽神について」です。
さて、日本の神話に出てくる太陽の神様は、というと、ご存知...
「天照大神(あまてらすおおみかみ)」です。
まぁ、「てらす」とか「おおみかみ」という読み方は、皇国史...
とにかく、そういう流れの中から生まれてきた読み方で、要す...
ですから、素直に「あまてるおおかみ」と読んでも間違いでは...
(「あまてらすおおみかみ」という読み方は、古く室町くらい...
また、古事記や日本書紀でも、「天照大御神」という書き方を...
むしろこの場合は、「おおみかみ」が正しい。
でも、だからといって、「大神」を「おおみかみ」と読むのは...
…で、彼女(「天照大神」は女性です。知ってますよね?)は、...
天皇家にとってもっとも尊ばれた、主神であることは、ご存知...
さらに、彼女は「日神」として、太陽神としても、信仰を集め...
彼女には二人の弟がいて、一人は「月読命(つくよみのみこと...
もう一人は有名な「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」です。
「すさのお」は置いておいて、「つくよみ」の方は、文字通り...
「日神」と対を為す存在です。
ところで、「天照大神」には「又の名」があります。
「大日霊貴(おほひるめのむち)」です。
こちらの方が、古い名であると考えられています。
「むち」は、「みこと」よりも古い「尊称」だからです。
で、「大」は、尊称の類ですから、名前の本体は、「ひるめ」...
「昼女」あるいは「日る女」と考えられます。(「る」は「所...
で、これと対を為すのが、「蛭児(ひるこ)」。
不具の子供として、海に流されてしまう、哀れな子です。
親は同じ「いざなぎ・いざなみ」ですから、まぁ、「ひるめ」...
(とはいっても、ここらへんの神様はみんな「いざなぎ・いざ...
さて、日本の神話を読む時、「又の名」に遭ったら、どう考え...
「別々の神が習合されたもの」と見なすべきです。
「神神習合」です。
「神仏習合」は有名ですが、なぜ、日本の神と仏教の仏とを、...
この「神神習合」の古い伝統があったためだと考えられます。
話を元に戻すと、「おほひるめのむち」と「あまてるおほかみ...
さて、実は「天照大神」には、太陽神としての説話が少ない、...
記紀において、「天照大神」の役目は、「国譲り」で、「大国...
皇祖・「ににぎ」に指示を与え、「天孫降臨」せしめた、天皇...
(もちろん、「これこれこういうわけだから、我々天皇家が、...
人々に宣伝するのが、記紀神話の狙いです)
従って、「天照大神」は太陽神というよりも皇祖神という性格...
と言われるわけです。
すると、「天照大神」と「大日霊貴」の違いが明らかになって...
さて、かわにしは、「国譲り」「天孫降臨」といわれる事件、...
当たり前ですが、皇国史観から見たような、「華々しい偉業」...
もっと、生々しい、血みどろの事件だと考えています。
まぁ、アメリカの「開拓」と一緒です。
インディアンにとって見ればただの「侵略」でしょ?
(ちなみに「神武東征」も)
まぁ、そこらへんの話はいずれするとして、
この二つの実在の事件において、指揮を執ったのが「天照大神...
これは、どういうことでしょう。
素直に考えれば、「天照命(あまてるのみこと)」或は「天照...
女王です。
一方、「おおひるめのむち」の方は、正真証明の「太陽神」で...
んー、ちょっと話が飛躍した感もありますが、まぁ、おいおい...
23-Jul-2000
さて、今回は、古代史を知らない方にはあまり馴染みがないか...
これは何かといいますと、古代の天皇の名前によく付けられた...
例えば、
大足彦忍代別(オホタラシヒコオシロワケ・景行)天皇
稚足彦(ワカタラシヒコ・成務)天皇
足仲彦(タラシナカツヒコ・仲哀)天皇
気長足姫(オキナガタラシヒメ・神功)皇后
などです。
…で、景行天皇~神功皇后の間に集中的に現れる名前であること...
また、「隋書」に「多利思北孤」(タリシヒコ)とあることか...
とにかく、そんな「重要な」名前であると、従来見なされてい...
ですが、かわにしは、そのような解釈はしていません。
「入彦」もそうですが、「足彦」も、何も「天皇になったもの...
例えば、
天押帯日子(アメオシタラシヒコ・孝昭天皇皇子)
沼帯別(ヌタラシワケ・垂仁天皇皇子)
胆香足姫(イカタラシヒメ・垂仁天皇皇女)
五十日足彦(イカタラシヒコ・垂仁天皇皇子)
などは、ただの皇子・皇女でありながら、「タラシ」を名乗っ...
また、こんなのもいます。
鼻垂・耳垂(ハナタリ・ミミタリ)
これは、九州の熊襲の族長として描かれたものです。ここの「...
…で、このようなことを踏まえると、「足彦」は本当はなんて読...
「タラシ」とは「足る」の未然形「タラ」+尊敬の助動詞「ス」...
(尊敬の「ス」は未然形接続です。懐かしい…)
どちらにせよ、「タリ」より「タラシ」の方がえらい気がしま...
(「天照大神」は「アマテラスオホミカミ」、でも普通によん...
と考えると、「足彦」の本来の形は「タリヒコ」ではないか。...
…で「タリ」ってなんだ?ということになるでしょう。先ほど、...
じゃあ、
鎌足
これは?
「カマタリ」ですね。中臣鎌足です。この「カマタリ」をとっ...
何が言いたいのかというと、「足彦」の「タリ」も、同じこと...
やたらに「重要」がって、執着しすぎると、却って議論をやや...
もちろん、こんな問題もあります。
現在、皇族の名前は、「~仁」で統一されています。でも、じ...
そういうことです。
28-May-2000
今日(5/28)、「歴史学研究会大会・古代史部会」に出るため、
慶應大学に行ってきました。
朝9:30からということなので、今日は日曜日にもかかわらず早...
出かけました。
田町の駅につくと、何やら、それっぽい人の流れが。
とりあえず、その流れに乗っかっていると、難なく、慶應大学...
きょろきょろしながら、目的の「古代史部会」の会場517教室に...
今のかわにしには、そういう会話を交わすような「知人」もい...
まぁ、そのうち、そんなお仲間も出来ますわな。
とりあえず、割りと後ろの方の、通路側の席を確保して(ここ...
もうひとつの目的、「恒例の各書店の出店」巡りをしました。
さすがに、おえらい先生方もきているというだけあって、高そ...
でも、面白そうな本がたくさんありました。
オサイフサマともよーく相談して、いくつかの本を購入してし...
また、「歴研会員は2割引」という、予約はがきもたくさんも...
もらえるもんは、なんでももらっとかないとね。
さて、そうこうしているうちに、
「古代史部会2000年度報告『古代の王権と交通』(黒瀬之恵氏...
さて、どうやら、「歴史学研究会古代史部会」では、「王権」...
ここ数年の研究を行っているようです。
ひとつには、統一国家の成立(律令以降とする)の前史として...
「王権論」。
もうひとつには、各「地域」の独自の成立や発展を重視した
「地域論」。
この2つの流れを詳しく検討することで、古代史の持つ様々な...
その中で、今年の「古代の王権と交通」という報告は、
「地域」と「王権」の「関わり」を見る重要な視座だと言える...
黒瀬氏の報告は、以下のようなものでした。
まず、「王権」と「地域」との関係を見る上で、「ミヤケ」に...
した。
まず、6・7世紀の「ミヤケ」の構造について、「天皇・大王...
明瞭にされました。
このなかで、
「ミヤケの中には、大伴などの有力豪族の力を介しなければ、...
という指摘は大変貴重なものでした。(詳しい話は、またする...
また、8世紀の「長屋王家木簡」から、長屋王の持っていた「...
前代の「ミヤケ(天皇直属ではない)」との関わりをもつ、と...
主な論点だったのではないかと思います。
さて、ここで、お昼となり、
また、「出店」めぐりをしました。
いやー、見てるだけでも結構面白い。
その後、黒瀬報告に対する、コメント・討論が行われました。
黒瀬さんがまだ結構若い(といっても30代だろうけど)ので、
発表に結構足りない点が多かったのに対して、
さすが、顕学の先生方のコメントは、
その不備を補って余りあるものがあり、
大変、有意義でした。
細かいお話は、いずれ機を改めてすることにして、
今回の「お勉強」は、大変意義深く、面白いものだったと思い...
21-May-2000
さて、だいぶ、お久し振りになってしまいましたが、法隆寺の...
今回は、第2部として、かわにし説をお話させていただきたい...
まず、梅原さんが重視した「資財帳」に関して。
わたくしは、「資財帳」に対して、梅原さんの行ったような評...
ここで問題になるのは、「第2次史料」である「資財帳」の「...
さて、以前に、「日本書紀に法隆寺建立の記事がない」という...
「もしも、本当に、法隆寺が聖徳太子の手によって建てられた...
とも言いました。
これを踏まえると、少なくとも、書紀の編者の手にした史料に...
さて、では、日本書紀編者ですら出会えなかった史料に、法隆...
これも、絶対にない、とは言いきれません。お寺のどこかから...
そこで、「資財帳」の法隆寺建立記事がいったいどのようなも...
資材帳をご覧ください。
この文面、内容、どこかで見たことがあります。「薬師像銘」...
そうすると、「薬師像銘」には、「この本尊が安置されるべき...
つまり、「法隆寺と薬師如来像は用明天皇の為に推古天皇と聖...
これにて一件落着。…とはいきません。
この「資財帳」説には重大な欠陥があるのです。それは、「法...
また、「薬師像」の銘文も、推古朝の作と考えるべき点が多く...
また、当時の人間関係を知る最大の証拠は、「崇峻天皇(用明...
反対に考えてみましょう。「蘇我殺し」以前です。果たして、...
「崇峻はとってもいい人だったが、蘇我の横暴によって殺され...
こんなことを公に口にされて、政権に残ることが出来るほど、...
反対に、「中大兄のクーデター」以後にこの銘文が作られたの...
そういったわけで、銘文から言っても、やはり、これは推古朝...
だとすれば、この「薬師像」が安置されるべく造られた寺は、...
また、許勢徳太の寄進も、それほど不審がることはありません...
反対に、再建後の法隆寺は、聖徳太子との結びつきを求めてい...
もはや、長くなってしまったので、これ以上詳しくは語れませ...
5-May-2000
今回は、法隆寺シリーズ第2弾です。
今回は2部構成です。
第1部は、梅原説の解説です。
梅原さんはどんな風にこの史料を見、どのように解釈したのか...
さて、梅原さんが一番重きを置いた史料は、「法隆寺伽藍縁起...
その理由は、
1.日本書紀・続日本紀不信論。
日本書紀の撰者を、藤原不比等と考える梅原さんは、日本書紀...
2.資材帳の実質は「霊亀二年」成立論。
梅原さんは、「資材帳」について、「毎年官に提出し、その異...
3.資材帳の史料性格
また、梅原さんは、「資材帳」について、これは、官に提出す...
こういったわけで、梅原さんは、「資材帳」を中心に据えて、...
では、資材帳関連の史料から見ていきましょう。
縁起部分からです。
これは、多くの謎を持った文章でした。まず、「法隆寺建立」...
聖徳太子一家の寺に、聖徳太子一家を滅亡させた張本人が、寄...
これはおかしいと思ったわけです。
そこで、有名な「怨霊」説が出てくるわけです。「これは、許...
実際、梅原さんも、この記事を見た時に、「怨霊」説が浮かん...
最後の「聖徳太子の法華経・勝曼経講読」も、普通に考えれば...
さて、となると、ここで、「法隆寺全焼→再建」に触れないのは...
さて、次に薬師像の件です。
これは、この文章と「薬師像自身の光背銘」との矛盾があると...
です。構文上の理由とは、「奉為A年月日B敬造」という構文で...
続いては、釈迦三尊像です。
今度は、釈迦三尊像銘との矛盾です。「資財帳」では、「聖徳...
すると、またしても、釈迦三尊像の銘文と矛盾することになり...
ここで、釈迦三尊像に対しても疑いの目を向けます。まず、銘...
太子の病気の回復を願ったのは「王后」だが、この時点ではす...
こういった史料批判を通じて、梅原さんは、第1、第2、第4...
また、法隆寺再建の年代についても、「伽藍様式」などから、...
これによって、梅原さんの「怨霊鎮魂説」はその基礎を形作る...
かわにしとしては、その「史料批判」に対して、いくつか反論...
それについては、もう、時間がなくなってしまったので、また...
23-Apr-2000
今回は、「法隆寺」のお話です。
とりあえず、梅原猛氏の『隠された十字架』を中心にお話をし...
えー、実は、「法隆寺」とか「聖徳太子」…といった辺りは、わ...
ですんで、「七不思議」のすべてについて、語り尽くすことは...
(『隠された十字架』も、最初から最後まで読み尽くしたわけ...
それでも、いくつかの点に付いては、お話できるだろうと、思...
まず、梅原氏の挙げた、第1の謎、「日本書紀」「続日本紀」の...
これまた、古代史を知る人には余りに有名なことなのですが、...
結論は「再建されたものである」のですが、そもそもこんな論...
(天智九年、669年)、夏四月癸卯朔壬申(二十日)、...
という文面が原因でした。
つまり、この記述どおりなら、法隆寺は669年に全焼したこ...
…で、今、実際に法隆寺は存在するのですから、再建されたはず...
じゃあ、いつ、だれが、何の為に、となると、わかりません。...
じゃ、本当のところは、669年には全焼したわけではないの...
…で、長いこと、論争が繰り広げられたのですが、「若草伽藍跡...
さて、こういう背景を踏まえて、梅原氏は、「法隆寺を再建し...
さらに、「日本書紀」「続日本紀」という日本の正史が、なぜ...
これが、梅原氏のいう、一つめの「不思議」です。
ですが、もっと根本的な疑問があります。それは、「法隆寺建...
(推古十四年、607年)、是歳、皇太子(聖徳太子)、...
という記事であり、イキナリ斑鳩寺が登場してきます。やっぱ...
日本書紀にこういう事例は少なくありません。ここもか、とい...
当然、ここも疑ってしかるべきです。
まず、「(再建前の)法隆寺は誰が作ったのか」ここからです...
つまり、元々の法隆寺の建立に関して、聖徳太子は関わってい...
(ただし、聖徳太子は「斑鳩」の地に住んでいました。法隆寺...
次に、法隆寺の本尊について。
法隆寺には「2つの本尊」があります。
1つは、「薬師如来像」。
1つは、「釈迦三尊像」。
まぁ、後代にはもう1つ加えられたようですが(名前忘れた)...
まず、「薬師如来像」は、その光背銘に、「用明天皇の為に推...
(もっとも、この釈迦三尊像の光背銘には、「上宮法皇」とあ...
…で、最も重要なのは、この本尊は、現存する、ということです。
どういうことかというと、思い出してください。
法隆寺は天智九年に全焼しました。この時、「一屋余すこと無...
梅原氏の場合、橘寺だ、といいます。
まぁ、となると、確実に言えることは、「最初の法隆寺には、...
聖徳太子の為に造られたとされる仏像も、なかった」というこ...
梅原氏は、再建後の法隆寺にばかり、目を向けていますが、そ...
梅原説に従えば、再建を機に、法隆寺はガラッとイメージチェ...
「ほんとにぃーーーー??」
という気がします。
その辺りについても考えてみると面白いかと思います。
12-Mar-2000
さて、今回は、やっと本編です。
前回のながーい継体紀を参照しながら、読んでください。
まず、以前話に出てきた「欽明紀」と比較してみます。
たしか、あの中にこういうのがありました。
欽明紀の朝鮮半島記事はもっぱら、百済聖明王を中心とし...
同時に、もっぱら朝鮮半島を舞台とし、日本列島側の地名...
「天皇」はただ、「詔勅」を発すだけの存在だ。実際にど...
欽明朝ともなると、すでに飛鳥時代の大物がいる(蘇我稲...
任那日本府は明らかに新羅よりだ。一方、「天皇」は百済...
もっとも重大な疑点、それは「なぜか天皇は日本府の官人...
しかも、「天皇」の「詔勅」を「百済王が日本府に伝えて...
さらに、日本府官人は、「天皇」の言い分などに聞く耳を...
これが、「欽明紀」の持つ「疑点」でした。(05-Sep-99)
これと比較してみると一目瞭然。随分と様相が違うように思え...
天皇家側の重臣たちもかなり活躍しています。
さて、継体紀では、かなり多くの事件が、入り組んで、連続し...
それをまとめて見ましょう。
1)「四県割譲事件」6年4月~12月
主な登場人物:穂積臣押山・大伴金村・物部麁鹿火・勾大兄皇...
この事件は、非常に非古事記的な説話のように見えます。また...
いう感じを持ちます。これは明らかに、継体の頃から、現在(...
(古事記の説話は、「古典」を「古典」のまま収録したもので...
事件としては、大伴金村・物部麁鹿火の両雄が登場し、さらに...
「A天皇の説話は、次のBないしC天皇の時に作られる」
という原則に照らしてみると、興味深いものです。
ただし、継体紀の流れから言って、
「この時点で、磐井は健在だった」
ということも忘れないでおいてください。
磐井と継体では、磐井の方が上位者である、ということも。
それと、このとき「割譲」されたのは、「上多利・下多利・娑...
2)「己文・帯沙割譲事件」7年6月~10年9月
主な登場人物:穂積臣押山(委の意斯移麻岐弥)・姐弥文貴将...
さて、この事件はちょっと様子が変わります。もちろん、説話...
「百済本記」で補強を図っています。ですが、本当に穂積臣押...
ともあれ、この説話はどうも、九州くさい。とだけ言っておき...
この説話については、後でまた出てきます。
3)「磐井の乱」21年6月~22年11月
主な登場人物:継体天皇・筑紫君磐井・近江毛野臣・大伴金村...
さて、本題も本題、「磐井の乱」です。知っての通り、実際の...
それはともあれ、この事件の発端部に、いきなり矛盾と言うか...
よーく読んでみてください。
毛野臣の渡航目的です。
「新羅に滅ぼされた南加羅・喙己呑の再興」??
え?いつ滅んだの?と思っても、どこにも書いてありません。...
…で、この国が滅んだのは、532年のこと(『三国史記』)。...
まぁ、これだけでもって、継体紀の紀年がずれていると論じる...
とりあえず、ここでは、事件の発端となるはずの出来事に対し...
さて、第2には、近江毛野臣って誰だ?という疑問が沸き起こ...
ところで、物部麁鹿火と筑紫君磐井とは、筑紫御井郡(筑後、...
しょう。(「外は海路をふさぎ、高麗・百済・新羅・任那らの...
おそらく、その理由は、
「御井郡に至るまで、麁鹿火の軍勢は、磐井にとって、友軍だ...
こんなところだろうと思います。
だから、私は「暗殺事件」「謀殺事件」と位置付けたのです。
さて、この事件の顛末はというと、筑紫側から「糟屋屯倉」が...
ともあれ、この事件を境に、近畿は独立勢力としての確固たる...
そう言って過言ではないでしょう。(おそらく、それ以前は、...
それはそうと、毛野臣の六万の大軍は、この磐井との決戦のと...
4)「毛野臣の任那経営」23年3月~24年10月
この説話は、更に細かく分けられます。
(1)「多沙割譲事件」23年3月
主な登場人物:穂積臣押山・物部連父根・吉士老
これは、2)の「己文・帯沙割譲事件」にそっくりです。そこ...
なるほど、穂積臣押山といい、物部連父根といい、7年条の人...
ですが、別の事件と見なすことも出来ます。7年の時とは、事...
また、割譲を実行しに行った、「物部連」は、7年条では、伴...
別事件と見れば、見れなくもありません。
(2)「加羅と新羅の通婚」23年3月
主な登場人物:加羅王・新羅王・阿利斯等・己富利知伽
さて、(1)を受けて、加羅は新羅と結ぶことにしました。こ...
「新羅は刀伽・古跛・布那牟羅の三城を奪う。また、北境の五...
は、23年3月のことと見なせるでしょう。
むしろ、これを述べるに当っての前置き、と見るのが正しいの...
(3)「毛野臣の任那経営(in安羅)」23年3月
主な登場人物:近江臣毛野・将軍君尹貴・安羅国主
さて、ようやく、毛野臣の登場です。
この説話も、話上、長期間に及ぶ説話です。
「およそ数ヶ月に及び、再三、堂の上で会議が行われた」
とあるのがそれです。
おそらく、会議が始まったのが、23年3月なのでしょう。
ここでは、彼らの「位取り」が問題になっています。毛野と安...
ちなみに、関係ない話ですが、「国主」という語は、「くにの...
(4)「毛野臣の任那経営(in熊川)」23年4月
主な登場人物:己能末多干岐・大伴金村・近江臣毛野・久遅布...
さて、久し振りに大伴金村登場です。近畿側が一枚噛んでるな...
たのだ」系の解釈の仕方はしません。→全体について同じ)
その目的は、任那・新羅間の和平仲介の依頼のようです。
ところが、毛野臣は、なぜか百済王を呼んでいます。ここらへ...
…というよりも、毛野臣は、和平しようとしていたのでしょうか?
私には全然その気がなかったように見えます。
「毛野臣が無能だった」
で済む話か?という気もします。(結構、そう見ている歴史家...
ハナっからそんなつもりで百済・新羅王を呼んだんじゃないん...
また、ここには、毛野の言として、
「小が大に仕えるのは天の自然の道である」
というのがあって、これなら、天皇=大、百済・新羅=小と言...
「大木の端には大木で接木し、小木の端には小木で接木するの...
となると、少し意味が違ってきます。
これだと、天皇=大だとすれば、新羅・百済王も大で、何を怒...
「大木たる自分が来ているのだから、大木たる王自ら来い」
と考えなければ意味が通じません。
もし、こっちが正しいとすると、毛野は自らを「王」の地位に...
(5)「継体天皇の詔勅」24年2月
さて、書紀の中には、突然天皇がなんの脈絡もなく詔勅を述べ...
ここもそんなうちのひとつです。
ですが、大抵の場合、そういう詔勅には、これから行う政策の...
なにか、所信表明演説っぽい気がするのは私だけでしょうか。
(6)「毛野臣の最期」24年9月~10月
主な登場人物:近江臣毛野・河内母樹馬飼首御狩・調吉士・阿...
とうとう、毛野臣も、その行状がバレて、日本列島に強制送還...
やはり、この説話も九州の匂いがしてきました。
さて、ここまで見てきて、毛野臣の地位が少しだけ見えてきた...
「毛野臣は今でこそ使者となっているが、俺とは昔は仲間とし...
という磐井の言葉がありますが、案外、毛野と同じ釜の飯を食...
さて、少しまとめてみましょう。
まず、1)「四県割譲」は近畿での説話です。ですが、これは...
それから、2)の事件は九州での出来事と見なすべきです。ま...
3)、4)における、近江臣毛野は、おそらく九州側の、かな...
「磐井の命により、近江臣毛野を中心とした南加羅再興軍(新...
こんな感じでしょうか。
「その後、磐井の子・葛子は、父の遺命を継承し、近江臣毛野...
といった感じでしょうか。
多分、毛野にとっては、新羅は最初から「敵」だったように見...
いやー、長くなってしまいました。
まぁ、最期の方は結構想像に頼っているのでそのうちコロッと...
5-Mar-2000
今回は「磐井の乱」前後の継体紀について、お話したいと思い...
まず、今回は、継体紀(朝鮮関係・磐井関係だけ)を訳してみ...
とりあえず、ヒマな時にでもお読みくださいませ。
<日本書紀、巻第十七、継体天皇>
男大迹(をほど。継体)天皇(亦の名は彦太尊)は、誉田(ほ...
(中略)
(継体)天皇が五十七歳のとき、(武烈)八年十二月に小泊瀬...
(中略)
(そこで大伴金村大連らは、男大迹王を立てて天皇とした。説...
三年二月、百済に使者を送る。(百済本記には、「久羅麻致支...
五年十月、山背の筒城に遷都。
六年四月、穂積臣押山を百済に派遣し、筑紫国の馬四十匹を贈...
十二月、百済、遣使して調を貢る。別に上表文をもってきて、...
「この四県は百済に近接し、日本からは遠く隔たっています。...
という。
大伴金村大連もこの言葉を受けて、賛成した。そして、物部麁...
「住吉大神が初めて海外の金銀の国、高麗・百済・新羅・任那...
と固く諌めた。大連は、
「それはもっともなことであるけれども、どうして天勅に背く...
と答えた。
「病と称して、勅使を辞退しましょう」
と、妻は言った。大連は妻の言葉に従ったので、別の勅使が立...
大兄皇子(後の安閑)は、事情があって、先の割譲には関わっ...
「胎中之帝(応神)より、宮家を置いている国を、軽軽しく他...
という令旨を発した。
そして、日鷹吉士を遣わし、改めて百済の使者に令を伝えた。
使者は、
「父の天皇が既に勅命を下して、事は終わっているのに、子の...
と言って、聞かず、ついに百済に帰国していった。
「大伴大連と多利国守穂積臣押山とは、百済から賄賂をもらっ...
というウワサがながれた。
七年六月、百済は姐弥文貴将軍・州利即爾将軍を遣わし、穂積...
別に上表文を持ち、
「伴跛国(はへ。加羅諸国の一)がわたくしの国の己文(こも...
と、奏言する。
(中略)
十二月、朝廷にて、百済の姐弥文貴将軍、新羅の文得至、安羅...
この月に、伴跛国、輯支を遣わし、宝物を献じ、己文を請うも...
(中略)
八年三月、伴跛、子呑(しとん)・帯沙に城を築き、満奚(ま...
九年二月、百済の姐弥文貴将軍、帰国を申請、よって物部連(...
この月、沙都島に至り、人づてに、伴跛人の傍若無人振りを聞...
四月、物部連、帯沙港に停泊して六日。伴跛、挙兵する。物部...
十年五月、百済、前部木[力x3]不麻甲背(もくらふまかふはい...
九月、百済、州利即次将軍を遣わし、物部連にそえて来日。己...
(中略)
二十一年六月、近江毛野臣、衆六万を率い、任那へ行き、新羅...
「毛野臣は今でこそ使者となっているが、俺とは昔は仲間とし...
といって、とうとう戦おうとして毛野臣の言葉を聞こうとしな...
こうして、毛野臣の軍は釘付けとなり、任那への進軍は中途に...
天皇は、大伴金村大連・物部麁鹿火大連・許勢男人大臣らに、
「筑紫の磐井が反して西の地を保っている。今、誰か将となる...
と詔した。大伴大連らはみな、
「まさに、麁鹿火大連の右に出るものは無し」
といった。
天皇は「よし」といって、麁鹿火を将軍に任命した。
八月、(継体天皇は)「大連よ、例の磐井が従わない。おまえ...
「磐井は西戎の奸猾です。川によって阻まれていることを頼み...
と言った。
天皇は、
「良将が軍を指揮すれば、恩を施し、恵を推し、己を慮って人...
と言い、また、
「大将は民の命を司るものだ。社稷の存亡はここにかかってい...
という詔を下した。
天皇は自ら鉞(まさかり。天子が征伐の大将に賜う中国のなら...
「長門より東は私が統括しよう。筑紫より西はおまえが統括せ...
と言った。
二十二年十一月、大将軍物部麁鹿火が自ら賊帥・磐井と、筑紫...
ついに磐井を斬り、ついに彊場(キョウエキ。国境)を定める。
十二月、筑紫君葛子(ちくしのきみくずこ)、父の罪に連座し...
二十三年三月、百済王が、下多利国守穂積臣押山に、
「(日本への)朝貢の使者が、いつも嶋曲(海中の嶋の曲の崎...
と語った。これを受け、押山は朝廷に進言した。
この月、物部伊勢連父根・吉士老らを遣わし、津を百済王に賜...
「この港は、宮家の置かれて以来、我が国の朝貢の経由港とし...
と陳情し、勅使・父根は、このため、加羅の面前で百済に多沙...
加羅王は、新羅王の娘を娶り、子が生まれた。新羅は始め、娘...
「前にあなたが求めたから、わたしは娘との結婚を承諾したの...
といった。
加羅の己富利知伽(未詳)(こほりちか。人名)は、答えて
「夫婦としてめあわせておいて、いまさらどうして仲をさくこ...
といった。
ついに、新羅は刀伽(とか。地名)・古跛(こへ。地名)・布...
この月、近江臣毛野を遣わし、安羅への使者とする。勅を発し...
四月、任那王己能末多干岐(己能末多というのは、恐らく阿利...
「海外の諸蕃(「蕃」は「藩」に同じ)は胎中(応神)天皇が...
しばしば境を越えて、侵入してきます。どうか、天皇に申し上...
と陳情。大伴大連は、その通り上申した。
この月、使いを遣わして、己能末多干岐を送る。あわせて、任...
「任那王の奏上するところをよく問いただして、任那・新羅両...
という詔勅を下した。そこで毛野臣は、熊川(くまなれ。地名...
「小が大に仕えるのは天の自然の道である(ある本には、「大...
と言った。久遅布礼・恩率弥騰利は、恐れ、それぞれ帰って王...
こと、三ヶ月にもなった。しきりに勅を聴きたいと願い出たが...
「謹んで、三ヶ月も待って、勅旨を聞こうと待ち望んでいたの...
と言った。
そうしてあるがままに上臣に報告した。上臣は、四村を奪い(...
ある本には、「多多羅・須那羅・和多・費智を四村とする」と...
人々は、「多多羅など四村が奪われたのは、毛野臣の過失だ」...
九月、巨勢男人大臣、薨ず。
二十四年二月、詔勅に言う。
「磐余彦(いはれひこ。神武)帝・水間城(みまき。崇神)王...
九月、任那の使いが、
「毛野臣は、ついに久斯牟羅にして、舎宅を起こして赴任する...
といった。
天皇はその行状を聞き、人を遣わして毛野臣を召還したが、や...
「わたくしめは、いまだ勅旨をなさず、京に帰るのは、励まさ...
また、毛野臣は謀って、
「調吉士もまた、(自分と同じ使命を持った)天皇の使者だ。...
俺の罪は重くなってしまう」
といい、調吉士を伊斯枳牟羅城の守備につかせた。
こうして、阿利斯等は毛野臣が小さなくだらないことばかりし...
「毛野臣を出せ」
といった。
毛野臣は篭城して、守りを固めた。戦線は膠着し一月になった...
十月、調吉士が任那より至り、奏言するには、
「毛野臣のひととなりは理に背き、治体を習わず。ついに和解...
という。
ゆえに、目頬子を遣わして、毛野臣を召還する。(目頬子は未...
この年、毛野臣は召されて対馬にいたり、病を患って、死ぬ。...
ひらかたゆ 笛吹き上る 近江のや 毛野の若子い 笛吹...
目頬子が初めて任那に至る時に、任那在住の日本人の贈った歌。
韓国を いかにふことそ 目頬子来る むかさくる 壱岐...
二十五年二月、天皇の病は重く、磐余玉穂宮に崩ず。享年八十...
さて、本編はまた今度にします。
いやー、長かった…。
途中で後悔した(笑)。
13-Feb-2000
今回は、「卑弥呼は倭を統一していたか」というテーマで、お...
まず、関連する史料から。
(1) 楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国を為す。漢書、...
(2) 倭人は帯方の東南、大海の中に在り、山島に依りて国...
(3) 倭は韓の東南、大海の中に在り、山島に依りて居と為...
(4) 昔より祖禰(ソデイ。祖先)躬(みずか)ら甲冑を環...
(5) 倭国は古の倭奴国なり。京師を去ること一万四千里。...
さて、一つずつ見ていきましょう。
まず、1の漢書ですが、これが実は周以来のお話だということ...
ただし、これは、何も周代だけに限定しなくてはいけないわけ...
次に2ですが、ここで問題になることがあります。
それは、「旧百余国」と「今使訳所通三十国」の対比です。
この文面から、多数の論者は、
「昔は百余国あった。それが統合されて今は三十国になった」
と考えているようです。
本当でしょうか。
後漢書を見ても、大体同じです。
「許(ばかり)」がついて概数になっているのは、魏志のよう...
(魏志の場合、卑弥呼or壹与の上表文に三十国の名が記されて...
ちなみに、魏志にいう「漢時有朝見者」とは、後漢書に見える...
指しています。)
さて、百余国問題に一石を投じるのは、宋書の倭王武の上表文...
ここの「海北」とは朝鮮半島のことですが、「東」と「西」は...
五十五国と六十六国、足すと百二十一国です。
百余国と言うのは、概数ですから、まあ、合ってるといえば合...
ここでは、相変わらず、倭人(東夷)の国が百余国あります。
「毛人」「衆夷」をエミシ・クマソとして、倭人ではない、と...
多分、中国側から見れば大差ありません。
さらに、エミシ・クマソと、いわゆる倭人が異民族なわけでは...
(エミシがアイヌであれば、多少話は変わってきますが)
ハッキリ言えば、クマソが「衆夷」なら、倭人も「東夷」に過...
そしてその立場は、倭王武にとっても同じでした。
自らを「臣」と称し、「自分は東夷の王として、天子の為に、...
これがこの上表文の要旨です。
次に旧唐書を見てみましょう。
ここでは、倭国の「四面」には五十余国があるといいます。
ここで、倭国の本領域は、九州島です。
(東西五月行、南北三月行は、倭国天子自称の「畿」です)
つまり、九州島に五十余国あると言っているのです。
これも、倭人百余国の漢書、東西合わせて百二十一国の宋書に...
こう見てくると、卑弥呼の三十国とはどういう領域なのでしょ...
やはり、百余国中の三十国が彼女の領域だった、こう考えるし...
つまり、残り七十~八十国くらいは女王に属さなかったのです。
思えば、「狗奴国」は女王に属さない「倭人国」でした。
さらに、「朱儒国」「黒歯国」「裸国」も女王に属しません。
女王は倭の中で最も有力な王者だったかもしれませんが、いま...
陳寿が「倭国伝」とせずに「倭人伝」としたのには、こういう...
とすると、卑弥呼の領域は、凡そ、九州の半分くらい、北部九...
「筑紫」「豊」「火(肥)」の三国くらいでしょうか。
「日向(ひむか)」「襲(そ)」あたりはやはり「狗奴国」と...
また瀬戸内は「倭種」とされていますが、女王とは別領域です。
「多波那(たばな)国(三国史記に見える、倭人の新羅王脱解...
このようなことは、例えば古田の歴史観にも大きな影響を及ぼ...
「景行九州遠征」の話(九州王朝からの盗用)の位置付けなど...
これらについては、またお話したいと思います。
11-Feb-2000
えー、今回は黒歯国・裸国について、お話します。
「黒歯国」「裸国」というと、なんか原始人みたいですが、(...
しかし、「黒歯国」「裸国」ともに、魏志が初出ではありませ...
『山海経』(周~戦国・漢代にかけての成立)や、『淮南子』...
さて、これらを吟味してみましょう。
(A)
(女王国)東南船行一年、裸国黒歯国に至る。魏志、倭人...
是に於て、舟人漁子、南に徂(ゆ)き、東に極(いた)る。
或は[ゲンダ](海亀)の穴に屑没(セツボツ。チリとなる...
或は岑敖(敖は本当は山かんむり。シンゴウ。険しく鋭い...
挂涓(涓はさんずいナシ。ケイケン。ひっかかること)す。
或は裸人の国に掣掣洩洩(セイセイエイエイ。風に任せて...
或は黒歯の邦に氾氾悠悠(ハンハンユウユウ。流れに従う...
文撰、江海、海賦(晋・木華)
(B)
昔、舜は有苗(ユウビョウ。南蛮。一説にミャオ族)に舞...
:
是を以て聖人は、其の郷を観て宜しきに順ひ、其の事に因...
禹の裸国に入る、裸にして入り衣にして出づれば、衣服の...
(C)
下に湯谷(ヨウコク)有り。湯谷の上に扶桑有り。十日の...
東南自り東北方に至る、大人国・君子国・黒歯民・玄股民...
(黒歯国)其の人黒歯にして稲を食ひ蛇を啖(くら)ふ。...
さて、今、6つの史料を引用してみましたが、これらは3つの...
Aグループは、魏志倭人伝型です。黒歯国と裸国は1セットです。
存在する方角は東南。海のはるか彼方です。
次にBグループは、黒歯国と裸国は直接の関係は有りません。
確かにともに南蛮の一種ですが、関わりはそれほどでもありま...
裸国は禹のエピソードで有名なようです。
(このお話、戦国策では「郷に入ては郷に従え」よろしく、禹...
また、戦国策において、裸国は禹の時代の国、黒歯は、現代(...
Cグループは、東方の異民族の中に黒歯というのがいるというも...
ちなみに南方には裸国があります。
扶桑という太陽の昇る木のある湯谷という場所の近くに、黒歯...
さて、各グループの時代を見てみましょう。BとCはともに周か...
このように見ると、陳寿が倭人伝に「黒歯国」「裸国」と記し...
三国志の読者(陳寿にとっての)も、同じくB・Cのそれを連想...
つまり、倭から東南に船で1年行った所に、禹の赴いた「裸国...
思えば、陳寿は魏志東夷伝の序文に、
東、大海に臨む。長老説くに、異面の人有り。日の出づる...
と記していて、それが「日の出づる処」扶桑の近くにあるとい...
広大なロマンを感じる部分だと思いません?
ゾクゾクします。
シルクロードの漢書西域伝と同じくらい。
だから陳寿は、こんなに倭人伝に行数を費やしたのです。
里程記事をこんなに詳細に載せたのです。
目的地は倭の女王ではなく、その先の「日の出づる処」の近く...
さて、クールなお話に戻りましょう。
じゃあ、「裸国」はなんなんだ。「黒歯国」があるっていう根...
こういうことになります。
まず、「裸国」は倭人伝に出てくる意味がありませんね。
別に禹の話しを語るわけでもなく、名前しか書いていません。
また、「黒歯」と並んで称されるのも今まで(漢まで)に例が...
それから、「黒歯国」「裸国」に中国人が訪れたわけではない...
そう考えると、答えはひとつしかありません。
倭人からの情報です。
また、倭人伝に載っている以上、「黒歯」「裸国」は倭人の一...
では、その倭人からの情報とは、どんなものだったのでしょう...
「東南の海の彼方に、黒い歯をした連中や、服を着ない連中が...
こんな感じでしょうか。
でも、これじゃ、陳寿にとって、推定の域を出ません。
そういうことならば、陳寿はこう書くはずです。
「東南に、黒い歯をした人々の国や、裸で生活する人々の国が...
恐らく、われわれの言う黒歯国や裸国であろう。」
と。
それを「黒歯国・裸国有り」と単刀直入にズバッと言い切ると...
ならば、考えられるのはひとつ、
「倭人が『黒歯国』『裸国』という名称を用いていた」
この可能性です。当時の倭人の中には漢字の読み書きが出来る...
つまり、倭人が自ら、この名前を、この字面で、中国人に教え...
黒歯・裸国の国名(奴国や伊都国のような)が中国の古い東方...
6-Feb-2000
えっと、もう2月になってしまいました…。
今更ながら、2000年の記念すべき第1回の
ネタです。
さて、ではさっそく参りましょう。
…なんの話しでしたっけ?
「倭武天皇」でしたね。
詳しい話は前回(25-Dec-99)を読んでいただくとして、
今回は、「倭武天皇」という字面はいったいどこから来たのか?
というテーマでいきたいと思います。
さて、少なくとも常陸風土記編者(藤原宇合という説が有力)...
ですが、中央でさえ「天皇」扱いされていないヤマトタケルを...
(これも前回お話しました。)
だとすると、この「倭武天皇」、とくに「天皇」という表現は...
これが問題となります。
結論はただひとつです。
「もともとの史料に倭武天皇と書いてあった」
これしかないでしょう。
ですから、この場合は「倭武天皇」の「属性」「地域性」もさ...
ヤマトタケルと同一視された、そう考えられます。
(その一方で、前回のBの史料では、同一人物の事跡(ヒナラス...
この辺りについては、古田が既に論じております。
では、「倭武天皇」とはいったい誰なのか。
再三申しておりますように、「倭王武」ではありません。
そうすると、一応、2通りの解釈が出来るかと思われます。
1)「倭」の「武天皇(諡)」→漢語と見なす
2)「ちくしのたけるのすめらみこと」→倭語と見なす。「倭」...
私としては、1ではないかな?と思っております。
…で、そうすると、こんな史料に目を引かれます。
継体天皇十六年、武王、年を建て善記と云ふ。襲国偽僭考...
もちろん、以前(28-Nov-99)お話したとおり、これをどこまで...
要するに「九州王朝」の中に「武王」「武天皇」と諡された君...
なんとも歯切れの悪い結論ですが、まぁ、こんな感じだと思っ...
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